久しぶりに音楽話 『ニッポンのうた漂流記』を読んで

ニッポンのうた漂流記

 何気なく手に取った1冊の本が面白くて、一気呵成に読んでしまった。という経験を読書好きの人は皆さんお持ちだろう。先日、久しぶりにそのような体験をした。今日はその話をまとめてみたい。

 年末に借りていた数冊の本を図書館に返却に行き、そのまま帰ろうかと思ったが新しい年にもなり、もしかしたら自分でも気がつかない入荷本があるかもしれないと思い、館内をうろついた。文学や随筆やルポのコーナーを見たが前年とほとんど変わっておらず、いい加減疲れたので帰ろうとして、音楽のコーナーを見ていないことに気がついた。書架が2列しかないささやかな音楽のコーナーだが、そこに『ニッポンのうた漂流記』と言う本があった。表紙は多色刷りの木版画で、夕暮れの迫る呑み屋街にショルダーバッグを持った人が、仕事帰りだろうか、出張のついでに立ち寄ったのだろうか、どこかいい店は無いかとぶらついているような風景画だった。この木版画の絵がいいなと思い、次に「ニッポンのうた」という表記が気になった。「日本の歌」ではない。カタカナとひらがなで表記するところに何かメッセージがありそうだ。自慢じゃないが、僕も我が祖国のことはたいてい「ポンニチ」と書いて心ある人たちから白い目で見られている。ま、それはいいか。

 サブタイトルが「ロカビリーから美空ひばりまで」とあったので、いわゆる演歌、歌謡曲の歴史が書いてあるんだろうと思い、表紙をめくった。とんでもなかった。日本のポップスの歴史が、洋楽のレーベルの話とともに詳しく語られていた。作家名は飯塚恆雄。不勉強で全く存じ上げない。急いで裏表紙を開き著者略歴を読む。

日本コロンビアの音楽ディレクター、プロデューサーとして「フランシーヌの場合」「白い色は恋人の色」、角川映画『野生の証明』主題歌「戦士の休息」、『復活の日』主題歌「ユー・アー・ラブ」などを担当。(中略)その他エグゼクティブ・プロデューサーとして財津和夫、ラウドネス、ザ・イエロー・モンキーなど多数のアーティストを担当。(後略)


 もう一度、表表紙を開き目次に目を通した。

プロローグ 新橋・烏森界隈
第一章 1960年代
1. 東拓ビルの最後の住人たち
2. クラウン騒動の顛末
3. それは、ソニーとCBSレコードの握手から始まった
4. プロテストの風と「フランシーヌの場合」
5. 「帰ってきたヨッパライ」と〈オールナイト・ニッポン〉と「白い色は恋人の色」
6. 森山加代子を復活させた「白い蝶のサンバ」

第二章 1970年代
1. ニューミュージック時代の落し物
2. 渡辺プロダクションと伊東ゆかりの独立
3. ぴんからトリオにすがって泣いた経営者たち
4. アルバム時代と大瀧詠一のナイアガラ・レーベル

第三章 1980年代
1. ゴダイゴと角川映画
2. CMソングとナンシー・ウィルソンの恐怖
3. アメリカに挑戦した日本のハード・ロック
4. プロデューサー・システムの波紋とチューリップ
5. ロスアンジェルスとA.S.A.P
6. 美空ひばりと昭和の死

エピローグ 1990年代と旅の終わり


 『新橋烏森口青春編』という自伝的小説が椎名誠にある。その本で新橋はサラリーマンの街ではあるが、仕事に疲れた人たちが英気を養う呑み屋街だということも知った。その新橋烏森周辺の描写から話は始まる。銀座は歌になるが新橋は歌にならない。それは何故か、などという前フリから笠置シヅ子がデビュー前の11歳の美空ひばりに嫉妬して著作権協会を通して「作曲家の意思として今後、服部作品のブギは一切歌唱禁止」という処置を取り、詩人のサトウハチローも笠置シヅ子を擁護してひばりを「ゲテモノの物真似」とそしったなどというエピソードが語られる。昭和26年にプロレスラーの力道山が間に入って服部良一と美空ひばりは和解したなんて言う話もニッポンの芸能の裏歴史みたいで面白い。最初のプロローグを数ページ読んだ僕は貸出カウンターに行き、大急ぎで家に帰り続きを読み始めた。

 人がある職業に就くのは必然なのか偶然なのか。必然だと思う人は以下は読んでいただかなくて結構。などと大見えを切ったが、いやそんなもの絶対偶然だとしか思えない。僕自身いくつかの仕事を経験してきたが、全てそれは偶然の産物だ。そして、この本の作者もレコード会社に関わるようになったのは、単なる偶然。親のコネで何とかもぐりこんだとあるが、大学時代は文学青年で和田芳恵からこんな話を聞いている。「川端康成が一高時代に突然、寮を出たまま一週間ほど連絡を絶ったことがありました。その後友人の前に現れたとき、川端は旅で会った少女の小さな写真を持っていたのです。その写真の女の子はお世辞にも可愛いとは言えない器量でした。そんな女の子から、あんなにも美しい踊り子との物語を書けるのが、小説家の異様な感性なのです」。このような文学の世界からヒット曲を探すという山師のような音楽業界に、「明治後期に日本最初の蓄音機、レコードのメーカーとして創業した」日本コロンビアに就職する。

 しかし、日本コロンビアというレーベルのシンパシーを持つ人はどんな世代だろうか。少なくとも僕たちの世代にはいないと思う。この後洋楽レーベルの話が出るのだが、何と60年代に日本コロンビアが契約していた洋楽レーベルは、EMI、CBS、エピック、ワーナー・ブラザーズ、ユナイテッド・アーティスト、ウェスト・ミンスター、エラート、イスパ・ボックス、ヴェガ、ニクサ、MGM、ヴァーヴ、ディズニーランド。おおい、この他にどんなレーベルがあったのか教えてくれといいたくなるくらい宝の山である。そのお宝ががらがらと切り崩されていく。まずEMIが昭和37年(1962年)にコロンビアを離れ東芝音楽工業に移る。1962年がどんな年だったか。この年の10月5日に「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューした化け物グループの躍進をコロンビアの社員たちは指をくわえて見ているしかなかった。CBS・ソニーの創業は1968年3月1日だが、CBSとコロンビアの契約は6月30日まで残っていた。ちょうどその時に、以前はトム&ジェリーというお茶らけた名前の高校生二人組は立派な大人のデュオになり、作曲家にとっては不本意だったかもしれないアレンジで「サウンド・オブ・サイレンス」がヒットし始めた。おかげでコロンビアもほんのちょっぴりおすそ分けを頂いたが、契約終了の日にCBSソニーの契約担当者はコロンビアの川崎工場まで出向き、すべての資産が破棄されたことを確認した。その後、「コンドルは飛んでいく」、「スカボロー・フェア」、「明日に架ける橋」、「ボクサー」と次々にヒットを生むスーパーデュオは出来たばかりのCBSソニーの金の卵だっただろう。

 ではどうして、それまで洋楽レーベルのほとんどを傘下に収めていたコロンビアが坂を下るようになったのか。現場のたたき上げの管理職とエリート経営者のケンカという、まあ結構大手の企業でも良く見られる話が原因だった。コロンビアの筆頭幹事社で大株主だった野村證券から担ぎ出され会長職に就任した長沼弘毅と、現場からたたき上げでレコード営業部長兼任常務の伊藤正章のケンカは、最終的に伊藤がコロンビアを退職。その伊藤が頼った会社のオーナーが九州出身で、「なーんか、官僚上がりのつやつけた男があんたを追い出したとか。そぎゃんこつ、コロンビアは許してもお天道様は許さんバイ。よし、わかった。オイが九州ん経営者を説得してあんたを男にするバイ」みたいな話があったかどうかは知らないが(あくまでワタクシの脳裏に浮かんだ九州人のタンカです、笑)、1964年純日本資本の新しいレコードメーカー、日本クラウンが発足し、伊藤に世話になったコロンビアの社員や歌い手たちが大挙してクラウンに移籍という大騒動があったらしい。最近ではナベツネと清武元球団社長のドンパチを連想するが、あちらは彼我の戦力差が激しく、九州男児の清武さんはもっぱらゲリラ戦術で、おっと話がそれた。

 ここで悪役を演じた長沼弘毅だが、どこかで聞いたことのある名前だと思っていたら、何と有名なシャーロッキアンだった。シャーロック・ホームズの研究家だ。その昔、ハヤカワのミステリマガジンで何度か評論を読んだ記憶がある。

 ところでコロンビアの業績悪化の原因は、レコード部門ではなく電機部門が原因だった。え、コロンビアは家電を作っていたっけと考えてみたが、あった、あった。家具調ステレオ、つまり足が4本ついていてターンテーブルが本体のお腹の位置にあり、扉を開けるとその中にプレイヤーが収まっているやつ。当然全体に布のカバーがかかっていて、音楽を聴かない時は、据え置きの家具みたいに応接間に鎮座していた。いや、ワタクシの家はルンプロだったので、そのような立派な家電製品は無かったが、近所の医者の息子(当然、バカ息子)の家に遊びに行ったとき、おそるおそる触らせてもらったことがあった。さらにテレビもコロンビア製のものがあった。これは結構いろんな家に普及していたような気がする。やはり家具調テレビで何故かテレビを見ない時は簾みたいな、カーテンみたいなものが下されていたよな。まあ、昔話はそれくらいにして、当時、東京オリンピックや皇太子の結婚などがありテレビがバカ売れした時代だったが、そんなバブルは続きはしない。コロンビアの経営者の凄い所は販売網を確立していないのに、テレビ以外の家電品もどんどん生産し、当然それは返品の山になっていった。

 苦戦を続けるコロンビアに、少し光が差し込んだのが「フランシーヌの場合」のヒットである。CBS・ソニーが設立されコロンビアから美空ひばりの「真っ赤な太陽」などをヒットさせたディレクターがヘッドハンティングされ、そのディレクターから一緒にやろうと声をかけられた筆者だったが、その話がコロンビアの経営陣に洩れて引き留めを受ける。その時「若さが、その情熱や感性が必要とされる場」を提供するので残るよう言われ、デノン・レコードという新しいレーベルのプロジェクトチームに参加する。当時はGSブームに陰りが出始め、反対にフォーク・ソングが一気に上昇し始めた時代だった。しかしGSもフォーク・シンガーも有名どころは他社に抑えられていて手がでない。その中で筆者が目に付けたのがCM業界だった。と、このあたりが大瀧詠一が登場する布石になってたんだな。CMソングを作っている人の中でフォーク的な感性を持っている人間はいないか、あちこち当たっているうちに郷伍郎を紹介される。最初の面談で郷が話したのが、ビアフラの飢餓に抗議して自殺したフランシーヌ・ルコントについてだった。そこから音楽が始まるような話ではなかったらしい。そりゃそうだよな、当時の政府に抗議して焼身自殺するなんて、まるで今のチベットではないか。



 しかし、あのリリカルな曲が実は作曲家が痔でWCの中で苦痛に耐えながら夕刊を読んでいるうちにフランシーヌの小さな記事を見つけ、さらに次のひらめきを得たのも長いWCの間だったらしい。そしてカセットにデモを吹き込んで、筆者に渡す。作詞・作曲共に郷が作ったのだが、作詞家は「いまいずみあきら」とクレジットされていた。不審に思った筆者が尋ねると、作詞作曲が違っている方が今風じゃないですかといいながらも、最終的には「今泉」は奥さんの旧姓で今まで迷惑をかけたお詫びだという。ええ話や、ま、ワタクシには理解できないが(笑)。

 この本を読んでみるといろいろな音楽業界の裏話、ゴシップみたいなものも出てくる。たとえばこの「フランシーヌの場合」を歌った新谷のり子だが、反戦歌手(これが商売になる時代だったんだなと、そちらに驚いた。ダンカイがこぞって買ったんだろ、レスポールが重すぎて持てないくせに。もう若くないと言って、就職が決まったと言って髪を平気で切るような連中が)を演じていた本人はギターも弾けなかったし、詩も曲も書けなかった。そのくせ90年代にシンコー・ミュージックから出版された『日本のポピュラー史を語る』では、(曲を作った)郷さんは新谷のり子のイメージがあって「フランシーヌの場合」を書いたことになっていた。当時のいきさつを知ってる筆者にすればクリビツテンギョウである。

 「フランシーヌの場合」のヒットに続き、もうひとつのフォーク系のヒットをデノン・レコードは送り出す。来日しているハワイのハイスクールの女子学生の中にとても上手い子がいるので何とかならないかという話が飛び込んでくるのだ。元フォークルの北山修と加藤和彦がジローズ用の曲として書いた「白い色は恋人の色」が、ジローズのイメージに合わずオールナイトニッポンのDJだった高崎一郎が経営していたPMPという音楽出版社に管理楽曲としてストックされていた。その曲がハワイのハイスクール女子学生だったベッツィ&クリスの声にぴったりマッチした。しかし彼女たちは夏休みでチャリティショーに参加するために来日していたので、録音は短時間で大急ぎで行われた。オールナイトニッポンで積極的にオンエアされたことと、紅毛碧眼の女子学生がきれいな日本語で歌ったこと、そしてもともとも楽曲が素晴らしかったことなどが相まって、あの曲はヒットしたらしい。



 その後、森山加代子(良子じゃないよ、直太郎の母ちゃんじゃないよ)に「白い蝶のサンバ」を歌わせてヒット。当時は字余りソングなんて言われました。この歌のことをロックギタリストの成毛滋は「日本人はリズムが分からないから、あんな無茶苦茶を喜んでいる。本当にリズムが分かる人間にとって、あの歌は騒音以外の何ものでもない」みたいなこととフォーク雑誌のガッツに書いてあったことを良く覚えている。ふーん、そうなのかなというのが、読んだ僕の素直な感想だった。



 70年代に入り、URCやエレックが台頭してくる。大手レコード会社もそれに追随して、ベルウッドなどのレーベルが登場してくる。拓郎や陽水などが切り開いた地平をユーミンが鼻歌交じりで中央フリーウェイをかっ飛ばしていく時代に入るのだ。それは拓郎の卒業論文「日本のフォークソング論一『私達』の歌と『私』の歌一」でいみじくも語られているように(世の中が)私達という共同体を捨てて、私という個人に関することしか一切の関心が無いという、いわゆるシラケの時代に入ったことに気づかされる。良い悪いは別として思想のない歌、思想など必要としない歌の時代になったと個人的には考えている。少なくとも岡林は「私たちの望むものは生きる喜びなのだ」と歌ったが、拓郎は「私は今日まで生きてきました、そしていま私は思っています、明日からもこうして生きていくだろうと」と歌った。このあまりの落差は何だろう。貧乏だった戦後社会が高度経済成長を経て、所得倍増の言葉に踊らされて、あらえっさっさの時代に入っていったのか。考えてみると結構真面目なテーマになるので止める。

 フォークの大物の話をちらっと書いたが、実はコロンビア、売れる前の吉田拓郎を、エレックが売り出す2年も前に見つけていた。1967年に全国フォークソング・コンテストなるものを企画。優勝者はコロンビアからデビューできる特典付き。予選は東京をはじめ5か所。拓郎は大阪大会で一位になり決戦大会に登場。この時優勝したのはカレッジ・フォーク系のヴェークラント・カルテット(誰だよ、そりゃとおっしゃる方、ごもっともです。まあでもこんなもんだよ)。拓郎はディランの「風に吹かれて」を熱唱するが三位。審査員の福田一郎が「あれはディランの物真似ですよ」と言ったのが大きかったらしい。その後、福田氏はコロンビアで発言力が下がったかと言うと、これは勝手な想像だけど、そういうヤワな神経していたら「音楽評論家」はやっていけないだろうな、多分。しかし、この後も拓郎はコロンビアの大阪営業所を訪ねてきてデビューを懇願したが誰一人その意見を採用する人はいなかったらしい。EMIを手放した時の教訓が生きてなかったんだな。しかし、筆者もデビュー前のリリィを見逃すという失敗談を語っている。正直な人だな。

 この後、はっぴいえんどを解散した大瀧詠一のナイアガラ・レーベルとコロンビアは契約する。しかし、不幸だったのはコロンビアの経営陣が日立からの出向者ばかりになり、音楽ソフトがいかなるものか理解しない(理解できない)経営方針により筆者は洋楽部に異動になり、その1年後にナイアガラ・レーベルはCBS・ソニーに移籍する。大瀧の音楽が一般に受け入れられるようになった80年代まであと少しだった。大瀧詠一のいい話も本の中には出てくるのだが、それを書いているといつまでたっても終わらないので、興味を持たれた方は是非ご一読を。ぴんからトリオの大ヒットに浮かれた経営陣が、要は売れれば作品は何でもいいんだ、いや作品の質などどうでもよく、販売力さえあればレコードは売れるなどと錯覚した話など涙なくして読めないよ、いやホント。

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コメント

CBSのイメージが強いですが

凄い数のレーベルを扱ってたんですね。洋楽ですと、私は、ディランの 風に吹かれて のシングル盤は、コロンビア盤で買いましたし、ディランのLP三枚がコロンビア盤です。スコット マッケンジーの 花のサンフランシスコ、ジャニス ジョプリンのファーストや アンボイ デュークスのファースト等が コロンビアでした。しかし、70年頃になると 1910とメラニーとボビーシャーマン位しか いなかったのでは?(笑) テイチクとコロンビアは、当時、邦楽のレーベルになっていましたね。今は今で、CDが レコード時代とは別のレーベルから出ていて 面食らいます。

いや、ホントにそう思います

力尽きて後半部分の話を書けなかったのですが(笑)、この本70年代と80年代が一番面白かったです。特に角川映画は当時バカにされていましたが、実に良く計算されていて、音楽もしっかりしたコンセプトで作られていたようです。

>1910とメラニーとボビーシャーマン

まあ、バブルガムというか、それはそれで楽しい音楽でしたが、ヒットポップスだけではアルバム売れませんよね。」

偶然

今日、舅がコロンビアに勤めていた話をしていたので
ややびっくりしました。
しかも、家電(テレビ)の修理部隊だったらしい。
経営陣がもっとしっかりしてくれていれば、主人の人生も
変わったかもしれないと思うと、感慨深いものがあります。

MM21さん、ご無沙汰してます

そうですか、それは驚きですね。人生にはそういうシンクロがあるから面白い。この本はコロンビアの斜陽の歴史という見方もできるので、一度図書館で借りて読んでみてください。もちろん、本来の「ニッポンのうた」物語としても秀逸です。

興味深いですね

コロンビアというとコロンビアローズとか(笑)、ひばり、…というイメージでした。
自分ではレコードを買ってないけど、ゴダイゴとか中村雅敏、河合奈保子は周囲で持ってる人多かったかも。(河合奈保子はもしかしたら一枚ぐらいあるかな?)

近年になって戦前ジャズソングもので積極的にこことテイチクにお世話になってますけど。

>音楽ソフトがいかなるものか

そういえばCBSはColumbia Broadcasting Systemですよね。今やそのCBSも「ソニー」で全世界展開ですね。調べたら全世界展開のソニー・ミュージック(略)と日本のソニー・ミュージック(略)は別法人で、全世界の方はCBSを母体とした米国企業であり、ソニーの米国法人の子会社で、日本のそれはCBSソニーを母体とした純日本企業で、米国のそれの子会社ではなく、ソニー本体の子会社なのだそうです。なんだかややこしいですね。ここは国際的には大賀さんという超クラシックオタクがここまでにした、という感じですね。テイチク(=元松下パナソニック)とも差が開いたなー。経営者のやる気の問題が良く出てる例かもしれないですね。

新谷のり子が楽器を弾けなかったというのはちょっと可笑しいですね(笑)。その後の彼女の活動がむしろ「活動家」(運動家?)に軸をおいたものであることと重なるような気がします。表現したい気持ちは大きいのですが、演奏家としては…なんですね。

この間、図書館に行ったら

この本を返却に行って、また音楽のコーナーを見ていたら、新谷のり子の『反戦歌』がありました。行きがかり上、借りて読もうかと思いましたが、あんまりこのあたりの時代にずぶずぶになるとマズイかと思い止めました。いや、自分がダンカイの世代だと思われるのが嫌だったということもありますが(笑)。

戦前ジャズソングって、また随分渋いセンスですね。以前、バートン・クレーンのエントリーを書いたときにまとめて聴きましたが、今でも十分楽しめるものが多い。てか、エノケンの「月光価千金」をリザードがカバーしたり、「マイブルーヘブン」を高田渡が味のある歌い方したり、まあいろいろ楽しめます。

今話題

ニュースになった「河内守」さんのCDはコロンビアから出てたようです。

でもソニー対テイチク(元パナソニックグループ)よりも東芝EMIのほうが比較対象としては良かったかな(東芝の冠が消えて久しいので忘れてました)と。今現在の東芝自体の業績はソニーより遥に良いのだけど、もう一般消費者向けの商品はノートパソコンぐらいしかマジメに作ってないし(あとはOEM多し。福山君のテレビも実際はどこ製なのかな?)。EMIも手放してもう何年にもなりますが、末期はコピーコントロールCDで酷かったですね。
そう考えるとコロンビアは頑張ってますね。戦前ジャズソングとかマニア向けも出してくれるし(笑)。亡くなった大瀧さんのラジオ聞いてから注目しだしたんですよ。ちょうどその後ぐらいに「ラジオ深夜便」で「SP盤」特集聞いたり(笑)。

先程、FBの投稿で知りましたが

コロンビアは謝罪文をアップしてますね。本人の自作だと信じていたのに作曲の協力者がいたとは寝耳に水みたいな書き方でした。
http://columbia.jp/owabi_samuragochi.html

まあ、これは引っかかったほうが負けというか、良く分かりませんが、人の善意をゼニカネに変えるというシホン主義の本来の姿でしょうか(笑)。そういえば、今朝の新聞で震災復興費を7億ほど使い込んだNPOの記事を読みましたが、代表や関係者の顔写真見たら、どう見ても893。しかも、社員を中隊長とか軍隊の名称で読んでいたとか、オカマバーのスタッフを連れてショーをさせたとかめちゃくちゃ。

こんなNPO(ワタクシ、NPOと名乗っている組織団体は全てカスだと断定しています。「非営利」なんて、この競争社会で生き残れるかっちゅうの)をスルーさせてしまう認定組織もいかがなものか、また7億もの金を湯水のごとく使わせた行政機関はノーチェックだったのかと。

話しがそれました(笑)。本日、図書館で新谷のり子の『反戦歌』借りてきました。どんなものかじっくり拝読します。
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