気まぐれ連載~フォークソングクロニクル その1

 狸さんとbarrett_hutterさんのコメントに触発されて、「私とフォークの出会い~70年代サブカルチャー批判~風は吹かなかった」みたいなタイトルでエントリーを書こうと決心した。決心したのはいいのだが、正直記憶が混乱しているところが多い。あんまりウソや事実誤認が多いのもいけないと思い、手元に本や資料を揃えているうちに、僕のブログを読んでくれる人たちは「正確な記述」や「歴史の生き証人」的なことはあまり、というか、ほとんど期待しておらず「正確さと面白さを量りにかけりゃ、そりゃもちろん面白さが最優先」的なノリを期待してくれているのではないか、いや、そうに違いない、とパラノイア的確信が生まれてきたので、例によってヨタ話から始めて行く。まずは僕とフォークの出会いを書いておこう。

 僕が始めてフォークと出会ったのは、68年の夏休みに父に連れられて大阪の親戚の家に遊びに行ったときだった。当時宮崎大阪間はまだ飛行機が飛んでおらず、あれ、そう教え込まれていたから、今まで疑問に思わなかったがちょっと待てよ。今Wikipediaで調べてきたら、宮崎空港は60年代の新婚旅行ブームから「日本一のローカル空港」などといわれて、当然68年には大阪まで飛んでおったわ!!クソッタレ、今まで騙されていたのか。♪みんなビンボが悪いんや~(by岡林信康「チューリップのアップリケ」)ほらフォークがからんできた。まあ、しがない地方公務員の父であったので大阪まで飛行機で行くなどという考えは毛頭無かったのだろう。もちろん僕自身も飛行機など論外で、当時はまだフェリーも通ってなかった上に、山陽新幹線も開通していなかったので、朝方日豊本線の特急電車に乗り、そのままひたすら九州を北上して関門トンネルを抜けて、そこからまた山陽道をひたすら走り「線路は続くよ、どこまでも」というのは決して単なる歌詞ではないということを体験しながら、目的地の大阪に「たどり着いたらいつも雨降り」ではなかった、たどり着いたのは深夜に近かった。

 丸々半日も電車に揺られていたので、歯茎の付け根はがくがく言うわ、運動不足で身体のあちこちが痛かったのを覚えている。しかしまだガキの頃だったので、大都会大阪に出てきたという興奮で目がらんらんとしていたはずだ。そういえば、その行きの電車の中で面妖な食い物に出会った。7月の終わりだから、夏の真っ盛りで冷房がギンギンに効いている車内に、えーと売り子さんというと失礼なのか車内販売のおねーさん(当時はローティーンのクソガキ時代だったから文字通りおねーさんのはずだ)がお弁当やビールやジュースなどを売りに来るのだが、あるとき父が手を挙げて呼びとめ、何かを買った。赤いネットに入ったそれは50センチくらいの数珠繋ぎ状で白い煙が出ていた。ネットを破ってその中のものをひとつ取り出してくれた。冷凍蜜柑であった。60年代末は、果物そのものが比較的高価なものというイメージがあったし、第一季節のものはその季節にしか口に入らなかったので、真夏に食べる蜜柑というシチュエーションに随分驚いた。

 更に驚いたのは、その冷たさである。冷凍してあるのだから当たり前といえば当たり前なのだが、甘いとかすっぱいとか味わう前に、その身も凍るような冷たさが美味しく感じられた。しかし2,3個食べると口が冷たくなりすぎて寒いくらいだったので、そのまま食べるのを止めて窓のところに置いていた。その旅行にはいとこも一緒に行ったので、二人で騒いでるうちに蜜柑の存在を忘れて、小一時間経ってから窓辺のしずくに気がついた。冷凍蜜柑が自然解凍されており、みずみずしい果物本来の感触を取り戻していた。思わず口に入れたら甘かったこと、甘かったこと。それからしばらくの間は、世の中で一番美味しいのは冷凍蜜柑だと固く信じ込んでいた。

 さて、フォークとの出会いであるが、その大阪旅行の時にあるデパートに連れて行ってもらった。これは何回考えても何処だったか思い出せないが、宮崎(当時は延岡市という宮崎県の北側に住んでいたが、そうそう、「坊ちゃん」でうらなり君が飛ばされた「日向」の「延岡」である)のデパートとは比べ物にならないくらい大きくて陳列している商品も多かった。そのデパートで、書籍売り場をうろついていた時に、父が「好きな本をどれでも1冊買ってやる」と言った。我が家はビンボーだったのでこのようなことは滅多になく、完璧に僕はぶっ飛んでいたのだが「マンガはダメじゃろ」と「JAROってなんじゃろ」みたいな質問をしてしまった。その言葉を発した後「シマッタ、せっかく父が大盤振る舞いしてくれると言うのに余計なことを言った、怒られる」と覚悟したが、父も機嫌が良かったのだろう「巨人の星ならいいわい」とアンビリーバブルなことを言い出した。

 話は脱線するが(って、もう随分脱線してるんですが、という声なき声が聞こえる。この国の為政者達もこのような声なき声を聞こうとする気持ちを持って欲しいものだ、などとアリバイ的な発言をかましておく)、我が家ではマンガはご法度。父が教員だったため、家の中にはマンガ類は一切無かった。後年弟が「ハレンチ学園の映画を見に行く」と言ったところ父から「おなごんこのスカートをまくるような映画を見るとは、何を考えちょっとかー」と一喝され、しばらくはげん骨と説教が続いた。オレは誤爆されたが、友達の家や床屋でジャンプの「ハレンチ学園」は欠かさず読んでいたので、バチが当たったとそのときは思った。そのような、家庭環境にいた僕なので父親公認でマンガが買えるというのは夢のような話で、巨人の星の単行本を何度も何冊も見比べ、ついに星雲高校が甲子園に行く話が出ているものを買ってもらった。

 デパートから帰るや否や僕が、包装紙を破って単行本のページを開いたのは、ご想像のとおりである。その巨人の星のストーリーは、伴とバッテリーを組んだ星が弱小星雲高校を率いて、甲子園の第1試合を闘うところから始まっていた。星の相手は高校名は忘れたが、超高校生級のピッチャー太刀川が率いるチームだった。1回の表、太刀川はその落差の鋭い変化球で三者連続で三振を取った。かたや星は三者凡退に討ち取るが、全て打たせて取るピッチングであった。それを観客席から見ていた花形は「我が宿命のライバルは、一段と恐ろしい男になって甲子園にやってきた。取ろうと思えば取れる三振をバックを信頼して打たせて取るとは、恐ろしくてションベンばちびりますたい」となぜか後半は左門豊作が出てしまったが、たしかこんな感想を言うのだが、僕は納得がいかなかった。『なんでや、バックの選手がエラーしたり悪送球したりしてピンチになったり、万一点を入れられたら、星雲高校は点数取れるやつはおらんぞ』と考えたのである。たかがマンガに感情移入しすぎだが、こういう性格なのでしょうがない。こういう思い入れがあるからロックやフォークにうつつを抜かし、近所の団地のオバハンに「○○さんとこの息子は、親は先生なのにバカ息子」と陰口を叩かれるようになるとは、その当時は夢にも思わなかった。さらに成長すると「アカ息子」と言われて…、ま、その話は良いか。

 えーと、いつフォークと出会うのだと怒りのまなざしで見ている皆様へ。フォークはもう出ました。超高校生級の太刀川が投げる変化球がフォークだったのです。そりゃ、フォークボールだろ、村田兆治だろ(例えが古くてすいません。ここ何年もプロ野球見てないモンで)、と、突っ込まれそうなので、少しフォークとの出会いを書きます。初めてフォークをフォークとして意識して聞いたのは岡林信康のベスト盤「岡林信康の世界」を友人に借りて聞いた71年だったと思う。もちろん流行歌としての「バラが咲いた」や「帰ってきたヨッパライ」「受験生ブルース」「白いブランコ」などは当然知っていたが、それらはちょっと変わった歌謡曲という認識だったと思う。岡林はラジオで聞いてその歌詞に驚き、こんなことを歌にしていいのかという気持ちとそれでいいのだというバカボンのパパ的気持ちが合体して、すぐに友人からレコードを借りたわけだ。その友人も兄がフォークが好きだったので岡林のアルバムを持っていたわけだが。

 そのビックリした歌詞は今聞き直すと、少し苦しいところがあるが60年代末の「何かが変わるかも知れない」という時代の息吹を表していたと思う。

「くそくらえ節」

ある日学校の先生が生徒の前で説教した
テストで100点とらへんと
りっぱな人にはなれまへん
くそくらえったら死んじまえ
くそくらえったら死んじまえ
この世で一番えらいのは
電子計算機

ある日会社の社長はん
社員を集めて説教した
君達ワタスを離れては
マンズ生きてはゆけない身の上サ
くそくらえったら死んじまえ
くそくらえったら死んじまえ
金で買われた奴隷だけれど
心はオレのもの



電子計算機などという言葉が哀愁を誘うが、この歌の最後の2行は未だに職場で呟いている、進歩の無いオレであった。次回は真面目に70年代フォークについて語るのココロだー!
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コメント

69年頃でしょうか?

当時まだ子供だった私ですが、夏休みに母親の実家に寝台夜行に乗って向かう途中、真夜中に時ならぬお姉ちゃんの嬌声で目を覚ましました。

窓の覆いを開けて見たところ、途中停車の真夜中の田舎町のホームにうら若いお姉ちゃんが、立錐の余地もなく立ち並んで、盛んに「キャーキャー」言ってます。当然、乗客は睡眠を覚まされて何事かと起き出しました。なかには車掌に苦情を言う人もでてきます。

しばらくすると、真夏だというのに虎の毛皮を着たお兄ちゃんが数人ホームに現れて、なんだか言ってます。数分後、虎の毛皮を着た格好つけたお兄ちゃん、そう実はザ・タイガースのジュリーが、寝台列車の客室を回って、謝りに来ました。しかし、それでは収まらない人も多くいて、早々にジュリーは追い返されてしまいました。

また、しばらくすると今度は、押し出しの強い虎の毛皮を着たお兄ちゃん、つまり後の俳優、岸部一徳がやって来て、深々と謝罪をして無事その場は収まりました。今でもはっきり憶えていますが、当時からこの人何だか妙に存在感が強くて、オジサン、オバサンも黙らせる妙な説得力がありましたね。

冷凍ミカンで思い出した真夏の夜の夢のような、私のザ・タイガースとの邂逅話です。

そーいや「超特急」だった新幹線

確定申告の書類を見ていて、減価償却の欄に「電子計算機」という単語を見つけた時には、ぶっ飛びました。いや、私が仕事を始めた頃の話ではありません。ここ4~5年の話です。
ここんとこ、説明書も読まず、テキトーに記入しているため、それが今どうなっているか、わかりませんが。
さすが、美しい日本の言葉を守るために、本業以外でも心配りを忘れていない税務署って、ステキ!――んなこたぁないっっ。

飛行機どころか、新幹線でさえ「もう乗った!?」というのが話題になるような時代でしたね、子供の頃は。

うちの両親は、極力移動手段は速く、という連中です。なぜなら、乗っている時間が長いと、飲み食い(おもに「飲み」の比率が高い)するため、余分なお金もかかり、着くまでにべろんべろんになってしまうからです。トホホ。

失礼ながら・・・

まだ私という種も卵もなかった時代のことなので、失礼に当たるかも知れませんが、とても楽しく拝見させていただきました。
太宰治の人間失格の葉ちゃんの幼少期のようなイメージでdrac-obさんを思い浮かべていました。
列車での移動っていいですね~☆しかも大阪での父子のやり取りが宮本輝の世界のようで・・・うっとりしていました。
わたしも父が教師で厳しく漫画は厳禁でした。(いまだに読み方がわかりません)
当時の唄をまったく知らないわたしですが、歌詞を見て身震いしました。
嘔吐を伴うような衝撃だったんじゃないですか??
私は大阪人だからかもしれませんが、大阪弁って本間に言いたいことが一番わかるようにいえる響きがありますね。情熱ときれとわずかなやさしさ、誇りのある言葉?音?が響きそうです。
素敵な日記です~。続きをぜひ拝見させてくださいね。

barrett_hutter さん、不思議な体験を

されたんですね。タイガースファンの女の子なら白昼夢で見そうなお話ですが、正しく「真夏の夜の夢」だったのでしょうか。ジュリーで苦情が収まらずサリーで収まると言うのがなんとなく頷いてしまうところです。そういえば弟のシローは今でこそケチとか破産とかカッパ(これは古いか)を売りにしていますが、一時期は、かのブレッド&バターを従えて、ダニエル・ジュラールの「バタフライ」なんか歌ってました。日本のフォークロックというかシンガーソングライター路線を開拓しようとしたようですが続かなかったですね。

ノーノー「夢の」超特急ですよ「夢の」

なんといっても「こだま」だったのが「ひかり」になったのだから、もう大変。音の速さよりも速い、光の速さですよ。光速エスパーですよ(これまた古い、申し訳ないがお若い方は知らないだろうな)。かって、国鉄時代のこの国の技術は素晴らしく、リニアモーターカーなんかも、そのうち実用化されると思っていたけど、どうやらなかったことにしているような気配が…。

そうそう、リニアといえば宮崎に実験線があったのだけど、当時運輸相だった現東京都知事(東京都民の皆様の判断を尊重いたします、クソッタレ)が「豚小屋や鶏小屋の間を走っている」と地方を見下した発言をしたことがあった。その発言を聞いて、アノヤロー、障子にペ○ス突き刺したままヨットで溺れてしまえ、とカゲキなことを考えたこともありました。

>まだ私という種も卵もなかった時代

って、流石に医療関係者の表現はユニークだなと感心しました。その後意味を考えてため息が出ました。そうか、まだこの世に存在する予兆すらなかった時代なのかと…。

蜜柑が出てくる電車の話なので芥川が出てくるかと思ったら、太宰と宮本輝って、こちらが恥ずかしくなるような名前が出てきて、恐縮です。岡林の歌は今聞くとサウンド的にはつらいものがありますが、やはり同時代の人間としては励まされることが多いですね。ただdahliaサン達の世代にはどうなのかな。救いはサンボマスターがコピーする音楽だという点でしょうか。もし興味があればデータ送りますね。

人を不愉快にさせる才能のある御方

リニアの実験線は、山中湖に行く時には必ず通る所に、まだ線と駅が残ってますよ。
というか、見学できる施設になってる様子。これにまた、「維持費」ってやつがかかるんだろうなぁ。

チ○ポを突き刺せる障子があるヨットって……。でも、オカネモチだったら、そのぐらい趣味的な造りにするのもアリかも。いずれにしても、ビンボー人には縁のないことでございますね。

そーか、そーかリニアの実験線は

そちらに行ってしまったんですね。しかし、最近はとんと話を聞かないと思ったら、そのように朽ち果てていたのですか。典型的な箱物行政のしわ寄せですね。

ところで『チ○ポを突き刺せる障子』、って、オレそんなカゲキなこと書いたのかと驚いて、自分のコメントを読み直したけど、僕はちゃんと『ペ○ス』とオブラートにくるんだモノの言い方をしてますよ。狸さんお下品!!いや、スキモノなのか…。
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ハレンチ学園『ハレンチ学園』(ハレンチがくえん)は、永井豪により1968年から1972年まで週刊少年ジャンプ誌上に連載された漫画作品。当時の少年誌としては過激な性表現で物議をかもした。.wikilis{font-size:10px;color:#666666;}Quotation:Wikipedia

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