発作的昔話の3、中学の事もやれば思い出せるのだ

 梅雨は明けたはずなのに、またしても連日激しい雨が続いている。今朝、某国営放送の天気予報を見ていたら「九州地区の南部に停滞している梅雨前線が…」と、はっきり言いやがった。え、梅雨明け宣言したんと違います?それとも、宣言は撤回ですか?いや、いいんですよ、間違いなんて誰でもある。不当人事だって、あっちゃいけないけど、元に戻せばみんな笑顔で解決するんです。このところの天候不順は、間違いありません。半井さんのタタリです。早急に午後7時30分の天気予報に彼女をカムバックさせるように、関係者各位にお願いしたい。と、相変わらず、天気と言えば半井さんを思い出して、心が痛む。心は痛むが、物事には起承転結というものが必要で、とりわけ雨が降るのを眺めているときに、発作的に思い出した厨房時代の話の続きに入る。今日こそは、話にけりをつけるのだ。

 F城地区から中学に通うようになり、あ、その前に転校したばかりの日のことを思い出した。父親に連れられて、O淀中学校という学校に行った。僕が、前の年まで通っていた延岡の中学校は2つの小学校が全児童、そしてもう1つの小学校から確か三分の一くらい通っていたので、クラス数も8クラスあり、大きいというほどは無かったが、それなりの規模の中学校だった。ところが、今度通うことになったO淀中は、全クラスが確か12ほどあった。1組から12組まであったような気がする。何しろ2か月しかいなかったので、正確な数字は覚えていないが、10クラスは優にあった。で、その中学で僕が入るクラスの担任が、これは偶然だろうが、僕が通っていた延岡の中学の出身ということもあり、かなりいい感じで受け入れてもらった。簡単な挨拶と自己紹介をした後、新しいクラスに連れて行かれたのだが、回りの生徒はみんな坊主頭である。宮崎は県庁所在地なので、中学生も長髪だと聞いていたのだが、あれはウソだったのか。恐る恐る担任の先生に聞いてみたら、以前は長髪だったが、生徒会で議題が上がり多数決で坊主に決まったと言われた。うーむ、多数決で坊主か、納得いかんがしょうがない。などと、考えていると、もうクラスの入り口である。先生からクラスの全員に僕の紹介があり、その後自己紹介をするよう言われたので、適当に挨拶した。いや、適当な話をしたということではなく、まあ当たり障りのない挨拶をしたということだ。

 学校を転向、こらこら誰が義務教育でイデオロギーの話をするんじゃ、転校のほうだ、学校を転向転校(書いたときは気がつかなかったが、またもや字を間違えていた。汗)経験のある人は分かると思うが、転校生として新しい教室に入るときはプレッシャーがある。すぐにクラスになじむことは出来るだろうか。いじめられたりしないだろうか。教科書は同じだろうか。習ってるところは一緒だろうか。その学校やクラスなりの流儀にすんなり入ることが出来るだろうか。まあ、簡単に言うと新たな共同体に受け入れられるかどうか、受け入れてもらうために儀式はあるだろうがなるべく穏便なものがいいな、みたいな、ね、わかるでしょ。

 まあ、転校生を受け入れる連中も好奇心満点の視線で、こちらを見るのだが最初の接触を求めてくるのは比較的道化的な立場の生徒が多いような気がする。クラスの大物というかドンみたいなのは、「やあ、君がdrac-ob君か。何だ、延岡から来たのか。夏目漱石が『坊ちゃん』の中で『人と猿が半々に住んでいる』と断言していた延岡、いや、失敬、今は立派な企業城下町だよね。旭化成がくしゃみしたら町中が風邪をこじらせて、インフルエンザになるという、え、ならない、またまたご謙遜を」みたいなことは絶対言わない。それどころか、自分の手下のちょっとひょうきんぽいのをレポとして繰り出して、転校生の人となりや戦闘能力、経済力などをチェックし、①取り込む、②手下にする、③しばらく様子を見る、④いじめる、みたいな対応を決めるんだな、これが。

 幸い、そのクラスにはその手のドンはいなかったようで、最初に接触してきた奴も気さくな感じの男で、結構すんなりクラスにはなじむことが出来た。転校生との会話は、最初は彼我の違い、つまり君のところの学校はどうだった、でもこの学校はこうだよ、で、当然自分たちの学校の方が進んでいるというか正しいんだみたいな話になる。その時も、いろいろその手の話をしていたら、相手が突然「今度修学旅行があるけど、うちの学校は北九州方面を3泊4日で行くんだ(どうだ、凄いだろう。延岡あたりの中学じゃ、せいぜい別府あたりに1泊二日だろ、地獄めぐりしかできないところだったけど、運よくこちらの学校に来れて良かったよな、な、な。みたいな優位性を含んでいたことは間違いないと思う)」などというので、「え、修学旅行は去年行った」。「ウソ?」「いや行ったよ、行きました」「ど、どうせ別府あたりに1泊二日じゃないの、こちらは福岡とか博多とか北九州に行くんだぜ」「(いや、それ全部福岡県なんですけど、と思いながらも転校生は口に出さず、下から行くのだ)うん、全部行った。3泊4日だから結構楽しかった」。

 この会話で僕は修学旅行のオーソリティの立場を確保し、彼らが回る予定の計画表やガイドブック(いやガリ版で刷って、ホッチキスで止めてる粗末なものだけど)を見せてもらったら、ああら不思議、1年前に僕が行ったパターンと全く同じ。要するに旅行代理店の企画が全く一緒だったということだろう。それで、僕は各観光スポットの情報、お土産の種類や値段、つまり木刀はどこで買ったら安いとかペナントや提灯はここで買えとか、このあたりには傷痍軍人がいて手風琴を回しながら募金箱を出してくるので、日本男児なら浄財を寄付せよ(すんません、このころはどっちか言うと映画の陸軍中野学校のファンだったので、てーこく軍人大好きっ子だったのよ、わはは)などと、中3男子ならではの、ナイスなアドバイスをしていた。

 その日は家に帰って、新しいクラスの事やその日の出来事みたいなことを親に話して「そうそう、宮崎の中学は3年生の時に修学旅行があるんだって。オレはもう行ったから行かなくていいよね」と相談したら、両親ともちょっと妙な顔で「え、まあ、でも早く友達が出来るから行った方がいいよ」などという。その当時は、尊敬する人物が二宮尊徳だったので、それは無駄というもので、まず第一にお金が無駄、第二に同じところに二度行って学ぶことが無い知的無駄、さらに宮崎の中学生が3泊4日で遊びほうけているその隙に、一気に城を落とすのが戦の常道、ゆめゆめ油断なさるな、なんてことは絶対思わず、考えず、二つ返事で「ラッキー、また修学旅行に行ける」と喜ぶような小人物だったので、オレは出世できなかったというか、成功しなかったんだろうなと反省することしきりです。

 それで、修学旅行は二度行くことになった。こんなところでツキを使ったせいか、高校は修学旅行の無い学校に行ってしまい、ずいぶん寂しい思いもしたが、まあそれはそれで仕方がない。

 そのO淀中学校でちょっとびっくりした話をもう一つ。僕は中3の新学期から、その学校に行き始めたので、当然すべての授業が初めてであったが、これはもともとの在校生も同じで、4月から新しいクラスになって、各教科の先生も、もちろん全学年前学年からの継続もあったけど、転勤で新しく来た先生もいる。で、最初の体育の授業の時だった。体育の先生は前の学年と同じなので、やり方は変わらないみたいなことは聞いていたのだが、体育の最初の授業は体育館で行われると伝達事項があった。体操着に着替えて、体育館に行くと、全員が勝手に倉庫からバレーボールを持ち出してきて、サーブやスパイクの練習を始める。これには、僕はクリビツテンギョウ。僕がいた中学では、教師の許可というか指示が無い限り、勝手にボールや教材を持ち出すなどもってのほかで、そんなことしようものならぶん殴られたり、教師の虫の居所が悪かったら廊下に正座なんて当たり前だのクラッカーであった。その廊下も板張りです。フローリングなんてしゃれたものではなく、あちこちに節があって、ささくれていて裸足で歩いたら間違いなくけがをするような板の間の廊下に正座。これはキキます。そして、その廊下を歩く教師たちは正座をしている生徒に必ず「わら、なんしたとか(お前は何をしたのか)」と尋ね、聞かれた方は自分のやったことを素直に言うと「ほー。お前はワシントンのごつあるね(お前はワシントンのようだ=正直だ)」と言って、手に持った出席簿の角の所で必ず、こちらの坊主頭を小突く。これがまた痛い。

 というようなウルトラ体罰学校にいたもんで、まあ、みんなが好き勝手にボールで遊んでいる(あれはどう見てもバレーの練習じゃなくて、単なる遊びだった)姿をみて、こいつらは恐いということを知らないのだろうかとひとりビビっておりました。そこへ、ボンレスハムがジャージを着たらこうなる、と言わんばかりの体育の先生が来て、首から下げた笛を一気に吹いた。その鋭角的な音を聴いて、これは間違いなく全員ビンタだね、と思っていた僕に、その先生は一言「ハイ、止め。今日は器械体操をやります」で終わり。はああ、どうなってるんだ、この学校は、ぬるい、あまりにぬるいやないけ。こんなんで集団生活のルールは守られません。もっと規律ある行動を、などと当時のネオ・ライト少年だったワタクシは思うのでした。あ~あ、また本筋に行きつかなかった。

 オマケ。僕が延岡の中学校で最初に受けた体罰。入学してまだ3日もたってなかったと思う。それぞれのクラスでホームルームが行われ、僕のいたクラスは正規の時間に終わり、僕は、先ほど出て来た板の間の廊下を下校するために一人で歩いていた。アフタースクールの気安さからか、思わず「街の明かりがとても綺麗ね、ヨコハマ~」と当時流行していた歌を口ずさんだ。ガラガラと木製の窓が開いて、鬼瓦みたいな教師が僕をにらんで「わら、何組のもんか(お前は何組の人間か?)」と叫んだ。僕は直立不動の姿勢を取り「ハイッ、1年6組のdrac-obです」と腹の底から声を出した。「おまえんクラスはもう終わったかもしれんが、こんクラスはまだやりよっちゃが、そこにおまえん上手な歌が聞こえてきたかい、みんな気が抜けてしもたが(お前のクラスは…以下略、大体わかりますな、はい)」。「はい、すいませんでした」「すいませんですむか、そこんすわっちょけ!!!」。

 というわけで、入学して1週間もしないうちに廊下で正座。しかも下校時間だったので、同級生たちはくすくす笑いながら通るし、そこに時々教師連中も通りかかるので、↑で描いたような「わら、なんしたとか」という不毛な会話と出席簿の角で小突かれるというのを何度も経験しました。そして、そのクライマックスは、ワタクシの担任が廊下で正座しているワタクシを見て「わら、おれん顔に泥を塗るとか!!!!」と絶叫され、その後のことは思い出したくありません。しかし、そうやって僕たちは鍛えられてきたのだ。だから九州の人間は言葉が激しいって、あれ、どこかで聞いたような…。

 やけくそですが、この話続けます。


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コメント

私の修学旅行も中三でした

行き先は、同じく ボボ文化圏、北部九州でした。
初日は、熊本城と阿蘇を見て、宿泊は、長崎市。
二日目 グラバー邸、原爆公園、大浦、浦上などを見学して、福岡市に宿泊。
三日目 福岡は素通りに近く、大宰府をお参りしただけで 別府へ移動。 
お決まりの地獄巡り行って 別府宿泊 って感じのコースだったと思います。
梅雨時だったのか ずっと雨でしたね。そちらも こんな感じのコースでしたか?
BIG PALCEも 修学旅行無しでしたか。SOUTHも無しで、修学旅行代わりに 
A水君と 後に鹿大に進学した男の3人で 夏休みに京都観光しました。

追加で思い出したこと

大学で出会った関西の連中は、修学旅行先が南九州だったってのが 
結構多くて、彼らが口を揃えて言ってた(馬鹿にしてた)のが ・・・
まだ百円札(板垣退助)が残ってた(百円玉が流通してなかった)。
TVつけたら 民放が一局しかなかった。
(NHK総合、教育 + 民放1=チャンネル3つ分のみ) でした。
DRACのS戸君も そんなこと言ってませんでしたっけ?
まあ 東京で ワンマンカーが導入された後も こちらは 
車掌が切符切って渡してたし、百円札に替わる百円玉を目にするまで 
何年もかかったりと 本当に遅れてましたね。

それと 当時の土産の定番は、おっしゃるようにペナントでしたね。
懐かしいです。

>ボボ文化圏、北部九州って(笑)

いやー、流石は尊敬するK平大先輩、その通りでした。実は、昨日この話を書いていた時に、修学旅行の事を思い出していたんですが、新日鉄に見学に行ったことや、熊本城に行ったことなんかは覚えていたのですが、正確なルートが思い出せず、特に別府の地獄めぐりはくすぐりで使いながらも、最終日に行ったことなどすっかり忘れていました。

さらに、傷痍軍人のことも書いていながら、長崎の記憶が完全に飛んでいて、K平さんのコメント見て初めて思い出しました。グラバー邸に大浦天主堂行ってます、間違いなく。

>梅雨時だったのか ずっと雨でした

確か4月の下旬か5月の上旬だったと思います。ゴールデンウィークは避けていたはずだし、5月の終わりには、また転校したので、うんやっぱり4月だったと思います。天気は良かったですよ。

DRACのBOX内で

南九州いじめ、ありましたな(笑)。僕が記憶しているのは、普段あんまりしゃべらないF水さんが、あるとき突然「なんや宮崎とか、どえらい田舎やんけ。テレビ映らへんし、100円玉出したら珍しがられたわ」とか言い出して、その口調の激しさに驚いたことがありました。もっとも、決して悪意で言ったわけではなく、その後は大阪の品の無さもネタにして一緒に笑った覚えがあります。

S戸やF田は、良く南九州を小馬鹿にしていましたね。まあ、一応F田は泉北ニュータウンというビッグタウンに住んでいたから、我慢もしたけど加西市出身のS戸から田舎者扱いされるのはムカつきました。そのたびに反論していたら、F田が何故かこちらの肩を持ってくれて、二人でS戸の出身地をおちょくっていたら、「なんや、堺も加西も似たようなもんやんけ」とS戸が開き直り、それを聞いたF田が「アホ、お前、ぜんぜんちゃうわ」とマジ反論するか、「せんぱ~い、あんなこというてますけど、いいんですか~」とおもねるか、必ずどちらかのパターンでした。

そういえば故M原からも「drac-obさんの田舎は電車が単線てほんまですか」と真顔で聞かれたので、「そうや」と答えたら、「えー、線路が一本やったら上りと下りがぶつかって事故になりますやん」と言われたので、「アホ、そのために日本の国鉄はダイヤグラムという素晴らしいものを開発して、」とマジレスし始めたら、ニヤニヤ笑いながら「わからんなぁ。うちら生まれたときから複複線で、それからすぐ複複複線になったから、わからしまへんわ、九州の国鉄は」と。手の込んだおちょくりだったという次第です。ちゃんちゃん。

おりも恥ずい過去が

ぼくも高知から中学の修学旅行で、南九州廻りましたです、ええ。
地獄めぐりもいきましたね。桜島も鮮明ですが、こまかい場所の記憶があまりなく。
でも探せば旅行のしおり的なものは残ってるはずですがw
なんといっても小学校のときの修学旅行のしおりをこないだ見つけたくらいでw
(小豆島、栗林公園などなど)

中学の修学旅行ではたしかバスの中で「キラー・クイーン」歌いましたわ。
よくひとりであんなの歌ったなと赤面です。もち英語はかなりめちゃくちゃですが、
意外とみんな知ってて受けたんですわ。

「ブルーライトヨコハマ」ときいて思い出したこと。
放課後だったかわすれましたが、はずかしげもなく、しかも(ここだけのはなし)、わざ

わざ教壇で陽水「いつのまにか少女は」を披露したというくらい過去が、、
ちょうど映画「放課後」を見に行った直後だったと思われます。あ~あ。

中学生がバスの中で「キラー・クィーン」ですか!!

そりゃ、恥話じゃなくて立派な自慢できる話だと思いますが、しかし、フレディ・マーキュリーのあのファルセットボイスが良く出ましたな。もしや、当時はまだボーイズソプラノだった、つまりビフォア変声期だったとか?実はワタクシの変声期が遅くて、確か高校の時にほとんど気が付かずに終わったみたいです。おかげでいまだに声が高くて、家族の嘲笑を受けております。カラオケ歌うとき、1オクターブ高く歌い始めて、地獄を見るのはしょっちゅうです。

>陽水「いつのまにか少女は」を披露したというくらい過去

この手の恥話は掃いて捨てるほどあります。mixiでコミュ作るか、エントリーで特集するか、忘れないように記録に残さないと(って、いったい何の意味があるか、そういうことは考えないのが僕のいいところだと思っています。エヘン)。
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