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豊田勇造とかまやつひろしは似ているか?

ムッシュこと「かまやつひろし」ていうか直太郎のオジキ

 後輩のsugarmountain君に嵐と呼ばれたdrac-obです。ここ最近は家族ネタで日記を汚してましたが、今日「鳥肌音楽」を覗いたら、あら懐かしい豊田勇造の話が。しかし、sugarmountain君そこは腐っても元DRACの人間だけあって、ちゃんと豊田勇造の生き写しというか、ドッペルゲンガ―というか、中山ラビすら間違えて、本人も鏡に映った己の姿だと思った、伝説のS戸勉君のこともちゃんと書いていました。今年の正月にやはり同級生のN谷君から聞いた話では、いまや大手の会社の経営サイドのえらいさんになってるらしいが、今日はそのS戸君と出会った頃の話をしよう。したがって時代はまた75年の春、場所は京都ということになる。しかし、S戸君の話をするためにはどうしてもF田敏雄君が登場せざるを得ないのだが、そのあたり関係者の方は寛容な心で、ね。

 九州の田舎から出てきたばかりの僕は、隣の九州人だらけの下宿の先輩や友人にそそのかされてサークルに入ることにしたのだが、最初に入ろうと思っていた「音楽研究会」のBOXがたまたま閉まっていたため、似たような名前で「レコード音楽研究会」に入ってしまった。しかしBOXの雰囲気は大変悪く、先輩たちも「男は日に三言」を不言実行しているような人ばかりに思えたので、2,3回BOXを覗いたものの幽霊部員のままでいいか、もし何か言われたら辞めればいいやと思っていた。というのも同級生が少なく最初に知り合ったF田敏雄君は一浪していたので、敬語を使って接していたし、同じ現役だったE副はジャズしか聞かずロックを小ばかにしていたので最初はなじめなかった。そんな中でS戸君は一浪でありながらも人懐こく、また外見、髪型が当時はかまやつひろしに似ていたので僕とF田君の間では「かまやつ」と呼んでいたのだ。

 ところで、それほど行きづらかったBOXに頻繁に通うようになったのは、F田君のおかげというか、おせっかいのためである。サークルではなかなか親しく話す相手がいなかったので、自然とクラスの仲間と仲良くなっていった僕は生まれついての食い意地の汚さのためにクラスよりサークルの比重が高くなってしまうのだった。しかし、今考えると50何人かのクラスで男は二桁いないという「ハーレム」というか「はらいそ」というか「天国に一番近い島」状態だったのに、僕は何が悲しくてあの薄汚い別館に嵌っていったのだろう。ああ、人生が二度あーれば、このじーんーせいがにーーーどあーればああああ(byご存知陽水)。

 4月の終わり、いや5月の半ば過ぎだったと思う。土曜日の2限目の授業が終わり、自転車で通っていた僕はクラスの連中より早く行き過ぎたので、当時1,2回生の授業が主だったS町キャンパスから本学のあるI出川キャンパスに向かう途中にあった学生会館のところで自転車を止めた。道は一本道(♪ふと、後ろを振り返るとそこには夕焼けがって歌わなくていい!!オッサン)なので、すぐに友人たちと合流できるつもりでいたのだ。まだか、まだかと人の流れとは反対の方向を眺めていたら、ポン、ポンと肩を叩かれた。振り向くとF田敏雄君が満面の笑みをたたえて立っていた(書き忘れたが彼は淀川長治にクリソツだった。道頓堀の赤い縦じまの人形にも似ていた。そうそう昔NHKでやっていたケペル先生にも良く似ていた)。「何してるんですか、こんなところで」知り合った頃の彼は何故か標準語でよく話していた。「あ、F田さん。今クラスの友達を待ってるとこです。昼飯でもおごってもらおうかと思って」と答えると(F田君は1歳年上だったので、最初は「さん」付けで呼んでいたのだ。こういうのが「長幼の序」というのだよ、sugarmountain君)、彼は屈託のない声で「甘いなー、それよりどうです。ボックスまで。一緒にご一緒しませんか?冷たいものでもおごりますよ」

 ああ、このときに「一緒にご一緒」などと意味を重ねるというか、意味は分かるが意図不明な言葉をもてあそぶ彼のような人間の後についていったのが一生の不覚であった。この他にもF田語録はいろいろあり、以前のエントリーでもいくつか紹介したが、今日は特別サービスであとちょっと。UCCコーヒーのカミジマというのもあった。「上島」だから「カミジマ」と読めなくもないが、じゃ最初の”U”は何だよ。「ウエジマ」だから”U”じゃないのか、と心ある人たちは突っ込んだものだ。またレコード関連では「廉価盤」を「ケンカ盤」、まあこれは結構間違って覚えてる人もいるが。それからジャズ班のリーダーともあろう男がかのジャズ評論家を「アブライ正一」などと呼んだりした。この手のネタには不自由しない男だったが、その彼に「冷たいものでもおごる」という一言につられて、学生会館の2階の喫茶室でトマトジュースをご馳走になり、そのままサークルのBOXに行き、F田君はそのキャラクターで既に先輩たちから認められていたので、僕も結構居心地がよくなり別館生活が始まったのだ。

 そうそうS戸君だった。彼は僕が入ったすぐ後くらいにサークルに入ってきたのだが、なかなか直接会うことがなかった。サークルには会員用の名簿ファイルが置いてあり、それを見るといつ、どんな人間が入ったか分かるのだが、どういうわけか僕もF田君も同級生が入ったことは知っていたが、顔も形も見かけなかった。ただ僕がBOXに入るときにすれ違ったり、彼にあった先輩方の話から「どうもかまやつひろしに似ているらしい」とか「ロンドンブーツを履いてるらしい」とか「岩倉(京都の北部、当時は電車の数が少なく岩倉に住むというと隠遁生活みたいなイメージがあった)から通ってるらしい」などといった噂だけが先行していた。6月に入ってコンパが計画された。夕方の6時くらいに集まって、みんなで祇園の会場に行くという予定を立て、その手のことが大好きな連中はその日早めに集合して雀荘で時間つぶしをしていた。僕も当然そのうちの一人だった。

 僕が覚えたてのマージャンで悪戦苦闘してるときに後ろに近づいてきた男がいた。多分F田君(彼は最初の頃はマージャンをしなかった。ルールを覚えられなかったという説もある。覚えた後は気が○ったようにやりまくった)だと思い、顔も見ずに「遅かったじゃないですか」と声をかけたら、そこにいたのは「かまやつひろし」だった。「お前1回生やろ、オレも1回生や。仲良くしようや」初めて会った人からそんな風に言われたことがなかったので戸惑った。もちろん名簿で彼も1歳年上なのは知っていたので一応「はい」と返事はしたが、ずいぶん馴れ馴れしい男だなというのが第一印象だった。その後はこちらがゲーム代を払うのに「オレにもちょっと打たせてくれ」といって勝手に変わったり、打ち込んでしまうと「もう、ええわ」といって引っ込んだり、ちょっと不思議な男だった。

 コンパが始まる前にF田君に「かまやつ、来てますよ。ちょっと変わった人です」とこっそり打ち明けたが、何しろ1回生が少ないサークルだったので、お酒と共にすぐ打ち解けた。その晩はF田君は堺から通っていたし、S戸君は終電の早い岩倉生活者だったので僕の修学院の下宿に3人で泊まった。酔っ払ったF田君はパジャマ代わりのジャージを穿こうとして足を取られ、網戸に頭をぶつけてその網戸を屋根の上に落としてしまった。そのときに箒の柄のところを利用して拾ってくれたのがS戸君だった。こうして花の75年度生トリオが出来て2年後に栄光あるDRACの会長、副会長、文連常任委員の役職に付くのであった。だからといって何も変わらなかったが。

 久しぶりの昔話ですが、この3人がこのあと数奇な運命をたどっていく話はまた機会があればアップしようと思います。とりあえず今日のところは、こんな友達がいたのだという僕自身の記録のために書いたので、あまり面白くなかったと思います。ゴメン。

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コメント

本日の重箱

UCCは「ウエジマ」ではなく「ウエシマ」コーヒーです。
すみません、どーでもいいんですけど、親戚にコーヒー屋関係がいるもんで。

是非

続きをお願いしたい。
学生時代のサークルの話は、とても面白いから。

仏壇返しというと語弊があるので

重箱返しですが、えーと、そうですね。ずっと「ウエジマコーヒー」と思い込んでいましたが、最初に入った会社の熊本支店が上島コーヒーの近くにあり、ちょくちょく仕事サボってコーヒー飲んでたので、そのときに初めて「ウエシマ」が正しいと知りました。ここでは、F田君の発言どおりに表記したので「ウエジマ」と書いてしまったのですが。
しかし狸さん、よく見てますね。油断大敵火がボーボーだ。ところでこの「火がボーボー」って何の意味があるのだろう。

書いてる本人は面白いとは

あまり思わないのですが。記憶違いや忘却のかなたに行かないうちにブログに残しておこうという足掻きです。しかし悲しいぐらいに75年の話が多くなってしまいます。それだけカルチャーショックが大きかったのでしょうか。続編はタイミングを見て書きます、なんつってすぐ続いて7月の鳥取合宿編なんかアップしそうですが。
ところで、コピペしてちょっとアレンジしてOBブログにアップしてもいいでしょうか。79年以降の連中がシャイなのか、先輩を見放してるのかレスポンスがないもので…。

OB諸氏、その後のDRACのこと、知りたいと思っているはずです。
なんせ1970年に廃部近くまで言ったサークルでしたから。このあたりのこと、いずれ書き残しておきたいと思っているのですが、それは個人ブログにて。

後輩連中に声をかけていただき、是非ブログ参加をサイド呼びかけてください。
団塊の世代だけでまとまる何ぞ、醜さが極まります。
ROMだけですが、3年先輩の女性が見つかりました。自分でも秘密のブログはじめたそうです。

今秋には拡大OB会が開かれる予定だと聞いています。いずれその時期に連絡しますので、知る限りのOB諸氏への連絡よろしく。

OB会ブログ、ダイナミックに活用ください。

もしかすると、こっそり

個人ブログを開設しているOBもいるかもしれませんね。昨年末から今年にかけて、二桁近い後輩に手紙や電話で参加を募ったのですが、「もう音楽と接点がない」とか「上手く文が書けない」とか「読むだけで楽しい」といった消極的な意見ばかりでした。再度思い切りアジってみます。しかし先輩としての恫喝が効かなくなってるのがつらい。

DRAC-OB会には

大学のサークルOB会は、やはり同じ時期の者同士の交流の場でしかないのでしょうか?OB連中の中でも、われわれより、2年時代が下がると、まったくの反応が返ってこないのは、彼らがまだ現役だからでしょうか。「ネットに慣れてない」性でしょうか。それに比べて、2・3年先輩はそうでもなく、メールやインターネットを使いこなしている人が多いのが現状。団塊世代のITリテラシーは、DRAC-OBの連中を例にすれば、二極分解している様相です。
会社では一体・・・・?えらい肩書きを持っている人ほどダメかもしれません。

連絡が取れる後輩連中に、一度OB会登録の是非を聞いておいていただけませんか?貴君の同期の連中でのミニOB会はあるのでしょうか?

懐かしいと思いながらも

ネットでの交流に及び腰な連中が多いのは、あまり世代、年代関係がないように思います。僕自身もほんの数年前はブログは読むものであり、コメントするとか、ましてや自分で運営するとは夢にも思っていませんでした。ちょっと重い話になりますが、一度自分の人生が「物理的」にも「精神的」にも終わったと思い込んでしまい、そこから何とか生き延びた時に過去の総括と今後の展望を見直そうと思いブログを始めました。PCのことはほとんど何も知りませんでしたが、ブログを続けているうちに多少は覚えて行き、なんとかなっています。このブログのおかげでsawyer先輩をはじめ色々な方との交流が出来て、その楽しさを後輩連中に広めようとしましたがなかなか…。また時機を見てメールで呼びかけてみます。

同期の関西在住の何人かはランダムに集まっているようですが、組織されたOB会はないと思います。僕のほうはなんせ「陸の孤島」に住んでるもんで、関門海峡を越えるのが大変なんです。
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Author:drac ob
1975年5月から1981年3月まで、眺め続けた景色から時代と文化が見えてくる。混迷と停滞の時代を撃つ、はずはない。

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