過去への旅路その12 出町、百万遍への進撃を再開せよ

 およそ25~6年ぶりのキャンパスは、相変わらず狭かった。それ以上にせわしなく感じたのは耐震補強の工事をあちこちの建物で行っており、やたら振動がしたり騒音がしたり、足場や足場を隠すためのネットがあちこちに貼られている、その風景だった。M地下を出た僕たちは、文学部のあった寧静館をうろつき、学園祭で良く使った至誠館に行って授業か試験が終わったばかりの学生たちが出てくる姿を眺めたりしていた。壁には学生向けの様々な情報が書かれたビラが貼ってあった。もっとも学生自治だとかサークル運動などのあっち系のものは皆無で、唯一反原発の官邸前デモと連帯して関電前で抗議行動をしようというビラがあった。N谷君は冷ややかに、そのビラを見て「アカンな」と一言。元文学部自治会の活動家として、反原発に対して意見があったようだが忘れた。良く考えてみたら、もう2ヶ月前の記憶だ(笑)。もしかしたら反原発のビラではなく学友団とか卒業アルバム制作委員会のチラシを見て「アカン」と呟いたのかもしれない。

 デューク先輩、N谷君と3人でキャンパスをうろつき、工事の警備をしていたおじさんに記念写真を数枚撮ってもらった。クラーク館の前や神学館の前などで記念写真を撮るようなことになるとは学生時代は夢にも思わなかった。そうしているうちに有終館の前に来た。ここは移転反対や学費値上げ反対のストを行うたびに封鎖される建物だった。当時の学長室などもあったし、一般学生が立ち入ることなどほとんどない場所である。それなのにN谷君は「懐かしいなぁ。ここ、な、学長室あるやん。ドアぶち破ったことあるんや」とか「部屋の中、わやくちゃにしてやったやつもおったで」とか、不思議な話をするので、いったい何のことだろうと頭の上にたくさんの疑問符を浮かべながら聞いていた(笑)。

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 しかし、来年は某国営放送で本大学の創始者の配偶者(役者は何と『JIN』の咲ちゃん役で全国民の心をほんわかさせてくれた、あの女優)のドラマが放送されると聞いたが、改めていろいろな文化財のある学校だったことがわかる。何しろオリジネーターというかオルガナイザーというか、要するに設立者である新島先生の直筆の文章があちこちにやたら掲示してある。「苟も真正の文化を興隆せんと欲せば、須らく人知を開発せざるべからず」などということがガラスの掲示板の中に墨痕淋漓と書かれてある。しかし、悲しいかな、大学中退者の僕は「え、えーと、ジュンもシンショウのブンカをコウリュウせんとヨクせば、スラク、ん、スラクってなんや、スラムの間違いちゃうか」とか「シンセイの文化ってのは、タバコのしんせいのことか、それとも落語家の志ん生、あ、あれは『しんしょう』か?」などと解釈が出鱈目なので、ありがたみがない。しかし、徳富蘇峰の書で「致遠館」などという額を見ると、やはり気が引き締まる。もっとも、こういう気持ちを30数年前に持っていれば、もう少し真面目な学生生活を送ったことと思うが、いまさらしょうがない。

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 キャンパスを出てアーモスト館を左手に眺めながら河原町今出川に向かった。そうそう、あえて名前は伏せるが「アーモスト館って、どこや。昔はよくアモ館、アモ館っていうとったけど」という元学友の問題提起に誰一人答えられずに、キャンパスを出て初めて、その存在に気がついたという出来事もあったが、あまりに悲しい話なので内緒にしたい。男3人、ぶらぶら歩いて「ほんやら洞」の前を通る。誰一人として中に入ろうなどと言うものはいない。この手の文化風俗は苦手だったのだ。いわゆる京都文化人というか、フォークとか現代詩とか手作りとか陶芸とか、いわゆるああいう「高尚」な文化人の人たちの集まる場ってやつが(ちょっと悪口言うと文化人気取りの人ってたくさんいた。いや、今もいるんだろうな。普段は反権威みたいなこといいながら、有名人とちょっとしたコネがつきそうだと誰彼なく口を出すというか、友達の友達は皆友達だみたいなことを平気で言える人っているよね)。まあ、「ほんやら洞」は相変わらず存在していて、入り口の所に古本(写真集とか地方の出版社の本とか)が無造作に置いてあって、「どれでも1冊500円」なんて書いてあった。僕の地元で農家の人が組合に出せないキュウリやトマト(ちょっと曲がっていたり形が悪いだけで味は全然ノープロブレム)をビニール袋に入れて、横に箱があって「どれでも100円」なんて書いてあるのと同じだと思うと、なんだか可笑しかった。

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 ぶらぶら歩きながら「ああ、このあたりに冷麺屋があったっけ。看板に『京風ラーメン』って書いてあって、急な階段を上ると4人掛けのテーブルが几帳面に置いてある店だったな。4月の終わりには冷麺を出していて、冬場の寒い時だけラーメン出していたな」とか「お、カジマヤは確か、あのあたりにあったな。今は立派なビルが建ってるやないか」とか「わ、レノマのあったビルは、そのまま残ってるな。あそこの確か3階の角にあったんやな、レノマは。ちょっと訳ありのママさんがいて、オレ達のミニコミを置いてくれて回収に行ったら1冊も売れてなくてな、うん、創刊号の時だったと思う。そしたら、ママさんが『私も1冊もらうわ』って買ってくれて、嬉しかった。でも見栄を張って『同情はいらんよ』と言ったら『いや、私も学生さん相手の商売やし、こんなん読んで勉強せんと』なんていうてくれて、オレ一瞬惚れてしまいそうやった。あのとき周りに客がおらんかったら、オレ…」などとあらぬことを口走りそうになった。「あ、そのレノマの前の道路に夜になると屋台のソバ屋が出てたの、N谷知らへんか」「知らん」「たしかな、『大将蕎麦』っていう名前で、もちろん半分茹でたソバやうどんをテボに入れて、沸騰したお湯の入ってる寸胴の中にさっと通して具を乗せて汁をかけるという、いわゆる立ち食いソバなんだけど冬場に食べると美味しくてな。そうそう、昔から疑問やったんやけど、なんで京都はニシン蕎麦が一番高級なんやろ。天ぷら蕎麦より高いもんな。オレ、魚好きやけどニシン蕎麦はそれほど旨いと思わん。」とか、まあ人間思い出すものである。しかし、僕が思い出すのは呑むか食べるかの話がほとんどで、それも高級なものはまず出ない。大衆とか学生向けとか格安などという名詞がつくものばかりだ。

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 「その大将蕎麦なんやけど、マッシュルームカットに鼻ひげ生やした、若いんだか年取ってるんだか分からんオッサンが一人でやっててな、あるとき確か麻雀した帰りやと思うけど、H本やO原なんかと一緒に蕎麦食おうという話になって、そう、なんでかO畑もおって、みんな蕎麦やうどんを頼んだけどO畑だけ腹が減ってないからってかやくご飯頼んだんや。そうそう、あれなんでかやくご飯いうんやろうな。オレ最初かやくご飯って聞いたとき、うわー、京都の人は物騒やな。メシにダイナマイトでも入れるんかいやとか思うたもんな。そうそう。そのO畑なんやけど、かやくご飯頼んだのはいいけど代金を渡すときに落としてしもて、小銭が屋台の下に入ってわからへんのや。オッサンがマジな顔になって「お前、なんぼはろた、今落としたのはなんぼや」っていいよるねん。O畑が「100円玉です」いうてその場は釈放されたけど、後でO畑が「あれ10円ですねん、あの大将後で拾っても金額足らんかったはずですわ」ていうたのは笑ったで」。まあ、セコな話でした。

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 そしてカジマヤ、レノマを過ぎて、ついに出町の商店街、桝形通りに出た。ここは僕が3回生から4回生になるまでの2年間住んでいたところで、この小さなアーケードの商店街にはしょっちゅう買い物に来た。スーパーなんかにいくより、このアーケードは楽しくて当時はうどん玉などはガラスケースの中に入っていて、「2玉」とか頼むと経木をもっと薄くした、いやあれはやはり紙だったのか、三角形に折り曲げた紙の底に長い箸でつかんで来ように入れてくれた。惣菜や野菜、めったにないけど肉なども買っていた。サバ寿司も美味しくて、ってキリがないな(笑)。その商店街を北に抜けると、我らが王将、出町店である。相変わらずの外観で、店のガラスにはメニューがべたべた貼ってある。ショーウィンドウの中の見本は、これは何十年そのままなんだろうというたたずまい。金が無い学生には30分間皿洗いしたら腹いっぱいご飯を食べさせるなんて張り紙がある。このルールは僕が学生の頃もあったらしいが、張り紙は出てなかったと思う。実際、皿洗いしてタダメシを食べたやつなんていなかったから、やはり80年代以降に始まった約束事かもしれない。しかし、いかにも学生の街の王将らしい。

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 王将を見たら、次は中島食堂である。あの広くて薄暗い、おかずの品数はいったいどれだけあるのか、想像もつかない不思議な食堂であった。何度もここに書いたが、料理の注文は受け付けの兄ちゃんに食べたいものを言って、その後名前を名乗る。すると4~5分して長髪の薄汚い兄ちゃんがエプロンして、「なんとかさ~ん、レバニラと卵焼きと納豆を頼んだなんとかさ~ん」などと言いながら料理を持ってくる。周りの客は黙々とメシを食いながら「こいつレバニラに玉子に納豆って、何考えてんのや。やたらネバネバ系で精のつきそうなんばっかりやないか、あ、もしかして今からグラスホッパー行ってナンパする気やろか」などと邪推したり、注文した客の名前が受け狙いのタイムリーなものだったら、笑いが起きたり、まあ摩訶不思議な食空間であった。

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 すこし迷ったが、中島食堂はあった。いや正確に言うと中島というお弁当屋はあった。土曜日の夕方が近いというのに休業のようで、外見から見る限りではあまり流行っている様子は無かった。少なくとも、僕達が学生の頃、正確に言うと貧乏学生だった頃の夕方の活気とは無縁の静かな場所になっていた。そういえば中島でご飯食べてる女子学生って見なかったなとか、あの受付に座って注文取ってたのはR命館大学の学生だったはずだが、その後そのまま中島食堂に就職した。僕達が大学で学食が営業していない時期に一定程度まとまった弁当が必要だったとき、ああ、めんどくせー、要するにストとか入試情宣をやっていたときに弁当を注文すると配達に来ていて、最後の方ではお店の経営なんかに関わっていたとか養子に入ったとか噂になったが、お元気なんだろうか。ホカ弁や格安の牛丼屋などが進出するこの業界で、いかな老舗の中島食堂も経営状態は厳しいのかもしれない。しかし、どんなに間違っても訳の分からない経営コンサルタントなんかに洗脳されないでほしい。いつの日か、中島食堂に来てみたら、従業員は全員黒のTシャツを着て胸にはみみずののたくったような字で「なかじま。私たちには笑顔しかありません」かなんか書いてあって、店に入ったら全員で「いらっしゃいませ~」と絶叫され、注文したら大声で「幕の内弁当並み、サービスドリンク付き、ご注文いただきました」「ありがとうございます(一同絶叫)」「1000円札入ります」「ありがとうございます(一同絶叫)」「お客様のお帰りです」「ありがとうございます(一同絶叫)」なんて店に変わってほしくないのだ。壁にやたら「お客様の笑顔が私たちの元気の源です」とか「たかが弁当、されど弁当。弁当哲学一辺倒」とか「造反有理、ホカ弁×滅、打倒米帝牛丼主義」とか書いていて欲しくないのだ。

 ええと、久しぶりのアップでどうなることかと思ったが、なんだまだまだ行けるじゃないかと手ごたえを感じております。もっとも今日はちょっと頭痛がするので、ここで終わります。続きは延々と、ネバーエンディングで行くのだ。過去への旅路は終わらないのだ。

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コメント

私は 14年ぶりかな?

正月休みに 正門で名前書いて 入れてもらいましたが、校舎は閉まってましたから 校舎に入るのは、卒業後初めてです。キャンパスには入れるけれど、あの頃には戻れない…と 少なからず センチになりました。ラッキーが無いのも なかじまの変わり様も ショックでしたが、津田蓄音機店が無くなっていたのが、個人的には 一番ショックでした。以前書いたように 痩せてる方の息子さんのマンションに お邪魔したことも有りましたから 存在してたら 昔話をしたかったのですが。

ああ、津田蓄音機店は確かに

影も形も残ってなかったですね。あそこはポスターを段ボールに入れてあって持ち帰り自由だった記憶があります。越美晴の特大ポスターをもらって部屋に飾ったこともあります(笑)。大学を去るときは、邪魔なレコードを売りに行きました。最初は、まあそこそこのレコードを持って行ったので売値も良かったのですが、次に持って行ったのはマイナーというかこんなん誰が聴くんやみたいなレコードで、これは悲惨な金額でした。

まぁ、ちょっと違う話

もちろん、drac-obさんが現役の大学生やってた頃、私高校生で神戸から京都までよく50ccのオートバイで行ってましたわ。そもそも、中学生の頃、大晦日の京大の奪還コンサートに行ってたのは、もうご存知の通りですけどw

コンディション・グリーンだけはなんやらしらんけど、YouTubeにその日の動画上がっててワロタw もう、シンキも地味なバーで芸して見せるだけなんやけど、あいつらさっさとやらんかいなと思いますぅ〜。ほんまにずっこい連中ちゃいますかぁ〜w ああ懐かしのコンディション・トレインw ぽっぽぉ〜♬

5年前やったかな、私も卒業後初めて女房と一緒に母校に行ったのですけど、アジビラも立て看もないし、妙に小綺麗な大学の様子にちょっと違和感感じましたね。でも、法政はまだ中ちゃんが立て看出してましたけど、その後殲滅されましたわw 元気なき闘いw

コンディション・グリーンは

京大の西部講堂で見ました。これも以前書いたと思いますが、今は亡きM原君が肩車して客席に乱入したメンバーに、足を出してこけさせようとして追いかけられたというエピソードがあります。まあ、村八分もYOU TUBEで見られる時代ですから、これまで個人がこっそり持っていた幻の映像が次々にアップされる事でしょう。

立て看は、やはり百万遍の有名大学にしかありませんでしたね。最終日に自転車でもう一度、出町、百万遍、北白川をずっと走るのですが、Zの小さな看板が出ていたのが印象的でした。
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