マーマレード興亡史 マーマレードな人達

 先月、ひょんなことから学生時代にやっていたミニコミ『マーマレード』が全巻手に入った(マス坊ありがとう!!)。懐かしく読み返しているうちに、故人になってしまった松原君の原稿を誰かに読んでもらいたいと思い、ちょうど彼が担当していた記事が、シリーズものだったので連続でアップした。当時まだ20歳になるかならないかの頃なので、表現にあちこち青臭いところはあるが、彼のロックに対する姿勢がはっきりと表れた良い原稿だったと思う。まだまだ彼の原稿はあるのだが、そもそも『マーマレード』というのは一体なんだったのか、それに関わったのはどんな連中だったのか、そのあたりの話を今回書いておきたい。こちらの記憶力も少々ヤバくなってきて、思い出せないこともあるのだが、創刊準備号から見直して書いて行こう。そうそう、このことがきっかけと云えるかもしれないが、20数年ぶりに今月末に京都に行くことにした。随分変わってしまっているだろうが、このまえ花の75年度生の1人であるPurple_Hazeさんが「変わったところもあるし、全然変わっていないところもある」なんて感想を書いていたので、僕もちょっと楽しみである。

 さて、ミニコミ『マーマレード』はいつ、どういう形で生み出されたか。正直、知らないのである。実は、僕自身は創刊準備号からスタッフとして参加しているものの、最初の立ち上げには参加していない。ただ、こうだったんじゃないかと想像は出来るし、それほど大きな間違いはないと思うが、如何せん、検証のしようがない。うーん、どう書き始めていいか困ってしまったので、要するに一番最初のメンバーは誰だったかというところから始めて見よう。

 マーマレードの編集長はMilkというペンネームの法学部の学生だった。M川君という木之内みどりが大好きな男で、同志社プロダクションというサークルに1年間所属していた。あ、このマーマレードがスタートした時、つまり77年には2回生になっていた。このM川君と松原君が友達というか、学部が一緒でクラスも一緒だったと思う。当時のサークルの力関係で言うと同志社プロダクションには活動家が多くて、文化団体連盟という上部組織の中でも結構ブイブイ言わせていた。当然、そこのサークルに所属しているからM川君も鼻息が荒かった。まだ彼らが1回生の時だった。僕が一人でサークルのBOXに居たら松原君が誰かと一緒に入ってきた。手には学食の定食のお盆を持っている。「あ、drac-obさん、すんません。こいつ同じ学部のM川と言って同プロのサークル員です」と松原君が紹介した。こちらは軽く会釈をしたが、M川君は知らん顔してBOXの壁の落書きなどを見ている。挨拶もしない態度のデカい1回生であった。そこでどんな話をしたかは覚えていない。僕の印象に残ったのは、人様のサークルに遊びに来るのに学食の定食をもってやってきて、挨拶もろくすっぽできない野郎という、もう二度と付き合いたくないタイプのやつだった。しかし、その後マーマレードの打ち合わせなどで話をして、親しくなっていくと誕生日にプレゼントをくれたり、細かな気遣いのできる、見た目以上にナイーブな男だった。

 そのM川君と高校時代からの同級生だったのが、ペンネームはネバネバライオンとかピクピクライオンとかやたらライオンに拘ったT田君。彼は広告研究会に在籍していた。この二人の出た高校は、あの偉大なる筒井康隆を生んだ高校である、ま、それを唯一自慢していたこのM川君とT田君のコンビは仲が良くて面白くて、二人は夫婦だという説もあった。いや、マジのモーホーの世界ではなく当然疑似モーホーであるのだが、確かにわがまま旦那のM川君に、甲斐甲斐しく尽くすT田君という場面は何度も見かけた。マーマレードの編集会議という名目でM川君のアパートで良く飲み会をしたのだが、この二人は中々に料理が旨くて、鶏のから揚げなんかをあっさり電気ヒーターで作ってしまうのだ。一人が鶏肉に衣をまぶして、もう一人が油で揚げる。お互いに「オレがやったほうが上手く揚がる」「いや、オレは隠し味がある」とか言いあうさまは、まるで子供がじゃれてる感じがした。

 大学2回生(今思い出したがT田君は一浪していたので学年は1つ下だった)にもなって大の男二人、異常なくらい仲がいいのだが、T田君に言わせるとMちゃん(M川くんのことをこう呼べるのはT田君だけだった。僕は大抵君付けで呼ぶか、呼び捨てにしていたが同学年の松原君や後述するK木君などがMちゃんと呼ぶと「お前にそういう呼ばれ方する覚えはない」と結構マジで反応していた)とは、高校時代1度離婚したという。よっぽど派手な喧嘩でもしたのかと思い、理由を尋ねてみたら、ある日の昼休み、T田君はその日クラスの当番で黒板の板書を消したり、ラーフルを叩いたり、おっとラーフルが分かるのは南九州オンリーだった、つまり黒板消しね、あれをぱたぱた叩いたり、そうそう、黒板消しを叩くときに窓から身を乗り出して校舎の外壁に叩いたりした経験はお持ちだろうか、そんなことはどうでもいいか(笑)、雑用があったのでM川君にお昼は購買部でパンを買ってきてくれるよう頼んだ。少したって、手に紙袋を持ったM川君が戻ってきた。T田君はにこにこしながら「Mちゃん、おおきに。オレの好きな焼きそばパンまだあったけ」と尋ねたところ、「え、お前の分はこうてないで」と一言。その言葉にカチンときたT田君は「オレさっき頼んだやんけ」とちょっとクレームを言うと、「そんなん知らん、それより早くいかんとパン売り切れるで」。その言葉を聞いて頭に来たT田君は、その後高校を卒業するまでM川君と口をきかなかったという。もっとも、この話は毎回編集会議、つまり飲み会の度にT田君が「こいつはひどい奴や」という例えで出すのだが、肝心のM川君は「それは何かの間違いや。オレは何度もお前のためにパンを買いに行った」と走れメロスのようなことを言い出すので、まあどっちもどっちだったんだろう。ちなみにT田君は経済学部だった。

 そして、以前の記事に少しだけ登場したが大牟田出身のK木君。ペンネームは「どんぶりくん」。もっとも一番最初は「ちびろく」というペンネームを使おうとしていた。要するに当時のインスタントラーメンの名前である。「ちびろく」というのは阿佐田哲也の名作『麻雀放浪記』の青春篇に登場する名脇役のことではない。あれは「チン六」だ。ええと、要するに袋入りラーメンなんだけど、いわゆる1人前は多すぎる子供用に普通サイズの2/3くらいの麺が6個入っているので「ちび(なラーメンが)ろく(個入っている)」という意味で「ちびろく」だったのだろう。結構インパクトのある商品で、テレビコマーシャルも「僕はちび1、ママはちび2、パパはスゴイ、ちび3だ」などと、後年ハウス食品だったか「僕食べる人、私作る人」というのが男女ベサツだと問題になった事件もあったが、それに近い感じもしないでもないCMだった。

どんぶりくん

 ただ、この「ちびろく」、最初は重宝して買い込んでいたのだがどうもコストパフォーマンスが良くない。どういうことかというと、普通食サイズの「ちび2」だと少し物足りない感じがして、ついつい「ちび3」で作って食べることが多くなる。そうすると、たった2回で1袋のラーメンが無くなってしまう。「ちび2」で食べていけば3回、要するに1日3度の食事は「ちびろく」で済ませることが可能なのだが、「ちび3」に慣れてしまうとそれが出来ない。思い切って、朝は「ちび1」にすると昼おなかがすいて「ちび3」食べてしまう。夜はなんといってもメインディッシュだから「ちび3」にキャベツでも刻んでサラダと一緒に食べるなどとやっていくと、あれどうしたのか、買い置きの1袋では足りなくなる。そこで考えたのが朝を「ちび3」にして昼を「ちび1」にしたらどうだというとサルどもは大喜びした、このことから「朝三暮四」ということわざが、こらこら話が全然違う方向に行ったではないか。脱線ついでに、この「ちびろく」問題をどのように克服したかを書いておく。あるときインスタント焼きそばが食べたくなった。食べたくなったが部屋にはインスタントラーメンしかない。じゃ、お店で買ってくればいいかというと仕送り前の金欠病で悲しいことに手元にはハイライトを買う80円を残しているのみ。

 どうするか、我慢してインスタントラーメンを食べるべきか。いや脳内はすでにウスターソースの焦げるにおいが充満していて、焼きそば・ボンバ・イエ、という感じなのだ。さあ困った、こまった。『困った狸は目で分かる』という高知の格言を唱えながらインスタントラーメンの袋を見ていたら、閃いた。インスタント焼きそばもインスタントラーメンも麺は同じ工場で作られているフライ麺ではないか。これを沸騰したお湯の入った鍋にぶち込んでぐつぐつ煮ればラーメン。フライパンに少量のお湯を入れて、そこに麺を投入し水気を切ったら焼きそば。なんとこのラーメンと焼きそば、実は兄弟のように良く似ている。味付け、味付けはウスターソースがあるではないか。このニュートン的大発見により僕は1袋のインスタントラーメンから焼きそばを作り、ラーメン用に入っていたスープの素に野菜やありあわせの具をぶち込んでチャイニーズスープ、あなたのためにチャイニーズスープ、今夜のスープはチャイニーズスープと軽くユーミンを鼻歌で歌う食生活が生まれたのだ。以上、前も書いたことがあるけど1袋のインスタントラーメンで充実した食生活が送れる話は終了。話を大急ぎで元に戻す(笑)。

 えー、そのK木君も一浪していたので、年齢は僕と一緒なのだが学年が1つ下、つまり松原君と同学年になる。このK木君は、僕のいたサークルに松原君とほぼ同時期に入って来たのだが、半年くらいしたらさっさと辞めてしまった。そのくせ飲み会だとか麻雀とかの遊びになると臆面もなく登場する。まあ悪気はないのだが、研究会とか肩ひじ張ったことが嫌いだったのだ。もっとも彼がサークルに来なくなり始めたのは、同じサークルに彼女が出来たせいでもある。別段、年頃の男女なんだから付き合っても何も問題ないし、オープンにすればいいものを何やら陰獣的な付き合い方で、BOXに人が来たら急に離れるみたいな、なんていうのかな、ちょっとアレな感じ。などと書くとK木君も怒るだろうな(笑)。要するに彼女のいない連中ばっかりだったので、からかわれるのが嫌だったのもサークルを辞めた理由の一つかもしれない。松原君とは音楽的な好みははっきりと分かれるのだが、相性がいいというか良く二人で中古レコード店や輸入盤店なんかにいって戦利品を競い合ったりしていた。

 こうやってマーマレードの初期スタッフのことを書いていると一つの共通点があることに気がつく。それはメンバーそれぞれが、サークルに対して一種の失望というか幻滅した経験があるということだ。M川君は同プロの次世代を担う活動家として、かなり期待されていた。特に直接の先輩であるT井君からは「オレの二代目や」とかなり目をかけてもらっていたにもかかわらず、1回生の終わりにはサークルを抜けている。このあたりの理由を何度か聞いたがはっきりとは答えてくれなかった。ただサークルを抜ける際に相当大変だった(暴力とかそういうことではなく、何故辞めるのだ、逃げるのかという理論的な部分で)らしい。松原君もK木君も僕のいたサークルに76年の新入生として入って来たものの、自分たちでやろうとしたサークルの会報作りも上手くいかず、新しいイベントを企画しようとしたら理解の無い先輩(オレじゃないよ、笑)から時期尚早と反対されたりして落ち込んでいた。松原君はただ音楽を聴いてその感想をいいとか悪いとか言ってるだけじゃ何にも始まらないと再三研究会で発言したが、残念ながら同調する人間がいなかった。そういう彼らの思いを何とか形にしようとして、夏の合宿で僕がサークルの会報を作ることを提案し、編集スタッフとして松原君を抜擢したのだが、僕自身の根気の無さからついに会報は完成せず、それも一つのきっかけとして彼はサークルを辞めた。

 T田君と僕はサークルに在籍したままでの参加であったが、所属しているサークルの活動が本当に充実していたらわざわざミニコミ作成などと言う手間のかかることは始めなかったと思う。やはり、日々の活動に一抹の物足りなさを感じてはいたんだな。

 おっと、それともう一人偉大なメンバーを忘れるところだった。拙blogに何度も登場している偉大なるF田敏雄君である。一体全体、どうして彼が最初のミニコミスタッフに参加していたのか。そして創刊準備号にも創刊号にもPUBLISHERとしてクレジットされていたのか。彼は創刊準備号に「HOBO CITY」というジャズの軽薄化を厳しく糾弾する(笑)記事を1つ書いたきりで、編集会議にも1度も顔を出したことが無かったし、それ以降一切記事を書くことは無かった。本人いわく断筆といっていたが、断筆もへったくれも彼がその手の原稿というか文字を書き連ねることは、このミニコミの前も後も一度もなかった。今考えてもなんとも不思議であった。

 ひとつ、それらしい理由がある。当時松原君が住んでいた下宿は北白川にあったが、実はそこはF田君の遠い親戚が経営していて、そもそもF田君の紹介で伊東荘という名前のその下宿に入ったいきさつがある。同じ下宿にはもう一人S戸君という、僕と同学年、つまりF田君とも同学年の男が住んでいた。同じ下宿に同じサークル(もっともその時点では松原君はサークルを辞めていたかもしれないが)の先輩後輩が住んでいたわけだから、いろいろ話をすることがあり、要するに実務能力はからきしないのに、妙に貫禄があり大人びたところのあるF田君を持ち上げて、ミニコミを立ち上げる最初の関門、つまり資金作りに上手く活用したのではないか。もちろん、出資して配当があるなんてものじゃないので、同人としての費用負担をしてもらう分、名誉職として持ち上げたのではないか。何しろ見事なくらい、その後原稿も書かないしミニコミ運営にかかわってこなかった。編集会議という飲み会にも参加しなかった。

 と、まあ、こういうメンバーが、それでも自分にとってロックとは何かとか、多くの友人との交流形態の獲得を求めてとか、相互討論相互批判相互浸透を通して新たな関係を構築しようとか、七面倒くさいことをああでもないこうでもないと云いながら始めて行ったのだ。さあ、この後どうなっていったのか。続きをどうするか、今日はもう遅いから改めて考えてみたい(笑)。



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松原君の通夜で会ったK木君、全くと言う位、当時と変わりありませんでしたよ。ハゲではなく、マッシュルームと言うか、おかっぱみたいな髪型で、白髪もそんなに進行しておらず、あの口調も一緒で。その数年後 再会した時も同じでした。私は、ハゲのデブです。乞うご期待(笑)。

以前、彼が住んでいた岩倉の

「おたび荘」のことをちょっとエントリーに書いたら、そこに実際に住んでいたという人からコメントを貰ってびっくりしたことがありました。なんと「おたび荘」は当時はまだ新築の名残があって、結構学生も多くにぎやかだったとか。僕はほんの数回しか行ったことが無いので、ほとんどきおくにありませんが、その名前が独特だったので忘れられません。そういえばM川君は今結構エライサンになっています。実名で検索したらヒットして、これまた驚きました。
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