帰ってきた過去への旅路 その3 大衆食堂について考える

 出会いというのは不思議なものである。あの時、もし素通りしていたら、行動をためらっていたらその後の人生は大きく変わっていたかもしれない。というようなことが、つい最近、正確にいうと先週の土曜日に起こった。実は、いま書いている「帰ってきた過去への旅路」は、今年の1月に3泊4日で行ってきた関西ツアー、正確にいうと京都・大阪の小旅行印象記なのだが、そもそも何故季節の中で一番寒い1月に関西に行くことになったか。これはblog仲間というか、花の75年度生トリオの一人であるPurple_Hazeさんが、大阪でライブをやるから来ないかと誘ってくれたおかげである。もっとも、普通のライブであれば南九州の田舎から花の大阪までヒコーキに乗って飛んでいくなんていう豪遊はキビシー、非常にキビシー(by 財津一郎)。が、しかし、男だったら意気に感じて行動することが大事だ。同じ年に大学に入り、その当時は全く面識もなかったが、これも共通する大学の先輩、故塩次伸二のライブレポートがきっかけ、あれ、違ったっけ、それはThis boyさんとの出会いだったか。そうだ、Purple_Hazeさんとの出会いは僕の大学のサークルの後輩のsugarmountain君のblogのおかげであった。などということを書いているといつまでたっても話が進まないので、何故僕が大阪まで彼のライブを見に行ったか、Purple_Hazeさんのblogのリンクを貼っておくので、想像してほしい。

 おっといけねえ、出会いの話だった。5月はライブタイムで女性ボーカルのライブが2本あった。1つは平賀マリカと宮崎出身のピアニスト荒武裕一郎にベースとドラムという構成のライブ。そしてもう1つは大学の同じ学科の2年先輩である大野えりのライブで、こちらはギタリスト2人と一緒にやるという。そのライブの話はまた別の機会にする。そして、じつは白状するが5月は平賀マリカのライブにも行ったし、職場の呑み会もあったし、連休明けでやや手元不如意ではあるし、当日激しい雨が降ったりやんだりの天気だったし、一瞬バックレという単語が浮かんだのは事実だが、いやそういうことではいかん。義理と人情が新島先生の教えだったはずだ(ホンマか)。いくら一緒に行ってくれるおねいさんがいないからと言って、パイセンのライブをシカトするなど、てめーたちゃ人間じゃねー、叩っきってやる、と何を興奮しているのか良く分からんが、とにかくライフタイムに行ったのだ。



 もちろん、大野えりのボーカルも素晴らしく、またギター2本の絡みも面白くライブを見ていたら、メンバー紹介の時にえりさんが「そしてもう一人のギタリスト、井上智。彼は大学の後輩で、やたら先輩先輩と言ってくるので、いくつ違うかと聞いたらたったの2年しか違わない」という話をしてくれた。え、2年しか違わないということは75年度生じゃないか、そういえばPurple_HazeさんのblogだったかFBの投稿だったかに、井上智というギタリストが同級生だみたいなことを書いていたっけ。こりゃ聞いてみないといかんと思い、ファーストセットが終わった後の井上さんに声をかけた。そうしたらあなた、驚き桃の木です。備後です。いやBINGO。もちろん75年度生で、Purple_Hazeさんと同じライラック・レインボーで一緒に演奏していたというではないか。また大学を卒業する時もPurple_Hazeさんと一緒にプロを目指そうと励ましあった仲だと聞いてクリビツですよ。早速、FBに写真とコメントを投稿したらPurple_HazeさんもThis boyさんもコメントくれて、お、ということは花の75年度生カルテットができたじゃないか、などと浮かれていたら、Purple_Hazeさんから早く「帰ってきた過去への旅路」の続きをアップしろとお叱りをいただき、大急ぎでこれまでの下書きを整理しているところ。というわけで、ここから下が以前に書いて中断していた話になります。若干、時系列がおかしくなってるかもしれんが、そこはかんにんや~。

 しかし、いつも思うことだが歳月の過ぎるのは早い。このエントリーの元になる京都・大阪ツアーから丸4か月以上が経過してしまい、前回書いた話は2月25日だったなと確認のために今見たのだが、なんと「インターミッション」、つまり旅行記ではなく旅行の時に買った本をネタにして話を広げている。本来の「帰ってきた過去への旅路」は、いったいいつどこまで書いたのか、大慌てで見直すと2月9日のアップであった。ということで、気分は2月10日に戻って、その頃の記憶をたどって書いていく。

 iPhoneからの投稿でも書いたが、記憶は味覚を美化すると思う。出町の王将で早めの夕食を食べながらつくづくそう思った。この分だと、仮に出町の冷麺屋が営業していたとしても、多分、「こんな味じゃなかった、これは違う、パチモンや~」と叫ぶこと間違いない。なんでだろう、なんでだろうとその昔ジャージ姿で面妖な踊りをしながら(一人はギターを弾いていたな、確か)、しょうもないことに疑問を感じてそのことをネタにしているお笑いコンビがいて、ワタクシの疑問は正しくそいつらのネタと同じ次元ではないかと一瞬思ったが、そう考えると悲しいのでやめた。

 思い出の出町の王将は、外見上は40年前とほとんど変わりは無かった。しいて言えば、入口のショーウィンドーに貼っているメニューがかなり増えており、以前は作ってなかったものがいくつかあったくらいだ。そういえば出町に住んでいたその昔、いつものように王将に行ったら、店内の壁に『ポパイ定食』というメニューが貼り出してあった。いったいどんな料理か聞いてみると、ほうれん草の炒め物だと言われた。ポパイにほうれん草はつきもの、ついでに言えばウィンピーにハンバーガーはつきものだし、小池さんにはラーメンがよく似合う。余計な話はさておき、その時の王将の店員から、毎週月曜(王将の定休日)に店長会議があって、そこで新しいメニューの発表会があり、参加者全員で試食もして、『うん、こらいける、これやったら貧乏学生からでも380円は取れるんちゃうか』みたいな社長の鶴の一声で全店同時に新規メニューを入れるのだという話を聞いた。そのポパイ定食はどこか別の店の店長が作ったメニューで、なかなか美味いので社長賞の金一封が出たと店員のおっちゃんは悔しそうな顔で言った、ような気がする。店長会議の話は間違いないが、あとの部分はどっかの経済新聞の記事とごっちゃになっているかもしれない。

 出町の王将で、こらあかんと思ったのは「何にしましょ」「ビールと餃子と酢豚」「あ、ならそれぞれ単品やね」「いや、ライスは付けて」「ほな、酢豚定食にビールでんな」というやり取り。学生時代に通った王将ではポパイ定食以外に定食と名の付くものはなかった(はずだ)。また王将に入る客は麺類を食べる客(もちろんラーメンライスとか堅焼きそばにライスなどという炭水化物ダブル食いの体育会系学生もいたが)以外はほとんど全員、ライス付で食べていた。たとえば、「ホイコーロと餃子」と注文すると「はい、ホイコーロイーガー、コーテルイーガー」と威勢のいい声が響き、あっという間に餃子とどんぶり飯がカウンターに出される。メインディッシュのホイコーロも5分と待たされず出てくる。ざっといず王将イズム、であったはずだ。しかるに定食とは、何たる階級的堕落。汁物なんかルンプロ学生やほんまもんのルンプロおっちゃんたちにはいらないのだ。飯とおかずでいいのだ。などと、心の中でつぶやきつつ出された餃子を一口。キンキンに冷えた瓶ビールをコップで一息。そして楽しみにしていた酢豚を豚肉と玉ねぎを一緒に口に放り込んだ。が、しかし、しかし、何かが違う、でも何かが違う(by 鈴木ヒロミツ)。こんな味だったっけ。違うよな、と思いつつ腹も減っていたのでライスと一緒に出された卵スープを食べて飲むと、これが旨い。ご飯はハードボイルドといっていいくらい、固く炊き上げておりスープはやや塩分が多いが、そこに卵とわかめが絡みほっとする味である。悲しいかな、出町の王将で一番期待していた餃子と酢豚はいまいちどころかいまに、いまさんくらいだったが、ライスとスープで救われた。もっとも学生時代と違って、さすがにビール大瓶1本は飲み切れなかった。

王将ディナー

 それでも王将はさすがに王将で、常連と思しき客が競馬の話を始めたら店員のおっちゃんが身を乗り出して話に乗り始め、次に来た客がなかなか注文を言い出せないなどという光景が見られた。餃子、ビール、ライス、酢豚、時々スープというペースで食べているうちに、そういえば初めて食べた定食って何だったかという疑問がわいてきた。高校時代までの外食はラーメンとかうどんとか、ちょっと小金が入ったときはおぐらでカツカレーなどを食べており、いわゆるごはんにおかずという定食セットみたいなものはほとんど食べていない。いろいろ思い出してみたが、大学に合格したお祝いに友人がロイヤルホストでハンバーグをごちそうしてくれたことがあるが、初めて入ったファミレスに緊張していて、どんなふうに食べたか覚えていない。まして大学に入ってすぐに喫茶店だと思って入ったトーラスというレストランで食べたステーキも忘却のかなたである。

 まあ、何度考えても大学に入ってすぐに下宿した修学院の大衆食堂で食べたのが、おそらく最初の定食ではないか。京都に下宿はしたものの、食事はどこでしたらいいか、まずはそこからリサーチである。最初に見つけた食堂は、やたら暗くて愛想も良くないところだったが、いつ行っても空いているのとマンガがたくさん置いてあるところが気に入って通った。店の名前は覚えていない。修学院離宮の近くだった気がする。暖簾をくぐって店に入ると安っぽいデコラのテーブルが4か所に配置されていて、奥が6畳ほどの座敷になっていて、その天井から白黒テレビがぶら下がっていた。その座敷にはいつ行っても長髪の兄ちゃんが座っていて、飯を食ってないくせに堂々とテレビを見てわはは、あははとチーハクな声をあげていた。中年夫婦二人だけでやっている食堂で、主人と兄ちゃんの会話から親戚関係であることが分かった。広島あたりから京都に出てきて、この近くに住んでるが夜のテレビの時間になると夕方の5時くらいから閉店の10時くらいまで兄ちゃんはいた。何度か通っているうちに顔も覚えて、年もそんなに離れていないわけだから、話をするようになって、そこから人間関係が出来上がる、ということは一切なく、いつ行ってもそのロンゲの兄ちゃんはこちらに顔を向けることなく、天井のテレビを見て笑っていた。

 こちらから話しかける筋もないので、兄ちゃんの存在は全く無視して野菜炒め定食とか、とんかつ定食、焼き魚定食などをマンガを読みながら食べていたのだが、ある時目が点になったことがあった。その時注文した定食が何だったか忘れたが、定食にはたとえばハンバーグ定食なら付け合わせに目玉焼きがついてるとか、ちょっとした小鉢がついていたりするのだが、その時の定食にはなんとメインのおかずの横にお好み焼きが鎮座していた。僕はお好み焼きというのは女子供の食べるおやつだと思っていたので、少なくとも飯のおかずにするものではないと固く信じていたのだが、目の前の皿には間違いなく青のりと細かく刻んだおかかがソースと一緒にジャムセッションしている。うーん。これはもしかしたら南九州の人間に踏み絵を、要するに罠を仕掛けているのではないか。これをそのまま食べたら、「ああ、やっぱり九州の田舎者やな、お好みおかずにご飯食べるなんて、そんな品のないことうちらはようせん」とか笑われるのではないか。いや、待てよ。逆に残したら「あああ、やはり九州のサルはお好みの旨い食べ方知らんな。あつあつのご飯を中に巻いてお好みと一緒に食べるのがほんまの食通でっせ」などと鼻の先で笑われるのではないか。

 結局、そのお好み焼きは当然ながら残さず食べたのだが、ご飯と一緒に食べるお好みは微妙な味がした。そのことがあってから、その食堂へはあまり行かなくなった。もっとも、それには訳があり、そのころには下宿で友達も出来て、また隣の下宿は九州人しか住ませないところで、そこに住んでいる先輩や同級生から確か「あさひ食堂」という名前だったと思うが、その食堂の存在を教えてもらった。僕の住んでいた修学院中林町から八田医院に向かっていき、その先にあった大衆食堂というか学生食堂である。間口は一間ほどの狭いところだったが、いつ行っても、つまり朝昼晩食事時に行くと学生であふれている食堂だった。壁に定食などのメニューが書いてあるのだが、それよりもショーケースの中にたくさんのおかずが作り置きしてあり、自分の好きなものをとって最後にご飯とみそ汁をもらうという、後年出町に住むようになり毎日のように通った中島食堂システムがそこではすでに構築されていた。おかずは1皿30円くらいのものから、高くても150円くらいだったので好きなおかず3品にご飯みそ汁で300円程度で食べることが出来た。味も京都にしては学生相手のせいか少し濃いめで美味しかった。しかし、どうしても我慢できないことがあった。これはその食堂だけではなく、全ての食堂に共通していえることだが、お茶がまずい。そもそも緑色をしていない。麦茶色というか茶色、要するに番茶やほうじ茶なのだ。いや、番茶もほうじ茶の入れ方では美味しくいただけることは知っている。ただ、静岡茶と呼ばれるものの中身は都城茶であることを知っているワタクシとしては、緑茶が飲みたい。朝飯はほとんど食べないし昼は生協で食ってもいいが、メインディッシュの晩飯の時くらいは緑茶が飲みたい。このストレスは結構あった。同じ下宿に静岡出身の学生もいたが、彼も激怒していた。あんなもんはお茶じゃない、などと不満たらたらだった。

 しかし、そのストレスはある日突然解放された。アイシャルビーリリーストである。その日は下宿で徹マンをして、あ、お断りしておくが、徹マンというのは徹夜でマージャンをすることである。それ以外の意味は知らん。えーと、徹マンして朝の8時くらいに腹が減ったので食堂で飯を食おうということになり、くだんのあさひ食堂に行った。僕はタバコの吸い過ぎもあって、少し胃の調子が悪かったのであっさりお茶漬けを食べようと思い、注文した。するとお茶漬けの入った茶碗と一緒に小さなアルミの薬缶がついてきた。おばちゃんが「はい、お茶漬けとお茶漬け用のお茶」と説明してくれたが、なんとその薬缶には緑茶が熱いお湯と一緒にジャミングしていた。しかもケチな京都の商売人には珍しく、その薬缶にはお茶漬けを食べた後、湯呑みで3杯位は飲めるくらいのお茶が入っていたのだ。それ以来、僕はその食堂では多分3日おきくらいにお茶漬けを食べたと思う。ある時は店のおばちゃんから、「ああ、お茶漬けのお兄ちゃん、今日は鮭茶漬け出来るで」などと言われたりしたものだ。しかし、今考えるとお茶漬けのお兄ちゃんってなんやねん。余談だが、今は一乗寺に店を構えている天天有も75年当時は、まだ修学院で屋台を出していた。その屋台も八田医院をまっすぐ行って十字路の角にあったが、2日と明けず通っていたので、店のおばちゃんから「ああ、いつものお兄ちゃん、チャーシュー大盛りのニンニク入りやね~」などとよく言われていた。うーむ、オレの嗜好回路は単純なんだろうな。

 などという考察をしていたら、なかなかエントリーの続きが書けなかった。しかし、大丈夫だ、エンジンはかかってきた。今日はここで終わるが、次回は出町からホテルのある三条までもどり、夜の四条河原町を散策する話に続くのだ。

スポンサーサイト

コメント

記憶は

味覚を美化する。
俺も東京に王将や珉珉が進出してきた時に全く同じことを思った。
あの頃の味のままなのか、味が変わったのかわからんけど、学生時代に味わったような感動はもう感じられないのかもだね。
さて、続編も時間がかかりそうだけど気長に待ちます(笑)

不思議!

大野えり、井上智LIVEの宮崎?の現場に貴方がいるなんて。。。やらせ?なんてえ!本当に、わかたないもんやね!?

D大つながりで 私も

GWに日帰りで 貴船、鞍馬に行き 家内に 出町柳で車で拾ってもらうように頼んで、 鞍馬から 出町柳まで 叡電に乗りました。鞍馬からの数駅は 大学時代には 縁の無 い所でしたが、宝ヶ池以南になると 色んな思い出や 大学時代の連中のことを思い出 しながら 通過してました。修学院だと 当然 ドラコブさんやI上君、百万遍の国立一 期校の二人、一乗寺は 私と藤蔓荘の連中、茶山は 伊藤荘の3人、元田中は ヒッコリ ーズって 中古レコード屋って感じで。懐かしいと共に やや センチになりました。 残念ながら 出町柳の流れで 王将へ とは なりませんでした(笑)。王将で 3人の 店員 と雑談することは なかったですね。加藤氏とは 4回生の時に「あんた そろそろ卒業 だろ?」と言われたこと位。チンピラ兄さんからは 当時 超長髪だったから「ネエチ ャン、何しよ?」と からかわれてたな。タヌキ親父とは 一回も無かったかも。3人の 仲は 良さそうに見えなかったけれど、暗黙のコンビネーションと言うか リズムが有 った感じです。「京都でお茶漬け」=「そろそろ帰れ」とは サラリーマンになってか ら知りました。D大 3連発と来たからには 砂糖山さんも コメントどうですか?(笑)

そうなんだよね、決してこちらの食生活が

極端に向上したわけではないのに、あれちょっと違うとかこんな味じゃなかったと思うことが多いわけです。一つだけ確かなことは、学生時代から時間もたっており、当時の体力気力が美味しいと思わせていたのかと考えると、ちょっと悲しいが、ま、しゃーないな。

>続編も時間がかかりそうだけど気長に待ちます

いやいや、ここまで来たらあとはもう一気呵成というか、秒読み段階です、わははは。しかし、確約はちょっと自信がない(汗)。

いやいや、本人が一番びっくりしてます

ファーストセットの、それも比較的早い段階でえりさんが井上氏を紹介して、え、、もしかしてと思い、休憩時間に話しかけて正解でした。花の75年度生トリオの出会いも、まさに奇遇だったけど今回も、まあ驚いた。

おっと、一乗寺といえば

アル中のS加さんを忘れちゃいけません(笑)。僕も1月にエイデンに乗りましたが、電車が小奇麗なのとワンマンだったのが、少し寂しかったですね。まあ、それは経営の合理化で仕方がないのかもしれませんが、あの京福の制服を着たおっちゃんたちが、関西弁でしゃべりながら働く姿を見ることが出来たのは、70年代という時代のおかげだったかもしれませんね。

しかし、修学院もレコード屋のクレモナも無いし、チェーンコーヒーハウスもシャッターが下りていたし、なんといってもサンルイは形もなかったのが残念でした。もっとも塩見百貨店は健在でしたが。
非公開コメント

プロフィール

drac ob

Author:drac ob
FC2ブログへようこそ!

月別アーカイブ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

ブロとも申請フォーム

FC2カウンター

FC2カウンター

現在の閲覧者数:

QRコード

QR

鳩時計

フリーエリア

ブログ内検索