過去への旅路その4~ワイルドサイドを歩け

 前回やってみて、意外に好評(いや、イマンさんがコメントで褒めてくれただけですが、笑)だった写真付絵日記をもう少し継続したい。女子大の入り口の右手に視線を向けると、そこは御所だった。御所というのは、皆さんご存知のようにやんごとないお方の昔の住まいであったわけだが、これがめちゃくちゃ広い、僕の学生時代は体育の授業はここで行われた。確か野球のグラウンドが4つか5つくらいあったと思う。まだ1回生だった頃、隣のオール九州人の下宿に住んでいたT中君から準硬式野球部の練習用のバットを持っていくよう頼まれて、場所が分からずうろうろしていたら警備のこまわりくん、じゃなかったオマワリさんに怪しまれたこともあった。しかし、このアングルを見ると「青烏」という言葉や、「日×民×」という単語が浮かぶのは何故だろう。とにかく何かあるとここにカマボコ(マルキの人たちが待機している金網付のワンボックスというかワゴンというか、どっちかというと装甲車ってイメージの特殊車両)が待機していたり、ジュラルミンの盾を持ったごついお兄さんたちがいたな~。そんで、時々は同じくらいの若いおにいさんなんだけど、新聞の拡張員と選挙に行くことが仕事になってる、そうそうR大学の学生が多いグループが集まって、何やしらんが「ボーリョク学生は帰れ」とか「学生の学ぶ権利を邪魔するな」とか大声で喚かれたような気がするが、多分気のせいだろう。

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 今出川通りを河原町に向けて歩いていくと、有名なほんやら洞がある。岡林を始めとする、当時の関西文化人グループが交流と発表の場にしたところだ。店内は木で出来た大きなテーブルと長椅子があって、ずっと座っていると尻が痛くなるところだったし、ここに出入りする髪の長い人たち(僕も当時は長かったけど)の話すことが、どうも苦手で何度か入ったけど、居心地が悪くて待ち合わせや休憩に使うのは、「レノマ」とか「やぎ」という喫茶店だった。もっとも両方ともとっくの昔に無くなっているようだった。「レノマ」の入っていたビルはそのままあったが、「やぎ」は結局場所もどこだか分からなくなっていた。ところが、この翌日出町の商店街を歩いていたら、「やぎ」のうどん・おにぎり部を統括していたパンチパーマのオッサンが自転車こいでいた。気おくれして声をかけることが出来なかったが、間違いないと思う。オッサン、この界隈でまだ商売してるんかと考えるとなんだか嬉しくなった。

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 そういえばオデッサ書房がこのあたりに在ったはずだと、探してみたが見当たらなかった。85年くらいに京都に来た時ですら、流行遅れの本や機関紙を置いているややアナクロな書店だったが、非常に居心地が良かった。そこだけ時間が止まってる感じがしたが、さすがに平成も20年以上たった今日、そのような良心的な書店は存在しえないのか、などとちょっと柄にもないことを考えた。そうしているうちに出町である。桝形通りである。この近辺には3回生から4回生の間、つまり2年間生活していた。その下宿(造りは普通の一軒家で、共同のガスコンロがあり、部屋は6畳だったので随分リッチになった気がしたものだ。何しろ修学院はフォー・ジョー・ハーフだったから)を紹介してくれたY田さんという73年度生の先輩から炊飯器も譲ってもらったので、自炊を覚えた頃だ。出町の商店街というのはアーケードの中にあり、乾物屋や総菜屋、肉屋に米屋(そうそう、コメを買うときは米穀通帳が必要だとF田敏雄君に言われて、オレそんなん持ってへん、どないしよと青ざめたのも今はいい思い出、の筈がない。あの野郎、毎度毎度適当なこと言いやがって)、とにかく買い物するのに事欠かない。また、特に買うものを決めずにぶらぶら散歩しながら、あちこちのお店を冷やかして楽しんだこともあった。

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 と、ここまで書いたらお腹が減ったので今から晩御飯を食べる。続きはその後すぐに書く予定です。いやー、週末だったのでハイボールなど作って飲み食いしていたら、女子バレーの3位決定戦が始まり、ついつい見てしまった。銅メダルおめでとう、惜しむらくは狩野さんをもっと使ってほしかった。などと、脱線しましたが、出町の商店街を横切っていくと、王将がある。この出町の王将には良く通いました。以前のエントリーにも書いたけど、僕は中華料理というのは京都に住むまで、ほとんど食べたことが無くて、王将も珉珉も最初はおずおずという感じで先輩なんかと一緒に行っていたが、慣れるとそりゃもうひっきりなしに通った。特に、王将は餃子のタダ券の綴りを通学路で配布していることがあり、これをゲットできると最低餃子はタダで食べられる。当時、餃子の1人前は120円だったと思うが、それに30円プラスすれば焼きそばが食べられる。また、そのタダ券は京都市内の各王将店舗の名前が印刷してあって、たとえば出町店で他のお店のタダ券出しても駄目なのである。したがって、餃子を求めて三千里みたいに、あちこちの王将に通ったのだが、やはり出町は店員も個性の強い人が多くて頻繁に通った。ウソかホントか知らないが、毎週定休日の月曜日は王将新メニュー会議みたいなことをやるなんて話があって、ホウレン草のバター炒めと付け合せでポパイ定食などというメニューが突然登場したりして、いや、王将も新規開拓を真剣にやっていたんだと思う。ちなみに出町店のメニューを写真に撮ったが、ポパイ定食がパパイ定食になっていた(笑)。

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 出町は商店街が近いのと河原町今出川という交通の便のいいところにあったので、非常に住みやすかった。ミニコミのマーマレードに関わったのは、この時期である。そうそう、そのマーマレードの編集長だったMilk氏と今回の旅行がきっかけで、連絡が取れるようになったのは、大きな収穫だ。僕の記憶違いの所があったら指摘してくれるというから心強い。出町に住んでいるときは王将という早い、安い、旨い(?)食堂があったが、もうひとつ忘れてはいけない貧乏学生の強い味方、「中島」があった。これは「なかじま」と読むのだが、とにかくメニューが半端なく多くて壁中にさまざまなおかずの単価表が所せましと貼られているのが特徴だった。それと入り口に受付があるのは不思議ではないが、そこに何故かマイクがあって、客は自分の名前と食べたいおかずをそこで言うと、受付の小汚いバイトの兄ちゃんが復唱して、それがマイクを通して奥の厨房に伝達されるというシステムだった。そして注文して5分くらいすると「○○と××と△△を注文されたお客さん~」といって、これまた長髪の薄汚いバイトの兄ちゃんがお盆に乗せたご飯とおかずと汁を持ってくるのだった。そういえば中島は大衆食堂だったけど、ご飯につきもののお汁はすまし汁が多くて、味噌汁は朝か昼間の時しか出なかったような記憶がある。すましといっても薄い塩味のついた汁で、出汁は鰹節の10番出汁くらいでもろ化学調味料の味がして、具といえば素麺が4,5本浮いてるとか、金魚かフナが食べるような麩が浮いているくらいだった。あの汁はお替り自由だと聞いたが、僕が通っている間に汁のお替りをした人はいなかった。

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 その中島食堂だが、訪問した時は休業で定食屋というよりお弁当屋さんになっていたようだ。あそこで働いていた数多くの学生諸君はどこにいったのだろう。そして、確かR大学の学生だったと思うがちょっと背の低い、童顔のお兄ちゃんがいて、彼がいつも受付をしていた。中島で本名を名乗るのはおのぼりさん、あるいは粋が分からない野暮天という暗黙のルールがあって、そこでは佐藤さんと田中さんが仲良くサバ煮定食を食べていたり、関東弁を使う大橋君と関西弁ばりばりの藤本君が口角泡を飛ばしながら、レバニラ炒めにキムチをつけるかどうかで迷っているなどと言う光景が見られた。そういう訳のわからない客を相手に受付をしていたお兄ちゃんは、確か大学を留年してそのまま中島の社員になったと風のうわさで聞いたが、今はどうしているんだろう。もしかしたら、ビッグな経営者になって出世したかもしれんな、などと考えながらじっとわが手を見ていたら悲しくなってきた。ということで、河原町今出川まで出てきたが、ここから賀茂川を渡り出町の三角州を横目で見ながら、百万遍に進撃するのだが、すまん、もう眠くなってきたので続きはまた今度。

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コメント

男子D大生御用達の二本柱

懐かしかったです。王将の外観は、昔のままでしたね。あそこは、数ある王将の中の別格 KING OF 王将Sでしょう。当時のメンバーがいるなら入ってもよかったんですけどね。当時の私は、週にmore than三回行ってたかも。二階が出来てからは、団体で行きやすかったです。F田君は、酢豚を注文して 酢豚敏雄とか言ってたっけ。 なかじまは、いい加減な名前を名乗るのが 楽しみでしたね。私は 普段は 美濃部でしたが、団体の時は、凶悪犯シリーズとか 政治家シリーズとか 統一感のあるネーミングを 考えてね(笑)。外観の変わりようは 興ざめでしたな。休みで残念でした。私の友人も あそこで バイト(主にお運びさん)してましたが、しんどかったと 言ってました。

過去への旅路のご同行

ありがとうございました。デューク先輩とN谷君の3人で、出町から百万遍まで歩いている間、まるで学生時代に戻ったようでした。河原町今出川でキングは健在だったが、ラッキーが無くなっていたり、ひさご寿司も形が無くなっていたのは、少し寂しかったですが。

2日後に歩いたコースを自転車で、もう一度回ってみましたがハイライト食堂もあったし玉蘭もありました。京大生御用達の大衆食堂はやはり国から補助金があって、閉店・廃業はまかりならぬという通達が来ているんじゃないか、というのは炎天下走り廻ったせいで、頭が少しルイク状態だったのかと思います。

しかし、たかが2日半じゃ全然過去への旅路の制覇は無理ですね。近いうちにリターンマッチを行いたいと闘志を燃やしております(笑)。

 私も一番通った王将は出町かもしれません。餃子のただ券を消化するのに紫野店、下鴨店などあちこちいっていましたが、出町は独特でしたね。昔は店長が修行して店を開いている感じでしたが、今、奈良で見る王将はどこも大型店ばかりで、京都にあったような小さな店はありません。
 餃子、焼きめし、天津飯はどこでも食べても「王将より・・・・」と味の基準です。

王将より安いか、旨いか

あるいはマズイか(笑)というのが、確かに大衆中華料理店の基準になっていますね。さらに、王将の〇〇店より旨い、マズイって評価していませんでした。基本はフランチャイズだから、だいたい同じ味なんですがムースーロはどこが旨いとか、エンザーキの揚げ方はどこどこ店が旨いとか結構その地域に住んでる奴は、そこの王将の味方だったような気がします。

>京都にあったような小さな店

王将って基本はカウンターだけの店で、しかも椅子が固定式で長時間座るのに向いていないというか、新聞すら置いてなくて「おまーら、さっさと食ったら場所空けろよな」という空気が充満してましたよね。複数で行った時は誰かが食べていれば、横で水を飲んでいたり煙草をすっていたりできたけど、いや、そうじゃないか、次の客が入ってきたらどいていたもんな。多分30分以上王将で座っていたことは、コンパのとき以外は無いと思います。

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あははは、ハンドルネームで

バレバレですよ(笑)。入院前で落ち込んでるだろうと思って、バカな話の紹介メールをしたけど、大丈夫ですか。君も変わったかもしれないが、オレも挫折の人生をずっと送ってきて、相当ひねくれてしまった。あ、昔からそうだったか(笑)。それも、一回りして最近では昔のバカな体験を素直に受け入れられるようになったので、こうやってエントリーに書けるわけです。普段は忘れていることばかりなんだが、何かの拍子でひょっこり思い出すことが多いのだ。また、気が向いたらコメントください。
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