緊急業務連絡

 ついに、あの宮里陽太の全国ツアーがスタート。大阪は4月28日、なんとヨンテンニーハチ、ヨンニッパ、沖縄デーだ!!すべての戦闘的市民、学友諸君は結集せよ。非戦闘的市民、学生、労働者諸君も結集せよ。密集した隊列でハードなジャズを体験せよ!!


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旅の終わり



雲の上をフライトしたが、思っていたほどは揺れなかった。学生時代は、雨の日の飛行機は憂鬱だったか、飛行技術も飛行機の性能も向上してのだろう。予報では、宮崎も雨とアナウンスされたが、着いてみると、雨は上がり太陽が顔を見せていた。今回の旅も終わりか、いやいや、旅は家に帰り着く迄が旅だ。高名の木登りの話など思い出して、安全運転で帰ろう。





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雨のエアポート



日頃の行いのせいで、旅行中は天気に恵まれたが、最後の最後で雨がしとしと月曜日である。窓際の席を予約したが、景色は楽しめそうにない。また、アナウンスでフライト中はトイレが使えない、要するに揺れるみたいだ。ま、しゃーない。あばよ、伊丹。また、すぐ来るからな。今回の旅行でお世話になったみんな、ありがとうございます。




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伊丹でランチ



朝食が、うどんだったのでランチはラーメン。2年前に来た時に食べた醤油ラーメンが美味しかったので、空港内の中華料理屋に入った。出町の王将で、記憶は味覚を美化するという体験をしたばかりだが、残念ながら今回もセイムケース。麺が、ダマになっている。茹で時間が問題なのと、テボの湯切りが不十分とみた。

さらに、若干塩辛い。あ、これはオレが胡椒と間違えて塩を振ったせいか。さて、この後は、土産用に鯖寿司を買って行こう。

追記:ラーメンが不味いと悲しいというのは、ロバート・フリップと共有できていると思う。何故なら、「LAMENT」という演奏に不味いラーメン食わされて、ワイは怒ってるねんという録音がある。





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梅田でうどん



大阪最後の朝は、ホテルでのんびりしてシャワーを浴びて梅田へ。高速バスの乗り口は阪急なので、誰がなんと言おうと梅田である。腹が減ったので、大阪名物のけつねうろんを食べる。立ち食いの店で、うどんの写真を撮っていたら、心なしか店の親父の視線を感じた。

壁を見ると、撮影禁止の張り紙がしてある。なるほど、それでか。しかし中高年不良パンクは無視するのだ。

追記:このうどん、大変不味かった。うどんは出汁をしっかりとったつゆと新鮮な麺と大ネギがあれば失敗することは無いのだが。実に残念である。肝心の油揚げ、要するにきつねもアカン。天かす入れ放題に甘えたらあかんぞ。おやじ。



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しまった、見逃した



ライブがはねて、デューク先輩とホテルのある淀屋橋で会食。それも終わり、一人でホテルのビーテレを見ていた。見たい番組も無く、チャンネルを変えていると、赤ちゃんの泣き声がした。ん、と思って画面を見ると、愛の水中花の人が涙を流している。あ、もしかしたらつかこうへいの、ハイ、蒲田行進曲でした。つか劇団のみんな、若い。恋人も濡れる街角は、この映画の挿入歌だったのか、と思い出した。

なんとなく、これで今度の旅も終わりだなと感じる、ちょっとセンチメンタルシティロマンスなオレ。





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ライブ終了



ソウルフードカフェのライブ終了。すいません、ここまでやるとは思いませんでした。多分、100人以上入っていたと思う。写真は、ライブ終了後の飲み物を求める行列。このライブでPやんとも会えたし、岐阜のTHIS BOYさんとも会えた。感謝。





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あばよ京都



昨日の昼前に着いたと思ったら、もう大阪戻りである。地下鉄に乗ろうと市役所の前に来たら、何と山本覚馬と八重の邸宅跡の石碑があり、しばし合掌。その後、新快速に乗り換えたら、満席。目の前をJKのグループがいて、まあ、しゃべる、しゃべる、パワーシャベル。あっという間に梅田大阪である。

さて、これから今回の旅行の目的であるライブハウスに向かう。

追記:この後不思議な体験をした。山本覚馬と八重の邸宅跡の写真を家族にメールで送ったが、エラーになった。そのあと、メール機能が全く使えなくなって、連絡はすべて通話。電車に乗っているときとか、ちょっと電話はどうかと思うときにメールは便利だが、なぜかすべてエラーである。理由は全く分からない。大阪に戻ってライブを見た後くらいからは使えるようになったが、いまだに原因が分からない。ひとつ、心当たりはある。同志社創立に全人生をかけたお二人からしたら、6年も通って挙句は中退するやつなど、同志社の人間ではないというメッセージではないか。それならそれでいいけど、いっちゃ悪いが同志社に通ったおかげでオレなんか完全に社会的な成功は無くなったけんね。赤ヘルがどうしたとか、ここにこなけりゃ、あ、他所に行ってても同じか、そりゃすまん。え、学生自治だとかなんだかんだ吹き込んだのはそっちじゃけんね、オレは九州の純情な少年だったんやけんねと、言いたい。もう今更取り返しはつかんが。しかし、今回の旅で一番不思議な体験だった。



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ブレックファースト・イン・京都



ミールクーポンが付いていたので、普段は食べない朝食をホテルのレストランで食べる。ジャスのソロピアノが流れるシャレオツなスペース。そこに迷彩色のパンツにネルシャツなワタクシは、明らかに場違い。京都新聞を手に取ると、イスラム国の事件が一面トップ。なんとなく周囲の視線がトゲトゲしいが、こんなことは大学の一回生の頃から慣れっこである。どんなモンダイ(笑)。





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結局、薬局



出町の王将で、早目の夕食を食べて河原町三条に戻る。ジュンク堂で、目をつけていた本を結局、購入。村八に憂歌に、ヨースケ。後は、封建主義者の対談。オレの傾向と対策は、70年代からでんでん変わってない事に気がつく。ま、しゃーない。




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少し早目のディナーは



出町の王将である。先ほど、エイデンに乗って修学院まで行ってきた。僕の京都生活がスタートした街だ。前回行った時は、営業してなかった塩見百貨店が開いていて嬉しかった。

かなり歩いて腹が減ったので、出町の王将に入る。餃子とビールと酢豚である。学生時代は仕送りが入った時か、バクチでアブク銭が入った時しか食えなかった。店内は、相変わらず男100パーセント。テレビで相撲を流していたが、昔はテレビはなかったと思う。ビールは、昔と同じ大瓶が出てきた。餃子の味は変わらないが、酢豚はこんなものだったかな、という感じ。ま、記憶は美化するからな。

さて、飯を食ったら三条河原町でナンパじゃ(笑)。





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この広いベッドはいったい何?



結局、ジュンク堂に1時間以上居て、ようやくホテルにチェックイン。前回は堀川今出川のホテルで、レンタルの自転車もあり快適だった。今回は残念ながら、予約が取れず仕方なく河原町三条のちょっと贅沢なホテルにした。最初はホテルの入り口が分からず駐車場まで行ってしまった。何とかフロントにたどり着くと、隣りには紅毛碧眼人がいた。何とフロントも紅毛碧眼人である。幸か不幸か、僕の接客をしてくれたのは、きれいなおねいさんで朝の新聞はどこが良いかと聞かれ、思わず「宮崎日日新聞」と言いかけて、慌てて訂正。「同学新=同志社学生新聞)」は無いかと聞いたが、そもそも新聞局はもはや無くなっている、かな。

エレベーターに乗って9階のボタンを押したが、その階には止まらないとアナウンスが流れる。仕方ないので、隣りのエレベーターに乗ったが同じ。『どないなっとるんや、ここは。たっかいカネ取って、エレベーターはポンコツかい』、と暴れようかと思ったが、そういえば、さっきのおねいさんがセキュリティがどうのこうので、黒いところにカードを何たらとか言ってたことを思い出し、カードキーをかざしたら、無事9階までたどり着くことが出来た。

部屋に入ってクリビツテンギョウ。ツインベッドやないか、ワシ一人しか泊らんのに、何やこれは。あ、そうか、ここは恋の街京都。しかも三条河原町。ヨシ、これからナンパや。そそくさ出かけるアイククじゃない、オレだ。





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せっかく京都に来たのに



ランチはラーメンである。ホテルが河原町三条にあるので、初めて地下鉄の東西線に乗り換えた。お昼になっていたので、何か食べようとブラブラしたら北白川ラーメンという看板を見て、吸い寄せられたように入ってしまった。背脂たっぷりのラーメンに、何とネギは入れ放題。昔は天一もこうだったが、今やお金を取るという階級的堕落を遂げている。以前、テレビで天一の社長を見たが、世の中ゼニやと顔に書いてあった。ウソだけど。

ラーメン食べて落ち着き、そばのビルを見るとジュンク堂の看板が。またもや、吸い寄せられふらふらと店内へ。地元では買えない本が沢山あり、どれを買おうか迷う。うーむ、あちらを買えば、こちらが立たない。などと考えているうちに、ふと気がつく。ラーメン食べて本屋をうろつくって、オレは京都に来たというのに、いつもの生活と何も変わらないではないか?





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なのにあなたは京都に行くの?



昨夜は、学生時代のサークルの仲間と新年会。70年代、80年代のメンバーと大いに盛り上がり、二次会はカラオケに乱入。まさかのGSから始まり、ワタクシはエンケンの「不滅の男」を熱唱。その後も宴は続き、ホテルに帰った時は日付が変わっていた。

さて、本日は京都に移動。JRの新快速に何とか座れて、移動中。







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大阪へやって来た



1時間のフライトは、降りる時に少し揺れたが、おおむね快適だった。満席で僕の座席は通路側で、窓際は空いていた。誰が座るかと見ていたら、ヤングなおねいさんが荷物を沢山持ってやって来た。すかさず、座席を立ち、荷物を入れる手伝いをした。人として当然の行為である。もっとも、これがダンカイのジジババだったら無視していいと日本国憲法にも書いてある。

これがきっかけで、おねいさんと楽しく会話した、訳はなく、相手は離陸と同時に爆睡。手に持っていたパンフから宝塚のファンだとわかった。

さて、伊丹に到着したが快晴だった宮崎と異なり、あいにくの曇天。気温も8度と、少し寒い。半袖、短パン、ビーサンでいた宮崎からすると寒い。それでも、これからリムジンに乗ってホテルに向かうワタクシであった。





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旅の始まり




およそ、2年半ぶりに関西ツアーである。今回の目的は、大学の同窓でblog仲間であるPやんのライブ参戦。僕のいた研究会のサークルと違い、あのウェストロード・ブルースバンドを生んだ演奏系のサークルにいた彼とは、学生時代には面識はなかった。それが、塩次伸二のライブがきっかけで、ウェブで出会った。

さらに、銀閣寺のサーカスでバイトしていた、こちらも大学の同窓になる岐阜のTHIS BOYさんとも出会った。そして、花の75年度生トリオが結成されたのだ。ま、これは僕が勝手に名乗っているだけだが。

いつもなら旅の初騒ぎで大変な筈だが、先週のインフルエンザ以来、イマイチ元気が出ないが、それでもサヒカブイの関西。楽しみだ。出町の王将で回鍋肉を食べながら、この一年を考えてみよう。




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うーん、前もこんなん書いた気がする

 年末年始は家族にインフルが流行り、僕は大丈夫だったがエライな目にあった。そのおかげでblogの更新もほったらかしだったし、第一に大掃除もなし、年賀状も元日にPCソフトを使って一気に仕上げた。漏れた人もいるかもしれんが、次回はちゃんとやりたい。で、年末年始の出来事をアップするつもりだったが、前回作成したCDに続いて今度は日本のロックのCDを作ってほしいという依頼があり、とりあえずMP3で保存していた音源をもとに作ってみた。選曲もコメントもオレらしいなと思うが、本日はそれをアップして新年のご挨拶に替えたい。てか、今月末に2年ぶりの関西ツアーを予定しているので、そちらに気持ちが傾いていて落ち着かないのだ。ていうことで以下はコピペ。

極私的70年代日本のロック その1

1、 I’ll Sing The Blues For You by ウェストロード・ブルースバンド
 同志社大学の軽音楽サークル、ライラック・レインボーに在籍していた、塩次伸二、永井隆らが中心になり結成された。バンド名はメンバーが西大路近辺にたむろしていることが多かったからという説もある。70年代の関西にはブルース・シーンがあり(今も多分ある)、数々のバンドが活躍していたが、その中でも人気実力ともに突出していた。この歌はアメリカに渡った、もう一人のギタリスト山岸潤史に向けて歌われている。なお、B・B・キングにもそのギターの腕を絶賛されたギタリスト塩次伸二は2007年宮崎でのライブを行った翌年に栃木県で急病のため亡くなった。合掌。

2、 ブルドッグ by 近田春夫&ハルヲフォン
 著作『考えるヒット』シリーズなどで、すっかり文化人の仲間入りした近田春夫が1978年にリリースしたアルバム、『電撃的東京』からの1曲。オリジナルはフォー・リーブスのヒット曲。パンクやテクノポップがヒットした78年に、それまでの歌謡曲を近田のセンスでまとめた名盤。何しろ山本リンダやピーターの歌が見事にロックに変わっていて、最初聴いたときは開いた口が塞がらなかった。ハルヲフォンの次に近田が結成したバンドがビーフで、このバンドのメンバーがのちにジューシー・フルーツを結成して「ジェニーはご機嫌ななめ」をヒットさせたときは、またもや開いた口がふさがらなかった。というか、ライブで見たイリアは、やはり可愛かった(笑)。

3、 月光仮面 by モップス
 GSといってもガソリンスタンドのことではなく、グループ・サウンズのことである。あ、グループ・サウンズもご存知ないか?ジュリーがいたタイガースだとか、ショーケンのいたテンプターズとか失神バンドといわれたオックスなんかがいたんだが、えーと詳細はWikiで調べてください。そのGS時代から活躍していたモップス。もっともボーカルだった鈴木ヒロミツも亡くなって早8年が過ぎようとしている。GSブーム真っ只中の67年に「朝まで待てない」でデビュー。アニマルズのエリック・バードンに心酔していたヒロミツの黒っぽいボーカルと星勝のエッジの効いたギター、そして何といっても歌謡曲とは一線を画したセンス、演奏スタイルで一部の熱狂的マニアを作ったが、メジャーにはなれなかった。もっともいまだに英米ではカルト的な人気があり、彼らのLPレコードはかなりな高額で取引されている。この曲は客の少ないライブハウスのステージでアドリブ的に始めた演奏が元になっていて、深夜放送で大ヒット。この後、よしだたくろうの「たどり着いたらいつも雨降り」や陽水の「傘がない」などをロックにアレンジして歌ったが、フォークに魂を売ったと偏屈なロックファンから目の敵にされる。余談だが、初期の井上陽水のアレンジャーは星勝が担当、あのアルバム『氷の世界』は陽水のセンチメンタリズムと星勝のクラシックセンスを取り入れたアレンジで大ヒットした。

4、 パチンコ~ランランブルース by 憂歌団
 関西ブルース・シーンを語るときに憂歌団を外すわけにはいきません。天使のだみ声と評価される木村の超個性的なボーカルにカルピスの瓶で作ったボトルネックを駆使する内田勘太郎のギター。ベースとドラムは派手さは無いが、しっかりリズムをキープしてバンドにグルーブをもたらす。デビュー当時はアメリカの黒人ブルースに日本語の歌詞を乗せて歌うことも多かったが、だんだんオリジナルも増えてきて、このパチンコは初期のライブで「スティーリン」と並んで大いに盛り上げる演奏だった。1975年12月20日に初めて憂歌団を磔磔で見たが、その当時からステージパフォーマンスは堂々たるもの。演奏の半ばで木村が「オレ、もう歌うの飽きたから、お前歌えや」と勘太郎に振り、勘太郎がしぶしぶ「イコマ」を歌うシーンは大笑いした。バンドのドラムを担当していた島田が2012年に自殺。そのことがきっかけでそれまで休眠状態だった憂歌団を再結成。ドラムは元RCサクセションの新井田耕造が加入。なお、木村と内田は憂歌兄弟というユニットでも活躍中。

5、 私は風 by カルメン・マキ&OZ
 70年代を代表する女性ロックボーカリストというより、ロックバンドOZを率いたカルメン・マキ。デビューは「時には母のない子のように」で、暗いフォークの娘というイメージだったが所属したレコード会社(CBSソニー)の社長が彼女のヒットを祝って、当時流行していた英米のロックのアルバムをプレゼント。その中にあったジャニス・ジョップリンのレコードを聴いてロックに目覚める。1972年に当時18歳の天才ギタリスト春日博文らとOZを結成。バンドデビューの前は荒木一郎の家で練習をさせてもらっていたが、母親で女優の荒木道子はとても怖かったと、これはマキさんご本人から伺った話(ちょっと、得意顔)。この曲は中森明菜などがカバーしたり、CMで使われたりしたので聞き覚えがあるかもしれない。ちなみに今のカルメン・マキはロックだフォークだジャズだ、などといったレッテルとは無関係、はるかに遠い存在になっている。浅川マキの歌を歌わせたら、彼女にかなう人はいないだろう。

6、 ロボット・ラブ by リザード
 79年に東京ロッカーズのなかの1バンドとして登場してきたが、それ以前は紅蜥蜴というバンド名で活躍していたキャリアの長いバンド、というかバンマスのモモヨ。77年にロンドンとニューヨークで突然起こったパンクロックムーブメントは、あっという間に日本にも浸透してきて、それまでほとんど楽器を持ったことのない人間も、それ以前は従来のロックバンドをやってきた人間も一気にパンク・ニューウェーブの流れに飲み込まれた。そんな中でロンドンからやってきたストラングラーズ、特にメンバーのJJバーネルに気にいられ、リザードはロンドンでレコーディングも経験。この曲はオムニバス・アルバムである『東京ロッカーズ』にもおさめられている。

7、 スウィート・ホーム大阪 by ファニー・カンパニー(桑名正博)
 70年代初頭、東のキャロルに西のファニカンと言われたロックンロールバンドで桑名正博がリード・ボーカル。70年代当時は大阪弁で歌を歌うというのはタブーではなかったが、色物的な見方をされていた。その中で、♪あんさん、新聞読んだはりまっか、排気ガスはひどいし事故も多おまんな~とぬけぬけと歌う桑名とバックの軽快な演奏は目立った。キャロルがありえないテーマで歌う(ルイジアンナなんて日本人がいるかよ)のに比べて、地元大阪の日常をさりげなく歌うファニカンは関西では圧倒的な人気があった。もっとも桑名は会社の社長の息子で、いわゆるええとこのボンだったので貧乏学生からは嫌われる一面もあった。その会社も倒産寸前まで行き、ボランティア活動しながら再建に取り組む姿に拍手を送っていたが、残念ながら病に倒れて今は彼岸の国の住民である。そうえいえばアン・ルイスの最初の旦那だった。

8、 ミスター・クラウディ・スカイ by 五輪真弓
 ちょっと信じられないかもしれないが、70年代初期、ユーミンと五輪真弓はほぼ同時期にデビューしたが、注目度は圧倒的に五輪真弓が高かった。何といってもキャロル・キングをバックにロサンゼルス録音という派手さ。方や、ユーミンはほとんどキャンペーンらしいものは無く、僕が学生時代に販促用のシングルを偶然手にしたことがあったが無地の紙袋に入ったシングル盤で、その白地の紙袋に赤いゴム印でユーミンとだけ書いてあった。ユーミンというのは曲名なのか、バンド名なのか最初は分からず混乱した。その五輪真弓、後年は「恋人よ」で、妖怪人間ベラに似たルックスをテレビに登場させるわけだが、そのヒットまでが長かった。この曲は多分、ニール・ヤングの「See The Sky About To Rain」からヒントを得たと思うが、のびやかな彼女のボーカルが印象的である。

9、 不滅の男by 遠藤賢司
 純音楽家エンケンの歴史的名盤『東京ワッショイ』収録の1曲。「カレーライス」や「ほんとだよ」などの抒情的な歌でフォーク・シンガーの印象が強いが、フォークやロック、ジャズにパンクなどカテゴリーにとらわれないフリーフォームな活躍を現在まで続けている御年67歳。この歌詞で歌われている相手は誰か、当時いろいろ考えたけどフォークのプリンスと言われたY田T郎なのか、あるいはI上Y水なのか、それともそういうミーハー・ミュージシャン全般を歌っているのか。とにかくエンケンはバカヤロで天才なのだ。

10、 ロシアン・ルーレット by 山本翔
 このライナーを書きながら、ふと思ったのだが70年代に活躍したミュージシャンの多くが鬼籍に入っている。この宇崎竜童が作った軽快なロックンロールを歌った山本翔もすでに他界している。70年代末期のパンク・ニューウェーブ時代に、あの土屋昌巳のいた一風堂をバックに颯爽とデビューした和製ミック・ジャガーこと山本翔。当時行きつけだったライブハウスに若い女の子が殺到して、ものすごい黄色い声の中でバンドを従えて出てきた。多分、ロックのライブに行くのは生まれて初めてみたいなお嬢さんばかりでノリもいまいちだったが、その客に対して「しけたお客」とつぶやいたのは大変むかついた。アンコールにストーンズの「ミス・ユー」をやったが、確かにミックに良く似ていた。もっともそれだけだったが。

11、 ダブル・ディーリング・ウーマン by 紫
 70年代の日本のロックシーンの特徴は、東京以外の地方都市から登場してきたバンドが一気に増えた点が上げられる。その中で本土復帰したばかりの沖縄(信じられますか、当時はまだ沖縄はアメリカの統治下にあり、パスポートがないと行けなかった)から、突然登場してきた紫は衝撃的だった。たとえばクリエーションが「You better go」というオリジナルを「ゆべーたごー、ゆべーたふぁいんだうつ、ゆべーたうぇいてんぐふぉじあざーがい」とまるっきり日本語で歌っていたのに対して、紫はネイティブと変わらない発音で(てか、巻き舌ですよね、ジョージ紫は)歌った。そしてサウンドは完全にディープ・パープルそのもの。米軍のキャンプで鍛えた演奏能力とリーダーであるジョージ紫のセンスが光るこの1曲。イントロからエンディングまで一気呵成とはこういうことを言うのだ。この紫の本土での成功が後のコンディション・グリーンや喜納昌吉の登場を促すといってもいいと思う。残念ながら紫はアメリカ進出直前で解散してしまうが、もしそのままアメリカでのデビューが決まっていたら、日本のロックシーンは大きく変わったかもしれない。ちょうど、プロ野球で野茂がメジャーの道を切り開いたように。

12、 路地裏の少年 by 浜田省吾
 迷ったのだが、やはりハマショーのこの歌は入れておきたかった。「マイ・ホームタウン」にしようかとも思ったが、やはり彼の原点はこの歌だと思う。青春、葛藤、ジレンマ、夢と希望、そして挫折と永遠のセブンティーン、浜省の代表曲。

13、 ハドソン・リバー by レイジー・ヒップ
 これは70年代後半に関西の、それもライブハウスに入り浸った人間しか納得してくれないかもしれない。が、しかし、いいバンドだったんだよ、レイジー・ヒップは。西岡恭蔵が作ったこの曲をからっとしたサウンドに仕立て上げた一番の理由はグァムで録音したから、なんていうのは楽屋落ちであるが、しかし、ボーカルの千秋ののびやかな声と長田タコヤキのスライドギター、それに絡む安っさんのギター。キーボードはのちに千秋と結婚するチャールズ清水が弾いているが、バンドメンバーではない。加川良が気に入ってバックバンドとしてツアーに出たり、彼と一緒にアルバムを作っているが、もっともっと評価されていいバンドだと思う。

14、 はいからはくち by センチメンタル・シティ・ロマンス
 ご存知、はっぴいえんどの曲を兄弟バンドといってもいいセンチがアルバムにまとめた『はっぴいえんど』から。バスドラの音から始まり、GOという掛け声とともに懐かしいはっぴいえんどの歌がよみがえる。今調べたら83年のアルバムだが、センチのデビューは70年代だしはっぴいえんどは日本語のロックを確立した第一人者なので、許せ。

15、 どうしようかな by 村八分
 70年代というより、日本人が日本語でロックをやるというのはこういうことなんだとつくづく考えさせてくれるのが、村八分。演奏能力はフジオちゃんのギター以外は特に突出しているわけではないが、チャー坊のやる気のないような歌い方の中にブルースはあり、ロックはあったと思う。オリジナルアルバムは2枚組ライブだけという潔さ。このバンドの再結成ライブを体験できたのは6年間の学生生活の中で最大の収穫だったと思う。

※まとめ~やはり1枚のCDに日本のロックをまとめるのは当然無理であり、今回はMP3の音源なので音質もあまりよくない。もう少し系統だてて作ることもできたが、休日の合間にあれこれ考えながら編集したのでまとまりがないといえばないが、それこそがロックではないか。パンタはどうした、INUがないぞとかいろいろなご意見はあるでしょうが、とりあえずパート1というか、導入ということで。

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