どうでもいいような昔話 その2 香港乱闘編

てめ、だれに断って写真なんか撮るんだよ、といいたげなアホ面
 いやー、いかんいかん。つい先ほどSAWYER先輩のblogを読んでいたら、K平先輩のコメントのレスに僕の「DRAC興亡史1975-1980」のことが書いてあり、75年以降のDRACの話が「いつも途中で方向がままならなくなってしまい、(笑)いつになることやら・・・」とあきれられておりました。僕の悪い癖で、一つのことに集中できないというか、あきっぽいというか、あれもやろう、これもやろうで手を広げ、そうこうするうちに収拾がつかなくなり全部オシャカになるという、いつものパターン。なんとかせねばならんと思いながらも、よく考えてみたら先月アップした海外旅行の話も本当に書きたかった落ちまでいっておらず全くの中途半端であった。とりあえず、それを片付けてから再度「DRAC興亡史1975-1980」にとりかかろう。ただ今日「ヤングな僕のぽっぷす・なう」用のネタ思いついたんだけど…。

 で、前回書いた話の続きですが、飛行機は無事香港の空港に着陸。機内ではあれほど親しげに会話を交わしたすっちゅわーですのオネーサンたちは、「あれはあくまで営業用、降りたあんたはただの人」的なつれなさで、「ありがとうございました」と見送ってくれただけで、誰一人電話番号を書いたメモ用紙をくれなかった。当たり前だ。で、香港に着いた我々一行は現地ガイドに案内されてそのまま市内観光。写真は最初に連れて行かれたタイガーバームガーデン。スーツ姿で表情はうかがえないが相当僕はイライラしていたと思う。一つには前日の寝不足のせいでもあるが、初めての海外に浮かれている周りの連中を見ていると、なんだかこのまま会社に取り込まれそうで、つまり飴としての海外旅行に対してそんなものに恩義を感じて会社のイデオロギーに染まってたまるかという、根っからのひねくれ根性(俗にパンクスピリッツなどともいいます、ってカッコつけてんじゃねーよ)がそういう態度をとらせたのだろう。それと、現地のガイドのしつこい説明と同行したカメラマンがすきあらばカメラのシャッターを切るのも気に食わなかった。僕は昔から写真を撮られるのが嫌いだったのだ。この性格は最近ようやく改善されつつあるが、何がトラウマなのか、写真撮るのは好きだけど撮られるのは嫌なのだ。

 それとさっきタイガーバームガーデンの情報を調べようとしたら、なんと2000年で閉鎖されていた。コミュニスト・チャイナ(by JAPAN)の陰謀である。違うか。で、タイガーバームガーデンで印象に残っているものは何も無い。なんだか訳のわからない軟膏みたいなものを売りつけられただけだ。あちこち歩いていろんな景色を見たはずだが全然残っていない。その後バスでホテルに移動した。ホテルの名前は覚えていないが、やたら天井が高く部屋が薄暗かったことだけははっきり覚えている。お昼は機内食を結構食べたのだが、夕食まで時間があり、ちょっと小腹も減ってきた。会社の仲間も同じように腹が減ったという。こういうときに目端の利く人間はいるもので、H高さんという先輩社員がホテルの傍にマクドがあるという。それじゃ、皆でマクド行こうということになった。自慢ではないが僕は英文科出身である。そのためそのとき一緒にいった連中は困ったときは僕が何とかしてくれると思っている。口に出しては言わないが態度でそれがわかる。なんせたかが米帝のハンバーガーショップなのにみんな僕の後ろについてくるのだ。

 店に入り、カウンターのオネーチャンに「FISH&COKE」と言ってドル札をだした。あ、香港ドルね。むこうは「イッショニぽてとモドウデスカ、びっぐまっく、イマダケいちどる」みたいなこと言ってるが、当然スルーである。お前らの「ついでにこれもどうですか」商法に嵌ってたまるか。バカ野郎、こうみえても士族の出だ。なんでもかんでも金に物言わせて買い捲るエコノミック・アニマルだと思うな。などと、やはり初めての海外で緊張していたのだろうか、妙に肩に力が入ってトレイを受け取った。テーブルに着こうとしたら、背中を叩かれた。見ると一緒にいった連中が適当に注文していると思ったのだが、何も注文しておらず「drac-obさん、僕もおんなじの頼んでください」とか「オレはチーズバーガーとアイスコーヒーと…」などと注文を僕に言わせようとしていた。めんどくさいのでウェイトレスに、僕のトレイを指差し「SAME,SAME」といったので、みんなフィレオフィッシュとコーラという、いかにも日本人的な食べるものは皆一緒がいいよね的なおやつの時間になってしまった。

 それからどうしたかここでも記憶がない。夕食はホテルで食べたと思う。とにかくその日は疲れて部屋で寝ていたら(ツインの部屋で確か同室だったのはナベちゃんだったと思う)、夜中の12時過ぎに電話が鳴った。寝ぼけた頭で受話器をとったら、今回の九州組みの中で唯一の管理職のM崎さんからだった。「何すか、もう爆睡してたんですけど」というと「もうすぐ関東の会社の人たちと社長が到着するので出迎えしろ」という。もう真夜中ですがな、そんな殺生なといったものの聞き入れられず、更に私服はダメ、スーツ・ネクタイの正装でロビーに下りろと命令された。しかも他の部屋の連絡も僕がするようにと言われ、しぶしぶ各部屋にコールして全員に10分後ロビー集合を言い渡した。

 ロビーのソファにもたれていがいがした喉にタバコの煙を満たしていたら、賑やかな一団が入ってきた。社長と関東の本社や各営業所の所長や営業マンたちである。みんな「だっぺ、だっぺ」といっていた。「なんだ九州の連中、はやいんでねえの、おまえらごちゃだから仕事しねーで香港に来たんだっぺ」、「おお、お前がdrac-obか、おめーは最初の月だけだったな、売り上げえがったのは、後半なにやってたんだ。どうせ、どっかの山の中で昼寝でもしてたんだべ」みたいなことを耳元で喚かれ、しかも彼らは親愛の情を示しているつもりかもしれないが、茨城の言葉になれない僕にとっては悪口以外のなにものでもなかった。「てやんでぇ、こちとら眠い中、お前らを出迎えるためにわざわざスーツに着替えて降りてきたんじゃねえか。お前の○○に割り箸つっこんでいてもたろか、ボケェ」などと心の中で毒づきながらも、そこはそれシホン主義社会で揉まれた営業スマイルで軽くダッキングして「いや、もう、参ったなぁ。そんなにきついこと言わないでくださいよ」などとゴマをすりまくってやった。心は所ジョージである。「すんごいですね~」といってりゃ、波風たたないんだ、この手のことは。
2日目、マカオにて。金太マカオに着く、さ、大声で言ってみよう!
 2日目はマカオに水中翼船に乗っていくことになっていた。今、考えてみると当時は香港、マカオとも植民地だったのだ。正しく20世紀の遺物だったのだ。マカオでは写真のような建物に行った。何とかと説明受けたのだがすっかり忘れてしまい、今ネットで調べたら聖ラザロ教会ではないかと思うのだが、自信は無い。マカオではカジノに行った。スロットやルーレットなんかやってるトーシロが多かったが、阿佐田哲也理論で武装した僕は一目散にバカラで勝負し、一攫千金を目指したが額に汗して働くことの大事さを忘れないように、わざと負けた。と、日記には書いておこう。というところで、すいません、眠くなりました。この後中国の中山県で孫文記念館を見学し、人民公社にも行けるという話だったが、何故か急遽近くの農村に行ってそこで強烈な体験をするのを僕はまだ知らない。しかし、エントリーの落ちの話はそこからまだ先の香港最後の夜のレストランで発生した事件だということは、多分誰も知らないだろう。そうそう、次回は拙blogに珍しく、可憐な中国女性が登場します。乞うご期待、ってこんな話誰が読むんだ、いったい。
スポンサーサイト

コメント

ハワイで見た グレート東郷の謎

1980年夏 一回目にハワイに行ったとき、バスで 往年の悪役レスラー、グレート東郷がやっている土産物屋と言う所に連れて行かれました。サングラスの男が バスに乗り込んできて、運転手の横に立ち、「俺がグレート東郷だ。憶えてるか?・・・」風の事を しゃべりました。写真も撮ったのですが、後ろの席だったため、5MM位にしか写ってません。日本プロレス界から去って久しい上に サングラス姿なので、顔ははっきりとわかりませんでしたけど、背格好からして 素直に本人と信じました。1990年(二回目)に ハワイに行ったときは、そこには、行きませんでした。他の土産物屋で、店員のおばあちゃんに 「1980年に来た時、グレート東郷の土産物屋に行ったんですが ・・・」と言ったら 「あの人は、何年か前に 亡くなったよ。」と言われました。それで、私の中では、(1980年に グレート東郷の土産物屋に行ったけど、1990年になる前に 彼は亡くなった。)で ずっと記憶されておりました。
ところが、昨年 NHK教育TV「知るを楽しむ」で 森達也氏が 悪役レスラー「グレート東郷」を取り上げたのを観たら 何と、グレート東郷は、1973年(昭和48年)12月に ロスで 亡くなったと言うではありませんか。 「私が1980年に見た グレート東郷と名乗ったあの男は、どこの誰だったのだ?」と、まるで「ジャッカルの日」の最後の クロード・ルベル警視状態に なりました。おそらくは、偽者が、ハワイで グレート東郷と名乗り、土産物屋をやっていたけど、ばれることなく続き、地元の人も 本物だと信じていたと言うことなのでしょうが、あの世に行く前に 真相を知っておきたいです。

東郷ブラザーズ

ハワイ出身の日系人レスラーといえばハロルド坂田がいますが、デビュー当時グレート東郷の弟というギミックでトシ東郷と名乗っていたそうです。
82年7月ホノルルで亡くなったというので時期的には合いますが……007シリーズにも出演した有名人ですから、晩年に故郷で土産屋をやってたというのはちょっと考えにくい。
http://www.showapuroresu.com/jap/nikkei.htm

村松友視の短編小説「七人のトーゴー」にヒントがあるかもしれませんが、未読なのでなんとも。

大学の初日

初めて大学の学生宿舎に入った日に初めて聞いた茨城弁にはびっくりしました。とんでもない所に来た。ここは、関東ではない。南東北なのだと確信しました。そして、ここは陸の孤島の収容所なのだと・・・・。

見た男は

それほど大きくなく、170CMちょい位に思えました。ハロルド坂田の線も考えましたが、体格(背)が違うし、顔のまんまる具合も違ったような気がします。ビッグネームなのだから そのままハロルド坂田と名乗ればいいでしょうから 坂田では なかったでしょうね。かくた様、アドバイスありがとうございました。

グ、グレート東郷の乱入だぁ!!

まとめレスですいません。

>K平さん

そうですか、80年のハワイでグレート東郷に会いましたか。僕も以前森達也の「悪役レスラーは笑う」を読んで、グレート東郷の不思議な魅力に惹かれました。しかし、73年に死んだ東郷の名前をどうどうと語って、しかも他の土産物屋にもその名が知れているというのはどういうことなんでしょうか。単純に考えて、いわゆるそっくりさんがやっていたお店で、ハワイでも名物だったということでしょうか。

しかし、今もそうかもしれませんが旅行会社と土産物屋のタイアップというのはうんざりしますね。グァムに行ったときに、会社の上司がポルノショップに行きたいと言い出して、タクシーで一緒に行ったら店のオババに見るだけはノー、必ず買えといわれ、タクシーの運ちゃんに助けを求めると完全スルーされたことを思い出しました。

>かくたさん

ハロルド坂田説も面白かったのですが、K平さんの指摘の通り違ったようですね。ブラバスのプロレス本は大抵読んだ記憶があるのですが、東郷のものは僕も未読です。古本屋で探してみようっと。

>陸の孤島の収容所

の割には結構大学時代の話を喜々としてしていたような希ガス…。

まあ、あの茨城弁ってのは強烈だったな。特に茨教の人達は、日本全国どこでも茨城弁だったし…。M田部長やT部次長なんか、歩く茨城弁だったぞ。そうそう、「容易でない」という表現も茨城ならではだったっけ。
非公開コメント

プロフィール

drac ob

Author:drac ob
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

FC2カウンター

現在の閲覧者数:

QRコード

QR

鳩時計

フリーエリア

ブログ内検索