フォークソングクロニクルは忘れた頃にやってくる

 昨日、あんなことをエントリーに書いたせいで♪今日は朝から雨、嫌な天気やけど、もうぼちぼち出かける時間(by有山じゅんじ)という日になってしまった。と、思っていたら、そうではなかった。雨男が我が故郷宮崎に出没していたようだ。詳しくはここでの僕のコメントを読んでいただくと分かるようになっているのだが、実は、今日はブログはパスして本を読みながら早寝しようと思っていた。が、である。ちびっとばかし、ネットで動画でも見るべ。Dahliaさんが言ってたチュートリアルとかいうお笑いを一発見てこましたろ、と何故か怪しい関西弁になりながら、しかし、ちょっと待て。YOU TUBEも見ておいて損はないだろ、と、思ったのが大きな間違いでした。

 お若い方はご存じないだろうが70年代の半ばは、フォークやロック、まあ後にはニューミュージックなどという訳の分からないくくり方をされてしまう、『非歌謡曲反演歌的若者向け大衆音楽ただし基本は日本語』の音楽はテレビで見る(聞く)ことは先ず出来なかった。つまり当時はそれだけその手の音楽はお金にならない、特に日本のロックはアルバムが8千枚売れれば大ヒットだとパンタに教えてもらった時は目が点になったほどだ(と、さりげなくオレ、パンタに2回インタビューしたもんね、しかもそのときのカセットテープは1本だけだけどまだ持ってるもんね、回転数がおかしくなってちょっと聞くのはつらいけど家宝にするもんね、というところをアピールする姑息なdrac-obであった)。幸い僕は75年の春から81年の春まで京都にいたから、ライブハウスなどで彼らの生の音や演奏する姿に触れることが出来たが、これが宮崎にずっといたら恐らくは、博多あたりまで出かけない限りはライブを見ることは出来なかったと思う。それだけに、春や夏または年末年始の特番でその手のミュージシャンが出てくる番組があったらほぼ確実に見ていた。また当時ビデオはまだまだ普及する前なので、動画として保存する方法はなく、せいぜいがカセットで音だけ録音するとか、コダックみたいなインスタントカメラで写真として写すくらいしか手がなかった。しかし、だからこそより鮮明に覚えており、いや、普段はすっかり忘れているのだが、何かの拍子で記憶が見事に甦ることがあるのだ。

 しかし、しかしである。世の中広い。特にネットの世界には深くて渡れぬ河がある(by野阪昭如)。YOU TUBEでお気に入りに登録している人のリストを見ていたら、ムッシュかまやつ(どうしてもこの人を見るとS戸君を連想してしまう)とユーミンがティンパンアレイをバックに歌っている動画が2本あった。最初に「中央フリーウェイ」を見たのだが、すぐにこれは76年3月に放映された「セブンスターショー」のライブだと気がついた。このとき、ムッシュとユーミンで90分やったのだが、ユーミンがこの曲をムッシュにプレゼントしてお返しにムッシュは「楽しいバス旅行」という、およそ盛り上がりというものを一切拒否したまるでお経か祝詞かといわんばかりの辛気臭い曲をユーミンに歌わせたのだ。そうそう、このときのラストの曲はスパイダース時代の名曲「あの時君は若かった」と「12月の雨」を上手くメドレーで繋げていて、アレンジは多分ティンパンだと思うが、センスの良さは流石だなと思ったことを覚えている。

 それでこの「セブンスターショー」だが記憶している限りでは、このユーミン・ムッシュと、その次の吉田拓郎の時だけである。なんとなく7日連続だったと思い込んでいたが、今調べてみると毎週日曜日の夜に7週にわたって放映された特番のようだ。確かに拓郎が出る・出ないで随分やきもきした記憶があるし、番組のオープニングは英文タイプで出演者の名前を打つのだが、ラストがTAKUROOOOOOとなっていて最後の土壇場になるまで出てくるかどうか分からなかった。7週にわたってということは49日、約1ヵ月半、丁度大学の春休み期間と重なっており、幸運にも僕は実家でユーミン・ムッシュの回と拓郎の回を見れたのだ。

 拓郎が出ることが確定したのは、このユーミン・ムッシュの放映の時に多分番組の半ばくらいだったと思うのだが、何かほかのことを喋っていたムッシュが突然「そうそう、吉田の拓ヤンね、来週この番組でますよ」と予告したのだ。あ、ここで「来週」といってるからやっぱり7週連続だったのだ。YOU TUBEのコメントにウソ書いてしまった。ま、いいか。

 それで拓郎の演奏だが良く覚えているのは「憧れのハワイ航路」を鼻歌とギターでちらっとやったことと、「三軒目の店ごと」を演奏している時に泉谷しげるが乱入してきて、拓郎とティンパンの連中が泉谷のことをボロクソに言ったところぐらいだった。しかし、この拓郎の回もちゃんとファンは見ているものでこのサイトで詳しく情報収集が出来て思い出したことも多かった。そうだ、フォーライフとして初の新人で川村ゆうこっていたよな。♪通り過ぎるあなたが風なら私もいつか風になりたい~などと歌っていたが、本当に風になってしまい、その時以来とんとお見かけしないがお元気だろうか。セットリストを見て思い出したのは、「春だったね」のイントロがとても力強かったことだ。ラストの「明日に向って走れ」はレコードだったのか。そういわれてみればそこのところだけ演奏シーンが浮かばない。拓郎は何年かに一度仲間同士で大声を上げて一緒に歌える歌を作る人だと誰かがレコード評に書いていたことを良く覚えている。僕はこの歌をよく朝の通学のエイデンに乗る前に喫茶店のジュークボックスで聞いていた。

 流れる雲を追いかけながら本当のことを話してみたい いつか失った怒りを胸に別れを祝おう 通りすがりに微笑を持ち一人であることを忘れた時 ノアの箱舟が笑って消えた 誰のせいじゃなく もう君に逢うこともない 心はゆれても だから 明日に向って走れ こぶしをにぎりしめて…


 いい詩だな。作詞家としての吉田拓郎は再評価すべきだと思う。などと今日はマジで締めるのだった。
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コメント

友達なくしても言いたい

私は、かまやつひろしがキライです。なんだって、あの二世という連中は、みんなエラそーなのか!? 堺正章しかり、林家こぶ平しかり、出て来たころの木村一八しかり。周りがへこへこするのは、テメーの力だと思ってるのか??
ついでに、かまやつひろしは声もキライなので、ダンナさんに「かまやつが歌っていない「シンシア」はないのか?」と聞いたところ、たぶんないというので、とてもガッカリ。
mixiでは、「誰それがキライって、あんまり言うもんじゃない」とダンナさんに釘を刺されているけれど、かまうもんかぁ~!!

拓郎

TVなんかには絶対出演しない・・・・こう宣言したとき、こいつも多少は骨のあるやつだ・・・と思っていた事があります。
しかしその宣言をドサクサ紛れに撤回したのか、・・・いいや宣言をしたことの撤回の弁などを述べずに、それからの拓郎は・・・・
変節を非難しているのではなく、こんなものは転向でもなんでもない・・・
ただ「あの時僕は若かった・・・など述懐の弁をしてもいいのでは・・・と
今も思っている小生は、心情的には、もっとラディカルな歌い手達との親和性が高いのですよ。
「旅の夜」「結婚しようよ」に至る風潮は、初期の拓郎
にあったものか、それとも時代に流されて行ったのか、時代の波に乗ったのか?
そろそろシッカリした拓郎論が望まれますね。

ほっしゃんはうどんを鼻から食べるという

芸風が我が家の配偶者からいたく嫌われています。また今回ご紹介いただいたツールですが、当方「来るものは拒まず、去るものは追わず」という革命的DRAC主義者のため無用の長物かと思います。友達100人できるかな、などと長閑なことを言ってるmixi主義者の方たちにご紹介されてはいかがでしょうか?

大好きです、狸さん

いえ、そのモノの言い方がです。そうなんだよな、親の威光を笠に来てふんぞり返ってる連中の多いこと。とりわけゲイノー関係とセイジ関係の方々。しかし、親があんまり有名で立派だと子供は大変ですよ、本当は。かって政権にいたムーミンパパなるニックネームのお方の息子さんが(回りくどい言い方だな)ハッパかなんかでパクラレて、裁判官から「有名で立派な親がいたことはプレッシャーか」みたいなこと言われて「ハイ」と答えざるを得なかった話を思い出しました。

いいじゃないですか、嫌いなものは嫌いだと大きな声で一緒に言いましょう!!

あの時代の幻想を与えた共犯者の一人として

コメントを出せれば拓郎も楽なんでしょうが、なかなかそうはいかないみたいですね。かぐや姫とやったライブでは長年封印していた「ペニーレインでバーボンを」を歌詞を変えて歌ったりしたので、ちょっと期待したのですが…。拓郎が大学の卒論で「私たちの歌から私の歌」という岡林主義(賛否両論あるものの共同体を歌った)からミーイズムの時代への転換、変換というべきかも知れませんが、を宣言したところから「確信犯」的なものは感じるのですが、一度彼の全アルバムを聞いてからそのあたりを考えて見たいと思います。でも拓郎全部聞くのって重たいですね。
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明日に向って走れ 歌詞 / 吉田拓郎

明日に向って走れ 歌詞 / 吉田拓郎(歌:吉田拓郎/作詞:吉田拓郎/作曲:吉田拓郎)

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