帰ってきた過去への旅路 インターミッション

 前回の「帰って来た過去への旅路」は出町の王将で早めの晩飯を食べるところで終わった。本来は続編を書くところだが、今日はちょっと中休み、インターミッションというやつで、ここ最近の話を書く。もちろん、きっかけは今回の関西旅行だ。この旅行中に自分のために買ったものは本ばかりで、まずは行きの飛行機を待つ間になぎらけんいちの文庫本を買った。『東京路地裏暮景色』というタイトルで、雑誌の連載をまとめたものを中心としたエッセイ集だった。彼の撮った写真もいい感じで入っていた。以前にちくま新書から出ていた同じくなぎらの『町の忘れもの』は写真が多いが、文章が短くやや消化不良気味だった。今回の文庫は往復の飛行機の中、移動中の電車の中、そして地元に帰ってきてからも少しずつ読んで先日ようやく読了した。

 また京都ではジュンク堂で元憂歌団の木村の『木村充揮自伝』、元村八分のフジオちゃんの『村八分』、山下洋輔の『ドファララ門』、呉智英の『愚民文明の暴走』、さらに帰りの空港バスを待つ間に(by 平浩二)、梅田の紀伊國屋で美味しんぼの『福島の真実2』も購入した。マンガはさっさと読み終えて、「なんじゃ、海原雄山と仲直りしたらおもろないやんけ、しかも、若いころの海原のロマンスなんか読みとうないんじゃ、ボケ」などと悪態をついていたが、あとの音楽本は夜の寝る前に少しずつ読んで、「ほー、なるほど、そんなことがあったのか」とか、「ナニ、わしそんなん知らんぞ、ほかの人はみんな知ってたのか、え、もしかしたら、オレだけ×んぼ桟敷(エセ自主規制、IMEのボケが変換しても漢字を出さない、『何も無かったことにしましょうよ』、とでも言ってるのか、このヤロ)」とぶつぶつ言いながら読み進んでいった。

 木村の本を読んで、憂歌団のデビューにはウェストロードの伸ちゃんが随分貢献してくれたことを知った。またデビューしてからしばらくは「本名」の木村秀勝だったが、途中から今の名前に変えた理由だとか、内田勘太郎の本名など知って、うーん、オレも憂歌を聴きだしてかれこれ40年経つが知らないことが結構あるなとか、本の最後に掲載されたこれまでの作品のリストを見て、結構自分で持ってるものが多くて意外に感じたり、さらにおまけでついていたDVDが2004年の春一での演奏で、山下洋輔とのデュエットで中々いい感じだと思ったり、まあいろんな感想を持った。もっとも、この本の出版が2012年で、その段階での木村の話をまとめているので、憂歌団の再結成についても微妙な表現になっている。まさか、島田があんな形でこの世を去るとは思っていなかったということがよく分かる。島田が亡くなって、今生きているうちにできることをしようという感じで新井田耕造を入れて憂歌団は再結成されたのだが、無いものねだりを承知でいえば、やはりオリジナルメンバーで再結成してほしかった。

 木村の本を読み終えて、今はフジオちゃんの『村八分』を読んでいる。こちらもおまけのCDが付いているが、これまでに全て発表されたテイクのものだけなので、まだ聴いてはいない。それより、村八分がどうやって村八分になって行ったのか、またどうやってメンバーを決めていったのか、そのあたりが詳しく語られているので、夜、少しずつ読んで眠りについていた。おかげで夢の中にチャー坊やフジオちゃんが出てきて大暴れするので安眠できないことがあったのだが。

 そして、それは昨夜のことだった。例によって、布団に入って枕元のスタンドのスイッチを付けて本のページを開いた。オリジナルメンバーの青木真一がバンドを抜けるところからが、前夜からの続きだった。チャー坊が、あるコンサートで歌えなくなり、ステージから降りてしまったために、本来手にするはずのギャラ(当時の金で1万、今なら4万くらいの価値だ)がもらえず、それだけが原因ではないが、そのことがきっかけで青木はバンドを抜けてしまう。そのあとを読んでいて、一瞬固まってしまった。こう書いてあったのだ。

『それで東京に帰ってから、ずーっと音沙汰もないまんま何十年か経って、いやいや、再編成の頃だ。79年か。あいつスピードってバンドで同志社大学に来たんだよ。チャー坊と哲とオレと、あと誰だっけな、いろんなヤツがいたよ。みんなでスピードを見に行った。青ちゃん見て、いいじゃないってことになって、みんなでその夜一緒に飲んだ時、青ちゃんがコップをバーンってぶつけて、暴れる寸前で帰ったの覚えてるけどね。』。

 え、なにそれ、79年の同志社でスピードのライブといったら、僕たちが主催したイベント『前夜』の時じゃないか。そう、あの時、僕は受付にいた。ライブは町田が率いるINUが初めての1000人規模のホールで熱い演奏を繰り広げていた時だった。ドレッドロックヘアで、色は浅黒く、こんな奴に絡まれたらいやだなと思うような目つきの悪い男が、バドワイザー片手に僕の前に現れた。後ろには彼の連れらしい、やはり目つきも悪く態度も悪い男が数人、こちらをニヤニヤしながら見ている。「連れのバンドが出るんやけど、入ってもええやろ」。ドレッドロックの男は有無を言わさず僕に迫った。僕は首を縦に振るしかできなかった、といういきさつを随分昔のエントリーに書いたけど、え、あの時、チャー坊もいたのか。髪がそんなに長くなかったせいか、あるいはフジオちゃんの迫力にビビッてほかのメンバーを直視できなかったせいか、気が付かなかった。その時の話は『前夜の話てか再録』に詳しく書いてあるので、興味のある方はご覧ください。

 そうか、そうなのか。あの時、フジオちゃんとチャー坊とそのお連れ様数名が、タダでスピードのライブを見ることができたのは、何とオレのおかげではないか。オレは日本のロックに貢献したんだと何となくいい気分になり、もう一度先ほどのフジオちゃんの文章を読んで思いだしたことがあった。ライブが終わった後に、久しぶりの再会を果たし、昔の村八分のメンバーと一緒に飲んだのはいいけど、青木真一は悪酔いしてしまった。いや、その原因は間違いなく当日のライブでアンコール用に取っておいた「Boys I love you」が演奏できなかったから、要するに当日の客の目当てはトリのP- Modelで、その前のスピードにはアンコールの要請がなかったことが原因じゃないのか。当日、スピードの楽屋を担当させた女の子に聞いたが、最初から愛想の悪いバンドで怖かったけど、ライブ終わった後は楽屋で暴れてマジで怖かったなんて話も聞いたな。うーん、しかし、いまではフジオちゃんもチャー坊も青木もあっち側に行ってしまってる。今はケンカせずバンドやってるだろうか。ギターとベースとボーカルはオリジナルメンバーだけど、ドラムは誰が叩いてるんだろう。なんて考えると、また今夜も夢の中で村八分のメンバーが出てきそうなのでやめておこう。

 ということで、今日はちょっとインターバルを頂きました。『帰ってきた過去への旅路』の続編もカミングスーンです、もう少しお待ちください(笑)。



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フォーク・フォーク・フォーク

 あらかじめお断りしておきたいのだが、「帰ってきた過去への旅路」は、もちろんエントリーが続きます。カストリ雑誌のように、あるいは学生の作るミニコミのように2号や3号でつぶれるはずはない、と思いたい。いや、もとい、確信する。しかしながら、今日は何となく気分はフォークソングなのだ。というわけで、またもや無謀企画、CD1枚で聴くべきフォークを凝縮しました的な、なんちゅうか本中華、このギャグ分かる人も大体中高年、てな感じでさっそくティーチインしたい(笑)。

 前回配布した70年代日本のロックのCDに対する数少ない反響の一つに、『車を買い替えたのでドライブ中に快適に聴ける80年代洋楽のベストCDを作って下さい』というものがあった。なるほど、70年代と比べて、より成熟してより多様性を増した80年代の洋楽のベストCDを新車のオーディオで流せば、それは気分が良くアクセルもついつい踏み込むだろう。しかし、その結果、事故でも起こしたら大変なことである。ここはアクセルも慎重に、ブレーキも早めに踏めて「交通安全は世界の願い」とあのササガワさんも言っていた通り、日本のフォークの極私的ベスト盤を作って提供するのが年長者の義務ではないかという結論に至った。小さな親切大きなお世話、あなたの気配り余計なお世話というやつである。

 『フォークは暗い』とはタモリの名言で、まさしくその通りフォークソングは暗い。ただ、それは生活の貧しさや日々の苦労を歌った歌や虐げられた人たちの歌が主なので必然的に暗くなるのだが、それ以上に暗さを自慢する一連の叙情派フォークともいえる連中がいる。たとえば、「去年のあなたの思い出がテープレコーダーから流れています」などという辛気臭いイントロで始まる、ださまさし、違った、さだまさし(グレープ時代を含む)や、同棲している女と一緒に銭湯に行ったが、女の人より風呂から上がるのが遅かった(つまり、女の人より髪が長かった)とか、おでんを腹一杯食うことが月一の贅沢だったと歌う南こうせつ(かぐや姫時代を含む)、またいい歳こいていつまでもボーイズソプラノでとっちゃん坊や顔の小田和正(オフコース時代を含む)などのような連中は、今回全くセレクトしていない。というか、多分レコードもCDも持っていない。仮に持っていたら即座にレコードは叩き割るし、CDはシュレッダーにかけて粉々にしているはずなので、今から作るベストには出てこないのでご安心を。しかし、フォークも長い歴史を持っているので、その昔のカレッジフォークから始めるときりがないので、まずは日本でフォークブームを作るきっかけになったこの歌から始めたい。

1. 受験生のブルース by 高石友也
 今は茶髪で反原発ソングを、あのPANTAと一緒に歌っている中川五郎が書いた詩に、高石がメロディーをつけて、ややコミックソング風にアレンジして発表。これが大ヒット。確かに高校生の時に習った三角関数など実人生では一度も使ったことは無いが(三角関係はしょっちゅうあったが、などと茶々を入れてはいけない)、それでも人生における難問を解決する思考力を高めるには有効である、などと屁理屈いうより素直に笑って納得していただきたい初期関西フォークである。ちなみにワタクシが京都で学生時代を過ごした70年代中盤にはこの方は高石ともやと名乗っており、ナターシャセブンというバンドを組んでブルーグラスなどを歌っていた。その時からマラソンやってたのかな、宵宵山コンサートを開くなど京都では有名人。どっちかというとほんやら洞系の人。

2. 悲しくてやりきれない byザ・フォーク・クルセダーズ
ご存知、フォークルである。と、書いたが、あの国民的詩人サトウハチローを知らない世代が多くなっているので、フォークルと言って通じる人がどの程度いるのか、はなはだ心もとない。また最近は通ぶってフォーク・クルセイダーズと表記する輩がいるが、今はさておき当時はクルセダーズだった、リアルタイムで見聞きしていたから間違いない。関西フォークしかもアングラと涙が出るくらい素敵な単語が続くが、どうせ今の若いもんにはわかりはしない。だから説明もしない、というのは不親切なので簡単に説明。「帰ってきたヨッパライ」の大ヒットに続きリリースしたシングル「イムジン河」は韓国から北朝鮮を美化していると非難され、北朝鮮側の朝鮮総連からは民族の音楽を盗んだなどといわれのない批判を受け発売中止の憂き目にあう。しかし、次のシングルを出してもっと金儲けしたいレコード会社(東芝だよ)から、ホテルに軟禁状態で作らされたのがこの曲。加藤和彦本人が『イムジン河のメロディーを逆から見ていたら、閃いた』みたいな発言をしていたが、後年否定している。しかし、15分で曲を作りそれをサトウハチローの家に持っていき1週間後にできた歌詞を乗せて歌ってみると実にしっくりきたというエピソードを見ても、加藤和彦の天才ぶりは素晴らしい。余談だが、フォークルのメンバーである北山修は大学の先生になり、はしだのりひこは歌謡フォーク路線に進み、「風」や「花嫁」などの大ヒットを連発。加藤和彦はエリック・アンダーセンの”Come to my bedside”を日本語の歌にしたり、CMソングを作ったり自由気ままにしていたが、吉田拓郎や泉谷しげるらのアレンジやレコード・プロデュースにも非凡な才能を示している。あの「結婚しようよ」でボトルネックを弾いているのは加藤御大。また泉谷の「君の便りは南風」という曲をレゲエにアレンジ。日本で最初のレゲエナンバーに仕立て上げたのも加藤和彦。泉谷が「リズムが頭にあるから歌えねーじゃないか」と加藤に文句を言ったというエピソードがある。

3. 遠い世界に by 五つの赤い風船
 高校の入学式の後、応援団の人たちが歌唱指導(笑)するといって体育館に新入生を集め、校歌や応援歌を教え込まれた。その時に角刈り、学ランで度の強い眼鏡をかけた応援団員の先輩から「この歌は我が校の第二校歌なので、本日中に必ず覚えること」と厳命された。体育館の壇上に応援団員がいて、♪とおい~せかいへ~たびにでようか(旅に出ようか)、それとも~あかいふうせんにのって~(風船に乗って~)とチェイス形式で歌をリードするやり方にはやや抵抗があったが、さすがは高等学校、義務教育とは違うなと妙に感心した。余談だが、僕の高校の掃除の時間に流れる音楽は「ビタースィートサンバ」だった。おかげでオールナイトニッポンを聴くと無性に掃除をしたくなった。パブロフの犬である。昔話はさておき、画家だった西岡たかしが結成したグループ。なんとサウストゥサウス加入前というか、まだ中学生だった有山じゅんじもメンバーにいたが、母親から「この子は高校入試があるから音楽なんかやってたらあかん」と西岡にクレームが入り脱退した。もっともギターは名手、中川イサトがいたので不安は無かったと思う。デビューアルバムが高田渡とLPの片面ずつというのは有名な話で、お互いライブの時に相手の面はやすりで削るように客にアピールしていたという。

4. 面影橋から by 六文銭
 関西フォークが続いたので東京方面も入れよう。六文銭は上条恒彦と組んだ「旅立ちの歌出発の歌」の大ヒットがあるが、本来はこの曲のようなしっとり聞かせるナンバーが得意。小室等がリーダーで、この曲を書いた及川恒平や吉田拓郎の最初の奥さんになる四角佳子などが初期の代表的なメンバー。しかし、小室等って人は若いころから長老的イメージがあり、逆に今は年齢不詳みたいな感じでやや不気味である。いつもにこにこしていて好々爺のイメージがあるが、結構権力好き陰謀好きなところがある。後年、吉田拓郎、泉谷しげる、井上陽水と一緒にフォーライフレコードを設立。誰が社長になるかで、「ここはひとつ年長の小室さんが」、「いやいや拓郎さん、あなたが」と譲り合い結論が出ない。それでは無記名投票で決めようということになり、各自がこれだと思う人の名前を書いて投票。開票したら、あら不思議。4票とも小室等の名前があったという。やだね~。

5. かもめ by 浅川マキ
 浅川マキがフォークか、という異論反対論は当然あるだろう。この人はロックだジャズだフォークだというカテゴリーにとらわれない、実にフリーでアナーキーなシンガーだったと思う、大学の先輩にマキファンの人がいて、京都でのライブを見て、大いに感激しレコードにサインしてもらおうと近づいたが、あまりの迫力にビビッて声をかけられなかったという話を聞いた。納得する。ところで、浅川マキも亡くなってしまい、彼女の歌ももう聴けないなとお嘆きのあなた。そんなことは無い。今、カルメン・マキがしっかりこの歌や「にぎわい」などを歌っている。MAKI Sings Makiである。

6. カレーライス by 遠藤賢司
 エンケンがフォークか、という異論反対論は当然あるだろう。この人はロックだジャズだフォークだというカテゴリーにとらわれない、実にフリーでアナーキーな純音楽家だと思う。いや、である、と断定する。しかしながら、デビュー直後のエンケンは、これは間違いなくフォークシンガーといえるだろう。カレーが好きで、ついには自分でカレー店を経営してしまう。また愛猫家としても有名で、この歌にも出てくる猫は寝図美(ネズミ)という名前で、のちに名曲「寝図美よ、これが太平洋だ」にも登場してくる。しかし、アコギを抱えて、こんなセンチな歌を歌っていたエンケンが地球防衛軍として名作『東京ワッショイ』を繰り出してくるとは当時は予想できなかった。また、すでにビッグネームとなった後年にも『幾つになっても甘かねぇ』などというパンクで、ハードで、ご機嫌なアルバムをリリースするとは70年代にはとても考えられなかった。いつまでも元気でライブをやってほしい。なんていうと、余計なお世話だと怒られそうだ。

7. プカプカ by 西岡恭蔵
 ゾウさんである。オリジナル・ザ・ディランのメンバーながら、レコード・デビュー直前に脱退。残された大塚まさじと永井洋はザ・ディランⅡ(セカンド)と名乗り活動。しかし、ゾウさんは彼らにも曲を多く提供し、さらにソロでも歌うという、何やらようわからん関係になる。母音をはっきり発音する人で聴いていて気持ちがいい。またメロディーが独特でこの曲や「ろっかばいまいべいびい」や「アフリカの月」などはスタンダードの域に達している。作詞は奥さんのKUROが担当。そうそう、あのLAZY HIPのデビュー曲「ハドソンリバー」も二人のペンになるものだった。この曲は多くのミュージシャンや役者がカバーしているが、個人的には桃井かおりの歌が気に入っている。カティサークを飲みながら歌ってるので、途中歌詞を間違うのだが笑いながら最後まで歌いきるのはさすが女優である。

8. 男らしいってわかるかい by ザ・ディランⅡ
 原曲はボブ・ディランの”I shall be released”。「私はいつの日か苦痛から解放される」という歌だが、非常に意表を突いた歌詞に乗って歌われる。この手の逆説的な表現は加川良の「教訓Ⅰ」などにも共通する。当時のフォークソングのスタイルだったのではないか。70年代に関西で過ごした人間で多少なりとも音楽に、ポピュラー音楽に興味を持った人間であれば、この歌を知らないはずはない。もしいたら確実にもぐりである。グループを解散後、大塚まさじはソロ活動を始めるがあの独特の顔で歌うというスタイルは当時からあったな、間違いなく。この人の動画は一度、YOU TUBEで見てください。顔で歌うとはどういうことか良く分かるはずです。

9. 恋人もいないのに by シモンズ
 男性ボーカルばかり続いたので、このあたりで女性シンガーを入れたい。シモンズのこの曲は男臭いフォークソングばかりだったシーンに、一服の清涼剤のような感じで突然ラジオから流れて来た。女性二人のハーモニーというのはベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」(これも加藤和彦の曲、センスいいな、やっぱり)から、その後はあみんやパフィーまで一つのスタイルとして存在した。田中ユミと玉井タエの二人で、ワタクシはどちらかというとタエちゃんファンで、あ、そんなことはいいか。曲は五つの赤い風船の西岡たかし。実はシモンズのデビュー曲は「あの素晴らしい愛をもう一度」の予定だったが、そちらは加藤和彦と北山修が歌うことになったので、急遽、この曲がデビュー曲になったらしい。結果的に正解だと思う。

10. なんとなく… by 石川セリ
 この人も独特のスタイルを持ったシンガーだ。今は井上陽水夫人で、数年前に大病を患い、そこから奇跡的なカムバックを果たした。ただ、この曲で聴かれるような個性的なベルベット・ボイスは失ってしまい、ちょっとハスキーな声になり音域も狭まったが、再び歌えるという事実に勝るものは無い。この曲が収録されているアルバム、『ときどき私は…』は、ブレイクする前の荒井由実を筆頭に、松本隆・松任谷正隆・下田逸郎・瀬尾一三・みなみらんぼう・矢野顕子といった今考えるとものすごいスタッフが参加している。さらに作曲では長年の相棒ともいえる樋口康雄のメロディー作りの上手さが引き立つ。アルバムラストの曲は、その昔のNHKテレビドラマ『つぶやき岩の秘密』のテーマになった「遠い海の記憶」である。こちらも必聴です。

11. 生きているっていってみろ by 友川かずき
 フォークは怖い。平々凡々とした日常を切り取るような歌が多いが、友川かずきの歌はこちらにナイフを突きつけてくる。後年、エレファント・カシマシを聴いたときに、「お前はただいま幸せかい?」と歌われ、思わず「違います」と答えたことを思い出した。ま、どうでもいいか。お笑いのナイナイの岡村(アホっぽいけど、あれで立命出身や)が、偶然YOU TUBEで友川かずきの動画を見て、ラジオで絶賛。ちょっとした友川バブルが来ている感じはする。しかし、以前『フォークの達人』というテレビの企画もので彼の話を聞いたが、「所詮、デタラメですよ、歌も詩もデタラメ」という照れ隠しの発言を聴いて、この人はいい人だなと思った。酒豪で酒乱であることはフォーク界では有名。

12. フィッシング・オン・サンデー by 高田渡
 フォークは歌はいいけど、サウンドがつまらないという声をたまに聞く。確かにアコギ一本とか、せいぜいピアノにウッドベース、ドラムが付くとちょっとバンドサウンドみたいになるが、まあ、あんまりインプロヴィゼーションとか演奏は話題にならない。いや、アコギの奏法で凄い演奏している人もたくさんいるんだけどね。御大高田渡をこの曲で紹介していいかどうか、良く分からんが70年代の半ばに良く聴いたアルバムからこの曲をセレクト。バックはヴァン・ダイク・パークスなどLAのそうそうたるメンバー。そういえば、この曲が入っているアルバムには山岸潤史がギターで参加している。最初から予定していたわけではなく、高田渡がレコーディングの合間にロスの街を歩いていたら、道路の反対側からちょうどアメリカに来ていた山岸とばったり会って、じゃギター弾いてよという話になったらしい。ホンマかいな。高田先生は自転車とか生活とかブラザー軒とかたくさんいい曲があるけど、こういうのもええんちゃうか。

13. 親愛なるQに捧ぐ by 加川良
 高田渡と来たら、加川良を入れんでどうする。中津川フォークジャンボリーで飛び入りで「教訓Ⅰ」を歌い大喝采を浴びた。ところが、その飛び込みも実は予定調和だったという話を最近知って、「大人って汚い」と思う感受性がフォークである。要するに成長しきれてないのだ。甘えているのだフォークは、あ、いかん、本音が出た。前に登場した大塚まさじは顔で歌うと書いたが、加川良は船をこぎながら歌う。どういう意味かはYOU TUBEで確認してほしい。ここ最近はスティールギターの相方と2人でライブをやることが多い。宮崎で2回ライブを見たが、トイレタイムもしっかり入れているし、無駄なアンコール拍手をさせず再登場するなど、中高年のフォークアイドルである。でも、若いころは結構とがっていたんだよね。

14. ぼくの好きな先生 by RCサクセション
 最初のカウントから人を食ってる。1-2-1-2-4と3をすっ飛ばして演奏に入る、楽器は当時まだ珍しかったカズーを使っている。けだるげに歌う詩の中に、従来の学校の先生と生徒の関係ではなく、ちょっとダルでちょっといい感じの雰囲気が伺われる。この歌がヒットしたころ、無気力・無関心・無責任という三無主義があちこちのキャンパスに占めていた。でも、「ぼくの好きな先生」は、そんな説教臭いことは言わずタバコを吸いながら、キャンバスに向かっていた。やっぱり、RCは独自の世界を持っていたんだなと思わせる曲。この大ヒットがあって、人生を舐めてしまった清志郎が様々な音楽的な屈折・苦労を積み重ねた結果、あの偉大なるRCサクセションへと昇華したのだ。もっとも、時代は清志郎が心配していた方向に、予想以上に傾いているけど一体どうなるのか。どうにかするのは生きているお前らの仕事だという清志郎の声が聞こえてくる。

15. 今日をこえて by 岡林信康
 結局、この歌を聴きたいために延々と理屈をこねていた気がする。大学の先輩だからという色眼鏡を外しても、岡林が日本の音楽界に残した足跡は大きいと思う。滋賀の教会の息子として生まれ、多分にええとこのボンとして生きられる可能性が高かったと思うが、世間の矛盾や社会の汚さを歌にして登場した。しかし、信じられないのは当時は労音が主催するコンサートが多かったとはいえ、演奏の終わったミュージシャンに一升瓶持参で議論を吹っ掛けるオッサン(組合のオッサンだよ)が沢山いて、そういう集まりに出ないと「岡林は体制に寝返った」みたいなことを言って非難する、クソ団塊ジジ・ババが雲霞のごとくいたことが。そんなん、やってられんわと岡林は逃げた。京都の山奥で百姓しながら自給自足の生活をしていた。そこに、「あんたが歌わんのは日本の損失」と連日押しかけて、歌え歌えとアピールしたのが、泉谷しげる。後年、宮崎の口蹄疫の時に手弁当でやってきて、地元の畜産農家の人たちと痛みを共有し、さらに祭りを作ってイベントにしたその片鱗が伺える。

 あ、とりあえず、ここで終わるが、まだまだ紹介する歌はあるのでパート2が来ることを宣言しておく。リクエストもお待ちしてますって来るはずねーか(笑)。なお、ボーナストラック2曲収録しております。

もうこんな話ばっかりで

 本日、体調が良くなくて病院に入った話をエントリーにアップした。医者からは全然ノープロブレムと言われ安心して家に帰った。週末なのでワインを飲んで、それじゃ夜も遅くなってきたので好きな音楽聴きながらチューハイでも飲むかとPC開いてみたら、シーナの訃報が出ていた。病気療養中で、ノーメイクのシーナに付き添うマコちゃんのニュースを見たこともあったが、一時的なものだと思っていた。また、あのパワフルなボーカルといつもの元気なシーナがライブに戻ってくると思っていた。バレンタインデーに、向こうの世界に行くなんて出来過ぎだな。でも、シナロケのライブを学生時代だけど見られたのは、いい思い出だ。マコちゃんがMCで「みんなの熱気が来るけん、ベースが感電しとる、このまま行こう。ロックンロール」と叫んで、シーナが右手を挙げて・・・・。「ユーメイドリーム」は実は別のシンガーが歌うはずだったのに、これは私しか歌えないと自分でボーカルを決めたとか、ちょっと加藤ミカに似ていたとか思い出はたくさんあるけど、ロックンローラーのシーナを偲びつつ合掌。



転ばぬ先の杖というけど



少し前から、腹部に時々鈍い痛みがあった。以前、尿管結石や大腸憩室炎を患った事があり、その時の痛みに似ている。そういえば、憩室炎を見つけてくれた医師から、定期的に検査を受けるよう言われながら、多分、五年以上は放置している。こりゃ、一度は診てもらう方がいいと判断し、貴重な週末に病院に来た。

血液検査に検尿、腹部エコーと検査は続く。診察費は幾らになるか、ルンプロはオノレの身体よりゼニカネの心配をする。悲しいサガだか、それが資本主義社会に生きる人間の定めだ。ボンニチ国民を必ず守るとかいうてた、アベのダンナも身代金は一円も用意して無かった。国民の命よりゼニカネが大好き、違う、大事という、流石はシホン主義社会の申し子である。

さて、全ての検査も終わり、待合室で待機中。大腸カメラを予約するよう言われたが、また下剤との妥協無きタタカイをやらねばならんのか。ビンボー人は、大変なのだ。





iPhoneから送信

帰ってきた過去への旅路 その2

 朝早くにiPhoneの呼び出し音で目が覚めた。眠い目を開けてベッドから何とか身を起したが、強烈なのどの渇きと軽い頭痛がする。どうやら昨日は飲みすぎたようだ。しかし、休みの朝っぱらから誰だ電話なんかしてくる奴は、とむかっ腹を立てながら出てみると、名古屋在住で、同じ文学部の75年度生のK下君だった。そういえば、昨日のサークルOB会では誰がどこで今何をしているかと、あちこちの先輩や友人たちの携帯に電話したが、K下君は出なかった。話を聞いてみると、彼も昨日は飲み会で着信に全く気が付かず、今朝方気が付いて急いで連絡したとのこと。今回の関西ツアーについては事前に連絡していたので、僕が大阪にいることは知っていたが、今から京都に向かうから出てこいと誘ったが、断られた。ま、仕方ないか。しかし、昨日は楽しかったが、最後はもうめちゃくちゃだった。大体、二次会をカラオケボックスにしたのが失敗だったかもしれん。N谷君のテンプターズを聴いて、U田君のヒップホップにアレンジされたRCを聴いて、オレはエンケンを絶唱し、あとはもう入り乱れて何が何だか良く分からん。結局、1時間延長して、その延長が終わったという電話が来たが僕は最後までマイクを離さず、チューリップの「魔法の黄色い靴」を歌っていた。死ぬまでラッパを離しませんでしたって、オレは木口小平か。などといっても、今日日の人は知らんと思うからスルーしてくれ。

土曜日の御堂筋

 チェックアウトは11時なので、もう一度ベッドに潜り込み酔いを醒ました。何とか10時に起き上がり、シャワーを浴びてすっきりし、そのままホテルを出た。御堂筋は土曜日なので車の流れも人の流れも空いて、実にすっきりしていた。そこから地下鉄で大阪駅に向かい、京都へはJRの新快速を使うことにした。ホテルが三条河原町なので、京阪や阪急で行くことも考えたが、最短で行けるのは大阪京都間を29分で走るJRだと判断したのだ。土曜日の午前11時発の新快速は、結構乗客が多かったが何とか座ることができた。大阪駅を出たら新大阪、次は高槻、そして京都とさすがは新快速、快適にかっとんでいく。途中で山崎のサントリーが見えたのは懐かしかった。京都駅に着いて、地下鉄を見ると目的地の京都市役所前に行くには、烏丸御池で東西線に乗り換えである。京都の地下鉄は八条口から北大路くらいまでしかつながってないと勝手に思い込んでいたが、今は東西南北に走っている。烏丸御池に到着して、乗り換えの方向に歩いていくと、今乗ってきた線と異なり、また一段地下に入るようになっていた。地下に潜るというのは、何故か心躍るものがあるが、あなた、そういうことはありませんか、オレだけかな。

 などといってるうちに京都市役所前に無事到着。ごろごろのついたバッグを持って、三条まで歩きかけたが、さすがに勝手が悪いので荷物はとりあえずコインロッカーに預けて、単身三条まで歩いた。時間はもうすぐ正午。ホテルのチェックインは14時からなので、それまでに食事をして、久しぶりの京都の繁華街、三条から四条までぶらついて適当に土産を買うつもりでいた。こういうところの気配りはなかなか見上げたもんだよ、屋根屋のふんどしっとくらあ。ま、何というか、こういうお土産などという細かな気配りが人間関係を円滑にするというか、その人の人となりを表すんでしょうな。他人は旅行の土産話なんぞ、喜んだりしない、喜ぶのは土産そのものである。これも高度に発展したシホン主義社会の悲しい定めかもしれん。てなことは全然考えておらず、とにかく腹が減ったしホテルの場所も確認したいとふらふら歩き三条河原町の交差点を東に入ったら、ありました。前日のホテルとは打って変わって立派なホテル。1階には進々堂が入ってるし、建物も黒っぽくて落ち着いた感じ。地下鉄の駅から歩いて5分もかからない。場所も確認したし、おなかも空いたのでランチにしようとその付近を歩いてみた。まず目に入ったのは王将だったが、これは出町の王将で本日ディナーを取る予定にしているので却下。その王将のすぐ近くに「北白川ラーメン」なるのぼりと看板を発見。おっしゃ、ここや、北白川ラーメンなるジャンルがあるとは知らなかったが、天下一品も天天有も確かにエリアとしては北白川といえる。多分、結構こってり系のラーメンだろうと予測を付けた。入ってメニューを見ると特製醤油味玉ラーメンがおすすめになっており、単価も700円と手ごろである。速攻で注文し、何気にテーブルの調味料や漬物などを見ていて、びっくり。何とネギが大量に入った容器がある。オー、マイ、ガー、九条ネギがざく切りで大量に入っている。ネギ取り放題である。これはうれしい。その昔、天一のラーメンにはまった理由の一つはネギが入れ放題だったことだ。プラスチックのざるに大量のネギが刻まれてあり、それをトングで目いっぱいラーメンの上にぶちまけて、辛子味噌とコショウを、これまた大量に振りかけて食したチャーシューの大の感動は今でも覚えている。

 そんな貧乏学生時代を思い出しながら、背脂のたくさん入ったラーメンを一気に食った。おなかもいっぱいになり、さて三条か四条の商店街で土産品を買うかと思ったが、人間食べておなかがいっぱいになると、これは質量保存の法則から言って、排出したくなる。早い話がコーウンがしたくなった。関西のお子達の隠語でいえば「猪木ピンチや、馬場が出る」というやつである。ラーメン屋を出て左右を見渡すとコンビニの看板が見えた。よっしゃ、コンビニで京都に来たマーキングしたろか、と歩きかけたら何やら視界に懐かしい文字が見えた。ジュンク堂と書かれたその文字にふらふらと誘われるように向かっていった。おかしいな、その昔、ジュンク堂はもう少し下がったところにあったと思ったが、などという考えは後日家に帰って気が付いたことだ。コンビニで馬場をして、いたって快調になった足取りでジュンク堂をうろつく。読みたい本や欲しい本がたくさんあるが、本は重たい。いくらごろごろのついたバッグとはいえ、何冊も買うと結構な重量になる。また、この時はまだCDショップ巡回も計画していたので、本とCDを買うと本当に重くなる。洒落じゃなくて本当に、マジに重たくなるのだ。その時天啓のごとくひらめいたことがあった。何も買った本をバッグに入れて持ち帰らなくても、今のご時世、流通というものがある。飛脚でもブラックキャットでもペリカンでも何でもいいや、宅急便たらゆうやつに本や汚れ物や、重たいものはぶち込んで送ってしまえばいいじゃないか。そういえば、前回京都に来た時も漬物と和菓子を宅急便で送ったことがあったっけ。これは良いアイデアだ(by RC)と思い、本格的に購入する本を物色する。今回は音楽関係の本を中心に4~5冊チェック。しかし、こういうとき迷うんだよね。よし、この本に決定だけど、今すぐは買わない。もしかしたら、もっと欲しい本が出てくるかもしれん。一応、夜また来てその時に買うと決めた。少し落ち着いて時計を見ると、もうすぐ14時である。チェックインできる時間である。結局、ラーメン食べて本屋をうろつくだけで貴重な2時間を使ってしまった。大急ぎでコインロッカーから荷物を取り出し、ホテルに向かう。ホテルのエントランスに大きな日よけがかかっていて、そこから入っていくと、建物を通り過ぎて駐車場に出てしまった。あれ、おかしいなと思って戻ったら入口は左手にあった。チェックインを済ませて、エレベータで9階に行こうとしてエレベータが動かなかったことはiPhoneから投稿したとおりだ。エレベータの前には若いカップルがいたが、いったん入ったエレベータから出て来たオレがまた隣のエレベータに入り、「あ、なんで、なんでや、あ、そうか、こうすんのか」などといいながら悪戦苦闘している姿を見て、心なしか笑われている気がした。ま、いいんだけどよ、若いうちから贅沢してると罰が当たるぞと心の中で毒づく。

ガラス張りの風呂

 最上階の部屋に入ってこれまたクリビツ。ツインのシングルユースはまだいいが、浴室が総ガラス張りでトイレから丸見え。さらにシャワーが縦にスライドするバーに付いたものと天井からダイレクトに落ちてくるものと二段構えである。ホテルで洗い場のある浴槽なんてのは初めてでちょっとうれしかった。しかし、うれしがってる暇はない。これから今出川まで行き、そこから出町柳まで歩きエイデンで修学院に行くという、前回果たせなかった移動をするのだ。ということで、また地下鉄に乗って(by 猫)、烏丸御池で乗り換えて今出川まで来た。地下鉄を降りて案内板を見ると同志社キャンパスと書いてある。以前は烏丸通側に出るか、今出川沿いに出るかしかなかったはずだがと、首をひねりつつ案内板にしたがって歩く。階段を上がると少し窪んだ形で広場があり、テーブルやいすがたくさん置いてある。その先を見るとのぼりの階段があり、大学の建物が見える。一瞬、昔の別館の風景がシンクロした。今は無き別館も学食の横にちょっとした広場があり、そこから階段を上がると烏丸通にぶつかった。デモに出かける時は毎回通ったルートだ。デモじゃなくても、日常的に使った通路だった。

別館?

 もちろん、地下鉄今出川の駅が烏丸上立売(別館のあった場所、今は寒梅館が建っている)につながっているはずはなく、その見たことのない風景は以前同志社中学があった場所だった。そういえば前に同志社の職員になっているK君から中学は移転して、大学のキャンパスを広げているという話を聞いたことがあった。見慣れない建物の間を通り抜けると、懐かしい同志社の西門のところに出た。以前はここが大学や自治会からの連絡を掲示するスペースだった。2回生の時に学園祭の会議のスケジュールが出ていたが、普段キャンパスに行かない僕は、それを見落として会議に欠席。あぶなく予算を取り上げられかけたことがあった。あの時に教えてくれたのは、やはり大学の授業に出ないことで有名なF田敏雄君だった。しかし、やつはどうしてその掲示を見つけたのか、当時からずっと不思議だったがわからずじまいだ。昔は掲示板に手書きでいろいろ書いてあったが、今はきれいなミニタテカン風になっている。サークルの勧誘ポスターがあったり、大学からの連絡や行事予定がたくさん出ていたが、その中にぽつんと「都市を占拠する」というポスターがあった。我が大学は自治会が永久解散してしまい、この手のことを研究するところは無いと思っていたので、ちょっとうれしかった。今はネウヨや右旋回をしたがる連中が多いが、大学時代くらいは少し歴史や社会を勉強しておこうぜ、後輩諸君と中退の先輩が偉そうにいうのはあかんな。堪忍や、きゃいんきゃいん。

タテカン

 土曜の午後おそく、キャンパスには人気も少なく見かけるのはOBやOGの方々が散策している姿。スケッチをしている人もいる。もっともこちらは絵心など薬にしたくてもないので、さっさと出町に向かう。途中、良く通った冷麺屋の跡地(建物は残っていたけど)を見つけて感動。前回もこの道は歩いたはずだが、あの時はデューク先輩とN谷君と3人で話しながら歩いたので見落としたんだろう。さらに1週間前に火事で全焼したほんやら洞の前も通り過ぎる。まだまだ火事の臭いが鼻につき、防護ネットの隙間から見ると焼け跡が痛々しかった。出町柳の駅に行く前に出町の桝形通りのアーケードを通り、前回も買ったなかにしで京漬物を大人買い。1袋300円からせいぜい500円なのだが、あれもこれもと欲張っているうちに予算の5000両を突破。えい、知ったことか、こちとら江戸っ子でぇ、宵越しの銭は持たねえと生粋の南九州人が見栄を張る。例によってクール宅急便で送るのだが、明日の午後2時には届くという。我がポンニチの流通業者恐るべし。花の都の出町からディープサウスの南九州まで24時間かからないのだ。ありがたやありがたや。

 出町で目的の一つだった京漬物を買い、実はマキでコーヒーを飲みたかったが時間も押していたので、素通り。そのまま出町柳に行こうとしたが、やはり出町の三角州に寄ってしまった。冷たい風が吹いていたがお日様が出ていて、家族連れやカップルや一人でパーカッションの練習をしている人や様々な人たちを眺める。陳腐な言い方だが時間が止まったような感じ。父と子供だろうか、大きな凧を揚げていた。ここ何年か凧揚げなんて見てないな、たまに見かけてもゲイラカイトという洋風の凧ばかりだが、京都の父子は伝統的な奴凧を揚げていた。風に乗ってゆらゆらゆれる凧をずっと眺めていたかったが、今回のツアーで京都には1日しかいないので、泣く泣く出町柳の駅に行く。乗車券を買って改札を入った瞬間、違うなと感じた。僕が学生時代に使っていたエイデンは京福電鉄が経営していた。修学院の下宿に福井出身の予備校生がいて、そいつから聞いた話だが京福電鉄は京都と福井を結ぶ予定だったが、金がなくて京都は嵐山線と出町の叡電だけしか敷設できなかったと自虐気味に話していた。福井の人間はちょっとマゾ的なところがあるなと、これは後年サークルに入ってきたT君を見てもそう思った。

三角州に上がる凧

 それはさておき、今のエイデンは京阪が経営している。電車の色も乗った感じも昔の叡電と別人28号である。それでも電車が動き出し、「次は元田中、元田中」などというアナウンスを聴くと懐かしい。元田中には朝の4時までやってる居酒屋があって、そこのサバの味噌煮は絶品だったなとか、次の茶山ってのは印象のない町だったよな、一乗寺は学生の下宿がたくさんあって、当然電車を乗り降りするやつも多くて、中には銭湯の道具を持って電車に乗ってるやつもいたよなと、昔を振り返る。そうこうしているうちに目的地の修学院に付いた。出町柳からこの修学院まで、なんと全部無人駅である。京福時代は修学院にも駅員がいて、駅のすぐ近くの1階が喫茶店で2階が雀荘という建物があり、非番の駅員が良くお茶を飲んだり、麻雀打ったりしていた。ある時、駅員たちと隣の卓で麻雀していたら、「リーピン、一発、ハナ、ハナ、ハナ」という声がした。見ると花牌を入れてゲームをしているのだ。これは麻雀をしない人には何のことか分からないだろうが、花牌を入れるというのは相当昔に流行ったルールで70年代半ばの僕たちは全くやったことがなかった。それでも面白そうだから花牌を入れてやった時期が少しあって、花牌というのは春夏秋冬の4枚あるのだが、それを全部揃えたら役満というルールにした。その役の名前をどうするかと話し合って、僕がビバルディと提案して決まったことがある。もちろん四季から取ったわけだが。

エイデン

 エイデンの駅を出て、ほとんどシャッター街になっているプラザ修学院のアーケードを歩く。昔は出町の商店街並に賑わっていたけど、今営業しているのはほんの数店舗しかない。僕が学生時代に行ったお店は全部なくなっていた。2年半前に来た時はホテルで借りた自転車で来たのだが、僕の住んでいた下宿はとっくになくなっていたが当時を思い出させる建物や景色があったので、再度昔の下宿のほうに歩いて行った。目的の場所に着いたが、今は当時の学生下宿などどこにもなく個人のお宅になっている。何気に表札を見て、あれと思った。僕の下宿の大家さんは鳥取出身のN井さんというひとで、四条でレストランを経営している人だった。たしか西洋軒とかいう屋号で、季節の時期時期にちらし寿司やたけのこご飯などを小さな器に入れて下宿生に配ってくれたりするやさしい人だった。しかし、その、自分が昔住んでいた下宿だと思っていた家の表札は全く違う名前になっている。もしかしたらと思い、もう1本奥の辻に入ったら、ありました。N井さんの家が2件続いている。多分、僕が下宿していた時N井さんはもう高齢だったから、その息子さんと当時そこに小学生の男の子がいたから、つまり大家さんから見るとお孫さんだが、そのお二人の家だろうと考えた。僕にこの下宿を世話してくれた向かいのT山先生のお宅もそのままあったから間違いない。下宿は無くなっていたけど、N井さん達がお元気でやっていると思い、心の中で合掌。

 その後は、鷺ノ森神社のあたりを少し歩いて、修学院離宮から北山通りに出た。以前、チェーンコーヒーハウスという喫茶店があったのだが、残念ながらシャッターが下りていた。白いカレーが名物だったサンルイはとっくの昔に無くなっている。のども乾いてきたし歩き回って疲れたので、出町に戻ることにした。ちょっと早いが王将で酢豚と餃子とビールでディナーだ。気が付くとお日様はその光を弱めてだんだん寒さが増してくる京都の秋の夕暮はコートなしではさぶいくらいで、あ、下宿屋のパクリや。さて話はまだまだ続きますが、今日はここまで。

出町商店街


帰ってきた過去への旅路 その1(って完結するかな)

 あっという間に、1月が終わった。早いなぁ、などと考えていたら、先日行った関西ツアーからも1週間が過ぎてしまった。こりゃ記憶がはっきりしているうちに、エントリーにアップしないと、前回のシリーズ『過去への旅路』の二の舞どころか、一切無かったこととして別のエントリーを書いてしまいそうだ。ということで、今回は旅行中にiPhoneでアップした旅の日記をまとめて書いていく。完結するかどうか、ゴッドオンリーノウズである。

 今回の関西ツアーは昨年12月に発作的に決めた。2年半前のツアーは亡くなった後輩の家に行って潜行、違った、線香をあげるというのが第一目的であった。しかしながら、今回のツアーの目的は大学の同窓で、blog仲間で、花の75年度生トリオの一人であるPurple_Hazeさんのバンドのライブを見ることであった。『友達のバンドのライブを見に、わざわざ大阪まで行くとは優雅だな、こいつルンプロ言いながらプチブルちゃうか』などと考えた人はものの見方が浅はかというか、品性下劣というか、ま、そういうたぐいの人である。もちろん僕だって、そんな軽い感じで関西にホイホイ遊びに行けるくらいの経済力が欲しい。欲しいが、無いものは無い、そらそうやんけ、ゼニとはトンと縁がない人生を自ら選択して生きてきたんだからしょうがない。手のひらを太陽に透かして見ても、僕の血潮はドロドロオイルの臭い(by Lizard)しかしない。でも、男だったら行かねばならぬことがある。世の中にはゼニカネよりも大事なことがいくつかあり、義理と人情はその中でも1~2を争う重要事項なのだ。

 要するに、今回のライブはPurple_Hazeさんの単なる懐古ライブではない。彼はすい臓がんという大変な病と闘っており、その病気の体をおして自分自身が学生時代を過ごした関西の、その地にいる友人たちに今の自分を見てもらいたいと考えて企画したライブである。Facebookを通じて招待されたが、こちらは日本のディープサウス、南九州で細々と生活しているルンペンプロレタリアート。大阪にライブを見に行くといっても、日帰りはちときつい。かといって、泊まりだと往復の飛行機代もホテル代もバカにならん。しかし、オレも男だ、ゼニカネというのはこういう時に使うのが、その本来あるべき姿だ。アベノミクスの恩恵などさらさら受けてはおらんが、こっそり蓄えておいた老後のためのウン十万の貯金(しかし、オレの貯金はそんなものかと通帳を見て涙したことは事実だ)を解約すれば何とかなる。これまでのわが人生、何とかなるだけの精神で生きて来た、それがパンクぞ、それが男ぞ、と己を鼓舞してツアーを決断。もっともその時はライブが25日の日曜なので、翌日の月曜日に休みを取り、1泊2日のツアーで行こうと思っていた。それでも、2年半ぶりの関西なので、学生時代の先輩、友人、後輩に声をかけて、前回は7月のクソ暑い時期に行った大阪夏の陣だったので、今回は大阪冬の陣と名付けて、OB会というか新年会をやろうじゃないかと提案した。

 提案したのは良かったが、毎回この手のイベントの幹事を主体的に取り組んでくれるT花君が23日の金曜日までしか関西にはおらず、翌日からは出張で九州に行くという。しばし、迷ったがこうなったらやけくそで23日に大阪で飲み会やって、24日は懐かしい京都の街をぶらついて25日に本命ライブを見ることにした。そうそう、花の75年度生トリオというのは僕とPurpleさんと、岐阜のThis Boyさんの3人だが、実は一度も全員一緒に顔を合わせたことがない。もちろん大学の同窓なので、キャンパスや京都の街のどこかですれ違っていたことはありうるが、お互いがお互いを認識した形で会ったことは無い。もっとも正確にいうとThis Boyさんだけは、彼の学生時代の様子を知っている。というのも彼はあの銀閣寺のライブハウス、サーカス&サーカスで僕のサークルにいたS戸君と一緒にバイトをしていたのだ。まあ、僕たちがサーカスに行ってライブを見たり、お酒を飲んだりするときにオーダーを取りに来たり、頼んだ飲み物やおつまみを持って来たりしてくれていた。ただ僕は知っているが、彼からすると僕はたくさんのお客さんの中の一人だから当然覚えているはずもないが。

ブーゲンビリア空港

 じゃらんで往復の飛行機のチケットと宿泊先を予約したのが12月の10日。それから出発の1月23日まで、年末年始を挟んで、しかもインフルにもかかったり散々だったが、それでも旅立ちの日はやってきた。2年半前の関西ツアーは指折り数えて待ったのだが、今回のツアーはインフルは治ったものの風邪のような症状が続き、一体全体、体調は大丈夫か不安が先行する旅だった。伊丹空港に行く便は13時発だったので、午前中に荷物をまとめた。ごろごろのついたバッグ1つに着替えから何から一式つめこみ、車に乗って宮崎ハイビスカスじゃなかった、ブーゲンビリア空港に向かった。空港の手前で、旅の間、車を預かってくれる駐車場に我がロールスロイスを預けて、その駐車場のワゴン車で空港まで送ってもらう。1日500円の駐車料金は高いのか安いのか良く分からないが、空港の駐車場に置きっぱなしだと1日1,000円以上かかるので、やはりリーズナブルといえるか。今回の旅はEチケットというやつで、飛行機の座席指定もすべてネットで済ませていたから、空港についたら荷物を預けてあとは本屋で立ち読みだ。2年半前の時は、偶然、文庫の『つぶやき岩の秘密』を見つけて購入したが、今回はなぎら健壱の『東京路地裏暮景色』を発見。手に取ってパラパラやってみたら、最初のほうに「“70年代”新宿物語」という項目があった。東京の過去の街の思い出と今の街の話が読み切りの連作になっている。雑誌の連載をまとめたもののようだ。高田渡が亡くなった時の話も書いてあったので、取り急ぎ保護。飛行機の中で読むには手ごろな感じ。

 金曜の午後1時の飛行機は満席だった。飛行機の中の細い通路を歩き、指定された座席に座る。じゃらんで予約したのは早かったが、飛行機の座席指定は今年になってやったので、窓際は全部予約済み。通路側しか残ってなかった。自分の席に座り買ったばかりの文庫を読んでいると、「すいません、ちょっと動いてもらえますか」という声がする。見ると、年のころは20代半ばくらいか、マスクをしているが、かなりイケると思われるおねいさんだ。一瞬、ざわちんかと思ったくらいだ、ウソだけど。彼女は自分の席に座りたいが、僕が先に座っているのでちょっと通してほしいということだろう。両手に大きな荷物を持っている。僕はすかさず、「荷物、上にあげましょうか」とよそ行きの声で話しかけたが、「あ、大丈夫です」と言われてしまった。たかだか1時間のフライトではあるが、隣の席がジジババか、きれいなおねいさんかで全然、旅の楽しさは変わってくる。今回は大当たりだ、さてどうやってナンパしようかと頭の中で謀議を凝らしていたら、おねいさんはスースーと寝息を立てて熟睡。結局着陸するまで起きなかった。いや、本当は目が覚めていたのだが、隣に座っているのが結構いい歳してるくせに迷彩色のパンツを履いた中高年パンク。これは身を守るためには狸寝入りが正解と思われたのかもしれん。そう考えると、ちょっと不愉快である。

 飛行機はほとんど揺れることもなく、機内でコーヒーやキャンディーのサービスも受け、快適な空の旅であった。伊丹について預けていた手荷物を受け取り、高速バスで梅田に向かう。以前来たときは、梅田でタワレコを見つけて、そこで1時間ほどCD探しをしたのだが、今回は本を読んでいたためタワレコの場所が分からず断念。地下鉄に乗り換え、ホテルのある淀屋橋に向かった。実は2年半前は淀屋橋の13番出口を出たまでは良かったが、持っていた地図を逆に見てしまい、炎天下の中、汗だくでホテルを探した。逆方向に歩いているから見つかるわけはない。人に聞くのもしゃくで、自販機でミネラルウオーターを買って、水分補給しながらホテルを探した。いい加減歩いたところで、あ、これ東西を逆に見てるんじゃないかと気が付き、そこからダッシュでUターン。エアコンの効いたホテルのフロントに入った時は涙が出そうだった。今回はさすがに一発でホテルまでたどり着いた。時計を見ると15時。マス坊が迎えに来てくれる約束だったので、メールを送りベッドの上でごろごろしているうちに寝入ってしまった。

 ノックの音がした。思った以上に熟睡していたようだ。部屋のドアを開けるとマス坊が立っていた。2年半前も全く同じシチュエーションを経験しており、一瞬訳が分からなくなる。それでも久しぶりの再会ではあるが、一言二言話しただけで、学生時代の雰囲気に戻れるのはうれしい。マス坊は手に紙袋を持っていて、それをこちらに渡す。「drac-obさんが、タケノコが好きなのは覚えてましてんけど、今はまだタケノコ採れまへんのや。九州も八女茶とか美味しいお茶があるの知ってますけど、京都のお茶も美味しいから飲んでください」とこれまたうれしい一言。そうなのだ、僕はタケノコが好きで、実はマス坊の住んでいる京都のその昔は相楽郡と呼ばれた地区は春先はタケノコが採り放題だという話を彼から聞いたことがある。

 僕は九州の男なので、たかが食い物のことをあれがウマいとかこれが美味しいとか、そんな女子供の腐ったようなことは言わない。言わないが、一生の間に一度は食べてみたいものに、タケノコの残酷焼きというものがある。それを知ったのは檀一雄の『檀流クッキング』を読んだ時だ。タケノコが生えている山に行き、まずは竹の落ち葉を拾い集め山にしておく。採れたばかりのタケノコのお尻のところをドライバーで穴をあけて、醤油を注ぎ込む。その醤油がこぼれないよう大根を切って、ドライバーであけた穴を埋める。落ち葉の山に火をつけ、醤油を入れたタケノコを、その山に突っ込む。あとはタケノコが焼けるのを待ち、取り出してそのまま食す。うーん、今、書いていてもよだれが出そうだ。贅沢である。それともう一つ食べたいものがある。瀬戸内海の鯛である。もっともこちらは吉行淳之介が子供の頃だから、まあ戦前の時代に食べた話をエッセイで読んだ。四国は塩づくりが盛んで夏場の暑い時期に浜辺で塩田というか、塩の山を作っていたそうだ。そこに取れたばかりの瀬戸内海の鯛の腹をさばいて、内臓を出し、あとはそのまま塩の山に突っ込む。真夏の太陽の熱と鯛の肉に沁みこむ塩のバランスが絶妙で、身を手で引っ張ると鶏肉のように裂けたそうだ。うーむ、こちらも今書いていてもよだれがでる。あ、結構オレ食い物の美味い不味いをいうタイプかもしれん。いやー、人間っていくつになっても自分のことが一番良く分からんな。

新年会会場

 などと、話がそれたが今回の大阪冬の陣、場所は梅田グランフロント、マス坊から聞いたが、最近できたばかりのビルだという。19時からの約束で、まだ18時を少し過ぎたところだったが、場所の確認もかねて早めに移動した。さっき梅田から淀屋場に来たところなのに、今度は淀屋橋から梅田である。ホテルを梅田で探せば良かったと思ったが、多分、梅田のホテルは高い、高いに決まっている、あそこに泊まるのはカタギの人間ちゃうと思いこむことにした。地下鉄を出て、くだんのビルに向かう頃はもう真っ暗で周囲のビルの明かりや行きかう車のヘッドライトが照明代わりである。街の中の人の多さと、車の多さにちょっとひるみながらも、心の中では、「なんだ、宮崎の中央通りやニシタチと変わらへん、大阪なんかに負けてへんわ」と、いきなりな関西弁で見栄を張る。まあ、自分で自分に見栄を張ってもしょうがないので、このビルの由来と中のテナントについてマス坊の話にいちいちうなづいた。目的の店は7階にあった。それまでのフロアは普通にテナントが入っていたが、7階は全て飲食店で焼肉や粉ものや寿司屋などいろんなお店が通路の左右にならんでいる。予約していた大阪おでんの店は一番奥にあった。

 19時より少し前についたので、多分まだ誰も来ていないと思いつつ、店員に予約していたT花の連れだと話しかけたら、目の前の席にT花君がいた。その横に、もしかしたら将来立派な作家先生になっているかもしれないS田君、おっと、ご夫婦で来ているのは初対面だがウェブ上で何度も写真を見ていて、全然初めての感じがしないM谷夫婦。どうも、どうも、子供達(by P-Model)とあいさつしながら席に着いた。5、6人が座れるテーブル席を二つ予約してくれていた。今回の飲み会に参加するのは、僕と同学年のN谷君、Hさん、後輩の鳥肌音楽ことI橋君、パンク・ニューウェーブのライブはかなり見ているN尾君、万年ネルシャツ、ブルースの鬼、O畑君、奥さんも同じサークルだったU田君、そして僕と僕をここまで案内してくれたマス坊の総勢12名。そろそろ約束の19時になるが、N谷君は名古屋からの移動だから遅くなるかと思いつつ、何気に後ろを見たらそこはビルの通路になっていて、置いてある椅子にN谷君が座っていた。「あ、なんや、お前、もう来てたんか」と、相変わらず口が悪い。しかも、後輩連中が挨拶しているのに完全シカトである。元暴力学生はこういうところがいかんなと、僕がその場で注意して行動をたしなめた。そのあと、Hさんもやってくる、U田君も、O畑君も来て全員合流。年齢差12歳の不思議な集団の飲み会がスタートした。

 しかし、考えてみると不思議なもので学生時代に一緒にサークルをやっていたのは、79年度生のI橋君、あ、違うか、80年度生のN尾君までなのだが、ウェブでいろんな形で再会して、ついにはFacebookに電脳サークルまで作り上げ、先輩、同級、後輩たちとの交流が始まったのだ。もっとも、ある先輩とは意見が合わず電脳サークルを辞めた方もいたが、ま、それはいいか。この手のサークルのイベントにレギュラーで来ている人たちと、今回がほとんど初めてみたいな人たちもいたが、それぞれアルコールの摂取量と比例して話が盛り上がる、声が大きくなる、なるのだがお店のパワーがものすごく、ちょっと離れた席にいる相手とはほとんど話が出来ない。まあ、それでもよもやま話、学生時代の話やここ最近の出来事、今、どんな仕事をしているかなど大いに盛り上がる。意外だったのはN谷君は姫路の出身なのだが、後輩(今回が初対面)のM谷夫妻の経営するお店を知っていたことが分かり、世間は狭いなという結論に至る。しかし、何といっても周囲の音がすごくて落ち着いて話が出来ない。19時に始まった飲み会だが21時に時間終了を告げられる。このまま黙って帰るわけに行かないので、もう1軒行こうという話に当然なる。もっとも、同級のHさんはシンデレラなので、もう家に帰らないといけないと言って、お土産に大阪名物塩昆布をくれた、実は、ワタクシ、漁村の生まれで昆布やわかめ、海苔など、あ、もちろん魚も大好きなのだ。しかし、マス坊は京都の玉露のお茶をくれるし、Hさんは塩昆布をくれた。N谷は何もくれなかった。昔からそういうやつである。I橋は松田優作のデビュー作のDVDをくれた。まあ、このへんは、なんというか、あれだな、僕の人徳だな。

 さて、次のお店はゆっくり話ができるところに行こうという僕の提案は、元暴力学生のN谷君の「カラオケ行こうぜ、ジャンカラでもいいよ~」という変に間延びした声にブロックされた。人が九州からわざわざ出てきて、久しぶりに仲間と飲もうというのにカラオケかよ、ま、しかし、カラオケは意外とその人の性格が出たりして面白い。結構ええんちゃうけ、と総勢11名はカラオケボックスに繰り出した。若干2名ほどがインターナショナルを歌いながらカラオケボックスに向かっていたが、インター、久しぶりに聞いたな(笑)。さて、そのカラオケであるが最初は1時間で申し込んで部屋に入ったが、そんなもん、終わるわけがない。結局延長して店を出たときは午前零時が近かった。終電間際の連中はダッシュで消えていき、僕は最初、S田君と一緒だったが彼は京都に帰るので地下鉄に乗る僕は一人淀屋橋に戻るのだった。カラオケ楽しかったね、しかし、誰かが入れた”As Tears Go By”を全員で合唱したのは、店員からすると不気味だったかもしれない。実はこの時のカラオケボックスの様子はICレコーダーに一部始終録音してある。この間聴きなおしたが、結論。カラオケはみんなで酔っぱらって大いに盛り上がるべし。後日、冷静に聴きなおすというのは修正主義である。ということで2日目の旅の話に続くココロだ~。

毎度、まいどの予告編



気がついたら、関西ツアーから1週間が過ぎてしまった。あっと言う間の3泊4日だった。それでも、いろんな人達との再会やウェブ上では知ってるものの現実的には初対面などの体験があり、大いに楽しかった。その時、その時に感じたことはiPhoneから投稿したが、やはり、ちゃんとまとめた話も書くべきだと判断。

少し書き始めたのだが、夕飯時にアルコールを摂取してしまい、まとめるのが面倒になった。こういう時はパンタから学んだ予告編シリーズが役に立つ。クリスタルナハトは何時出るのだ、などとジリジリしていたあの若き日。

えーと、言い訳でした。可及的速やかに、エントリーはアップするので、今しばらくお待ちください(笑)。

ちなみに、写真は伊丹空港のイメージキャラクターだと思われる。





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