罠のような午後、てか罠にはまった午後



朝から無性にあんかけ焼きそばが食べたくて、以前は良く行ってた中華料理屋に顔を出した。かなり空腹だったので、大盛りを頼んだら店の大将から、『うちの大盛り頼んだら大変なことになる』とおどかされ、根が小心なワタクシは、慌てて中盛りに訂正。それでも、大将の顔には不安の色が濃い。

しかしながら、根が小心のくせではあるが、すぐに怒るパンクな性格のワタクシ、今度は一歩も引かず、安保法案断固粉砕、中盛り焼きそば断固支持のシュプレヒコールをカンテツ。待つことしばし、写真のようなあんかけ焼きそばが出てきた。皿が大き過ぎて、カウンターからはみ出すくらいある。

意地で食った。頭の中で泣いてたまるかの主題歌が流れ続けた。そして、何とか完食。胃に血液が集まり過ぎて、やや貧血気味。腹も身の内とは、けだし名言、いや格言である事を痛感した、サタデーアフタヌーンであった。






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告井軍曹ライブレポ 間違いなく、その2

 『早く始めたら、早く終われるからね。この店は9時半に出ないといけないんですよ。10時だと思っていたんだけど違うらしい』と告井軍曹が、休憩を挟んで再度ステージに上がってそう話した。そうなのだ、この平和台公園は、夜10時になるとチェーンで施錠され、出入りができなくなるのだ。それは何故かというと、ひところやたら珍走団が出没して周囲の人たちに迷惑をかけたからだ。この平和台公園は頂上の駐車場まで長いカーブが続く一本道(by 友部正人)なので、面白がってボーソーするヒーハーが、いやミーハーが夜になると雲霞のごとく集まってきて、駐車場一帯を占有して、さらにはものすごいスピードでカーブを曲がりきれず自爆ならいいけど人様の土地や建物を破損するなどという事件も続き、ついにお上も堪忍袋の緒が切れて、夜10時以降は車両の出入りは一切禁止、つまりこのライブも9時に終わらせ9時半にはお店を出ていかないとそのまま一晩公園の中に閉じ込められてしまう。まあ、僕はシュラフを携帯しているから別にそうなっても大丈夫だが、ん、何故、車にシュラフを積んでいるか。それは簡単、人生何があるかわからない、備えあれば患いなしというじゃないか。別に家から追い出されることが多々あるからではない。断じてない。

 『WCに行ってる人は、WCで聴いてくださ~い』という本気とも冗談ともつかないMCの後、演奏したのは「Norwegian Wood」。その昔、「ノルウェーの森」というタイトルでクレジットされていた曲だ。シタールの独特の音色とジョンのけだるげなボーカルが印象的な曲だった。歌詞も「Norwegian Wood」を「ノルウェーの森」と訳したら、さっぱり意味がわからないというか実にシュールな感じになるが、なに「北欧産の家具」とか「材木」と訳すと実にシンプル。「あんたといいことしたいから美術館に火をつけるよ(by P-Model)」くらいの話だ。演奏はそのまま、ジョージの名曲「サムシング」に移る。オリジナルではジョージのギターよりも、ポールのリード・ベースともいうべき躍動感あふれる歌心あふれる演奏が素晴らしいが告井軍曹、それを完全に再現してくれる。特に間奏のところのベース・ラインは泣けたね。



 『それではリクエストを取ろうかと思います。リクエストタイム』と嬉しいMCが入る。さあ、何をお願いしようか、「イチゴ畑」はどう弾くのか、いや思い切ってハードな「へルター・スケルター」なんかどうだ、いやちょっと待て、やっぱりギターなら「ホワイル・マイ・ギター」だろうが、いや「ミスター・カイト」なんかも斬新な解釈をしてくれるかもしれないなどと考えていたら、誰かが「ハイ」と手を挙げて「レディ・マドンナ」をリクエストした。そういえば、まだチューリップがそれほどメジャーになっていないとき、たしか、「心の旅」がヒットしたことを祝って所属していたレコード会社がアビー・ロードスタジオで録音するという機会を与えてくれた。そのスタジオでメンバーがセッションしていたら、ポールが「よぉ」と声をかけて入ってきたので、一緒に「レディ・マドンナ」を演奏した、なんて財津のエッセイを読んだ覚えがある。ピアノで始まる曲というイメージが強いが、なんの何の、我らが告井軍曹はギター一本でさっそうと弾いてくれる。演奏が終わり『はい、もう曲名だけ言っちゃってくれていいよ』という軍曹の言葉に誰かが「マザー・ネイチャーズ・サン」と答えた。いいセンスだな、誰がリクエストしたんだと周りを見渡したらオレだった。などと書くと嘘みたいだが、本当に夢を見ているような感じがだったのだ。僕のほうを見た告井軍曹は何故か『ちゃんとやるから』と一言付け加えてギターを弾き始めた。勝手な想像だが、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」のクラップハンドに答えてくれたんだと確信した。ホワイト・アルバムにはポールがギター一本で歌っている曲がいくつかあるが、その中でも一番好きな曲だ。メロディも詩もいい、実にいい・。学時代はニルソンの『Harry』に収録されている同曲をよく聴いた。あのアルバムは雨の日の修学院に良く似合った。などとちょっと気取ってみる。



 「ルーシー・イン・ザ・ダイアモンド」と誰かが叫ぶ。『ああ、「ルーシー」か。最近やってないから指が覚えているかな』と告井軍曹は答えるが、なんのことはない、原曲のあの幻想的なイントロがギターで再現され、一気にサイケデリックなジョン・レノン・ワールドが展開されていく。そして、このライブで初めて、一瞬指が止まる瞬間があったが、当然、そんなもの何食わぬ顔で我らが軍曹は演奏を続ける。今度は「タックスマン」と声がかかる。もしかしたらリクエストしたのはモダーン・レコードのボーカルの人だったかもしれない。『タックスマン、税務署のことを歌った歌です。「税務署のやつがオレにこう言う。お前に5%やろう、オレは95%持っていくよ」という歌です。ビートルズは税金を所得の95%取られていたんですね。こういうフレーズから入ります』と、あの独特のイントロを弾く。『ギターが入ります』、うーん、完全コピーですね。いったいどうやって弾いているのか、ギターをやってる人は必至で運指を見るだろうが、残念ながらギターはFの悲劇を克服できなかったオレだ。奏法なんかどうだっていい、いかに楽しめるかだ。しかし、ギターど素人のワタクシでも告井軍曹の凄さは分かる。わかりすぎるくらいわかる。

 『じゃあ、イギリスで一番リクエストの多かった曲をやります。期せずして今やった曲は「リボルバー」というアルバムの1曲目なんですが、その2曲目に入っている曲です。』こういって「エリナー・リグビー」を弾き始めた。僕はへー、というかフーンというか、英吉利人というのはよくわからねえなぁ、なんでまた「エリナー」が一番人気なんだと考えながら聴いていた。すると実に痛快な裏話を話してくれた。『何故この曲のリクエストが多かったかというと、この曲は弦楽四重奏のみの演奏で、そこでポールが歌っています。ほかのメンバーは一切演奏も歌も参加していません。そういう曲をいったいどうやってやるんだと、そういうことですね。「君はさっきからビートルの曲を演奏して面白いけど、こういうクラシカルな曲はできるのかね」、という意味ですね。そういうリクエストの仕方、いじめようと思ったのかもしれないです(苦笑)。ビクともしません(笑)。こんな客もいました。” Eleanor Rigby”というので” Eleanor Rigby?”と聞き返すと”OK,OK,Tomorrow!”ていう。「明日でいいよ」つまり「(この曲は演奏)出来ないでしょう?」という意味ですね。僕はちょっとカチンと来て、”Not Tomorrow,Tonite!!”と言って演奏しました。拍手をたくさんもらいました』。



 さすがは我らの告井軍曹、英吉利人の見くびった発言に対して演奏で切り返す、サムライなんだ、と胸のすく思いをしていたら曲は初期の「キャント・バイ・ミー・ラブ」になった。思わずクラップハンドで参加してしまう。しかし、間奏部分がちょっとおかしい、いつの間にか♪う・わ・さを信じちゃいけないよ、あ・た・しのこ・こ・ろ・はうぶなのさ~に変わっている。客席にちょっと笑いが走った。演奏が終わり曲名を言った後に解説が入った。『山本リンダって実はポールと凄い深い関係があるんです。ポール・マッカートニーの最初の奥さんは、リンダ・イーストマン。リンダつながりだったんですね』。僕は大うけしたが、客席は苦笑って感じだった。そうそう、このライブを見に来ていたのは、多分、このお店の常連さんだろうと思うが、自分自身もバンドをやっているという人や、その昔ウッド・ストックっていう愛と平和のイベントがあったのよ、そのころから私たち一歩も変わってないわと主張したいのだろうなと思われる人。まあ、俗にいうヒッピー崩れ(失礼)みたいな人。そして、どういうわけか若い、多分、20代だと思われる男女。総じておとなしいんだよね。アルコールを飲んでいる人がいなかったせいもあるかもしれないが…。

 『次は何をやろうかな、じゃB面シリーズ行きましょう。あんまり有名じゃない奴』というMCに続いて「アスク・ミー・ホワイ」を弾き始める。ビートルズのセカンド・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」のB面曲だ。多分、「プリーズ・プリーズ・ミー」も最初はこれくらいの店舗だったんだろうな、ということを先ほどの告井教授(当然、この場合は軍曹ではない)の話から想像してみた。しかし、最初期のビートルズもすでにビートルズだったんだということを確信させるメロデイとサウンドである。こういうバラードも平気で歌えるジョンはやはり天性のボーカリストだったと思う。続いてのB面曲は「イエス・イット・イズ」。「涙の乗車券」の裏側に入っていた曲で、長らく日本とイギリスのアルバムには収録されてなかった曲だった。『パスト・マスターズ』とか『レアリティーズ』なんかに収録されたのが最初じゃなかったかな。作曲したジョンはこの曲を大嫌いだといい、ポールは素晴らしい曲だと言ってるようだ。僕はポールの意見を支持したい。

 「アイ・コール・ユア・ネーム」が次に演奏された曲だ。しかし、B面シリーズといっても僕もビートルズを聴き始めたのは解散直前のころからで、ほとんどの楽曲を後追いで聴いているので、あんまりシングルB面ってイメージはない。もっともシングルB面イコールダメな曲という公式はない。逆にB面にこそ、そのバンドやミュージシャンの個性が出ているものも結構あったと思う。まあ、「アメリカン・パイ」や「アイルランドに平和を」のB面は勘弁してほしかったけど。シングル「のっぽのサリー(ロング・トール・サリー)」のB面だけど、この曲のほうがA面より良くできていると思うのは僕だけだろうか。さらに続けてもう1曲バラードを演奏した。



 『「ティル・ゼア・ワズ・ユー」、今日やった曲の中で、この曲だけがビートルズのオリジナルではありません。それでは、最後、今日はこの曲で閉めたいと思います』。最後の曲になってしまった。あっという間の100分間。最後に聴かせてくれたのは「ヘルプ」。この曲も本当はもっとゆっくりしたテンポで切実に歌いたかったが、ヒットさせるためにアップテンポにアレンジしてしまったので、歌の意味が損なわれてしまったと後年ジョンがインタビューで話していた曲だ。演奏が終わり、熱い拍手の中でアンコールが始まった。

 『今、自分に感心しています。何に感心しているかというと、9時に終わってくれと言われていたんです。なんと今9時丁度なんです。これ何時計っていうのかな、腹時計じゃないよね。さあ、それでは、じゃあ歌を歌います。さっき言ったセンチメンタル・シティ・ロマンスというバンドをやっていました。一昨年、僕は卒業しましてですね、今はやっていません。ほかのメンバーはまだやっていますが、「夏の日の思い出」という曲をやります』 。驚きの発言、僕はまだ告井さんはセンチのメンバーだと思っていたけど、2年前に辞めていたんだ。知らなかった。でも、このライブでセンチの曲が聴けるとは思わなかった。これも最初の、モダンレコードのボーカルが紹介したおかげかもしれない。「うちわもめ」じゃなかったのは残念だったが、告井さんが弾き語りで歌うセンチの歌は、文字通りセンチに響いた。夢の時間が終わった。



 ライブが終わり、告井軍曹のCDが売られていた。僕は2枚目のものを買った。リクエストしたマザー・ネイチャーズ・サンも入っている。そして、そのCDにサインをもらい、その時に告井さんにセンチを辞めたのは本当かと確認した。残念だが、事実だった、もっとも今はギター一本でこのSgt. Tsugei’s Only One Clubの活動で忙しいんだろう。後日、坂崎幸之助のラジオ番組の中で、年間100本ツアーで回っていると、もっともこれは3年前のラジオ番組の録音なので今はもっと本数は少ないかもしれないが、この一人ビートルズを続けることとセンチの活動の両方は大変なのかなとも考え納得しようと思った。帰りの車の中でサインしてもらったCDをかけながら自宅に車を走らせた。やはりCDなので音は抜群にいいし、曲も演奏も最高なのだが、ライブにはそれ以上の発見がある。やはり音楽は生き物(ライブ)なんだとつくづく思った。さあ、君の町にも告井軍曹がやってkるはずだ。見逃すな、聴き逃すな、Life is very short and there's no time For fussing and fighthing my friends!!

告井軍曹ライブレポ たぶんその1

 あれは、もしかしたら何かの予兆だったのか。4月にたまたま見ていたテレビに告井軍曹の顔がアップで登場。なんと95年のハイジャック事件の飛行機に乗り合わせていて、彼が警察に通報したことが事件解決に結びついたことにも驚いたが、実はその時は加藤登紀子のバンドでツアーに出ていたことにも驚いた、なんてショートエントリーを書いた。そして、それから2か月後、日曜日の新聞で告井延隆ソロコンサートの記事を見つけた。行きたいなと思ったが、5月もジャズのライブに2本行ったし、6月もこれから見に行く予定のライブが2本あった。時間は何とか調整がきくが、予算がな~、ちょっと厳しいよな~~みたいなことをFBにアップしたら、サークルの後輩が絶対見たほうがいい、今見ないと損しますとプッシュしてくる。うーん、ライブは一期一会。よくよく考えてみたら、多分、センチメンタル・シティ・ロマンスとして宮崎でライブをやったことはないだろうし、今後、そのようなライブイベントがあるとも思えない。また今回のライブは、Sgt. Tsugei’s Only One Club Bandとしてのライブである。チャージも2500円と格安である。ええい、オレも男だ、清水の舞台から飛び降りるつもりで予算をひねり出した。さらに、当日は仕事を早退してライブに備えた。

 地元のライブハウスは大体知っているつもりだったが、今回のライブは平和台公園という、いまでこそ平和のシンボルといえるが、アメリカとドンパチやっていた時代には、あの「八紘一宇」の文字が刻まれた塔がたてられ、紀元二千六百年などと国を挙げての祭りが行われた、いわく因縁の場所である。その平和台公園の中にある「ひむかの村の宝箱」という、なんだか乙女チックな名前のハコであるらしい。急いでネットで調べたが、喫茶店かなという感じのHPだった。もっとも、日曜日に新聞を読んだときは、正直今回のライブはパスと思っていたので、あんまり丁寧に見てなかった。そして月曜に出社して仕事の段取りをつけて、乏しい小遣いの中からライブチャージ代を確保してから、チケットの予約の電話を入れた。いや、入れるためにもう一度確認のためHPを見た。ところが問い合わせの方法と時間を見てクリビツ。メールやFBを通しての申し込みは不可。電話予約のみで時間は10時から17時の間となっている。さらにHPを見ていくと、この告井軍曹のライブの告知はスタッフブログによると4月19日に行われている。今日は6月8日、あかん、もうチケットは売り切れ間違いない。

 しかし、もっと早く知っていればと未練たらたらで、そのスタッフブログを読んでいて気が付いた。これ去年の告知だ。え、ということは去年もライブがあったのか。知らなかった。悔しい、などと泣いていても始まらないので受付時間はとっくに過ぎた18時半に電話をした。テープに吹き込まれた留守番電話のメッセージが流れる。そりゃそうだ、17時までの受付なのに、1時間半もあとからかけたんじゃ話にならんかと、受話器を置こうとしたその時に、要件のある人はFAXか録音してくださいと音声案内が流れるではないか。ダメもとで名前と要件と電話番号を吹き込んだが、多くは期待していなかった。だってそうでしょ、そりゃそうだもん(by 小松政夫)、翌日がライブだというのにチケットくださいなんて言ってくる奴は、僕が店のスタッフなら、「おととい来やがれ、バカヤロー」と笑って相手にしない。が、しかし、果報は寝て待て。人生万事塞翁が馬。捨てる神あれば拾う神ありってのは、この間のエントリーのタイトルだが、翌日仕事中に携帯のバイブが鳴った。普段は仕事中に携帯は絶対出ないのだが、その時は何故か閃くものがあり、電話を持って事務所から出た。通話のボタンを押すと、「ひむかの村の宝箱」のスタッフからで、昨日の不在をお詫びされ(18時過ぎまでは店内にいたそうだ)、なんとチケット大丈夫だという。これは何たる天佑、行かねばの娘とはこのことだと、二つ返事で予約申し込み本日の開場が18時、開演18時半であることを確認した。

 今回は急なライブだったので、誰も一緒に行く人がいない。しかし、僕は泣かない。なぜなら僕は大人だから。今回のライブは急だったので、いつものようにライブ前のアルコール摂取はない。なぜなら会場まで車で行くから。などと、いつものライブとはちょっと勝手が違うが、それでも告井軍曹のライブを楽しみに車を飛ばした。そういえば、5月の連休の時に春一番の4枚セットのライブCDをゲットして、その中にセンチの「うちわもめ~スイート・アイスクリーム・サンディー」が収録されていたのも、何かの予兆だったかもしれない。そんなことを考えながら電話で教わった通りに車を走らせ、広い駐車場に着いた。敷地内にホットドッグ屋さんがあったが、そこでライブは無理だろうと先を見ると左手にそれ風なお店が見える。あいにく雨が降っていたが、店の前の軒先には大勢の人がいた。げ、30人限定のライブのはずだが、もうこんなに来ているのか、こりゃ後ろの席でも文句は言えんなと考えながら、人の集まっている場所に行った。行列が出来ていたので、一番後ろに並んだが、なんとなく雰囲気がおかしい。というか、飛び交っている言葉がどう聞いても韓国語である。もしかしたら平和台公園にデモをしに来たんじゃないか、などと一瞬考えたが、単なる団体ツアーであることは数分後に嵐のように去って行ったことで分かった。

 受付にいた人に名前を言って、お金を払うとどこからかギターの音色が聴こえてきた。ガラス越しに店内を除くと、告井さんがギターを弾いている姿が、その背中が見えた。あと30分もしたら彼の超絶ギターを堪能できると考えるとわくわくドキドキである。開場までちょっと時間があったので、そのあたりを散歩しようと思ったが、あいにくの雨でちょっと肌寒い感じもしたので車の中からウィンドブレーカーを取り出して羽織った。シュラフも車に常備しているのだが、さすがにライブ会場に寝袋を持参するのはいかがなものかと、このあたり大人としての理性が働く。時間になったので会場である「ひむかの村の宝箱」の店内に入る。文房具というか画材などの販売と軽食を扱っている喫茶店みたいだ。前から2列目で荷物と右手を預けられるテーブルのある席を確保。ステージは目の前だ。普段ならビールでも頼むところだが、車なのでアイスコーヒーを注文。本棚に地元の出版社の本や反戦関係の本がある。沖縄のことを書いてる本も結構あった。坂本龍一とか、あのあたりの主張の本だ。ぱらぱら眺めていたら、ステージでチューニングが始まった。オープニングアクトのモダンレコードである。とはいっても本日初めて見るので、どんな音楽をやるのかわからない。スクリーンに映像を映したり、PCからリズムセクションの音を出したりしている。時間が来て、最初にイケメン風のギターが、そのバンドのライブの流れを説明する。これからスクリーンに登場する人物がボーカルとしてステージに登場するという。いったいどんな奴だろうとみていると、下腹部の出た、まあ若いことは若いが、そんなに若すぎない程度のずんぐりむっくり体型の男が何やら話を始めた。何だこりゃと見ていると、その本人がステージに出てきた。しかも意外と切れのいいダンスをしながら歌う。曲調はちょっとシュガーベイブに似た感じのものや、いわゆるシティーポップといわれる感じのもの。途中のMCが面白い。路線的にはスパークスあたりを狙っていったら面白いかもしれない。もっとも気分はサージェント告井がいつ登場するかだったので、拍手もおざなりで申し訳なかった。後日、バンドのHPを見たら、あの気持ち悪いボーカルは映画は『ゆきゆきて神軍』が好きだと書いてあったので、話をしたら面白かったかもしれない。



 そのモダンレコードのボーカルが告井軍曹の紹介をした。ああ、彼はセンチが大好きなんだなという感情が良く伝わるいいMCだった。途中「異議なし」の掛け声を入れたかったが、どうも客層がそういう雰囲気を受け入れてくれそうにない、どっちかというと学生時代に良く言われた「ボーリョク学生は出ていけ」などと言われそうな感じだったので黙っていた。まあ、人様のお店で初めてライブ見させてもらうんだから、お行儀よくしておかないとね。告井軍曹はリラックスした感じでギターを持ってステージに現れた。客席はオープニングアクトの衝撃の余波のせいか、少しざわついている。「みなさ~こんばんは、はじめますよ~」と、およそロックミュージシャンぽく無い挨拶をして演奏が始まった。

 オープニングは「サージェント・ペッパーズ」ならぬ「サージェント告井ズ・オンリー・ワン・クラブバンド」。意外だけど歌付。もちろん、♪さーじぇんぺぱーずろんりはーつくらばん、のところは♪サージェント告井ズ・オンリー・ワン・クラブバンドになっている。そして「ウィズ・ア・リトルヘルプ」につながる直前で軍曹から「拍手くださ~い、ここ拍手入るとこ」と促されて、大慌てでSEの拍手を入れる。曲はそのまま「エイト・デイズ・ア・ウィーク」につながる。歌詞の"hold me,love me"のところで、客席からクラップハンドが入る。センスのいい客がいるなと驚いたが、オレだった(笑)。そのクラップハンドを入れたときに告井軍曹と目が合った。「盛り上げありがとう」という視線だったと確信する。演奏が終わりMC。

 『去年の宮崎でのライブの後、ロンドンとリバプールに行って演奏してきました。さっき演奏した”Eight Days A Week”をイギリス人は”I Dies A Week”と発音します』と、いきなりトンデモな話。僕の前にいたお客さんは外国の、多分英語を母国語としている人だと思ったけど、そんなの構わず話が進む。『だからイギリス人は”Have a good day”を”Have a good die”と発音するのでアメリカ人はびっくりします。にっこり笑って「いい死に方を」なんて言われてもね。それからリバプールは訛りが激しくて、英語の発音は全部ローマ字読み。日曜日のSundayは、「スンダイ」発音するし、当然月曜のMondayは「モンダイ」といいます。「駿台の問題」、なんつって(笑)。あとね、「あのバスに乗りなさい」というのは英語では”Take that bus”ですが、リバプールの人間は「タイク・ザット・ブス」とそれはもうはっきり「ブス」と発音します。「あのブス連れてけ」みたいな感じだね』。ここのところは会場大爆笑。前列の外国人の方にも受けていた。

 こういう楽しいMCを挟みながら「ミッシェル」「ヒア・カムズ・ザ・サン」、意外なところでホワイト・アルバム収録の「ハニー・パイ」、「ブラック・バード」と進む。



『この「ブラック・バード」という曲をポールは黒人の公民権運動へのシンパシーから作ったとインタビューで言ってました。実はリバプールっていうのは奴隷貿易で栄えた港町なんです。アフリカに武器を船で持って行って、部族戦争している連中に売りつける。そして、負けたほうの黒人を奴隷としてアメリカの南部に連れていき売りさばく。その奴隷たちが作った綿花を船に乗せてリバプールに持ち帰り、近くのマンチェスターで背広にする。ロンドンにSavile Row(セビール・ロウ)って店があって、そこの通りの名前から背広になったんです。だから背広は黒人奴隷のおかげとも言えますね。ただ、その黒人奴隷たちが厳しい仕事の中で生み出したブルースが海を渡り、奴隷商人の子孫であるビートルズを夢中にさせた。そしてビートルズの音楽が大ヒットすることで黒人奴隷への恩返しが少しはできたと考えると面白いですよね。それでは、ビートルズの曲の中で一番黒人ぽい曲をやります。彼らのデビュー作ですね、「ラブ・ミー・ドゥー」』。

 背広の語源については後で調べてみたら、いくつか説はあるもののロンドンのSavile Row(セビール・ロウ)が由来というのは結構有力な説だった。さらにリバプールの加工貿易は黒人奴隷を商品とすることで成立していたなどと、オレが今話を聴いているのはサージェントではなく、プロフェッサーではないのかと一瞬錯覚するくらい説得力のある話だった。しかし、どの曲もビートルズのレコードで何百回、何千回と聴いているわけだが、ギター一本で実に見事に再現してくれる。そして、そのビートルズサウンドの魔法についてのレクチャーも始まるのだった。

 『この「ラブ・ミー・ドゥー」はあまりヒットしませんでしたが、次のシングルが大ヒットします。みなさんご存知「プリーズ・プリーズ・ミー」です』。ジョンのハーモニカとリードボーカルで始まる初期の大ヒットナンバーをギターで再現してくれた。ジョンのハーモニカもジョージのリードギターもポールのベースも、そしてなんとリンゴのドラムの躍動感まで伝わってくる。



『この「プリーズ・プリーズ・ミー」は最初はこんな曲だったんです』と、非常にスローテンポでメロディーを演奏し、『それをジョージ・マーティンのアイデアでアップテンポにしたことが最初のヒットの要因ですが、それだけじゃないんです』と言って、同じメロディーの演奏を2回繰り返し『違いが分かりますか?』と客席に質問。ベースだ、ベースのフレーズが明らかに異なる。「そう、ポールのベース・ラインですが、本来はこんな風に弾くべきなのに、実にシンプルに弾いている。ポール、実は疲れていたんですかね。シンプルにフレーズを弾いて、それを聴いていたジョンたちが「いいじゃん、それ」と乗ってきて、そしてギターも不思議なことをしているんです。本来この曲はこういう風に弾くのが正解ですが、(と言って、”last night I said these words to my girl”のところまで弾く)。ここで曲をぶった切ってんですね。さらにボーカル、コーラスも本当はこう歌うべきなのに、あえて一本調子でこう歌っている。要するにロックンロールというのは真面目に一生懸命やったらダメなんです。またサウンドがこんな風に変わっていくのがバンドのアレンジの醍醐味なんです」。

 うーん、先ほどの時間は工業国イギリスの光と闇みたいな授業だったが、今度は純粋にロックンロールの授業だ。いや、その前にイギリス英語とリバプール英語の違いに授業もあったので、実質3時間目の授業に入っている。まさしくプロフェッサー告井のオンリー・ワン・レッスンだ。やっぱりライブに来て大正解だ。誰だ、行くのはやめようなどと考えていた根性なしは、あ、オレだ。演奏は初期のヒット曲が続く。「シー・ラブズ・ユー」、この曲もビートルズならではの歌だ。本来は「アイ・ラブ・ユー」と歌う場面をあえて三人称にすることで、歌の中のストーリーを複雑にしている。僕と君だけの歌から僕と君と彼女(彼氏)の三角関係があるから恋は楽しいんじゃないか。と、これは昔、若手ロック評論家を気取っていた時代のワタクシの勝手なビートルズ論(笑)。ま、でもそうなんだよね。中国の古典で三国志は圧倒的な人気があるけど、その前の時代の項羽と劉邦の話は、それほどでもない。あれも途中で韓信が独立して項羽と劉邦と三国関係を築いていれば歴史の深みがもっと出たはずなのに、などというのもこれまたワタクシの勝手な解釈。そんなのはどうでもいいか。告井軍曹のライブに戻る。曲は「抱きしめたい」になり、ついにあの名曲「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」に突入する。ポールのベースのフレーズを弾きながら、ボーカルをとって途中で演奏を止めた。

『これね、ビートルズのコピーバンドが最初につまづく曲なんだよね。ベース弾きながら歌うって難しい。ベースを弾きながら歌うってのはポールが確立しました。いや、それ以前にもそういう人がいたかもしれないけど、スタイルとしてヒットさせたのはポールが最初。そのあとから何人か出てくるけど。いや、それでね、ベース弾きながら歌うのが難しかったらギターが歌えばいいとか思うでしょ。そうじゃないんだ、ビートルズをコピーするっていうのは、ビートルズとおんなじことをやって初めて成立するんです。ビートルズのコピーバンドは単にビートルズの曲がいいからやりたいんじゃないんです。それぞれがビートルズになりきりたいんです。ビートルズと同じ演奏して、同じハモリをする、ビートルズになり切りたいんです。僕もそうでした。中学・高校・大学とビートルズのコピーバンドをやってきました。ビートルズになるのはすごい楽しいことでした。何故楽しいか、それはビートルズが楽しいからです。初期のビートルズの演奏風景を見ると実に楽しそうにやってます。子供が遊んでるように楽しそうなんですよ。ガム噛みながら適当なことを話しながらライブやってるんです。とても仕事をやってるとは思えません。ただ遊んでる、これが実にカッコよかった。そんなバンドは他にいなかった。インタビューの時もつまらないことを聴かれると皮肉交じりのジョークで返したり、ふざけて周りのファンに手を振っていたり。家にいるのと一緒で公式の場にいるって感じがなかった。それがカッコよかった。わかりますか。どんな場所に出ても自分が一緒だという人たちだったんです』。

『自分を自分以上に見せたがるのが普通の人間。ビートルズはそれが全然なかった。常に自然だった。それがカッコよかったんです。そして僕はそういう人になりたかったからビートルズのコピーバンドをやったんです』。このMCを聴いて「ビートルズは自由にする」という昔読んだ本(雑誌の特集だったか)を思い出した。60年代のいろんな人たち、有名無名を問わない人たちがビートルズの魅力を語った本だった。もちろんその中には、ビートルズなんて全然わかっていない、ただ若い連中に人気があるものに近づいて甘い汁を吸いたがる「どんな場所でも自分をえらく見せたがる」奴も書いていたけど、多分、その本を読んだ僕と同じくらいのロックファンは気が付いたと思う。第一部は4人のビートルズが揃った「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」で締めくくられた。そして休憩を挟んでリクエストコーナーやシングルB面シリーズなどが入った第二部に続くのだが、記憶と眠気が限界なので、本日はここまで。起立、礼、告井先生ありがとうございました。



捨てる神あれば



拾う神ありで、昨日電話したライブの会場から昼休みに電話があった。なんと、告井軍曹のライブチケットまだ大丈夫だと。これは、行かねばの娘。仕事も早退してライブ会場の平和台公園に来たら、数十人の団体が。18:00開場だがすでに人の列。しかし、なんとなく雰囲気がおかしい。みんな、なんとかコスミダと言ってる。

なんと、韓国の団体客だか、決して告井軍曹のライブに来た訳ではない。しかし、平和台公園って例のハッコーイチウの本家だが、暴動が起こらないか。などと心配していたら告井軍曹がリハしていた。さあ、お楽しみはこれからだ。




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深夜の眼科医



ここ最近、睡眠不足が続いていたので、今夜は珍しくパソコンも22時にはシャットダウンし、読みかけの本も切り上げ寝た。あまり早く床についたので、なかなか寝付けずようやくうとうとしていたら、配偶者の声で起こされた。上の子が目が痛いと言って苦しんでるというのだ。夜の9時過ぎに、目が痛いというので目薬をさして様子見していたらしい。本人に聞くと、それからずっと痛くて今はもう眼を開けられないらしい。誰に似たのか、我慢強い。時計を見ると、午前零時を回っている。夜間緊急病院に電話したら、眼科はやっていないという。入院施設のある眼科医なら、対応してくれるといわれ大手の眼科病院を教えてもらった。

電話して症状を話すと、すぐ連れて来いと対応が早い。車で運んで、調べてもらったらコンタクトで眼球に傷がついたらしい。応急処置をしてもらい、明日詳しく調べることになった。しかし、眼の痛みは目薬で十分くらいしか抑えることは出来ず、あとは普通の鎮痛剤を飲むしかないと言われ驚く。どうしても、痛みに耐えられない時は、二時間開けると目薬をさせるらしい。世の中、何が起こるかわからない。転ばぬ先の杖、用心用心、火の用心だ。




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告井軍曹から呼び出しが



かかっているのだが、先月もライブに連チャンで行ってるし、今月も、すでに2件は行きたい、いや、行かねばの娘のライブがあり、さらに軍曹のキャンプに参戦すると、これは明らかに勤労の義務を放棄した、純粋ルンペンプロレタリアートになってしまうこと必定。うーむ、時間と金がどこかに落ちてないか、かねねーか、かねねーか、と考え込んでいたら、隣の記事が目に入った。

グラシェラ・スサーナって、まだ活動していたんだ。然し、会場がカゴンマ市とみやこんじょ市という、薩摩島津連合。くそ、渇しても盗泉の水は飲まんぞ、と『維新の肖像』を読んで涙したワタクシは、固くココロに誓うのだった。







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帰ってきた過去への旅路 その3 大衆食堂について考える

 出会いというのは不思議なものである。あの時、もし素通りしていたら、行動をためらっていたらその後の人生は大きく変わっていたかもしれない。というようなことが、つい最近、正確にいうと先週の土曜日に起こった。実は、いま書いている「帰ってきた過去への旅路」は、今年の1月に3泊4日で行ってきた関西ツアー、正確にいうと京都・大阪の小旅行印象記なのだが、そもそも何故季節の中で一番寒い1月に関西に行くことになったか。これはblog仲間というか、花の75年度生トリオの一人であるPurple_Hazeさんが、大阪でライブをやるから来ないかと誘ってくれたおかげである。もっとも、普通のライブであれば南九州の田舎から花の大阪までヒコーキに乗って飛んでいくなんていう豪遊はキビシー、非常にキビシー(by 財津一郎)。が、しかし、男だったら意気に感じて行動することが大事だ。同じ年に大学に入り、その当時は全く面識もなかったが、これも共通する大学の先輩、故塩次伸二のライブレポートがきっかけ、あれ、違ったっけ、それはThis boyさんとの出会いだったか。そうだ、Purple_Hazeさんとの出会いは僕の大学のサークルの後輩のsugarmountain君のblogのおかげであった。などということを書いているといつまでたっても話が進まないので、何故僕が大阪まで彼のライブを見に行ったか、Purple_Hazeさんのblogのリンクを貼っておくので、想像してほしい。

 おっといけねえ、出会いの話だった。5月はライブタイムで女性ボーカルのライブが2本あった。1つは平賀マリカと宮崎出身のピアニスト荒武裕一郎にベースとドラムという構成のライブ。そしてもう1つは大学の同じ学科の2年先輩である大野えりのライブで、こちらはギタリスト2人と一緒にやるという。そのライブの話はまた別の機会にする。そして、じつは白状するが5月は平賀マリカのライブにも行ったし、職場の呑み会もあったし、連休明けでやや手元不如意ではあるし、当日激しい雨が降ったりやんだりの天気だったし、一瞬バックレという単語が浮かんだのは事実だが、いやそういうことではいかん。義理と人情が新島先生の教えだったはずだ(ホンマか)。いくら一緒に行ってくれるおねいさんがいないからと言って、パイセンのライブをシカトするなど、てめーたちゃ人間じゃねー、叩っきってやる、と何を興奮しているのか良く分からんが、とにかくライフタイムに行ったのだ。



 もちろん、大野えりのボーカルも素晴らしく、またギター2本の絡みも面白くライブを見ていたら、メンバー紹介の時にえりさんが「そしてもう一人のギタリスト、井上智。彼は大学の後輩で、やたら先輩先輩と言ってくるので、いくつ違うかと聞いたらたったの2年しか違わない」という話をしてくれた。え、2年しか違わないということは75年度生じゃないか、そういえばPurple_HazeさんのblogだったかFBの投稿だったかに、井上智というギタリストが同級生だみたいなことを書いていたっけ。こりゃ聞いてみないといかんと思い、ファーストセットが終わった後の井上さんに声をかけた。そうしたらあなた、驚き桃の木です。備後です。いやBINGO。もちろん75年度生で、Purple_Hazeさんと同じライラック・レインボーで一緒に演奏していたというではないか。また大学を卒業する時もPurple_Hazeさんと一緒にプロを目指そうと励ましあった仲だと聞いてクリビツですよ。早速、FBに写真とコメントを投稿したらPurple_HazeさんもThis boyさんもコメントくれて、お、ということは花の75年度生カルテットができたじゃないか、などと浮かれていたら、Purple_Hazeさんから早く「帰ってきた過去への旅路」の続きをアップしろとお叱りをいただき、大急ぎでこれまでの下書きを整理しているところ。というわけで、ここから下が以前に書いて中断していた話になります。若干、時系列がおかしくなってるかもしれんが、そこはかんにんや~。

 しかし、いつも思うことだが歳月の過ぎるのは早い。このエントリーの元になる京都・大阪ツアーから丸4か月以上が経過してしまい、前回書いた話は2月25日だったなと確認のために今見たのだが、なんと「インターミッション」、つまり旅行記ではなく旅行の時に買った本をネタにして話を広げている。本来の「帰ってきた過去への旅路」は、いったいいつどこまで書いたのか、大慌てで見直すと2月9日のアップであった。ということで、気分は2月10日に戻って、その頃の記憶をたどって書いていく。

 iPhoneからの投稿でも書いたが、記憶は味覚を美化すると思う。出町の王将で早めの夕食を食べながらつくづくそう思った。この分だと、仮に出町の冷麺屋が営業していたとしても、多分、「こんな味じゃなかった、これは違う、パチモンや~」と叫ぶこと間違いない。なんでだろう、なんでだろうとその昔ジャージ姿で面妖な踊りをしながら(一人はギターを弾いていたな、確か)、しょうもないことに疑問を感じてそのことをネタにしているお笑いコンビがいて、ワタクシの疑問は正しくそいつらのネタと同じ次元ではないかと一瞬思ったが、そう考えると悲しいのでやめた。

 思い出の出町の王将は、外見上は40年前とほとんど変わりは無かった。しいて言えば、入口のショーウィンドーに貼っているメニューがかなり増えており、以前は作ってなかったものがいくつかあったくらいだ。そういえば出町に住んでいたその昔、いつものように王将に行ったら、店内の壁に『ポパイ定食』というメニューが貼り出してあった。いったいどんな料理か聞いてみると、ほうれん草の炒め物だと言われた。ポパイにほうれん草はつきもの、ついでに言えばウィンピーにハンバーガーはつきものだし、小池さんにはラーメンがよく似合う。余計な話はさておき、その時の王将の店員から、毎週月曜(王将の定休日)に店長会議があって、そこで新しいメニューの発表会があり、参加者全員で試食もして、『うん、こらいける、これやったら貧乏学生からでも380円は取れるんちゃうか』みたいな社長の鶴の一声で全店同時に新規メニューを入れるのだという話を聞いた。そのポパイ定食はどこか別の店の店長が作ったメニューで、なかなか美味いので社長賞の金一封が出たと店員のおっちゃんは悔しそうな顔で言った、ような気がする。店長会議の話は間違いないが、あとの部分はどっかの経済新聞の記事とごっちゃになっているかもしれない。

 出町の王将で、こらあかんと思ったのは「何にしましょ」「ビールと餃子と酢豚」「あ、ならそれぞれ単品やね」「いや、ライスは付けて」「ほな、酢豚定食にビールでんな」というやり取り。学生時代に通った王将ではポパイ定食以外に定食と名の付くものはなかった(はずだ)。また王将に入る客は麺類を食べる客(もちろんラーメンライスとか堅焼きそばにライスなどという炭水化物ダブル食いの体育会系学生もいたが)以外はほとんど全員、ライス付で食べていた。たとえば、「ホイコーロと餃子」と注文すると「はい、ホイコーロイーガー、コーテルイーガー」と威勢のいい声が響き、あっという間に餃子とどんぶり飯がカウンターに出される。メインディッシュのホイコーロも5分と待たされず出てくる。ざっといず王将イズム、であったはずだ。しかるに定食とは、何たる階級的堕落。汁物なんかルンプロ学生やほんまもんのルンプロおっちゃんたちにはいらないのだ。飯とおかずでいいのだ。などと、心の中でつぶやきつつ出された餃子を一口。キンキンに冷えた瓶ビールをコップで一息。そして楽しみにしていた酢豚を豚肉と玉ねぎを一緒に口に放り込んだ。が、しかし、しかし、何かが違う、でも何かが違う(by 鈴木ヒロミツ)。こんな味だったっけ。違うよな、と思いつつ腹も減っていたのでライスと一緒に出された卵スープを食べて飲むと、これが旨い。ご飯はハードボイルドといっていいくらい、固く炊き上げておりスープはやや塩分が多いが、そこに卵とわかめが絡みほっとする味である。悲しいかな、出町の王将で一番期待していた餃子と酢豚はいまいちどころかいまに、いまさんくらいだったが、ライスとスープで救われた。もっとも学生時代と違って、さすがにビール大瓶1本は飲み切れなかった。

王将ディナー

 それでも王将はさすがに王将で、常連と思しき客が競馬の話を始めたら店員のおっちゃんが身を乗り出して話に乗り始め、次に来た客がなかなか注文を言い出せないなどという光景が見られた。餃子、ビール、ライス、酢豚、時々スープというペースで食べているうちに、そういえば初めて食べた定食って何だったかという疑問がわいてきた。高校時代までの外食はラーメンとかうどんとか、ちょっと小金が入ったときはおぐらでカツカレーなどを食べており、いわゆるごはんにおかずという定食セットみたいなものはほとんど食べていない。いろいろ思い出してみたが、大学に合格したお祝いに友人がロイヤルホストでハンバーグをごちそうしてくれたことがあるが、初めて入ったファミレスに緊張していて、どんなふうに食べたか覚えていない。まして大学に入ってすぐに喫茶店だと思って入ったトーラスというレストランで食べたステーキも忘却のかなたである。

 まあ、何度考えても大学に入ってすぐに下宿した修学院の大衆食堂で食べたのが、おそらく最初の定食ではないか。京都に下宿はしたものの、食事はどこでしたらいいか、まずはそこからリサーチである。最初に見つけた食堂は、やたら暗くて愛想も良くないところだったが、いつ行っても空いているのとマンガがたくさん置いてあるところが気に入って通った。店の名前は覚えていない。修学院離宮の近くだった気がする。暖簾をくぐって店に入ると安っぽいデコラのテーブルが4か所に配置されていて、奥が6畳ほどの座敷になっていて、その天井から白黒テレビがぶら下がっていた。その座敷にはいつ行っても長髪の兄ちゃんが座っていて、飯を食ってないくせに堂々とテレビを見てわはは、あははとチーハクな声をあげていた。中年夫婦二人だけでやっている食堂で、主人と兄ちゃんの会話から親戚関係であることが分かった。広島あたりから京都に出てきて、この近くに住んでるが夜のテレビの時間になると夕方の5時くらいから閉店の10時くらいまで兄ちゃんはいた。何度か通っているうちに顔も覚えて、年もそんなに離れていないわけだから、話をするようになって、そこから人間関係が出来上がる、ということは一切なく、いつ行ってもそのロンゲの兄ちゃんはこちらに顔を向けることなく、天井のテレビを見て笑っていた。

 こちらから話しかける筋もないので、兄ちゃんの存在は全く無視して野菜炒め定食とか、とんかつ定食、焼き魚定食などをマンガを読みながら食べていたのだが、ある時目が点になったことがあった。その時注文した定食が何だったか忘れたが、定食にはたとえばハンバーグ定食なら付け合わせに目玉焼きがついてるとか、ちょっとした小鉢がついていたりするのだが、その時の定食にはなんとメインのおかずの横にお好み焼きが鎮座していた。僕はお好み焼きというのは女子供の食べるおやつだと思っていたので、少なくとも飯のおかずにするものではないと固く信じていたのだが、目の前の皿には間違いなく青のりと細かく刻んだおかかがソースと一緒にジャムセッションしている。うーん。これはもしかしたら南九州の人間に踏み絵を、要するに罠を仕掛けているのではないか。これをそのまま食べたら、「ああ、やっぱり九州の田舎者やな、お好みおかずにご飯食べるなんて、そんな品のないことうちらはようせん」とか笑われるのではないか。いや、待てよ。逆に残したら「あああ、やはり九州のサルはお好みの旨い食べ方知らんな。あつあつのご飯を中に巻いてお好みと一緒に食べるのがほんまの食通でっせ」などと鼻の先で笑われるのではないか。

 結局、そのお好み焼きは当然ながら残さず食べたのだが、ご飯と一緒に食べるお好みは微妙な味がした。そのことがあってから、その食堂へはあまり行かなくなった。もっとも、それには訳があり、そのころには下宿で友達も出来て、また隣の下宿は九州人しか住ませないところで、そこに住んでいる先輩や同級生から確か「あさひ食堂」という名前だったと思うが、その食堂の存在を教えてもらった。僕の住んでいた修学院中林町から八田医院に向かっていき、その先にあった大衆食堂というか学生食堂である。間口は一間ほどの狭いところだったが、いつ行っても、つまり朝昼晩食事時に行くと学生であふれている食堂だった。壁に定食などのメニューが書いてあるのだが、それよりもショーケースの中にたくさんのおかずが作り置きしてあり、自分の好きなものをとって最後にご飯とみそ汁をもらうという、後年出町に住むようになり毎日のように通った中島食堂システムがそこではすでに構築されていた。おかずは1皿30円くらいのものから、高くても150円くらいだったので好きなおかず3品にご飯みそ汁で300円程度で食べることが出来た。味も京都にしては学生相手のせいか少し濃いめで美味しかった。しかし、どうしても我慢できないことがあった。これはその食堂だけではなく、全ての食堂に共通していえることだが、お茶がまずい。そもそも緑色をしていない。麦茶色というか茶色、要するに番茶やほうじ茶なのだ。いや、番茶もほうじ茶の入れ方では美味しくいただけることは知っている。ただ、静岡茶と呼ばれるものの中身は都城茶であることを知っているワタクシとしては、緑茶が飲みたい。朝飯はほとんど食べないし昼は生協で食ってもいいが、メインディッシュの晩飯の時くらいは緑茶が飲みたい。このストレスは結構あった。同じ下宿に静岡出身の学生もいたが、彼も激怒していた。あんなもんはお茶じゃない、などと不満たらたらだった。

 しかし、そのストレスはある日突然解放された。アイシャルビーリリーストである。その日は下宿で徹マンをして、あ、お断りしておくが、徹マンというのは徹夜でマージャンをすることである。それ以外の意味は知らん。えーと、徹マンして朝の8時くらいに腹が減ったので食堂で飯を食おうということになり、くだんのあさひ食堂に行った。僕はタバコの吸い過ぎもあって、少し胃の調子が悪かったのであっさりお茶漬けを食べようと思い、注文した。するとお茶漬けの入った茶碗と一緒に小さなアルミの薬缶がついてきた。おばちゃんが「はい、お茶漬けとお茶漬け用のお茶」と説明してくれたが、なんとその薬缶には緑茶が熱いお湯と一緒にジャミングしていた。しかもケチな京都の商売人には珍しく、その薬缶にはお茶漬けを食べた後、湯呑みで3杯位は飲めるくらいのお茶が入っていたのだ。それ以来、僕はその食堂では多分3日おきくらいにお茶漬けを食べたと思う。ある時は店のおばちゃんから、「ああ、お茶漬けのお兄ちゃん、今日は鮭茶漬け出来るで」などと言われたりしたものだ。しかし、今考えるとお茶漬けのお兄ちゃんってなんやねん。余談だが、今は一乗寺に店を構えている天天有も75年当時は、まだ修学院で屋台を出していた。その屋台も八田医院をまっすぐ行って十字路の角にあったが、2日と明けず通っていたので、店のおばちゃんから「ああ、いつものお兄ちゃん、チャーシュー大盛りのニンニク入りやね~」などとよく言われていた。うーむ、オレの嗜好回路は単純なんだろうな。

 などという考察をしていたら、なかなかエントリーの続きが書けなかった。しかし、大丈夫だ、エンジンはかかってきた。今日はここで終わるが、次回は出町からホテルのある三条までもどり、夜の四条河原町を散策する話に続くのだ。

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