マーマレード興亡史 松原健遺稿集その2

 前回、マーマレードの創刊準備号、つまり記念すべき処女航海の第1号に掲載された松原君の『シリーズ・日本のロック・アルバムを追って その1 村八分』をアップしたところ、同時代に彼と付き合いのあった先輩のデューク中島氏と彼と一緒の隊列を組んでいたguevara129さんのお二人から、僕も知らなかった彼のエピソードをコメントで頂いた。そのほかにも拍手でシンパシーを示してくれた人たちがいて、実にうれしかった。本日は、第2弾をアップします。その前にお詫びと訂正。前回の記事の最後に、次回登場するのは「漢字四文字」のあのバンドと予告しましたが、それはまだ先で、本日は何と意外な豊田勇造です。この原稿を書いていた頃、松原君は北白川の伊藤荘という下宿に住んでいました。木造2階建ての下宿で京大生と同大生が半々くらい、確か20人近く入居していたと思います。その伊藤荘に拙blogによく登場するF田敏雄君とS戸君という2人の人間がいるのですが、そのうちの1人であるS戸君が、今回の豊田勇造に外見がそっくり。これは僕達だけではなく、あの中山ラビもS戸君と豊田勇造を間違えたというウソのような本当の話もあります。多分、この原稿を書いていて行き詰った時はS戸君の部屋に行き、彼の顔を見ながら再度気合を入れなおしていたのでは、と勝手に想像しています。それではどうぞ。

シリーズ・日本のロック・アルバムを追って その2
『さあ、もういっぺん』 豊田 勇造

 ジャケットがいい。このアルバムの主役である勇造が暗闇の中で斜め下方30°を見つめている横顔のアップである。『民青』や『自衛隊』なんかのポスターで、りりしい若者がまるで『希望の明日』を見つめるといったふうに彼方の大空を眺めているのとは雲泥の差である。これは即ち『これからもっと寂しくなるだろう』とうたう彼の現実に対する認識そのものなのであり、『60年代』という一つの時代を自己との関わり合いにおいて真摯に生き抜いてきた彼の現在の姿勢なのである。そして、たとえ直体験としての『60年代』を持たぬとしても、彼とその時代を共有することによって『今』を、そしてこれからの『未来』をともに生きようとする意志のない者は彼の歌など聴かなくてもよいし、僕のこの文章も読まなくてもよい。

 豊田勇造、彼は世間一般にはフォークあるいはブルース・シンガーとして評価されている。そして、生ギター中心に淡々とうたわれているフォークという音楽形態は、その表現が表現者自身に対して保守的である、とはロックの側からしばしばされる批判である。確かにそれは正しいし、うたの『肉体』としてのサウンドを持たぬフォークの本質的な脆弱性といったものは、かつての反戦派フォークシンガーの多くが運動の退潮とともに反動的とも云える転換を行ない、四畳半フォークや短絡的な自然回帰へと堕してしまったことでも証明済みである。

 だが、同じようにフォーク・ゲリラなどの活動を経て、今、『俺の牢獄がギターなら…』と敢えてうたう勇造の場合、それは当てはまらない。彼のステージの圧倒的な迫力や歌詞とメロディーとギターの音との相乗効果による独特のノリなどは『フォーク』や『ブルース』の域を大きくはみ出している。何故、『日本のロック・アルバム』に彼のレコードを、と思う人もあるかもしれない。だが、たとえ音楽形態としてはロックでなくとも、このアルバムは誰が何と云おうとも『ロック・アルバム』なのである。そして、そんな彼のレコードを、既成の独占(ブルジョワ)音楽産業に頼ることなく、更にはそれへのアンチとして表現メディアの奪還のため録音し制作し販売までを自主的に敢行し、これほどの出来映えのものにした彼とスタッフである『クリエイティブ・アクションズ発見の会』の方法論を断固支持したい。

 ギター・ピアノ・ハーモニカ・歌の全て豊田勇造自身によるAB面9曲のうち、最も古い作品が71年6月の『行方不知』である。そして、この『行方不知』こそが現在の彼の歌の原点なのである。京都ベ平連やフォークゲリラの活動を通じて運動の渦中に身を投じていった彼。個としても自立した主体による自由なコミューン的結合体としての『全共闘』という運動形態を生み出した教育学園・70年安保諸闘争もその独自性を存分に発揮出来ぬまま、いや、むしろ、それが出来なかったが故に明らかな敗北を迎えざるを得なかったことを、彼は鋭敏に感じとる。(※以下20数字削除)。そして、彼はより拡がりのある寛容さと柔軟さにみちた運動への模索の道を歩み始める。『選ぶことが捨てることでないようにするにはどうすればよい…』とうたう彼はやがて、『全てよ歌い手となれ』という答えを見つけるのである。僕らが全て自らの歌い手となるまで、勇造はうたい続けるだろう。

 『俺はちっぽけな男で結構、裏切り者と呼ぶがよい』とうたわれるこの歌をよくある『転向』の歌だと解する人がいるかもしれない。だが、メシも食えばナニもする、人を愛しもすれば憎みもする人間、そのような認識からしか『革命』などあり得ないし、またそのような人間こそが『革命』を必要とするのである。エセ反体制フォークなどはこの歌一つの前に、こなごなに砕け散ってしまう。

 A面冒頭の『ワルツを踊ろう』には勇造の愛する女への『優しさ』がうかがわれる。『優しさ』は『甘え』などではないし、主体性のない、いい加減さとも無縁である。ここでも『お前と幸せに狂いたい』『離れ島から監獄からうたおう愛の歌』などの歌詞に、彼の厳しい現実に対する眼がうかがえる。



 『大文字』は72年8月16日京大グラウンドで行われた三里塚幻夜祭でノリにノッたウェスト・ロードのあとにステージに立ち、聴衆の罵声を浴びたときのことをうたった歌。『さあ、もういっぺん、さあ、もういっぺん…』。挫折とはそのたびに新たなる出発なのである。

 『行方不知』以降、日常的営為と関わりの中で自らの『闘い』として歌をうたい続けてきた豊田勇造はやがて一つの頂点に達する。彼の最もよく知られる代表曲『ある朝高野の交差点近くをうさぎが飛んだ』がそれである。二日酔いの頭のガンガンする朝、比叡山のすそ野の見える窓の外を眺めていると、突然一匹のうさぎが視界を横切る。そして、うさぎとの対話のあと、残ったものはいつもどおりのちっぽけな自分と、たった一つの小さなメロディー。



 人間が生き続ける限りどうすることもできない孤独感、人間とはその存在そのものが本質的に『ブルース』なのである。だが、そのような孤独感を抱きながら『内なる世界と外なる世界の果てしない国境』にたつとき、それは一変して世界への『愛』に転じる。『もどらなくなったピアノのキーにも生命はある』とうたわれるように、それは全ての生命あるものへの『愛』なのである。政治情況に対しても彼は、『力を失った方向と方向を失った力よ、仲間割れを起こすな、暗い部屋の中』と持ちまえの『優しさ』で対応する。

 個的な孤独感が世界への『愛』となるとき、彼は朝の光の中で一匹のうさぎとなり、世界の果てにまでも風とともに融けこんでいってしまう。気負いたった『自我』なぞ消えうせろ、寂しさと名のついた『自由』なぞ裂けてしまえ。この歌は『悟り』の歌などでは断じてない。これからが『始まり』なのである。そしてミシシッピー川へと僕らを運ぶ『市電』がなくなり、地の果て田辺(※2)へ行く『地下鉄』が完成されようとしている今、僕らの見えないもう一つのレールはどこにあるのだろう。

 今年(注:1977年)の夏に出た拾得でのライブ・アルバム『走れアルマジロ』でも、勇造はそれを探し求めてますます力強く歌い続けている。
(マラっ子)

 P.S.これを書く上でアルバムの大変詳しい解説がとても役に立ちました。未だ収支が赤字らしいので僕の拙文を読んで興味をもった人は是非レコードを買いましょう。
 ※2田辺-京都の某私立大学が当局による教育の帝国主義的再編のため、移転を予定している現代の人外魔境。建設中の地下鉄烏丸線と近鉄奈良線の連結で直通になる。


 前回の創刊準備号は77年の10月くらいに準備を始め、11月の終わりにあちこちの喫茶店やライブハウス、書店などに置いてもらった。そして、この創刊号は1月に発行している。つまり前回の発行後立て続けに原稿を書いて、印刷して製本も自分たちでやりあちこちに配本と言えば聞こえはいいが、要するに新規開拓をしていた頃だ。松原君の文章力は一気にアップしているのが良く分かる。途中の「※以下20数字削除」の部分は、最初、とある「革命」党に対する批判が書いてあったのだが、この原稿を僕に読ませて載せるべきかどうか相談を受けた。完全に削除するんじゃなくて、上から塗りつぶす、ちょうどポルノに墨が塗られるようにしたらどうだというのが僕の提案で、彼は彼を知っているすべての友人たちの記憶にあるちょっといたずら坊主みたいな笑顔をして「それええな」といって採用した。こんなつまらないことも思い出した。

 この創刊号では、「大特集 激突 ニュー・ウェイブV.S.クロス・オーバー」というテーマで、彼はクラッシュの原稿を書いている(ちなみに僕はピストルズ、もう一人大牟田出身のほっぺたの赤い男がジャムについて書いている)。また僕と二人でロンドン・パンクの対談(正確には筆談、一人が文章を書いたらそれを渡し、もう一人はそれを読んで返事を書いてそのまま渡し、そして、という感じで行われた)をやっている。次回はそちらを、とも思ったが、やはり『日本のロック・アルバムを追って』シリーズをアップしたほうが連続性もあり良いと判断して、いよいよパンタとのインタビュー話が登場予定です。

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コメント

色々思い出す伊藤荘

残念ながら もう存在してないそうですね。彼の部屋は 一階の道路側だったし、木枠のガラス窓も 閉めてない事が多かったから 上がってドアをノックするより 窓を開けて、居たら 窓からレコードとか荷物を入れて、手ぶらで 上がってましたね。京都を去る時、彼の部屋に置きっぱなしにしていた 私の白いフォークギターを「要るかい?」と聞いたら「要らない」の答えだったから 伊藤荘の門柱に バッティングみたいに横向きに叩きつけて割りました。京都とも これでおさらばだって思いで。数年前、彼の真ん中の弟さんと話した時、酒飲んで 伊藤荘に雑魚寝した事があったけど、あの時一緒にいたのが町田だったなあと言う話になりました。まさか後に芥川賞作家になるとは思わんわな(笑)。

おお、まるで青春映画のワンシーンみたいな

情景が目に浮かびますね。粉々になった白いギター、共同のごみ置き場に投げ込まれ、その無残な形に一瞥もせず立ち去るリクルートカットの男。最後に大きくアップされる伊藤荘、誰か映画にしないかな、しない罠(笑)。

>酒飲んで 伊藤荘に雑魚寝
これ覚えています。サーカスでライブが終わった後に、終電に間に合わないからバンドを泊めてやるんだけど、松原君の部屋では狭すぎるので僕の出町のアパートにも何人か泊めてくださいと頼まれたんですね。それで、その日僕もサーカスでライブを見て、まだ高校生だった町田とメンバー、さらにカメラマンの人と僕と松原、総勢6人で伊藤荘に行きました。カメラマンの人が「いけるいける、この広さやったら皆ここで寝れる」というので、僕は頃合いを見て引き上げました。

翌日、松原君がげっそりした顔で僕のアパートに来て、「やっぱdrac-obさんのとこに2人くらい頼めば良かった」などというので、「いびきか歯ぎしりのひどい奴でもいたのか」と聞いたら「ちゃう。あのカメラマンのオッサン、もう30過ぎてるのに元気いっぱいで話が止まらんのですわ。結局、皆ほとんど寝てないんちゃうかな。町田は学校で寝るからいいとか言うてました」。なんてことがありました。実は、僕はその時初めて町田と話をしたのですが、突然正座して「町田と申します」などと丁寧にあいさつするので、こちらも正座して「××(本名です)と申します」とあいさつを返して、いろんな話をしました。何故か美術の絵の具入れを持っていて、そこに『町田町蔵』と大書してあったのを良く覚えています。

 前回の記事と違い、この文には記憶がありません。マーマレードはきっと買っているとは思うのですが・・・。でも、このアルバムは京都を離れてから、何かの機会に買い、持っていましたし、この記事がすりこまれていたのだと思います。
 今も音源があるので時々聞きます。
 3年前の豊田勇造、60歳、6時間、60曲というむちゃなコンサートで「行先不知」を勇造が歌った時、体がしびれたようになってしまいました。まわりにいたのはおじさん、おばさんばかりでしたが涙ぐんていた人がたくさんいました。

豊田勇造、幾つになっても元気です

70年代から、この行き止まりの2010年代まで常に表現者として、もちろん山あり谷ありというか、どちらかというと売り上げ面では谷の時が多かったと思いますが、諦めたり日和ったりせず、一貫してますね。まさしく、持続する意志に注目せよと言いたくなります。しかし、田辺についての注釈はいかにも彼らしいでしょ(笑)。
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まとめtyaiました【マーマレード興亡史 松原健遺稿集その2】

 前回、マーマレードの創刊準備号、つまり記念すべき処女航海の第1号に掲載された松原君の『シリーズ・日本のロック・アルバムを追って その1 村八分』をアップしたとこ

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