帰ってきた過去への旅路  遥かなる田辺その1

 突然、発作的に「過去への旅路」の続きを書きたくなった。花の75年度生トリオの一人である、PHさんが先月、京都に小旅行した話を写真と一緒にFBにアップしていたのがきっかけだったか、あるいはダラダラダラダラと書いてきた「過去への旅路」だが気がついたら最初の話からもうすぐ1年。ということは、去年の今頃、ワタクシは京都の地を何十年ぶりかで両足で踏んでいたのか、などと考えるとやや感慨深いものがあって…。というより、1年前の話をどの程度覚えているのか、不安はあるが前回(前回っていつだったの、などという野暮な質問は止めて頂きたい。ワタクシの理想はプルーストの『失われた時を求めて』、あるいは中里介山の『大菩薩峠』のようなネバー・エンディング・ストーリーというかウェスト・サイズ・フトーリーの最近である、なんのこっちゃ)の話の続きというか、百万遍でN谷君とデューク先輩と串八でたらふく飲み食いした後の話から始めよう。

 その日、大阪で故M原君の実家へ案内して頂き、その後に同級生だったHさんとの昼食会、そして京都のホテルへのチェックイン、そして今出川キャンパスを一緒に散策して、この百万遍まで付き合って頂いたデューク先輩はここから自宅に帰られた。最近、知ったのだが、実はこの頃のデューク先輩の体調は最悪で足の状態も良くなかったのに、バカな後輩のセンチメンタル・ジャーニーに長時間付き合って頂いた。改めてお礼を申し上げたい。さて、先輩と分かれてN谷君と二人になり、ここまで来たら銀閣寺に行こう。サーカスの跡地とオレ達は腐っても元文学部同士、哲学の小径まで行って、その昔を偲ぼうではないかと意見が一致した。陽はまだ完全に暮れてなくて、それでもさすがにだんだんと薄暗くなっていくなか百万遍から銀閣寺に向かって、学生時代の頃のようにバカ話をだらだらしながら二人並んで歩いていた。その時である。無灯火のスポーツサイクルがN谷君のすぐ横をすり抜けた。その瞬間、「アブナイやんけ、ワレ~」の大声とともに何かが、その自転車の方向に飛んで行った。

 その物体(後から考えると僕が暑さ対策に準備していた持ち運び用の保冷剤、ガリガリ君のイラストのついたやつでした)は、自転車の運転者の横をすれすれに飛んで地面に落ちた。自転車乗りの学生にしてみたら、確実に自分に向けて投げつけられたことは明白である。自転車を止めて、こちらを振り向いた。やや怒っている様子は明白だった。「こら、待て、オノレ、自転車無灯火で歩道走ったらアブナイに決まってるやないか、舐めとんのかお前は、こら、待てちゅうのに、おいこら」と、流石は元ボーリョク学生というか姫路の893とも呼ばれた、狂犬N谷の本領発揮である。自転車に乗っていた学生(多分に百万遍にある元国立一期校の学生だと思われる)は、こちらに来るそぶりを一瞬見せたが身の危険を察したのか、軽やかなステップで自転車を立ち漕ぎして去っていった。「なんや、あいつ、若いくせして、逃げやがって」とこちらは興奮収まらないN谷君。しかし、この男は若い頃から喧嘩っ早かったが、雀百まで踊り忘れずの言葉通り、今でも十分現役であった。この後「喧嘩は先手必勝や、先に手を出したほうが勝つ」と、まるで夕焼け番長か片目の銀二のようなセリフを聞かされるワタクシであった。

 そんな出来事もあったが、あたりはだんだん暗くなり僕たちは旅の初騒ぎ状態のハイテンションのまま銀閣寺道の交差点まで着いた。この信号をまっすぐ行くと銀閣寺、途中に哲学の小径もあるし映画『パッチギ』で朝鮮学校の生徒が暴れる土産物店などもある。また右に向かって歩いていくと岡崎があり、さらに進むと祇園の八坂神社、コンパの待ち合わせ場所がある。しかし、圧倒的に多数のケースはこの信号を左に曲がってすぐのマンションの地下にあるライブハウスに行くことが多かった。そう、拙blogに何度も登場し、DRACの第2Boxとまで呼ばれたサーカス&サーカスがあったのだ。

 初めてサーカスに行ったのはいつだったか、どうしても思い出せない。一人で入れるはずはないし、DRACの誰かと一緒に、多分先輩に連れて行ってもらったと思うのだが、僕のサーカス&サーカスのイメージはライブハウスというより、バーボン・ウィスキー、アーリー・タイムスをほとんど店頭価格でボトルキープできて、氷や水のチャージもタダ、あるいは最初に何百円か取っただけで追加料金なしだったか。またつまみも安くて美味しい(特にピザは多分生まれて初めてここで食べたと思う)、つまり、学生向けの格安パブで早い時間に行くと誰かが生演奏している場所というイメージだった。それと憂歌団の事務所、ユニオン・シャッフルがあるというイメージだった(THIS BOYさん、間違ってないよね?)。

 そして初めてじゃないかもしれないが、イメージ的には初めてだと思いたいくらい深酒してべろべろになり翌日死ぬような二日酔いを経験したのもこのライブハウスが原因だった。今でも忘れない。75年の12月19日。その日は僕の誕生日で、いつものように室町今出川にあったグリーンという雀荘で先輩たちと麻雀を打ち、その中で「今日はオレの誕生日なんすよ。このまま帰るわけにはいかないからサーカスで呑みましょう」と、記憶にある限りでは久留米出身のNさん、鹿児島出身のT原さん、そしてさらに1学年上で高知出身のS賀さん、あと同級生のS戸君とF田君もいたような気がするが、このあたりは自信が無い。多分、室町今出川から乗り合わせのタクシーで銀閣寺に行ったと思う。キープしていたバーボンを呑みはじめたが、今日が誕生日というハイテンションと、普段は麻雀でカモってばかりいる先輩も誕生日ということで僕を持ち上げてくれたおかげだろうか(多分、新しいボトル代は僕が負担するとかなんとか言ったんだろう)、あっという間に酔っぱらってしまった。

 まだ大学の1回生の頃で、ようやく酒の飲み方を覚えたくらいの頃だったが、ロックで呑みはじめ、途中からほぼストレートでチェイサーもほとんど飲んでなかったから、悪酔いするのは早かった。真っ暗闇の記憶の中で断片的に浮かび上がってくるのは、S賀さんに向かって「こら、S賀、お前、ふだんから偉そうにしやがって、踊れ、踊れ(と言いながら持っていたミネラルウォーターの瓶を振り回し、本人もS賀さんもびしょびしょになった)」などと暴言を吐き、それでも人のいいS賀さんは立って踊りだし、回りの先輩たちも呆れていた姿。それからどれくらい時間が経ったか分からないが、当時のサーカスにはジュークボックスがあって、そこにニルソンの新譜のシングル曲があったのでそれをかけ、先輩たちに向かって、「この後、僕の下宿でニルソンの研究会をします。テーマは『俺たちは天使じゃない』、じゃあ一体なんだ。という形で時間は2時間程度予定しています」などと言ったシーン。そして、最後の記憶はサーカスの階段を先輩二人に肩を貸してもらいながら、何とか地上まで上がってきて、一息ついたところで「ニルソンの研究、おぇ、しま、ぅ、げ、げ、ぉぷ~」「あー、こらこらこんな道の真ん中でもどすな、街路樹のとこかどっか陰でやれ」「いや、もうあかん、う、うげげげげ(以下略)」。

 そして目が覚めると修学院の下宿の布団に包まっていて、コタツの上には電気ポットがあり、その横にオレンジの金属製のマグカップに水がたっぷり入っていた。恐る恐る腕時計を見ると、もう午後、それも夕方が近い時間だった。おもむろに起きようとすると吐き気とめまいがして、また布団に倒れこんで一体全体何がどうなったのか考えていたら頭がずきずきしてきた。それでも、その日は磔磔に憂歌団のライブを見に行くと以前からS戸君と約束をしていたことを思い出し、S戸君とだけの約束ならバックれても苦しゅうないが、I上さんという先輩も一緒に行く約束をしていたので、九州男児としては行かねばならぬ、イカネバの娘であった。そして、フラフラの状態で憂歌団のライブに行くのだが、当日電車が遅れたのか何かトラブルがあったのか開始時間になって始まらず、客席からブーイングが飛び交い始めたその時にお店から日本酒の一升瓶がサービスで回され、いわゆる迎え酒というのをやったら実に快適で、その後のライブも最高だった、などということがあった。

 まあ、こんな具合にこのサーカス&サーカスではお酒のうえでのいろいろな思い出があるし、もちろんライブハウスとしての記憶も嫌になるくらいある。ウシャコダも見た、P-Modelのライブを見ているときはお忍びで来日していたデビッド・ボウイがやって来たこともある。山本翔と一風堂も見た。もちろんパンタは何度も見たし、ここでインタビューさせてもらった時のカセットは家宝として実家に置いてある。関東から来るメジャーミュージシャン以外にも地元のイカシタ連中、中には「こんばんは、吉田拓郎です」と言って登場した雷徒人とか、カリブの嵐を率いていた西岡恭蔵、レイジ―ヒップ、こんなことを書きはじめたらいつまでたっても終わらないので切り上げるが、とにかく思い出の詰まった場所だった。

 そのサーカス&サーカスがCBGBという名前になり、時々ライブはやるものの、いわゆるクラブになったと聞いたのは、すでに一介の労働者になっていた80年代の中ごろだったか。当時は筑波が本社の会社に勤めていて、下館の代理店の手伝いをしていた頃だ。後で登場する77年度生で、サークルの会長も務めたK君が結婚するということで招待状をもらった。披露パーティに参加するのは大部分がサークル関係者だったので、会場がCBGBに設定されていた。大学を離れてから6~7年たっていたが、その時は京都もそれほど懐かしい感じはしなかった。CBGBには当然ながら知っている店長もバイトも誰もいなかったし、なんといってもスタッフが全員同じユニフォームを着ていた。ステージの後ろに在ったモニュメントというか銅像というか、ギリシャとかローマにありそうな石膏の象はなくなっていた。要するに内装は完全に変わっていた。

 N谷君と二人で、元サーカス&サーカスだったマンションに着いた。地下に向かう階段はそのままだった。CBGBがいつまで営業していたかは分からないが、廃業してからそれっきりだった様子がうかがえた。通路の壁に打ち付けてあったスケジュールボードはCBGBの名前がそのまま残っていた。地下に行く階段も途中から人が入れないよう、ロープや障害物が置いてあった。ほとんど何もしゃべらず何分間かそこに立っていた。ふと気を取り直して、サーカスから北に向かい一本目の路地を入ってみた。その奥の右側に昔、銀寿司という格安だが偏屈な親父がやってる寿司屋があった。貧乏学生の自分が江戸前ずしなど食べられるはずがないと入学当時は思っていたが、これまたたしかS賀さんたちに連れて行ってもらい、たらふく食べても割り勘で払えば大した金額にならない学生向けの寿司屋だった。そして銀寿司の対面にあったのが「おとくに」という居酒屋。ちょび髭のマスターと小さいがボーイッシュでちょっとセクシーな奥さんがやっていた。カウンターとテーブルが2つくらいの小さいお店だった。ここで軽く飲み食いして、サーカスでたらふく飲むというパターンも結構あった。もちろん、どちらの店も無くなっている。それどころか跡地にマンションや家が建っていて、様子が完全に変わっていた。

CBGBi入り口

 そこから、信号を渡り哲学の小径を少しうろついたが既に20時をはるかに回っており、あたりは真っ暗で景色を楽しむ余裕が無い。あちこちうろついたので小腹もへって来た。この日はWeb上でしか会ったことのないDRACの後輩のシバデン君と時間が合えば一緒に飲もうと約束していた。串八に入るあたりから何度かメールしたのだが、彼の仕事がなかなか終わらず、そうこうしているうちに僕たちは銀閣寺まで来てしまった。ままよと、N谷君の判断に任せて、一軒のお店に入った。和風だか洋風だか良く分からないが、座敷もあり落ち着いて飲み食いできた。場所をメールしてしばらくすると、店の戸が開いて一人の男性が息を切らせて入ってきた。「シバデン君?」と尋ねるとイエスの返事。拙blogを以前から読んでいてくれて、FBで友達になった男だ。この時は単なるロードーシャだったが、今は高学歴ワーキングプア業界ではナンバーワンの男だ(笑)。

指名手配写真かっちゅうの


 N谷君はFBもやらないし、ネットもDRAC関係者のblogを時々のぞき見るくらいなので、シバデン君のことは全然知らない。簡単に紹介して三人で呑みはじめた。もっとも僕とN谷君は結構出来上がっていたので、シバデン君は圧倒されているようだった。どんな話をしたか正直ほとんど覚えいていない。唯一覚えているのは、そろそろ帰るかというときにN谷君がシバデン君は払わなくていいと男気をだしたことと、シバデン君のチャリに乗って帰る姿が印象的でバックに加川良の「下宿屋」が流れたような気がしたくらいか。さて、その日はホテルに戻って大人しく寝たが翌日は先ほど登場した77年度生で元会長、そして今はD大の職員として学生を弾圧している、違ったか、学生を援助しているK君と元学生会館で一緒にメシを食う約束をしていた。そして、そこから遥かなる田辺への旅が、また始まるのだ。つーって、全然終わらない。どうしよう。困った。

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コメント

サーカスの階段、酔っ払って転げ落ちて「ロジャー」のジャケットみたくなっていたのOBさんじゃなかったでしたっけ。

7~8年前でしたか

百万遍から銀閣寺あたりを車で通った時、元サーカスの建物を見て、何とも言えない 寂しい気持ちになりました。看板が残ってましたか! サーカスの看板だったら 欲しくなったかも(笑)。その際、銀閣寺南側の白川通で、(F田風に言えば)見ず知らずの喫茶店に入り 昼食を取りました。店主が私より少し年上かな? 京都時代の話を持ちかけたら やはりサーカスの話が出ましたね。ただ、盛り上がると言うより しみじみと当時を語ると言う感じでした。銀閣寺からホテル迄は、タクシーでしたか? まさか歩かないわなあ…

その後、顔から血を流して

『アラジン・セイン』のジャケットみたいになった、ってか(笑)。

いやいや、流石にあそこから

歩いてホテルに戻るという選択肢はありませんでした。時間も体力もあった学生時代なら、銀閣寺から堀川今出川まで歩くくらいなんともなかったとは思いますが(笑)。今、一緒にライブを見に行くY尾君(高校時代の同級生)は、京都駅から修学院の僕の下宿まで登山用のリュックを背負いながら歩いて来たことがありました。あれも、今考えるととんでもない距離です。

失礼シマス

75年と言えばワタクシ中3ですわ。サーカス&サーカスすごいメンツが集まってたんですなぁ。。

そうですね、当時は

磔磔、拾得と合わせて京都の3大ライブハウスというイメージでした。アマチュアバンドをやってる諸君は、サーカスでライブが出来るようになりたいという夢を持っていたし、さらにはチャージをしっかりもらえるようになりたい、そして最終的にはスカウトされてアルバムデビューという「兵どもが夢の跡」的な箱でした。経営的にもそれほど悪くなかったと思うのですが、ライブハウスからいわゆるクラブにシフトしてから変わったんですかね。その頃は、もう京都にはいなかったので良く分かりません。ただ、このライブハウスの経営者については、個々には書けないいろいろな話もあり、1度僕もその現場にいたこともあります。非常に微妙な問題がからむので、多分エントリーにすることはないでしょう。てか、この話の続き、要するに田辺の話を書かねばならぬ、書かねばならぬ(笑)。

ええと、あたし中学生でしたけどね

ええと、あたし当時中学生でしたけどw

ええまぁ、今51歳ですけどw ええそうなんですねぇ。其の頃もよく京都を徘徊してまして、ご存知のように京大西武講堂で奪還コンサートとかにも行ってまして、それから四条河原町のジュリーがまだ現役だった頃を経て、高校生の頃はオートバイで京都まで出掛けて、治外法権でRushのMoving Pictureが大音量で掛かってたわけでw

ああた、過ぎ去りし夢の如くwww

河原町のジュリー(笑)

亀レスになりました。いましたね~河原町のジュリー。景山民夫がまだ正常だったころのエッセイに「愛すべき莫迦」というのがありました。要するに、昔(多分に60年代~ぎりぎり70年くらいまで)は街に必ず莫迦がいて別段悪さするわけでもなく、周囲の人びともその存在を暗黙の了解で認めていたけど、いつ頃からかいなくなったって話です。

そして、ある時に景山が旅した街に鼻水たらした昔からの莫迦がいました。こりゃ懐かしいものを見たと、じっくり眺めていたら彼と視線が合い、おそらく彼が生まれてこの方何十回も何百回も言われたであろうセリフを向けられました。「おい、お前、いいワカイモンが昼間からぶらぶらしてると将来碌なものにならねえぞ」。

細かなニュアンスは異なってるかもしれませんが、大筋このような話でした。初めて読んだ時に、ふと河原町のジュリーを思い出した、というまあ昔話で(笑)。
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