帰ってきた過去への旅路  遥かなる田辺その3

 さて、前回は学生時代最後の2年間を過ごした下宿(別に賄いは付いてなかったがアパートという呼び方は当時一般的でなく、多くの大学生は下宿と呼んでいた)、清友荘の話まで行ったが、実はその前日に出町時代の下宿も探していた。河原町今出川の信号の少し手前(同志社側から見て)、西側の細い道に入り出町のアーケードを横切って500メートルくらい行ったところの右手に駐車場があり、その奥に2階建ての一軒家があった。そこは全部で7室ある下宿屋で、1室は近くの会社の労働組合の会議室として使われていたので、実質は6人の下宿生が入居していた。その場所を探してみたのだが、ついに分からなかった。ここかな、と思う場所はあったが、N谷君とデューク先輩と一緒に歩いていたので、自分の下宿探しだけに時間をかけるわけにいかなかったのだ。しかし、僕の京都生活の最初の2年間でお世話になった修学院の下宿は、ちゃんと場所も特定して写真も撮れた。もっともこれは翌日のサイクリング・ブギの1日でアップする話だった。

若冲

 変わり果てた清友荘から来た道を引き返し、今度は相国寺の中を歩いてみた。ちょうど、伊藤若冲の展覧会の看板が出ていた。見たかったが、K君たちと約束していた時間まであと1時間もなかったのであきらめた。相国寺の広い敷地内を歩き、学生時代はその歴史的価値に全く気がついていなかったことを反省しながら、いやいや人生幾つになっても勉強である、幾つになろうが学ぼうという気持ちさえあればいいのだ、などと自分に都合よく考えた。こういうポジティブなところが僕のいいところだ。誰も褒めてくれないので自分で褒めておく。ちなみに僕は典型的なA型・長男タイプで、要するに褒められるととことん伸びるというか、まあおだてに弱く頭に乗りやすいという特質を持っている。反対に批判に弱いというか、怒られるとすぐ凹む。やる気をなくす。オラァどうせだめだ。スカだ、カスだ。生きていても価値が無い、などと極端に走る。いったい何がどうしてこういう性格になったのか、こればかりは幾つになっても分からない。

相国寺

 などとつまらないことを考えているうちに時計は10時半を回っていた。K君、N谷君と合流する時間は11時の約束だったので、急いで寒梅館に向かった。その昔、学生会館と別館があった場所に出来た立派な建物が寒梅館である。以前の学生会館時代の面影は全くないなと思いながら、建物のエントランスに近づいたとき、ふと気がついた。この入り口に向かう階段と吹き抜けの通路は昔の感じが残っている。その昔、烏丸通から学生会館に向かうと4~5段くらいのゆるやかな階段があり、そこを上って学生会館の正面入り口横をすり抜けて中庭も過ぎると、別館の2階に上がる階段と、そのまま1階に向かう入り口があった。学生会館のあった頃は、烏丸通を向いた正面には大きな立て看がいつもかかっていたし、古くなった立て看は外されて建物の通路の壁に立てかけられていたっけ。中庭には大きな花壇があり、そこは木陰となるため夏場などはその花壇の外輪に腰をかけて友人たちとジュースを飲みながら雑談したものだ。当時はコカコーラ社が出していたハイシ―という缶ジュースの果汁30%のオレンジジュースや50%のアップルジュースが何故か人気だった。ただBOXにまだ開けていない缶ジュースを手に持っていくと、先輩(頻繁にこれをやるのはボーリョク学生のT原さんだった)から「おう、キョーサン主義者」と言われてジュースを取り上げられた。なんで金を払ったオレが飲む前に、先輩がプルトップを開けてジュースを飲むのか、これはサクシュではないのかなどと疑問を持ちつつも、南九州で受けた教育(先輩を立てる、年長者を立てる、ならぬことはならぬものです、あ、最後は違うか)のお蔭で耐えることしかできなかった涙の1回生時代というものもあった。

P1010843_convert_20130828225121.jpg

 新しく出来た寒梅館の、やはり中庭を通ると吹き抜けになっていて両側に高くて大きな木が植えられていた。そしてその木々の間にベンチやテーブルが置いてあった。エクステリア用の固い金属製のベンチに腰かけて、ぼんやりしていたら突然、「××さん?」と僕の実名を呼ぶ声がした。振り返ると、そこにはK君がいた。僕が3回生の頃の1回生で、77年度のDRACの会長を務めた男である。その後、工学部の自治会選挙に名前を貸して、自治会のメンバーとしての実質的な活動はほとんどせず、サークルの会長職を黙々とやっていた男だ。ちなみにその時の選挙に甘い言葉で騙されて出て、パシリ代わりにこき使われたのがT畠君という78年度生だった。子供の頃に頭が良くなるからと言って母親から毎日味の素を飲まされた芦屋の医者の息子だった。その話はさておき、K君はモテナイ野郎ばかりの僕らのサークルでは、数少ないステディの彼女を作っていた男である。ちなみに今の彼の奥さんはその時の彼女である。名前は♪大学ノートの裏表紙に~、おっとこういうことを冗談でも書くと夫婦そろって烈火のごとく怒るので止めておく。

 しかし、K君とも多分四半世紀ぶりくらいの再会になり、お互い体形や外見はかなり変わったものの話し方や口ぐせ、雰囲気は学生時代とほとんど変わらない。あっという間に空白だった時間が消えていくのを感じた。彼は今、D大(あえて匿名)の大学職員をやっており、今回の僕の関西ツアーの日程を連絡した際に、『日曜日に昔の別館のあった寒梅館で一緒にランチをしましょう』と言ってくれた。こちらは気軽に学食で飯でも食うつもりでいたら、なんと『寒梅館の最上階にあるフレンチレストランで会食しましょう』というのだ。そんなプチブル的な場所で飯など食えるか、オレ達の学生会館を取り壊してD大当局が筑波中教審路線に迎合して大D志社5万人構想の一環として、そのシンボルとして作り上げた建物で飯など論外だと、最初は怒ったのだが、良く考えてみたら次はいつ京都に来られるか分からないし、まあ、いまさら教条主義的な事を言ってもしょうがない、とりあえず昔の後輩と会うんだからええんとちゃうかという判断で本日のランチは決定したのだ。このあたり粗野なセンパイが読んだら激怒して「小生は本物だが、お前はエセサヨクだ」というかもしれんが、何、そんなことに構ってられるか(笑)。

 K君からN谷君のことを聞かれ、彼も多分この周辺をうろついているはずだから、携帯で呼び出し晴れて3人揃って寒梅館に入った。驚いた。学生が沢山いるのは当たり前だのクラッカーで驚かないが、皆さん真面目にお勉強しているのだ。おい、ここは数々のサークルのあった元学生会館じゃないのかとK君に聞くと、70年代後半のアホ学生と違って今の学生さんは良く勉強すると答えた。少しムカつく。建物内のロビーの雰囲気は談話室みたいな感じなのだが、バカ話をして笑い転げたり、何かに怒って罵声をあげている奴などひとりもいない。みんな黙々と本を読んだり、タブロイド、違ったタブレット式の端末を見たりして大人しいのである。うーん、リーマンショック以降の就職氷河期を経験した学生諸君は、サークルや異議申し立てなどのオールドファッションドなものには振り向きもせず、ひたすら単位取得、資格や知識の習得に人生をかけているのか。なかなか不思議、いや不気味な光景ではあった。

寒梅館から見た風景

 D大の職員であるK君に、ええい、面倒だ、同志社の職員のK君にこの寒梅館が出来るまでの話や、以前別館に存在した各種サークルの記録、レジュメ、資料などは整理され資料として収納されていることなど(これは獺祭書房の水野さんのレポートなどで既に知っていたが)の話を聞きながら最上階に上った。さすがに見晴らしがいい。京都は観光都市なので条例で高層建築には制限があるので、この周辺には寒梅館より高い建物はあまり見当たらない。したがって四方八方が見渡せて気分が良かった。レストランに入ると正午前だったのに、客は一組もおらずウェイトレスのおねいさん達も手持無沙汰な様子だった。さっそくテーブルに案内され、先ずはビアで乾杯した。昼間っから呑むビアは実に旨い。目の前には大学時代の同級生と後輩が、さすがにあれから30年以上経過しているので年輪を感じさせる風貌になってはいるが、話す内容や話題は当時の仲間の噂話で下世話な事この上ない。勿論僕もその手の話は大好きなので、あいつは学生時代はこうだったけど、やっぱり社会人になっても変わらんか、うーん、こら死ぬまで変わらんな、などと話題が尽きない。

 そうしているうちに、片方のおねいさんが「こちらは同志社のワインです」と言って赤ワインのボトルを持ってきた。テイスティングというか、いわゆる味見をしろとグラスに少し注いで渡したので、「うーん、少し渋みがたりないな。このワインは岩倉で獲れた葡萄かな。僕はもっとフルーティな太秦のワインがいいのだが」みたいなことを言ったけど、軽く笑われてスルーされてしまった。バカ野郎、ワインの味など分かるもんか、田舎者がと思っているかもしれんが、実はオレの田舎は都農ワインとか五ヶ瀬ワイン、綾ワインとか結構有名どころがあるんやぞ、もっともオレが普段飲むのは2リットル入りの安ものだが、などと言わなくてもいいボロは言わないほうがいい。しかし昼間からビアの次はワインとまさにプチブル的でデカダン的であるが、実に気分はいい。うーむ、やはり貧乏人はアカンな、立身出世して銭儲けせなアカンとそういうことは学生時代にしっかり考えておくべきことをいまさら思ってもどうにもならない。今回一緒にメシを食ってるN谷君は、今や大手企業の部長職だし、K君は大同志社の職員で田辺では結構いい顔らしいし、それに比べてオレは未だにルンペン・プレカリアート。こんな人生にだれがした、あ、オレがしたのか、自業自得だ。

メイン

 などと内省の時間を過ごして、新島先生に許しを請おうとしたその時に、メインディッシュが運ばれてきた。旨そうな肉料理である。あっという間に平らげる。パンもサラダもとてもおいしくてバクバク食ってしまう。そしてデザートもお洒落で、見るからに糖分過多というか、紅毛碧眼人はこんなもんばかり食ってるから痛風とか糖尿病になるんじゃボケ、我がポンニチは味噌と豆腐と麦飯、魚はイリコかメザシがごちそうだから、成人病なんかと無縁じゃ、どうじゃ、と言いたいが、生憎僕も血圧がやや高めだし、中性脂肪も注意しろと医者から言われてるし、多分口に出さないが目の前の二人も同じような状況ではないか。美食は人間をダメにする、人間は粗食が一番、などと思いはするがたった一度の人生。旨いもん食って好きなことしないでどうする、などという考えで過ごしてきた結果が今のありさま、とまた内省の時間に入りかけたが、「この後どうします」というK君の言葉で我に返った。

デザート

 実は、この後は特別予定していることはなく、僕は修学院にでも行って散策しようかと思っていたのだが、せっかくK君もいるし、共に移転反対運動を闘ったN谷君も一緒なので、そうだ田辺に行ってみようという結論に至った。K君にとっては職場だし、案内も慣れたものだろうが、僕もN谷君も田辺には行ったことが無い。その昔は綴喜郡田辺町という人外魔境の地だった。明治時代の有名作家のフレーズを借りると、『綴喜郡の田辺町たなんだ。大かた人とサルが半々くらいに暮らしているようなところにちがいない。そんなところに将来ある大学生を大挙移動させて学問を学ばせようなどと言うのは、大学経営で銭儲けしようと考える汚い大人の陰謀に違いない、よって移転反対、空港もついでにフンサイ』。とまあ、そういう訳ではないが、学生時代は蛇蝎のごとく嫌っていた田辺町だが、同志社が移転して学園都市に変わったなどという話も聞く。

 以前書いたと思うが、学生時代に移転反対闘争をしてきた元ボーリョク学生のグループが、現地でのイベントを企画したことがある。4~5名で田辺町に行ってキャンパスは移転されてしまったが、心は未だに移転されていないというところを見せるために闘いの炎を燃やそうと決起したのだ。そういうと、お、なんだなんだ。飛び交う火炎瓶に鉄パイプかなどと野次馬が寄ってきそうだが、要するに田辺キャンパスで焼肉やって、その煙とニンニクの臭いで地味に嫌がらせしたろか、と計画した訳だ。そして当日、それぞれがガスコンロや肉や網やタレや皿などを用意して(しかし、いい加減中年になっていた連中がそんなものを持って電車に乗って、駅員は注意しなかったのか。オウムの教訓が生かされてないぞ)、田辺キャンパスに来てみたらその雄大さに腰が引けてしまい、ついには「実はオレはそれほど移転に反対してなかった」とか、「あの狭い今出川と比べたら天国やないか、ここは」とか「このキャンパスやったらオレは4年で単位をしっかり取り、そうや、オール優で取って、今頃は広告代理店」などと、もういまさらな、あまりに今更な発言が相次ぎ、移転フンサイ総決起大会はあっという間にぽしゃったなどという話を聞いたことがあった。

 ことほどさように、かつての活動家連中をビビらせたという田辺町キャンパスに、おう、行ったろうやないか、ボケェ。ワシらはああいう腑抜けと違うわ、気合入った中年ボーリョクパンクや、などとこれは昼間のビアとワインでメートルの上がった僕とN谷君。K君は、自分の職場でもあるしこのオッサン二人の度肝抜いたろか、というような笑顔でこちらを見ていた。話はまとまったので、ここの食事代を精算して出ようということになった。なんだ、接待じゃなかったのかと軽口をたたきながら、それでもK君の職員割引を大いに期待していた。アメックスのゴールドを持ったK君はさっそうとレジに向かい、何やらおねいさんと話している。「え、こんな、なったの。僕、職員やから割引、え、割り引いてこんだけ。いったいあの人らいくら飲んだんや、全く」などと言う声が聞こえてきたが、もちろん大人の僕とN谷君はスルーしていた。カードで支払いしたK君は、真っ青な顔になって、僕達の所に来て両手を出して学生時代のコンパや飲み会の時に何度も口にした単語を出した。「カンパ、カンパ、圧倒的なカンパを」。流石は元工学部自治会メンバー(笑)。

レジのおねいさん

 さて、寒梅館を出て地下鉄に乗り、途中で近鉄に乗り換えた。乗換駅は竹田であった。竹田の子守唄である。そして、竹田を過ぎて少し走ると目指す田辺に着いた。まだまだ灼熱の太陽がぎらぎらする中、駅から出ると一休さんが待ち構えていた。橋の根元が腐っているから親切心で注意書きを出していたのに、「はしが渡れないなら、真ん中歩けばいいんじゃボケェ」と豪語して、橋が崩れておぼれかけたり、屏風に書いてある虎があまりに写実的だったので錯乱して「こら、トラ出て来い。ボケェ、刺し殺したるぞ、出て来いちゅうたら出て来い」と槍を手に喚き散らしたというエピソードを持つ小坊主である。サザエさんでいうとカツオ的キャラだろうが、なぜ人気があるか良く分からん。その一休さんが、実はワシ、苗字ありますねん、田辺一休いいますねん、みたいな感じで出迎えてくれた。さて、この田辺でどのような冒険が待ち構えていたのか。続きはまた今度。って、ホント、いったいいつまで続くのか、この話(泣)。

たなべいっきゅう

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コメント

すごいなあ

ブル食という死語を言うのは何歳まででしょう?
(ブルジョワ学食、ブル食でおそるおそる検索したら、「民青の諸君が」というような期待通りの年代と思いきや「1982年入学」の方の思い出話の上に、「2009年入学だぜー」というオチャラケ学生さん(当時)のブログが引っかかったので、ちょっとビックリしました。死語ではないのか一部の学校にだけは残ってるのか微妙なラインですけど。

すごいなあフレンチレストランがあるんですね。ビックリしたなーもー(驚)。

>タブロイド

それはそれでイヤですね。


大人しい学生たちが

黙々とタブロイド判の人民日報かなんか読んでたら、これは相当にコワイと思います(笑)。

>すごいなあフレンチレストランがあるんですね。ビックリしたなーもー(驚)。

でしょ、でしょ。某国営放送の番組で昨日、同志社の寮生たちの食事のシーンが出ましたが、あ、『八重の桜』だったか、質素なものでした。新島先生が今の大学を見たらどう思うか、時代の流れと簡単に割り切らないと思うけどな~。
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