ワタクシと北関東(JEP)の出会い 中途乱入編

 いやー、もうあれから2週間以上経過してしまったとは、神ならぬ身のワタクシ、ちーとも気づきませんでした。例の大災害の後遺症はまだまだ続くし、注目しておかなければならないことも沢山あるのだが、ここはあえてバカ話の続きを書くことにしていわゆる「日常に回帰」したい。いいことか悪いことか分からないが、拙blogを始めた原点に「自分が読んで楽しい話を書く」というところがあって、今とても大変な思いをしている人たちの存在を忘れるということではなく、ってどうも歯切れが悪くてしょうがない。あれだけの大震災プラス大人災の現在進行形なんだから。でも、せめてここのエントリーを更新するときくらいはちょっと時間を過去に戻して、ええと、どこまで話したんだっけ。そうそう、研修の2日目の幕開けからだ。

 さて、研修の二日目はその会社独自の挨拶の仕方についての話があり、そこから話が会社の歴史に広がって行った。僕が疑問に思ったのは、会社の配置の関係というかその散らばり具合である。会社が宮崎と鹿児島にあるのは分かる。いわゆる南九州である。しかし、何故いきなり本社が水戸(82年当時)なのか。茨城と埼玉に本社と営業所があり、さらには東北・北海道へ営業所を展開するのも分かる。疑問点は何故、北関東から南九州というラインが成立するのかという点だった。答えは非常に簡単で、初代社長が宮崎は小林(えびの市だったかもしれん、まあ宮崎県西部の小さない市出身なのは間違いない)のご出身で、関東で会社を興しそれなりに利益を上げたので、故郷に錦を飾りたいというか、まあもう少しヨイショすれば関東で上げた収益を雇用問題で低迷する、沖縄本土復帰以前は日本最低所得の町というか、早い話が仕事はないわ、給料安いわ、それでも気候がいいから自然になってるバナナを食べてなんとか暮らせる(ウソだよ、ウソ。なんぼ南国と言われてもバナナは自然になっていない。自然になってるのはマンゴーやパパイヤくらいで、君たちキウイ・パパイヤ・マンゴだね、その心は甘いね、てなもんだ。というのも明らかにウソです。自然になってるのは枇杷か柿か、イチジクくらいかな)故郷に、雇用の場を作るのだというなんというんですか、愛国心じゃないか、郷土愛か、それにあふれた話でした。

 まあもうこの際なんで実名シリーズで行くかと思っていたのだが、どうやら初代社長はご健在のようなので、慌ててイニシャルにするが、S藤会長という方が作った会社が、茨城教育機器という会社だった。これは後程知るのだが、教材のメーカーであったカメラやコピーでおなじみのリ■ーが、R教育機器という販売会社を作り、それに代理店ではないのだが、まあそれに近い形で××教育機器という会社があちこちに出来た昭和40年代後半の話である。つまり、リ■ーのヒット商品であったリ■ー・マイ・ティーチャーを販売するには、そのナントカ教育機器グループに参加するのが一番手っ取り早いというか商品仕入れの仕切りやコミッションなんかも良かったようだ。で、そのS藤会長は埼玉と茨城にその教育機器という名前の付く会社を興して茨城・埼玉・栃木に小さな営業所を次々と作っていき、そのグループ会社の中核になったのが茨城教育機器、通称イバキョウという会社であった。そのイバキョウにある日30過ぎで中途入社してきたN沢という男がいた。この人は自分で売るのは大したことはなかったのだが、一種独特のカリスマ性があり若い人に慕われ、ついには大宮市の営業所の所長を任されることになった。大宮というのは、水戸や下館や小山なんかと比べるとそりゃ大きな町で、なかなか訪販の商品が売れるところではなかったが、この人が所長になったらあっという間に関東で一番売る営業所になったらしい。後年、僕もいわゆる中間管理職になり、このN沢社長からじきじきに話を聞いたこともあるが、N沢社長がいう3流セールスマンがトップセールに勝つ秘訣があるという。そりゃいったいどういうものだ、とやはり気になるので聞いてみたら、とにかく朝は厳しく接して朝礼で目一杯はっぱをかける。

 しかし、夜疲れて帰ってきた営業マンには「何故売れなかったのか」をじっくり聞いてやり、決して叱らず、自分の目標とそれを達成する方法をアドバイスしたという(いや、だから、どんなアドバイスしたのかが、当時中間管理職だったワタクシは聞きたかったが、それは教えないのだ。噂によるとこの秘訣を聞けたのはごく少数の経営陣だけだったらしい。ま、今となってはどうでもいい話なんだが)。そうそう、それとその日契約を3件取って来た人には、必ずポケットマネーで上寿司とビールの大瓶を用意して事務所でお酌しながら、その人の健闘をたたえたらしい。2件の人にはヤキソバとコーラ、1件の人にはおにぎりとウーロン茶、0の人には、「そんなもんあるかぁ、ボケェ」と、「え、やっぱし数字わるかった人は叱ったんですか」と尋ねたら「当たり前だ、信賞必罰が人を伸ばす、甘えたことを言うな」と怒られたことを思い出した。今だから声を大にして言いたい。N沢さん、あんた矛盾してるぞ!!

 とまあ、おおよその予想がつくと思うが、このように我が侭というかワンマンというか人の言うことには耳を貸さないN沢社長ですが、どうして社長になったかというとこれまた何百回も聞かされた、宮崎支店屋上の決闘という話があるのだ。

 関東で一山当てたS藤会長(話を整理するとこのときは社長でN沢さんは部長だったらしい)、その勢いでわがふるさと宮崎に九州の支社を作り、さらにその勢いで鹿児島に営業所を出店した。で、宮崎は九州の支社ということで、当時水戸本社がやっていた事業や会社の仕組みを丸ごと持ってきたらしいが如何せん、当時は30万の人口しかなかった宮崎市、さらにまだ高速道路も整備されておらず、移動に時間がかかるし県民所得が低いため、なかなか売り上げがぱっとしない。鹿児島はその点、当時すでに50万都市でまあ、貧乏県ではあるのだが所得格差が激しく、経済的に豊かな層もそれなりにあったし、また教育というものにお金を投資する必要性を宮崎よりはるかに理解する人が多かったため、それなりの売り上げをあげてはいたらしい。しかし、イケイケドンドンでやって来たS藤会長も、さすがに赤字決算を出してしまった宮崎はマズイ、何とかせねばと考えてN沢部長を投入。そこで今でいうリストラを断行し、数多いた営業社員を泣いてバショクを斬るの心情で10数人いた社員のうち営業3人と経理1人を残して整理解雇した。さらに営業の強化のためN沢部長子飼いの部下である生粋の茨城人であるM田課長を投入し、翌年はなんとかトントンに持ち直した。

 しかし、好事魔多しというべきか、今度はS藤会長が最初に立ち上げた埼玉が非常に厳しい決算を出してしまい、そこでS藤会長考えた。埼玉は水戸から目と鼻の先、いざとなったら茨城の幹部を応援に入れたりテコ入れもしやすい。かたや宮崎は今でこそなんとかなったが、これは前年のリストラのショック療法が効いているだけでもともとのど元過ぎたらすぐに熱さを忘れる体質の宮崎人の県民性を考えたら、どげんもならんだろう。ここはいっちょ宮崎・鹿児島の拠点は閉鎖して、いったん関東で力を蓄え、またいつの日か捲土重来を期せばいいのではないかとの経営判断が働いた。で、その時点では新卒も若干採用して宮崎の社員が直接・間接入れて7名、そのうえアルバイト社員を10数名雇っていたのだが、全員解雇で事業所閉鎖の宣告をするつもりで、腹心のN沢部長と一緒に宮崎の会社に来た。もっともN沢部長はそんな事とはつゆ知らず、宮崎もいろいろあったけどようやく売り上げも上がってきて、これは来期もしっかり頑張れという話をS藤社長はするのだろうと思っていた。

 宮崎の全社員を集めた会議でS藤社長は、宮崎は良く頑張ったがこれ以上関東から支援はできない。したがって大変残念だが会社は締める、つまりみんな解雇になるという話を、そりゃむろんストレートに言えば1分もかからないが、その分社員の反発も半端ではないだろうから、営業マン独特の話し方で30分ほど回りくどく話をしたらしい。最初は褒められていると思った宮崎の社員たちは、だんだん話のトーンがおかしくなっていくのに気がつき緊張の面持ちでいたそうだが、ついにS 藤社長の口から「閉鎖、全員解雇」という言葉が出た瞬間、全員大声で泣き始めたらしい。その様子を見ていたN沢部長は、S藤社長に「社長、ちょっと」と声をかけ、屋上に誘った。

 人気のない屋上で、大声で怒鳴りあう声が響いたらしい。しばらくして顔を真っ赤にしたN沢部長が降りてきて無言で事務所を出て行った。その後S藤社長はもう一度宮崎の全社員を集めて、前言を撤回。全員このままで行くので、引き続き全力で会社を盛り上げてほしいと話すと、先ほど悔し涙を流した全員が今度は歓喜の涙を流して「私は以前、営業がつらくてサボったことがありましたが、これからは絶対サボりません」とか「会社が黒字になるまで日曜日はいりません」とか「売り上げが上がるまで事務所には戻りません」などの、後で絶対悔やむに違いない誓いの言葉が飛び交い、その日大淀川に沈む夕日はいつも色ではなかったという(いや、そんなんありえへんし)。

 その日の最終便で水戸に戻ったS藤社長とN沢部長だが、別れるときに「N沢、今日は疲れただろう、明日はちょっと打ち合わせをしたいので午後1時に水戸の本社に来てくれ」という会話があり、その時間に水戸の本社に行ったN沢部長は約束したはずのS藤社長がいないのことを不思議に思って経理課長に尋ねると「社長からこれを預かってます。部長が来られたら渡してくれ、と」といって手渡されたのはN沢部長の新しい名刺で、その肩書は代表取締役社長となっていた。

 宮崎の屋上でN沢部長は「あんたは経営者だから会社を締めるとか、平気で言えるがこの会社に夢を持ってきている人たちに対してあまりにも無責任じゃないか。彼らも必死にで自分たちの将来を切り開こうとしてここに集まっているのに、どういうつもりだ!!」という言葉から始まり、延々とS藤社長を怒鳴り散らしたらしい。その話を聞きながらS藤社長は、この会社はもう自分がいなくても大丈夫だ、この男に任せていれば自分以上に会社を大切にして伸ばしてくれるだろうと判断して、社長の座を譲ったのだった。

 大変悲しい報告をしなくてはいけないのだが、まったくもって美談ではあるのだが、この時のS藤会長の判断は間違っていたことが、その後、およそ20年後に判明するのだ。いやー、久しぶりに書いたら何やら熱血会社物語みたいになってしまったが、研修はまだまだこれからである。続編を待ってちょんまげ。

スポンサーサイト

コメント

今更なんですが

何故、宮崎が支社なのか?という疑問が解けましたw

北関東から東北にかけて、当時の社員も沢山いるはずですが、どうされているのでしょうか。

無事でいる事を祈るばかりです。

N沢部長どてらいですなあ。。この決闘はまだ70年代なかば位ですか。しかし手に汗握る大長編になってきた。。

あれ、知らなかったっけ?

この「宮崎支店屋上の決闘」は、たぶんワタクシは数百回は聞いているので、zappy君も30回くらいは聞いてると思ったんだが。本当は宮崎が出来て、次に鹿児島が出来るときにやはりちょっとしたエピソードがあったらしい。つまり宮崎の所長だったT岡さんと鹿児島の所長になったH田さんとの確執だけど、こっちはあまり面白くないのでカットしました。しかし、まあいろいろ思い出すものだなぁ。

「どてらい奴」というよりは「どですかでん」とでも

言いたいような鬼社長でした(入社して3年いや5年くらいまでは)。もう、なんだかロックの話書くより、このシリーズ書いてる方が面白いというか、ああ、オレの企業人生活はロックだったな、とつくづく思う次第で(笑)。もうこうなりゃdrac-ob版「大菩薩峠」というか、「青春の門、ただしほとんど女っ気なし」とかそういう感じでだらだらと続けていこうと。しかし、研修2日目の話は全然進んでおらんが大丈夫かワタクシ??
非公開コメント

プロフィール

drac ob

Author:drac ob
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

FC2カウンター

現在の閲覧者数:

QRコード

QR

鳩時計

フリーエリア

ブログ内検索