Let The Good Times Roll (by Cars)

 籠原の駅に着いたのは83年の2月の寒い日だった。その前の年に初めて就職した会社の業務命令で、関東のグループ会社に長期出張を命じられていたのだ。最初は当時本社のあった水戸から始まり、2月には埼玉の営業所(たしか与野市にあった)にいた頃だと思う。この長期出張の最大の楽しみは合宿免許に行けることだった。というのも、その会社の1年先輩で、やはり籠原の合宿免許を取った人がいて、その人から「いいぞ、合宿免許は。費用は会社が出すし、その間の給料もちゃんと出る。それより良いのは、教習所に結構かわいい女の子が来てるから、選り取り見取り、やりたい放題(大変下品な表現であり、当ブログには馴染まない表現であるが、今回はリアリズムを徹底追及するので勘弁して欲しい)。オレなんか卒業する時、花束貰ったし、その時知り合った女の子がわざわざオレの地元の鹿児島まで来て一緒になってくれ、なんて言われて困ったよ」。などと聞かされていたからだ。

 もちろん世の中にそんなに美味しい話などあるわけが無く、合宿の費用は半分会社持ち、残りは給料から毎月天引き(したがって最低でも1年間は会社を辞められない)、とりわけ「選り取り見取り、やりたい放題」のほうは、とんとご縁が無かった。人によっては、それは先ほどの発言者と僕とのルックスの差だ、などと考える人がいるかも知れないが、とんでもない。先ほどの先輩は身長は190センチはあったろうか、顔つきはアンドレ・ザ・ジャイアント、うーん贔屓目に見て野口五郎のデスマスクみたいな人だった。僕は外見は十人前だが、当時良く「さだまさしに似ている」とか「瞳の潤んだところが東大通そっくりだ」とか「あれ、監督、いつ髭そったんですか」などと分かる人には分かる、まあ決してハンサムとはいえないが、人様に嫌われるようなご面相ではなかったことを明確にしておく。

 などと、妙なところで力が入ったが、要は就職した会社が営業会社だったので、当時無免許(正確には自動車学校を第2段階で中退、あ、幼稚園も中退してるからバツ3である)だった僕に、関東の長期出張の間に免許を取らせようということだ。もっとも関東地方には全然土地勘が無かったので、埼玉の営業所の人に場所を教えてもらい、なんとか籠原駅に着いたばかりだったのだ。駅から合宿所というか教習所までは、どうやって行ったのか覚えていない。駅には比較的近かったので、歩いて行ったような気がする。とにかく会社の事務方の人から「2月○日の○時にカゴハラの教習所に行くこと。最短の3週間で必ず免許は取ること。去年までは会社が全額負担していたけど、免許を貰ったらすぐ会社を辞める不届き者がいたので、今年からは社長の決裁と本人の誓約書、支払いの約定書、この3つが揃って初めてOKということになりました。それから毎日電話で会社への報告を怠らないこと。日曜はなるべく営業所に出向き、手伝える仕事があったら手伝うこと、酒は飲まないこと…」、などなどしつこく念を押された。

 指定された時間に、なんとか教習所の事務室についた。周りには4,50人くらいのむさくるしい野郎がたむろしている。こいつらが同期入学ということになるのだろう。当然、知ってる人間なんかいない。みんな「○○しちゃってさぁ」などと標準語をつかう関東者(カントモンと読みますby阿佐田哲也)ばかりだ。生まれは九州、文化は関西エリアで育った人間としてはやや鬱陶しい。2月という時期だけに大学生や就職前の若い連中が多いようだ。僕は会社からそのまま来たのでスーツ姿だったが、ずいぶん浮いていたと思う。その集まった連中の前に事務員が立ちカリキュラムの説明や、実技の時の配車の手続き、学科の際のテキストや教室の説明などが行われた。その後、合宿生の生活について食事や風呂、部屋の配置などの説明があった。僕はみんな合宿すると思っていたが、通学する人も結構いた。結局、30人弱が合宿組でそのまま部屋に案内された。ぞろぞろと廊下を歩いていくと、窓からこちらを見ている視線に気がついた。先に合宿していた連中だ。何となく「あしたのジョー」で少年院のリンチのシーンを思い出した。あまりでかい態度をとってると「ねじりんぼう」などを食わされるのでは、と心配したが、当然これは杞憂であった。

 集団の歩みが止まり、案内していた事務のオバハンが「はい、ここがあんた達の部屋、さっき言われた番号がそれぞれのベッドに書いてあるから、そこに荷物を置いてあとで事務室に必要書類を書いて持ってきてください」と言った。十五、六畳あるだろうか、やたら細長い部屋に二段ベッドが並列で10台ほど並べてある。ベッドとベッドの間は人が一人通るのがやっとだ。出入り口に3,4人座れるスペースがあるくらいで、どうみても「タコ部屋」である。もっともここではシベリア開拓の強制労働のかわりに運転の練習と学科を詰め込まれるのだ。僕は自分の番号を探したが、無かった。おかしいなと思ってもう一度探したが無い。そのことをオバハンにいうと「あら、おかしいわね。まあ、しょうがないからこの後入ってくる組の部屋に行って頂戴。一人で寂しいかもしれないけど、いいよね」みたいなことをいわれ、隣の部屋、まだ生徒が入ってない空っぽの部屋の二段ベッドに一人でひっくり返った。

 この合宿免許で一番嬉しかったのは、こうして空いた時間にベッドで休めることだった。というのも、当時の会社はハードな営業会社で朝8時から夜は11,12時当たり前。時には午前様も珍しくなかった。また月の目標が届かない時は、休日出社当たり前のスパルタ会社だった。僕自身も九州の営業所から関東に行かされたのは、いろんなことを学んで来いという当時の上司の指示があったので、仕事が終わって寮に帰った後も、その日学んだことをノートに整理したり、時には同室の先輩や上司の話相手もしなければならなかったので、毎日睡眠不足で頭が痛かったのだ。「やでうでしや、世の中に寝るほど楽は無かりけり、浮世のバカが起きて働く」と、人生において一番好きな格言を呟きながら、ベッドに横たわっていると人の気配がする。

 目を開けると、一人の男の子が僕の顔を見ていた。「ベッド空いてるよ、さっきの部屋で大丈夫」、などと話しかけてきた。聞いてみると、あの後みんながそれぞれベッドに荷物を置いたところ、ひとつだけ空いてるところがあったらしい。それをわざわざ教えに来てくれたのだ。正直、あの人の多い部屋より、一瞬でも一人で独占できる部屋のほうが良かったが、わざわざ声をかけに来てくれた彼の気持ちが嬉しかったので、素直に荷物を動かした。その間に彼はいきなり「僕、Tといいます。ヨロシク。ちゃきちゃきの江戸っ子で、とびさんやってます」と自己紹介した。最初「とびさん」という言葉が分からず、聞き直したら「とび職」のことだった。余談だが、僕は小さい頃「とび職」というのは全国を飛び回る国家公務員のようなものだと思い込んでいた。今、考えると恥ずかしい話である。

 人が自己紹介したわけだから、こちらも『九州出身だが学生時代関西に住んでいたため、関東のことは分からないのだが、仕事の関係でこちらで免許を取ることになった』、などと話した。あとで知ったことだが、どうして僕に話しかけたかというと、周りはみんなボンボンの学生ばかりで、自分でお金を稼いでるのはネクタイした僕だけだと思い、それでベッドが空いたらすぐに呼びに来たという。「やっぱり、親のすね齧ってるガキと、自分で稼いでる社会人は違うよね、drac-obさん」というのが彼の口癖だった。

 その日から、合宿生活が始まったのだが、なかなか面白い経験だった。今の合宿免許のHPなど見ると、個室完備とかホテルから通えるとか、もちろん費用が異なるのだろうがプライバシーとか生活の質というものが考慮されているようだ。しかし83年当時は、とにかく詰め込むだけ詰め込んで、落ちこぼれるやつはそのまま。飯も風呂も洗濯その他も「生かさぬよう、殺さぬよう」という徳川家康的哲学で貫徹されている、なかなかにサバイバルな状況であった。食事は一応3食出されるが、全て弁当。それも一汁一菜とはこういうことかといわんばかりの内容。まあ、汁物が温かかったことが無かった。もちろん食事に不満が出るといけないので、弁当を食べないものはその旨を申し出れば食券が貰え、学校とタイアップしている食堂で食事が出来た。外食券食堂というやつだ(ウソ、です。外食券食堂なるものは「戦後焼け跡闇市派」の専売特許です)。しかし、その食券は300円分しか価値が無く、当然その金額ではまともなものは食べられない。差額は自己負担というわけだから、好きなものを食べるにも懐が痛む。

 それと合宿所は禁酒。これは分かる。血の気の多い年頃が集まってるので、飲んで喧嘩とかトラブルが発生したら大変だからということだろう。そのためか、その「外食券食堂」は普通の大衆食堂みたいなところだけで、居酒屋とか寿司屋などとはタイアップしてなかった。したがって呑み助は100%自腹でその手の店に行かざるを得ないため、経済的にもちと大変であった。風呂は、銭湯みたいな大浴場があるが毎日きちんと入るのもいれば、「風呂なんか入らなくても死にゃせん」などと豪語して、週末しか入らないやつもいた(あ、オレだ)。そのほか洗濯機も共同であったし、まあ、昔の大学寮みたいなものだった。あ、大学寮みたいにアジりに来る人はいなかったけど。

 とびのT君とは段々親しくなって、学科の時も一緒に机を並べて授業を受けたし(実技は1日2時間という制約があったが、学科はないので、最初のうちは1日4時間とか5時間、学科の授業を受けていた。まるで小学校である)、ドライブトレーニングセンターとかいったと思うが、ゲーセンのドライブゲームみたいなマシンが置いてあるところがあり、前の映像を見てギヤチェンジしたりクラッチ操作したり、ハンドルやウィンカーを操作するところにも良く行った。もっともこれはいくら上手く操作しても、ゲームが延長されたり、ハイスコアに名前が残せるようなことはなかったので、直に飽きたが。

 合宿始まって1週間位してからだったか、あるときT君がまじめな顔してこういった。「drac-obさん、お願いあるんだけど」「なんや、難しい顔して」「誰にも言わないと約束してくれるか」「ええけど、なんや、いうてみ」「おれっち漢字読めねえんだ。おれっちの教科書に読み仮名書いてくれないか」「漢字が読めない?」「大きな声で言うな、いや言わないでくださいよ。おれっち子供の頃からとびさんになるって決めてたから、勉強しなかったのと、中学の時シンナーやりすぎてバカになっちまったんだ。あ、もうシンナーはしない。あれは脳みそも溶けるし歯も溶けるから。とびさん高いところに登るのが仕事だから、シンナーなんかやってたら死んでしまうよ」

 僕は漢字が読めないという人に初めて出会ったのだ。そういえば学科の授業の時、なにかトンチンカンなことをやってるなと思ったことがあったが、まさか漢字が読めないとは。しかし、これは決して特殊なことではないようで、学科の教官も漢字の読めない人用の問題集やテキストはあるし、実際の試験も漢字の読めない人用のものがあると再三説明していた。僕は、漢字の読めない人用のコースでいいんじゃないかと言ったら、彼は「そんなこと言ったら、周りの学生に馬鹿にされる。せっかく仕事を休んで合宿に来てるから、その間に免許に関係する漢字はおれっち覚えて帰るって大将に約束したんだ」と、にっこり答えた。僕は教科書に全部フリガナを書いてやった。それからのT君は本当に一生懸命だった。書くほうは卒業するまで怪しかったが、少なくとも読むことはほとんど問題ないくらいになった。もっとも夜遅くまで一生懸命ぶつぶつ言って勉強していた。あるとき学生グループの中でもちょっとヤンキー系の男がうるさくて眠れないと文句を言った。

 T君は自他共に認める元不良だったので、こりゃまずい血の雨が降ると思い仲裁に入ろうとしたら、予想外に「ごめんな、おれっち頭が悪いから読みながらでないと覚えられねえんだ。勘弁してくれ」と、素直に謝り事なきを得た。翌日、良く我慢したなと褒めたら、にっこり笑って「いいんだ、漢字覚えるまでは我慢する。でも免許取ったらアイツは一番最初にぶっ飛ばす」

 ここまで書いてきて、我ながらいや良く覚えてると感心したが、実はこのエントリーを書き出すまでT君のことは漢字が読めないとびさんだったな、としか覚えていなかったのだ。キーボードを打っているうちに段々いろんなことが甦ってきて、あ、あの話をかかなくちゃとか、そうだ、こんなことがあったと次々に出てくるのだ。しかしもうすぐ午前2時になりそうだ。とりあえず合宿物語第一部はこれにて終了。気が向いたら続編ありね。
スポンサーサイト

コメント

ちょっと涙です

良い話です。でもたしか今はどの教科書もふり仮名あります。お年よりも受けはりますしね。
お友達がいるとああいう場所は乗り切れるかも知れませんね。
とびさんみたいに夜を徹して頑張ってたり、
うちの母みたいに「子どもを生んだら絶対車が必要」と感じ
産後すぐの産休などの時間のある時期に受ける頑張りやさんもいるのに・・・
「自分の金の分だけはちゃんと講義せえ(私もバイト代で学校入りました)」
やと1人の男を1時間ネチネチなじった自分がちょっと子ども過ぎて恥ずかしいです。

それでも、漢字程度ですから

1980年代中頃だったか、ひとけも疎らな韓国の田舎の駅で一人で電車を待っていた時のことです。駅の端から大きな荷物を抱えた小柄なお婆さんが歩み寄って来て、何やら私に尋ねるのです。方言混じりなので何を言ってるのやら良く判らなかったのですが、よく聴いてみるとどうやら時間を尋ねているらしいのです。駅構内にも時計があっただろうにと不審に思ったのですが、仕方ないので黙って腕時計を見せたのです。ところが、お婆さんは悲しそうな顔をして、私に何やら私に訴え続けるのです。何を言っているのやら判らず困っていたところ、中年のおじさんが運良くやって来て、お婆さんの話を聞いてくれて、ようやく合点がいきました。なんと、お婆さんは時計が読めなかったのです。

正直言って、「一視同仁」のスローガンの元に、朝鮮に於ける近代市民社会の形成を夢見て、義務教育の就学率を必死で上げようとしていた朝鮮総督府の施策がこの程度であったかと、何やら絶望的な気分になったものです。貧しさということの不幸を痛感しましたね。

多分、T君とはこれから一生

会うことはないでしょうが、今でもあの笑顔は思い出します。関東の言葉というか、話し言葉は嫌いでしたが、彼の話し方は嫌味がなく好感が持てました。いかにも人間むき出しというか、喜怒哀楽のはっきりした小気味いい奴でした。一緒に飲みに行ったり、空き時間に麻雀したり、ちょっと年の離れた友人でしたが、卒業後は一度も連絡したこともなく、それっきりです。元気にやってればいいな。

>自分がちょっと子ども過ぎて恥ずかしいです

そんなことないでしょう。誰かが言わないとその教官はずっと誤解したまま、多くの教習生に迷惑かけた筈だから。

全世界を考えたら、国民のほとんどが自国語を読み書き出来る国ってのは珍しいのではないかと思います。

とび職のT君は、人一倍努力して漢字が読めるようになったのはすごいと思います。書く分は私もワープロの普及のせいで最近怪しいので、あまりレベルは変らないかもしれませんね。

「一視同仁」というのは立派なスローガン

ですが、現実・現場はそこまで追いついてなかったということでしょうか。しかし80年代中頃の韓国にbarrett_hutter さんが一体何をしに行っていたのか、そちらのほうに興味がわきましたね。当時はまだ軍政の頃ですよね。KCIAのマークが付いたんじゃないですか(笑)。

しかし、そのお婆さんの話は「義務教育すら受けられなかった」という解釈が一番正しいのでしょうが、「教育は受けたが文字盤の読み方が最後まで理解できなかった」とすれば、単なるオマヌな人という落ちになりますね。いや、うちの下の子が何度教えても文字盤の読み方が怪しくて、親も諦めて「ま、この子が大きくなることにはアナログよりデジタルが圧倒的だからいいか」と妥協した苦い思い出があります。未だに文字盤読めないんじゃないかな、ちょっと不安になってきた。

ブログの効用として

過去の自分を振り返ることができるのと、これまで記憶の底に眠っていたいろんな人たちや出来事を思い出し、それらを整理して記録に残せるという点がありますね。単なる「日記」だと変化や反応がないので長続きしませんが、エントリーに書くとさまざまな米を頂き、それを励みにまた次のエントリーを書く、そうやってブログが延々と続いていくという公式です。

漢字は読みはともかく、書くほうはとんとダメですね。キーボードを打つことがほとんどなので、たまにメモ書きしたときにどうも字面が違う気がしてなりません。これはブログの弊害といえるかもしれませんが…。

そういえば、デジタル表示に慣れた子どもに時計の文字盤が読めない者が増えてるんですよね。
我々のような文字盤に慣れた世代は、視覚的に文字盤の方が時間を把握しやすいと思うのだけれども。その違いがこれからヒトにどう現れるか、面白いようでもあり恐いようでもあり・・・。

まるでチャットのようですが

「品位」を重んじる僕のブログらしいデジタルとアナログの問題ですな(チャットになるといきなりお下劣になるのは、猫○ぬきさんとかw○ngさんの影響だと、いや、こんなこと書くと遊んでもらえなくなるので、後で消しておこう)。

ホント、文字盤のほうが危機感感じること多いです。特に朝の出勤の時とか、人と約束した時間に遅れそうな時とかですね。デジタルだと見た瞬間「ふーん」と無反応で、その数字を頭の中で文字盤に変換して大慌てになることがあります。良く考えたらおかしな話ですが…。

僕も

カントモンですが、京都に4年住んで大学で知り合った関西人を嫁にもらってから大きく価値観が変わったように思います。関東とか関西、それ以外のいろいろな地域の言葉や考え方を関東しか知らなかった頃から比べるとごく自然と受け入れられるようになった気がします。国籍や職業、学歴についても同じように感じます。

う~ん

そういっていただいてうれしいです。ありがとうございます。

でも、それ以来自動車学校ではありとあらゆる教官に「怖い生徒だ」と思われたようで…腫れ物に触るように振る舞われました。

今のまぁるいあたしだったら、彼を辞めさせず根性を叩き直す一時間を提供するように話たら良かったのかなという気がします。大変おこがましい話ですが、そんな気がします。

瞬間の美学?

っていうか、人生でみたらひとコマにすきませんが大切な出会いってありますよね。とびさんもきっとそんな風に思われてるでしょう。

あたしも自動車学校でひとりのピアニストさんとそんな出会いしましたよ。あと、多摩合宿でであった学生さん。旅行先でいっしょになったコ。
忘れられない…でも現実会えない…会わない親友?というか…出会いありますね。
素敵です。

Tくんに幸あれ

漢字が読めないコトを告白し、頭を下げてdrac-ob さんにふりがなを書いてくれるよう頼んだTくん、勇気のある人ですね。
若い。恥ずかしい。プライドもある。でも、向上心がそれを上回ったのでしょう。
人間誰しも道をあやまることはありますけれど、大切なのは振り返って悔やむことではなく、リカバーなのだと教えられる話です。

関西人をヨメに貰たらドツボやと

言われたものですが、いや、いや滅相も無い。関西人の嫁ハンは金の草鞋を履いて探せと、まあ、これはちと褒めすぎか。東男に京女などという喩えもあるので、異文化の交流という意味では、素晴らしいですねって、何かちょっと奥歯に物の挟まったような言い方でスイマセン。

もうひとつお詫びは決して関東が嫌いなわけではなく、いやまあ、茨城の百姓に良くいじめられたから、未だに「だっぺ」を聞くと殺意が興るという微笑ましい一面はありますが、基本的に田舎者の僻みだとご理解ください。そうだ、ドクターでベース弾いてたジュンは湘南出身でサーカスでバイトしてたから良く知ってます。ご存知ありませんか?年は2,3歳下です。

サヨナラだけが人生だ

などと気取る気はありませんが、しかし、本当にもう二度と会えない人というのはいますね。住所や連絡先が分かっていれば、まだ何とかなりますが、人生の中でほんの偶然にすれ違った人で、忘れられない人っていますよね。あの人はどうしてるだろうかと、思い出せることは幸せなことなんでしょう。生きることに必死になってた時は、そんな余裕も無かったですから。「ブログの効用」のところでも書きましたが、自分自身の備忘録としてエントリーに書く楽しみもあります。

ついでにいうと、僕も仲の良かった友人とはほとんど会いませんが、たまに何かの拍子でひょっこり会うというのがいいんです。計画したり、お互いアポを取り合うのはまだまだ「小人の交わり」ですな、わははは(と、大人ぶるのであった)。

うん、侠気のあるいい奴でしたT君は

ホントにすっかり忘れていたのですが、この前のエントリーのコメントで偶然、教習所の話題が出て、じゃその時のことをエントリーに書くか、と思ったときに、彼のにっこり笑った顔が浮かんできました。あれっきり会ってないし、電話をしたこともない。元気でやってるんだろうなと勝手に想像するばかりです。彼も交通標識の漢字を読むときに、あの合宿所のことやその時一緒にいた連中のことを思い出すだろうか、と考えてもきりがないのですが…。なんだか上手くまとまりませんが、狸さんのT君へのエールは嬉しかったです。
非公開コメント

プロフィール

drac ob

Author:drac ob
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

FC2カウンター

現在の閲覧者数:

QRコード

QR

鳩時計

フリーエリア

ブログ内検索