小噺その2

 小学校の算数で分数を習いましたよね。最近では分数計算の出来ない大学生がいるなんてマスコミが利用されて、しょうもない「教育改革」とやらの起爆剤にされていますが、ってそんな話ではなく、分数、特に帯分数の呼び方で年代が分かるという話を一発。映画ファンならフェリーニの81/2をご存知だと思うが、さてこの「81/2」をナンと読みますか。整数の8と真分数の1/2がくっついてるので「8と1/2」と読んだあなた。あなたはこれから先の話は、歴史上の話になるから読むのはやめておやすみなさい。「なにぬかしとるんじゃ、ボケェ。こんなもんハッカニブンノイチやんけ」という同志、友人、学友諸君に本日の話は読んでいただきたい。と、まあえらそうなことを書いたが、気にしなくてダイジョブです。まいどまいどの思い出話ですから。 

 ま、しかし先ほどの帯分数の読み方は、昔、教育産業で働いていた時に知って、中教審もつまらん事を決めるもんだと思っていたのだが、実は81/2というのは東京ロッカーズのバンドにもいたのだ。無論フェリーニの影響で付けたバンド名なのだが。このバンドはソニーが出した「東京ロッカーズ」には入ってなくて「東京ニューウェーブ‘79」に入っていた。当時この2枚のアルバムを持っている(聞いている)ことがパンク少年・少女の証だったのよ。と、過去を懐かしんでいるようではいけない。一体全体なんでいきなり分数の話などを始めたかというと、このまえ、「リトル・キッズ・ヴァイブレーション」をのぞいてみたら「3/4GUMBOS」というタイトルのエントリーがあり、なんとどんと亡き後のボ・ガンボスの残り3人がライブをやる、しかも場所は磔磔だと。しかも東京ではこの3/4GUMBOSに元ローザの玉城と三原が加わって、ボガンボローザなる特別グループとしてライブをやるとのことだ。

 いやー、どっちも見たいな。しかしあれほど行きたかったウシャコダにも行けない運命なのであるから、人生諦めが肝心。サヨナラだけが人生さ。と、ひねくれても可愛い年頃はとっくに過ぎたので、ここはひとつボ・ガンボスとローザ・ルクセンブルグの小噺でも書くとしよう。このバンドどちらも今は亡きどんとがボーカルの素敵なバンドだった。時代的にはローザで有名になったどんとが、ボ・ガンボスという、日本にはちょっと無かった独特のリズムとメロディを持ったバンドを作った、と言えるだろう。ニューオーリンズの野外で演奏したビデオやタクシーの運転手をしていたボ・ディドリーと一緒に曲を作ったビデオなんかは繰り返し何度も見たものだ。どんとのボーカルは最高だったが、僕はときどき照れたように歌うKyonのボーカルも好きだった。

 ところで、ローザ・ルクセンブルグの名前をはじめて知ったのはいつだったか。滝田修の京大パルチザンの映画を見た頃だったか、などととぼけてはいけない。いえ、実は尊敬する女性革命家の名前をつけたロックバンドが出てきたというのは、本屋でロック雑誌を立ち読みしていた時だと思うが、なにせその頃は基地外のように働く(働かせる)会社に勤めていたので、ほとんどロックを聴いていなかった。何しろ朝は8時に出社して、掃除をしてミーティングなる名目の営業数字必達の叱咤激励(オレの場合叱咤叱咤であったので、付いたあだ名がゴータマ・シッダルタだった、と書いてみたらあまり面白くなかった)、上司の罵倒が飛び交う中「イッテキマス」と大声上げて営業現場に行き、朝、昼、晩と駆け回り、ようやく9時過ぎぐらいに現場を終わろうとすると、必ずその日売り上げが届かず「納得がいかん」と言い出す先輩社員や上司がいて、早くて11時近く、一番遅かった時は深夜3時近くまで営業をしたこともあった。

 当時の住まいは会社の寮で、寮というと聞こえはいいが3DKの賃貸マンションに少ない時で6人、多い時は10人近くが生活していたので、プライバシーも何もあったものではなかった。ウォークマンで寝る前にちょっと音楽を聞くくらいで、連休で実家に帰ったときくらいしかレコードは聞けなかった。早い話がタコ部屋生活であったのだ。なぜそのような環境で働いていたかというと、自分自身はシホン主義社会なるものはいずれフンサイせんといかんと思っていたのだが、しかし、そのためにはシホン主義社会を知らねばならない、ならば一番熾烈な教育産業の営業で己を鍛えよう、というとちょっとエエカッコしいだが、まあ、そういう気持ちと大学6年間を自由にさせてくれた親に対して、ちっとばかしツミホロボシをしておこうという考えからだった。しかし、こういう生活をしているとだんだんその社会に馴染んでくると言うか、ものの考え方が影響されてくる。ちょっとカゲキハっぽい言い方になるが『ブルジョワイデオロギーを注入され、洗脳される』と言う感じだ。

 えー、話が妙な方向にそれたが、まあ、そんな環境にいたのでロックは雑誌からと、たまに聴くFM、それと深夜のテレビ番組(ezテレビとかいってエピックソニーのミュージシャンが良く出ていた土曜深夜の番組ありましたよね)くらいしか情報源が無く、ローザの名前は強烈なインパクトがあったもののたまたま知った曲のタイトルが「おいなり少年コン」とか「在中国的少年」とか「バカボンの国のポンパラスの種」などというものだったので、「なんじゃこりゃぁ」と松田優作的コメントを残して、音はまったく聞かなかったのだ。ところが、何かの拍子で多分「ライブオーガスト」だったか、演奏を聞く機会があり、「なんじゃこりゃぁ、ただしこちらはプラスの驚き」とコメントして、ボ・ガンボスのデビューアルバムを即購入したのであった。そういえば、それまで徹底してアナログレコードしか買わなかったのだが、このあたりからCDを買うようになってしまった。まさにシホン主義的堕落である。

 ボ・ガンボスの1枚目は凄かった。どう凄かったかというと1曲目からラストまで息つく暇も無く一気呵成に聞かせてしまう、そのノリ、ビート感。どんとの個性的なボーカルに絡むバックのギター、キーボード、ドラム、、ベース、つまりバンドサウンドが1枚目にして完成したものになっていたことと、歌詞のシュールさだ。なんせ、「ヘルプフラワーマン」で「どろんこ道を二人で」で「魚ごっこ」で「ずんずん」で「ワクワク」で、ってキリが無いのでやめるが、まあ凄かった。ちなみに以前勤めていた会社で社長を交えた飲み会があり、カラオケで「ダイナマイトに火をつけろ」を歌った所、次の日から僕に話しかけてくる人間が一気に減ったという、微笑ましいエピソードがある。

 えー、一体何処が小噺だとお叱りを受けそうだが、実はここからまた僕の京都時代の話になる。毎度毎度登場するライブハウスのサーカスだが、ここにはピンボールが置いてあった。30円で1ゲーム、50円では2ゲームという近江商人あたりが考え付いたような料金設定だったが、ちょっと凝った仕掛けのゲーム機だったので、ライブ前のミュージシャンや、常連客がいっつも占有していた。しかしただゲームをやるだけではつまらない。みんなコドモじゃないから、1点10円で賭けようかということになり、ピンボールの周辺には怪しい常連や店のスタッフが常駐するようになった。僕は自分で「ピンボールウィザード」と自称していたが、腕はイマイチだった。口惜しいが店員のS戸君やジュン(こいつはKyonがリーダーだったドクターというバンドのベースをしていた)にしょっちゅうカモられていたのだ。

 そのバクチ場ライブハウスに新しいバイトが入った。目がくりくりして愛想のいい男だった。確かS大の学生といってたような気がする。髪の毛は見事なアフロで丁度パンタが「マラッカ」を出した頃で、お店でそのアルバムをかけて「ブリキのガチョウ」という曲のところに来たら、♪アフロでちりぢりゼンマイヘアー、と大声で歌い彼の頭を指差して笑ったりした。ピンボールも最初は上手くなくて、僕も勝てるくらいだったのだが、何せ彼らは毎日やってるのでいつのまにか敵わなくなり、賭けも負け始めた。バクチというものは勝ったら現金でもらい、負けたら何だかんだいって払わないというのが唯一の必勝法である。いや、これは僕が言ったのではなく小島武夫大先生のお言葉である。

 そういうことだから、彼に負けても「ツケだ、次来たら払う」などといってうるちに結構な金額になった。ある日その彼がニコニコしているのでS戸君が「どうした」と聞いたら「drac-obさんに貸してるピンボールのお金がそろそろツェー万になるんですよ」と答えたらしい(ちなみにツェー万は1万のこと、コードのC,D,E~のドイツ語読みでスラングにするのがこの業界なのよ)。それを聞いたS戸君は「アホやな、お前。あいつがバクチの負け金払うかい」と一言。彼は「いや、そんなことないすよ、あの人は払いますよ」と言っていたらしいが、僕は彼に目先のお金にこだわるな、人生はこれからだなどと訳の分からないことを言って言いくるめた。それでも深夜2時くらいにお店が終わると彼の車で僕のボロ下宿まで良く送ってくれた。車はスカイラインジャパンである。こいつエエトコのボンやなと思った。僕の下宿は一方通行の路地を入ったところなので、いつも路地の手前で降ろすよう言うのだが、彼は「バックでいけます、ダイジョウブです」といって下宿の前まで送ってくれた。

 それから十数年たって、僕は本屋でロッキングオンジャパンを立ち読みしていた。特集記事にローザを解散した玉城の近況「組曲レッドツェッペリン」の特集があった。見開きのページに映ったもじゃもじゃヘアーの男の顔を見て僕はビックリした。「タマキや」。そう、ローザのリーダー、ギタリストの玉城はあのサーカスでバイトしていたタマキだったのだ。これには本当にビックリした。タマキー、ごめんな。あの時の掛け金は社会勉強になっただろう。あ、そうか、彼らがローザ・ルクセンブルグなどという革命家の名前をバンド名にしたのはシホン主義社会で痛い目にあっていたからだ(んなこたぁないって)。

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コメント

ローザ

小生の頃は、「ゲバルト・ローザ」という女性闘志の存在が噂されたことを思い出しました。美人、意志が固い、出自がいい金持ちの子女、男を男と思わない、常に前線の先頭に出る、ヘルメットが凄くよく似合う、男性活動家のシンボル的存在。・・・・確かにそのような女性何人かいました。救対の女性は、かわいい娘が多かったのですが、やはり憧れはゲバルト・ローザ。その筋の学生にとってはある種「マリア様」のような存在でもありました。

ぬかった

自分とこの日記で、すでにボ・ガンボスはネタにしてしまったので、書くことがない…。

しかし、深夜3時まで営業するお仕事って……!?

噂のゲバルト・ローザですね

僕の頃には女性活動家でB上さんという1学年上の長い髪に吊り上ったマナコの凛々しい方がいました。何故かこの人に目を付けられて、文連会議の後に雑用を言いつけられることが多かったです。やれガリ切り(死語ですね)を手伝えとか、レジュメの製本をしてくれとか言われ、ヘイタイの身でしたので泣く泣くやっていました。あっ、今考えれば僕に気があったのかも知れない、って、そんなことはナイ。イッチョマエの活動家にオルグしようとしてたのでしょうが、なんだかんだ言って逃げてました。結果的には大正解で、もしあのまま彼女の兵士になっていたら××寮の連中からボコボコにされていたはずです。くわばらくわばら・・・。

深夜3時までやったのは数えるくらいです

って、それが常軌を逸しているわけですが(笑)。営業のスタイルはいろいろ変化しましたが、一番始めは超原始的な飛び込み営業というやつで、あれには泣かされました。居留守使われるのはまだマシで、こちらの顔を見ると家から飛び出して逃げる人や、逆切れして怒り出す人、完璧に頭に血が上って「ケーサツを呼びますよ」などと絶叫する人とか、いや、今思い出すと美しき青春の1ページ、に、なるはずがナイ。深夜零時を過ぎると契約できるとか出来ないの問題の前に、家に入れてくれるかどうかが問題でしたが、そんな時間に「こんばんは」とドアをノックすると意外にすんなり話を聞いてくれることもありました。何しろ合い言葉は「電器がついてれば留守ではない」でしたので…。この頃の話も面白いネタあるので、少しずつ書いていきます(毎度おなじみ安請け合い、安請け合いはいいけど安普請の家はダメだよ、って何の話だ)。

ボ・ガンボス

30くらいの時に某大阪のFM曲主催の野外コンサートが今はUSJになっているあたりの空き地を使って催されました
スカパラやボ・ガンボスが出ていて野外の開放感、ビールの酔いもあってボ・ガンボスのビートに踊りまくっていました(Mっちゃんも一緒でした)
けど途中の曲でどんとがやたら「ニュー・オリンズに行こう」を繰り返し出し、しまいには「こんな駄目な日本を捨て、みんなで夢のニュー・オリンズに行こう」みたいなことまで言う始末
お前はキャプテン・アメリカか、このMCのおかげで完全にしらけて後の曲は右の耳から左の耳にすべて受け流す~♪(ムーディか)
周りのニーチャン、ネーチャンはMCのたびに「おーっ」とかいって拳突き上げていてますますどっちらけ
別に深くとらなくてもええんやろうけど
てめえら日本人やろ、日本のつけは日本で返せよ
ましてや借金はのしをつけてでも返さなアカンでしょ人として
と思ったことをふと思い出しました

ちょっと違うけどスプリングスティーンの初来日で
「ボーン・イン・ザ・USA」と歌うボスに「イエィー!!!」とか大声上げて拳を突き上げているのを見て「欧米か!」(なんて当時は言いませんでしたけど気分はそんな感じで)とどっちちらけたこともありました
いやぁいけませんね朝日新聞を長く読みすぎて民族派になってしまったようです

へー、そんな発言があったのか

というか、ニューオーリンズにイカレテシマッタ音楽家は結構いるし(例;ヤマギシ)、どんとの精神的な部分に「ここじゃないあそこ」的な要素が強かったから、そのようなタワゴトを言ったのではないか。表現者がライブで、どのようなアジテーションをしようが勝手だが、「ニューオーリンズに行こう」で「イエー」なんてやってる兄ちゃん、姉ちゃんは所詮ロックとは何も関係ない、もっといえば別に音楽でなくても集合できる場所と要因があれば何処でも右手を上げる人たちじゃないの?

まあ、そういう連中が憲法を「改正」するとか「国民投票」だとか、「選挙権」の引き下げなんかに踊らされてるのを見るのはいささかロシアンルーレット的でなんとも言えないが。しかし君も「アカイアカイ朝日」読み続けて「民族派」というのも屈折してるな。オレなんか「前進」と「解放」を、読んでないっちゅうに!!読んでるのは「プラハからの手紙」だけだ、って分かりにくい話だな。

こんにちわ。
玉城さんのいい話、ありがとうございました。
ローザ解散後に玉城さんのバンドはいちど見たことがあります。
そのときもツェッペリンとジミヘンをおそろしく恰好よく弾いてました。

ところで、帯分数というのが新鮮でした。意味がわからずネットで調べてしまいました・・・。

小学校4年生で分数の種類を

教わったはずですが、実社会では使わない用語なので忘れてしまいますよね。昔は頭の大きい人のことを「カブンスウ(仮分数=その心は分子と分母が同じか、分子のほうが大きい、つまり頭でっかち)などと呼んでからかっていた思い出があります。最初に働いた会社が教育産業だったので、お客さんとの会話のつかみに「道のりと距離はどう違うか説明できますか」とか「右という漢字と左という漢字を正しい書き順で書いてください」なんて小技を使っていました。ま、しょうもないつかみですが。
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