ワタクシとジャズ(喫茶)の出会い~イントロは軽快に

 しかし、以前も書いたがすっかり本を読むのが遅くなっている。もっとも、本を読むのはもっぱら夜寝る前の布団の中なので、ちょっと読んでいるうちにタイマーならぬスイマーが襲ってきて、しおりを挟んで爆睡ということの繰り返しなので、そりゃ父として、いや、乳として、うんにゃ、遅々として読書のペースが進まないのは当たり前である。例によって、図書館の返却日が来たが、読み終えた本以外に途中までしか読んでない本があり、そちらは貸出期間を延期してもらった。『戦後日本のジャズ文化』という、そのハードカバーはタイトルの通り、マッカーサーがやって来た時期から現在に至るまでの日本のジャズ文化を様々な角度から考察していて面白い。論文臭くなくて、文章も読みやすい。その本の中に「ジャズ喫茶解剖学」という章があり、そこにジャズ喫茶は時代とともにその役割が大きく変わっていったことを書いているのだが、1950年代の「学校」(=School)としての役割、1960年代の「寺」(=Temple)としての役割、1970年代の「スーパー」(=Supermarket)としての役割、そして1980年代(個人的には「以降」という言葉をくっつけておきたい)の「博物館」(=Museum)としての役割、などという区分は面白かった。もっともこの区分はオーストラリア人の日本研究者であるエクハート・デルシュミットなる人のジャズ喫茶論から引用したらしい。しかし、どうして外国の人が日本のジャズ喫茶を研究するのか、要するにジャズ喫茶なんてものは我がポンニチ独自の文化であり、ダブルスタンダードとネズミ―ランド帝国主義のヤンキーの国には存在しないから、だろうな。

 ジャズ喫茶の役割が学校からスーパー、そして博物館へと変わっていくのは説明しなくてもニュアンスで分かると思う。その中で、僕が一番興味深かったのは「寺」としての役割だった。どうしてジャズ喫茶が寺であるかというと、“暗い内装の店が増え、オーディオ装置が整ったおかげで、大音量でレコードがかけられるようになり、会話はほぼ不可能(あるいは禁じられている)、アルコール類の飲み物を出さない禁欲的趣向と店内の規則厳守を徹底する「マスター」をありがたく押し戴く、<お寺>やカルトなみの宗教的空間のジャズ喫茶が増える”からである。このあたり、良く分かるな。僕がジャズを聴くようになったのは大学のサークルに入ってからだから70年代半ばからであるが、その当時もまだまだそういうジャズ喫茶はたくさんあったし、ジャズを聴くことが一種の修行というか求道者みたいな人はたくさんいた。

 ということで、今回は恒例の「出会い」シリーズとして、「ワタクシとジャズ(喫茶)の出会い」と題してお届けします。しかし、「出会い」シリーズってあったかな、あ、例によって未完の「ワタクシと北関東の出会い」ってのがあったな(笑)。

 初めに書いたように、ジャズとの出会い、最初の出会いはどうだったか。高校生の時にキース・ジャレットのソロ・コンサート(アナログの3枚組で確か紙箱に入っていた)を買った友人がいて、それを聴かせてもらってなかなかいいと思ったことがあった。ただ、ジャズとして聴いたのではなく、当時好きだったプログレの進化形というか変形みたいな理解だったと思う。また音楽の授業の時にプレイバッハのレコードを流してもらったことがあり、こちらも気に入ったが、対象がバッハだけにクラシックのイージー・リスニングみたいなイメージだった。後はデオダートのレコードを買って聴いたくらいだが、なんで突然そんなレコードを買ったかというと、1作目の『ツァラトゥストラはかく語りき』が大ヒットし、その次に出たこのアルバムも雑誌なんかの評価が高く、FMでちょっと聴いていいなと思ったからである。もっともこのアルバム挿入曲に「サテンの夜」があったし、「ラプソディ・イン・ブルー」もカッコよかったがジャズだと思って聴いたことはなかった。当時の僕の印象では、突然出てきたアレンジャー兼プレイヤーだったが、どうしてどうしてボサノバの有名アルバムに結構参加しているビッグミュージシャンであった。そしてまだこの頃には「フュージョン」という言葉もなければ、前身の「クロスオーバー」などという言葉もなかった時代である。

 ジャズと接点を持てなかったもう一つの理由は、僕と同じ高校でジャズを聴いているのは本当に少数のごく一部の連中だったし、そいつらがみんないわゆる不良だったので、ああいうものは不良が聴く音楽だと思い込んでいたのだ。じゃ、ロック聴いてたお前はどうなんだと突っ込まれそうだが、ロックは異議申し立ての音楽であって、ナオンをリーヤーするためのズージャは素行の悪い連中がいきがって聴く音楽だと、これは明らかな偏見があった。すまん。今ここで自己批判しておく。

 まあ僕のいた高校の不良といってもたかが知れているのだが、それでもやはり制服のズボンを超スリムにして、内ポケットにトランジスタ・ラジオならぬショートピースを入れてる連中が、2~3人固まって何やらレコードを見せ合っていたので、「お、何だそれ、誰のレコードだ」と聞いたら、鼻の先でフンという感じで「マイルス、『ビッチェズ・ブリュー』」とか「ウェザー・リポートの1枚目」などと聞きなれない名前をぶっきらぼうに答えたり、「それどんなレコードだ」と聞いても碌に答えないような連中だった。今にして思えば、ハード・バップやフリー・ジャズではなくクロス・オーバーというかエレクトリック・ジャズなので当時僕たちが聴いていたロックに比較的近かったはずだが、彼らは頑なに自分たちの仲間だけで懇談し、決してロックを聴いてる僕たちと音楽に限っては交流する気が無かった。それでも、同じクラスだったので何度か話はしたが、ロックはガキの音楽、音楽的に未熟、演奏レベルが低いみたいなことを言うので、いつしか音楽の話をすることはなくなった。この時に、ジャズは大人の音楽(17,8くらいから見た大人だから、早い話、ジジィの音楽だと思っていたんだな)、ジャズなんか聞くやつは偏屈、とりわけ若いのにジャズ聴くやつはウルトラ偏屈と思い込んでいた。

 さらにジャズで使われている楽器に興味が持てなかったというのもあった。ジャズコンボのスタイルはアルトやテナーといった管楽器に、ピアノ・ベース・ドラムのリズムセクションがつくというパターンが多いが、サキソフォンの音色が苦手だったのだ。ロックのサックスというとボビー・キーズのように豪快に吹きまくるか、イアン・マクドナルドみたいなクールな無表情なそれでいて思いつめたような音色か、あるいは人をおちょくってるのかお前はと言いたくなるようなデビッド・ボウイのちゃらちゃらサックスくらいしか思い浮かばず、なんというのかあまり慣れない楽器だった。あ、今思い出したけど、ブラス・ロックなんちゅうのもあったな。シカゴとかBS&Tなんかが一時代を作った。彼らはジャズ・ロックなんて呼ばれ方をしていたよな…。

 それと忘れちゃならない、チェイスというバンドもいた。「黒い炎」の大ヒットを出したグループで、リーダーのビル・チェイスを筆頭にトランペットが次々にチェイス(これ意図的シャレに非ず)していくスリリングな演奏が売りだったけど、セカンド・アルバム出した後に飛行機事故でメンバーが亡くなった悲運のグループだったっけ。うーん、このあたりからジャズに接近できなくはないのだが、つらつら考えてみると今あげたチェイスにしてもシカゴにしても、そしてこれらの中では一番ジャズっぽいBS&Tにしても、全部ボーカルが入っている。つまり歌プラスバンドの演奏というスタイルなので、僕にとってはこれらはロックであり、ジャズとは全く違う音楽という考えだった。

 うーん、こうやって振り返ってみるとやはり高校生の時にはジャズとの接点がほとんどなかったんだな。もっともキース・ジャレットやプレイバッハを気に入るくらいだから、ピアノのジャズは抵抗が無かった。高校3年の時にデューク・エリントンが亡くなり、いくら当時ロック小僧であったとしても「サー・デューク」はさすがに知っていて、FMで彼の追悼番組をやっていたのを聴いた記憶がある。本来のビッグバンドの演奏は全然いいと思わなかったのだが、エリントンが自分の家族同様に可愛がっていたビリー・ストレイホーンのためにソロで演奏した「ロータス・ブロッサム」をその番組で聴いた。レコーディングの終わりにエリントンがふらりとピアノに向かい演奏し始めたのをディレクターが見ていてテープに録音したのだが、周囲の人の話し声や足音などが入ってはいるものの、ソロ・ピアノのタッチや音色に亡くなった人をしのぶ感じが伝わり、いいなと思ったことがあった。今思えば、あれがジャズとの出会いの前触れだったのだろうか。というところで、イントロは終わり次はいよいよ本格的なジャズとの出会いの話になる。なるったらなるのだ。



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コメント

京都に出て来て 最初に行ったジャズ喫茶は

ミーハーに 今は無き「しあんくれーる」でした。今になって思うと 店のマッチを残しておけばよかったです。その後行った他のジャズ喫茶も 好みの音楽がかかるわけでも無いし、私は高級オーディオに興味が無いし 長居をしたことはありませんでした。そのうち 自分の好きな曲を 下宿で、drac obさんからお借りした4チャンネルステレオのリアスピーカーで聴けば十分ではないかと思い(笑)、行かなくなりました。もう35年以上 ジャズ喫茶に行ってませんが、今だと禁煙でしょうか。貴殿がキースジャレット「 生と死の幻想」をボックスに持って来た事は よく覚えていますよ。今でもあのジャケットを見ると 貴殿を連想します。あと F田君の「あぶらい正一」とか「けんか盤」を思い出します(笑)。あいつは、言動はいい加減でしたが、持って来るレコードはまあ王道で、彼がかけたのをきっかけに買った物も 結構ありました。

おお、良く覚えてらっしゃいますこと!!

そうなんですよ、川崎さん(死語)。キース・ジャレットの『生と死の幻想』は出町に会ったジャズ喫茶の定例会に参加した時買ったものです。なんでまた、そんなところにいったのかは次のエントリーでアップするつもりです。

僕も高価なオーディオ再生装置って全然分からないというか、猫に小判なのでやれマランツがどうしたとかJBLのスピーカーがとか、サンスイがなんたらなどという会話はほとんど宇宙人の会話に聞こえていました。確か、デューク中島先輩と話していた時じゃないかと思いますが、オーディオマニアってオーディオにお金かけてる割には碌な音楽聴いてないんじゃないかなどとずいぶん腐した覚えがあります。

そして、例の男。DRACのジャズ班を1回生の後半からリーダーとして率いた、あの栄光のトシオ・F田。彼を語らずして、僕のジャズの話は始まりません。彼が幻のミニコミに書いた迷作「HOBO CITY」の導入部「日もとっぷりと暮れた京都で」が炸裂するか、それは次回のお楽しみです。
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