DRAC興亡史 1975-1980 ジ・エンドオブ前史

 さて、すっかり忘れ去られてしまった感のあるこのエントリーだが、よくよく考えてみると、まだD大に入学した話までしていないことに気がついた。何回か前のエントリーで大学受験の話を少し書いたのだが、そこから続きを書いていこう。あれは高3の2学期だったか、夏休みの三者面談が終わっていたのは間違いない。大学進学について、親から言われたのは(我が家はしがない公務員の家庭だったので)進路は国公立以外はダメとのきついお達しがあった。仕方ないので国立一期校を第一志望にして受験勉強をそれなりにしていた。旺文社のラジオ講座などは結構真面目に聞いており、西尾の英文法や勝浦捨造の数学などは結構楽しみに聞いていた(余談になるが勝浦先生の「継続は力なり」というフレーズが好きで、このあたりが後年テレホン人生相談好きになった要因だろう。ほら山谷新平の「絶望は愚か者の結論なり」とか加藤諦三の「あなたが希望を捨てたのです、希望はあなたを捨てません」などのフレーズが好きなのよ)。西尾先生はくすぐりが上手くて、いわゆる有名大学の入試問題の中のカッコに正解を入れる問題の答えあわせをしながら、「ハイ、このイディオムには○○と続くのはご存知ですね。これで××大学は合格」と、その問題を正解しただけで志望校に受かるようなことを言ってくれた。

 渡辺先生という名前だったと思うが確か東京理科大学の先生で東北弁で物理の講座をやっていたのも印象に残っている。今思えば三上寛や友川かずきが授業しているようなものか(いや違うだろうけど)。そのラジオ講座も今思い出したが苦い思い出がある。あれは夏休みに入っていたと思うが、その日たまたま父母が親戚の法事か何かでいなくて、僕一人部屋でラジオ講座を聞いていた(実はその後のあのねのねのオールナイト・ニッポンが聞きたかったのだが)。真夏の暑い夜で、当時まだ部屋にエアコンなどは無く、窓を開けっぱなしにしていた。当時の僕の部屋は1階の4畳半の狭い部屋だった。突然がさがさという音がして、ハッとしてその音がした方向を見るとランニング姿で赤ら顔のオッサンが仁王立ちしていた。一体なんだと思ってみていると、オッサンは多少ろれつの怪しい舌で「兄ちゃん、深夜放送は近所迷惑じゃが、音を消しない」といった。要するにラジオの音がうるさいというわけだ。普段、両親がいるときはそんな苦情を言ってきたことは無いのに、今日に限ってしかも一杯飲んでから文句を言ってくる気の小さいオヤジだったのだが、まだ世間ずれしていなかった僕は大いに恐縮して謝り、すぐにイアホンにした。

 そのオヤジは粘着質な男で翌日になると、僕の住んでる団地の区長さんの家に行ってあることないこと言ったらしい。そこでは僕は髪の長いロクでもない人間で毎日わけの分からない音楽を大音量で聴いていて、協調性のかけらもないということになっていた。うん、今考えてみると、まあ当たっているところは多いが、それはさておき。一応区長さんも片方の言い分だけ聞くわけにはいかないとのことで、僕の家の周辺の人に話を聞きに行ったところ、いえいえあそこの息子さんはたいそう立派な人で朝は早くから夜は遅くまで学問に励み、道で会うと必ず率先して挨拶をする人です、などといわれるはずもなく、やはり周囲の意見は妙な音楽を大音量で聴き、髪の長い胡散臭そうな若い奴が集まる怪しい息子だという見解は一致していたそうだ。ああ、情けない。もっとも同窓生の母親が弁護してくれたのと、僕の父の職業が地方公務員だったのが幸いして今回は不問にするという連絡があったらしい。

 話がそれたが、いよいよ受験も本格的になってきた二学期の後半に何を考えたのかいきなり父が、私立受験を許可してくれた。ただ条件があって関西の私立に限るという。僕の父は美術家で、生徒を指導するだけでなく自分で作品を作っては、よく展覧会などに出していたが、なかなか中央で認められずそのあたりの反感が東京に対してあったのではないか。「青葉城恋歌」のさとう宗幸.をいたく気に入っており、「何でもかんでも中央に出てやるのではなく地方でしっかりやる人のほうが偉いのだ」などとよく言っていた。僕はそういうのはローカルナショナリズムではないかと思ったが、余計なことを言ってせっかくのチャンスをつぶすのはもったいないと思い、沈黙を貫いたのだ。まあ、実を言えば某ワセダ大学に進学したかったのだが、東京はダメというのが覆らず、それじゃあどこを受けようかと思って「蛍雪時代」なる大学情報誌をめくっていたら「関西のワセダ」と書いてあるページがあった。なになに、と思って読んだのがD大学だった。つまり、あんまり主体的に選んだのではないのだ。というか、本当に単なる偶然だったのだ。しかしその偶然が人の一生を決めるのだから侮れない。

 結局、国立と私立の二本立てで受験することにして、私立は本命D大、対抗R大(D大のライバル大ね、「二十歳の原点」の作者の出身大)、国立は本命H大、対抗I大と4校受験することにした。あ、それともうひとつ○衛大学というところも受けた。これは受験代が安いことと地元で受験できることが大きな口実で、いわゆる受験馴れするために受けた。本当のホンネはジエータイなど大嫌いだったので、一人でも合格者を減らしてやろうという厭らしい下心があったことを告白しておく。この○衛大学受検のときに驚いたのは、その受験者数の多さと、午前中に受けた試験の結果が午後には分かるというスピーディさだった。試験問題が記述式ではなく、四択だったか、とにかく選択式だったので採点も早かったのだろう。もうひとつの記憶は、休憩時間が終わり試験場に戻ろうとしたときにエレベータで制服を着たジエーカンの人と一緒になり、こちらは長髪・ジーンズ姿の格好だったので、随分じろじろ見られ、それでも「キミタチのような若い力に期待しているから、試験を突破して是非一緒にやろう」などといわれたことだ。ナンセンス、などと叫ぶことはまだ知らなかったので、適当にお茶を濁した返事をしたと思う。

 進研模試やその他多くの模擬試験の結果に一喜一憂しながら、大学受験の日を迎えた。D大とR大はどちらも京都市内にあるが、地方試験という便利な制度があって、わざわざ京都の本学に行かなくても福岡で受験できた。日程はR大が先で、その2日後くらいにD大の試験があった。父が美術の教科書の執筆に関わっていた関係で、某教科書会社の人が福岡での宿を手配してくれて、試験の間もいろいろ気を配ってくれた。旅館ははっきり覚えていないが大濠公園の近くにあった記憶がある。ふた間の続き間の部屋でわりといい宿をその人は手配してくれていた。食事にもわざわざ旅館の人がついて給仕してくれた。試験日を挟んで確か4,5泊したのではなかったか。その間毎日その人が陣中見舞いに来てくれて、一人で受験する不安を解消してくれた。旅館の人からは僕はそうとうイイトコのボンだと思われたようで「隣の部屋は一部屋に受験生が3人泊まってるんですよ。それにくれべてお宅はいい身分ですね」などといやみなのか皮肉なのか良く分からないことを言われた。当時はまだ青二才だったのでこんな親の七光りみたいな身分は嫌だと吐き棄てるように答えたこともハッキリ覚えている。

 この福岡での受験の間でもうひとつ覚えているのは、R大の試験が終わり、別の旅館に泊まっていた友人たちと話した内容だ。試験の前の日にテレビのロードショーで「真夜中のカーボーイ」をやっており、本来はそんなものを見ている余裕など無いはずだが、エッチシーンに目が移りつい見てしまったという話になり、あの映画のテーマ曲を歌っていたのは誰だという話になっていった。もちろん二ルソンの「うわさの男」なのだが、当時ちゃんと音楽雑誌を読んだり、ヒットチャートのラジオを聴いていたはずの、僕たちのレベルとはその程度のものだった。「ジョン・デンバーじゃないか」「いや、声が違っていた」などと喧々諤々で言い合った。「ウィズアウト・ユー」や「ココナッツ」、「リメンバー」などのヒット曲は知っていたが、「エブリバディ・トーキン」は知らなかったのだ。

 試験はR大は英語、国語、日本史の3教科で、D大は英語、国語、数学Ⅰで受験した。というのも、D大の社会科は日本史、世界史どちらもほぼ満点に近い点数を取らないと厳しいという予想があり、文系で数学Ⅰを選択する人間は少なく、そちらのほうが合格する確率が高いと判断したのだ。この判断は間違ってなかったと思う。試験の結果だがR大学はめちゃくちゃ問題が難しく、まずダメだと思った。D大は過去問でやったような問題が3教科とも出ていたおかげである程度の手ごたえを感じていた。特に数学は大問3問中、1問は完全に解けて、2問目は途中まで間違いなく部分点をゲット、3問目は全く分からなかったがそれでも、あることないこと書き続けた。大方、ごちゃごちゃ書いてあるので採点する側が同情点でもくれたのだろう。

 2月の始めにその地方試験が終わり、いよいよ国立の受験に向けて本格的になった。今度はなんと言っても北海道は札幌での受験なので、簡単にいうと日本縦断ツアーである。この北大の受験はクラスの友人(彼は、以前このブログに登場したN原君で、北大に合格するために1年間半そでのカッターシャツを着続けた男だ。南国宮崎でも1,2月は寒い。寒風が吹きすさむなか、真っ青な顔をしながら学校に通う姿は「エライ」「アホや」と賛否両論であった)と僕の遠い親戚筋、えーとハトコというやつだな、の3人で行くことにした。宮崎から北海道であるから、行きは当然飛行機である。しかも羽田で乗り換え。当時、生まれて初めて飛行機に乗れるので嬉しくてたまらなかった。相当、舞い上がっていたのだろう。千歳空港に着くまでの記憶がほとんど無い。千歳から札幌まではバスが走っているのだが、N原君が乗り物に弱いので電車で行くことにしていた。もちろん生まれて始めての千歳なので間違いが無いように、タクシーでJR、いや当時はまだ国鉄だ、の駅まで行くことにした。

 タクシーに3人で乗り込み「千歳駅まで」というと、運転手が気さくにいろいろ話しかけてきた。何しに北海道に来たのか聞かれたので、田舎モノの悲しさから、バカ正直に宮崎から大学受験に来たとハトコが答えた。運転手は「へー、おたくら九州の人?それにしては訛りがないね」などとこちらの気持ちをくすぐるようなことを言う。「いや、宮崎は九州の中でも訛りはなく、標準語に近い」などと軽率なことをいうやつがいる。あ、オレだ。しかし百戦錬磨の運ちゃんで、千歳駅から電車に乗るのは待ち時間など考えても無駄だから、このまま札幌まで行かないか、一人千円でいいよ、などと甘いことを言ってくる。乗り物に弱いN原君もタクシーだったら大丈夫などというので、それじゃそのままお願いします、ということになった。いや、それから運ちゃんが喋る喋る、パワーシャベルってなもんだ。いわく「北海道に方言がないというのは間違いで、ダベとか結構使う」「札幌のことを地元の人はタッポロと発音する」とか「札幌に着いたら地下鉄でススキノという町に行くと楽しいことが一杯ある」「ススキノでは是非ラーメン横丁に行け」とか、僕たちは受験に来たのであって、観光に来たのではないという正論すら忘れさせるような時間が経過した。

 で、結局札幌に着いたら、5千円請求された。途中でメーターを止めるのを忘れたという言い分だ。無論抗弁しようとしたが、いざとなったら無線で仲間呼ぶよ、などと脅されて仕方なくお金を払った。あいつは本土で食い詰めたロクデナシの子孫に違いないなどと、間抜けな地方学生3人は口々にののしるのだった。今、考えるとこれが北海道に対する悪印象のきっかけだったかもしれない。県外からのお客さんは大事にしないといかんという教訓である。それでもホテルに着いて、着替えもして腹も減ったからこいつは一丁「ススキノのラーメン横丁」とやらに行って、札幌ラーメンを食べようと話が決まり地下鉄の駅に向かった。もう暗くなっていたから相当遅い時間かと思ったが、多分夕方の5時か6時くらいだったはずだ。3人で横一列になって、旅の初騒ぎ(by山下洋輔)とやらでハイになっていた。大きな交差点に差し掛かり、信号を見ると青が点滅し始めた。急いで渡ろうとしたら、凍った雪に足をとられて見事に転んだ。バツが悪くて、ちょっとゆっくり半身を持ち上げたら、目の前にトラックのランプが光っていた。左折しようとしたトラックが転んでいた僕に気がつかず、減速しないまま突っ込んできたのだ。

 死んだ、と思った。完璧アウト、と思った。受験に来た札幌で、しかも初日にトラックにはねられるなんて、なんて不幸な運命だ。そう、覚悟した。そのときにものすごい勢いで両手を引っ張り上げられ、間一髪救われた。N原君とハトコが全力で僕を引き上げてくれたのだ。しかし、今思い出しても冷や汗が出る場面だった。これが潜在的に北海道への進学を避けるようになった原因かもしれない。二人には心からの御礼を言って、それからは慎重に、上から雪を踏みつけるようにして歩いたので転ばなかったが、受験で滞在した間、1日1回は必ず転んだ。ここで暮らすことになったら確実に転んで頭を打ってパーになるなとも思った。

 ススキノはにぎやかな街だった。ラーメン横丁もすぐ分かった。お店の前には大勢に人たちが並んでいる光景は宮崎ではまず見られない。歩いている人の多さ、待っている人の多さ、全てが新鮮だった。適当なお店を見つけて並び、札幌ラーメンを食べた。いや、その前にメニューを見て驚いた。当時ラーメン1杯が350円くらいだったか。高いお店でも400円というのは大盛りとかチャーシューメンの値段だったが、ここでは「しょうゆラーメン500円」とか「味噌バター600円」とか、驚くような金額が提示してあった。さらに驚いたのは注文したラーメンのどんぶりがまるで洗面器のようにあったのと、メンの上の具や野菜を持ち上げようとしたら、割り箸が曲がって折れそうになったことだ。一番食欲のある18の頃である。一気に食った。食ったら腹がはちきれそうになり、軽く貧血状態になった。全身の血液が胃に集中したのだ。これなら500円、600円出しても惜しくないと田舎モノ3人組は納得した。

 十分に食欲を満たし、それでは札幌のホテルに帰ろうということになりぶらぶら歩きながら地下鉄の駅に向かった。あたりを眺めているとネオンサインや点滅する文字や色にひとつの共通項があることが分かった。タクシーの運ちゃんのいった意味がようやく分かった。ススキノは当時の言葉でト○コ、今で言う個室付き特殊浴場、ソ○プランドのメッカだったのだ。巷に浮かぶ赤い灯、青い灯を見ながらオトナになったらああいうところでアソブのだとハトコが口惜しそうに呟いた。僕は別にオトナでなくても、ここなら誰も知ってる人間はいないぞ、と自分の良心がどこまで耐えられるか、山中鹿之助のつもりで、いやいや、ここから先はご想像にお任せします。今までの僕のエントリーを読んでくれている皆さんなら、僕がいかに清く正しく美しい人生を送ってきたかご存知でしょうから、これ以上は書きません。

 当時の国立一期校の試験日は3月3、4日の2日間だった。試験科目はいわゆる5教科だが、社会や理科は選択できた。僕たちは環境に慣れるためという口実で2月の28日に宮崎を立ち、4日の試験が終わったら今度は電車で宮崎まで帰る予定にしていた。もっともハトコは仲の良い友達が小樽の大学を受験していたので、そちらに向かい僕とN原君は二人でとりあえず大阪の僕の親戚の家に向かうことにした。そこからはフェリーで帰ろうと計画していたのだ。そうそう、この受験のときの思い出は札幌の映画館でビートルズ映画4本立てを見たことだ。ある日試験場の下見に行ったハトコが息を切らせて帰ってきて「この近くの映画館でヘルプとかやってる」という情報を持って帰ってきた。調べてみると「ア・ハード・デイズ・ナイト」と「ヘルプ」と「イエロー・サブマリン」「レット・イット・ビー」の4本立てをやっていることが分かった。流石に試験前に4本立てなど見てしまうと、せっかく覚えた単語や公式が全てパーになると思い、試験が終わる4日に見ることにした。試験が終わり3人で映画館に駆け込むと「ハード・デイズ・ナイト」が始まっていて、マッシュルームカットの4人が女の子に追いかけられるシーンだった。それから最後の「レット・イット・ビー」まで一気に見た。「イエロー・サブマリン」の途中のシーンで、あのペッパーランドに向かうところだ、頭と目が痛くなったが、地元では見ることのまず出来ない映画なので、まるでスポンジが水分を吸収するような勢いで見た。

 映画を見終わって札幌駅に着いたときはもうほとんど朦朧としていた。ハトコとはここで別れ、僕たちはブルー・トレインに乗り込んだ。発車時間は夜だったが、始発が札幌だったのでシートに座り、先ほど見た映画の素晴らしさを二人で話し合った。そうこうするうちに電車は動き始め、生暖かい暖房と心地よい振動の中、いつしか寝てしまった。しばらくして目が覚めたのは、遠くから大きな声が聞こえたためだ。目を開けてみると結構年配の、おじいさんといっていいくらいの人が片手に一升瓶を持ち、車内をうろうろ歩きながら何か大声で叫んでいる。単なるヨッパライだと思い、無視して寝ようとしたが爺さんの声は止まらない。ほとんどの人はシートにもたれて目をつぶっているのに、爺さんは目を開けている人間を見つけてはなにやら話しかけて嫌がられている。こっちに来るなよ、と思いながら僕はまた寝ようとした。

 なにやら人の気配と嫌な臭いで目が覚めて驚いた。なんとあの爺さんと来たらわざわざ見送りに来てくれたよ、おまけにテープを拾ってさ、女の子みたいにさ、というのは拓郎の歌だが、なんとあの爺さんが僕の顔を覗き込んでいたのだ。僕は切れました。うら若い女の子が顔を近づけてくるならいざ知らず、どぶろく片手のクソ爺の顔がすぐそばに来ていたことと先ほどからの傍若無人ぶりにブチ切れてしまったのだ。「お爺さん、いい加減自分の席に戻ったらどうですか。みんな迷惑してますよ。ホラ、さっさと帰れよ」こういうと爺さんは「何を、若者が」と叫ぶやそのまま胡坐をかいて僕に向かって説教を始めた。未だに覚えているそのせりふは「天には天のことわりがある。地には地のことわりがある。ましてや人間には長幼の序というものがあって…」と延々語り始めたのだ。僕も半ば意地になって、この爺さんの言うことを一つ一つ論破してやろうと反論始めたら、誰かが車掌さんを呼んでくれたようで、ようやく爺さんは自分の車両に帰っていった。どっと疲れて寝ようとしたら、それまでピクリとも動かなかったN原君が「お前、よくあんなことが言えるな」と話かけてきたのでまたまた驚いた。彼はずっと起きていたのだが、爺さんを刺激しないよう寝たふりをしていたらしい。

 この爺さんのおかげで、青函連絡船の記憶はかなり薄い。とにかくまだ青函トンネルは出来ておらず、連絡船に乗ったのだ。青森には朝早く着いた。途中下車して青森をぶらついてみることにした。しかし、降りた青森駅はなんともひなびた駅で、街にも活気がなかった。高いビルがないのだ。二人して「宮崎より田舎や」と文句を言いながら、それでもデパートに入ったら、冬物衣料品のバーゲンをやっていて、そこで僕は緑色のジーンズを買った。そのジーンズはそれから4年後テクノ・ファッションがブームになったときに僕のトレードマークになったのだ。わはは、今思い出しても恥ずかしいわ!!青森から大阪まではとにかくぐっすり眠れるようにと特急電車の一等席を買ったので、まったく覚えていない。当時の国鉄を初めとした乗り物は等級で全く乗り心地やサービスが異なっていた。一等席のシートはそれはもう快適だった。大阪で親戚の家に泊まり、その翌日にカーフェリーで宮崎に帰った。カーフェリーも親戚が二等のチケットを買ってくれてので、乗り込むや否や一等にしてくれと頼んだ(一等席は二等の運賃の倍だった。親戚が二等の分のお金は出してくれていたので、僕たちは本来使うべきお金を出して一等にグレードアップしたのだ)。カーフェリーの二等席は広い座敷にごろ寝だが、一等は四人部屋に二段ベッドが二つ付いており、しかも船員によるお茶のサービスもあるのだ。僕らはそのフェリーの一等席でゆっくり休んで宮崎に戻ってきたのだった。

 えーと、いつの間にか受験旅行体験記みたいになってしまいましたが、ついに大学受験も無事に終わり、いよいよ京都の生活が始まるところまで来ました。D大のオリエンテーションで当時の自治会のお兄さんと某革新党派のお兄さんが入り乱れての大混戦になるのはまたの機会に。それでは皆さん、見捨てずにお付き合い宜しくお願いいたします。

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コメント

その当時

ホモセクシュアルについてヒジョーに興味のあった私は(どんなガキやねん!?)、そのテ(どんなテやねん!?)の本を読みあさり、その過程で『真夜中のカーボーイ』も読んだのでした。
ところが内容はホモ小説というよりも、そういう場面も出て来るというドラマであって、トホホと思った記憶があります。
しかし、親の影響でかなりの数の映画を見ているため、最下層に住む人たちのことも映画では見ているはずなのに、都市部にはこういった暗部があること、そこに暮らす人たちのこと、田舎から都会に出て来た若者の挫折などが、この小説でリアリティを持って感じられたのでした。
その後、映画はテレビで見たような気がしますが、小説ほどはインパクトを感じなかったです。「うわさの男」も印象に残ってないんですよね~。

本来はカウボーイと表記すべきところを

カーボーイとしたのは当時の日本ユナイト映画の宣伝部長であった水野晴郎(byウィキ)だそうです。cowboyならぬcarboyというイメージだったようで。しかし、察するに良いお年頃であった狸さんが「ホモ」に興味を持ってその手の本を読み漁っていたというのは、なんともはや…。僕は「喜劇新思想体系」を読んで以来、モーホーの世界はギャグとしか思えません。それはさておき「うわさの男」ですが、ニルソンのオリジナルではなく、彼自身は「孤独のニューヨーク」という曲を映画用に作ったのですが採用されなかったようです。もっとも"everybody talkin'"より、はるかに印象的な歌詞で本来のタイトルは"I guess The Lord must be in New York City”といいます。

ほら、神様オイラここにいてアンタんちのドアを後ろから叩いているんだ、気が付いておくれよ~というような泣ける歌です。アルバム「ハリー」に入っているので機会があったら聞いてみてください。

ビートルズ4本立てですかぁ~

大スクリーンでビートルズ、しかも四本まとめて…って羨ましすぎ!
「真夜中のカーボーイ」は、いつか必ず見たいと思ってるのになかなか機会に恵まれず、先日、BSで放送されたときには録画に失敗し(涙) 主題歌「エブリバディ・トーキン」も近所のTSUTAYA3軒全滅で(←買えよ)興味はあるのに縁がない作品です。

「カーボーイ=carboy」は知りませんでした。昔の洋画&洋楽にはものすごく適当な邦題がついてることが多いですが、タイトルやジャケットも作品のうち、と思う私にとって、この「カーボーイ」は作者に申し訳ないを通り越して日本人として恥ずかしいとさえ思ってました。でもそっか、水野晴夫さんが分かってて敢えてやったことなら許そう。(えらそー)

えーっと..お年頃の乙女がそっち方面に興味を持つのは普通..とまではいいませんが、決して珍しくないと思います。私もお年頃のときに 映画「モーリス」を見てうふふ..となりました。


「モーリス」!
あれは、名作です!!

モーリスというのは(猫だぬさんと燐さんへ)

ギターのメーカーでは無かったかとI think.マジで映画は知りません。

「うわさの男」はニルソンのセカンドアルバム「空中バレー」に収録されているというより、ニルソンのベスト盤には必ず入っていますね。でもニルソンにはもっといい歌やアルバムが沢山あるので、じっくり探してみてください。どうしても、というときはメールしてくれれば闇からのルートで流しますが(笑)。

ビートルズ映画といえば

当時、神戸ではその名も良心劇場「ビック映劇」という300円で映画を見せる名画座で、ビートルズの「ヤア!ヤア!ヤア!」と「ヘルプ」と「レットイットビー」の3本立てを、小学校3年生の時に見た記憶があります。動いているビートルズの映像を見て、かなり感動しましたね。特に、解散直後だったので「レットイットビー」はかなり印象が強いです。前にも書きましたが、レコーディング風景でリンゴが手拍子一発でビートを出したシーンには、かなり衝撃を受けました。ああ、リンゴって本当に上手いドラマーだったんだなと、ようやくその時理解しました。その当時の東芝EMIのビートルズのカレンダーは今でも宝物ですね。

ビートルズが解散してしばらくは

まとめて映画を上映することが多かったようですね。僕も学生時代に「イエロー・サブマリン」を上映しようと企画しましたが、当時の学園祭の実行委員が「ビートルズは○○派だ、反権力はストーンズだ」などというわけの分からない屁理屈でつぶされました。同プロにいたT井、オメーのことだよ。などと、ちょっと思い出してプチ切れしました。

しかし、小3は早すぎでしょう。上にどなたかご兄弟か親しい方でビートルズファンというかロックファンの方がいらっしゃったのでしょうか?そういえば「レット・イット・ビー」のポスターを持ってましたが、友達に1000円で売ってしまいました。

せっかく

猫だぬき さんがフォローしてくださいましたが、「うふふ」なんてカワイイものではなく、それに当時はもう“乙女”ではなかったですしねぇ(爆)。
私は思ったわけです。女である私には、どうしても男というものの理解できない部分が(心情的にも肉体的にも)あるに違いない。では、男が理解できるのは? それはホモだ!!――と。ああ、あの勉強熱心さが、もうちょっと勉学の方に向いていれば…などと後悔してもせんのないコト。
習得できた技術的なこともありましたが、まあ、一番の収穫は博愛主義者になったってことでしょうか。

やおいのはしりだったワケすかw

あ~、何やら高校時代に同級生の女の子から、高野文子の「絶対安全剃刀」読みたさに「June」借りたら、意味不明の誤解された記憶が…w ちなみに、私には理解できない世界っす。でも、よしながふみの漫画は結構好きだったりしますがw

>当時はもう“乙女”ではなかった

とか、>習得できた技術的なこと、などと意味深なことを書いていますが、実際どうだったのでしょうか?

しかし、素朴な疑問ですがモーホーを知ると博愛主義者になれるのでしょうか。いや、そこまでしてなりたいとも思いませんが…。

あ、話は変わりますがあの手の「テロ」はどんと来いです。「テロとの戦い」にひるむようなヤワな私ではありません。

やおいといえば801

801といえばLIVEですな。イーノやフィル・マンザネラ、みんな若かったな。TMKなんて曲というか演奏やってました。フィルのギターはたどたどしいロバート・フリップという感じで好きでした。イーノも後年のあの外見は別として、面白い音楽やってましたね。やはり初期のロキシーは、ごった煮で良かったな、って、あ、そういう話ではない?

なるほど

狸さんは、「男」研究の材料として利用されたのですね。
たしかに男のことは男の人に聞くのが一番かも..
女のことも女の人ほうがよぉーく知ってますしね。

話はズレますが、男の人が作ったエロ作品(AV含む)て、実にオトコ向けですよね。女の目には 「んなことされて喜ぶ女がおるかぁ!」な演出が満載で、真剣に見れば見るほど冷めるわ笑えるわ腹が立つわで、とてもとても..って感じなんですが.. 特に、ポイントもタイミングもはずしまくった稚拙極まりない手の動きなんかを見ていると、アンタは女を舐めてるのかと..今までどれだけ女をイライラさせてきたか分かるわと…(以下自粛)

興奮するより殺意を覚えることのほうが多いAVですが、男が作った=「オトコがされたいこと」の演出が盛りだくさん、と考えると、男研究の材料としては使えるかも? と今さらながら気がつきました。いやぁ~ここはホント、勉強になるブログですね。

え、あれはウソなんですか?

いや、てっきりああすれば女性の方が喜ぶと思って、一生懸命予習したのに、全て無駄だったと。つまりは「神国ニッポン」を信じていたのだが、ある日突然GHQが来て教科書を墨で塗って、なかったことにしなさいと、ああ、そうだったのか、知らなかった。などと動揺する男の人が必ずいると思うので、昼間からこの手の話は止めましょう。

などと勉強になるブログだけにエッチネタを防御するのであった。でも学んだことを実践で生かしてこそ真の勉強では無いかと(まだ動揺している)。

間違っていたとわかれば

それは改めればよろしい。
俗に「よいセックスをしている女は100m手前からでもわかる」とも言われるほど、大切なコトですぞ。
明日からでも、パートナーとよりよい関係を築けるチャンスかもしれないのに。
でもまあ、ここは他人のお宅なので、やめておきますが。

そのテのビデオについては、バイト先でずいぶんと本数は見ましたが、あれはもちろん「女性のしてもらいたいコト」でないばかりか、「男性がしてもらいたいコト」ですらないですよねぇ。でしょ?

人を愛することに、男性も女性も変わりはないのに、恋愛のスタート時からハンデを負っているのに、苦悩多き道を歩む少数派の人たちを、私は小馬鹿にすることはできませんね。理解してあげてほしいとは言いませんが、差別はしてほしくないです。

ええと、僕は保健理論は得意だったけど

実技が苦手で、って一体何の話かというと、大学の1回生のときの必修単位の話でした。いえいえ、とぼけたりはしません。僕は学んだことはすぐに実践に取り入れる「言行一致」を人生のモットーにしております。また「博愛主義」を学生時代に我が母校の始祖明日の新島ジョー先生に学んだので、やるときは広く多くの人に愛を与えることが使命だと思っています。

どすこい!!
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