前夜の話てか再録

 元村八分の、いや元スピードの、いやいや元ティアドロップスの青木真一が亡くなった。去年の夏にフジオちゃんも死んじゃったし、チャー坊や浅田哲はとっくに彼岸の国の住民だ。ドラムがいたら、向こうで村八分を再結成できるなんてブラックなことを考えたりもした。追悼の意味を込めてエントリーを書こうかと思ったが、学生時代にやったイベントの話をここに再録する。まだblogを始めたばかりの頃で、妙にハイテンションなのがおかしい。最初のエントリーは2006年の6月7日に「前夜、前夜つったら前夜なの、当夜もある(予定)」なんてタイトルで書いていた。

> 2,3日前に池袋で購入したCDやDVDの事を書いたが、実はその前にすでに、こちらに来て最初のCDを買っていた。それが6月1日の記事のタイトルになったP-Model(の”ランドセル”)である。1980年の作品だが、このアルバムはリリース直後すぐに購入した。なぜなら、前年の79年に同志社の今は無き学生会館ホールで、学園祭の目玉イベントとして彼らのコンサートを主催したからだ。

 当時僕が所属していたサークル(DRACというのは前に説明した)にとっておそらく初めての大きなイベントだった。それ以前はレコードコンサート―信じられるかな、広い教室をカーテンで暗くしてBOX(部室のこと)からプレーヤー(パイオニア、品番は失念)とアンプ(名器サンスイのAU-7900)とスピーカー(これがOBの人の手作りで重たいの何の)それに当然レコードを持ち込み、司会者が簡単な説明をしてただレコードをかけるだけのものなのだが、今ほどオーディオ機器が普及してなかったせいか少ないながらもお客さんはいたのだ。あるいは映画の上映などをオリテ(オリエンテーション、4月の進学・進級時期)期間やイブ(同志社の学園祭でメインは11月末の3日間だが、10月からイブ期間として色々な企画が行われる)期間に行った。

 ただレコードコンサートは問題なかったが、映画はそれなりの企画書(趣意書と言ったかな?)を立てて持っていかないと、許可が下りなかった。特に文化団体連盟という組織の傘下にいたので、そこのえらいさん達に気に入られるようにしないとイベントの許可を取ることは難しかった。ある時ビートルズの”イエローサブマリン”のフィルムが安くで借りられることを知り、大急ぎで企画書を提出したがすぐNGが出た。理由は何かよく解らないが、とにかくビートルズは××(ここにはある嫌われ者の党派の名前が入るのだが、大人の配慮で自主規制する)だからだめと言われ、企画した僕は文連(文化団体連盟のこと)のBOXに呼び出され始末書を書かされた覚えがある。

 あまりこういうことは書きたくないのだが、文連の実力者(というか権力者だな)のT井がストーンズファンだから横槍が入ったとの事だった。このレコードコンサートや映画の話は僕がまだ2回生の頃だから76年くらいの話。それから苦節3年、文連での立場も確固たるものを築き上げ、ついには東京からバンドを呼んでイブにライブを企画するようになったのだから大したものだ。もちろんその間には、人には言えない色々なことがあったのよ。この辺のことは一度整理してからブログに書くかどうか判断したい。

 さてそのイベントだが、当時5回生だった僕は、サークルで企画班のリーダーをしていた。ロックを聴くだけではなく、ミニコミを発行したり(これはサークルとは別にやっていたが見事に3号雑誌で終わってしまった)、イベントを企画したりと言えばカッコいいのだが、実際はセミプロのイベンターのパシリみたいなものだった。でも今考えると、マイナーではあったがいろんなミュージシャンにインタビューしたり、ライブハウスや女子大でDJ(言葉本来の意味のDJ。ディスクを回す間、ビデオを流す間にロックに関するコメントを喋るのだ)をやったりしてこのまま音楽に関わって生活できればと甘い夢を見ていた(もちろんそれは見事に”砕けては手のひらから落ちた”っとここはハマショーのパクリだ)。

 さて話は一気に79年の6月になるのだが、企画班の外部協力者だったM君(僕の1年後輩だったが残念ながら故人、合掌)と打ち合わせする中で、当時先見的なロックファンにはすでにカリスマになっていたリザードを京都に呼ぶ計画を練っていた。M君は2回生まではサークル員だったが、言葉も行動も尖っていてサークルのぬるま湯に収まるタイプではなかったが、何故かいつも僕たちと行動を共にしていた。彼が京都の連続射殺魔と言うバンドのマネージャーをやっていた関係でリザードを呼べそうだと言うのだ。

 結論から言うとリザードの話は流れたが、P-Modelというアルバムリリースもしていないが、確実に時代を変えるバンドがいると言う話を、M君からも又当時入り浸りだった銀閣寺のライブハウス、サーカス&サーカスのブッキングメーカーのO釜さん(長ったらしい説明だな、しかも匿名になってない、そのまま発音すれば名前が解る)からも聞き、じゃP-Modelを呼ぼうと決めた。一緒にスピード(おいおい、皆が知ってるスピードじゃないよ、Boys I Love Youのスピードだよって誰も知らないか)も呼ぶことが決定した。

 ここでこの話は休憩し次回に続く。予告編をしておきます。
※このライブ当日受付をしていた僕はチケットなしの客を入れてしまう。何故か?
※この話に唯一の有名人が次回登場か?
※バンドのギャラとEVE実(学祭実行委員会)への報告書に疑惑が、「決して儲けるつもりでやったんじゃない」とどこかで聞いたような言い訳が。
等、等。今だから明かす真実のレポートに注目せよ!!って、誰も読んでくれないかも…



 続きは6月9日に「”前夜”の続き、果たして”当夜”は来るのか…」というタイトルで書いていた。この頃は結構連続で投稿していたんだな(苦笑)。

 1日中断したのでどこから話せばいいかちょっと解らなくなって来た。そうそう79年の6月、学園祭のイベントにP-Modelを呼ぶことになった所からだった。理由は良く覚えていないのだが(本当はある程度覚えているが、ここに書くのはちょっとどうかなと思ったので)、その年の学園祭の目玉企画として予算も押さえる事が出来たし、何よりも自分たち自身の手でイベントをやることにサークルのメンバー全員が燃えていた。

 企画会議は段取りよく進み、イベント名は”前夜”と決まった。一部”武装蜂起前夜”などとカゲキなことを口走っていた連中もいたが(オレのことです。すいません)、「今の我々を取り巻く音楽状況は、いつ明けるとも知れない白夜のような状況である。悪しき商業主義に毒された、いや毒にも薬にもならない大衆迎合音楽としての商業ロックが我々の日常の至る所に侵食している。この状況はまさしく”前夜”であり、果たして夜明けは来るのか、我々が待ち望む夜明けはまだ来ないのではないか。いや、東京ロッカーズがそういった状況の中で…」みたいなでっち上げのアジテーションと共に僕たちは活動を開始した(こんなわけの解らない理屈付けは留年生の先輩にやらせておけばいいと、ほとんどのサークル員が思ったそうだ、今にして納得)。

 バンドとの出演交渉は例のM君に任せ、コンサートのポスターとチケットは広告研究会にいたT田君(彼は3号でつぶれたミニコミの同人だった)に頼み、モスグリーンを基本色とした立派なものが出来た。出演バンドは関西からINU(かの芥川賞作家、というより高校生の癖に僕からハイライトを貰い、体育の出席回数を心配していた印象が強い、町田町蔵の率いた伝説的なパンクバンド)、連続射殺魔(M君がマネージメントをしていた日本のアングラロックシーンの長老バンド)、そして関東からはスピード(沖縄出身じゃないよ、元村八分の青木真一のいたバンド)そしてP-Modelというラインナップであった。

 夏休み明けから情宣活動を本格的に行った。チケットは各プレイガイドに置かせてもらい(売れても売れなくても手数料を取るのだから、言わば親方日の丸の商売である、このイベントの清算の時は泣いた)、あちこちの大学近辺の喫茶店やレストラン、ライブハウス、ロック喫茶等を回ってポスター掲示やチケット販売の言わば営業をやった。これはミニコミをやってたので僕は全く抵抗なかったが、当時の1回生で身長は1.8メートル以上ありながら、一人で行って交渉して来いというと、8時20分の眉毛になり困惑する男もいた(sugarmountain君、君のことだよ。覚えているかね)。

 当時はメディアを利用すると言う考え方はなかったし、また自分たちで文化を創造するのだといった青臭い使命感に燃えていたので、仮にそういったチャンスがあっても乗らなかっただろう。チケットの売れ行きは芳しくなかった。当時電話は各サークルのBOXにはなく、4階は文連本部にあるだけだった。コンサート1ヶ月前からしょっちゅう文連本部でM君と「売れてないな」「いや最初はこんなもんやで」などと言っていたが、日にちが近づくにつれ「当日は行列が出来るで」とか「今、阪急のプレイガイドで団体客がチケットこうてるで」などと現実逃避の会話をするようになった。

 いよいよ当日である。1,000人キャパの学生会館ホールに400人くらいの入りだったか。熱狂的なロックファンがホールを二重にも三重にも占有するはず、だった。十何人かは関西でニューウェーブ系のライブがあると必ず顔を見かける連中がいた。こいつらが一人100人ずつツレを呼んでいたら、ホンマニ役にたたん糞パンクス共やと、僕は未練たらしく、最初のバンドの演奏が始まっても受付にいた。ふと人の気配がしたので見上げると、短めのドレッドヘアにギョロメ、色の黒い男の人がガラの悪そうなアンチャンを3,4人連れて僕の前にいた。

 「連れのバンドが出るんやけど、入ってもええやろ」手には缶入りバドワイザーを持ち、目は明らかにクスリをやっている感じだ(もちろんクスリと言っても正露丸やバッファリンではない、いわゆるドラッグだ、ちなみに僕のいたサークルはドラック)。

 僕はうなずいて、その明らかに公序良俗に異議申し立てしている人たちを無料で会場に入れた。「何でチケット持ってないやつ入れるんや、しかもビール持ち込んだやんか」情宣には何も協力しなかったくせに関係者面した文連役員のI出が言った。「フ、フ、フジオちゃんやー」裏返った声は僕。あの村八分のリードギタリスト、その後悪いクスリをやってパクられた山口フジオ氏であった。周りにいた何人かのロックファンの連中は口々に「サイン貰えば良かった」「でもサイン下さい言うたらどつかれそうやったで」とやや興奮気味。村八分というと閉鎖社会の悪しき因習だと思っているI出は何のことかわからない。ええざまや。

 さてパートⅡで終わるはずだったが、色々と楽しかったことや、チクショーあのやろうと忘れていたことなど次々に思い出したので、パートⅢに続く。しかしそれが明日のブログかどうかは、神のみが知る。ゴッドオンリーノウズやー。おっちゃん睡眠不足でおかしくなったんとちゃうか?!ちゃうちゃうって犬かー。




そして、この頃から話をまとめきれないという僕の個性が出ている(開き直り)。最後のエントリーは6月10日に、「こういうのを、竜頭蛇尾という。イベント編パートⅢ」というタイトルでアップしていた。村八分再結成の話もどこかで書いたはずだが、それはまた今度アップしたい。気が付いたら日付が変わっている。あ、僕の誕生日だ。12月は16日がリザードのモモヨさんの誕生日で、19日が僕。そして22日がジョー・ストラマーの命日と忘れられない日がたくさんある。18日もそこに加わったな。

 山口フジオ氏がバドワイザーと街中では目を合わせたくないタイプのお友達数人と、タダで会場に入った後は予想通り誰もホールには来なかった。ホールのキャパの半分以下の入りではあるが、それなりにバンドは熱い演奏を繰り広げていた。オープニングアクトはINUで、町田は独特のMCでごく一部の客を乗せていた。この時の演奏が気に入り(もちろんその後も様々なイベントやライブハウスで見たが)翌年のEVEはメインアクトとしてコンサートに招くことになる。射殺魔は流石落ち着いたライブで良かったのだが、マネージャーのM君に言わせると”愛して欲しい”のカウントの数え方が重苦しい、もっとSSみたいにカッコ良く決められないのかと検討課題が増えたステージだったらしい。

 残念だったのはスピードで独特の重さを持ったタイトな演奏だったが、ほとんどの客が次のP-Modelを早くみたいためにアンコールを求めなかった。したがってアンコール用の名曲”Boys I Love You"はついに学生会館ホールに流れなかったのである。楽屋をフォローしたサークルの女の子に後から聞いたのだが、ライブが始まる前から怖かったけど、終わったあとはもっと怖くて声もかけられなかったそうだ。そりゃそうだな。

 P-Modelはこの日まで僕はライブを見たことがなく、ファーストアルバムを聞いただけだったので、どんな演奏をするか正直不安があった。YMOなんかが出てきた頃で、テクノポップのバンドとして位置づけられており、ロッキング・オンには比較的好意的に書かれていたので大丈夫だろうとは思っていたが、1曲目の”サンシャインシティ”のイントロでその心配は吹っ飛んだ。レコードよりかなりハードでどちらかと言えばテクノバンドと言うよりパンクバンドと言ったほうが正しいと感じた。

 歌詞が結構辛らつと言うか、毒のあるものが多く大笑いしたのは”モモ色トリック”と言う曲の中でレコードでは『ユージさんにはわかるまい』と歌っていたところを、ずばり名指しで『K野Y二にゃわかるまい』と歌っていた事だ。ただこれも説明が必要だろう。当時11PMという深夜番組の草分けがあり、毎週金曜日は金曜イレブンと言って映画の紹介をしていた。そこにレギュラーで出ていたのがP-Modelに”アホのリノでも見に来るぜ”と歌われたKせRの(後に肉体派女優になりました)とK野Y二がコンビで紹介していたのだ。ま、このK野Y二さんはかわいそうな人で、ブライアン・フェリーからも”TOKYOジョー”とおちょくられたり、自業自得と言えばそれまでなのだが。

 アルバム未収録の曲も何曲かやり(それらは次のアルバム”ランドセル”にアレンジを変えて入っていたが)、アンコールにも応えてP-Modelのライブは終わった。楽屋での応対も良かったようで、世話をした女の子たちの全員がファンになった。その後関西ツアーに来るたびになるべく見に行くようにしていたが、一番びっくりしたのは確かその次の年、僕らの第2BOXと呼んでいた銀閣寺のライブハウス、サーカス&サーカスの時。最前席で見ていたら急に反対側の入り口のドアが開き悲鳴とも絶叫ともつかない声がした。リーダーの平沢氏が「何があったの」と客に聞いたら「デビッド・ボウイが来てる」との事。なんとお忍びで京都に来ていたボウイが日本のライブシーンを見にわざわざ来たらしい。演奏終了後ボウイが会ってくれたらしいが、後日『日本のバンドはオリジナリティが弱い、イーノやDEVOに似ている』と結構シビアなことを言われていた。

 さてコンサートも無事に終わり売上金の精算と収支報告をEVE実(学園祭の実行委員会)にするのだが、誰が馬鹿正直にするものか。予想より入場者は少なかったが、それでもある程度の売り上げは確保出来たので、バンドのギャラも気持ち増やして渡すことが出来た。経費を差っぴいた残りを折半だったか六四だったか忘れたがとにかくEVE実と分配する決まりだったので、ごまかせるところは目一杯ごまかしてサークルの裏金にしてやった。これを基金として翌年のオリテのコンサートやEVEのコンサートが出来たのだ。

 「いやぁ、僕自身(イベントで)儲けようという気は全くありませんから」と目がギョロっとして福耳で会見中に口を膨らます人物のようなことをその当時は良く言っていたが、正直に告白すると、その時の売り上げの一部でスタッフ一同パーっと飲みに行きました。ま、貧乏学生だったから大したところには行ってないけど。



 
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コメント

いい仕事してたんですね

私が在籍してた頃は ご存じの様なレベルでしたから。記憶違いかもしれませんけど、プレーヤーは DENONの時も有ったような気がします。盗まれたしね。青木真一も亡くなったか…ティアドロップス メンバー全員のサイン色紙は 亡命中の姫に 差し上げました。姫は 今晩あたり 色紙を見ながら 自慰にふける じゃなくて、 山口冨士夫と青木真一を偲ぶことでしょう。合掌…12月17日は グレート東郷の命日、18日は キースリチャードの誕生日です。

素晴らしい仕事ですね

M君はそうとう尖ってた人だったんですね。なぜかこういう方の話は心に残ります。いつか和田哲郎さんと再会することがあったら訊いてみたいですわ。スピード、知人に焼いてもらった音源などあるので当時をしのびたいと思います。。

ああ、そうでした

プレイヤーはDENONの時代が確かにありました。さらに、不覚だったのはキースの誕生日が12/18だったことをすっかり忘れていた。いやー、こうやって振り返ると12月はロックの月だな~。思いにふける姫の姿もいいですが、Gにふける姿も是非拝見したい、って単なるスケベジジイですが(笑)。

是非、和田氏に話をしてみてください

故人なので実名出しても問題ないと思いますが。「マツバラ」君といいます。今もイベント仕掛人として頑張ってる南部君と一緒に連続射殺魔のマネージャーをしていました。ある日、マツバラ君が、「ほんまもんのロッカーはすごいな~」と言うので、聴いてみると和田氏は当時奥さんと一緒に京都に家を借りていたらしいのですが、真冬の京都なのに電気こたつにスイッチ入れない。要するに電気代も節約して音楽にかけているというのです。またある時は和田氏の奥さんが彼のためにクッキーを焼いてくれて、僕にも1枚おすそ分けしてくれました。マツバラ君の顔の形をしたクッキーは少し苦かったです。
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