Meeting in this way,no one could have known(by Gentle giant)

sugarmountain君、今時クラッシュのTシャツ着るんじゃねーよ!!

 前回のエントリーでも触れたが、鳥肌音楽の管理人であり、僕の学生時代のサークルの後輩でもあるsugarmountain君が、突然宮崎にやってきた。出張で宮崎の小林という町に来るので、週末『一緒にご一緒しませんか』(F田敏雄名言集より)というわけだ。この小林というのは宮崎から西に車で1時間ちょっとのところにある、自然の豊かな田園都市だ(まあ、宮崎は全部が全部、田園都市ではあるのだが。もちろんこの場合の比重は田園にかかっている。どうせ4階建て以上の建物はねぇよ、って、これは余計か)。前日に電話で話したときには4時半には仕事を終えて宮崎行きのバスに乗ると聞いたので、6時くらいには会えると考えていた。しかし20年以上会ってなかったので、お互いどんな風に変わっているか(または、いないか)楽しみであった。

 しかし、金曜日の夕方に宮崎に来ると聞いたので、当然その日はどこかのホテルに泊まると思っていたら、流石にヒッピームーブメントを生き延びてきた男だけあって、当日の23時50何分(ほとんど零時だ)発の特急にちりんに乗り、翌朝の5時半くらいに小倉に着き、朝一の新幹線で姫路に帰ると聞いたときには驚いた。兵庫、宮崎間を特急と新幹線乗り継ぎで移動するとは、こいつ貧乏学生の悲しいサガを引きずったままだなと先輩は判断した。大方、出張旅費を浮かせて、その金で中古CDの10枚、20枚買ってこましたろという腹だろう。おっと、いけない。都市生活者の皆さんには何のことか分かりにくいかもしれないが、宮崎~小倉間を走る特急にちりん、一度乗ってみてください。車窓に映る美しき風景や彩り豊かな駅弁などあっという間に飽きてしまい、あとはひたすら退屈な乗車時間が延々と続く地獄の黙示録的路線なのだ。しかも単線なので特急のくせに、場合によっては駅ですれ違いのための待ち時間があったりする。

 脱線した(うまいね、特急だけに脱線したってか。などというと娘達に『オヤジウザイ』と言われかねないので注意しよう)。当日電話が入り「Y形屋ってとこに今着いたんですけど、先に駅に行って帰りのチケット買っときたいんすよ」などというので、駅前の目立つビル(かのヒガシコクバル知事の事務所が入っている)のところで待ち合わせるようにした。僕がそのビルに着いたら携帯のカメラで写真を撮ろうとしている怪しげな男がいた。彼だった。相変わらずデカイ。3メートル50センチはあるだろう、って、そんなやつぁいねぇよ。学生時代と比べると皺と白髪が当然増えてるが、ほとんど変わっていない。彼は僕を見るなり「なんや、ますます監督に似てきましたな」などという。僕の外見が山本晋也監督に似ていることをおちょくっているのだ。相変わらず、先輩に対する尊敬の念というものがない。とりあえず駅に向って歩いていき、荷物をコインランドリーじゃねえよ、洗濯してどうする、コインロッカーに預けて、宮崎の飲食街に向けて歩き出した。『連れもってイコラ』ってやつだ。

 彼が宮崎に来ることを知り、遠路はるばる来てくれるのだから、何か旨いものを一緒に食べようと思ったが、僕自身がこの2年近くお酒をやめていたので適当なお店を思いつかず、色々聞いたり調べたりしたのだが、配偶者のおすすめで宮崎の地鶏も魚も食べられるお店を教わり、そこに行くことにした。電話で場所を聞き、アーケードを潜り抜けて、たどり着いたらいつも雨降り、って、これは以前使ったな、たどり着いたのは雑居ビルの1階の間口1間くらいの小さな、ちょっと薄汚いお店だった。まだお客さんはおらず、カウンターに座ろうと思ったが、なんせ彼はデカイのでカウンターで隣のお客さんにプレッシャーをかけるといかんと思い、座敷に上がった。これは正解で、学生時代に良く行った居酒屋で飲みながら喋ってるようで、あっという間に時間が30年ほど遡った。

 本当に久しぶりの再会を祝い、乾杯してそれでも最初はマジメにそれぞれのブログに対する考え方や、アナログレコードにおけるアルバムとCDになってからのアルバムでは、根底から違うのではないかなどとちょっとした音楽談義に花が咲いた。いや、その前に共通の友人であるK君(77年度生だから僕の2年後輩で、sugarmountain君にすると2年先輩に当たる)の結婚式の時に会って以来、よくぞこうして再会できたなというネットの恩恵について喋った。やや暗い話になるが、僕が鬱を患い仕事も辞めて家で、それこそ鬱々としてPCに向っていた時、学生時代に入っていたサークルの名前を検索してみた。僕のHNにもなっているDRACという言葉で検索したら夥しい情報(そのほとんどがコンピュータ用語のDRACについてだったが)の中に、「DRACの末裔による徒然の日々」なるブログがあった。早速開いてみると管理人は僕より7,8年上の先輩で、当然面識もなくまた当時はクラシックの話が多かったのでとりあえずブックマークしただけで積極的に読んだりはしなかった。しかし、時間だけはたっぷりあったころなので、毎日訪問し過去ログなど読んでいたらsugarmountainというHNで79年にDRACに入ったと書いてあるコメントを見つけた。

 79年といえばオレが5回生の頃で、一番別館でブイブイ言わせとった頃や、と思いながら、当時のサークル員でこの手のブログを書くのは誰だと考えたら(いえいえ、考える間もなく、そこに書かれている音楽の傾向で)一発で「あいつや○○や!」とそのデカイ図体とそのくせ妙にシャイなところがある(君はEVEの情宣でポスター貼りに行かせたことがあったが、一人で喫茶店に飛び込めといったら8時20分の眉をして半べそかいた事をよもや忘れてはいまいな)sugarmountain君の人懐こい顔が浮かんだ。決定的だったのはこのエントリーである。ここに出てくるおよそ人間としての感情のなさそうな先輩は僕である。しかし、確かにこういうやり取りをしたのは間違いない。実はその日は冬の寒い日で僕は後輩(大学の5回生だから大抵のやつは後輩になるわな、いやちょっと待て、6回生の先輩もいたな、鹿児島のT原さんだ)のH本(エッチボンじゃないよ)、M原と3人でビリヤードに行った。

 顔立ちは綺麗なのだが、ちょっと頭のねじは巻きすぎて切れちまった(byパンタ)のではないかという噂の姉妹がいるビリヤード屋で、そこには台と台の間にダルマストーブと家具調テレビが置いてあった。シュンシュンと湯気の立つ音がする中、僕たちは玉突きに興じていたのだが、そのとき昼のワイドショーのキャスターが突然こんなことを言って僕達を驚かした。「ここでビートルズファンの皆さんにはショッキングなニュースが入りました。元ビートルズのジョン・レノンさんが射殺されました…」僕達3人はキューを持つ手を止め、画面を見た。ジョンが殺されたのは間違いないようだ。まあ、ジョンらしい最後といえば言えるな、などとお互いポールファンのH本とあんまりビートルズには思い入れのないM原と喋りながらボックスに戻り、そこで「ダブルファンタジー」をかけていたsugarmountain君にジョンの事件を教えたのだ。

 先輩の話に耳を傾けていたsugarmountain君だが、ジョンの死を知るとマジで顔面蒼白になり「ちょっと行って来ます」と言い残し全速力でボックスから出て行った。すぐ戻ってきたが手には何か持っている。「何だそれは」、と聞くと当時小学館が出版していた写楽というカメラ雑誌でジョンが表紙になっているものだった。篠山紀信がジョンとヨーコを撮った写真の特集が組まれていた号だ。わざわざ生協の書籍部に買いに行ったらしい。その本を眺めているうちに感情がこみ上げてきたのだろうか、「ボク今日は帰りますわ」といって銀閣寺の下宿にチャリで帰り、それから何日かはボックスにも顔を出さなかった。そのときのことを聞いたら「いや、落ち込んで2日くらい何も食わず飲んでばかりいたんですよ」。しかしミュージシャンの死を知って、こういう反応が出来たのも若さゆえだったのか。

 それからいろいろ喋っているうちに、僕のエントリーがサークルの連中に不評だという話になった。ビリヤードを一緒にやったM原は怒っているらしい。どうしてだと聞いてみたら「いや、ボクも怒りますよ。先輩のブログは自分だけ良く書きすぎですよ。S戸さんの野菜ドロボウの話とか、人の失敗を書く前に自分のことももっと書いてくださいよ。たとえば『ピンクは血の色事件』とかあったやないですか」

 ピンクは血の色事件?ああ、あれは79年の年末だったか80年の新春だったか、たしか寒い日のことだった。当時僕は烏丸中学校前にあるS友荘というアパートに住んでいた。ここはもともとは先ほど結婚式の話で出てきたK君が住んでいたアパートで、場所も大学に近い(正確にいうと学生会館に近い)し、部屋も6畳の割りに家賃も手ごろ。ガスもコイン式で共同だが備えてある、それに第一大家が同居しておらず24時間やりたい放題の、所謂「自主管理」アパートだった。その雰囲気が気に入り、僕とT畠という同じサークルの人間が79年に入居し、その後S堂君やsugarmountain君も入居してさながらDRACの寮みたいになるのだが、それはさておき。

 まあ、そういうアパートなのでDRACの連中がしょっちゅう出入りしており、夜になると酒盛りが始まるという場所だった。当時僕は酒癖が悪く、S戸君に言わせると「ある時間になるとガクッと首が落ち、顔つきから行動からこれが同じ人間かと思うくらい変わる」ことが多かった。早い話がブラックアウトである。とにかく、そうなった僕と一緒にいると大変危険がアブナイことが多く、無用なトラブルは避けるのが先祖代々百姓一家だったS戸君のモットー(こんなこと書くから怒らせるのだろうな、いえいえ、これは屈折した友情表現であり、本当に嫌ってたらエントリーには書きません)だったので、僕の様子がおかしくなるとさっさと自分のねぐらに帰るのが常だった。

 ある日例によって、僕の部屋で酒盛りが始まり、人数は結構いたのではないか、それなりに最初は楽しく盛り上がっていたのだが、その頃僕は酔っ払うと包丁を壁に向って投げるくせがあり(いや、危ないやつだな。今考えるとよくぞ怪我もせず生き延びてきたものだ)、最初は押さえていたのだが、酒が回るにしたがって段々包丁に手が伸び始めた。最初は「ほら、ええ加減にせえよ」とか言ってたS戸君たちも(そうだ、F田敏雄君もいた)、段々口調がきつくなってきた。それでも包丁と戯れる僕に怒り心頭に発したS戸君が「もう帰る」と言い出した。お酒を飲んで盛り上がってるところに、皆で帰られるとこれは相当寂しいので「そんなこと言わんと~」などと懐柔しようとした僕に「いや、帰る。お前は危ない。もう飲むのやめて寝たらええんと違うか」とか言った。それを聞いた僕は理不尽な怒りが湧き上がり「そうか、帰るか。おお、上等や。帰れ、帰れ。お前らなんか友達ちゃう」と啖呵を切ってしまった。

 結局、そのやり取りで座が白けてしまい僕を除いてみんな帰っていった。いや、それぞれのアパートに帰ったのではなく、S戸君のアパートに行ったに違いないと、僕は確信していた。それまで大勢で騒いでいた部屋に一人ぽつんと残され、僕は段々怒りが増幅してきた。ここは、ひとつS戸たちにガツンと言ってやらねば。そう考えた僕は、さっと表に出てタクシーを拾いS戸君の住む下賀茂のワンルームマンションに向った。そうそう、S戸君は当時まだ珍しかったワンルームマンションに住んでいたのだ。いや、決して彼が裕福だったのではなく、兵庫県は加西市のカントリーボーイだった彼が銀閣寺のサーカスでバイトするようになり生活がやや派手になった。また掛け持ちで塾の先生のバイトもやり、バイト人生で積みあげたお金がユニットバス、エアコン完備の鉄筋コンクリートのワンルームマンションを借りるという行為に走らせたのだ。いや、今にして思えば罪のない婦女子をかどわかしてきては、そのマンションの外観で安心させ、部屋に連れ込み不埒な行為をせんがための戦略的位置づけは間違いなくあったはずだと、声を大にして、あれ、話がずれてきた。

 えーと、どこまで言ったっけ。そうそう、下賀茂のS戸君のマンションについた僕は、部屋のドアをガンガン叩いた。しかし誰も出て来ない。さては皆で天下一品のラーメンでも食べに行ったに違いない。クソッ、オレだけ仲間外れか。上等じゃネェか。それならそれでいい。お前ら見てろよ。と、考えた僕は、その気持ちをメモに残しておこうと、ドアの横にあった公衆電話用のメモを手にした。メモをドアに押し付けP-Modelの「モモ色トリック」のフレーズを書き綴っていった。♪町中にピンクがあふれ出したら、そのぶんどっかで血が流れてるさ、今○雄○にゃ分かるまい!!と歌いながら僕は、ただピンクは血の色と書くのも芸がない。オレは英文科だ。ここはひとつ英作文で「ピンクは血の色だからpink is the color、あれ血は何だっけ」と、このあたりがヨッパライの悲しさでそのあとの「of the bloods」が出て来ない。しかもドアに紙を押し付けて書いていたので、ボールペンが紙をこする音が結構大きく響いていた。

 その時突然後ろの部屋のドアが開き「何やってんねん、こんな時間に。うるさいわ」との怒鳴り声が聞こえた。時間は多分、深夜1時くらいだったろうか。あまりの音のうるささに耐えかねて、別の部屋の人が出てきて僕に注意した。僕を見捨てていったS戸君たちに対する怒りは充満していたが、全く予想してなかった人からのお叱りは、僕の頭に水をぶっ掛けたのと同じ効果があった。それでも一応は「いや、この部屋のやつらに文句が言いたいだけで、お宅には関係ない…」などとぶつぶつ言ったが、一気に酔いも醒めてしまいすごすごとS友荘に帰ったのであった。

 というのが「ピンクは血の色」事件として、その後長らくボックスで語り継がれた事件である。後日談だが、やはりそのときは皆でラーメンか何か食べに行っており、帰ってきてそのメモ(意味不明な英文がミミズが這った様な字で書かれていた)も見たS戸君やF田君は青ざめたらしい。特にF田君のおびえ方は異常なくらいで、何か物音がすると「drac-obが来たんちゃうか、鍵は閉めてとるか、ダイジョウブか」とビビリまくったらしい。S戸君も最初は怖がっていたらしいが、段々なんで自分達がこんな目にあうのか腹が立て来て、いつでも来んかいという気になったと、後日笑いながら教えてくれた。

 いや、お恥ずかしい。今でこそ歩く人格者とか21世紀の孔子などといわれる僕であるが、若い頃はこんなオマヌなこともしていたのだ。ところでsugarmountainよ、まだ書くネタ一杯あるけど、続きは次回やることにする。とりあえず予告編としてN川の下宿襲撃事件は外せないと思うが、どうだ。えー、本日は20数年ぶりに再会した後輩との心温まるエントリーでした。そうそう、おーい元DRACのみんなー、読んでたらコメント頂戴ね。それと、こういう話があったというネタの提供もお待ちしています。


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コメント

え~と

あれ?俺、ここにボーナムの死の話を書いた記憶があるねんけどw

まぁ、ええけど。あれ、高校教師に完了形で書いたら、現在形でかくもんや。もしくは、現在進行形でも良いとか言われたけど。それやと、暗喩で殺されたことになる。とか言われた話をモロ書きした記憶があります。受け身はどないなんねん?

Bonzo is dead. 

Jimmy plays the guitar♪

This is Rock'n Roll! This is genocide!

え、そういうコメントは見てませんが

このエントリー書いたのもずいぶん前で、書いた本人もすっかり忘れていました。「ピンクは血の色」でblog内検索したら出てきて、読み直すと当時の記憶が鮮明に…、は出て来ず断片的に思い出しています。

ボンゾが死んだときは、大学に入ってましたがそこでおよそゼップとは似合わないええとこのお嬢が、「ボンゾは酒飲みながらドラム叩いて、酔いつぶれてベッドでゲロを詰まらせて死んだらしいです、しょーもな」とBOXで発言。そこにいた全員から殺意の籠った視線を浴び、それを自分に対するシンパシーと勘違いして更にBOXに入り浸るようになった、なんてことがありました。確かH木とかいったよな。あ、思い出した。芦田均の親戚筋だとかいってたから、やっぱええとこのお嬢だったんだ。
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