嬉しいメールのお話 たぶんその1

 どうしようか、止めとこうかとためらいがあったのだが、とりあえず書いてしまう。太田竜が亡くなった。えーと、太田竜といっても、誰ですかという声が聞こえてきそうだが、一時期は「世界革命浪人」とか「ゲバリスタ」などという、なんというのか肩書きでもない、キャッチコピーとでもいえばいいのか、代名詞なんて言い方がいいのかな、よく分からんがある意味で一世を風靡した人ではあった(ま、カタギの人にはあまり関係ない)。僕は個人的には全然関心はなかったが、まあ、蛇の道はヘビというか、その手のハナシのときに名前が挙がったりしたことはあった。もっともある時から、「人類独裁の打倒によるゴキブリの解放・ネズミの解放・ミミズの解放を!」などといい始めて、呉智英あたりから激しくおちょくられたりしていた。

 しかし3バカゲバリスタなどと言われていたが、竹中労も消えて、太田竜も亡くなった今、平岡正明はどんな気持ちでいるだろうか。この前読んだ「昭和マンガ家伝説」はなかなか面白かったので、マンガについて何か書くときはネタにしようと思っている。などといったハナシは、もうほとんどの人が関心もなく、おそらくこの部分に反応するのは拙ブログの常連のあの人とあの人くらいだろう。

 というような、わけの分からないイントロでしたが、このところ仕事が忙しくてエントリーもゆっくり書けなかった。先週末から今週半ばにかけて、結構話の種になるようなことも多かったのだが、落着いてキーボードに向かう暇がなかったのだ。それと、その間嬉しいメールを何通か頂いて、その返事を書いたり、返事は書いてないけど下書きをちょこちょこ書いたりして、はっと気がつくと零時をとっくに回っているなんて日が続いた。それで、今日のエントリーはここ最近の嬉しかったメールを紹介しつつ近況報告をするか、ということになりました。

 最初に紹介するのは僕が最初に入った会社の上司で、学生気分の抜けない僕を叱咤激励しなんとかシホン主義社会に適応できるよう鍛えてくれた人だ。ずいぶん以前に一度エントリーに書いたこともある。苗字がちょっと珍しくT岡さんという(これじゃわかんねーだろ、って)。当時の会社は結構スパルタで朝早くから夜遅くまで営業、それもグループセールスなどという、原始的な営業方法をとっていたので、それまで乳母日傘で育ってきた僕には見るものも聞くものも全て驚きの連続であった。それでも、毎朝「ハイオアシスをはっきり言おう!!『ハイッ』、『イイエッ』、『おはようございます』、『ありがとうございます』、『失礼します』、『すいませんでした』」などと絶叫したものだ。ちなみに二重カギカッコのところは全員で声を揃えて叫ぶのだ(この挨拶があまりに声が大きかったため、当時のテナントビルの隣の会社のジジィが怒鳴り込んできたことがあった。いわく「オレは文筆業だから、お前らの大声聞くと筆が止まるっ!!」。聞いたこちらは「ふざけるな、こちとら花の営業だから、朝から気合いれねーとダメなんだよ」などとは言わず、素直にごめんなさいしたのも懐かしい)。

 去年の暮れに、その当時の会社のメンバーが毎年キャンプしているのを知り、初めて参加したのだが、その際にT岡さん(本人は参加してなかった)のPCのアドレスを、誰かから教えてもらい、メールしたのだがそれっきりになっていた。ところが先日、地元紙を読んでいたらT岡という名前が飛び込んできて、「ん」と思って見ると、T岡さんのご長男のことが書いてあった。え、あの小さかったノリ君がもう30歳か、とびっくりして読むと、なにやら作文が表彰されたようなことが書いてあった。T岡さんの携帯と僕の携帯が同じ会社なので、すぐおめでとうメールを送った。打ち返しはなかったが、数日後こんなメールが届いた。

お疲れ様です。
drac-ob君も元気でバリバリ?頑張っている様子で、何よりです。
O君より風の便りは届いていましたが、いつぞや最初メール
貰った時は、古い初期iMacのキーボード不具合(故障)で返信
不可で今日に至ってしまいました。仕方なく、買い替えた次第
です。

先日携帯にメール貰う前に、drac-ob君を彷佛させる出来事が起き
ました。忌野清志郎氏の訃報です。周知の通りだと思います。
飲みに行って酔うと、声を張り上げて忌野清志郎の歌をいつも
歌っていたdrac-ob君の姿が、つい先日の様に目に浮かびます。
drac-ob君の青春時代だよなぁ。きっと、drac-ob君は落ち込んでいる
だろうな。と思いながら、励ましメールでも打とうかと、過日
下書きメール文を用意・保存していたら、先日「新聞記事を見
て」とメール貰ったから、落ち込んでいないのだろうかと思い
つつ、本日発信します。


 えーと、もうしょうがないのでいつまでも清志郎のことは「なかったこと」にせずに、事実を認めるしかないのだが、しかし、そうですか、僕は若い頃酔っ払ったら清志郎の歌を「声を張り上げて」歌っていたのですか。知らなかった。そうそう、このT岡さんにはサラリーマンのお酒の飲み方とカラオケを教えてもらった。当時、僕はカラオケってやつが大嫌いだった。なぜかと言うと歌える歌が無いというのが一番の理由で、二番目は歌が下手だからだ(謙遜だよ、謙遜、上手くはないが味があるとよく言われたもんだ、え、それは「お世辞」ってもんですか、ハイ、すいませんでした)。で、カラオケなんだが、当時というと80年代初めですが、カラオケはまだ8トラ(今の若いのは知ってるかな、馬鹿でかいカセットテープみたいなやつだ)の時代で、画面に文字は出てこず、歌詞の書いてある本(歌本なんていってたかな、あ、それは今も同じか)、を右手に、左手にマイクを持ってオヤジが演歌をうなるなんてのがほとんどだった。

 僕は演歌が全然ダメで、もちろんカラオケなどというものは音楽とは関係ないオヤジのおもちゃだという認識でいたから、会社に入って誰もが歌わされるのを見て「ふざけんじゃねーよ」と毎回思っていた。しかし、同年代の連中は口ではなんだかんだ言いながら、結構上手く歌うのだ。ニック・ニューサを十八番にしているやつもいたな。ところで、僕は演歌全然歌えないので、無伴奏でビートルズナンバーをがなったりしていた。スナックなどでは、他の客から顰蹙をかっていたもんだ。そうそう、最初の年の社員旅行のバスでもみんなが演歌を歌うので頭にきて、社長が同じバスに乗っているのも忘れてINUの「おっさんとおばはん」を絶叫してしまった。♪地下鉄の中で滅茶苦茶腹立つおっさんとおばはん 後生大事に己の手足を愛おしげにヨタヨタ いつまでたってもおまえのアソコのスレイプ そんなん言うても兄ちゃん 俺何も悪いことしてへんやんけ こない見えてもな嫌や子供に不自由させてへんのじゃ ハハハ おまえらと一緒にすな、このたにし! すべてが終わった後で何が残るか俺は知らない×2 俺はおまえを正確にやる×4。

 バスから降りるなり社長から「今の歌はなんだ、みんなが楽しもうとしている社員旅行で歌う歌か!!」と怒られた。パンクスの怒りを理解できない、頭の不自由なジジィだと思ったが、首になると困るので一応反省のポーズをとった。

 あらあら、ハナシはまだ全然始まらないのに、ヒアカムザスイマー様です。すまん、続きは必ず書くので今日はここまで。そうそう予告編を貼っておきます。



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コメント

「あの人とあの人くらい」って

僕一人かと思ってましたが他にもいるんですか(笑)。

ま、細かい話は後日。
めんどくさいから書かないかも。
太田竜だしねぇ(笑)。

ちなみに全然関係ありませんが
元中大ブント・叛旗派幹部だったペンネーム三上治ってオッサンは
うちの会社の元役員です。
知名度ある人なんですか。
私は会社に入るまで知りませんでしたが。

>頭の不自由なジジィ

これはヒドイ(苦笑)

にしても、T岡さんがマック使いだとは思いませんでした。

日本原住民史

太田竜はクロカンと並び称される活動家でした。しかし小生は、太田竜が八切止夫史観から多大な影響を受けたことを知り、一時八切を読みふけったことがあります。ちなみに、ヘルメットの色は黒でしたから多大な誤解を受けた覚えがあります。オカルチックなところも散見されますが、矢切と太田は
一つの真実を語っているように思われます。

太田竜(陰謀論では太田龍)といえば、わたしとしては「ユダヤ陰謀論者」のほうがピンと来ます。と学会のトンデモ本の世界シリーズではしょっちゅうネタにされてました。しかし、健康食とかやっていても、腹膜炎なんかで死じゃうんですね。
エコエコ言うヤツにはロクなヤツがいねえ、の代表みたいな人でしたね。

私もカラオケが嫌いで、最初に入った会社では絶対にカラオケでは歌わなかったなあ。アカペラで、当時流行ったマンガのオリジナルアルバムでのお気に入りを歌ったり。パタリロのフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンやら誰も知らんて。
あと、居直って「ソーラン節」を歌ったり。
さすがにストラングラーズは歌わんかったぞ。

最近はカラオケもアニソンや洋楽が充実しているので、身内で行く分には楽しいです。

歌は下手でしたが、カラオケは好きでした

宴会的なカラオケには 長い間 行ってませんねえ。
YELLOW MONKEYのBURNが流行ってた頃 BURNを歌ったのが 
最後だと思います。
一昨年 家族で 温泉のカラオケルームで歌ったことは あります。
私は 上條恒彦「だれかが風の中で」他を歌いました。
確かに 以前よりは こんな曲も載ってるの?と 曲が 多くなった気がします。
昔の 映像無し時代には、スナックとかも 歌いたい曲が なかなか無かったけど、
それより ひどかったのが、drac-obさん、黒木燐さんと同じく、バスの中でした。
私も 曲リストに無い歌を無伴奏で歌って、どっチラケの反応をされた事があります。
そう言えば、昭和の時代のバス旅行では、バスガイドさんが、特に ご当地ソング、
函館なら「函館の女」、高知なら「南国土佐を後にして」とか歌うのが慣例でしたが、
平成になってからは、歌うバスガイドさんに当たった事が無いですね。
THE TIMES THEY ARE A-CHANGING でしょうか。
カラオケにまつわる 一番の思い出は、平成7年1月14日(土)に行った時です。
あの年は、15(日)が成人の日、翌16(月)が 振替休日でした。
宴会の延長で 梅田阪急東通のカラオケで 歌いました。
大人数だったので、氷室京介とXの二曲しか歌えませんでしたが、
ワイワイガヤガヤと それなりに楽しみ、深夜に解散しました。
ところが、その三日後、17日(火)未明に 阪神・淡路大震災発生。
当時 住んでいた賃貸マンションは、倒壊はしなかったものの 隣室との壁 損壊、
冷蔵庫以外の家具が 全て倒れ、レコード、CDの一部破損、オーディオ、TV、
ケースから出していたマーチンD-18も破損でした。物は景気良く壊れましたが、
一階に住んでたにもかかわらず、マンションが倒壊せず、
倒れた家財から受けた打撲、擦傷のみですんだのは、ラッキーでした。
カラオケに行ったメンバーにも 亡くなった人がいなくて よかったです。
数日前の馬鹿騒ぎと 震災後の重苦しい雰囲気との 落差が 変な感じでした。

三上治って再建社学同の人ですね

僕たちの年代でも、もう歴史年表の人というイメージですが流石に名前だけは知っています。関西でもうちの大学はどっちかというとアカ軍シンパが多かったので、あまり好意的に語られることはなかったような気がします。

しかし予想外に太田竜に反応があってビックリしました。細かい話、楽しみにしています。

いやいや、当時は僕もまだ若くて

何もしらない若者だったので、エスタブリッシュメントは全て敵だなどととんがっておったのですよ。もっとも、まともな社会人になれるかどうか心配でしたが、今ではこんなに立派な…、中年パンクスになっております。

T岡さんのマックはなんとなく判るような気がします。昔、鹿児島の営業所にいち早くカシオのワープロ(今考えたらオモチャみたいな代物ですが、当時はスゲェーと驚いてました)なんか持って来てたしね。

そういえばキミは関西の社員旅行のときにディスコキング(笑)になったらしいが…。

黒いヘルメットといえば

77年にD大の自治会を握っていた全学闘を放逐したT寮の諸君が一時期黒をかぶっておりました。自治会のヘゲモニーを握るや否や赤ヘルに変わりましたが…。

などと昔話はさておき、クロカンという名前も久しぶりに聞きましたが、当時はそういうイメージだったんでしょうか。YOU TUBEに9.11陰謀論を語る太田竜の映像がありましたが、いやー、人間変わるもんだとつくづく感じました。

そうか、燐さんからすると

トンデモ親父のイメージしかありませんか。ま、どっちにしろエキセントリックな人であったのは間違いないですね。

カラオケって当時は本当に苦痛でした。楽しんで歌ったことなんかなかったような気がします。僕は無伴奏で歌うか、場合によってはアジテーションを絶叫して周囲を煙に巻くという必殺技を持っていました。今考えると、はた迷惑だったろうな。

いやはや凄い体験ですね

一歩間違えれば確実にあの世行きだったかも知れなかったわけですか。やはり人生いろんなことがありますよね。自分のドツボばかりを嘆いてしまいますが、人それぞれ大変な思いをして今に至ってるわけですから、生きてるだけで儲け物と思わないといかんな。

しかし♪どーこかで、だーれかがきっと待っていてくれる~というのを家族の前で歌うというのはちょっと勇気がいるような気がします(笑)。そういえば家族でカラオケしばらくいってないな…。

>ディスコキング(笑)

いや、ホント勘弁してください(苦笑)

ディスコキング

実は私、狙ってたんですが・・・・
あの時、本社の女の子のK地さんが大きな声で私の名前を呼んでいた記憶があるのですが・・・

そうですか、勘弁してほしいとのことですか

では、別の恥話をアップしましょう。いえ、ネタは沢山あるので、どういうのがお好みでしょうか?

なんて、嫌がらせはもう卒業したから安心したまへ(笑)。

実はあのディスコパーティのときは

僕は、大学時代の後輩の家に遊びに行って参加していないのだ。全社員強制参加のイベントだったが、滅多にあえない後輩連中と学生時代のバカ話やるほうが楽しいに決まってるから、どさくさ紛れにゲルニを決めたのだ。

ディスコキングの話はzappy君の同期のG藤君から聞きました。もっともzappy君も若い頃は天文館のディスコをブイブイ言わせていたと聞いたけどな(笑)。あ、それとも喜入のディスコだったっけ(爆笑)。

横から失礼

まぁ、神戸っ子なんで横から失礼。

阪神大震災当日は、東京から偶然帰省していたんですよ。しかも、中学の同級生のやってた飲み屋で朝の3時頃まで大酒飲んでタクシーで三宮から帰って、実家で寝込んですぐでしたね。はじめは、酒の酔いなのか、本物なのかさっぱり判りませんでしたが、第2波が来て本当だと判りました。驚愕狼狽している女房を尻目に、まだ酔いの残る頭で、「大丈夫だ。この家は2バイ4工法だから壊れんよ。寝とけ」と言い捨てて、昼まで寝てましたわw まぁ、あそこまで酷い状況とは思いませんでしたね。

太田だの黒カンだのといわれても、私も燐さん同様、トンデモな人にしか見えませんわ。正直言って、ああいうのに騙されてた人たちの気持ちがさっぱり判らんw

カラオケで演歌

会社がらみの宴会でカラオケで演歌歌う人、いなくなったなあ。。。10年ぐらい前だとロック歌った日には怒られたもんですが。
しょうがないから「星降る街角」とか波長が合うものはレパートリーにしました
カラオケ自体、行かなくなったんですけど、行くと中高年はフォーク・ニューミュージックですね。20年ぐらい前は演歌か軍歌でしたよ(苦笑)。アラフォーだととにかく「尾崎尾崎ボウイ(群馬出身者のほうですよ)ボウイ聖子聖子明菜おニャン子」で延々なんてこともあるし。。
若い連中は「フォーク・ニューミュージック、あと80年代もの」、心底馬鹿にしてるんだろうな。まあ、俺もあれとあれは嫌いだな(笑)、でも見てろよ、君らの好きな歌だって中学生にしたら、「古っ」で終わりなんだからと思ったり。

>ユダヤ陰謀

よくわからないですが、この辺とかフリーなんたらとか、右の人だったら今をときめくタなんとかさんとその師匠の渡部なんとかみたいに「コミンテルン」とかなんでも陰謀論作って「俺が悪いんじゃない、嵌められたんだよ」みたいな思考の人って基本ネッコがつながってると思います。同類項、って言うか。

でも昔の先輩とのやりとりが復活してるのってなんかいいなあ、うらやましいです。

大地震のさなか昼まで寝ていたとは

流石に豪快なbarrett_hutter さんらしいエピソードですが、その後は大変だったと思います。このエントリーに書いた会社に居た頃、大阪から宮崎にUターンした人が短い期間ですが社員として入りました。幼稚園くらいのお子さんがいるとのことですが、あの震災を経験してからはどんなに小さな地震であっても凄く怖がるという話をしていました。今、ふと思い出した話です。

このエントリーの続きを下書きしているのですが、丁度昨日買った新書の「新左翼とロスジェネ」に関連する話も出てきて、ちょっと戸惑っています。時代だったんだと片付けるのは嫌なんで、どうしようかな。

おお、演歌のジャンピンジャックフラッシュ!!

ワンツーの掛け声がちょっとストーンズっぽい「星降る街角」ですが、京都の祇園でクラブのバイトしてた頃、よく聞きました。一緒にボーイとしてバイトしていた後輩は、客の来る前にカラオケでしょっちゅう歌っていたっけ。O原君、キミのことだ。あの歌はちょっとカラオケ自慢の奴は必ずしょうも無い反復して盛り上げようとするのが大嫌いでした。

それと今思い出した話ですが、このエントリーの会社に勤めている頃、本社のある茨城に呼ばれて、筑波だったか水戸だったか覚えてないけど、とあるカラオケスナックに行ったら、テンガロンハット被った二人組みが来て、それぞれカラオケ1曲ずつ歌ってさっと出て行ったことがありました。

あっけに取られていたら、一緒に行った上司が「あの人たちはカラオケグランプリのチャンピオンと準チャンピオンで、ああしてあちこちのお店を回っているんだ」と説明してくれました。まあ人の趣味ですからいいんですが、そんなにええカッコせんでもええんちゃうというのがそのとき感じたことです。

太田竜の思い出(笑)

というか「太田竜について私が知っている2、3の事情」ですが。

・革共同第1次分裂のとき、それまでの組織情報を公安警察にリークすることで後々の活動資金を得ようとして、黒田寛一と一緒に公衆電話の前までは行ったが、急に怖くなってやめた。
(旧第4インター系の文献には必ず出てくる話)

・Wikipediaに“竹中労・平岡正明らと3バカゲバリスタと呼ばれる仲になり「世界革命浪人」と自称する”とありますがこれは誤り。ゲバリスタ=世界革命浪人だし、命名は太田自身だし、他の2人は太田が著書「革命・情報・認識(よみ・かきのしかた)」て本で一方的にゲバリスタに任命しただけ。
ちなみにゲバリスタ=ゲバラ主義者なんでしょうなあ。サンディニスタ=サンディーノ主義者だし。

・で、私がなんでそんな本を知ってる(というか持ってた)かというと、別冊宝島「知的トレーニングの方法」で紹介されていたから。太田は梅棹忠夫の「知的生産の技術」に触発されてカードを多用してたらしい。それを黒田が批判して「レーニンと同じくノートを使うべきだ」と。今となってはどうでもいい話ですが、当時一般向けの本で紹介されるくらいの知名度はあったんでしょうな、2人とも。

・私の大学時代になんかの選挙に立候補。選挙ポスターの写真は本人ではなく頭に電極を埋め込まれた実験用のサル。「サルが立候補したのか?」と内輪でウケてました。

・太田に多大な影響を受けたと思われる北海道庁爆破事件死刑囚大森某は、今じゃ獄中ですっかり民族派に鞍替え、「北朝鮮の脅威から日本を守れ」とか言ってます。
http://1st.geocities.jp/anpo1945/
滝田修とかピース缶爆弾の牧田吉明とか、極端な奴ほど後に簡単に右翼になっちゃうのはなぜでしょう。

・プロレタリア→アイヌなど被抑圧少数民族→実験動物→ミミズやオケラ(笑)と解放の対象がどんどん小さくなっていくところは、今になって考えると埴谷雄高「死霊」第七章 《最後の審判》みたいだなーと思うのですが、本人そこまで考えてたかどうか。

ご満足いただけましたでしょうか(笑)。

桑名正博「月のあかり」が 大阪のおっさんのカラオケ定番曲だとTVで紹介されたけど・・・

私の周囲で、歌う男は誰もいなかったし、メロディーにも聞き覚えがありませんでした。
でも 桑名の初期のソロLPは 持ってたから あるはずだと、この年末 実家に帰った時に 
レコード棚を探したら有りました。「テキーラムーン」のA面二曲目にありました。
このLPでは、「しらけちまうぜ」しかかけなかったから 憶えてないのです。
そもそもファニーカンパニーは まあ好きだったけど、ソロ以降は 好みではなかったです。
それと、ジャケットが 桑名の上半身裸の写真だったから 余計 嫌だったですね。
もっと驚いたのは、次のLIVE「ロードマシーン」にも入ってます。
このLPも「サードレディ」「しらけちまうぜ」しかかけなかったし、どちらも30年近く聴いてないので、
どんな曲が入っていたのか 全く憶えてませんでした。
改めて聴きなおしてみたら 「振り向くなこの俺を~ この街、出てゆくだけだよ~」 
あれ? どっちがどう出て行くんだよ?と 一瞬わかりませんでした。 
男から 俺はこの街を出て行くと 男の部屋で言われて、女が部屋を出て行ったんだろうけど、
釈然としない歌詞だなあと 言いがかりをつけたくなりました。
個人的には、歌いたくなるほどの歌では ないですね。

心の底からワロタ

ご満足いたしましたっ!
あ~、満腹。もう、ええですわw

桑名正博えらくうまいっすよw

あの人、びっくりするぐらい歌うまいですけど、売れてる時に真面目に仕事してはったら、苦労せんで良かったのにとつくづく思いますわ。アンルイスがえらく売れてしもうたから、面倒臭くなったのですかねぇ?良く判らんですがw

根性の入ったバンド組んで、地味でもええから玄人好みの仕事しはったらええのにね。布施章は、日本のポール・ロジャースやと思いますけど、彼は誰にあたるのでしょうかね?

憂歌団の人と踊るポンポコリンも、男唄とかゆうて出来の良いアルバム出してはるのにねw

まぁ、阪神大震災ネタをひとつふたつ

あの日は、夕方の4時頃に電力が回復したのですが、それが悲惨の始まりでした。倒壊した家屋から漏電火災が発生し、市内の至るところから同時多発的に火災が発生し、消防車が間に合わない状況が発生しました。TVでは、長田の火災のみが繰り返し放映されていましたが、実は六甲道あたりも火災で焼失し、多数の人命が失われました。

私の実家は比較的高台にあるので、港まで屋根裏部屋から見通せるのですが、夕闇の中、市内全域の数十箇所から黒煙が吹き上がり、赤々とした舌が闇の中で踊っていました。それを見た親父が言った言葉が印象的です。「まるで爆撃された時とそっくりの光景だな。あの時も同じように、神戸の街が燃えてた。50年に一度ぐらいは、こういう目にあって、何もかも失うんだな」 今月の始めに四十九日の無事済んだ父親が、燃え上がる神戸の街を、陶然とした目で見ていた姿が忘れられません。

近所の病院ですら震度7の激震でパン・ケーキ倒壊し、入院患者がカーテンにぶらさがって脱出し、押し寄せた患者も家屋や家具の倒壊の圧迫による劇症で、原因すら判らず道端で横死していました。患者を運び込んだ人たちも、呆然としてなすすべもなく、見開いた目でただひたすら凝視するだけでした。

設計強度の計算が余程優れていたのでしょう。激震にもかかわらず、戦前からある電車の共同高架は全く崩れず、市内中心部の戦後に作られた多数の高架は脆くも崩れ去りました。3日後、交通の全く復旧してない市内、共同高架の下を、何故か市バスが走っていたのです。よく見るとそのバスは、運転手以外一人の乗客も乗っていず、白木の棺おけを座席にまで満載していました。

まぁ、そういう話ですわw

ゲバリスタはゲバルト主義者

だと思いますが。3バカゲバリスタという言い方は話の特集だとか、当時の週刊誌にちょくちょく載っていた言い方ですね。

クロカンというとクロスカウンターじゃない(あしたのジョーかっ!)、クロスカントリーを連想する時代ですが、太田とクロカンのそのあたりの話、ほのぼのとして人民の心を和ませるいいエピソードですな(笑)。

「月のあかり」伝説は

僕も聞いたことがあります。大阪人は必ずカラオケで歌う、って何かの番組で自信たっぷりに言ってました。ちなみに小倉の特だねではないことは間違いありません。

桑名は大阪のおっちゃんたちに好かれているというところから発生した都市伝説ではないのでしょうか。僕もファニカンの頃の桑名は好きでしたが、「哀愁トゥナイト」以降の彼はちょっと…。そうそう、「哀愁トゥナイト」は「I Shoot Tonight」ということで一発やったんぞ、という意味だと同級生のN谷君が嬉しそうに話していたことを思い出しました。

先ほどは電話で話が出来て楽しかったです。また何か情報が入ったらお願いします。

まとめレスになりますが、

barrett_hutter さん、まずは父君のご冥福をお祈り申し上げます。闘病生活をされていたことは存じておりましたが…。

震災の話はやはりリアリティがあるというか、体験した人間で無いと分からないと思います。

>50年に一度ぐらいは、こういう目にあって、何もかも失うんだな

この言葉に無常観を感じます。ちょっとバカ話は控えておきます。
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