帰ってきた過去への旅路  遥かなる田辺その2

 さて月1エントリーといってもいいくらいの「過去への旅路 遥かなる田辺」であるが、忘れていた訳じゃないのだ。ただ毎日があまりに暑くて、何もやる気が起こらず、ついつい後回しにしていたのだ。それにしても去年の夏も暑かったが、今年も暑い。毎日の暑さと飛蚊症と時々起こる頭痛の間隙をぬって、なんとか去年の話を再開したい。シバデンと別れた後、N谷君とタクシーに乗り込み、それぞれ予約していたホテルに戻った。僕の使ったホテルは、堀川今出川に面した小さなホテルだったが、夜は静かで思わず”The night was young. So was he.”という有名なフレーズを思い出した。もっともこちとらは既にヤングではなかったが。まあ、エアコンの利いたホテルで、その日一日にあったこと、再会した人のことなどを思い出しているうちに深い眠りに落ちてしまった。

 普段の休みの日は下手するとお昼前まで爆睡してしまうのだが、旅に出ると非日常生活だという興奮のせいもあって朝は結構早めに目が覚めてしまう。その日も8時にセットしていたモーニングコールを聞くことなく目が覚めた。すでに京都の朝は始まっていて、ホテルの前の今出川通りはバスや車がクラクションを鳴らしながら、せわしなく動き始めていた。このホテルの朝食は美味しいらしいが、普段朝ごはんを食べない習慣なので、前日に買っておいたコーヒーを飲んで服を着替えて、両足揃え靴ひもを結んで(by 加川良)出かけた。11時に今はD大の職員になっているK君と、元学生会館のあった場所に建てられた寒梅館で会う約束をしていたので、それまでの間に今出川近辺、雀荘や別館湯と呼んでいた銭湯のあった室町今出川のあたりや、学生時代の最後の2年間を過ごした清友荘周辺を探索しようと予定をしていたのだ。

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 市バスに乗って、烏丸今出川まで出かけた。キャンパスは昨日、心置きなく散策したので本日は烏丸通をはさんで西側、つまり室町通と烏丸通の間をぶらぶらしようと思っていた。最初に訪れたのは、僕のなけなしの生活費を巻き上げる鬼のような先輩たちと闘牌を繰り広げた雀荘グリーン。もっとも既にその建物は解体され、今はガソリンスタンドになっていた、室町今出川の角にあった雀荘で、1階がラコステという名前の喫茶店だった。ここの焼きそばはソース味で麺もちょっとぱさぱさしたところが癖になる、まあB級といえばB級なんだが麻雀しながら食べるときは美味しく感じた。やたらキャベツの芯が入っているのが難点だったが。もっとも、ラコステの焼きそばを頼むのは、麻雀がへたくそな連中ばかりだったので、僕もなるべく焼きそばは松乃家の大盛を頼むようにしていた。こちらの焼きそばは麺と具を玉子で絡めて、皿の端っこに乗っているウスターソースの入れ物を取って、上からぐるぐるかけて食べると美味しかった。しかし、その麺と具の量は半端なものではなく、早く食べないと皿を持つ左手が疲れてしまい、その後の洗牌や山積みに支障をきたすことがあった。いや決しておおげさじゃないんだよね。一度などは食べている途中に麺の重さで割り箸が折れたこともあった。

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 その松乃家は健在だった。以前、ネットで知ったのだが今はもう三代目に代替わりして、僕が学生時代にお世話になった二代目ご夫妻はリタイアされている。しかし、店の表構えはそのままで、出来ればちょっと暖簾をくぐりたかったが、残念なことに日曜は定休日なので入ることは出来なかった。雀荘グリーンと松乃家の間に、当時別館湯と呼んでいた古い銭湯があったのだが、時代のせいか影も形もなかった。Boxに置いてあった洗面器やシャンプーなどの入浴道具一式をバッグに入れ、下宿から持ってきた着替えやタオルもその中に放り込み、夕方4時に開く銭湯の一番風呂に入るのは気持ちが良かった。まだ誰も入っていない大きな浴槽に全身を浸して、ぼんやり天井を眺めているのは至福の時間だった。しかし、そんな時代はもう二度とやってこないだろう、などと少し感傷的な事を考えながら、いま来た道を戻って今度は烏丸今出川の角地に立った。ここは昔、書店だったが、今はレンタルビデオ店のビルになっている。

 この書店の角に雑誌の自動販売機があった。当時は、まだコンビニなどなかった時代なので夜の8時を過ぎると本屋は開いておらず、こういう自販機は重宝した。それこそ、少し遅い時間の銭湯の帰りにビッグコミックや週刊ポストなどを買っていたのだが、深夜にも良く利用した。もちろんエロ雑誌を買うという、青春時代にだれもがやった通過儀式のためである。この頃は、エロマンガの第何次ブームとかで亀和田武編集長率いる劇画アリスや、個性派作家をそろえた漫画エロジェニカ、えぐさで他誌を圧倒する漫画大快楽、老舗のエロトピア、このネーミングセンスはシュールだった漫画ボン、そのほかにも数多くの三流劇画誌が跋扈していた。そういえば三流劇画全共闘なるものがあって、何人かのグループかと思ったが、個人のペンネームであった。当時からゼンキョートーのオッサン達は人騒がせだったわけだ。また自販機には写真系のエロ雑誌、白夜書房が出していたコミックセルフとか、平凡パンチの別冊Oh!なんてのも良く入っていた。当時のナウなヤングの夜のお供には写真モノがいいか、マンガモノがいいか、激しく論争したグループがいた。もちろんそんなくだらないことに全力投球するのは、僕のいたサークルの仲間である。拙blogに何度も登場してきた北白川にあった伊藤荘という下宿に住んでいた故M原君とS戸君、F田君の3人である。もう少し正確にいうと、岩倉のおたび荘に住んでいた大牟田出身の元サークル員のK木君もわざわざエイデンに乗ってこの論争に参加していたらしい。

 事の発端は、ある時、M原君が何かの用事があって先輩のF田君の部屋をノックしたことから始まる。部屋からは、野太いF田君の声で「オオッ」という返事があった。当然、M原君は部屋の扉を開ける。そこには真夏というのにテーブル代わりにそのまま出しっぱなしになっているコタツ、そのコタツの上には散乱したエロ雑誌。そして部屋の主のF田君は屹立したイチモツを右手で握りしめ、満面の笑みを浮かべつつ発した言葉が「アイヤー」であった。M原君は「ごめん」といってすぐに部屋に出たが、この時の話は何度も聞かされた。「××さん(僕の名前)、普通、枡かくときは部屋に鍵を閉めてからやるでしょう。まあ、仮に鍵をかけ忘れていても、ノックされたら『ちょ、待てや』くらい言うたら勝手にドアを開けたりせえへんのに。あの、オッサンはホンマにもう。マラ握りしめて、何が『アイヤ~』や、ほんま、ええ加減にしてほしいわ」と、酒を飲むたび何度聞かされたことか。この話を聞いた僕はさっそくコンパで、M原がF田の部屋をノックしたら、F田のアホは自家発電中で、それを見せつけられたM原の目の前で「アイヤー」と言ったとたんにピュッピュッとこっちも逝ったらしい、と全てのサークル員の前でネタを膨らませた。いや、この手の話は事実よりも脚色したほうが面白いからというのがその言い訳で、このスタイルは今も変わらない、って自慢してどうする(笑)。

 このような武勇伝は枚挙に暇がないが、さらに特筆すべきはF田君のエロ雑誌に対する造詣の深さと、その所有する本の多さであった。堺市のニュータウンに住んでいたF田君の実家に初めて泊まりに行ったときのこと。彼の部屋は二階の洋間で、かなり広く八畳くらいあったかと思う。その部屋の片隅に山積みされている雑誌類があった。F田君は仮にも文学部、まあ社会福祉学科という当時は偏差値がかなり低くても合格できる学科で噂によると学校に一定額の寄付をすれば入試問題の一番上の所に名前を漢字で書けたら必ず合格するという裏ワザがあったらしい(という、デマを平気で作れるのがサークルの先進的学友諸君に鍛えられた僕だ、どんなもんだい)。まあ、そういうお方で、堺の実家に帰るときは必ず阪急のKIOSKで週刊ポストを買うのが趣味という人だった。その買い集めたポストが山のように積まれていると思って、近づいてみるとクリビツテンギョウ。これが全部エロ雑誌。それも半端な内容ではなく、全てディープなエロばかり。僕はこのF田先生からダーティ松本というやたら女性の下腹部に山芋をとろろにして塗りたくる作家の存在や「は、はねなか、ルイっていうのか、このマンガ家」「アホ、はちゅうるい、って読むんや」「あ、それでこんな爬虫類的目つきの主人公が出てくるんか」と言った知識を仕込まれた。このほかにもあがた有為の人妻物はエグイとか中島史雄(その後、ヤングジャンプなどのメジャー誌に登場するようになったのは驚いた)のレモンセックス派は一服の清涼剤や、とか村祖俊一の影のある絵は抜けるとか、リアリズムでいけば石井隆(この人もその後は映画監督になったりした)とか、ナンセンスは小多魔若史(おたまじゃくし、と読みます)とか、日々学ばせて頂いた。余談ついでに書くと、エロ劇画誌はもちろんエロ劇画がメインではあるが、ナンセンスマンガ、たとえばいしかわじゅんや吾妻ひでお(後年、失踪話で売れるとは夢にも思わなかった)、ひさうちみちお、奥平イラ、諸星大二郎などキラ星のような才能が埋まっていた。もちろん、そういうナンセンスだけを読みたくて購入するわけではないが、それが目的というと多少なりとも良心様に免罪符という感じになり、抵抗が無くなった。まあ、慣れれば何でも大丈夫というパブロフの犬理論である。ん、ちょっと違うか。

 そのF田アイヤー事件があった数日後。やはりF田君の刎頚の友であるS戸君の部屋で、酒を飲んだらしい。メンバーはM原、S戸、F田の三人。当然、先日の出来事から話題は枡を描くときに何を使うかという話になった。マンガを用いるべきだと主張するのがS戸、F田の会長・副会長コンビ。方や社会主義的リアリズムを追及するM原君は絶対写真だと主張する。意見は真っ向からぶつかり、お互い譲り合う気配はない。しかし、こういう議論(というようなものでもないが)においてはやはり知性というか論理性というか、早い話、アホの子か賢い子かで勝負がつく。僕も心情的には同学年である二人を応援したいが、ここで歴史を改ざんするわけにはいかない(いや、そんな大層な事違います、笑)。やはり法学部に所属するM原君が圧倒的な論理展開で勝利しそうになったその時、S戸君の名言が炸裂した。「お前、そんなこと言うてもな、マ、マンガには夢があるんじゃ~」。この絶叫で、マンガ・写真どちらが枡に最適か論争は終結。とりあえずマンガ派の二人は大苦戦したが、最後の雄叫びで何とかドローに持ち込んだ。

 この話も、今は亡きM原君から散々聞かされた。「××さん、どない思います。ワシら手塚治虫のマンガについて話してたんと違いまっせ。たかがエロマンガでっせ。なにが、あんなもんに夢があるんじゃ、ボケ。あのオッサン、ほんまにしょうもないわ」。まあ、しかし口ではボロカスに言いながらも、結構仲のいい伊藤荘の三人組だった。そうそう、大牟田のK木君は、後日、この時の話を聞いて、「お、おいどんも枡の宛書(この辺の表現が流石は九州男児、古風である)には写真を使うったい。マンガとかふうてんぬるかけんぐらぐらこくばい」と写真第一主義を高らかに宣言した。それを聞いたM原君は目を潤ませながら「我が同志」と彼の肩を固く抱きしめた。などという話ばかりしていたので、僕はサークルではほら吹きドンドンと呼ばれた時代もあった。濡れ衣である。冤罪である。獄中不転向である。なんのこっちゃ。

 そんな懐かしい思い出もある(どこがじゃ)角の本屋だったが、今ではレンタルビデオやCDがメインで書籍も1階に置いてあったが、ほとんどが雑誌やコミックばかり。大学生がそんなことでいいのか、などと己の学生時代を一切反省しないワタクシがいっても意味はない。そのビルを出て左に曲がると、つまりD大と平行に歩くと、その昔、古いだけが取り柄の喫茶店だった「わびすけ」の跡地に出た。ここはついこの間、解体されて今は不動産会社の事務所になっている。大学の目の前の不動産屋って、いかにもそれ風で笑ってしまった。そして、そこから新町キャンパスに行く細い路地をうろついていたら、ありました。レストラン「トーラス」。その昔、僕が大学に入ったばかりの頃、コーヒーを飲みたくて喫茶店を探したけれど、どの店も新入生がいっぱいで、しかもほとんどが友人などのグループで、南九州の田舎から出てきて知り合いもほとんどいない僕のような一人の客が入れるお店は無かった。その中でこのトーラスを見つけ階段を上がって入ってみると、中は無人、つまりお客さんが誰もいない。そこでテーブルに座りおもむろにメニューを見るとステーキ3,000円とか書いてある。あ、ここ喫茶店じゃねー、と気がついたときは既に遅く、白のエプロンにコック帽を被った店の人間が入り口をふさぐ形で注文を取りに来る。ええいままよと、ステーキ頼んだけど、その時の侘しさ、これからの生活費に対する不安、どうしてオレはこんなところで食べたくもないステーキを注文しなくてはならないのか、どうしてコーヒーだけとか紅茶だけという注文は出来なかったのか、最後の自問自答は、その後入ってきた女子学生のグループが紅茶だけを注文するのを見て、しまった、そういうオーダーの仕方もあったのか、しかし、ここはレストランつまりメシを食う所だからパスタとかカレーとかそういう簡易なものを注文するのはいいだろうが、紅茶だけは反則だろう、と最後はやや涙目になりながら持っていた文庫本の文字を追うという悲しい出来事があったお店である。

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 そして、そのトーラスの近くにありました、コピー屋さん。本来大学は学問の府であるから、全ての学友諸君は一般教養、専門に関わらずしっかり講義を受けて、その中で重要なところはノートに取り、日ごろの予習復習をする。そして、その積み重ねの集大成が単位認定の試験である。ノート持込み可だろうが、不可だろうがしっかり自分の書いたノートを取っておれば試験など何ら恐れることはない。というのは、これはブルジョワ教育理論であって、大学というのは高度に発展したシホン主義社会に、国家に忠実な労働者を育成する、いわゆる労働者生産工場であるから、そのような大学で教えるマスプロ教育はまずもってナンセンスでこれを断固粉砕するためには試験など受けない、単位など歯牙にもかけない、などという間違った考え方をしてしまった僕には全く縁が無かったが、がり勉するほどの根性もなく、単位なんてクソ喰らえと開き直る度胸もない、圧倒的多数のノンポリ学生諸君は良く利用した大学のノートのコピーを売っているお店であった。ああ、書いていてしんどかった。

 そのコピー屋さんを過ぎて、路地をうろついていたら駐車場のちょっと奥にどこかで見たことのある看板が目に入った。看板の文字はN-O-Wとある。あああ、ナウだ。喫茶店のナウじゃないか。見るからにお金持ちの臭いがする夫婦が、アパート経営しながらその空き地に作った喫茶店だ。この喫茶店の後ろにあったアパートが当時には珍しい2DKでバス・トイレ完備。勿論流し台、洗面台もついているという当時はまだ学生マンションが無かった時代(79年に下賀茂にドミトリー・アルバという学生マンションが出来て、そこに先述のS戸君が入居したのだが、ワンルームマンション、ユニットバストイレのついたフローリングのエアコン完備の部屋はまさしくパラダイスだった)、そのアパートに入居できるには一部の特権階級だった。その特権階級になるには、雀荘グリーンでバイトして、そこのママに気に入られて、ナウのママを紹介してもらうというのが一番の近道だった。この作戦で見事入居したのが僕の同郷の1年先輩のA水さんだった。

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 77年の春だったと思うが、イーグルスがアルバム『ホテル・カリフォルニア』をリリースし、これは従来のイーグルスのアルバムと異なる、特殊な音世界だということは聴いた人誰しも感じたと思う。A水さんのアパートで輸入盤の『ホテル・カリフォルニア』を聴きながら、出たばかりの週刊プレイボーイを読んでいたら、そこにこのアルバムの特集記事が出ていた。「12弦ギターのイントロから始まるこの名曲は」、みたいな解説が書いてあって、面白かったのでA水さんと二人で読み、その翌日が新入生歓迎のロック班の研究会だったので、この曲を流し、この解説を二人で掛け合い漫才みたいにしましょうと約束した。そして、翌日、この曲をかける前に僕がプレイボーイの記事を丸暗記して「この曲はアメリカンドリームの幻想を拭い去る問題作で、12弦ギターから導入されるイントロは~」などと話し始め、要所要所でA水さんが、これもプレイボーイ丸パクリの話を入れた。当然、大爆笑を期待したのだが、どうも勝手が違う。ふと周りを見てみると、1回生の諸君が眩しそうにこちらを見ている。え、こいつら週プレ読んでへんの。もしかして、マジでオレタチの意見や考えだと思ってるの、違う違う洒落やシャレ。と慌ててエクスキューズしたが、どうもそれも謙遜と取られたようで、しばらくはお固い研究会を開かざるを得なかった。

 そのナウが、流石に今は喫茶店は営業していないようだが建物はそのままあった。そしてドアから年配の女性が出てきた。多分、ナウのママさんだろう。声をかければ、もしかしたら思い出してくれたかもしれないが、僕はここのご夫婦にあまりいい印象を持ってなかったのでスルーした。そしてまたあちこち歩いているうちに、昔あったデュークという喫茶店の跡やトレドというこちらもプチレストランの跡などの前をぶらぶら歩いた。おっと古い話だけではなく、解散した学友会の歴史的資料をまとめた水野さんが経営する獺祭書房にも寄ってみたが、日曜で開いていなかった。この古書店には翌日またお邪魔して挨拶をするのだが、その時に2004年度の同志社の栞を頂くことになる。

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 懐かしい通りを歩いているうちに、学生時代最後の2年間を過ごしたアパートに足を向けた。烏丸中学を過ぎて、力餅食堂の所を曲がり一方通行の路地をちょっと上がり、左に入る細い道に足を入れると、あった。あったというか、存在していたというか、ちょうど軽トラが止まっており植木職人の人たちが草刈りをしていた。見ると僕の住んでいた清友荘と間を挟んで建っていた清水荘、その清水荘周囲が樹木と草でぼうぼうになっており、壁に着いている電気メーターが動いていることからどうやら人が住んでいるのは間違いないが、パッと見た目はまるでお化け屋敷のようだった。清友荘は何年か前の鳥肌音楽で外装を変えて、今は整骨院になっていることを知っていたので、それほど懐かしさは無かったが、清水荘は昔の建物のまま残っていた。この2つの建物の間に在った空き地に夏場は入居者がそれぞれ椅子やテーブルを持ってきてビアガーデンなどとシャレたりしたものだった。また建物から突き出た柱に釘でシャワーヘッドを取り付け、水道からホースで水を引いて夏場は銭湯代を浮かせたものだった。もっとも水は井戸水だったので、物凄く冷たく5分も浴びると唇が紫になったりした。そういえば、ある夏の日に新しく入居した学生を誘ってビールを飲みはじめたら、そいつが僕たちの考え方と全く違う、民主的な青年の人たちだったので、全員で恫喝かけたら、それ以来デモの時に写真を撮られて実家に送られるなどという微笑ましいエピソードなどもあった。などと、書いていたらいつまでたっても田辺に行けない。それどころかK君と約束していた11時に間に合わなくなるので、いったんここで終わる。しかし、いつまで続くのか、この話。

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コメント

幸いにも引っ掛からなかったけれど

外壁にフライパンが掛けて有ったっけ?今出川から新町への小路に 一般学生が払えない料金レベルの店を構えて、入口に料金を表示せず、せいぜい千円位だろうと思って入る学生からぼったくるってのは、セコかったですよね。それが 田辺移転で普通の喫茶店が閉店する中、生き延びているとはね。 F田君のその話は有名ですよね。京都G大の寮に入っていた男が「他の部屋のドアの新聞受けから中を覗いたら 鱒を描いている姿が見えたものだった。」と言っておりました(笑)。馬鹿なことをやって、腹の底から笑ってた あの頃が懐かしいです。

そうです、フライパンが目印でした

2階建ての木造モルタルみたいな建物で、そんなに高級そうな感じじゃないんですよね、一見。建物の横にある階段(その壁の所にフライパンがかかっていて店名が書いてある)を上っていくと、白っぽいドアがあって、それを開けるとチリンチリンとドアベルが鳴って・・・。今考えてみると、「ハイ、一見のおのぼりさんご案内~」みたいな意味があったんでしょうか、って徹底して被害妄想です(笑)。田辺への移転に伴って、いろんな喫茶店や雀荘、学生向けの食堂なんかが消えていくなかで、トーラスが健在っていうのは解せません。根強いファンがいるのか、佐藤優みたいな(笑)。

このF田君アイヤー事件は、あまりにお下品なので封印しようと思っていたのですが、やはりしっかり記録として残しておかないと彼の伝説が完成しないと思い、断腸の思い出書かせていただきました。F田敏雄伝説は不滅です(大笑)。

亀和田氏

80年代以降しか知らないと氏の経歴はビックリですね。最近はJRAのチャンネルによく出てくるおじさんという認識が強いです。週刊誌を読んでいれば「コラムを書いてる人」という認識もあるかも。
それにしてもこの時代はなんだったのでしょう。当時の大人のおじさんのレジャーの最大目的ってエロじゃなかったですか?今はエロに向かう人もいるでしょうが、一般的にはエネルギーが分散して、グルメ、おたく/アニメ/ゆるキャラ/現代美術、等に分散しているし、ここまで分かりやすくエロが見えない気がします。よく考えると昔はエロしか楽しみが無かったのか。景勝地の風景を愛でる高尚な人も少なかった(あまりに陳腐な昭和期の観光施設が現役廃墟問わず残っているために富士山周辺が「自然遺産登録」を諦め、「文化遺産登録」に切り替えたというのは関東のニュースで結構多く取り上げていました^^;)

夏休みに「あまちゃん」を見ていて思い出していたのですが、1990年ごろ以前だとああいう景勝地に行くと観光海女さんはいたが、観光客にはロクなものを売ってくれず(いいものは当たり前だが料亭に行く)、食堂や「ドライブイン」に入ると干からびたようなエビやカニを出された。そして観光地価格。まるでお話に出てきた京都の喫茶店みたいなのばっかりでした。
しかし今はそういうことは無く、どこへ行っても美味いB級グルメ百花繚乱。

なんかdrac-obさんの日記を読んで、昔と今の「一見さん狙い商法」「おのぼりさん狙い商法」「観光地商売」に思いをはせてしまいました。

うーん、なかなか鋭いご指摘を(笑)

>当時の大人のおじさんのレジャーの最大目的ってエロ、素直にそうですねと答えるにはやや躊躇しますが、その傾向は大だと思います。要するに今のように何でもありのネットは無かったわけだから、毛が見える見えないで大騒ぎしていたし、映画の『白日夢』で佐藤慶が本番をしたとかしないとかでも目くじら立ててオッサン達が喚いていた印象はあります。また風俗産業も当時はせいぜいノーパン喫茶くらいで、今のように何でもアリ(いや、僕は良く知りませんが、笑)ではなかったと思います。またキーセンツアーが問題になったのも70年代末から80年代にかけてだったかとも思います。言われてみれば、娯楽はえろしかなかったのかな~。

亀和田武はアクションジャーナルや本の雑誌、噂の真相にコラムを書いていた頃が一番面白かったですね。単行本の『ホンコンフラワーの博物誌』も期待して読みましたが、全部同じ文体で疲れました。「今晩は、ラッシャー木村です」というフレーズは今読み直しても笑えないですね。

ええとぉ

ええとぉ、最近も日々、学者を名乗る「嘘つき野郎」を、徹底的に撲殺しておりますがw ほんばんわ、皆様、如何お過ごしでしょうか?

もう、ほんまに、わたし、本業というか自己認識、全くのところアカデミックな教育を受けた宗教学者なんっすけど、やりたくもない「阿呆の蛸殴り」やらされて迷惑千万なんっすけど、あまりの嘘つき加減に、もう完全に怒りまくって殴り撒くっております。

ちゅうかねぇ、皆さん内輪ネタばかりっすけど、わたし三流エロ劇画のブームの頃、雑誌『面白半分』とか『スターログ』とか『ぱふ』とか『LaLa』とか『ぶ〜け』とか『プチフラワー』とかと一緒に『大快楽』とか『劇画アリス』とかも愛読しておりましてぇ。まぁ、ぶっちゃけ言うと、高校生だったんっすけど、石井隆の『天使のはらわた』とかリアルタイムで見てましたわ。

う〜む、1970年代の終わり頃というのは、60年代ほどの社会的高揚というのはありませんけどね。ただし、もっとマニアックな世界がありましたよね。最近ちょくちょく若い子の行くアニメ同人誌を扱う店に行くのですけど、はっきり申し上げて、1970年代の終わりの頃の方が、同人誌も含めて漫画の質は、遥かに高かったと思いますね。

まぁ、もう最近のゆとりの馬鹿餓鬼には呆れ果ててますけど、おまえらもうちょっと頑張れよと言いたいものですw



マンガもロックも70年代が

一番面白くて熱かった、と言ってしまえばそれまでなんですが(笑)。個人的に振り返ると、学生時代だった70年代と社会人になった80年代以降では、感性が少し変わったのかなと考えてみたりしましたが、雀百まで踊り忘れずで、人間そうそう変われるもんじゃない。マンガでいうと、ギャグマンガというジャンルが成立し、確立したのが70年代で、その後はその遺産を食いつぶしていき、21世紀になってからはギャグマンガが存在しない。まあギャグマンガ日和なんてのもありますが、あれはレベル的に歴史好きな中学生のマンガでしょう。ボーボボなんてのも最初はシュールだなと思ったけど、すぐにマンネリ、人並み、世間体、会社も社会も関係ねーぜ(by アナーキー)。

同人誌とか同人コミックが商売として成立するのは、7,8年前に秋葉原で目撃しました。虎の穴という専門店があって、ビルまである。そして全てのフロアに平日だというのに、お客が満杯。しかし、商品たるやジャンプや有名マンガのキャラを拝借したエ口ばかり。まあ、ニッチ産業として成立させているのは凄いなと思いましたが。

ところで、barrett hutterさんも三流劇画誌読まれてましたか(笑)。
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