グッバイ、ジョー

 なんだか、月に1度は訃報を書いているような気がするが、ジョー山中が亡くなった。FTBが再結成されて、ZKなんかと一緒に西部講堂でライブをしたのは、ついこの前だと思っていたのに。肺がんで闘病生活をしていることも知らなかった。いつだったか、奥さんと小さい子供さんと一緒にテレビのバラエティか何かに出ていて、いや、ジョー山中、老いてますます盛んだなと、うらやま、いや、応援の気持ちを込めてみていたのだが。病には勝てなかったようだ。このニュースは、携帯で偶然見たので、そのまま悪名高いや不※(ヤフーコメントのことです)を見ていたら、もちろんジョーのロックシンガーとしての偉大さをご存知の方も多かったけど、♪ママ、ドーユーリメンバー~の、「母さん、あの帽子どうしたでしょうね」のフレーズで有名な『人間の証明』のテーマを歌った人というイメージが強いようだった。中にはこんなコメントもあった。「『探偵物語』など故松田優作氏の作品によく出演されていましたね。また昭和の名俳優が逝ってしまった、残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。」。うーん、いいんだけど。



 中には「樋口さんが逝ったと思ったら、山中さんも」などと、単なるジョーつながりだけでコメント書いてる人もいたけど、まあ、追悼の気持ちは理解できるし、ジョーもそういう洒落は分かる人だと思うので、いいんだけどね。中には「オレの知らない人の訃報記事を出すな」とか「連鎖反応でまただれか死ぬといっただろ、的中率100%」などと、もうこれはコメントで他人の気を引こうとしているとしか思えない、チーハクなものもありました。ま、書いていて不愉快でしょうがない。で、先ほどジョーのホームページ見てきたら、以前と全然変わっておらず、そこに今年の5月9日に毎日新聞のインタビューが掲載されていた。読んでいて不覚にも涙が出てしまった。ジョーをご存じの人にはぜひ読んでいただきたいので、以下引用します。

人生は夕方から楽しくなる:ロックミュージシャン・ジョー山中さん
2011年5月 9日

 横浜中華街の媽祖廟(まそびょう)。災害から人々を守る女神として、華僑の信仰を集める。境内の鐘楼は関東大震災で倒壊した建物のレンガが使われている。この辺りは空襲を含めて2回、焼け野原になりそのたびに復興した。「悲劇」から1カ月余の昼下がり。ジョー山中さん(64)の姿があった。

 横浜がふるさとだ。

 東日本大震災の被災者支援の募金活動だった。少し疲れているように見えた。内田裕也さんらロックの仲間たちに促されるように歌い始めた。

 ♪ママー、ドゥ・ユー・リメンバ~

 「人間の証明」のテーマ。アカペラの力強い声が春の空に溶けた。感傷的なもの言いだが、母を恋うる歌は、祈りのそれとして心に響いた。

 「抗がん剤をやっているからね。ちょっとやせたけど、声は大丈夫だよ」

 肺がんと宣告されたのは昨年2月だった。ステージ3。手術をするかどうか、選択を迫られた。体にメスを入れることには抵抗があった。

 「手術をしていたら歌えなかったと思うよ。オレの人生、歌を取ったら何も残らない。友人のカシアス内藤(元東洋ミドル級チャンピオン)もボクシングのトレーナーとして声を失いたくないから手術しなかった。5年以上たつけど元気だ。最初、オレが励ます立場だったんだけどね......」

 厳しい試練は続いた。がんの診断から半年ほどたったころ、住み慣れた鎌倉の自宅が全焼した。「家族が無事だったし、延焼しなかっただけよかった。形あるものはいずれなくなるし、大切な思い出は心の中にある」。普通ならなえてしまうところだが「落ち込んでなんかいられない」。

 ただ一つ、奇跡があった。

 「焼け跡から、一枚しかなかったお袋の写真が出てきたんだ。オレは小学2年の時、結核と診断されて療養所生活。その間にお袋は死んだ。サヨナラも言えずにね......」

 生まれたのは終戦の翌年。横浜はガレキの山だった。男ばかり7人兄弟の真ん中。1人だけ肌の色が違った。

 「事情は知らないし、本当のおやじについて聞こうともしなかった。その必要もなかったね。お袋は堂々とオレを『私の子供』って胸を張って言ったんだ。あの時代、大変なことだったと思う。名前は『明』っていうんだけど、明るく、というお袋の願いがこもっていると思うんだ」。大切な話を打ち明けるように言葉を継いだ。「育てのおやじが亡くなる直前、こう言った。『お母さん、お前のこと、とても心配していた』って。分かった、もう、OK。それ以上の言葉は何もいらないと思った」

 「人間の証明」では、西条八十の詩の英訳を手がけた。<お母さん、あなたが僕にくれた人生>などのフレーズは原詩にない。それに、「かしこまったマザーではなく、ママでなくてはならなかったんだ」。「山中」は母の姓だ。

 家庭の記憶は母親が亡くなった時で途切れる。家が貧しく、養護施設から学校に通った。「恨む? 運命を? まさか、まさか。以前、オノ・ヨーコさんがオレのことウオー・ベイビーって呼んだ。イメージ的にかわいそうって感じだけど、それは違う、オレはいつも前を見て生きてきた。生まれたらその運命を懸命に生きなくてはならない」

 20年近く海外でのボランティア活動に取り組んできた。訪ねた国はアフガニスタン、ミャンマーなど30カ国ほどになる。難民キャンプなどを回って、笑顔を忘れた子どもたちに歌声を届けた。チェルノブイリにも2回行った。

 「施設にいたから分かるけど、気に掛けてくれる人がどこかにいる、そう実感できるだけでもうれしい。いつの日か、喜びが希望に結ぶときが訪れると思うんだよね」

 養護施設を出て3年ほどプロボクサーとしてリングに立った。KO負けはない。ロッカーに転じても自分を貫いてきた。今ヘビーな戦いをしながら、新作のレコーディングに挑む。等身大の己を描く「魂の証明」になりそうだ。「敗れざる者」にラストゴングは鳴り響かない。【隈元浩彦】

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 ■人物略歴

 1946年生まれ。ロック、レゲエミュージシャンとして日本の音楽シーンをリード。参加したフラワー・トラベリン・バンドは70年代いち早く海外を目指したことで知られる。


 今日、偶然昔のノートが出てきて、そこに85年のテレビで見たニュー・イヤー・ロック・フェスティバルのことが書いてあった。ジョーはジョー山中&レゲエバイブレーションとして登場していた、糸井重里が付けたコピーは「目を閉じてもすぐわかる」だった。僕のメモには「ボブ・マーリーそのもの、うまいな。レゲエは凄いぜ。何かおかしいと思うが見事」、と書いてあった。ジョーの圧倒的なボーカルにしびれながらも、どうしてレゲエをやっているか必然性が感じられなかったのかもしれない。そんなことはどうでもいいか、とりあえず合掌。



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コメント

最近、あの人がと思うような訃報が多いですね。
それだけ自分も歳をとっているのでしょうけど。
64って今はすごく若いように思うけど、昔、30年ぐらい前だとそれぐらいで亡くなる人も珍しく無かったですね。

今、調べてみたら

返金寿命が60歳代だったのは1963年までで、東京オリンピックの年である1964年に70.1歳と初めて70歳代を突破して、それからは少しずつ右肩上がりで、2009年には82.9歳まで来たようです。

>30年ぐらい前だとそれぐらいで亡くなる人も珍しく無かった

うん、皮膚感覚としてはそんな感じですね。それ以上に、50代っていうのももう老けた人って感覚でしたが、今では全然ヤングですよね。などとどさくさまぎれでエクスキューズを入れる姑息なdrac-obであった。いやー、オレなんかトゥー・ヤングかな(笑)。そういえば『ロックンロールにゃ年だけど、死ぬにはちょいと若すぎる』なんて洒落たアルバムだしたのは、誰だっけ?
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