ワタクシと中華大衆料理の出会い、あるいは王将物語

 この前、王将の話をちょっと書いたら無性に懐かしくなったので、今日はワタクシと大衆中華料理の出会いというテーマで行く。単なる中華料理ではなく、大衆中華料理であることをお断りしておく。こちとらフカヒレとか北京ダックとかクマの掌なんぞには縁が無いのだ。ギョーザだ、シューマイだ、ホイコーロだ、チャーハンだといういわゆる大衆中華の話である。で、悲しいことに大衆中華との出会いはやはり大学時代にさかのぼる。京都で学生生活を送るようになって驚いたのは、やたら中華料理店が多いということだった。実は、恥ずかしながらワタクシ、高校生の頃まで中華料理なるものはほとんど食したことがなく、つまりラーメンとかちゃんぽんとかあんかけ焼きそばとかの麺類は大好きでよく食べていたのだが、どういうわけか自宅ではあまり中華料理が出てきたことが無かった。したがって中華料理のメニューを知らなかった。その昔、「ハリスの旋風」だったか、ちばてつやの描いていたマンガに貧しい家庭の子供が晩御飯に酢豚を作ってもらうシーンがあり、そこで登場人物が「わー、今日は酢豚だ、ごちそうだ」というのを見て、酢につけた豚肉を中国人民はありがたがるのか、日中文化の相互理解は難しいなと思ったくらいで、結構真面目に酢豚=酸っぱい豚肉(というか、肉が酸っぱけりゃ腐ってる可能性が高いということに気がついてなかった、笑)というイメージが刷り込まれてしまった。また、これまたマンガで見た1シーンなのだが、夜、学習塾に通ってる子供が主人公で、お腹がすくので晩御飯は塾の近くの中華料理店で食べるのだが、最初にラーメンを注文してちょっと戸惑ってしまう。なぜなら、その日母親からお店ではラーメンばかり食べずに栄養のあるものを食べろと注意されたばかりだからだ。そこで、ラーメンを止めて五目そばを注文し直すのだが、その五目そばという食べ物がよく分からない。だいたいが中華そばという言い方も知らなかった頃で、ラーメンに近い食べ物で五目そばというものがあるらしい。いつの日か、自分で自由に食事が出来るようになったら食べてみたいと固く心に誓った。たぶん小学校の4年生くらいだったかな。

 だから、要するに中華料理そのものをあまり食べたことが無かったので、京都での下宿生活が始まっても自ら進んでその手のお店には入らず、ごく普通の大衆食堂、そうそう京都には力餅食堂という訳のわからない食堂があちこちにあって、そこには定食から麺類までいろんなメニューがあったので普段の晩御飯はそういうところで食べていた。朝は寝坊するから当然食べないし、昼は別館の学食(ときどき無性に学食の薄いみそ汁とセットになった定食を食べたくなる時がある。SランチとかAランチとか、まだあるのだろうか)か近くの喫茶店などで済ましていたのだ。ただ、入ったことは無かったが京都の地理になじんできて、あちこち動き回るようになるとやたら「王将」とか「」とか「李白」だとか中華料理店の看板が目に飛び込んできたので、いつの日か入ってみたいがちょっと不安という、まるで日活ロマンポ×ノを見に行きたい中学生みたいな心理状態であった。

 で、最初に入った中華料理店は出町の王将だったのか、それともエイデンの出町柳駅近くにあっただったか、もしかしたら一乗寺にあった小さな中華料理店だったか定かではない。誰といったのかもよく覚えていない。このエントリーによく登場するDRACのメンバーではなく、修学院で同じ下宿に住んでいたY岡さんと、あ、そうだ、彼の友人のY本さんと3人で食べたときだ。うん、出町柳のだ、間違いない。中華料理はほとんど自宅では出なかったと先ほど書いたが、よく考えてみるとチャーハン、いわゆる焼き飯というのは結構食べた。食べたが、何故だか僕は若い頃はチャーハンが嫌いだった。多分、実家のチャーハンの味付けが好きではなかったので、嫌いだったんだろう。大体、玉ねぎと卵と後は適当な具をブチ込んで炒めていて、そうそううちの母親はケチャップをチャーハンの味付けに使っていたので、甘いんだかなんだか良く分からない味で、僕は嫌いだった。そのせいもあって、オムライスとかがいまだに苦手である。

 まあ、ケチャップ入りのチャーハンなどは論外だが、今思い出したことに僕は小さい頃マヨネーズご飯が大好きで、これは冷たいご飯にマヨネーズでもいいし、あったかいご飯にもマヨネーズでもいけた。それと黄粉に砂糖をまぶしたものをご飯にかけて食べるのが好きだった。そんなことはどうでもいいか。出町柳のの思い出である。何故修学院から出町柳まで行って晩御飯を、それも同じ下宿ながら学校は全然違っていたY岡さん、さらにY岡さんの友達で僕が住んでいた部屋に1年前住んでいたY本さんと3人で食べに行ったかは、もう全然思い出せない。はっきり覚えているのは、のテーブルに置かれたもやし炒めとご飯、その横にチャーハンとお椀に入ったスープという風景である。中華料理のメニューを知らない僕は、何を食べようかさんざん迷った挙句、無難なもやし炒めを注文し、Y岡さんは何を恃んだか覚えてないが、Y本さんは間違いなくチャーハンを注文した。チャーハンだけを注文したのに、何故か店のおばちゃんは大皿とお椀を持ってきた。そう、チャーハンを注文するとスープがついてくるのである。これは驚きだった。またそのスープの匂いが良くて美味しそうで、おもわず「Y本さん、このスープ少しもらえない?」と聞いたくらいだ。その時の彼の返事ははっきり覚えている。「あかん、欲しかったら頼んだらええやん」。なんと薄情なやつだ。九州男児が頭を下げてお願いしているのだ。快く譲ってくれてもいいだろうが。オレもただでくれとは言わん。もやしの一口位、いやここは思い切って豚肉とにらともやしを込みで3口分くらい譲ってもいいという心意気で頼んでいるんだ。それをなんだ、けち臭い男だ。だから、三重の人間はダメなのだ。などとむちゃくちゃな逆恨みを心の中でしながら、それでも京都に来てまだ1ヶ月もたたないうちに出来た大事な知り合いなので、表面はにっこりと「あ、オレ、チャーハン好かんからいい」と返事をした。

 しかし、くだらないことほど良く覚えているものだ。あの時のチャーハンについてきたお椀に入ったスープが飲みたくてたまらなかったが、前にも書いたようにチャーハンを食わず嫌いでいたものだから、その願いがかなうのはずっと後になる。まあ、出町のは、かの佐藤優大センセもひいきにしていたようで、「私のマルクス」だったか、何かあるとでビールと餃子を食べたみたいなことが書いてあった。そうそう、花の75年度生のPurple_Hazeさんもこのお店はひいきにしていたようだ。このというチェーン店は僕が入学した75年当時は結構、京都市内にあちこち支店があって王将といいライバル関係にあったのだが、なにせ昔からの中華料理屋でメニューも店構えもいっさい手を入れなかったので、ギョーザのタダ券を配りまくったり、開店記念日にはビール大瓶1本サービスとか、真夏のクソ暑い時期に、夏バテ防止ご飯大盛サービスなんていうトンデモな企画を出して、さらにはあちこちに支店を出店しまくった王将に、だんだん押されていき、京都における中華覇権闘争は王将の圧勝という結果に終わるのであった。

王将出町店

 それで、肝心の王将なのだがやはり出町の王将で食べたことが一番多いので、そこの話になる。修学院からD大に行くには市バスという方法もあるが、36番線というとにかくめちゃくちゃ混む路線なので、圧倒的多数の学友諸君はエイデンで通うことが多かった。そのエイデンの終着駅が出町柳で、そこから河原町今出川を抜けて、烏丸今出川までてくてく歩くのだ。時間にして10分前後だろうか。河原町今出川の信号を西に渡り、ちょっと行くと出町のアーケードがあり、その近くに王将はあった。この王将デビューは、もしかしたらK平先輩と一緒だったかもしれない。というのも、出町の王将のもっとも古い記憶は、BOXでA水先輩とK平先輩と一緒になり、もう夕方だったのでご飯を食べに行こうということになり、まだそのあたりの食事が出来るとこを良く知らなかった僕のためにいくつか店を教えてくれたのだ。

 今覚えているのは「焼肉のローラ」と「冗談の王将」ともう一つなんだったか、やはり出町近辺というか今出川周辺の安くてうまいお店だった。中島食堂だったのかな。その可能性は高いが、どうしても思い出せない。当時、中華料理にやや苦手意識を持っていた僕は、できれば普通の大衆食堂か喫茶店みたいなところに行きたかったのだが、A水さんとK平さんは「じゃ、今日は王将にしよう」と二人で決めて、後輩であるワタクシは黙ってついていくしかなかった。初めて入った王将は、時間帯が夕方の混むときだったせいもあるが、カウンターに固定された丸椅子がずらっと、そう14,5人くらいは楽に入れるお店だった。僕は今でもそうだが、食事中に活字を読まないともだえ苦しむ活字中毒者(by 椎名誠)なので、そこでもまずは新聞か雑誌の類を探したが、「ここ、そんなもんないよ。ここは安くて多くて早い店だから、食べるのも早く食べて出ないといけない」と忠告してくれたのはK平さんだったと思う。

 で、そのとき何を食べようか、お金も無駄遣いしたくないし、かといって知らない料理を頼んで、それがまずかったら嫌だし、安くて無難なものをと検討していた僕の目に飛び込んできたのは「餃子ライス」という文字だった。金額もめちゃくちゃ安い。ただ何と読んでいいか自信が無かったが、オレも男だ。思い切って大声で叫んだ。「サメコライスください!!」。・・・すいません。ネタです。ただしこれは昭和の30年代だったか、高信太郎という漫画家の実話です。それでは、もといっ。

 で、そのとき何を食べようか、お金も無駄遣いしたくないし、かといって知らない料理を頼んで、それがまずかったら嫌だし、安くて無難なものをと検討していた僕の目に飛び込んできたのは「酢豚」という文字だった。いや、実はほかにも頼んでみたい料理はあったのだが、お店のお客さんと店員の会話が全く理解不能なものだったので、怖くて注文できなかったのだ。僕の耳に聞こえてきたのは、「ギョーザとから揚げ」「ハイ、コーテルイーガー、エンザーキイーガー」とか「ハイよ、コーテルリャンガー、ナーホね」「はい、お待ち、リーチ一発ね」「ホイコーロイーガー」「ムースーロー、こちらね」などとこれはどこの言葉だ、なんとなく毛沢東の雰囲気がすると訳の分からないことを考えていた。その不可解な単語が飛び交う中に「スブタ」という言葉が何度か聞こえたので、「そうか、酢豚はスブタでいいのか。昔読んだ漫画にもごちそうって書いてあったからたぶん大丈夫だろう」と判断して、おずおずと酢豚と餃子とライスを頼んだ。

 嘘か本当か分からないが、まあ、この話はF田敏雄君から聞いたので千に三つの確率で出鱈目だと思われるのだが、王将の中華料理のメニューの呼び方は大阪外大のアルバイト生が付けたとか聞いた。どうなんでしょうかね、本当のところは。まあ、そういう真相を探るようなことはどうでもいいか。

 先輩二人と一緒に食べた王将のご飯は美味しかった。おなかもいっぱいになった。それ以来、王将には一人で行って食べるようになったが、酢豚以外のメニューにはなかなか触手が伸びなかった。一緒に食べに行く仲間はレバニラ炒めとかニラ玉とかいろんなものを頼むのだが、僕はレバーが苦手だったので、あの安くて栄養豊富なレバニラとかレバー炒めとかは頼めなかった。それでも、慣れてきたら、黒コショウと一緒に盛り付けられるエンザーキ(鶏のから揚げの骨の付いて無い奴)のダイナミックさと、その皿の端に必ず添えられるレタスにマヨネーズというのも頼むようになったり、僕のアパートで飲み会をやるときにはギョーザやムースーロをナーホして持参してくる友人なども出来て、中華コンプレックスは徐々に解消された。

 それ以来、良く通った。あるときボーリョク学生のN谷君と、あ、この時も確かK平さんがいたような気がするのだが、例によって出町の王将で晩飯喰って帰ろうとしたら、なんとその日は出町店の開店記念日で、店の兄ちゃんが「お兄ちゃんたちビール飲むか?今日はサービスやで」と声をかけてくれて豪快に大瓶のビールを並べて、乾杯して飯を食った後、N谷君が「こういうラッキーな日はラッキーでパチンコしたら出るんちゃうか」という凡そチーハクとほとんど変わらない提案をして、当然こちらもタダビーで気持ちが大きくなってるから、「異議なしや、いったるか」と突撃して、当然世の中そんなに甘いはずはなくボロボロに負けて店を出たら、向かいにはキングというパチンコ屋もある。「ラッキーの敵はキングで」を合言葉に先進的学友諸君は突入したが、これまた無残に返り討ちにあって、泣く泣く修学院へ、一乗寺へ、そして岩倉へとそれぞれのねぐらに帰ったなどと言う日もあった。

 で、結局何が書きたかったかというと、そのような青春の蹉跌とさまざまな燃える思いの詰まった王将が、こともあろうにファミレスだと、この野郎!!何が新人店長研修じゃ、コノヤロ。あの煮しめたような白衣で油まみれて餃子焼いてたチンピラ兄ちゃんや新人のバイト生に「お前足寒いやろ、長靴の上からお湯かけたるわ」と普段は怒ってばかりなのに、一瞬見せた優しさだとか、目の前で食器を洗ってるおっかなそうなオッチャンに「洗剤が皿に飛んできてかかったんだけど」と軽くクレーム付けたら、ギロッと睨まれてドスのきいた声で「死にゃせん」と言って、その後一切のコミュニケーションを拒絶した、あの王将ワールドはどこに行ったのか、という問題提起なのだ。全ての戦闘的市民、学生、労働者の諸君、王将のプチブル的ファミレス思想を断固粉砕し、真に貧しい学生のためのプレカリアートのための解放された中華料理屋に再建されるその日まで、一時この放送を中断します、ってもう支離滅裂になったところでおしまい。この話は続きません、たぶん。

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コメント

まあ、続かんわな

今回のエントリを読んでおりますと
当時の王将のプロレタリアバイトとご自分の立場をまったく別の位置にあるものとして描いているように受け取りました。
なにより「貧乏学生の自分がそこでバイトする」という選択肢が微塵も感じられない。

それで王将の現状に文句を言っても無駄ですよ。
ルンペンプロレタリアートは体制の補完物ですから(笑)。

私と王将の出会いは

入学してまもなくに A水君の下宿に行った時、
後にDRAC Y田部長の愛の巣となる部屋(笑)に
宮崎 K中文房具店の お兄さんの方が 
商学部だったかな 4回生としておられ
その人に連れて行ってもらったのが 最初です。

驚きましたねえ。
客に出す お冷の一杯目を どう準備するかと言うと・・・
グラスを載せた金属トレーを 流し台に置いて、
そこにホースで水をぶちまけると言う 何とも
豪快、無骨なやり方でした。
飲む水の供給法と 床の掃除法が一緒ですから。
これでは、客に占める男の割合99.99%も当然だわなあ。

79年の今頃だったと思います。
A水君が 宮崎から京都に遊びに来て、出町ではなく、
王将の別の店舗に飛び込みで入ったら そこに
出町にいた あのチンピラ兄さんがいて、
お互いに お~ となり 歓談したと言っておりました。

数年前、河原町今出川を 車で通り抜けた時点では、
キングもラッキーも あったと思います。
ちっちゃいどー 北海道 H居君の下宿近くの
ケルンも まだありましたね。
懐かしいやら 貢いだ金を思うと 腹立つやら。
トイレの便器とかは、我々の金で出来ておるのかもしれん(笑)  

お、さすがはかくた同志(笑)

鋭く見ておりますな。ご指摘の通り、王将のプロレタリアバイト諸君との連帯は無理でした。だって奴らみんな髪の毛パンチで、ヤンキーで客に対しても結構暴言多かったし、身内同士でしゃべっていることは、1に雄琴(関西における特殊浴場センターというか、ケダモノたちのハライソ。僕は初めて見たときにワンダーランドかと思いました。あ、大人のネズミーランドってナイスなネーミングだな)、2に競馬・競輪の結果、3に新装パチンコ店のオープン日などの話題ばかりで、まあバクチ関係での連帯は出来なくはなかったけど、ちょっとねぇ。

もっともK平さんがコメントに書いてるように、当時はヤンキーでちょっとおっかないなと思っていた店員やバイトに、その後再開した時はなんというか恩讐の彼方にみたいな感じでお互い懐かしいなと握手することはやぶさかでは無かったですね。

>ルンペンプロレタリアートは体制の補完物ですから(笑)。

ええ、ですから最近はちょっとヤングなプレカリアートという階級を自称しております、ってあれも結局は雇用の補完物ですが(笑)。

え、K中文具店のお兄さんはD大OBですか

マジっすか。弟さん(K平さんたちと同学年の方)は東京のW大ですよね。確か、75年の秋休みに京都の来られて、激しく麻雀を戦わせた記憶があります。かなりの打ち手でしたが、所詮は関東のリーチ麻雀、我々関西派の敵ではありませんでした。そういえば、その翌年の春に帰省していたらA水さんから麻雀しようと電話が入り、今は亡きM交シティのアイススケート場に併設していた雀荘でA水さん、K中さん、それと無口なS藤さんと朝から晩まで麻雀して、ぼろ負けしたK中さんが解散間際に「明日は何時から?」と言って、それから4,5日毎日M交シティまでバスで通ったことがありました。

僕は宮崎でも中心部から北部がメインテリトリーだったので、南部はあまり勝手がわからず、それが却って新鮮だった思い出があります。

>客に占める男の割合99.99%も当然だわなあ。

まあ、女性客は見なかったですね。しかし当時から少し姑息な策動があって、四条にオープンした王将は1階が食堂で、2階は座敷でコンパルームになってるところありましたね。78年の新歓コンパはそこでやりました。しかし、油ものが多くて、みんな食傷気味でしたが(笑)。

 今日は一日研修センターでの研修。昼休みに「ザ、めしや」に行こうとしたら、飲み屋さんに替わっていて、ほかに思いつくところもないので、隣の京都王将橿原店に行きました。確かにホール担当のお姉さんがいるし、テーブルや座敷もありましたが、カウンターで食べている感じは80年代の王将に近い感じでした。30年前と同じ訳のわからない王将用語をカウンターの端でマイクで厨房に向かって叫んでいるし、厨房の中は長靴、服は一見きれいなものの、エプロンは黒で汚れがめだたない色でした。味も進歩した感じはなく、「王将の味やな」と思いました。

一緒ですなぁ

>大衆中華との出会いはやはり大学時代にさかのぼる
僕も高校時代までは中華と言えばご馳走だったなぁ。
(と言ってもデパートのお好み食堂メニューでしたが)
幸いにして京都で下宿したアパートがの真裏、徒歩10mの距離だったので最初の洗礼が餃子定食でした。
で好きだったのはジンギスカン、麻婆豆腐、天津飯。
僕の勝手なイメージだけどはちょっと高級で王将が大衆的って感じでしたがこれは異論反論あるでしょうね。
餃子に関してはの小振りで皮の薄い餃子が好きでした。
しかしながら出町柳のが閉店した今、東京にと王将の支店がある事は非常に喜ばしい限りであります。
http://www.minminhonten.com/location/index.html
そうそう僕らが一回生の頃、天下一品はまだ一乗寺の屋台でしたよね。

そうか、guevara129さんは今でもリアル王将で

食事が出来るわけですな。しかし、コメントで読む限りではあまり当時と変わってないようで、そのほうがこちらとしてはありがたいのですが、現実の昼メシとして食べる方にはいい加減食べ飽きた味なのかもしれませんね。

もっとも、王将の王将たるゆえんは、客が貧乏男子学生が主流というか圧倒的多数を占めることと、店員がヤンキーかちょっと893な感じのパンチパーマか顔に傷があり、愛想もくそもないけどときどき無性に優しかったり、意図せざるユーモアをさりげなく提示してくれる所にあったと、あえて断言したいってオレは梶原一騎かっちゅうの(笑)。

あ、guevara129さん、次回は学食のランチシリーズのレポお願いします。

いや、確かにのほうがやや上品な感じでした

たとえて言えば、は清朝末期の義和団の乱的中華、かたや王将は長征に出発する毛沢東的中華とでもいうような雰囲気ありました、ってホンマかいな(笑)。まあ、店の作りはどちらもそんなにきれいでは無かったけど、のほうが中華料理屋的でしたね。デザインもテーブルなんかも。餃子は、ファンはあの薄皮の、中の具が透けて見えるところがいいと言ってましたが、王将ファンは固く武装したような厚い皮の中にニンニクを主体とした中華的混沌の具が盛りだくさんで食べがいがあるところを気に入ってたと思います。そうそう、天下一品の餃子はどちらかというとに近かったと思います。

>僕らが一回生の頃、天下一品はまだ一乗寺の屋台

あー、それ僕ははっきり記憶してないんです。僕が天下一品に初めて入ったのは、北白川の本店で、多分77年じゃ無かったかな。午後の遅い時間にお昼を食べ損ねていたので、飛び込みで入ったら客はがらがら。とりあえず「並み」を注文したらどんぶりに箸が直立するようなどろどろぎとぎとラーメンで、具はチャーシューが1枚にメンマが2,3本。ねぎがプラスティックのざるに入れて置いてあるんだけど、そのざるを見つけ切らずそのまま食べたらマズイことマズイこと。こんなラーメン一生食べんぞ、と固く心に誓っていたのにいつのまにやらあの魔力に魅入られ、今出川の天下一品に毎晩通い、お金があるときはチャーシューの大にから揚げ(3本250円でこれまた脂ギトギトしていて凄まじかった)にビール大瓶、これで占めて1100円。で、お金が無い時は単にラーメンの大だけ頼んで、その代わりにざるに入っているねぎを全部どんぶりにブチ込んで、からしみそと胡椒を目いっぱいかけて食っておりました。天下一品の屋台は定かでありませんが、天天有は間違いなく修学院の屋台でした。週学院中学の近くの道路のくぼ地みたいなところに月曜から土曜日まで毎日屋台を出していて、ちょっとした雪や小雨の時も閉めたりしてなかったので、こちらも冬の時期はほとんど毎日食べに行ったものです。週学院に住んでる大学生が出入りしてたので、京大生や立命の学生と初対面なのに議論をして論破したぞ、などと得意がったり、こちらが負けそうなときは無理やり論点をすり替えて「いやだから小島武夫の暴牌理論に対して、古川凱章の安パイ主義というのはこれは反革命的日和見主義なのであって、そのあたりを阿佐田哲也は麻雀新鮮組の中で総括しようとしていたので、だから巨泉のイレブン麻雀は巧妙に仕組まれたシホン主義の甘い罠で会って」などと、麻雀か音楽の話をして煙に巻いておりました。いやー、曲学阿世とはこういうことなんだな(笑)。

あ、それと王将出町店の写真もアップしておきました。Google earthからのパクリです。
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