ワタクシと麻雀の出会い メイビーその1

 この間アップした別館グルメ日記は、まさしく羊頭狗肉というかいったいどこがグルメやちゅーてんねん、という突っ込みが入ってもおかしくない内容であったが心優しき拙blogの来訪者の皆様はにっこり笑って許してくれた。それどころか、ズートホンロロさんにいたっては、ご本人は全く麻雀などという亡国遊戯には興味関心などなく、もし身近にそのようなバクチにうつつを抜かしている人間がいれば「やめておきなさい、バクチは身を持ち崩します。それ以上に真面目に働こうという意欲を失わせます。人間額に汗して働いてナンボです。サイコロ転がしたり、タイル(えーと麻雀パイのことをイングリッシュではタイルといいます。まあ品も風情もない紅毛碧眼人のいいそうな表現ですが)をがちゃがちゃ混ぜて『あ、トイ7、ね、じゃ対面からえーと、おい、チョンチョンしろよ、ドラ何?え、字牌か、なんで俺が親の時はチューチャンパイがドラにならないんだよ』などと文句をいうような人間になったらおしまいですぅ。サンデー先生もいつもおっしゃるでしょう。良い大人になるためにさあ勉強なさい、って」と、もう何だか支離滅裂な話になりそうな予感があるのだが、なんといっても書いていて楽しいし、自分でも意外なことを思い出したりするので、誰がなんといおうと続編というか、前回途中で終わっていた話を続けるのだ。

 で、前回どういう終わり方をしていたかと思って読み直してみたら、松乃家の紹介のところで終わっている。しかし、そこから話をつなげるのもなんとなくシラコイ(白々しいというのを「シラコイ」とか「シロコイ」と70年代後半僕たちは言ってました。あれは単なる別館流行語だったのか、それとも関西流行語だったのか、今となっては調べようがないがいずれは僕の言語学のフィールド・ワークとしてチャレンジしたいな、なんてとりあえずいっちゃったりなんかしたりして~と何だか妙にハイテンションである)ので、話の行きがかり上「私と麻雀の出会い」というテーマでとりあえず話を進めてみる。

 私と麻雀の出会いはいったいいつだったか。それは間違いなく高校時代である。高校1年の時に同じクラスになった友人が家庭麻雀をしていて、その彼のところに麻雀牌があったので、あるとき遊びにいったついでにルールを教わって何回かやった。もっとも手役など全然分からず、要するにセブンブリッジとおんなじやり方、頭(正確には雀頭という。ドラが頭だと核雀頭なんていってたっけ、要するに核弾頭のシャレですな)で同じものを2枚、あとは3枚一組でこれは同じマーク(いわゆるマンズ、ピンズ、ソウズってやつ)だと数字の順列、つまり123とか345とか連続しているか、同じ数字か文字(いわゆる東南西北白發中-トンナンシャーペーハクハツチュンと発音していただきたい)が3枚あればそれでワンセット。で、誰かが捨てた牌で上がるか、自分の持ってきた牌(要するに自模ってきた牌)で上がれるという程度である。

 リーチも何も知らなかったし、大体点棒の数え方すら知らなかった。それでもあるとき中学時代の同級生がインターハイで宮崎に来て、旅館に泊まっていたので陣中見舞いを兼ねてジャン牌を持っていき一緒にゲームをしたことがあった。その時はすでに麻雀のルールを知っているのも中にいて、点棒を分けてさっさと初めて、当然そういうやつだから自模ってから切るのも早く、こちらは両手を使っていろいろ考えてやってるもんだから文句を言われるし、リーチなんて知らなくて「何でこいつは牌を横に置くんだろう、整理整頓のできないやつだ」などと考えて、いらない牌を切ったら「ローン。マンガーン」などと言われて、マンガンとは何だ。水兵リーベ、僕の船に出てくるやつだったっけ。そうそう、原子番号が25で元素記号はMnだったよな、この間の化学の試験に過マンガン酸カリウムって言葉が出て来なくて、あやうく赤点になりそうだったよな、などと回想していたら見回りに来た教師に見つかり、殴られたが牌は友達の借り物なのでなんとかお目こぼしをと頼み込んで釈放してもらったなどということもあった。で、話はそれるがお目こぼしという単語は関西方面ではヒワイな単語と間違われやすいので、あまり使わない方がいいと思う。

 そういうことがあってから、心を入れ替えた僕はそれなりに受験勉強もして、大学に入るまでは麻雀とは縁を切っていたのだが、75年春に晴れて大学に入学し修学院に下宿してからライフオブ麻雀がイン・ザ・ビギニングなんですわ。えーと、修学院の下宿は建物が2棟あって、僕が住んでいた母屋というか大家さんの自宅と棟続きの方には大学生が、そして通路を挟んで西側にあった建物には予備校生が住んでいた。もともとは予備校生だけの下宿だったのだが、僕が入学した75年にちょうどその下宿から大学に入った人がいたり、大家さんの知り合い関係から頼まれた大学生が下宿することになり、ちょうど棟も2棟あるからかたや大学生用もう一方を予備校生用にしたらしい。

 もっとも、大学生と言っても入ったばかりの若僧ばかりだったし予備校生の方には堂々の2浪の人もいて、どっちかというと予備校生たちのほうが元気が良かった。その修学院の下宿の大家さんは本業がアパート経営であるのだが、もうひとつ仕事を持っていてそれは四条にある飲食店の経営であった。僕は直接入ったことはなかったが西洋軒(もうたぶん無くなってると思うので実名バクロシリーズでいく)というそのネーミングからしてちょっと野暮ったい大衆食堂みたいなところだったらしい。しかし、偉い大家さんで親元を離れて学問を修めに来ている学生たちにせめて四季折々の食事をということだったのだろうか、赤飯やちらし寿司それから竹の子ご飯なんかをおすそわけしてもらうことが結構あった。

 で、その下宿に入って間もないころ、やはり同じ屋根の下で暮らすわけだからということで大家さんが入居者を集めて食事会を開いてくれた。母屋の和室二間の襖を取り払い、総勢20人近くの若者が缶ジュースとちらし寿司とお菓子を目の前に置いて、それぞれ自己紹介をしたり雑談したり、まあ照れくさいものではあったが、そのイベントがあって隣の棟の予備校生とも親しくなった。そうそう、僕は宮崎は日本のフロリダなのでぜひ一度遊びに来てほしい、宮崎に来たクラプトンがその景色の素晴らしさに感動して「メインライン・フロリダ」を作ったなどと適当なことを言ったけど、当然相手にされなかったというか、クラプトンの『461』を聴いたことのない連中ばかりだった。

 さて、ここで僕はひとつの疑問があるのだが、大学生と予備校生はどちらが勉強をするか。なんでー、そんなの予備校生に決まってらぁなんて人生の表層しか見れない人は拙blogにはいないものと確信する。大学生は遊びほうけるけど予備校生はしっかり勉強するやろなんて安易な答えではないのだ。正解はどちらもしない、ではあるのだが、僕の下宿の一部の予備校生は本当に勉強しなかった。いや、みんなではない。74年からその下宿にいた人たち、つまり大学に入れなかった2浪した人たちは全員真剣に勉強するのだが、75年に新しく入ってきた予備校生たちがカスであった。しかもそいつら全員福井県出身、わずか2名なんだが、こいつらが良貨を駆逐した。リンゴを腐らせた。一体全体何をしたのか。下宿に麻雀を流行らせたのである。

 もう今では名前をはっきり覚えていないのでここでは少年A(いや、顔と声ははっきり覚えている。あのちょっとイントネーションが詰まったような福井弁でしゃべる奴だった。「~でしょう」という時のイントネーションが妙に尻上がり寿だったんだ)としておくが、こいつが麻雀のハンドブックを持ち込み、まだそういうものにウブだった予備校生達を集めて、ついでに僕も声をかけられて夜中に「次の待ちはなんでしょう」とか「この手はどんな役を目指すべきでしょうか」とかしょーもないレクチャーしよるんよ。あれ、ちょっと待てよ、その時すでに下宿には麻雀牌が存在したな。あれは、誰が…。あ。オレや。大学入ったら堂々と麻雀が出来ると思って、早速おもちゃ屋さんに行ったら紙の麻雀牌しかなくて、あ、だからカードになってるやつで電車の中なんかで出来るんだけど、それだとやはり臨場感がないので、質屋にいって質流れのジャン牌を確か2000円で、つまりLPレコード1枚分の金額で買ってきたのがオレだった。ということはオレも共犯か。共同共謀正犯である。手を下したのとおんなじだ。と、ここまで書いて、いやー、我ながらしょうもないことをよく思い出すな、でも僕が麻雀と真に出会うのはこの後なのだ。そしてそこから別館グルメ日記につながるのだ。というところで、本当はミカバンドの「ファンキーマージャン」をアップしたかったけど、見つけたのはコピーバンドだったのでほかにないかなと思って探したら竹中のがあったので、それをどうぞ。



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コメント

ちらし寿司と缶ジュースとお菓子、、泣けるう~。ぼくは18で上京して日立系の会社の寮にはいったんですけど(横浜市戸塚)九州の大分出身の人がふたりいて2人ともかなり仲良くなったのを思い出しましたよ。ひとりは「あんた、スピーチうまいんやんか。なんなこんひと」とか方言丸出し(ちゃんと再現されてないと思われ、、)で面白かった思い出。もうひとりは太宰好きで上京してすぐ神保町いって太宰の本ばかり8000円分くらい買いこんで、、すごい頭切れるやつでしたわ。九州の人多かったような気がします。。
それから小金井に配属されて、寮も変わってそこで麻雀を悪友に教えてもらった。。
461オーシャンブルーバードは高校の時だったか友人宅できいてえらい真剣にききこんだ。いましか聴けないって気分できいていたです。もう何十年もきいてないけど聴いたらすぐ思い出しそう。。

何だかこのころの話っていうのは

ぐずぐずですけど、書いていて楽しいというかいろんなことを思い出したり、あ、あの時の会話にはこういう意味があったのかとか、ああ、あの時にああいう行動を取ってなければどうなっていたんだろうとか、でも結局オレの人生、いくらやり直してもどうせ着くのは地獄、せめてそれが極楽ならば俺たちゃ飢えなくて済むだろう、パラシュート革命~といつの間にかZKの歌になってしまったりするくらい、楽しくてやめられないとまらないのエビセン状態です。

>ちゃんと再現されてないと思われ、、

ですね。大分弁はちょっと専門外(笑)ですが、「あんた、スピーチうまかねぇ、なしてそげんうまかと?」みたいな感じではなかったかと我思う、ゆえに我ありです。大分は宮崎との隣接している佐伯や別府くらいまでだと何とか言葉分かるんですが、ミッド大分はちょっと、ですね。

本題から外れたコメントですが

昨晩、DRACプチ同窓会をしている夢を見ました。
登場人物は、Y田部長、U村女史、I上、N田。
すべて想像上の老け方をしており 夢と気付かず
長い間 夢に入り込んでおりました。
すべて、消息のわからない、連絡も付かない人達であり 
深層心理に 彼らが気になっていたのでしょうか。
実際に 彼らに会う可能性は ONE IN A MILLIONだと思うと 
起きてから一抹の寂しさを 感じたことでした。
今年も 新たなDRAC関連の出会いがあると いいのだけれど。

いや、もともと本題なんてないっすから

ご自由にコメントして頂いて結構です、というかコメント頂くと更新しようという意欲につながりますので、懐かしいバカ話、ネタ、大歓迎です。実は「実録F田敏雄伝」という話を考えているのですが、彼を知らないほとんどの人からネタだ、作り話だと言われるのが怖くて、まだアップできません。本当にこういう男だったんだ、というかそれどころやなかったんや(笑)。

K平さんのコメント読んで、レス書かずに寝た罰でしょうか、僕もDRACの夢を見ましたが82年くらいの、会社の休みを利用して遊びに行った時のメンバーしか出て来ず、しかもほとんどが名前を覚えていない後輩ばかりで、しいていえばsugarmountain君がいたくらいでした。

I上さんは85,6年くらいに熊本の事務所にいたとき、偶然久留米の電話帳があって確かあの人の実家は長門石の旅館だったよなと当てずっぽうで探したら番号があり、おそるおそる電話して出て来た女性に「つかぬことを伺いますがご主人はD大の経済学部のご出身では?」と尋ねたらビンゴ。頭に乗って「髪にちりちりパーマかけて、ちょっとスケベったらしい髭生やしてませんか」と言いそうになりました(笑)。

で、その週の休日を利用して遊びに行きその後何度かお邪魔したのですが、I上さんの転勤と僕の転勤が重なり、以来情報が途絶えたままです。mixiに同姓同名の人がいたのでメールしたけど返事がありませんでした。

>今年も 新たなDRAC関連の出会いがあると いいのだけれど

ですね、検索で引っかかるよう何とか更新を続けたいと思います。しかし、F田とS戸の消息が分からないかなぁ…。

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