好かれる先輩、嫌われる先輩 DRAC興亡史外伝

 この前の週末に天国と地獄を見た。というと大げさだが、とても嬉しくてハッピーな気分になれた瞬間もあったが、お返しにくそムカつく出来事もあったという訳だ。『どっちの話を聞きたい?』というように突然の質問で笑いを取るのが、大木こだま・ひびきの漫才で僕は結構あれが好きだ。そんなことはどうでもいいか、まあアップするこちらもウザイ話はしたくないので、先ずは楽しかった話を一発。

 『ウェブはバカと暇人のものだ』、などとここ最近もブーたれてるワタクシですが、先々週の日曜日の午後、その日は午前中からしとしと雨が降って、まさに梅雨の雨、アジサイは嬉しいかもしれんが、生憎僕は紫陽花ではないので、ましてや趙紫陽でもないので、家に居ても鬱陶しいから例によってブコフめぐりをしていた。いつもなら携帯を持って行くのだが、その時は何故か充電器に差し込んだまま部屋に忘れて出かけてしまった。雨の中行ったブコフは収穫が無くて、いや、ちょっと欲しいなと思った本やCDはあったのだが、物欲に任せてそういうものを際限なく購入していくと社会主義的計画経済の我が家の家計は簡単に破たんしてしまう。「何を言ってるんだ、たかが古本、中古CD」と侮るものではない。ルンペン・プロレタリアートあらためルンペン・プレカリアートの僕は、本年になりますます収入が減って、それと反比例して食費やその他の雑費が増えて、あああ、こんなことを書くと気持ちが滅入る。もしかしてオレはウザイ話から書き始めたのか、と自問自答する。

 違った、違った、要するに古書店めぐりでは大した収穫が無くて(何しろ購入したのは森見登美彦の『宵山万華鏡』とECの『EC自伝』の2冊を税込630円でゲットしただけ)、それでも好きな本やCDを物色したので、まあまあいい気分で家に帰ったら携帯のカラータイマーが点滅している。どうせメールだろうと手に取ってみると、あら、珍しや、大学時代のデューク先輩から2回も着信が入っているではないか。何かあったのかと思って、慌てて電話すると「ああ、携帯忘れて行ったんだって、まあいいや。今ね。実に珍しい人と一緒なんだよ、サプライズだな、ちょっと代わるね」。え、どうしてオレが携帯忘れたこと知ってるんだろうという疑問を頭の中に浮かべつつ電話を持っていたら、「こんにちは、ご無沙汰してます」という女性の声がする。え、誰、誰、以前このパターンで同級生だったHさんと話をしたことがあったけど、この声は分からない。記憶にない。僕が黙っていると、先方はいたずらっぽく「わ・た・し、旧姓、U村明子です」。ええええええええ、うううううそおおおおおお、というような声にならない声を上げたのは僕であった。

 何と大学のサークルの先輩、しかも同じ文学部は英文科だったU村さんが電話の向こうにいたのだ。僕が1回生の時に3回生だったが、もう何というか大人の雰囲気漂う美人だった。タバコも吸っていて、お酒は斗酒猶辞せずの九州出身の女傑だった。いや女傑なんていうのと違うな。そう西岡恭蔵の歌う『プカプカ』のモデルのような女性だった。大学に入ってまだまだ右も左も分からず、サークルのBOXでも小さくなってレコードを聴いていた当時1回生のワタクシなど、めったに口もきけない雲の上の存在であった。今でもはっきり覚えている、U村さんとある先輩の会話。何やら分厚い本を手に持ち、それを読んでる先輩に「N田君、何読んでるの」とU村先輩。「あ、『ドグラ・マグラ』だけど」「ふーん、また暗いの読んでるね」。たったこれだけの会話だったが、その間にBOXに居たのは僕とU村先輩と読書中だったN田先輩の3人だけ。床に吸い殻の散らかった殺風景なBOXに紫煙が3本。お二人はその後何事もなかったかのように、チャーリー・パーカーのレコードをかけるのであった。

 なんだ、それがどうしたの、などと冷静に聞けるのはあなたがもう大人になった証拠です。当時ワタクシ大学入ったばかりで、まだ18歳。見栄張って煙草を咥えていたけど、煙を吸い込まない「ふかし煙草(byウシャコダ)」で格好つけていました。そこにハイライトのメンソールを、マニュキュアを塗った指で挟んだU村先輩と、丸い銀縁メガネに750用のヘルメットを脇に抱えたN田先輩。もちろん机の上にはロングピースとジッポーのオイルライターですよ。そして会話が夢野久作ですよ、「そんなもん誰だって読んでるのよ、当然よ」、みたいな会話ですよ。こりゃ当時南九州から出て来たばっかりの田舎者のワタクシには刺激が強すぎた。ああ、こういう世界に足を踏み入れたらカタギに戻れなくなると思いながらも、来年はオレが後輩の前で女子部員に向かってああいうこと言うんだ、オレはロシア文学が好きだから、ガルシンの話でもしてこましたろうか、チクショーと最後は何故か絶叫してしまった修学院の夜、なんてことがありました。

 そのほかにも、このU村さんにはいろいろお世話になった。2回生の時は夏合宿に参加するお金の無かった僕のために、他の女子部員に相談してくれてみんなで合宿の会費を負担してくれたこともあった。もちろん、それは借りたお金だから返済の義務がまともな人間ならあるはずだが、大変残念なことに当時の僕は全然まともじゃなかったので、見事全部踏み倒した。同級生のHさんにも確か5,000円くらい借りたはずだが、しかし、この借金は昨年の大阪での再会の時に許してもらった。後は、このU村さんとT永さんだけど、お二人とも器の大きい人だから笑って許してくれるはずだ、などと都合のいいことを書いて誤魔化す姑息なワタクシであった。あ、それと消滅時効でもある、などと苦しい時のブルジョワ法律頼みでもあった。

 この時のきっかけは何だったか。僕が2回生の時だから、76年の夏だ。当時、ジャズ班に所属しつつも、心はロックだったワタクシ。もっとも、研究会に参加しても何というか、些末主義的な話ばかりで、「これは名盤」とか、「あれは駄作」などと心象批評ばかりで、なんら生産性がない。しかも研究会参加者しか分からない話ばかりで、アルバイトや私用でその研究会に参加できなかったメンバーに情報の伝達も出来ない。研究会のノートを取って、参加できなかったメンバーに閲覧させたらどうかという提案をしたものの、工学部や商学部の連中が字を書くのをめんどくさがって(100%に近い確信をもって言うが、こいつらは漢字を知らなかった)、研究会ノートもいつの間にか落書き帳みたいになってしまい、麻雀の誘いを断った男の名前を大きく書いて、呪いの言葉をその横に書くとかそういう使い方しかしなくなるのに、かかった時間はごくわずかだった。

 しかし、当時入部してきたばかりのM原君やS木君という若手メンバーと話し合い、サークル活動の記録として会報を作るべきではないか、DRACも以前は会報があったが、別館闘争を経ていつの間にか廃止になった、などという歴史的事実を知ったりして、これはオレがやらないと誰もしない、というか出来ない。よし分かった、次の夏合宿でジャズ班からの問題提起としてロック、クラシック、ブルース全てのサークル員に問題提起して会報を作成するのだ、と盛り上がったのは良かったが、あてにしていたアルバイトがダメになり、本来合宿用に取っておくべきだった仕送りを使い込んでしまい、にっちもさっちもどうにもブルドッグになってしまった。仕方ないので、「オレは考えるところがあって合宿には参加しないから、今回の会報復活の話は新入生の提案として合宿で上げてくれ。万一、そこで否決されても後期のEVEの準備の総会の時にオレが改めて提案するから」などと1回生の諸君に託したが、しかし、そういう提案はあっさり否決されるだろう。まあ、その時はその時だなどと開き直っていた時期。

 BOXに行ったら、珍しく男性部員は誰もおらず、レコードを聴いていたのはU村さんと確かT永さんだったと思う。いつも明るく元気なワタクシが(自分でも信じられないが、75年、76年くらいまでの僕は常にハイテンションで、大きな声で話す活発な少年であった。これがどうして、今は「男は日に三言」の寡黙な南九州の高倉健と呼ばれるようになったのか、人生は謎ばかりだ)、自分から口も開かずぼんやり煙草を吸っているのを見て、T永さんが話しかけてきた。「もうすぐ合宿やね、鳥取の民宿ってどんなとこなん?」、そう彼女は1回生の後期から入って来たので、夏合宿は初めてだった。「あ、えーと、スイカが甘くて美味しい。イカと甘海老の刺身が旨い。それとビールはキリンのラガーの大瓶が300円で飲める」などと力なく答えた。「なにそれ、食べるものばっかりやん」と笑いながら答えるT永さんとのやり取りを見ていたU村さんがおもむろに「ところで、合宿で何か提案するとか言ってたよね」。「あ、その件ですか。ちょっと僕は都合がつかなくなったので、趣意書を書いて1回生の連中に発表させるつもり…」「何、どうして、キミが行かないのかな。1回生の子たちじゃ荷が重いし、先輩たちに言いくるめられて終わりって結果見えてるよ」「まあ、それはそうなんですが、とりあえず彼らもそういう経験してもええんとちゃいますか。もっとも会報の件は後期の総会で改めて提案すれば何とかなると…」「なんで合宿行かないの、キミが行かないと意味はないよ」「いやその先立つものが…」「なんだ、お金なの。大の男がだらしのない。いくら足りないの」「その、ほんの3万ほど」「はぁ、合宿代全額じゃない、ははあ、またS賀君やT原君と一緒に飲み歩いていたのね、そういうことはきちんとしないと、あんた大人になって困るよ」。というようなやり取りがあって、U村さん、「お金は私が女の子たちに話をして、何とかするから、合宿絶対行くようにね」と念を押してくれた。世の中にはこういう人もいるんだとワタクシ、心の中で両手を合わせておりました。

 さて、無事に合宿に参加できたワタクシは先ずは各班の打ち合わせの中でジャズ班独自の会報作成を提案し、何故かそれにすぐ同調したF田敏雄君、早速原稿の段取りを始め、S賀さん、Nさんにジャズとのなれ初めや私の薦める名盤などの話を書くよう段取りし、ご本人は倉橋由美子の文体を意識した一大ジャズ小説を書くと豪語しておりました。後年この「名作」は幻のミニコミと呼ばれたマーマレードの創刊準備号に『HOBO CITY』というタイトルでアップされるとは神のみならぬワタクシ、想像すらできませんでした。このジャズ班の会報ですが、編集責任者がリーダーのF田敏雄君だったため、後期始まってすぐに、「それどころやなかったんや。秋田の山の木が大変なことになってな、お前知らんやろ。1本30万以上する天然秋田杉が1山に何百本も何千本もあるんや。オレの爺ちゃんはそういう秋田杉の山をなんぼも持っていてやな、それの財産管理をオレがせんといかんのや」などというような話をされて、意味は全く分からなかったが、とにかく剣幕だけは凄かったので、僕達下々の者には分からない大金持ちの家の苦労があったんだろうと、え、それが会報とどんな関係があるのか、それは誰も分からなかった。恐らくF田君本人も分かってなかったと思う。

 結論からいうと、この時は会報を復活させることは出来なかった。合宿中の会議ではとりあえず承認されたものの、前述のM原君とS木君以外は誰も協力的ではなく、僕自身も他のサークル員、先輩や同級、後輩を上手くまとめることが出来ず、企画の途中でとん挫してしまった。このことがきっかけでM原君はサークルを辞めて(退部はしたものの何かあるとしょっちゅうBOXに来ていたし、住んでいる下宿は会長のS戸、副会長のF田君と一緒だったので、外部から見るとサークル員と何ら変わらなかったのはご愛嬌だ)、連続射殺魔というおどろおどろしいロックバンドのマネージャーを、今もイベント関係の仕事をしているN部君と一緒に始めることとなる。

 結局、DRACで会報が完全に復活するのは79年、当時音楽ジャンル別の研究会スタイルを続けていたサークルを一度解体し、再度サークルとは何かを問いかけつつ構築するのだとN谷君を中心としたサークル改革を行ってからである。勿論「レコード音楽研究会」としての「研究会活動」は存続させるが、ただレコードを聴いていいとか悪いとか、アンケートを取ってそれを自分たちの手柄にして喜ぶような、まあ、簡単に言えばマスターベーション的研究会はそれを大事にしたがる守旧派もいるので、そいつらはそいつらでやらせておけばいい。それより、音楽を聴いてそれを各自がどう考え何を表現するか、そしてそれを共有することにより積極的な意味を考えようとして、イベント企画班、ミニコミ班(対外的)、そして内部的な研究会を発表する場としての会報班などを作り、それが80年代のDRACの大きな骨子になっていった(と思うが、この辺りは「鳥肌音楽」のSM君のほうが詳しいだろう)。

 と、まあぱっと思い出しただけでもいろいろな意味でお世話になったU村先輩だが、本人いわく「もう昔のことはすっかり忘れ」ていらっしゃるそうだ。これ以外にも面白い話はたくさんあって、あ、あの時の一乗寺のU村さんのアパートで聴いた石川セリはよかったとか、コンパで酔っ払って絡んでしまったとか、まあその手の話はごろごろあるが、今は堅気になっている先輩の過去の悪行の話を書き綴るのはあまりいい趣味ではないので、このくらいにします(笑)。そういえば拙blogを始めたばかりのころ、懐かしさに任せて同級生だったS戸君の話をたくさん書いた。僕としては悪意はなく、あくまで昔話のつもりだったが、ネタがシャレにならなかったせいか、いまだにこちらから何度呼びかけても無視される。今回のU村先輩からも無視されないように、今回はここまで。え、S戸君の話ですか。うーん、もう大抵書いた話ばかりなんだけど、まあせっかくなので(笑)。

いやそれが、大した話じゃないけど、1回生の時に車の免許を取ろうと一生懸命バイトして当時としては大金をため込んだのだが、京福の、あ、今は叡山電車というのか、その通学定期を偽造したのを駅員に見つかり、血と汗と涙でためた貯金をすべて罰金として没収された話とか、試験中にカンニングがばれて全科目零点となり見事に留年した話(よく考えたら彼は経済学部で75年入学の彼は4年間中2回はストためレポート切り替えになったから普通にやってればダブルはずなかったんだが)とか、ねずみ講に引っかかって頼れる友人知人は誰一人としていなくなり、そう、その時も副会長のF田君と一緒だったので、二人して無い知恵を絞りだしていたら、突然、F田君が「あ、あいつがおった。俺の連れで俺が困ったときは必ず助けてくれた男や、あいつに頼めば間違いない」というので、深夜車を飛ばしてそのF田君の親友のアパートに行ったら、玄関のドアも開かず、「誰や、F田?お前、どの面下げてワシのとこ来たんや。お前がかけた迷惑、一つや二つで済まんぞ、ボケ、今度はなんや、なにやらかしたんや。もっとも何やってもワシとお前は赤の他人や、頼むんやったらどっか別のとこ行けや、まあ、どこいってもお前を助ける物好きはおらんわ」などと嘲られ、さすがにその時のF田君の顔はまともに見ることができなかった、とこれは後年、S戸君から聞いた話で、まあ、こういう話はまだまだあって、と話はネバーエンディングストーリー。あ、むかつく話は今回の話の中にちらっと入れてるけど、粗野な先輩の話なので、そのうちまとめてアップしてやらぁ、首洗って待ってろ、クソジジィ。



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コメント

我々が鮮明に覚えている思い出も

彼女にとっては、数ある日常茶飯事の1つだったようで 「そんなこと 有ったっけ? 覚えてないなあ…」の連続でした。アパートで、君たちに 風呂を提供したのも 覚えてませんでしたよ(笑)。A水君は、彼女とツイスト踊ったのが、本人の鮮明な楽しい思い出でしたが、残念ながら これまた記憶に無いそうです。とにかく 会えて、声だけでも 取り次ぎ出来て 良かったです。

何と云うか、想う人には想われず

ということでしょうか。しかし、よく考えてみるとU村先輩も大学を卒業し、35年以上経過しており、しかもその間にDRACの人たちとの接点は一切なかったわけで、そういうところに突然学生時代の、いわば精算したはずの過去を知ってる人間が来たというのは晴天の霹靂というか、まあ多分に驚いてしまったのではないかと・・・。それでもお元気でいらっしゃることが分かって何よりでした。細いつながりですが、これをきっかけにまた昔のようにバカ話出来ると良いなと思います。今回は、本当にお疲れ様でした。

最後のF田君のエピソード

本人には失礼ながら 大笑いさせていただきました。元連れの言葉、強烈ですが、F田君のキャラクターを良く捉えていて、うなずいてしまいますね(笑)。この空のどこかに居るはずなのに。見ず知らずの電車の中でばったり出会い、住宅お所を聞いて 約束をしたら すっぽかされて、とがめたら「それどころやなかったんや!」の決め台詞…などと想像してたら 笑いが止まりませんな(笑)。

いかにもF田君らしいというか

彼の人格を見事に表しているエピソードですよね。この話を始めてS戸君から聞いたときに、僕も大爆笑してしまいました。当事者だったS戸君は、そんなに笑うな、F田も可哀想な男やで、などと言ってましたが、最後には、まあ、あの「友達」の言うことの方が当たっていると納得していました。しかし、どこにいるのか、何をしているのか、彼の消息を知るすべはないもんでしょうか?
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