宮崎ラーメン事情 独断と偏見に満ちたその1

 物心ついたころから麺類が好きだった。当時はまだラーメンなるものは日常生活に登場していなかった。商品として存在はしていたが、我が家の食卓に上がるのは確か小学校に入ってからだと思う。未だにラーメンが麺類では一番好きであるが、ソバやうどん、ソーメンに冷麦、ビーフンに至るまでつるつるっとイケる食べ物はすべて好きである。あ、つるつるとはいけない焼きそばというものをどうするかという問題点もあるが、焼きそば・焼うどんも含めて麺類大好き人間である。したがって女性に対しても面食いである。もっとも、僕の女性の好みは趣味が悪いと友人・知人・家族からよく言われる。本人はいたって辛亥革命である。違った、新谷である、これも違うか、心外である。僕が好きなのは菅野美穂ちゃん、沢尻エリカ姫、深キョン、大御所高島礼子、あ、高島礼子ってエリカ姫に似てるよね。ゴホン、そんな話はどうでもいいか。本日は宮崎ラーメンの現状と問題点について深く考察するエントリーにするのだった。

 インスタントラーメン、昭和30年代は即席ラーメンと言っていたが、そのインスタントラーメンを始めて食べたのは多分3歳か、4歳くらいでご存知日清のチキンラーメンである。昭和33年8月に発売されたので、当時の流通関係などを考えて、我が地元ディープ南九州に入ってきたのは、おそらくその1年後になるので年齢的に合致する。ただ、ここでちょっとした疑問が生じる。我らがアベックラーメンは昭和35年発売である。お隣の熊本で当時は住尾のアベックラーメンとして売り出されており、こちらを先に食べた可能性もある。またおやつとして子供たちに人気のあったベビースターラーメンも昭和34年に売り出されているから、最初に食べたインスタントラーメンは実はポリポリかじるベビースターラーメンだったかもしれない。いや、ちょっと待て。ベビースターラーメンが流通する条件として、先にラーメンに対する認知度が高まっていないと需要は喚起されないはずだ。したがっておやつのベビースターラーメンを先に食べるとは思えない。やはりチキンラーメンかアベックラーメンのどちらかだ。などとやり始めるとインスタントラーメンの話で終わる危険性があるので、急いで、いわゆるお店のラーメンを始めて食べたのはいつだったか思い出してみる。

 多分、生まれて初めてラーメン屋でラーメンを食べたのは小学6年生。場所は延岡市にあった、いや今でもバリバリある再来軒であることは間違いない。それも99%以上の確率で7月の土曜日である。ザ・リーズン・ホワイ、当時住んでいた延岡市には土曜夜市というお祭りというか夜店の出るイベントがあった。それが7月の毎週土曜日に行われていたのだ。今も行われていると聞くが、往年の賑わいは全くなくなっているらしい。僕が小学生の頃は町中からずっと屋台のお店が軒を並べて、ざっと4キロくらいは続いていたと思う。子供の頃にとても楽しみにしていたお祭りであった。ただ、夜市というだけに夜行われるため小学生だけで行くことは禁止されていた。ばれなきゃ大丈夫だと、悪ガキだけで行く連中もいたが、何しろ娯楽の少ない時代だったので、必ず同級生かその親に見つかり、当時の親は人様の子供も平気で怒っていたから、その場でゲンコツをもらい、それでもそこの親が保護者として一緒に屋台を冷かしてくれたりした。結果オーライと喜んでいたら、次の日のクラスの反省会で「drac-ob君は子供だけで夜市に来ていました。いけないことだと思います」などと学級委員の女の子に告発されて、ああ、告白されるのはいいけど告発はアカンよな。きっちり担任からもゲンコツを貰い、反省文を書かされたりした。

 すまん、また話が逸れた。その夜市にあるとき、同じクラスの友達が「オレ、今日は姉ちゃんと一緒に土曜夜市に行くっちゃが」と言い出した。夜市は親と行くのもいいのだが、やはり親はなんだかんだ小言を言ったり、こちらが買おうとする銀玉鉄砲やゴム管(正式名称はパチンコというのか、要するにYの字の形をした金具にゴムがついていて、そのゴムの真ん中にモノをはさむ皮がついていて、そこにかんしゃく玉などをはさんで、ゴムを引っ張って適当なタイミングで指を外すと、そのかんしゃく玉は狙った方向に一直線に飛んでいき破裂する。子供のころから大好きな遊びで、これが後年火炎瓶などに興味を持つきっかけに、いや、その、パイプ爆弾は見た目がひょろっとしているので通称キュウリと、あわわ、もっとアカン話か)などを買おうとすると止められたり、金魚すくいをしたいと言っても飼うところがないからやめろと言われるし、そうすると当然カラーペイントされているひよこなど飼ってどうする、あんなもの全てオスで卵を産むはずがないなどと説教食らうのは嫌だった。

 しかし、同行するのがいやこの場合先導と言ったほうが正確か、要するに子供の夜遊びの大義名分に友人のお姉さんが付いてきてくれるというのは、これはもうやりたい放題というか好き勝手にできる。何、相手が年長者の権威でもってこちらの遊び心を止めようとしても、「女が男のやることに口を出すな」といえば、それは男尊女卑のディープ南九州、主導権はこちらのものだ、などと子供心に考えたかどうかは別として、親と一緒だと夜9時には帰らないといけないが、友達の姉ちゃんと一緒なら10時に帰っても怒られないだろうという打算はすでにできていた。その友達、Y田君に、普段はそんなに仲がいいわけではないが、目いっぱい媚を売って一緒に連れて行ってもらうことになった。まあ、今考えてみると、この当時からおねいさんが好きだったんだといえなくもない。

 その時の夜市がどうだったかは全然覚えていないが、夜の暗さと夏の暑さ、そして人ごみの異様な熱気と屋台の兄ちゃんたちの元気のいい掛け声などに疲れて、さあ帰ろうという時間に、ものすごくおなかが減っていることに気が付いた。友人のY田君もそれは同じだった。彼が、「姉ちゃん、腹減った」と言ったら、姉は心得たもので「もう少し歩いたら、美味しいお蕎麦屋さんがあるから、我慢しなさい」と返事する。僕はもらった小遣いを全て使い果たしていたので、これから食堂(小学生の僕にとって食堂というのは年に1回行けるかどうかの聖地だった。食堂=ハライソという貧しい時代だったのだ)に連れて行ってもらうのはいいが、お金をどうするか多分困った顔をしていたのだろう。その僕の顔を見て友達の姉は「あ、心配せんでいいよ、うちがおごるが」と言ってくれた。その瞬間僕はおねいさんに恋をした。というか、おい、あんまり即物的だなオレは。それともう一つ驚いたのは「お蕎麦屋さん」と言ったので、てっきり信州そばか出雲そば、あたしゃあなたのそばがいいという純和風のお蕎麦屋さんを連想していたのだが、連れて行かれたのはお店の中で湯気がもうもうと上がっているラーメン屋、すなわち再来軒であった。カウンターに座った僕たちは、お店の人がラーメンを作る作業を食い入るように見て、あ、それは僕だけで、Y田君とお姉さんは先ほどの夜市のことなどをいろいろ話していた。

 出されたラーメンをしばし見て、おもむろに食べ始めたのだが旨い。美味しい。世の中にこんなにおいしい食べ物があることを初めて知ったという感激と食べていくうちに少なくなるどんぶりの中を見て、人生のわびさびまで感じ入ってしまった。文字通り最後の一滴まで飲み干して思わず「美味しかった」と声を上げ、Y田君とお姉さんに笑われた。この時食べた再来軒のラーメンは宮崎ラーメンでも県北ラーメンなので、具やスープが宮崎ラーメンの中でもちょっと異なる。僕が普段食べている宮崎ラーメンは九州ラーメンにくくられると思うが、ラーメン伝搬ルートが九州ラーメン発祥の地久留米から国道3号線を使って南下、熊本ではニンニクチップを入れる独特の肥後ラーメンとして発達し、さらに3号線を下り、キャベツを入れる鹿児島ラーメンに変化。そしてそれが都城市を経由して国道10号線から入ってきて完成したと見ている。しかし、延岡はその場所から、おそらく久留米から熊本、そしてそこから高千穂を超えて入ってきたラーメンと、北側の大分県から入ってきたラーメンが合体して独自のラーメンになったのではないか。

 たとえば具であるが、元祖宮崎ラーメンには必ず入っているもやしがない。その代わりキクラゲが入っている店が多い。このあたりはシイタケやキクラゲが主食である大分の影響だろう。またメンマが、いや当時の再来軒で初めて食べたメンマが一体何だかわからず、思わずお姉さんに「これ何」と聞いたら、堂々と「シナチク」と教えてもらった。今気に入ってるマンガ『進撃の巨人』にシガンシナ地区というのが出てくるが、あれはおそらくシナチクから連想したのだろう。要するに東支那地区という意味だろう。ところで今、「シナ」を変換しようとしたら、「支那」が出てこなかった。単漢字で引っ張るしかないのだ。IMEの下らぬ自主規制だと見た。「支那」という表現のどこが悪い。あれは中国の英語読みChinaに漢字をあてただけだ。しかもそもそもChinaは中国の最初の統一王朝である秦から来た言葉であり、世界中の多くの国は中国のことを「支那」の変化形で呼んでいるし、そもそも中国自身が自分の国のことをChinaと呼んでるではないか、とちょっと石原閣下みたいなことを書いてみた(テヘペロ)。

 延岡のラーメンの代表的な具は、キクラゲ・メンマ・ノリ・チャーシュー・青ネギ(これは九州の人間はみんな大好きな細いネギだ)。そして麺は久留米系の細麺でやや硬めにゆでる。スープは宮崎ラーメンに比べると透明度は高く、味はさっぱり系である。熊本から伝搬したと思うがニンニクチップはほとんど載せない。代わりにすりおろしたニンニクを各自が好みの量を入れて食す。胡椒は白コショウでアルミの館にはアルファベットのAの文字が描かれている。その心はアート・ペッパーだ(なんちゃって、笑)。この延岡ラーメンは時々無性に食べたくなり、外回りの仕事をしていた時は揚子江というお店があって、バイパス上にフランチャイズが何店舗かあったので、仕事の空き時間に飛び込んで食べていたが、最近は見かけない。フランチャイズが上手くいかなかったのか。再来軒は今も現役ですでに2代目だか3代目が張り切ってやっているが、場所がちょっと入り組んだところにあるため、なかなか足を運べないのが残念だ。先ほど、お店のHPを見たら操業が僕の生まれた年と同じだ。ますます親近感がわいた。

 先ほど、九州ラーメンについて書いたので各県ごとのラーメンについて軽く触れておきたい。久留米はグレイトである。九州ラーメンという独自のラーメンはここで生まれた。それまで支那そば、中華そばと呼ばれていた鶏がら中心のしょうゆ味のラーメン、東京中心のラーメンに対して、豚骨スープに細麺という組み合わせで反旗を翻し、ラーメン業界に革命を起こした。また久留米があってこその博多めんたいビートである。あの偉大なるサンハウスを生んだのも久留米である。太くてまっすぐなロックは久留米から博多に、そして日本全国のロックンロールクレイジーを狂喜させた。その久留米ラーメンは宮崎にもひところフランチャイズで「小太郎」とか「長浜」とか結構あったが、今は寂しい限り。しかしながら都城市にあるその名も「久留米ラーメン」は麺を久留米から直輸入しながらかれこれ四半世紀は健在である。このお店も外回りをしていたころ、高速代を節約するために国道を使って宮崎から鹿児島の営業所に行こうとしていた時に偶然見つけた。都城の市街地を抜けて、県境が近づく。もう少し走ると鹿児島の末吉町(今は合併して霧島市になっているのかな)、その末吉町の案内標識が見えるか見えないかというところにいくつかの飲食店が国道に固まってあった。その中に赤い暖簾で「久留米ラーメン」とかいてあるお店があり、吸い込まれるように入った。入ると外装と同じくらい古い感じの店舗で横山三国志のマンガがたくさんあったので、読みながら待っていると、何と本格的な久留米ラーメン。感動して一気食いをした。それ以来のファンである。

 その久留米ラーメンで元気を取り戻し、国道をひたすら走って鹿児島市は武町にあった会社に着く。しばらくは鹿児島の事務所で仕事するのだ。武町というのは実は西郷どんも以前住んでおり、その当時は「武村の吉之助でごわす」と名乗っていたらしい。そこでおとなしく狩りでもして居りゃよかったのに、いや、その前に江藤新平が来た時に、一緒に決起していれば、岩倉や大久保、山縣あたりが好き勝手することもなかったのに、おせーよ、やることが。などとちょっと西南戦争の話になりそうなのでやめる。その鹿児島ラーメンだが、キャベツが入っているのが特徴で、あえて言わせてもらえれば美味しいラーメンはまあよく見て3割。後の7割はクソみたいなしょうもないラーメン店がカゴンマには多い。僕が気に入っていたのは、その武町にあった「王ちゃんラーメン」。「王ちゃん」と書いて「ワンちゃん」と読ませる。また当時は西鹿児島駅と呼んでいた駅のアーケード内にあった「大名ラーメン」。あ、もちろん「くろいわ」とか「こむらさき」とか「海軍屋」などの有名店は美味しいが、その辺の町中のラーメン屋は残念なところが多い。何が残念かというとスープがやたら油過多なのだ。まさしくアブラカタブラと呪文を唱えたくなるくらいスープがまずい店が多い。

 その格差の激しい鹿児島ラーメンで最近検討している店があると聞く。キシャバの近くの店で、象、いや、ライオン、ちがうな、サントリー?いや、なんか違う。アサヒだったか、あ、思い出したキリンだ。漢字では「樹凜」と書く。正式には「麺匠 樹凜」と書く。自分から「麺のタクミ」と名乗るから相当な自信である。ここの店主はロシア革命の偉人にクリソツらしい。一度食べに行きたいと思いながらなかなか足を運べない。などと書いたが、実はこの店主も武町の事務所で働いていた人間である(笑)。おーい、I上レーニン君、行く行くといいながら足を運んでないが、そのうち行くから待ってろよ~。ということで本日はここまで。あ、熊本ラーメンの話を書き忘れたけど、それは次回じゃ。

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