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無知蒙昧は権利の放棄と四捨五入も正義感のうち、な時代

 ふと気がついたら、年の瀬である。この間、blogの更新をずっとしていなかったが、正直言って、12.16以降、あまりのあほらしさに疲れ果ててしまったことと、ウェブってのはやっぱり「バカと暇人のもの」なんだとつくづく思った次第で。いや、こんなこと書いたって自己満足にもならないというか、本当に我がニホンテイコクはどうなってしまうのだ、まあどうなってもしょうがないか、だってそれが選択した道なんだからと開き直るくらいしかない。それでも「安倍ちゃん」なんて親しみこめて、「全面的に支持します」なんていってたアホ連中も、権力握った後の彼らのやり口に、アレちょっと違うのかな、いやそんなことない、これは「マスゴミ」が勝手に情報を捏造しているだけだ、などと大慌てな様子を見て笑っているのも疲れる。

 かといって、投票率がどうたらこうたら、国民は自民党に信託を与えたわけではないとか言い訳しているメディアのおめでたい反応も笑ってしまう。おいおい、当日投票に行かなかった連中が、もし投票に行ってたら、もっとイシンとかジミンとか票が入っていて抜き差しならない状態になっていたと思わないのかな。『想像力さえお金の支配下、動脈硬化のネットワークさえ「ふとした力」で大騒ぎだけど、私あんたを忘れられなくてあきらめきれずに』というのは正解だな。

 いや、もう要するにバカバカしくてやってられない、静かに本でも読んでいようというのがこの半月ばかりの正直な気持ちです。実は、12.15のあとにエントリーをアップしようと思って途中まで書いていた話があったけど、それもなんだか気が進まない。いったいどうしてこうなってしまったのか、どこでどう道を間違えたのか、だけど圧倒的多数の人は道を間違えたと思っていないから、やはりおかしいのはこちらのほうか。とりあえず、今年もいろんな人たちにお世話になって今こうしているのだけど、この1年が大きな転機だったんじゃないかという気がする。気の重い年の瀬です。最後に、2週間前に書こうとしていたエントリーの断片を貼っておきます。

 墓参から帰ってきたら、獺祭書房の水野さんから封書が届いていた。しまった、今年の7月の終わりに、多分自分の人生の中でもう二度と行くことのない場所だと思っていた京都の学生会館別館関係者で、よせばいいのにのこのこ顔を出して、学生時代のサークル、要するに僕がハンドルネームにしているDRACというサークルのことを尋ねて、そんな事に答えても1円の得にもならんはずなのに、誠実に対応してくれて、あろうことか2004年の同志社の栞を頂き、その最後のページに新町別館の614号室にDRACは存在したという事実も教えてくれた、あの獺祭書房のオーナーからの封書である。そういえば、過去への旅路も2日目で止まったままで、もちろん続きは書くつもりだが、その後の話は結構、僕や同級生だったN谷君や、今や当局側の人間になってしまったK君の話を書かないと意味が通じなくなるし、かといって彼らとの濃い人間関係の話はちょっと拙blogでは荷が重いというか、いやしんどいなと思ってパスしてきたのだが…。まあ、せめて最終日の自転車に乗って京都の(僕が動き回った街の)話は書かんと収まらないなと考えながらも、ついついそのままにしていた。

 で、その封書を開けてみたら、なんと紫の背景色に白抜きで「アジビラは語る」なんて書いたリーフが出てきた。サブタイトルは60年代同志社学生運動とある。なんというシンクロだろうか、つい先日、同志社の伝説的な学友会委員長であった矢谷暢一郎氏の『アメリカを訴えた日本人』を読み終えたばかりで、普段はアホな事しか書いていない拙blogのめったにないマジエントリーとして、その感想をまとめてみようと考えていたところなのだ。この『アメリカを訴えた日本人』という本は、77年に家族で渡米し、9年間アメリカで暮らしていた(子供2人はアメリカ国籍)矢谷氏が海外で行われた、(続きを書こうとして選挙速報見て、疲れ果ててどうにでもなれと、さあ殺せといいたくなったどこのどなた様はオレだ)。



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1975年5月から1981年3月まで、眺め続けた景色から時代と文化が見えてくる。混迷と停滞の時代を撃つ、はずはない。

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