ワタクシと北関東(JEP)の出会い プロローグ

 昨日、ズトさんからもらったコメントに「茨城、栃木の話」を聞きたいとあったので何か面白い話はなかったかと記憶を辿って行ったのだが、なにせ四半世紀ほど前のことで、しかもそのころはまだ最初の会社でシホン主義とは何たるものかというのをたたきこまれていた時期で、要するに平のペーペーなのはいいけど、僕自身も20代半ばの頃なのでまだまだ青臭くてとても人様に話せるような時代ではないのだが、よくよく考えてみると拙blogの基本テーマは70年代の総括という部分もあるので(ホンマかいな?)、毎度おなじみの「馬鹿と恥知らずは承知の上(by Pantax’s World)」で思い出した話を後先考えずに書いてみたい。

 で、いつの話から書こうかと迷ったのだが、僕と北関東の出会いは正確には最初の会社に入った翌年の1月、あ、違うか、茨城弁丸出しのM田部長が宮崎に来てぶいぶい言ったのが最初だけど、まあ会社から長期出張で行かされたのが83年の1月だった。どうして長期出張になったかというと、原因は僕のミーティングの発言であった。当時勤めていた会社は教育産業というか、カメラやコピーでおなじみのリ■―が開発したマイ・ティーチャーという教育機器の販売とアフター・フォローがメインの営業会社だった。早い話がセールス会社ですな。で、その販売方法というのが実にオーソドックスな訪問販売というやつでした。大学を忸怩たる思いで中退し、胃を全摘出した父親があまり長くはないだろうと思い、その元気な間にそれまでの親不孝の罪滅ぼしで3年ほど堅気の仕事をして、ほとぼりが冷めたら関西にカムバックして、また一発あてたろかの山っ気商売というかイベントやミニコミなんかの運動にかかわろうと思っていたワタクシでしたが、80年代当時というのは今と良く似て就職氷河期の時代で、ろくな求人が無くて新聞に『海外の音楽や出版物を広く紹介する仕事です」とあったので、面接に行ってみたらやたら広い事務所にたくさんの電話があり数人のスーツ姿の社員がなにやらせわしげに電話で話していて、小耳を挟んで聞いているとどうも電話で見込み客を探し、その客を事務所に呼んで来たら帰さず何時間も話しを続け相手が根負けしてハンコ押すまで離さない、えーと、どこかで聞いたような商売、あ、豊田商事だ、みたいな会社だったり、面接のときにいきなり適性検査と心理検査をやられて「あなたはずいぶん攻撃的な性格ですね」と温厚が服を着て歩いているとか、別館の孔子と呼ばれた(わけない罠)僕の自尊心を痛く傷つける金融会社(初めてのア■ムというキャッチコピーでおなじみだった)だとか、まあ、ろくな会社はなかった。

 というか、良く考えてみたらあの時代に大学6年行って、揚句は中退している身元の怪しい学生上がりの就職希望者(僕のことだ、わははは)に碌な就職先はなかったというのはこれまた歴史の必然であった。ではどうやって最初の会社にもぐりこんだかというと、まあ公務員試験は全然勉強してなかったのであっさり落ちて(いまだに覚えているのは市役所の試験を受けたら「米寿とは何か、説明せよ」という問題があって、恥ずかしながら当時24歳のワタクシ「米寿」なるものをデンデン知らず、「アメリカがことぶきぃ?ふざけるんじゃねーよ、アメリカ帝国主義には断固反対、反米愛国じゃボケェ、とはいっても中曽根支持じゃねーぞ、クラッシュだぞ、あいむそーぼあーどうぃずざゆーえすえー、やぞ」などと考えていたから、そりゃ試験には通りません。残念ながら当時はまだ携帯を持ってなかったので、写真にとってメールで転送しYahoo!の知恵袋に相談するなんて手法は思いつかなかった。というか携帯電話どころか自動車電話すら普及する前の時代の話だ。あ、自動車電話なんていっても今日日の若いもんは知らないか。車の運転席と助手席の間の、シフトレバーのあるあたりにデンと鎮座していた自動車電話。あれが中小企業の経営者のステータスだった時代があったんだよ。

 えー、てなわけで市役所、県庁と公務員試験は落ちて、もっとも当人は公務員になる気はさらさらなく、これはいわば親へのアリバイで、実は拘束時間が短くて給料のいい会社になんとかもぐりこみ3年ほどの間は関西でその手の活動をしていた故M原君が見つけてくるニュー・ウェーブのバンドのシングルを地元のレコード店に置いてもらうとか、社会人のサークルを作ろうとか考えていた。しかしながらこれと思う会社に面接に行ってもなかなか条件が合わず(当たり前である)、当時の新卒の給料が12万くらいの時代にやたら景気よく20万とか25万なんて歌ってある会社はどれもいかがわしく、さすがにちと困ったなと考え込みながら82年の正月の地元新聞を眺めていた時、「新年にはばたく地元企業」(くそ、騙されたと思ってるからいまだに当時の新聞の見出しが目に浮かぶ、フレーズ間違いありません。1982年1月3日の新聞です)、てのが目に入った。

 そこには昔からよく名前を聞く地元企業の求人募集の記事がずらりとあって、その中に、えええいどうせもう倒産してなくなった会社なので実名バクロシリーズで行くが「日本教育企画株式会社」というのがあった。「ほう、『教育』を『企画』するのか、いわゆる筑波中教審路線を踏襲して、はいはい、あんたが大将とやっておけばエイントチャウ」などという姑息な考えと、初任給11.5万円という堅実な提示。うん、これはしっかりした固い会社かもしれんと思い、早速履歴書したためて郵送した。正月休み明けに、その会社から電話が入り、面接の日程だったが「本社の人事部の担当が宮崎に来るのが2月初めなので、そのころ又電話します」みたいなことだった。え、なに、本社の人事部やて、これ結構当たりちゃいます、意外と大手の会社かもしれん、いや、こいつあ春から、あ、縁起がいいわ~チョン、チョン、チョンなどと見栄を切っているうちに2月になり、その会社からまた電話が入り、面接は人事部の担当者の都合がつかなくなり、代わりに常務取締役が2月11日建国記念日に宮崎入りするので、その日の午後はどうかと連絡があった。僕は「建国記念の日」を「建国記念日」という無神経さがちょっと気になったが(仮にも『教育』を『企画』する会社が、文部省の産学共同路線を支持しなければならないはずのシホン主義の手先企業がそういう間違いをしたらあかんのと違うかと思いつつ、物は考えようで「建国記念の日」フンサイ面接総決起大会と位置付けるのもいいのではないかと思い、1も2もなく「あ、はい、日時はそちらにお任せします」などとやや卑屈な返事をして面接の日を待った。

 その頃は僕はまだ車の免許を持たず(実は田舎に帰って昼間アルバイトしながら夜、自動車学校に通ったのだが、指導教官の「オイ、お前」みたいな口調の、その横柄な指導態度に頭に来て「お前らとは非・和解的存在だ~」などと口走って、ええと早い話が教官と大喧嘩して辞めてしまったのだ。前払いしたお金は戻ってこないし、当然免許は取れないし、大学は辞めるは自動車学校は辞めるは、オレはこれでいいのだろうかとさすがに2,3日はくよくよしたが、まあ何とかなるだろう主義で乗り切った。しかしながら人生は短気を起こすと何ともならないと分かったのは最近で、さすがに最近はかっとなってなんでもかんでも辞めることはなくなった、こともないか、雀百まで踊り忘れず、ってのはけだし名言である)、確かバスでその会社の入っているビルに向かった。

 雑居ビルの最上階にその会社はあり、エレベータを降りた最後のどんづまりのドアに社名が今思えばカッティング・シートで貼ってあった。ノックして入るとウナギの寝床みたいな細長い事務所の中ほどに応接のソファがあり、そこに背は低いがふっくらとした30過ぎの男性が笑顔で立っていた。「××君ですね」と僕のフル・ネームが呼ばれソファに腰を掛けるよう言われ面接が始まった。それまでにいろんな会社の面接を受けてきたが、どこの会社もだいたい15分か長くて20分くらい、それまでの略歴と志望動機、自己の性格と長所短所あたりを聞かれてハイさよならというパターンだったが、その会社は違った。僕のことなど全然聞かずに、自分たちの会社がいかに素晴らしく夢あふれて志をおなじにする若者が集い共に成長する場所であるか、またその会社をリードする社長がいかに立派な人物であるか延々と30分ほど聞かされた。これは洗脳セミナーではないか、などと思わなかったな。何故ならまだ当時は洗脳セミナーなる単語は市民権を得てなかった。どっちかというと民■のオルグとか原理のオルグに似ているなんてぼんやり考えながら聞いていた。

 「…、でどう思いますか」と突然質問された。ややぼんやり聞いていた僕は質問を聞きもらし「すいません、もう一度お願いします」と聞きなおしたら、「わが社には営業部門、指導部門、企画部門、経理部門と大きく4つの部門がありますが、××さんはどの部門を希望しますか」ともう一度たずねられた。即座に「企画部門を希望します」と答えたら「どうして」とカウンター・クェスチョンが入り、そこで僕は学生時代にさまざまなイベントの企画をしたこと、ミニコミなどの編集も経験があること、さらにあることないこと、まあ僕ほど企画という仕事に向いてる人間はいません、わははは、良かったですね、御社も、みたいなことを景気よくしゃべったと思う。得意満面だった僕に対して、面接官はぽつりと「分かりました。企画で採用ということで人事部に伝えます。あ、もちろん××さんには企画をやってもらいますが、一番最初はまず営業部に所属してもらいます。これはわが社の決まりで社長も一介の営業マンからスタートした会社なんですよ。営業を経験した方が企画に幅が出ますから」。というような話でおよそ1時間ちょっとの面接が終了した。柔らかいソファでもそれだけの時間座っているとお尻が痛くなるという経験をその時はじめてした。

 えー、ここまで来て疲れてしまいました。話はまだまだこれからだというのに、もう瞼はClose To The Edgeです。続編にご期待ください。ああ、北関東にはいったいいつ行けるのだろうか。それよりも「企画で採用」という一言に舞い上がったdrac-ob青年がシホン主義の洗礼を受けて血の涙と小便を流す次回にご期待ください、って安っぽいドラマのフレーズみたいだっちゅうの。えー、動画は話とでんでん関係ないのですが、最後にClose To The Edgeなんて書いたもんだから急にイエスが聴きたくなり、反米愛国つながりで「アメリカ」を、ってつながってねーし。



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コメント

R教育機器に

私とD大あ法学部同期の男が 就職しました。
彼の話は今までのコメントには書いてませんが、
JEPさん関係のエントリーを見ると 彼を思い出しておりました。
ギターとイラストのうまい男で、私は、何回か そいつの
居住先(勤務先)であった名古屋まで 遊びに行ってました。
残念ですが、13年位前から 年賀状も RETURN TO SENDERみつお 
音信不通、所在不明です。
R教育機器は、社名変更(子会社化)になったみたいで、
その時に人員整理に引っかかったのか 自ら環境を変えようとして、
転職、転居したのかもしれませんが 真相は不明です。
共通の友人も同じ状況で 急に音信不通になったと言っております。
実家の電話番号は、かなり前に 赤の他人名義となり 全く手詰まりです。
どこかで 元気でいてくれたらいいのだけど。

私の初任給は 112,000円でした。高卒女子が
100,000円を切る位だったかな。年月の差はありますが、
地方にある営業所ってのを考慮すると、
JEPさんは まあまあの水準だったのかもしれませんね。
続編で語られるのでしょうけど、主力商品供給先だった
R教育機器の子会社化で 方針が変わり 
皆さんが 職を変わらざるをえなくなったのでしょうか?
そうだと 罪な話ですね。

なんと、K平先輩からR教育機器の名が

登場するとは夢にも思いませんでした。JEP関連の話はキャンプネタくらいしか受けないだろうと思ってまして、今回のエントリーは誰も反応しないだろうけど、とりあえず北関東に出会うまでは続けてみるかという例によって当てのないバカ話なんですが。

そうですか、僕が知ってる範囲ではR教育機器はRエレメックスという会社に吸収されて教育機器は製造中止、月刊のペーパー教材を中心にしたメーカーになり、その下の販社がずいぶん大変だったようです。僕のいたJEPはR教育機器の販社のグループのトップになったあたりからおかしくなり最終的には倒産しました。沈む船からはみんな逃げていくのですが、僕はそれを潔しとせず最後までいましたが悲惨なものでした。その後当時の上司の作った会社に入るのですが、そこでの劣悪な労働条件とおどろおどろしい社長と社員の愛憎劇に愛想が尽きて飛び出して大きく人生が変わりました。てか、そのあたりからまともなレールに戻れなくなったのかな。

まあ、そんな暗い話は書いても面白くないので、このシリーズは世間知らずのアホが会社という社会にもまれて、シホン主義のなんたるかを叩きこまれ、それまで持っていた夢や理想を徹底して叩き壊されるという、やっぱ暗くて悲惨な話になるな、orz...

良くも悪くも

僕にとって転機となった会社でありました。

たらればを言い出せばキリが無いのでしょうが、JEPに入社しなければ、当然、今の仕事もしていなかったでしょうし。

まぁ、当時のエグイ話も、今となっては良い酒の肴ですから(笑)

集団就職でした。なんちて。

なかなかリアルな展開ですなあ。
82年というとぼくはH立の関連会社で、三鷹にいたと思います。
その会社には高知からの集団就職で、、、ってのはオーバーですけど、
ぼくの高校からは2名入社したですよ。それは79年ですが。
そのころは就職難というほどでもなかったとは思いますわ。

てか続編に期待しますわ。

あと民■のオルグって言葉で思い出したんですが、
その会社に入社してすぐの御殿場研修で、
民■には気を付けてほしい的阿内容の講義をきき、
思想的な話にわりかし唖然としたです。
そういう時代だったのかなあと。。

あ、Americaどうもどうも。
元Yes Fan Club~Yes Family Fan Club出身デス笑

やはり、共通の苦しみや悩みっていうか

しんどい時期を共有していたから、それなにりみんな思い入れがあり、ああ、あの時はこうだったななんて酒の肴に出来るわけだな。もっとも、あのキャンプに絶対参加してほしくない人たちもいるのは事実だけど(笑)。僕としては昔話でみんなで盛り上がるのもいいけど、それぞれのメンバーの「アフターJEPストーリー」をじっくり聞きたいのだが、どうも酒が入ると暴れて奥方に注意されるやつが出たりして、落ち着いて話を聞けないんだな(笑)。

まあ、この続きをぼちぼち書いていきますが、JEP人事部の必殺ダマシトークもアップしますので乞うご期待。

H立といいますと茨城県は日立市にある

あの大手の製作所ですか、ってイニシャルになってないっちゅうの(笑)。

実は、あの日立市で営業していた時に旦那さんの職業を聞くと、どこの家も「ニッセイ」なんて答えるから、「ふーん、日立の人は日本生命に勤めてるケースが多いんだな」などとトンデモナイことを考えていました。その後「ニッセイ=日立製作所」と分かったときのワタクシの怒りは「あほんだらぁ、日立製作所なら『ヒセイ』になるんと違うか、ひせい、ヒセイ、ヒーセッド・シーセッド、ん、そりゃミュージック・ライフの読者投稿欄の名前やないけ~」。

まあ、当時はミンが結構のさばってましたからね、とりわけ社会人の間では。アパートに一人暮らししてると必ず、ミンの人かソウカの人が来て勧誘していくってパターンありました。「バカハタ、とってください」か「ヒューマン・リボルーション、ためになるよ」かどっちかのパターン。その後うざく出てきたのがゲンちゃん系の珍味売り、ああ、書いてて鬱陶しい。

>この続きをぼちぼち書いていきますが、JEP人事部の必殺ダマシトークもアップしますので乞うご期待。

楽しみにしております(^^ゞ

さとうさん、このエントリーも

4年前に書いたっきりで、そのままになっています(笑)。何かきっかけがあれば、また続編(どこから続いているか本人も良く分かりませんが)をアップしていきます。気長にお付き合いください。
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