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キャンプ日記のはずが、いきなり「ワタクシと北関東の出会い」続編へ

 8月の終わりに、N村君から電話があった。用件はキャンプの打ち合わせで、彼が連絡の取れないメンバーに僕から連絡をして欲しいということと、当日持参するものについてだった。連絡のつかないメンバーというのはakkunという、何度かこのキャンプの話に登場してきた、ミスターKYというか、ビフォーKYというか、早い話がまだKYなどという言葉が認知される前の時代から、すでにKYだった男と、K瀬君といって入社した年は僕と同じだが月が2か月ほど後になる、まあほとんど同期みたいな男の2人である。「オレが携帯から連絡するより、drac-obさんのパソコンからメールしてもらったほうが早いから頼みます」とのことで、お安い御用なので二つ返事で請け負った。持参品については、缶ビール1ケース(24個入り)と氷屋さんから氷を買ってきてほしいということだったので、こちらも合点承知の助で返事をした。

 さっそくakkunとK瀬君にメールを入れたが、打ち返しは無かった。ついでに同じ宮崎在住のI之上君、通称タケちゃんにもメールしたら、こちらはすぐに返事が来て、仕事の調整が出来るかどうか直前まで分からないとのことだった。akkunとK瀬君からの返事は、そのうち来るだろうと放っておいたら、何の音沙汰のないまま1週間過ぎた。しょうがないので今度は携帯からメールした。やはり二人とも返事が無い。まあK瀬君は気がついていない可能性が高いが、akkunは性格的に小まめにパソコンのチェックをしているはずなのに、とちょっと気になった。気になったが、そのうち返事が来るだろうと放っておいた。毎度毎度かまってあげると癖になるというものだ。K瀬君は多分、直接電話しないと気がつかないと思って、コールしてみたら案の定、「ああ、メールに気がつきませんでした」と、屈託のない返事をして、キャンプに参加することは鹿児島の名誉幹事(早い話、しょっちゅう幹事役を任されるというか、押し付けられる)H君に連絡をしていたという。1人参加者確保だと安心して、その日はそのまま寝た。翌日、携帯にakkunからメールが入った。今回は都合がつかなくて不参加だという。それはいいのだが、どうしてメールの返事が遅れたかのエクスキューズが一切ない。まあ、このあたりが彼らしいというか、KYたるゆえんである。

 そんなこんなしているうちに、キャンプの予定日が近づいてきたが、同時に台風15号も発生していて、週末は天気が悪そうだった。そんなとき、再度N村君から電話があり、多少の雨だったら、キャビンのウッドデッキのところにブルーシートを張って、バーベキューが出来るが、大雨の時は室内でやるしかないのでホットプレートを持っていったらどうだろうかという提案だった。異議なしだったので、僕の家からとN村君の家からと都合2台のホットプレートを持っていくことになった。結果的には、雨は降ったもののアズマヤでのバーベキューを管理人に許可してもらえたので、ホットプレートの出番はなかった。しかし、良く考えてみたら、ホットプレートを同時に2台使ったらキャビンのブレーカーが落ちた可能性がある。結果オーライだが、世間が節電だと騒いでいるこの時期に、ホットプレート2台使ってのBBQ大会(これはBBIQではありません。九電のやらせメール糾弾、佐賀県知事は本当のことを話せ、とドサクサまぎれにアピールしておく)はちとヤバかっただろうな。

 そうそう、その時のN村君から、今回のキャンプにはM木さんも参加することが決定したとも聞いた。M木さんという人は、僕がJEPの宮崎支社に配属になった時の営業主任で、見込み客探しのアポインターという仕事から、必殺セールスマンであるクローザーという仕事に就くときに寮に泊まり込みで、その知識や技術を教えてくれた人だ。さらにJEPが倒産してしまう最後の時には、九州の支社長を務めていた人である。販売を担当した商品もリ■ーのマイ・ティーチャーから、ユ■サ商事のヤルキー、最後は通信機器まで、とにかく何でも売った必殺営業マンである。宮崎の北部のベッドタウンに豪邸を建てた立志伝中の人である。その豪邸は近所の人からヤルキー御殿と呼ばれた、絢爛豪華な合掌造りの純日本建築である、などというウソを平気で書くと地獄に落ちるから注意しよう。

 さらにM木さんは、今回初めての参加なので、誰か一緒に行く人はいないか、出来ればdrac-obさんと一緒に行きたいと言っていた、とN村君が言うので、これまたお安い御用なので、直接電話して当日待ち合わせして一緒に行くことにした。そして、残念ながらタケちゃんからは今回は参加できないというメールが前日に届いた。しかし、考えてみたらM木さんとはJEP倒産後、何度か偶然に会ったことはあるが、直接電話で話すのは何十年ぶりかのことだが、ひと声交わした瞬間からかつての上司と部下の関係に戻るから面白い。僕たちのキャンプのいい加減なところは、集合時間なんてものは無くてみんな適当な時間、都合のつく時間に集まるのだが、それでも今回はN村君と僕が幹事だったので、一応午後2時には現地についていたほうがいいと考え、移動時間を計算して午前11時にM木さんと待ち合わせた。

 当日、ちょっとした買い物があったので待ち合わせ場所近くのお店で買い物をしていたら、11時5分前に携帯が鳴った。見るとM木さんからで、待ち合わせ場所に着いたがここで間違いはないかという確認であった。流石、アポイントセールスの鬼、というかバリバリ営業マンだけあって時間に正確である。もっとも、M木さん自身はいったん定年で会社を辞めて、半年ほどのんびりしていたらしいが、仕事をしていないとボケるというか、頭も体もなまるので再度嘱託みたいな形で、退職した会社に復帰したらしい。退職する前まで、営業所長をやっておられたらしいが、今は人事部所属で新人の募集・面接・研修といった人事の仕事と営業と半々にやっているらしい。てなことを、合流した後の移動の車中で聞いたのだが、そんなよもやま話をしている中で驚きの発見があったのだ。M木さんの勤務されている会社は、仮名でSニックスとしておくが、『総合環境衛生管理及び廃棄物のリサイクルを業』(by Wikipedia)としている会社で、営業がハードなこと、研修が厳しいことで有名な会社である。なにせ、某引越しセンターの社員がその会社の研修を受けにくるというくらい、いわゆるブラ、あ、その、社員教育が厳しい会社なのだ。月に何度も会議があり、本社のある福岡に昼間仕事をした後、バスや電車を使い会議に参加し終わったら夜行でトンボ返りで戻り、もちろん移動の間に仮眠できれば御の字でほとんど眠らず翌日の仕事をやって、それでも月次の目標を達成することは年に1回あればいいほうだという話などを伺った。どこかで聞いたような話だと思って、胸に手を当てて考えてみたら分かった。なんだ、JEPとおんなじ体質の会社だったんだ(笑)。

 まあ、急な転勤や突然の会議のための本社集合があるなど、「それ、JEPとクリソツですやん」などと笑いながら聞いていたら、「そうだ、drac-ob君はH田君と同期だったよね。彼、うちの会社の部長だよ」、と青天の霹靂というか爆弾発言があった。拙blogをごひいきいただいている方の中に、未完のエントリーである(いや、そういうのが沢山ありすぎて、わけがわからんぞ、という正しいご指摘はこの際置いといていただいて、苦笑)、「ワタクシと北関東(JEP)の出会い」で登場したH田君が、なんとJEPを1年で退職した後、紆余曲折を経てSニックスに入社し、彼本来のやる気と努力と人間性で経営陣の一角に食い込み、今では本社の人事担当のエライサンになっているというではないか。僕のエントリーでは、お互い新卒の立場で(えーと、彼は確か留年だか浪人だかしたが、ちゃんと卒業、こちとら2年留年して中退という、少なくともワタクシは言葉本来の意味での「新卒」ではないかもしれないが)、わけのわからないJEPという会社に入社し、気がついたら訪問販売のセールスマンをしていたという、お互い不思議な境遇であったあのH田君が、なんとそのような会社にいたとは。

 M木さんとH田君の再会もこれまた偶然の産物というか、かれこれ10数年前に本社で会議があり、それに参加したM木さんが会議に参加するために会社の階段を上っていたら、突然「M木さん!!」と声をかけられて振り向くと、そこには四半世紀以上前にJEPをやめたH田君がいた。「えええ、H田君、どうしてここに」「M木さんこそ、どうして」みたいな会話が飛び交ったのは想像に難くない。会議前の短い時間で交わした会話の中から、H田君はJEPを辞めた後、鹿児島で仕事探しをしていてSニックスに入社。持ち前のガッツと人間性で認められていき、ついには福岡に豪邸を建てて(多分、Sニックス御殿と近所の人に噂されているのではないか、というのはワタクシの僻みかもしれんが)、今ではSニックスの人材として活躍しているというのだ。

 この話はワタクシ、腰が抜けるほど驚きました。実は、以前に書いていたJEPの話は、新人研修を受けた後、それぞれの拠点(H田君は鹿児島、僕は宮崎)で仕事を始めるのだが、その年の6月くらいだったかJEPにマイコン事業部(これがユ■サ商事のヤルキーの販売部隊、てか部門)なるものが設立され、そのスタッフとして九州から関東の本社(当時は水戸だったが、マイコン事業部は筑波に支社を持っていた)に移動になったメンバーにM木さんとH田君がいたのだった。そして、僕もその翌年の1月に、社長や営業部長が聞いている前で、あまりの売り上げ不振のため、「今、自分の仕事に夢など持てない」と爆弾発言をしてしまい、翌日出社してみたら机の上に片道の航空券が置いてあり、要するに水戸本社で鍛えなおすから首を洗って行って来いという長期出張命令が出て、その時その命令が出たのは僕のほかにも確か4~5人いたのだが、そのうちの1人が「オレは水戸になんか行かん」と駄々をこねるので、「そんなこと言わずに一緒に行こうや。社長や部長が『水戸は凄い』というけど、同じ人間、そんな違うはずないだろう。それを見て辞めてからでも遅くない。そうだ、辞めるときは一緒に辞めればいいじゃないか」などと説得するために全員でそいつの実家に行って、涙ながらに説得したけど、結局そいつは当日空港に来ずにそのままJEPを辞めてしまった。もっとも数年後、本人が頭を下げて社長に頼み込み、再度入社するのだがそのときのいきさつのせいか、ずっと関東勤務で最後まで九州に戻ってこれなかったなんてエピソードがあるのだ。これ、タツローのエピソードね。ああしんど。

 で、ワタクシは83年の1月に関東に長期出張(ほとんど転勤だったのだが、その時は九州の営業社員が足りなくなるということで奇跡的に3か月で九州に帰った。その何年か後の長期出張は転勤で、水戸と下館と筑波に住んでいた)するのだが、初めて見た北関東はみんな「だっぺ、だっぺ」としゃべっていて、男の人はやたら道路で立小便するのと、女の人は妙にほっぺたが赤いのと、ちょっとお茶らけたことを言うと、「なーにいってんだ、このデレ助」といってひっぱたかれることくらいしか記憶にない。あ、もう一つ国道6号線上に九州ラーメンという大きな黄色い看板のラーメン屋があって、関東の鶏がら醤油味のラーメンばかり食べていた我が身には、天の助けとばかり飛び込んでみたら、単にスープが白いだけで全然豚骨じゃなくて、てめえ、こんなもん白だしニュウめんじゃねーか、どこが九州ラーメンなんだよ、久留米ラーメンでも熊本ラーメンでも食べて勉強し直してこいや、ボケェ、などと言ったら絶対店の出刃包丁で刺されかねないくらいのやっちゃん風マスターだったこと、くらいかな。

 まあ、そういう真実の茨城レポートはまたいずれ書くとして、とにかく真面目な話、関東の営業マンやマネージャーの話はとても面白くて、なるほどこういう販売の仕方があるのかというテクニック的なことよりも、「お前の仕事はなんだ?セールスマンだっぺ?じゃセールスマンの仕事ってなんだ?売ることだっぺ?じゃ、売れや」というシンプルな思考法が目からうろこというか、まだまだ仕事に対してカッコつけていた自分が恥ずかしいというか一皮むけた気がした3か月でした。そうそう、この3か月の間に埼玉は籠原で合宿免許に行かせてもらい、あ、半分は自己負担したんだ費用の、見事免許を取った話などがあるが、それは以前エントリーに書いた。

 ええと、それで、何の話だったかというと、僕はマイ・ティーチャー部門で水戸にいて、H田君はヤルキー部門でずっと北海道の支店にいて3月の終わりに、筑波で新会社設立のパーティ、つまりヤルキー部門がJEPから独立した新しい会社になるパーティが予定されていて、そのパーティに僕もH田君も参加することになっていたのだ。H田君とは前年の6月に別れたきりで、たまにそれぞれの支店から電話をして話をすることもあったが、直接顔を合わせて話ができるのは9か月ぶりなので、僕はその再会を楽しみにしていた。ところが、そのパーティの2,3日前に僕が現場から帰ってみたら、北海道の支店にいたH田君から電話が入っていた。何の用だろうと思って、かけなおしたが夜遅かったためにもう北海道の事務所は閉まっていて誰も出なかった。翌日の朝、もう一度電話しようと思ったが、どうせあと何日かでパーティで顔を合わせるから、いいかと思ってそのままにした。これがH田君との別れになるとは、その時は全然思いもしなかった。

 筑波の支店で行われたパーティはにぎやかなもので、寿司や蕎麦の屋台も出ているし、立食パーティだったが、好物の生ガキやローストビーフがたっぷりあったので、普段のビンボー食生活の反動で次々に貪り食った。ある程度腹が落ち着いてあたりを見渡すと、北海道から駆け付けたM木さんたちのグループがいたので声をかけた。「あれ、H田君は来てないの?」という質問に返ってきた答えは「昨日、辞めて鹿児島に帰りました」という驚くべきものだった。「なんで?どうして?」と尋ねる僕に、今この話題はまずいだろうという雰囲気があったので、パーティ終了後に話を聞くことにした。

 詳しい事情はこうだった。前年の6月にマイティーチャーの営業成績を評価されたH田君は新しいプロジェクトチーム(ヤルキーの販売)のメンバーに抜擢された。ただ、その時の本人の条件というかお願いがあって、「北海道でも関東でもどこでも行きます。ただ自分には婚約者がいて、本当は今年結婚するはずでした。長期出張するのはかまいませんが、自分は長男だし、彼女も長女なので鹿児島でそれぞれの両親を見る義務があります。だから1年間限定というか、1年たったら鹿児島に帰るという条件なら、彼女を説得します」。この婚約者がいる話は、僕は彼と一緒に研修を受けているときから知っていた。また、彼は、僕なんかと違った本当の意味の九州男児で親兄弟を大事にすること人後に落ちない。その彼が、会社の営業政策のため、もちろん彼の力を会社が必要としていたことは十分わかるのだが、そのような家庭の事情があるにも関わらず、とりあえずは異動に納得したが、それは1年で帰るという約束があったからだ。当時、鹿児島の所長をしていたのは、僕と同じ年の宮崎出身の人で、H田君のことを最も買っていて、その事情については社長に直訴してくれて社長もその条件でいいという返事ももらっていた。

 ところが、H田君は頑張りすぎた。北海道で右も左も分からない中、販売方法さえ確立されていないヤルキーを試行錯誤する中、売っていった。そして、1つのシステム販売の方法が出来上がりつつあった。この方法であれば、全国展開も可能ではないか。ついては、この販売システムにもっとも貢献のあったH田君を主任として北海道の支店に配属しよう、という方針が経営陣の会議で決まった。その会議には鹿児島の支店長も出席していて、当然反対した。H田君は1年間の約束で婚約者とその両親、また自分の両親にも話をつけて北海道に来たわけだから、なんとか鹿児島に帰してやってくださいとお願いした(これは鹿児島の支店長本人から直接聞いた)。しかし、トップの判断は「入社1年で主任に昇格して栄転の人事だから、不満に思うはずがない。そこをお前(鹿児島の支店長)がきちんと諭せ」というものだった。

 結果はどうだったか。まあ、こういう使われる人の心の分からなかった社長だったから、JEPはそれから10年後倒産するのだ。

 えーと、最後はなんだか週刊実録マル秘レポートみたいになってしまったが、そういういきさつのあったH田君の消息を知って、ワタクシ正しくクリビツテンギョウで、キャンプの話どころではなくなったわけですね、ハイ。そして車はひたすら伊佐市を向けて走るのだった。続くかどうかは、気分次第で攻めないで~。

※なお、今回のエントリーは以前の話をご存じないと分かりにくいと思い、それぞれの関連エントリーをリンクしています。お時間あればどうぞ。
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1975年5月から1981年3月まで、眺め続けた景色から時代と文化が見えてくる。混迷と停滞の時代を撃つ、はずはない。

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