赤帯の話を思い出した列車の旅、というほどの旅ではないが

 久しぶりに電車に乗った。どれくらい久しぶりかというと、多分2年前の保谷出稼ぎツアー以来では無いか。事の発端は、今年の2月に亡くなった伯母の初盆にどうやって行くかという話からだ。我が家では、たいていこの手の行事には家族揃って参加するのだが、今年は配偶者が仕事の関係で休めないのと、我が家の子供二人も一応受験生ということで学業優先、自宅待機することになったためだ。ただ実家の母も連れて行かなければならないのだが、僕ひとりで車を往復4時間半運転するのはつらいという判断から電車で行くことにした。僕の住んでいる町から実家の母のところまで配偶者の車で朝送ってもらい、そのままJRの駅まで連れて行ってもらう予定だった。

 ところが前日の13日に母から電話が入り、14日の初盆が大変混んでいて、お坊さんが来るのは朝の8時だと知らされた。初盆のある延岡までは車では2時間ちょっと(ノンストップで2時間ちょっと、途中休憩などしていたら3時間かかることもある。夏目漱石が「坊ちゃん」で指摘した『陸の孤島』的状況はいまだ何も変わっていないのだ)。根が短気な母は6時の電車で向かうという。僕はとてもじゃないが、そんな早起きは出来ないので9時過ぎの電車でゆっくり行ってお昼を親戚の人たちと食べて、午後2時か3時くらいの電車で帰ることにした。

 電車の時間帯と料金をネットで調べたら、普通電車だと片道1,600円で1時間40分程度、特急の自由席だと片道2,520円で1時間ちょっとである。時間は思った以上にかからないが、運賃が高いのに驚いた。河原町から梅田まで特急で290円だったはずだと、怒ったが良く考えたら30年前の学生時代の運賃だ。それでもちょっと気になって今の運賃を調べたら390円、30年間で100円しか上がってない。それに比べてJRは何だ。政府が責任とって国営化しろ。名前は国民鉄道、略して国鉄でどないだ。儲かったらプロ野球球団経営してもいいぞ。金田なんて名前の大エースが生まれるかも知れんぞ。おう、金だ、ひろおか、よしだ、なんてフレーズがコドモタチの間で流行するかも知れん。などと、暑さと交通運賃の高さで白昼夢を見てしまった。

 短い旅ではあるが、電車を使っての一人旅なんて気分はもうルンルンである(しかし表現が古い)。電車に乗って旅をするにはまず文庫本、それから汽車弁当である。文庫本は前日に本屋で購入した東郷かおる子の「わが青春のロック黄金狂時代」となぎら健壱の「東京酒場漂流記」を準備した。汽車弁当は前日から準備するわけにいかないので、当日駅で買うことにした。ここで心ある人たちからは駅で売ってるなら駅弁では無いか、ましてや汽車などこの21世紀には走っていないから汽車弁当という言い方は間違っているのでは無いかというご指摘があるかもしれない。しかし、僕は中学3年生の国語の時間、教科書で読んだ梅崎春生の「赤帯の話」を読んでい以来、あの弁当のことは汽車弁当と呼んでいるのだ。

 この「赤帯の話」は作家梅崎春生が太平洋戦争終了時にソ連で過ごした抑留生活が元になっている。言葉も通じない、寒さも極限地帯における日本人捕虜の生活が描かれているのだが、その抑留生活の中で作者が毎日のように夢に見たのが汽車弁当である。日々の強制労働と劣悪な食事環境の中で、身体が塩分を求めるのだろう。甘辛く煮た肉や塩辛い魚、そしてきんぴらごぼうなどの日本食がコンパクトに詰まった幕の内風の汽車弁当の描写が、子供心にも印象深く未だに残っているのだ。この「赤帯の話」は言葉も通じないロシア人の兵士と日本人俘虜たちのコミュニケーションが書かれており、その中での一番のエピソードは「赤帯」と作者達があだ名で呼んでいたまだ若きロシア兵がある時、作業に連れて行く途中の山小屋で俘虜たちに洗面器に沢山入った鮭を腹いっぱいご馳走するシーンが出てくるのだが、そのシーンを朗読するように言われた生徒が鮭をカエルと読んでしまい、せっかくの感動シーンが洗面器一杯のカエルを強制的に食わせるロシア人兵士という、一歩間違うと戦争犯罪では無いか、アジア人蔑視ではないかと大糾弾大会が開かれかねない状況であったが、民主主義の擁護者であった国語の担任は、その生徒の頭に拳骨を落とすことで言論封殺した。というか、当時はそんな問題意識など無く、単純に洗面器に入った鮭を食うのは衛生上いかがなものかと思ったくらいだ。また後年海原雄山師匠(by美味しんぼ)から「鮭は生食するものではない」とご指摘頂き、そういえばあのときの日本兵達は大丈夫だったろうか、といらぬ心配をしたくらいだ。
南宮崎駅のトイレで見かけたごもっともな張り紙
 イントロが長くなったが、当日朝7時過ぎに目が覚めてしまいせっかくなので1便早い電車で行くことにした。家を出たのは8時だったが既に南国の太陽はどうじゃ、こりゃエレカシの「太陽ギラギラ」そのものじゃろうが、とでも言いたげに殺人光線を放つのであった。定刻8時37分丁度に電車は出発した。実は駅のホームで待っていたときに2両編成のしょぼい電車が来たのだが、そちらは宮崎止まりの各駅停車で、多分僕の乗る電車もそのようなおんぼろ電車だろうと予想していたが、とんでもない。車体のデザインも洒落ていて座席もリクライニングこそないが、木製のシートにクッションのついた小じゃれたものだった。そうそう、汽車弁当だが、駅のKIOSKで買おうと思ったら、コンビニ弁当やおにぎりばかりで、こんなもん食えるかと激怒した。経木に入ったご飯の香りとシンプルなおかず、弁当は幕の内をもって正統とする、という俄か幕の内主義者の夢ははかなくもちったのであった。

 電車に乗ってしばらくは移り行く景色を眺めたりして、退屈はしなかった。各駅停車なのでちょっと走ると駅に止まる。ほとんどが無人駅だが、それぞれの駅にそれぞれの思い入れがあるのだろうか、ちょっとした花壇があってきちんと手入れされているところもあれば、セイタカアワダチソウが正に自由奔放に伸び放題になってる駅もあった。そのような景色を眺めていたが流石に退屈してきてとりあえず東郷かおる子の新書を開いてみた。元ミュージック・ライフの編集長が書いた本だ。もっともミュージック・ライフの編集長というと星加ルミ子のほうを連想してしまう世代ではあるが。前書きのところで、今の昭和ブームに対する批判がちょっと書いてあった。いわく「誰もが熱く、懸命に生きていた。そんな時代をオレ達、アタシ達は生きて来たんだ。いい時代を生きた自分だったと思いたい」という数にものを言わせた団塊世代の「思い込み」を、そんなことは無い60年代も小中学生の自殺や親殺し、公害、汚職外に目を向ければベトナム戦争、中東戦争、キング牧師やケネディ兄弟の暗殺、ドサクサ紛れでいってしまえば第1羽田、第2羽田、10.21さーんーりづか~(by 戦争しか知らない子供たち)、という時代だったのだ。しかし、そんな時代に唯一、誇れるものがあるとしたら60年代から70年代にかけてのロックの成長と発展を同時代的に体験できたことだ、という主張はおおむね賛成である。

 文章は流石にオンナコドモの読む(これベサツではありません。ロックファンにおける区別です、などと言い訳を用意しておく)ミュージック・ライフで長年記事を書いてきた人だけあって、読みやすい。随分昔の記憶だが、たしかこの人ムーディ・ブルースの「童夢」のライナーを書いていたはずだ。ムーディーズの音楽は夜、できれば電気を消してろうそくの中で聞いて欲しい、昼間の喧騒の中では音が拡散してしまいその魔法が効かなくなるから、みたいなこと書いていたっけ。半年ほど前に日本におけるロック雑誌の変遷みたいな本を読んだが、そこでミュージック・ライフの存在価値としてロックの底辺を広げたみたいなことが書いてあった。なるほどな、と思った。ローティーンからミドルティーンくらいの時期に明星や平凡を読むか、ミュージック・ライフを読むかで随分違っていたからな。

 特筆するようなエピソードは無かったが、それぞれミュージック・ライフの記事としてアップできるような裏話、楽屋話がつづられていて読みやすかった。しかしこの本読んでいて考えたのは、70年代、僕がロックにズブズブにはまり込んでいった時代、ロックファンというのはそれほど多くはなかったが、確実に存在したという事実だ。今更、昼飯代溜めてレコード買ったとか、親から参考書代だといってそれがアルバム代に変わったなんていう話を書く気は無いが、高校時代のクラスにどれくらいロックファンがいたか。いや洋楽ファンは沢山いた。そうではなく、ロックをアルバム単位で聴いていたのはA川、S藤、S原、N友、あれこんなもんか。僕の高校は8クラスあったから、単純に1クラス5人ロックファンがいたとして1学年40人前後。うーん、これは少ない。だから僕は大学で1日中でも音楽の話が出来る人間の集合体であるDRAC(サークル名)に入って、そこに6年もいてしまったのだ。

 もう1点、この本を読んで考えてしまったのは60年代末期、ロックがビートルズの解散とともに大きく変化していった時代に、ロックにおけるジャーナリズムなど存在していなかったというところだ(未だに存在していないという見解もあるが)。レコード会社もプロモーションやシーンの盛り上げ方など手探り状態で本社である英米でもそれはあまり変わらなかったという事実。それでもロックを聴く人間は増えていき、情報を求める(考えてみたらネットも無い、ビデオも無い、電話は黒ダイヤルの時代なのだ)人間は増えていき、その中でロック雑誌の役割分担も明確になっていき。ニュー・ミュージック・マガジンやロッキング・オン、ロック・マガジンなどが登場していったのだろう。志としては僕たちがやっていたミニコミもシーンを本来のあるべき姿にするためにスタートしたのだ。もちろんあっけなくつぶれてしまったが。
意外にスマートな車内風景
 などと、いろいろなことを考えているうちに目的地の駅に着いた。駅から親戚の家までは歩いて5分くらいのところだ。時間はすでに10時を回っていたので、とっくにお坊さんは帰ったものと思っていた。玄関のドアが開いていたので挨拶して部屋に入ると、伯父や叔母達が随分疲れた顔をしてソファに座っていた。話を聞いてみると朝の8時から9時くらいに来るといったお坊さんがまだ来ないらしい。僕の母など、朝の3時に目が覚めてそれから始発の電車で来ているので疲労の極地にあったようだ。それでもしばらくはいろいろ世間話して時間をつぶしたが11時になっても来ない。とうとう母は頭が痛いからといって11時半の電車で家に帰ってしまった。仕方が無いのでテレビでオリンピックを見ながら待っていたが、来ない。もう昼だということでビールでも飲めといわれ昼ビーをいってしまった。いかんせんこの親戚の集まりでは僕が最年少になるから(あ、いとこがいたが彼女は子供の世話で奥に引っ込んでいた)、なんでもハイハイといって言うことを聞かねばならない。

 テーブルに手作りの料理が並び、僕は煮しめが好きなのでサトイモやコンニャク、ぜんまいなどをつまみに飲んでいたら、後から来たいとこがその煮しめはなんだかくさいなどといい始めた。どうやら夕べ作ったのはいいが冷蔵庫が一杯でそのままテーブルに出しっぱなしだったらしい。どうりでサトイモがやたら糸を引くと思った、などと受け狙いでギャグを放ったが、流石に70代80代のジサマ、バサマには通用せず、腹痛を起こしたら大変だから焼酎を飲めといわれて飲んだ。人間昼間から飲んだらクズです。

 1時になる前にもう一人親戚の伯父さんがやってきた。坊さんが来てないことに驚き寺に電話したら、すぐに連絡を取るが初盆のお経は長くて40分くらいかかるからもう少し待ってくれといったらしい。それでもクレームは出してみるもので、それから30分くらいでお坊さんが来た。なにやら今日、初盆の家が20数軒あり、中には市営住宅の5階で孤独死した人もいて、そこの身内はたった二人で、そのうち一人はこの前の岩手の地震で家が壊れて帰って来れない、もう一人の人は旦那さんの家も初盆になって大変だった、などと、ま、いわゆる言い訳を連発して8分くらいのお経が終わった。それでもこれで無事に初盆の儀式は終了できるというものだ。

 さっき昼ご飯を食べたと思ったら、もう夕ご飯をどうするかという話になり、久しぶりに親戚が揃ったからとのことで、近所の豚カツ屋にみんなで行くことになった。特製ヒレカツ定食に中ジョッキである。僕は豚カツはロースこそ命の人なのだが、いかんせん最年少なので発言権が無い。最も最年少というのをフルに活用させていただき、皆さんの残したカツを貪り食ったのは言を待たない。1時間くらいの食事会も終り、最後はタクシーに分乗して帰ることになった。僕は駅まで送ってもらった。駅で時間表を見ると17時47分の電車がでたばかりで、次の各駅停車は18時46分、1時間待ちである。困ったなと思ってもう一度時間表を見ると18時17分発の特急がある。特急料金は惜しいがこんなところで1時間ぼんやり待つのはつらいので思い切ってチケットを購入した。ホームに出て待っていると流石に特急にちりん、立派な流線型の電車が音も無く入ってきた。乗り込んでみるとシートもリクライニングでオマケに網棚に新聞が置いてあった。開いてみると大阪版の朝日新聞だった。こういうところが特急電車の特典だなどと考えながらシートに身を横たえるとすぐに寝入ってしまった。本日の課題のロックジャーナリズムの問題点はまた改めて考えてみるのだ。
スポンサーサイト

コメント

こんばんは。

そういえば、drac-obさんのところも初盆だったのですね。
滞りなくとはいかなかったようですが、無事に終わって何よりです。
おなかはこわしませんでしたか?

某所で私が怒っていたのは、うちの初盆のことです。
親父から連絡がないので、13日の夜に電話したら、「今日の朝9時に終わった」とのたまいやがりまして、何で連絡してくれんかったのかと問うと、会社かと思って言わなかった、ですと。普通13~15日は盆休みやろうもんと言ったら、初盆を13日にやるのは常識だを連発しやがりました。コノヤロウ、ボケたんかい、おめぇに常識とか言われたくないわいと思いながら、ムカついて電話をぶちきって差し上げました。
はあ、なんなんでしょうね。
で、ここに来たら、初盆を14日にしてらしたので、やっぱ、親父め、フカシこきやがったな、と思った次第です。
まあ、宗派によりけりなんでしょうけどね。

あ、もちろん、お墓参りには行きましたよ。
盆踊り前の町内での合同慰霊祭にも参加しました。

しかし、追記しに来たら、ウゼェェェェェェェェ~スパムが、また来てますな。
アクセス拒否とか出来んのでっか?
ぬるぬるなのは、おめぇの脳みそだろwwwww、と。

ああ、燐さんのところも初盆でしたか

しかし、あまりといえばあまりな対応ですな。初盆スルーされるというのは「てめーたちゃ人間じゃねー、たたっきってやる」と言われても仕方ないと思います。おかげさまだでお腹は壊しませんでしたが、翌日母と叔母が「わざわざ初盆に来た甥っ子に腐ったものを食べさせるとはどういうことか」と激怒しておりました。お墓は15日に家族で参って、その夜送り火をしました。昔は親戚中が集まって賑やかなお盆だったけど、今は3世帯だけのちょっと淋しいお盆ですがこういう風習は大切に残していきたいですね。

スパムはアクセス拒否してもきりがありません。ネタになるような気の利いたやつならいいけど、単なる「得ろ」はねぇ。まあ、このクソ暑い中、誰一人信用しないようなコピー考えてる奴もゴクローサンです。

「プガジャ」の時代

 ミニコミの話が出てきましたが、『「プガジャ」の時代』という本を大阪の本屋で見つけて、思わず買ってしましました。中身はどこかの連続講座で話された編集者の回想記でした。関西でマイナーなまま終わってしまったミニコミに毛が生えたような情報誌で、宮崎の本屋さんにはならばないでしょうから、ご紹介しておきます。
 また、頭脳警察がフラワートラベリンバンドと西部講堂でライブをするようです。頭脳警察、西部講堂という響きには反応してしまいます。ちょうと職場の一大行事・運動会の翌日なので、それが雨天順延にならなけらば、奈良の田舎から2時間以上かかりますが、参戦します。

頭脳警察が西部講堂に

登場、しかもFTBと一緒というのは燃えますね。是非、ライブレポートをお願いします。もっとも天気が崩れるとヤバイわけですから、テルテルボーズの準備が必要ですね。

以前のエントリーにも書いたのですがミニコミ「プレイガイド・ジャーナル」を略して「プレジャ」と呼ぶ一派が存在していて、僕は断固として「プガジャ」派だったので「何がプレジャじゃ、ボケェ」と文句を言ってたのを思い出しました。プガジャ面白かったけれど、やはりあれは70年代のミニコミですね。ミニではあるけれどコミュニケーションを信じられた時代の産物だと思います。編集者のハルキなど今はどうしているんでしょうか。そういえば地元に元Lマガジンの編集をしていた方がいます。いえ、ただそれだけですが…。

森晴樹氏は

“「プガジャ」の時代”執筆者の一人ですよ。
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?author=%90X%90%B0%8E%F7

近況ではないけど、10年前くらいの様子は以下で探せます。
http://www.ne.jp/asahi/nagumo/kaito/people-top/peop-top.htm

「プガジャ」の編集を請負ってたチャンネルゼロは、現在はもっぱらいしいひさいちの版権管理を担当してますね。
http://www.chan-zero.co.jp/

80年代末まで続いた雑誌でしたが、ぴあ関西版に押され、チャンゼロからほかの編集スタッフにチェンジ、結果的に旧来のミニコミ志向が消えて旧来の読者にそっぽ向かれるという最悪な結果に。
名古屋には別系列ですが「ナゴヤプレイガイドジャーナル」(ナプガジャ)て雑誌もありました。こちらもたしか90年には休刊。

なんで俺こんなに詳しいんだろ。
「シティロード」バイト&営業社員だったからかしら(笑)。

なんと、かくたさんそのような過去があったとは

「シティロード」のバイト&営業社員だったとは、驚きですね。いやー、人間いろんな過去があるんだなという実感です。ところで「プガジャ」関係の情報有難うございました。そうそう、村上知彦なんてエディターもいましたね。中島らもは「啓蒙かまぼこ新聞」を宝島の前にここで書いてたんじゃなかったですかね。「ごぼてん」のマンガだけだったっけ。記憶がやや混乱しています。しかし、いしいひさいちのマンガは実に宜しいですな。「バイトくん」に出てくる安下宿共闘会議の名言「革命なんて声のでかいほうの勝ちやで」というのが今も耳元に残っています。

当時の面白ネタがあればまた米ヨロシクお願いします。
非公開コメント

プロフィール

drac ob

Author:drac ob
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

FC2カウンター

現在の閲覧者数:

QRコード

QR

鳩時計

フリーエリア

ブログ内検索