グッバイ プラスティックエイジ!

 先週はずいぶん更新をサボったので、今週はしっかり更新しようと思い、昨日も少し記事をwordに書いておいたのだが、今日とてもうれしい事があったので内容を急遽入れ替え、特別版「臨時ニュース」をお送りする。実は、ここにときどきコメントをくれるderiさんのお誘いで9月からmixiをやっているが、そこで伝説のパンクロッカー、リザードのモモヨさんとマイミクになれたのだ。ちなみに僕のマイミクは8人だがそのうちの2人がミュージシャン(もう一人はご存知ウシャコダの珍恵福教祖)という打率2割5分の成績である。そんなことはどうでもいいが、モモヨさんのサイトでmixiを始めた事はずいぶん前に知ってはいたが、多分リアル社会での知り合いしかマイミクにはしていないだろうと勝手に決め付けていて、検索すらしていなかったのだ。

 それが、つい昨日Momoyo The LIZARD氏のページに辿りつき、いろんな人たちの足跡を読んでいるうちに自分自身もアピールしたくなり、とうとうコメントを書いてしまった。内容は四半世紀前にミニコミのインタビューをさせてもらったときの(僕の一方的な思い込みの)エピソードだったのだが、マイミクお願いしますとダメ元で書いたところ今日のお昼過ぎにOKの返事を頂いたのだ。その時間は丁度営業の現場に移動する途中で、電波の入りの悪いうどん屋(また、うどん屋かい!!しかもおにぎり2個付けて)だったが、モモヨさんのマイミクOKの返事と知り、大袈裟でなく天にも昇る心境だった。しかし、つい昨日まではモモヨと呼び捨てで書いていたのに、こうなると手の平を反した様に「さん」付けになるから、人間は面白い。

 僕とモモヨさんの出会いは、78年の確か5月か6月くらいだったと思う。今調べたら78年の5月2日、磔磔での「紅蜥蜴」ライブが最初だ。何故覚えているかというと、この時に美人が多い事で有名なH女学院の女の子とひょんなことで知り合う機会があり、丁度パンタ&ハルが磔磔でライブをやるので一緒に行こうと誘ったのだ。しかしながら、5月7日のライブを勘違いして5月2日と伝えてしまい、2日の日に慌てて電話したが彼女はいなかった。これはてっきり、一人で磔磔に行ったに違いないと思い込んだ僕は、ええとこのお嬢があんな紫煙モクモク、ガラの悪い不良ロック中・少年がたむろする所に一人で居ては心細い思いをしているに違いない。プガジャ(ライブスケジュールが載っていたミニコミ)で調べたらその日はよりによって、若い女をたぶらかしてさらっていくという噂の「紅蜥蜴」の関西初ライブではないか。ここはチャージ代が勿体無いとか言ってる場合ではない。ここで彼女を窮地から救って白馬の騎士になるのだ、とばかりに磔磔に急行した。

 磔磔に着いてみると、なにやら化粧をしてクネクネしたボーカルが怪しいサウンドと共に歌ったり踊ったりしている。しかし僕の目と耳は彼女を探して百万里、ハードなサウンドも客の叫び声も一切耳に入らなかった。「探しても探しても一人」などと山頭火か尾崎放哉の自由律俳句めいたフレーズが浮かんだ。いない、どこを探してもいない。一体どこに行ったのだろうという気持ちと一度ここに来たが間違いに気がついて帰ったんだろうという安心感と不思議な気持ちが、ないまぜになってようやく少し落ち着いたところで、折角来たんだから「紅蜥蜴」の演奏も聴いてみようという気になった。しかしもうライブは終わりかけで「いつもかわいいあの子は電話で話中~」というフレーズが印象的な曲と、ライブのラストにモモヨさんが「あ・り・が・と・う」と不思議なリズムと区切り方で挨拶した所くらいしか記憶に残らなかった。

 今、考えてみると勿体無い話である。丁度「紅蜥蜴」と「リザード」の二つの名前で活動していたバンドの移行期間だったので、もっと真面目に見ておくべきだった。次にモモヨさんと会うのは79年4月のアルバム「東京ロッカーズ」である。フリクションのレックの巻き舌の「ハロートーキョージャンキーズ」の挨拶で始まるこの怒涛のライブ盤は、それまでパンクはロンドンかニューヨークのものというイメージでしかなかった日本のシーンをひっくり返した。僕らもぶっ飛んだ。はっきり言ってしまうと、この年から僕たちがサークルでライブを企画するようになったのはこのアルバムのおかげである。単なる音楽ファンから行動する、思考するロックファンへ、もっと言えばパンクロックファンに変化(change)したのである。このアルバムには「ロボットラブ」と「レクイエム」の2曲が入っているが、「紅蜥蜴」時代の音とは全く変わったといえる。

 その後、ストラングラーズのJJバーネルがプロデュースした1stは、マニアに熱狂的に受け入れられた。そして、79年の冬くらいから(正確にはもっと前からかもしれないが)関西のパンクバンドと東京ロッカーズのバンドが2組ずつとか3組ずつ演奏するスタイルのライブ(ギグなんて言ってたな)が、京都を中心として関西一円でスタートした。そうそうZIGZAGというハードロックバンドがいて結構政治力が強かったので、ZIGZAGツアーの名前で数バンドを引き連れて関東遠征しようとしたが、他のバンドのマネージャーからクレームがついてZURUZURUツアーと名前が変わったなんていうこともあった。このあたりの話は連続射殺魔のマネージャーをやっていたN部君と故M原君(僕のサークルの1年後輩だが、いいやつだった)からいろいろ聞かされた。オフレコだがあるパンクバンドのボーカルはサングラスを外すと渥美清に似ているなんて話をしていたら、その本人が楽屋から出て来て「こんばんわ」と礼儀正しく挨拶され、必死で笑いをかみ殺したのも懐かしい思い出だ。

 いかん、まただらだら話が続きそうなので、もう少し内容をまとめてこの後の話は書きます。取り急ぎ駆け足でつづると、79年末から80年にかけては、関西にツアーがあるたび駆けつけたと思う。アルバム「バビロンロッカー」は大好きだった。次の「ジムノペディア」は正直良く解らなかった。そうこうする内に僕も社会人になり、ちょっとロックから離れたが、85年の「彼岸の王国」はリザードのロンドンライブだと知り、当時親しくしていた鹿児島のレコード店で予約した。商品が届き受け取りに行ったとき「悲願じゃないんだ」と店の人に言われ「彼岸ですよ」とハタで聞いてると何だか良く解らない会話をしたことを覚えている。

 あれから20年以上経過し、今僕はCDで「ライブアットS-KENスタジオ」と「TOKYO ROCKERS '79 LIVE」を良く聞いている。そして、信じられないがMomoyoさんとまた会えた。今度は多分こう言うだろう。「僕たちの世代は破壊しきれなかった世代ですよね」と。ちなみにMomoyoさんは僕より3歳年上で誕生日も3日違いである(それがどーした、といわれるとどーもしませんとしかいえないが)。

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コメント

いいですね。

東京ロッカーズ周辺は、私ら世代(70年生まれ)が体験するのは微妙に難しかった頃。それだけに興味あります。ここら辺の話、もっと聞きたいです。

私、典型的なA型で

叩かれるとすぐへこむのですが、一度でも誉められると「豚もおだてりゃ木に登る」性格です。任せてください。東京ロッカーズから東京ニューウェーブ、関西ノーウェイブにいたる話、幻の名盤ドッキリレコード、京大西部講堂でストラングラーズは熱狂的に支持されたが、ポリスのステージには赤ヘルが乱入したとか、同時代人ならではのお話やネタいっぱいあります。突然ダンボール、ボーイズ・ボーイズ、フリクション、S-KEN、関西ではご存知INU,ウルトラビデ、アーントサリー、非常階段、SSいっぱい見たので乞うご期待です。あ、もちろん連続射殺魔も嫌になるくらい見てます。
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