帰ってきたフォークソング・クロニクル

 突然思い出す過去の悪行というものがある。いや、あるのではないか。少なくとも僕は結構たくさんある。人間の記憶というのは曖昧なもので、自分の都合の悪いことは簡単に忘れたり、都合よく脚色してくれたりする。なんだか回りくどい表現だが、実はこの週末に、なぎらと坂崎の「フォーク喫茶ジャンボリー」という、91年にWOWWOWで放送されたという番組をYOU TUBEで見ていたときだ。なぎらが武蔵野たんぽぽ団の名前の由来から、当時のフォークのミュージシャン達がいかに貧乏だったかという話をしたのだが、その話を聞いていて、「あ、オレも同じ事をした、いやさせられた」と突如記憶が蘇ったのだ。とりあえず、その動画を先ず貼っておく。5分23秒あたりから、その話が始まります。



 流石にラーメンの麺だけをパクったことはないが、配達のトラックがお店の前に置いてあったパンを箱ごと失敬したことは、ある。それは修学院時代、尊敬する副幹事長のS賀さんの命令であった。当時、僕は麻雀を覚えたばかりでしょっちゅう徹夜で麻雀をしていた。俗に言う徹マンである。この徹マンという言葉には麻雀以外の意味があるらしいが、僕は寡聞にして知らない。どなたか詳しい方はご教示いただけないだろうか。などという、シーモンのネタは止めて、その徹マンをやっていたときの話だ。あ、その前に時代背景を説明しておかないと話が見えないかもしれない。70年代半ばの京都には、まだコンビニはなかった。正確に言うとLAWSON’Sはあった。確か高野にあった。もっともその頃のイメージは夜11時くらいまでやっているスーパーマーケットという印象であった。何しろ、精肉コーナーがあり、そこでバイトしていた同じ下宿の友人にハムを安くで分けてもらった記憶がある。あ、話がどんどん見えないか。いえね、コンビニが無かった時代というのは夜11時過ぎるとパンやラーメンを買いに行けるお店など無く、カップヌードルの自動販売機もそんなにあちこちにはなく、部屋に食べ物の買い置きをしておかないと深夜おなかが減っても朝の6時くらいにならないと食べ物は手に入らなかったのだ。ん、6時、随分早いなと思われたかもしれないが、当時の先天性労働者(by スターリン)は働き者で、朝、鶏の声と同時に起きてそのまま店を開くというところが多かったのだ。S見酒店のお兄ちゃん元気ですか。毎日前掛けをして仕入れや接客してましたね。今ではもう立派な跡取りになってらっしゃることでしょう。

 で、そのパンの話なんですが、例によって修学院の僕の下宿でDRACのメンバーが徹マンしていたわけだ。メンバーはちょっと記憶に怪しいが、一乗寺に住んでいたS賀さん、同じ修学院に住んでいたI上さん、もうひとりは多分F田君かS戸君のどちらかだったと思う。大体僕の下宿で徹マンするときというのは、サークルで研究会をやり、それが終わると同時に室町今出川にあったグリーンという雀荘(30卓近くあり、かなり広かった。周囲の腕自慢があちこちたむろしていたし、フリーで打ちに来るメンバーも結構いた。その大規模雀荘のおばちゃんに毎度毎度「明日も来てや」と言われ続けバカ正直に日参したのは僕です)で夜10時までやって、当時京都の風営法は厳しくて雀荘でアルコールはダメだったし、夜は10時で店じまいだった。中には組合入ってないもぐりの店もあり、オールナイトも出来たようだが、ジャン代もバカにならないので夜は誰かの下宿に転がり込んで徹マンをした。

 で、室町今出川から出町柳までてくてく歩き、そこから京福に乗り修学院の僕の下宿へ向かったわけだ。ついでだから修学院の駅を降りてからの道のりも書いておくと、プラザ修学院という小さいアーケードを通って白川通りに出て、信号の変わるのを待ち左手にあるサン・ルイという何故かカレーのルーが白い喫茶店の横を通って坂を上ると、お好み焼きやがあって、右手にS見酒店が見えてくる。で、そのS見酒店のほうに行くと見せかけて、その手前の道を右に入り2本筋を過ぎて右に曲がり路地の奥の右側に僕の住んでいた下宿があった。大家さんの名前を取ってN井荘といってたような気がする。

 10時過ぎにグリーンを出てエイデンで修学院まで戻ったから、多分11時前くらいのはずだが、その時間から僕の部屋ではしょっちゅう麻雀をしていた。最初は多少周囲に気を使って毛布をかぶせて牌を混ぜたり伏せ牌というやり方で音を立てないようにしているが1時を過ぎたあたりからは誰かが必ず熱くなり、周囲など気にせずガラガラ音を立ててシーパイ(牌を混ぜること)するやつが出てきて、僕も麻雀の音隠しにステレオをでレコードかけたりFMかけたりしていたので、当時の下宿生には大いに迷惑をかけたいただろう。いや、一番迷惑かけたのは大家さんだな。それでもこの下宿には2年間お世話になった。

 徹マンも1時過ぎくらいになるとどうしてもおなかがすくので、その時間帯になると屋台のラーメンにラーメン食べに行った。50代くらいの夫婦と高校生くらいの息子とやっていたその屋台は、値段の割りにとても美味しくていつも客で一杯だった。冬場は修学院は雪が良く積もるのだが、そんな日でも日曜・祭日以外は必ず開けているお店だった。深夜そのラーメン屋に集まるのは僕らのように麻雀やってる連中か、お酒を飲んでる連中、またなかには某革新党派の青年部隊などがいた。あるときここで某政党の青年同盟の諸君と鉢合わせになり、僕は大人しくしていたのだが生憎この手の論争が3度のメシより大好きというT原さんもいたので、なんだかんだと言い合いになり、屋台に迷惑かけるといけないからと近くの空き地に行き、小一時間は論争しただろうか、最終的に僕たちは論破したと思い、相手は基地の外の人間とは関わったら危ないと思ったのか矛を収めて撤収した、なんてこともあったっけ。そういや、毎度毎度このお店に来て「おばちゃん、オレ芥川賞取ったらゼッタイこの店のこと書くから」と言ってたK大の文学部の男はどうしているだろうか。芥川賞は取れたのだろうか。あ、ちなみにこのラーメン屋さん、当時は萬来軒と丼に書いてありましたが、後の天々有です。

 えーと、話が全然訳分からなくなりましたが、まあまあ、当時1回生の僕が2回生のI上さんと3回生のS賀さんと一緒に徹マンして、朝方の5時くらいになったときでした。みんな深夜にラーメン並ニンニク入りを食べたはずなのに、若さというのは恐ろしくエネルギーを消耗するもので、みんながみんな腹が減って何か食べたいといい始めました。しかし、僕の部屋に食べ物などあるはずも無く、何度も書くけど当時はコンビニなどなく、あと1時間以上しないと近所のお店も空かないのでひたすら空腹を我慢するしかないという極限状況の中、S賀さんが重々しく口を開いた。

 「みんな腹が減ってるな。オレもまだ1回生のときにこれと同じ経験をしたことがあってな。当時の下宿で先輩と麻雀していたときの話や。朝方どうしても腹が減って溜まらん。みんな腹に力が入らず麻雀もできん。どうしようかと迷っていたら友達が『オイ。S賀。ちょっと来い』っていうんや。こういうときは黙ってついていくのが男の道や。オレはそいつのあとをついて部屋を出た。下宿の外に出るとそいつはオレの部屋にあった大きな袋を持っていて先を歩いていく。しばらく歩くとパン屋の前に出た。その閉ざされたシャッターの前に何やら箱が沢山ある。その一番上の箱の蓋を開けるとそこにはたくさんのパンが落ちていた」

 「え、いや、S賀さん、それ落ちてたんじゃなくて、置いてあったんとちがう。配達の人が…」「黙ってきけ。オレも仮にも法学部や。窃盗が犯罪やということはよく知ってる。しかし前途有望な若者が空腹をかかえて部屋で待ってるんや。オレは心の中で店のおっちゃんに『かんにんな、かんにんな』と手をあわせながら友達の持ってきた袋に入るだけパンを詰めた。部屋に戻ったらみんな大喜びや。で、みんなでパンを食べた後一人がこういった。『パンだけやと喉に詰まるな。そろそろ牛乳が落ちてる頃ちゃうか』。そらごもっともな話や、そこで今度はメンバー変えてパン屋行かせたら、もう店が開いててな、店のオッチャンたちが何やら大騒ぎしてる。『どないしました』って聞いたら、パンドロボウが出たらしいって。いやー、物騒な世の中なりましたな、いうて…」

 このようなお話を先輩からされたら、義を見てせざるは勇無きなり、という言葉が浮かんできて僕も…。偕老同穴という言葉も浮かんで…。いや、そういうことを思い出してしまったというおそまつ。で、最後にオマケの動画貼っときます。




スポンサーサイト

コメント

そういや

清友荘から烏丸通りに出とこにあるパン屋にも、朝よくパンが落ちてましたわ。

誰かと思ったら、塩川さんでしたか

砂糖山名義だと、何かと都合が悪いときはこのHNがよろしいな。しかし、あれやね、70年代後半の京都は至る所にパンが落ちていたんだな…。ま、しかしパンで良かった。そのうちオネーチャンが落ちてたなんて言い出す奴も出てきそうだが。
非公開コメント

プロフィール

drac ob

Author:drac ob
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

FC2カウンター

現在の閲覧者数:

QRコード

QR

鳩時計

フリーエリア

ブログ内検索