ある雨の日曜日の情景 ちょっと私小説っぽく

 今日は日曜と祭日の勤労感謝の日が重なっていたが、浮世の義理というか、仕事関係の付き合いで午後からセミナーを受講しに市のホールに行ってきた。あいにくの小雨模様だったが、我が家からホールまでは歩いて10分程度なので、散歩がてらぶらぶら歩いた。市役所に向かう大きな橋を渡りながら、遠くで何か物音が聞こえたような気がしたが、さして気にせずホールへと向かった。80人くらいは入りそうな会議室に集まっていたのは20人くらいの中高年の人達。せっかくの休日に、しかもゴルフ・ファンならば石川遼の逆転優勝のかかったダンロップ・トーナメントの結果が気になりそうな時間帯にセミナーに参加だから、ご苦労なことである。僕もさして真剣ではなかったが、せっかくの機会なのでそれなりに講師の話に耳を傾けていた。そのときである。カーテン越しの窓の外から、何やら怒声らしきものが聞こえてきて、それがえんえんとこだまする。というか、エコーがかかったように反復されるのだ。最初は無視していたが、何度も聞こえてきて、しかも何を言ってるのか聞き取れないのが余計に気になって、必死に耳を傾けたが一体何を喚いているのかとうとう分からなかった。

 おかげでセミナーの最後の10分くらいは、どんな話を講師がしたのか良く分からないままホールを出る羽目になった。ホールを出た途端、騒音の正体が分かった。右翼の街宣車が4、5台道路に停まっており、その拡声器から何やら叫び声が続いていたのだ。スピーカーの能力の限度を超えた音を出していたせいか、一体何を訴えているのかさっぱりわからない。ただ何かに対してひたすら怒っているとしか感じられない。信号待ちの1,2分の間、注視していたが、車は道路に停まったままだ。スピーカー越しの叫び声は続いていたが、誰も車からは降りて来ず、ただ道端に停まっているだけだった。鬱陶しいなと、小声でつぶやき僕は来た方向とは反対に橋を渡り始めた。その橋を渡る途中、大きな声が聞こえた。今度ははっきり聞こえた。彼らはこう叫んでいた。「キョー、サン、トー」「フンサイ」「キョー、サン、トー」「フンサイ」…。

 シュプレヒコールだったのか。やっと会議室で聞いていた音の意味が分かった。しかし、なんであんなに変な音節で区切ってコールするのだろうか。あれでは、何と言ってるのか普通の人には聞き取れないだろうに。それとも、他人に聞かせるためではなく、自分達の意思の再確認として点呼しているのだろうか。だったらどっか人のいないところでやってくれ、などと考えていたら、物凄い音量で軍歌を流しながら装甲車っぽい車が橋を渡ってきた。車体に書いてある文字と車のナンバープレートで福岡からやってきた一団だと分かった。ワゴンの横のドアが開けてあって、そこに腕組みした男が仁王立ちしていた。何を彼は憂いているのだろう。歩いているうちに雨がだんだんひどくなってきた。しかし、なんで今日は右翼の街宣車があちこちに出ているのだろう。家に帰って気が付いた。新嘗祭だった。僕は昔、学生時代に読んだ新嘗祭と天皇家の話を思い出しながら一体何時の間にこんな時代になったのか考えていた。何となく気分が晴れないのは、昨日のインフルエンザの予防接種のせいだろうか。そうだったらいいのだが…。(などと柄にもなくブンガクを気取って書いてみました。いやー、らしくないな)。
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コメント

う~ん、あれはあれで楽な生き方じゃないですかね?

ありゃ、世間に対する威嚇なのでしょうか。無視されるよりは、嫌われ怖れられる方が、やってる本人らは気持ちいいのでしょうか。やっぱり彼等の気持ちは良く判りません。私なんて自分が散々考えたことでも、どこまで正しいやらと常に疑ってしまいますけどね。宗教でもイデオロギーでもいいですけど、何かに依拠することでそういう疑いを持たないで済むというのは、ある意味羨ましいところもありますよね。多分、人生もっと楽になるのじゃないですか?でも、私にはちょっと無理かな。しんどいですけど、どこまでホンマなんやと常に疑い続けてる方が、性分にあってますかね。

うーん

あれは暴走族上がりが多いのではないですかね。
昔、福井県警の本部の近くに勤務&住んでたときは毎日、北陸代理戦争の舞台・芦原や石川の片山津から街宣車がやってきて、警察本部の前を一周して帰っていくんです。厄介でしたね。
福井なんて県は保守的な県で人々も総じて保守的ですが、さすがにああいう右翼には共感はないようで、大家の婆様なんかは「ヤカマシー!」とよく怒ってました。
今となっては懐かしいです。

おっといけない悪い癖

追伸失礼します、しかし右翼の人(うーん、右翼の中にもああいうのは街宣右翼、とか言って軽蔑する人も多いようですから、一緒クタニしてはいけませんが)、そんな雨の中共産党を批難しているヒマがあったら、家か神社で静かに新嘗祭に参加するなり祈るなりすればいいのになあ、そうするのがスジだよなあ。うーん。

楽な生き方だなどというと烈火のごとく怒って

貴様らに何が分かるとでも言われそうですが、いや仰るとおり、ある意味楽な生き方だと思います。僕は彼らを見ると(もっとも街宣車に乗って絶叫しているグループに限りますが)、石井聡互の映画に出てきた小林稔侍を思い出してしまいます。そして大変失礼なことだと思いながらも噴出してしまいます。いやー、「狂い咲きサンダーロード」もう一度見たいな~。YOU TUBEにアップされてるのを見つけて、その断片を見ただけで笑いがこみ上げるくらいだから、フルに見たらお腹がよじれて死んでしまうかもしれません。

ま、おちゃらけはともかく、憂鬱な日曜日でした。

walker bros さん、まとめレスでごめんなさい

やはり「族」上がりの方が多いのでしょうか。「族」の頃だったらマッポ(死語?)に追いかけられてどつかれたけど、装甲車に乗ってるとマッポが誘導してくれるから(傍から見るとそうとしか見えない)、「気分は最高」なのかもしれません。しかし、うるさい。第一スピーカーの音が悪い。まともな音楽やアジを流している街宣車はお目にかかったことがありません。

一概に右翼だからというヘンケンは持っていないつもりですが、しかし「街宣右翼」はうるさいです。まあ凱旋右翼だからでしょうか。民族派の本なんかは結構共感するところあるんですけどね。蟹工船ブームとやらで日共の党員が増えていることに危機感覚えるんでしょうかね。それよりもっと大きな敵がいるだろっての。

何となくナショナリズム

慶応大学の小熊英二が2003年に出した「<癒し>のナショナリズム 草の根保守運動の実証研究」という「新しい歴史教科書をつくる会」を批判分析した本に、面白い引用がでていたので、ちょっとだけコメントしときます。実はこの本、実証研究というにはやや粗い調査内容(調査自体は学部学生の卒論)ですし、その小熊の分析に関しても首を傾げるような点もあるので、私にはあまり面白くなかったのですが、引用されている大塚英志の一文が実に興味深かったですね。以下、「戦後民主主義のリハビリテーション」からの孫引きです。

90年代の半ば、自分たちはアジアの国々から強要された「自虐史観」による教科書によって「誇り」を傷つけられてきた、とある人々が言い出したことをきっかけにこの国ではナショナリズムが「私」捜しと結びつく。教科書を書き直すこと、憲法を書き直すことが「私」の回復になると信じ、そして強い知事、強い首相に「私」を重ね合わせる人々が増えた。「権力」は「私」という個人と対峙するものではなく、不在で脆弱な「私」が同一化する対象となってしまったのがこの十年でこの国に起きた最大の変化だとさえ言える。
 論壇誌はこの十年、”国民運動としての「私」捜し”に奔走し、しかしそこで提供されたことばはといえば、たまたま「左」のことばが社会主義崩壊によって失効した結果として生き延びた「右」のことばでしかない。社会主義国家が崩壊したことは、しかしだからといって「右」の言論の正しさを証明したことには全くならないのである …
… 例えば教科書と憲法を書き換えれば17歳は人を殺さなくなるのか。小泉首相にワイドショーを通じて拍手を送っていれば不況から脱出できるのか。
 そうではない、と冷静に考えれば誰もが判断できるはずだ。それは少年犯罪に困惑し不況に疲れた「私」のその場しのぎの癒しにはなるかもしれないが、問題の解決には全くならない。

要するに、小熊英二も書いてますけど、現代日本の「価値観の揺らぎ」への不安が元になって、「つくる会」のような運動が草の根から自然発生的に生まれてきたという話です。何だか、この辺りは判るような気がします。もっとも、「つくる会」の運動に関わった人たちは、自己認識として「健全な常識」を元にした「中立」の立場から「普通の市民」として運動しているつもりらしいので、街宣右翼には共感なんて微塵もないみたいですけどねw

新しい歴史は大いに作って欲しいのですが

というか、その歴史作りに参加することは厭わないのですが、「教科書」作りに必死こかれてもしょうがないだろと思います。「教科書」などでオルグされるような諸君はどうぞご自由に、とでも言っておきましょうか。ただ「教科書」は何とでも出来ますが、「先生」の考えや思想傾向は、これは子供たちに大きな影響を与えるのは事実ですね。

僕の実体験からですが、中学に入ったときの地理の教科書や地図帳には今の中国は「中共」と表示されており、いわゆる台湾が「中国」と書かれてました。中華「人民」共和国と中華民国の単なる略称ではなく、政治組織の呼び名であることは明らかで、それをはっきりいう先生もいました。いかん、若作りしてるのに歳がバレル。

なんとなく民族主義2

話は飛びますが、私ほぼ1カ月前に田母神前空幕長の例の論文(http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf)を読んで、その論理の幼稚さと陰謀史観に笑ってしまったのですが、いまだに一部では賞賛の声もあるようですね。これって何ですかね?「新しい歴史教科書をつくる会」以来の流れなのでしょうかね。もっとも、この件に関しては石波茂がえらくまともなこと(http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8451.html)を言ってるワケで、これを読んで私は結構安心しましたけどね。

というわけで、drac-obさんはどう思いますかね?

どちらも出てすぐに読んだのですが

まずは「そんなの関係ねぇ」元空将ですが、アパグループなどといういかにも胡散臭い業界のコンクールだかなんだかに投稿していることがそもそも気に入らなかったし、一読して前半に出てくる参考文献が昨日今日流行のネウヨという連中と全く変わらないでは無いか、と思いながらもとりあえず読み終えました。感想?バカにつきあう気も時間もありません。無視です。

石破茂氏のエントリーは、walker brosさんがコメントで「戦争マニアなのと容貌から気持ち悪がられてソンをしているが、それ以外ではまともなことを言っている印象のある石破氏」と指摘されているように、ここでの意見はごもっともと思っています。なんだ、意外といい奴じゃないか、などと思ったりもして…。

で、予断ですが退職金7000万を返却しろとかいろいろ騒がしい中で「生活が苦しいので使わしていただく」という言い草はないだろう。早い話が言葉を知らない人なんだと個人的に納得しました。いや、別に返却する必要はさらさらないけど、お国を守ることにプライド持って何十年も奉仕して、その挙句が「生活が苦しい」んじゃ、「軍人」もやってられないだろうな。だから最後っ屁か。

なんつ~か、私、草の根ナショナリストには呆れてしまうのですけどね

大きな演武会があったのでここ数日ちょっと忙しくて、コメント書くのが遅れちゃいましたけど、またまた話の続きです。

田母神前空幕長を英雄視するような最近の草の根ナショナリストの人たちは、南京大虐殺(敢えてこの言い方をしますが)は全くの虚妄であるとか言ってたりしてますけど、私などこういう人たちには困惑しますわ。というのも、満州あたりではロシア人も国境地帯でさまざまな虐殺事件を起こすわ、中国人も日本人を虐殺する通州事件なんて起こすわ、日本人も中国人を平頂山事件などで虐殺するわと、もう人の命が軽視された滅茶苦茶な時代なのですよ。そういう滅茶苦茶さというのは、戦後に伏せ字を直して出版された石川達三の「生きている兵隊」なんて読むと、あからさまに書いてあって、読んでて頭抱えたくなるわけです。もちろん、胡散臭いプロパガンダを振りまいてる中国政府が主張するように、日本軍が中国人を30万人虐殺したなんて話は全く信用してませんけど、それでも日本軍は何もやってないなんて主張するのは、全く説得力ありませんよね。みんなして虐殺やりまくってるなかで、自分たちだけ綺麗でしたなんて通用するわけないですよ。

もっとも、日本軍が南京で30万人を虐殺したなんて、実は中国人自身も信じてないらしいですよ。金谷譲と林思雲が書いた「中国人と日本人 ホンネの対話」とその続編なんて読むと、あれは中国人と日本人のメンタリティの違いから来る齟齬なんだというのが良く判ります。というのは、中国の庶民は伝統的に官吏に抑圧され続けているいるためか、自分を飾り立てる法螺話の「吹牛」とか「説大話」を日常生活でもさかんにするそうです。これは、一種の夢物語というか娯楽の一種なんですけど、面白いのはそんな法螺話なんて誰も信じてないのに、それを面と向かって指摘することは社会的に忌避されるという習慣があるそうです。つまり、これは中国人が人間関係で非常に重視する価値基準、「面子を立てる」ということに抵触する不作法な行為と感じられるからなのです。それだけではなく、中国では社会統計ですら「説大話」の側面があったりしますから、民衆だけでなく政府ですら「面子を立てる」ために平気で嘘をついたりするわけで、それですら公然の秘密でみんな知ってることだったりします。まぁ、そういうメンタリティーですから、南京大虐殺30万人説というのは共産党の法螺話だと当の中国人も思っているけど、それをあからさまに日本人に指摘されると、彼等は政府の、ひいては中国人全体の「面子が潰された」と感じるらしいのです。ここまでくると私にはもう理解できなくなりますがw

また、「担白従寛、抗拒従厳」(自白すれば寛大な刑に処し、あくまで否認するものには厳格な処罰を与える)という言葉が中国にはあるのですけど、一方、伝統的な中国の法理は「推定有罪」であり、罪を受けて捕らえられたものは自分で無罪の証拠を提出しなければならないそうです。ですから、伝統的に官の立場の異様に強い中国の裁判では、「私は罪を認めます。その罪は万死に値します」とやって、寛大な処分をお願いするというパターンが多いのです。そういうわけで、中国人から見たら、南京大虐殺を起こした日本人は、単にド糞厚かましい「認罪態度の悪い」罪人にしか見えてないらしいのですね。まぁ、結局は近代法理を理解してない前近代的な中国人にも責任の一端はあるものの、それをきちんと説得できない日本人にも同様に責任があるわけです。困ったことに中国研究者の溝口雄三なんて人でも、著書で「南京大虐殺30万人の主張は中国人の怒りである」(要するに、黙って受け入れろということらしいです)なんて、頓珍漢なことを書いちゃうのですが、それもそういう情緒を理解しちゃって何も言えなくなってるのですね。でも、それは日本人の態度として正しいのかと言えば、私はやっぱり間違いだと思うのですよ。飽くまでも、きちんと反論すべきはしなくちゃ駄目だと思いますがね。

せめてこの辺りまで理解してから中国人相手に「それちゃうやろが、この糞ド戯け」って喧嘩売るのならいいですが、最近の政治家も質が落ちたのか知りませんが中山成彬なんてのが「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の会長とかやってたわけでw 宮崎県人のdrac-obさんには悪いですけど、こんな耄碌親爺が矢面立って喧嘩売ったら、日本人全部がアホと中国人に勘違いされますわな。いや、もうちょっと何とかなりませんかねぇ…。

今はベジタリアンとちょいウヨが流行

みたいで、この前家に帰ったらなにやら訳のわからないパンフが置いてあり、子供に聞いたらドアポストに入っていたと。スプリームマスターチンハイとかいうものらしいのですが、イラストの動物達が「私達皆さんのために祈ってます」とか「私達の命を助けてください 皆さんが大好きです」などと吹き出しで喋っていて、いやなんだか気色悪いこと夥しい。エントリーに書こうかと思いましたが、気が重くなってそのままにしています。

などと、ちょっと逸れた話を書きましたがベジも草の根ナショナリスト(ちょいウヨ)も、まあこちらには来ないでね、という感じですな。中国人の感性やその考え方など、ご指摘のとおり、ちょっと理解に苦しむというか、そもそも表現の仕方が異なるというか、ご都合主義的に聞こえることが多くて…。はっきり覚えてないけど「白い猫も黒い猫もネズミを取るのはいい猫だ」とかなんとか、曖昧模糊と言うか問題のすり替えみたいなことを平気で言った政治家もいました。

ラスト5行は笑ってしまいました。中山センセ何やら地下でうごめいてるようですが…。そうそう、宮崎1区は医師会が自民支持を拒否したようです。ま、だからどうなるというものでもないのですが。

小熊英二の草の根ナショナリストへの批判は有効か?

「スプリームマスター チンハイ」とか言うのは知らなかったので、早速Webで調べました。いや、なかなか愉快なかたがたのようでw それはさておき、草の根ナショナリストの話ですけど、「こっちにこないでね」というのは私もそう思います。ですが、私の見るところそういう連中はイデオロギーからああいう主張をしているというよりは、実は単なるちょっと考えの足りない阿呆なのじゃないかと、私は思っています。そうだとしたら、ホンマに困ったことですが、避けてるだけでは無言の承認を与えてると思いかねない難儀さがありますなw そういうわけで、drac-obさんはもうただひたすら面倒臭いのでしょうけど、ああいうのは機会をとらえて批判解体しとかないと、将来に厄災が残ると、私は懸念しているわけでして。

そういう草の根ナショナリストの大元というのが、「新しい歴史教科書をつくる会」なんでしょうね。正直言って、「つくる会」には、私ほとんど興味がなかったので、彼等の言説を全くフォローしてませんし、実際に作られた教科書も読んでないので、あまり多くを語ることはできないと思っています。ただし、私の理解するところでは、そもそも韓国人や中国人などが実証性の全くない偏狭な民族主義を背景とした歴史認識をもって日本の教科書検定に介入しようとしたことへの日本人の嫌悪感が、「つくる会」の運動の背景にあるとみています。ところが、「つくる会」を批判分析した慶応大学の小熊英二にしても、欠落しているのはまさにこの部分で、「つくる会」の民族主義的ポピュリズムは批判するものの、韓国や中国のもっと歪んだ民族主義への批判や言及は一切なく、あたかもそのような事実は無いかのように口を閉ざしているワケでw

彼の「つくる会」を批判した大部の著作「〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性」をまだ読んでないので軽々な批判はできないですが、膨大な資料の読み込みやってるにも関わらず、どうも彼の「つくる会」を批判した言説は「岩波文化人」の範疇を出てないようで、何だか笑ってしまいます。日本では歴史学は実証主義「科学」なんですが、韓国なんて民族の輝かしい歴史を記述する民族派歴史学なんていうド阿呆な学派があったりしますし、中国にしても基本的に共産党の意に沿った歴史観以外認められてないですし、北朝鮮に至っては歴史学は学問ではなく「神話」です。もちろん、そんなことは彼も十分に知っているのでしょう。多分、本人は日本内部だけに極小化することで、巧妙にそこへかかわることを避けられたと思っているのでしょうが、それは分析手法としては論理的に明らかな破綻があります。なぜなら、「つくる会」の運動がどうして日本であれほどの支持を得たのか、そこへの言及なしで説明できるわけがないからです。現に「つくる会」の勝岡寛次は、まさにそういう文脈で2001年に「中国・韓国「歴史教科書」を徹底批判する」という著作を、書いていたりするわけでしてw

まぁ、何故か小熊英二も含めた「左」の方々は、韓国や北朝鮮、中国の抑制のない野放図な民族主義には寛容なようで、私などその思考を理解するのに苦しみますね。少々きついことを書くならば、「<癒し>のナショナリズム」という彼の著作は、少なくとも2003年の時点では、学問の体裁をとった巧妙な詐術だったと言ってもいいとすら思いますよ。いや、彼の初期の著作である「単一民族神話の起源 <日本人>の自画像の系譜」なんて、私かなり高い評価してるのですけどねぇ。

いやいや、なかなか有効な草の根ナショナリストへの批判がなくて、困ったもんだw

歴史の怖さを知らない奴とは

一体どっちか考えもんだね、という頭脳警察のフレーズを思い出しますね。「作る会」の出てきた背景はbarrett_hutter さんが書いているとおり、彼らのいう「特定アジア」からの教科書批判・介入に対する「おまーら、うざいんだよ」的国民感情を拾い上げたものでしょうね。普段歴史だとか検定教科書なんて一切振り返らないサラリーマンまでが「(作る会の教科書は)いい教科書だ」などとのたまっているニュースを良く見聞きしました。

まあ、一番気になるのは事の本質を考えもせず刷り込まれた印象で、物事を判断してしまう圧倒的多数の「無関心派」ではないかとも考えますが。草の根ナショナリストに対する有効的な批判もですが、寄らば大樹の影の「無関心派」にも目を覚まさせる一撃が必要では無いかと。いかん、barrett_hutter さんに乗せられつつある(笑)。

死んだ子の歳を数えてみて、さらに脱力する

宝島社の「左翼はどこへ行ったのか!」という今年の5月に出たムックを見つけて斜め読みしてたのですが、こりゃほんまにあかんわと思いましたね。色々と雑多な内容を詰め込んである本で、最近の運動をやってる若い子から昔懐かしい人物のインタビューとか評伝も載ってますが、当たり前なんですが、もはや何らかの新しい展望も知見もないし、予想はしてましたがひたすら脱力しますな。ブントの荒岱介と一水会の鈴木邦男が対談やってるのですが、もう二人とも他人事のように淡々と日本の新左翼運動の終末を語ってるのがもの悲しいですわ。他にも、新新左翼(?なんじゃそりゃw)とか色んな若い子のインタビューとかも書いてありますが、オジサンなもので読んでてつい「おまえらそれでええんかい」と言いたくなります。何というか、皆さん澱んだ閉塞感に覆われてるんですな。いや、困ったもんだw

確か僕も買って読みました

昔ながらの活動家のイラストが表紙になってたやつですよね。今、探してみたけどどこかにいったみたいで(部屋を片付けろという家族の声は聞こえないのだ)、出てきません。ネットで目次を見たけど、ほとんど記憶に残ってなくて確か読後の感想は「しょーもない」で終わったような気がします。

ブントはいまやNPO法人(笑)ですから、まあいいのですが荒と鈴木邦男の対談なんてありましたっけ。本当に印象に残ってないんですよ。

>皆さん澱んだ閉塞感に覆われてるんですな。いや、困ったもんだw

ごもっともです。だからいい歳したオジサンが「ときどき吠える」ようになってしまうのだ。

「希望」

草の根ナショナリスト批判はともかくなんですが、季刊東北学という学術雑誌の特集で「在日という<希望>」という趣旨で色々な人の寄稿を集めているので、ちょっと興味を持って読んでみました。もちろん、冷静な分析をしている崔吉城とかも寄稿しているのですが、ぶっちゃけ言うと「希望」というタイトルとは裏腹に、お前ら何時まで民族とか国家とかに囚われてるんじゃと言いたくなるような「泣き言」書いてる連中が多くてうんざりもしました。ですが、姜信子の書いてる文章に、私、結構納得しましたね。以下はその引用です。

「在日」という二文字が、日本、韓国、民族、国家、歴史というような観念的で政治的な文字群と相互に絡まりあい結び合い、分相応に膨れあがった意味を孕んでいく、そこに私はみずからの生を織り込まれたくもなければ、すすんで織り込もうとも思わない。
「在日」という分相応にふくれあがった意味に捕まって、それが振りまくアイデンティティなどとういう厄介至極な幻想に宙吊りにされて、毒されて、嬲られて、右に左に上に下に揺さぶられ、惑わされ、前後不覚に酔っ払って気持ちよくなってしまうような、あるいは酔っ払う前に息も絶えだえ力尽きて倒れてしまうような、そんな類の不毛な彷徨など精神的にも肉体的にも、無駄に消耗するだけ。
 彷徨うならば、地に足をつけて、まっとうに彷徨う。それを私は旅と呼ぶ。

 主義や観念や思想や政治のもっともらしい言葉で人間の生に意味を与えてやろうなどという傲慢で乱暴な声は聴くのもつらい。ただの人の、ただの人生からこぼれ出る声、生まれ出る言葉のほうへと私はひたすらひかれていった。
 それは、つまり、素手で生きる、不毛な意味をまとわずただ生きる、ただ生きて、よく生きる、筋が通っても通らなくとも、とにかく生き抜く、そういう生へと向かう旅に出るということ。そして、それが私の考えるところの、まっとうな彷徨いなのだ。

彼女は「ごく普通の在日韓国人」という面白い本を書いていたので、以前から共感を持ってたのですが、この文章なんてある意味まさしく「希望」ですなw いや、笑えますw まぁ、彼女の「日韓音楽ノート―<越境>する旅人の歌を追って―」などという本を読んでしまうと、昔デモ隊と機動隊が対峙する催涙ガスの立ち篭める混乱の巷、ソウルの街でペクトゥサンとか韓国のハード・ロック・バンドのテープを買い漁っていたのを思い出すので、つい欲目で見てしまうのかもしれませんが…。ちなみに、彼女の「日韓音楽ノート」、drac-obさんにもお薦めです。

追伸
大正大学教授の藤原聖子の「「聖」概念と近代」を読んでいたらふと気になって、ジュリア・クリステヴァの「恐怖の権力」を読み直そうと本棚を探したのですが見つからず、仕方がないのでアマゾンでちょいと書名検索したら、「腹腹時計と<狼>―<狼>恐怖を利用する権力 (1975年) (三一新書)」鈴木邦男などという大時代な書籍が同時にヒットしてしまいました。とんでもない値段ついてるのですが、いやなんすかね、これも読めという天の声なんでしょうかw 「豆腐屋の四季」を書いた松下竜一の「久さん伝 あるアナキストの生涯」、「狼煙を見よ 東アジア反日武装戦線“狼”部隊」、高見順の「いやな感じ」とかも買ったはいいけど面倒臭いので読まずに放ってありますが、あまりにタイミング良すぎて笑ってしまいましたw

懐かしいな、「腹腹時計と<狼>」

大学の確か5回生くらいの頃に買って読みました。三一書房ですよね。あれが多分、鈴木邦男との最初の出会いでは無いかと思います。まだ「虹作戦」が公にされてないころで、当時バリバリの新右翼だった鈴木が「一抹の疑惑」を持って書いています。意外に硬派な本ですが、一気に読めます。70年代という時代も浮き上がってくるのでお勧めです。が、大枚払って買う必要はどうでしょうか?大きな図書館の書庫に眠ってると思いますが。

松下竜一の「狼煙を見よ」は、個人的には好きな作品ですが松下さん感情移入しすぎ。どちらかというと「蜘蛛の巣城」のようなレポにして欲しかったです。姜信子さんの文章はすっきりと沁み込んできますね。お勧めの本、買って読んで見ます。って、安請け合いすると後で困るので、とりあえず冬休みに探して読んでみます(笑)。
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