悲しき終列車、あるいは国鉄との妥協なき戦い

 台風がゆっくり近づいている。今日は、せっかくの日曜日なのに朝から風が強く、時々激しい雨も入り混じる。先ほど、所要で車を走らせたが橋の上では風の直撃をくらってハンドルが取られそうになった。まともに横風を受けたら車ごと横転して、まっさかさまに橋の下である。♪こんなとこ~来たことないけど、なぜか来たのが橋の下~、真っ暗で、だけどよくみりゃ親父一人で何してる、などとローザの歌を口ずさむ余裕などあるはずがない。しかし、大げさではなく乗っていたのが普通車だったからよかったものの、これが軽自動車だったら完全にハンドル取られて恐怖のデビルゲイト・ドライブ(スージー・クアトロのヒット曲だよ)になること間違いない。先週も台風のせいで1日中家でごろごろしたが、今週も連休なのに台風のためにどこかに行こうとか何かをしようという気持ちが起こらない。仕方がないので、こうやってPCの画面に向かい文字を入力している。さて、何故始めてしまったか、自分自身でも良く分からない10月ノンストップ・エントリーであるが、話もいい加減とっ散らかっているので、今日はこの前書いた学生時代のバイトの話を書いていく。

 生まれて初めて経験したのはラーメン屋のバイトで、これは先日アップしたようにわずか数時間でゲルニ。夜のバイトに行った友人2人は別の店だったが、しっかり働いて月末には通常の仕送り以上のお金を稼いで、一人は洒落っ気のある男だったので春物のジャンパーだとか、衣類にお金をかけて気に入ったものを次々買いこんでいた。もう一人は立派な体格をしていて、混声合唱団に入っていたので春の合宿や飲み会などの資金にして、それでもまだお金が余っている様子だった。僕は、バイト代も入らないし例によってインスタントラーメンで生命を維持するドツボ暮らしが続いていた。貧乏が嫌ならバイトを探せばいいものの、根が面倒くさがりなのでそんなこともせず、毎日サークルのBOXに出没し、帰省もせずにうだうだしている先輩や同級の仲間と人数がそろえば麻雀、集まらなければ河原町今出川にあったキングとラッキーという二大遊戯施設、世間ではパチンコ屋と呼んでいる場所に行って、200円分球を買い台が終了するなんてことはめったになかったが、それでもタバコや缶詰などの必需品に交換して暮らしていた。

 しかし、パチンコはともかく麻雀は貧乏学生同士でやるわけだから、勝負が終わったら即金で回収しないと、貸したりツケたりしたら、次返す、次勝って返すとまあ完全な口約束で、いくら帳面上であいつに何千円貸し、あいつにも何千円貸し、あ、あいつもこの間の負け金払ってないやんけ、次あったら催促せんと、などと捕らぬ狸の皮算用ばかりしていても、生活が維持できない。仕方がないので3月に入ったら田舎に帰ることにした。田舎に帰省する交通手段は飛行機か電車、フェリーなどいろいろある。一番安いのはフェリーだが大阪の南港から乗るのはいいが、到着するのが日向市で、地元の宮崎に帰るには、そこからバスか電車に乗り換えて1時間、フェリーは夕方乗って朝つくからほぼ丸一日かかる。乗ってる間の食事代とか、乗り換えの費用など考えると決して安くはなかった。次は電車であるが、これも新幹線で福岡まで行き、そこから日豊本線に乗り換えるわけだが当時の大分県と宮崎県の間にそびえたつ宗太郎峠という恐怖の峠があり、京都から福岡、まあ小倉だが、そこまでが4時間とか5時間で来るのに、小倉から宮崎までが特急で同じく4時間から5時間、急行だと6時間、各駅停車では10時間以上かかるという地獄のロードであった。そういえば、あれは何回生の時か忘れたが、冬休みの帰省をするのに、お金がカツカツだったので京都~小倉間を新幹線より安い特急の自由席で行き、小倉から宮崎は当時夜中に走る急行日南というのがあって、それだと電車の中で寝ていれば翌朝には宮崎駅に立つことが出来るというリーズナブルというかチープトレインツアーをたくらんだ。あ、思い出した。スカイメイトが使えない歳になっていたから、5回生か6回生の時だ。

 学年はさておき(笑)、貧乏学生で銭湯代が惜しくて風呂にも1週間は入っておらず、使えるお金をきちんと計算し、特急のチケット、急行のチケット、そして移動中の汽車弁当代などぎりぎり、宮崎駅に着いたらその時の体力によっては歩いて実家まで帰るか、どうしてもしんどいときはバスに乗ろうと、そこまでのお金しか持っていなかった。そして、碌に飯も食ってなかったのでフラフラしながら京都駅について、特急のチケットを買って乗り込み、まあこれで今回の帰省も何とかなったと気持ちも落ち着いたら、とたんに腹が減ってきた。車内販売が回ってきたので、手を上げて「弁当、幕の内」と伝えたら、「スイマセン、幕の内は売り切れです。今あるのは鰻弁当だけです」との返事。金額を聞くと幕の内は当時500円程度だったが、その倍はかかる。しかし、背に腹は代えられないのでしぶしぶ、その鰻弁当とお茶を注文した。受け取った弁当はあったかくて、また社内の暖房もあったかいというより、ちょっと暑いんじゃないかと思うくらい。腹は減っていたが、ついそのまま寝てしまった。「こくら~、こくら~、ご乗車ありがとうございました。終点こくらでございます。忘れ物の無いように~」というアナウンスで目が覚めた。慌てて荷物と弁当を持って駅に降りて、乗り換えの急行の乗り場に向かった。

 乗ってきた特急列車から降りた人は全員、駅の改札に向かい別の乗り場に向かうのは僕一人だった。ラッキー、こりゃ急行はガラガラだな。1人で座席を全部使える。体をL字型にして、向かいの席に足を乗せられるから楽できると、ルンルン気分でこれまで何度か使った乗り場に行った。その乗り場に着いた時に何だか妙な気配を感じた。誰も乗り場にいないのは夜の11時くらいに出発する急行なので、そういうこともあるかと思ったが、しかし、年末の移動シーズンに僕のような貧乏学生がほかにもいておかしくない。ちょっと不安になり、天井から吊り下げられている時刻表を見たら、なんと僕が乗ろうと思っていた急行列車はとっくに発車しており、この後乗れる電車は1台もなかった。慌てて持参した国鉄の時間表(当時は日本国有鉄道だったんだよ、あれを民営化してJRなんかに分割したから田辺町に向かう電車がビルに突っ込んだ大事故が起こったのだ。そもそも国労解体が狙いの、って話が逸れた)で確認したが、僕の時間計算は間違っていない。何故だ、どうしてだと考えているうちに、時刻表の発行月に気が付いた。つまり、僕が見ていた時刻表は、その前の月まで有効なもので12月にダイヤ改正があり、今まで乗れた急行は時間が早くなっていたのだ。さて、困った。ここがせめて久留米であれば、大学の先輩もいるが小倉にはいない。高校時代の友人とか知り合いとか誰かいないかと考えたが、思いつかない。お金は余裕がないので、こりゃ駅の待合室で夜を過ごすしかないかと覚悟を決めた。しかし、以前のエントリーにも書いた記憶があるが、夏の京都駅の待合室に泊まり込んで信州行の特急券を買おうとしたことがあったが、その時は待合室をねぐらにしている怪しい人たちと、結構面倒なことがあったので、そうだ、駅員に頼んでみよう。駅員室の片隅に泊めてくれと言えば、将来有望な大学生(に見えなくはないだろう)の頼みを、そう簡単に断ったりはしないだろうと、勝手に決め込み改札を出た足で窓口にいた駅員に声をかけた。

 僕は、京都で学問に取り組んでいる苦学生で、時刻表も本来なら新しく買って確認すべきところを、その貧しさゆえ古いものしか持たず、その結果乗り継ぎを間違えたこと。今日はもう電車がないので、明日の朝一番の急行に乗って帰るのだが、この寒空の中、暖房の切れた駅の待合室に泊まったら、それでなくても栄養のあるものを食べていない体に無理が来ること。下手をすると思わず、「パトラッシュ、僕もう疲れたよ」とつぶやきながら天使に導かれてそのまま川を渡ってしまうかもしれないこと。そうすると我がポンニチにとって大きな損失であることは、これは間違いない。したがって駅長室とは言わないが、ストーブの焚いてある、いやもしかしたらセントラルヒーティングかもしれないが、あなた方がぬくぬくと、いや失礼、黙々と仕事をする駅員室の片隅でいいから寝かせてもらえないか、いや仮眠室があって、そこが空いているならそこで休むことに異議は全くありません、的なことを誠心誠意をこめて訴えた。駅員はちょっと困った顔をして上司に相談に行った。

 となれば、一つのメルヘンであるが、国鉄合理化を目の前にした夜勤の職員、このまま国鉄に残れるか、それとも組合活動をやりすぎたので国鉄清算事業団に飛ばされるか、その場合は合理化反対闘争の一環として裁判闘争を貫徹するかとか、多分、そういうことで頭がいっぱいだった職員は、そうだ、ここで風体怪しげな学生を駅員室に泊めたりしたら、国鉄合理化フンサイなどと叫んで、それはそれで異議なしなのだが、駅員室封鎖やバリスト、挙句は線路に出て投石などされたら、わが身が危ない。こんな奴は絶対に駅員室に泊めるわけはいかんバイ、おっと待合室あたりにもバクダンしかけられたら大変タイ、こぎゃんアホ学生は安ホテルに案内するしかないというようなことを多分0.5秒くらいで考えたのだろう。彼の口から、「この先に豊ホテル(まだ名前を覚えているぞ、オレもいい加減執念深いな)という格安で泊まれるホテルがあるから、そこに行って泊まりなさい」とけんもほろろであった。この年だったか翌年だったか、椎名誠の『さらば国分寺書店のオババ』を呼んだ時に、「今、日本の本官たちはワシらの目をちゃんと見ることが出来るか」という一文があり大いに溜飲を下げたものだった。

 駅員の冷たい対応に激怒したものの、状況に変化はないので疲れた足を引き摺ってホテルに向かった。ホテルのフロントには、やはり中年の目つきの鋭いオジジがいた。そこで今回の乗り継ぎの失敗は赤字続きの国鉄が、時刻表の売り上げアップのための陰謀であり、貧乏な苦学生であるワタクシは一歩も間違っていないこと、それでも普通の学生は時刻表など本屋で立ち読みして済ますが、九州で生まれ育ったワタクシはそげん不義理はでき申さん、最後うどん、違った西郷ドンも敬天愛人、子孫のために美田は残さずと言うとるとですよ、窮鳥懐に入れば猟師も殺さずというではないか、要するにタダとは言わんがちっと安くで泊めてくれんかと嘆願したが、カブトムシの目をしたオジジは「うちは素泊まり5000円、このあたりで一番安い」と一言。泣く泣く財布を見ると、5千円札が1枚あった。取り出した聖徳太子を、しぶしぶオジジに渡して、その代わりに部屋のキーを貰った。あ、当時の5000円札は聖徳太子だったのよ。今の樋口一葉と違って重みがあったっけ。

 部屋に入った僕は、こうなれば元を取らねば大損だと風呂に入り、シャンプーなどのグッズをパクり、風呂上がりのビールも飲みたいが、財布に残っているのは宮崎駅から実家までのバス代だけ。歩いて帰るにしても、その金額ではビールが買えない。そうだ、昼間買った鰻弁当があるじゃないかと思い出し、早速取り出して食べた。覚めた鰻弁当はげんなりするくらい不味かった。そして部屋に備え付けのテレビを見て、下宿から持ってきていた文庫本など読んでいるうちに寝てしまった。朝一番の電車は7時発だったので、6時には起きて、もう一度風呂に入りタオルや髭剃りその他、手当たり次第にバッグに詰めてホテルを後にして駅に向かった。急行列車は時間通り発射して、例によって宗太郎峠のあたりでテレテレ減速したが、それでも無事宮崎駅に着き何とか家にたどり着いた。たどり着いたが、今回の旅のおかげで無一文となってしまい、こりゃなんとかせねばと高校時代の友人に頼み込み、デパートの内装工事のバイトにありついた。

 これはクリスマス商戦も終わり、いよいよ新年に向けての商戦を勝ち抜くためにカッティングシートで貼ってあるデコレーションをはぎ取るというバイトだった。カッターやそれ専用のスクレイパーを使って剥ぐのだが、これがまた骨の折れる仕事でしかも寒空の中、内装の大将から「寒くない格好で来い」と言われていたものの、てやんでぇ、こちとら真冬の京都を体験した人間だい、南国宮崎の冬など修学院で言えば立派な春じゃ、と素直に聞かなかったのでとっくりセーターだけしか着ていかなかった。ほかの職人さんはウィンドブレイカーやジャンパーみたいなものを上に着ているのに僕はセーターだけだったので木枯らしが身に応えた。それでも剥ぎ取りをやっているうちにポカポカしてきて、昼休みには汗をかいていた。昼飯は仕事先のY形屋デパートの後ろにあるおぐらというう有名な飯屋に連れて行ってもらい、何でも好きなものを頼めと言われて実はカツカレーを食べたかったが、初めてのバイトでカツカレーはちょっとまずいだろう、次からバイトで呼んでもらえないかもしれないと思い、カレーを注文。ちょっと考えて大盛りを頼んだ。ご存知の方はご存知だろうがおぐらの飯はボリュームがある。カツカレーにはサラダが付くのだが、体調万全の時でも完食は難しいのに、何を狂ったがカレーの大盛り。カツカレーだったらカレーに飽きたらカツを食うというバリエーションがあるが、カレーの大盛りはカレーかライスか福神漬けしか選択肢がない。一気呵成に勝負をかけたが当然敗北して、三分の一は皿に残っていた。それを見た内装の大将、「まあ、ボンボンの学生だからしょうがないが、人からごちそうになったものは全部食うのが人として最低の礼儀だからな、覚えとけよ」。いや、そんなん、知ってるし。第一、ボンボンちゃうねん、苦学生やねん。一部の人からボーリョク学生と言われるようなことはあるけど、基本苦学生やねん、といいたかったが腹がきつくて抗弁できなかった。そして、その内装のバイトは二度とお呼びがなかった。



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