帰ってきた過去への旅路  遥かなる田辺その3

 さて、前回は学生時代最後の2年間を過ごした下宿(別に賄いは付いてなかったがアパートという呼び方は当時一般的でなく、多くの大学生は下宿と呼んでいた)、清友荘の話まで行ったが、実はその前日に出町時代の下宿も探していた。河原町今出川の信号の少し手前(同志社側から見て)、西側の細い道に入り出町のアーケードを横切って500メートルくらい行ったところの右手に駐車場があり、その奥に2階建ての一軒家があった。そこは全部で7室ある下宿屋で、1室は近くの会社の労働組合の会議室として使われていたので、実質は6人の下宿生が入居していた。その場所を探してみたのだが、ついに分からなかった。ここかな、と思う場所はあったが、N谷君とデューク先輩と一緒に歩いていたので、自分の下宿探しだけに時間をかけるわけにいかなかったのだ。しかし、僕の京都生活の最初の2年間でお世話になった修学院の下宿は、ちゃんと場所も特定して写真も撮れた。もっともこれは翌日のサイクリング・ブギの1日でアップする話だった。

若冲

 変わり果てた清友荘から来た道を引き返し、今度は相国寺の中を歩いてみた。ちょうど、伊藤若冲の展覧会の看板が出ていた。見たかったが、K君たちと約束していた時間まであと1時間もなかったのであきらめた。相国寺の広い敷地内を歩き、学生時代はその歴史的価値に全く気がついていなかったことを反省しながら、いやいや人生幾つになっても勉強である、幾つになろうが学ぼうという気持ちさえあればいいのだ、などと自分に都合よく考えた。こういうポジティブなところが僕のいいところだ。誰も褒めてくれないので自分で褒めておく。ちなみに僕は典型的なA型・長男タイプで、要するに褒められるととことん伸びるというか、まあおだてに弱く頭に乗りやすいという特質を持っている。反対に批判に弱いというか、怒られるとすぐ凹む。やる気をなくす。オラァどうせだめだ。スカだ、カスだ。生きていても価値が無い、などと極端に走る。いったい何がどうしてこういう性格になったのか、こればかりは幾つになっても分からない。

相国寺

 などとつまらないことを考えているうちに時計は10時半を回っていた。K君、N谷君と合流する時間は11時の約束だったので、急いで寒梅館に向かった。その昔、学生会館と別館があった場所に出来た立派な建物が寒梅館である。以前の学生会館時代の面影は全くないなと思いながら、建物のエントランスに近づいたとき、ふと気がついた。この入り口に向かう階段と吹き抜けの通路は昔の感じが残っている。その昔、烏丸通から学生会館に向かうと4~5段くらいのゆるやかな階段があり、そこを上って学生会館の正面入り口横をすり抜けて中庭も過ぎると、別館の2階に上がる階段と、そのまま1階に向かう入り口があった。学生会館のあった頃は、烏丸通を向いた正面には大きな立て看がいつもかかっていたし、古くなった立て看は外されて建物の通路の壁に立てかけられていたっけ。中庭には大きな花壇があり、そこは木陰となるため夏場などはその花壇の外輪に腰をかけて友人たちとジュースを飲みながら雑談したものだ。当時はコカコーラ社が出していたハイシ―という缶ジュースの果汁30%のオレンジジュースや50%のアップルジュースが何故か人気だった。ただBOXにまだ開けていない缶ジュースを手に持っていくと、先輩(頻繁にこれをやるのはボーリョク学生のT原さんだった)から「おう、キョーサン主義者」と言われてジュースを取り上げられた。なんで金を払ったオレが飲む前に、先輩がプルトップを開けてジュースを飲むのか、これはサクシュではないのかなどと疑問を持ちつつも、南九州で受けた教育(先輩を立てる、年長者を立てる、ならぬことはならぬものです、あ、最後は違うか)のお蔭で耐えることしかできなかった涙の1回生時代というものもあった。

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 新しく出来た寒梅館の、やはり中庭を通ると吹き抜けになっていて両側に高くて大きな木が植えられていた。そしてその木々の間にベンチやテーブルが置いてあった。エクステリア用の固い金属製のベンチに腰かけて、ぼんやりしていたら突然、「××さん?」と僕の実名を呼ぶ声がした。振り返ると、そこにはK君がいた。僕が3回生の頃の1回生で、77年度のDRACの会長を務めた男である。その後、工学部の自治会選挙に名前を貸して、自治会のメンバーとしての実質的な活動はほとんどせず、サークルの会長職を黙々とやっていた男だ。ちなみにその時の選挙に甘い言葉で騙されて出て、パシリ代わりにこき使われたのがT畠君という78年度生だった。子供の頃に頭が良くなるからと言って母親から毎日味の素を飲まされた芦屋の医者の息子だった。その話はさておき、K君はモテナイ野郎ばかりの僕らのサークルでは、数少ないステディの彼女を作っていた男である。ちなみに今の彼の奥さんはその時の彼女である。名前は♪大学ノートの裏表紙に~、おっとこういうことを冗談でも書くと夫婦そろって烈火のごとく怒るので止めておく。

 しかし、K君とも多分四半世紀ぶりくらいの再会になり、お互い体形や外見はかなり変わったものの話し方や口ぐせ、雰囲気は学生時代とほとんど変わらない。あっという間に空白だった時間が消えていくのを感じた。彼は今、D大(あえて匿名)の大学職員をやっており、今回の僕の関西ツアーの日程を連絡した際に、『日曜日に昔の別館のあった寒梅館で一緒にランチをしましょう』と言ってくれた。こちらは気軽に学食で飯でも食うつもりでいたら、なんと『寒梅館の最上階にあるフレンチレストランで会食しましょう』というのだ。そんなプチブル的な場所で飯など食えるか、オレ達の学生会館を取り壊してD大当局が筑波中教審路線に迎合して大D志社5万人構想の一環として、そのシンボルとして作り上げた建物で飯など論外だと、最初は怒ったのだが、良く考えてみたら次はいつ京都に来られるか分からないし、まあ、いまさら教条主義的な事を言ってもしょうがない、とりあえず昔の後輩と会うんだからええんとちゃうかという判断で本日のランチは決定したのだ。このあたり粗野なセンパイが読んだら激怒して「小生は本物だが、お前はエセサヨクだ」というかもしれんが、何、そんなことに構ってられるか(笑)。

 K君からN谷君のことを聞かれ、彼も多分この周辺をうろついているはずだから、携帯で呼び出し晴れて3人揃って寒梅館に入った。驚いた。学生が沢山いるのは当たり前だのクラッカーで驚かないが、皆さん真面目にお勉強しているのだ。おい、ここは数々のサークルのあった元学生会館じゃないのかとK君に聞くと、70年代後半のアホ学生と違って今の学生さんは良く勉強すると答えた。少しムカつく。建物内のロビーの雰囲気は談話室みたいな感じなのだが、バカ話をして笑い転げたり、何かに怒って罵声をあげている奴などひとりもいない。みんな黙々と本を読んだり、タブロイド、違ったタブレット式の端末を見たりして大人しいのである。うーん、リーマンショック以降の就職氷河期を経験した学生諸君は、サークルや異議申し立てなどのオールドファッションドなものには振り向きもせず、ひたすら単位取得、資格や知識の習得に人生をかけているのか。なかなか不思議、いや不気味な光景ではあった。

寒梅館から見た風景

 D大の職員であるK君に、ええい、面倒だ、同志社の職員のK君にこの寒梅館が出来るまでの話や、以前別館に存在した各種サークルの記録、レジュメ、資料などは整理され資料として収納されていることなど(これは獺祭書房の水野さんのレポートなどで既に知っていたが)の話を聞きながら最上階に上った。さすがに見晴らしがいい。京都は観光都市なので条例で高層建築には制限があるので、この周辺には寒梅館より高い建物はあまり見当たらない。したがって四方八方が見渡せて気分が良かった。レストランに入ると正午前だったのに、客は一組もおらずウェイトレスのおねいさん達も手持無沙汰な様子だった。さっそくテーブルに案内され、先ずはビアで乾杯した。昼間っから呑むビアは実に旨い。目の前には大学時代の同級生と後輩が、さすがにあれから30年以上経過しているので年輪を感じさせる風貌になってはいるが、話す内容や話題は当時の仲間の噂話で下世話な事この上ない。勿論僕もその手の話は大好きなので、あいつは学生時代はこうだったけど、やっぱり社会人になっても変わらんか、うーん、こら死ぬまで変わらんな、などと話題が尽きない。

 そうしているうちに、片方のおねいさんが「こちらは同志社のワインです」と言って赤ワインのボトルを持ってきた。テイスティングというか、いわゆる味見をしろとグラスに少し注いで渡したので、「うーん、少し渋みがたりないな。このワインは岩倉で獲れた葡萄かな。僕はもっとフルーティな太秦のワインがいいのだが」みたいなことを言ったけど、軽く笑われてスルーされてしまった。バカ野郎、ワインの味など分かるもんか、田舎者がと思っているかもしれんが、実はオレの田舎は都農ワインとか五ヶ瀬ワイン、綾ワインとか結構有名どころがあるんやぞ、もっともオレが普段飲むのは2リットル入りの安ものだが、などと言わなくてもいいボロは言わないほうがいい。しかし昼間からビアの次はワインとまさにプチブル的でデカダン的であるが、実に気分はいい。うーむ、やはり貧乏人はアカンな、立身出世して銭儲けせなアカンとそういうことは学生時代にしっかり考えておくべきことをいまさら思ってもどうにもならない。今回一緒にメシを食ってるN谷君は、今や大手企業の部長職だし、K君は大同志社の職員で田辺では結構いい顔らしいし、それに比べてオレは未だにルンペン・プレカリアート。こんな人生にだれがした、あ、オレがしたのか、自業自得だ。

メイン

 などと内省の時間を過ごして、新島先生に許しを請おうとしたその時に、メインディッシュが運ばれてきた。旨そうな肉料理である。あっという間に平らげる。パンもサラダもとてもおいしくてバクバク食ってしまう。そしてデザートもお洒落で、見るからに糖分過多というか、紅毛碧眼人はこんなもんばかり食ってるから痛風とか糖尿病になるんじゃボケ、我がポンニチは味噌と豆腐と麦飯、魚はイリコかメザシがごちそうだから、成人病なんかと無縁じゃ、どうじゃ、と言いたいが、生憎僕も血圧がやや高めだし、中性脂肪も注意しろと医者から言われてるし、多分口に出さないが目の前の二人も同じような状況ではないか。美食は人間をダメにする、人間は粗食が一番、などと思いはするがたった一度の人生。旨いもん食って好きなことしないでどうする、などという考えで過ごしてきた結果が今のありさま、とまた内省の時間に入りかけたが、「この後どうします」というK君の言葉で我に返った。

デザート

 実は、この後は特別予定していることはなく、僕は修学院にでも行って散策しようかと思っていたのだが、せっかくK君もいるし、共に移転反対運動を闘ったN谷君も一緒なので、そうだ田辺に行ってみようという結論に至った。K君にとっては職場だし、案内も慣れたものだろうが、僕もN谷君も田辺には行ったことが無い。その昔は綴喜郡田辺町という人外魔境の地だった。明治時代の有名作家のフレーズを借りると、『綴喜郡の田辺町たなんだ。大かた人とサルが半々くらいに暮らしているようなところにちがいない。そんなところに将来ある大学生を大挙移動させて学問を学ばせようなどと言うのは、大学経営で銭儲けしようと考える汚い大人の陰謀に違いない、よって移転反対、空港もついでにフンサイ』。とまあ、そういう訳ではないが、学生時代は蛇蝎のごとく嫌っていた田辺町だが、同志社が移転して学園都市に変わったなどという話も聞く。

 以前書いたと思うが、学生時代に移転反対闘争をしてきた元ボーリョク学生のグループが、現地でのイベントを企画したことがある。4~5名で田辺町に行ってキャンパスは移転されてしまったが、心は未だに移転されていないというところを見せるために闘いの炎を燃やそうと決起したのだ。そういうと、お、なんだなんだ。飛び交う火炎瓶に鉄パイプかなどと野次馬が寄ってきそうだが、要するに田辺キャンパスで焼肉やって、その煙とニンニクの臭いで地味に嫌がらせしたろか、と計画した訳だ。そして当日、それぞれがガスコンロや肉や網やタレや皿などを用意して(しかし、いい加減中年になっていた連中がそんなものを持って電車に乗って、駅員は注意しなかったのか。オウムの教訓が生かされてないぞ)、田辺キャンパスに来てみたらその雄大さに腰が引けてしまい、ついには「実はオレはそれほど移転に反対してなかった」とか、「あの狭い今出川と比べたら天国やないか、ここは」とか「このキャンパスやったらオレは4年で単位をしっかり取り、そうや、オール優で取って、今頃は広告代理店」などと、もういまさらな、あまりに今更な発言が相次ぎ、移転フンサイ総決起大会はあっという間にぽしゃったなどという話を聞いたことがあった。

 ことほどさように、かつての活動家連中をビビらせたという田辺町キャンパスに、おう、行ったろうやないか、ボケェ。ワシらはああいう腑抜けと違うわ、気合入った中年ボーリョクパンクや、などとこれは昼間のビアとワインでメートルの上がった僕とN谷君。K君は、自分の職場でもあるしこのオッサン二人の度肝抜いたろか、というような笑顔でこちらを見ていた。話はまとまったので、ここの食事代を精算して出ようということになった。なんだ、接待じゃなかったのかと軽口をたたきながら、それでもK君の職員割引を大いに期待していた。アメックスのゴールドを持ったK君はさっそうとレジに向かい、何やらおねいさんと話している。「え、こんな、なったの。僕、職員やから割引、え、割り引いてこんだけ。いったいあの人らいくら飲んだんや、全く」などと言う声が聞こえてきたが、もちろん大人の僕とN谷君はスルーしていた。カードで支払いしたK君は、真っ青な顔になって、僕達の所に来て両手を出して学生時代のコンパや飲み会の時に何度も口にした単語を出した。「カンパ、カンパ、圧倒的なカンパを」。流石は元工学部自治会メンバー(笑)。

レジのおねいさん

 さて、寒梅館を出て地下鉄に乗り、途中で近鉄に乗り換えた。乗換駅は竹田であった。竹田の子守唄である。そして、竹田を過ぎて少し走ると目指す田辺に着いた。まだまだ灼熱の太陽がぎらぎらする中、駅から出ると一休さんが待ち構えていた。橋の根元が腐っているから親切心で注意書きを出していたのに、「はしが渡れないなら、真ん中歩けばいいんじゃボケェ」と豪語して、橋が崩れておぼれかけたり、屏風に書いてある虎があまりに写実的だったので錯乱して「こら、トラ出て来い。ボケェ、刺し殺したるぞ、出て来いちゅうたら出て来い」と槍を手に喚き散らしたというエピソードを持つ小坊主である。サザエさんでいうとカツオ的キャラだろうが、なぜ人気があるか良く分からん。その一休さんが、実はワシ、苗字ありますねん、田辺一休いいますねん、みたいな感じで出迎えてくれた。さて、この田辺でどのような冒険が待ち構えていたのか。続きはまた今度。って、ホント、いったいいつまで続くのか、この話(泣)。

たなべいっきゅう

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やや裸に近いランチ



FACEBOOKに先程アップした冷や汁を麦飯にぶっかけて頂く。タンクトップ姿なので裸ではない。したがって、やや裸に近いランチである。尤も裸のランチはヌーディストが昼飯を食う話ではないが(笑)。

今回の冷や汁は、地元の食材にこだわった。麦味噌を溶くところから始めたかったが、時間がないので地元のレトルトを使ったが具材はバッチリ地元産。某スーパーの豆腐部門が毎日出してる手作り豆腐に採れたてキュウリ、まだ茎についていた大葉、すりたてのごま、そしてミョウガ。ん、ちょっと待て、ミョウガの味が…。

慌ててパッケージを見ると、そこには熊本の文字が。不覚にも熊本産を使ってしまった。くまモンの高笑いする姿が浮かぶ。くそ、戊辰の恨みは忘れないぞ、と何故か会津っぽに化けるワタクシ(笑)。

開く夢など持ってなかった

 地元の高校が甲子園の決勝で惜敗し、準優勝か、でも良く頑張ったなと思いつつ家に帰ってネット開いたら藤圭子のニュースが出ていた。このところリアルで訃報が続き、1週間の間に2回通夜に行くことになって、こう毎日暑いんじゃ体力の弱った人はもたないななどと思っていたけど、どうやら投身自殺らしい。個人的には、ほとんど思い入れは無くて覚えているのは、その黒髪と黒い瞳、そして決してスカート姿ではなくパンタロンだったこと。パンタロンつったって分かるのかね、今の若い人に。胃の薬じゃないよ、あれはパンシロン。パンタが麻雀していて放銃した訳でもないよ、「パンタ、ロン」なんつって。まあ、そんなとりとめもないことを考えてしまった夜でした。ひねくれ者のワタクシは、怨歌はこっちですな。



帰ってきた過去への旅路  遥かなる田辺その2

 さて月1エントリーといってもいいくらいの「過去への旅路 遥かなる田辺」であるが、忘れていた訳じゃないのだ。ただ毎日があまりに暑くて、何もやる気が起こらず、ついつい後回しにしていたのだ。それにしても去年の夏も暑かったが、今年も暑い。毎日の暑さと飛蚊症と時々起こる頭痛の間隙をぬって、なんとか去年の話を再開したい。シバデンと別れた後、N谷君とタクシーに乗り込み、それぞれ予約していたホテルに戻った。僕の使ったホテルは、堀川今出川に面した小さなホテルだったが、夜は静かで思わず”The night was young. So was he.”という有名なフレーズを思い出した。もっともこちとらは既にヤングではなかったが。まあ、エアコンの利いたホテルで、その日一日にあったこと、再会した人のことなどを思い出しているうちに深い眠りに落ちてしまった。

 普段の休みの日は下手するとお昼前まで爆睡してしまうのだが、旅に出ると非日常生活だという興奮のせいもあって朝は結構早めに目が覚めてしまう。その日も8時にセットしていたモーニングコールを聞くことなく目が覚めた。すでに京都の朝は始まっていて、ホテルの前の今出川通りはバスや車がクラクションを鳴らしながら、せわしなく動き始めていた。このホテルの朝食は美味しいらしいが、普段朝ごはんを食べない習慣なので、前日に買っておいたコーヒーを飲んで服を着替えて、両足揃え靴ひもを結んで(by 加川良)出かけた。11時に今はD大の職員になっているK君と、元学生会館のあった場所に建てられた寒梅館で会う約束をしていたので、それまでの間に今出川近辺、雀荘や別館湯と呼んでいた銭湯のあった室町今出川のあたりや、学生時代の最後の2年間を過ごした清友荘周辺を探索しようと予定をしていたのだ。

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 市バスに乗って、烏丸今出川まで出かけた。キャンパスは昨日、心置きなく散策したので本日は烏丸通をはさんで西側、つまり室町通と烏丸通の間をぶらぶらしようと思っていた。最初に訪れたのは、僕のなけなしの生活費を巻き上げる鬼のような先輩たちと闘牌を繰り広げた雀荘グリーン。もっとも既にその建物は解体され、今はガソリンスタンドになっていた、室町今出川の角にあった雀荘で、1階がラコステという名前の喫茶店だった。ここの焼きそばはソース味で麺もちょっとぱさぱさしたところが癖になる、まあB級といえばB級なんだが麻雀しながら食べるときは美味しく感じた。やたらキャベツの芯が入っているのが難点だったが。もっとも、ラコステの焼きそばを頼むのは、麻雀がへたくそな連中ばかりだったので、僕もなるべく焼きそばは松乃家の大盛を頼むようにしていた。こちらの焼きそばは麺と具を玉子で絡めて、皿の端っこに乗っているウスターソースの入れ物を取って、上からぐるぐるかけて食べると美味しかった。しかし、その麺と具の量は半端なものではなく、早く食べないと皿を持つ左手が疲れてしまい、その後の洗牌や山積みに支障をきたすことがあった。いや決しておおげさじゃないんだよね。一度などは食べている途中に麺の重さで割り箸が折れたこともあった。

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 その松乃家は健在だった。以前、ネットで知ったのだが今はもう三代目に代替わりして、僕が学生時代にお世話になった二代目ご夫妻はリタイアされている。しかし、店の表構えはそのままで、出来ればちょっと暖簾をくぐりたかったが、残念なことに日曜は定休日なので入ることは出来なかった。雀荘グリーンと松乃家の間に、当時別館湯と呼んでいた古い銭湯があったのだが、時代のせいか影も形もなかった。Boxに置いてあった洗面器やシャンプーなどの入浴道具一式をバッグに入れ、下宿から持ってきた着替えやタオルもその中に放り込み、夕方4時に開く銭湯の一番風呂に入るのは気持ちが良かった。まだ誰も入っていない大きな浴槽に全身を浸して、ぼんやり天井を眺めているのは至福の時間だった。しかし、そんな時代はもう二度とやってこないだろう、などと少し感傷的な事を考えながら、いま来た道を戻って今度は烏丸今出川の角地に立った。ここは昔、書店だったが、今はレンタルビデオ店のビルになっている。

 この書店の角に雑誌の自動販売機があった。当時は、まだコンビニなどなかった時代なので夜の8時を過ぎると本屋は開いておらず、こういう自販機は重宝した。それこそ、少し遅い時間の銭湯の帰りにビッグコミックや週刊ポストなどを買っていたのだが、深夜にも良く利用した。もちろんエロ雑誌を買うという、青春時代にだれもがやった通過儀式のためである。この頃は、エロマンガの第何次ブームとかで亀和田武編集長率いる劇画アリスや、個性派作家をそろえた漫画エロジェニカ、えぐさで他誌を圧倒する漫画大快楽、老舗のエロトピア、このネーミングセンスはシュールだった漫画ボン、そのほかにも数多くの三流劇画誌が跋扈していた。そういえば三流劇画全共闘なるものがあって、何人かのグループかと思ったが、個人のペンネームであった。当時からゼンキョートーのオッサン達は人騒がせだったわけだ。また自販機には写真系のエロ雑誌、白夜書房が出していたコミックセルフとか、平凡パンチの別冊Oh!なんてのも良く入っていた。当時のナウなヤングの夜のお供には写真モノがいいか、マンガモノがいいか、激しく論争したグループがいた。もちろんそんなくだらないことに全力投球するのは、僕のいたサークルの仲間である。拙blogに何度も登場してきた北白川にあった伊藤荘という下宿に住んでいた故M原君とS戸君、F田君の3人である。もう少し正確にいうと、岩倉のおたび荘に住んでいた大牟田出身の元サークル員のK木君もわざわざエイデンに乗ってこの論争に参加していたらしい。

 事の発端は、ある時、M原君が何かの用事があって先輩のF田君の部屋をノックしたことから始まる。部屋からは、野太いF田君の声で「オオッ」という返事があった。当然、M原君は部屋の扉を開ける。そこには真夏というのにテーブル代わりにそのまま出しっぱなしになっているコタツ、そのコタツの上には散乱したエロ雑誌。そして部屋の主のF田君は屹立したイチモツを右手で握りしめ、満面の笑みを浮かべつつ発した言葉が「アイヤー」であった。M原君は「ごめん」といってすぐに部屋に出たが、この時の話は何度も聞かされた。「××さん(僕の名前)、普通、枡かくときは部屋に鍵を閉めてからやるでしょう。まあ、仮に鍵をかけ忘れていても、ノックされたら『ちょ、待てや』くらい言うたら勝手にドアを開けたりせえへんのに。あの、オッサンはホンマにもう。マラ握りしめて、何が『アイヤ~』や、ほんま、ええ加減にしてほしいわ」と、酒を飲むたび何度聞かされたことか。この話を聞いた僕はさっそくコンパで、M原がF田の部屋をノックしたら、F田のアホは自家発電中で、それを見せつけられたM原の目の前で「アイヤー」と言ったとたんにピュッピュッとこっちも逝ったらしい、と全てのサークル員の前でネタを膨らませた。いや、この手の話は事実よりも脚色したほうが面白いからというのがその言い訳で、このスタイルは今も変わらない、って自慢してどうする(笑)。

 このような武勇伝は枚挙に暇がないが、さらに特筆すべきはF田君のエロ雑誌に対する造詣の深さと、その所有する本の多さであった。堺市のニュータウンに住んでいたF田君の実家に初めて泊まりに行ったときのこと。彼の部屋は二階の洋間で、かなり広く八畳くらいあったかと思う。その部屋の片隅に山積みされている雑誌類があった。F田君は仮にも文学部、まあ社会福祉学科という当時は偏差値がかなり低くても合格できる学科で噂によると学校に一定額の寄付をすれば入試問題の一番上の所に名前を漢字で書けたら必ず合格するという裏ワザがあったらしい(という、デマを平気で作れるのがサークルの先進的学友諸君に鍛えられた僕だ、どんなもんだい)。まあ、そういうお方で、堺の実家に帰るときは必ず阪急のKIOSKで週刊ポストを買うのが趣味という人だった。その買い集めたポストが山のように積まれていると思って、近づいてみるとクリビツテンギョウ。これが全部エロ雑誌。それも半端な内容ではなく、全てディープなエロばかり。僕はこのF田先生からダーティ松本というやたら女性の下腹部に山芋をとろろにして塗りたくる作家の存在や「は、はねなか、ルイっていうのか、このマンガ家」「アホ、はちゅうるい、って読むんや」「あ、それでこんな爬虫類的目つきの主人公が出てくるんか」と言った知識を仕込まれた。このほかにもあがた有為の人妻物はエグイとか中島史雄(その後、ヤングジャンプなどのメジャー誌に登場するようになったのは驚いた)のレモンセックス派は一服の清涼剤や、とか村祖俊一の影のある絵は抜けるとか、リアリズムでいけば石井隆(この人もその後は映画監督になったりした)とか、ナンセンスは小多魔若史(おたまじゃくし、と読みます)とか、日々学ばせて頂いた。余談ついでに書くと、エロ劇画誌はもちろんエロ劇画がメインではあるが、ナンセンスマンガ、たとえばいしかわじゅんや吾妻ひでお(後年、失踪話で売れるとは夢にも思わなかった)、ひさうちみちお、奥平イラ、諸星大二郎などキラ星のような才能が埋まっていた。もちろん、そういうナンセンスだけを読みたくて購入するわけではないが、それが目的というと多少なりとも良心様に免罪符という感じになり、抵抗が無くなった。まあ、慣れれば何でも大丈夫というパブロフの犬理論である。ん、ちょっと違うか。

 そのF田アイヤー事件があった数日後。やはりF田君の刎頚の友であるS戸君の部屋で、酒を飲んだらしい。メンバーはM原、S戸、F田の三人。当然、先日の出来事から話題は枡を描くときに何を使うかという話になった。マンガを用いるべきだと主張するのがS戸、F田の会長・副会長コンビ。方や社会主義的リアリズムを追及するM原君は絶対写真だと主張する。意見は真っ向からぶつかり、お互い譲り合う気配はない。しかし、こういう議論(というようなものでもないが)においてはやはり知性というか論理性というか、早い話、アホの子か賢い子かで勝負がつく。僕も心情的には同学年である二人を応援したいが、ここで歴史を改ざんするわけにはいかない(いや、そんな大層な事違います、笑)。やはり法学部に所属するM原君が圧倒的な論理展開で勝利しそうになったその時、S戸君の名言が炸裂した。「お前、そんなこと言うてもな、マ、マンガには夢があるんじゃ~」。この絶叫で、マンガ・写真どちらが枡に最適か論争は終結。とりあえずマンガ派の二人は大苦戦したが、最後の雄叫びで何とかドローに持ち込んだ。

 この話も、今は亡きM原君から散々聞かされた。「××さん、どない思います。ワシら手塚治虫のマンガについて話してたんと違いまっせ。たかがエロマンガでっせ。なにが、あんなもんに夢があるんじゃ、ボケ。あのオッサン、ほんまにしょうもないわ」。まあ、しかし口ではボロカスに言いながらも、結構仲のいい伊藤荘の三人組だった。そうそう、大牟田のK木君は、後日、この時の話を聞いて、「お、おいどんも枡の宛書(この辺の表現が流石は九州男児、古風である)には写真を使うったい。マンガとかふうてんぬるかけんぐらぐらこくばい」と写真第一主義を高らかに宣言した。それを聞いたM原君は目を潤ませながら「我が同志」と彼の肩を固く抱きしめた。などという話ばかりしていたので、僕はサークルではほら吹きドンドンと呼ばれた時代もあった。濡れ衣である。冤罪である。獄中不転向である。なんのこっちゃ。

 そんな懐かしい思い出もある(どこがじゃ)角の本屋だったが、今ではレンタルビデオやCDがメインで書籍も1階に置いてあったが、ほとんどが雑誌やコミックばかり。大学生がそんなことでいいのか、などと己の学生時代を一切反省しないワタクシがいっても意味はない。そのビルを出て左に曲がると、つまりD大と平行に歩くと、その昔、古いだけが取り柄の喫茶店だった「わびすけ」の跡地に出た。ここはついこの間、解体されて今は不動産会社の事務所になっている。大学の目の前の不動産屋って、いかにもそれ風で笑ってしまった。そして、そこから新町キャンパスに行く細い路地をうろついていたら、ありました。レストラン「トーラス」。その昔、僕が大学に入ったばかりの頃、コーヒーを飲みたくて喫茶店を探したけれど、どの店も新入生がいっぱいで、しかもほとんどが友人などのグループで、南九州の田舎から出てきて知り合いもほとんどいない僕のような一人の客が入れるお店は無かった。その中でこのトーラスを見つけ階段を上がって入ってみると、中は無人、つまりお客さんが誰もいない。そこでテーブルに座りおもむろにメニューを見るとステーキ3,000円とか書いてある。あ、ここ喫茶店じゃねー、と気がついたときは既に遅く、白のエプロンにコック帽を被った店の人間が入り口をふさぐ形で注文を取りに来る。ええいままよと、ステーキ頼んだけど、その時の侘しさ、これからの生活費に対する不安、どうしてオレはこんなところで食べたくもないステーキを注文しなくてはならないのか、どうしてコーヒーだけとか紅茶だけという注文は出来なかったのか、最後の自問自答は、その後入ってきた女子学生のグループが紅茶だけを注文するのを見て、しまった、そういうオーダーの仕方もあったのか、しかし、ここはレストランつまりメシを食う所だからパスタとかカレーとかそういう簡易なものを注文するのはいいだろうが、紅茶だけは反則だろう、と最後はやや涙目になりながら持っていた文庫本の文字を追うという悲しい出来事があったお店である。

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 そして、そのトーラスの近くにありました、コピー屋さん。本来大学は学問の府であるから、全ての学友諸君は一般教養、専門に関わらずしっかり講義を受けて、その中で重要なところはノートに取り、日ごろの予習復習をする。そして、その積み重ねの集大成が単位認定の試験である。ノート持込み可だろうが、不可だろうがしっかり自分の書いたノートを取っておれば試験など何ら恐れることはない。というのは、これはブルジョワ教育理論であって、大学というのは高度に発展したシホン主義社会に、国家に忠実な労働者を育成する、いわゆる労働者生産工場であるから、そのような大学で教えるマスプロ教育はまずもってナンセンスでこれを断固粉砕するためには試験など受けない、単位など歯牙にもかけない、などという間違った考え方をしてしまった僕には全く縁が無かったが、がり勉するほどの根性もなく、単位なんてクソ喰らえと開き直る度胸もない、圧倒的多数のノンポリ学生諸君は良く利用した大学のノートのコピーを売っているお店であった。ああ、書いていてしんどかった。

 そのコピー屋さんを過ぎて、路地をうろついていたら駐車場のちょっと奥にどこかで見たことのある看板が目に入った。看板の文字はN-O-Wとある。あああ、ナウだ。喫茶店のナウじゃないか。見るからにお金持ちの臭いがする夫婦が、アパート経営しながらその空き地に作った喫茶店だ。この喫茶店の後ろにあったアパートが当時には珍しい2DKでバス・トイレ完備。勿論流し台、洗面台もついているという当時はまだ学生マンションが無かった時代(79年に下賀茂にドミトリー・アルバという学生マンションが出来て、そこに先述のS戸君が入居したのだが、ワンルームマンション、ユニットバストイレのついたフローリングのエアコン完備の部屋はまさしくパラダイスだった)、そのアパートに入居できるには一部の特権階級だった。その特権階級になるには、雀荘グリーンでバイトして、そこのママに気に入られて、ナウのママを紹介してもらうというのが一番の近道だった。この作戦で見事入居したのが僕の同郷の1年先輩のA水さんだった。

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 77年の春だったと思うが、イーグルスがアルバム『ホテル・カリフォルニア』をリリースし、これは従来のイーグルスのアルバムと異なる、特殊な音世界だということは聴いた人誰しも感じたと思う。A水さんのアパートで輸入盤の『ホテル・カリフォルニア』を聴きながら、出たばかりの週刊プレイボーイを読んでいたら、そこにこのアルバムの特集記事が出ていた。「12弦ギターのイントロから始まるこの名曲は」、みたいな解説が書いてあって、面白かったのでA水さんと二人で読み、その翌日が新入生歓迎のロック班の研究会だったので、この曲を流し、この解説を二人で掛け合い漫才みたいにしましょうと約束した。そして、翌日、この曲をかける前に僕がプレイボーイの記事を丸暗記して「この曲はアメリカンドリームの幻想を拭い去る問題作で、12弦ギターから導入されるイントロは~」などと話し始め、要所要所でA水さんが、これもプレイボーイ丸パクリの話を入れた。当然、大爆笑を期待したのだが、どうも勝手が違う。ふと周りを見てみると、1回生の諸君が眩しそうにこちらを見ている。え、こいつら週プレ読んでへんの。もしかして、マジでオレタチの意見や考えだと思ってるの、違う違う洒落やシャレ。と慌ててエクスキューズしたが、どうもそれも謙遜と取られたようで、しばらくはお固い研究会を開かざるを得なかった。

 そのナウが、流石に今は喫茶店は営業していないようだが建物はそのままあった。そしてドアから年配の女性が出てきた。多分、ナウのママさんだろう。声をかければ、もしかしたら思い出してくれたかもしれないが、僕はここのご夫婦にあまりいい印象を持ってなかったのでスルーした。そしてまたあちこち歩いているうちに、昔あったデュークという喫茶店の跡やトレドというこちらもプチレストランの跡などの前をぶらぶら歩いた。おっと古い話だけではなく、解散した学友会の歴史的資料をまとめた水野さんが経営する獺祭書房にも寄ってみたが、日曜で開いていなかった。この古書店には翌日またお邪魔して挨拶をするのだが、その時に2004年度の同志社の栞を頂くことになる。

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 懐かしい通りを歩いているうちに、学生時代最後の2年間を過ごしたアパートに足を向けた。烏丸中学を過ぎて、力餅食堂の所を曲がり一方通行の路地をちょっと上がり、左に入る細い道に足を入れると、あった。あったというか、存在していたというか、ちょうど軽トラが止まっており植木職人の人たちが草刈りをしていた。見ると僕の住んでいた清友荘と間を挟んで建っていた清水荘、その清水荘周囲が樹木と草でぼうぼうになっており、壁に着いている電気メーターが動いていることからどうやら人が住んでいるのは間違いないが、パッと見た目はまるでお化け屋敷のようだった。清友荘は何年か前の鳥肌音楽で外装を変えて、今は整骨院になっていることを知っていたので、それほど懐かしさは無かったが、清水荘は昔の建物のまま残っていた。この2つの建物の間に在った空き地に夏場は入居者がそれぞれ椅子やテーブルを持ってきてビアガーデンなどとシャレたりしたものだった。また建物から突き出た柱に釘でシャワーヘッドを取り付け、水道からホースで水を引いて夏場は銭湯代を浮かせたものだった。もっとも水は井戸水だったので、物凄く冷たく5分も浴びると唇が紫になったりした。そういえば、ある夏の日に新しく入居した学生を誘ってビールを飲みはじめたら、そいつが僕たちの考え方と全く違う、民主的な青年の人たちだったので、全員で恫喝かけたら、それ以来デモの時に写真を撮られて実家に送られるなどという微笑ましいエピソードなどもあった。などと、書いていたらいつまでたっても田辺に行けない。それどころかK君と約束していた11時に間に合わなくなるので、いったんここで終わる。しかし、いつまで続くのか、この話。

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これから始まるジャズパーティー



春先にあった宮崎国際ジャズディの感謝パーティー。相方のY尾君と二人して山下洋輔のチケットをある程度売ったので堂々と参加。ただ酒、ただ飯、ただライブである。大西洋介がご機嫌なヤノピを弾いてるぜ。イェーイ。

僻目のジャズナイト日記

 しばらく前から右目の飛蚊症がひどくなり勝手が悪かった。飛蚊症はたぶん3歳くらいからずっと患っていて、最初は病気だとは思わず空を眺めていると毛糸屑みたいなものや、おたまじゃくしの卵、じゃなかったカエルの卵みたいなものが目に浮かんできて、視線を動かすと一緒に後をついてくるのが子供ごころに面白かった。これが目の病気であることは高校生になって初めて知ったが、一生治らないことと歳を取ると失明する可能性(合併症などで)があることも知って、ややショックだった。まあ、それでも治らない(治療法が無い)ならしょうがないと思っていたし、別段日常生活にさほど支障があるわけではないのでほったらかしにしていた。しかし、今回のやつは強烈でもう明らかに右目の半分くらいの所まで柱(まさに蚊柱)みたいな影が見えるし、毛糸屑もこりゃ集めたらミトンの手袋くらいは縫えるんじゃないかと思えるほどだった(大げさだな、笑)。

 それに伴ってか、頭痛もひどく僕の頭痛はたいてい低気圧の影響だと思うのだが、この所のピーカンの天気にも関わらず頭痛が痛い、いや頭痛続きで頭が痛いというくらい思考回路も分裂していた。頭痛の原因の一つは例の選挙であって、投票というのはとりあえず国民の義務だから白票を投じることも立派な義務の行使だと考えるワタクシ、当然公民館に行って投票しました。その時の会場の閑散としていること、こりゃ投票率は悪いだろうなと思っていたら案の定。それでも日曜の夜8時、あ、恒例の『八重の桜』はしっかり見てから選挙速報を見ていたら時計が夜の8時を示した瞬間、地元の保守党の議員の当選確実が出た。多分、我がポンニチで一番早い当確だったのではないか。ま、そりゃ結果は見えていたけど、と思いつつ速報見ていると、だんだん怒りがこみあげてきて、ふざけるなバカ野郎、てことはなにかい、お前ら国民は今後はアメリカ様の言うとおり狂牛肉を食べて、農薬まみれの野菜も食べて、それで体壊しても一般大衆は病院にも行けない。国民皆保険なんてのは砂上の幻、保険証出しても治療は受けられない。そうそう明治の文明開化の時代に不平等条約だ、関税自主権だ、やれ治外法権だなど大騒ぎして郷土の偉人、小村寿太郎先生の努力でようやく権利を回復し解決したあの時代にさかのぼりたいのか、コノヤロと怒りが加速してくる。

 原発はどんどん再稼働だ、地震が来ても平気の平左、やばくなったら海に流せ、我がポンニチには「水に流す」という表現もあるじゃないか、貧乏人は放射能で体を変えて生き延びろということか。ましてや、チョサッケンとかいう某美国に都合のいい権利の主張が始まり、クソネズミの帝国主義者ども、ネズミ―ランドの一派がぶいぶい言わせて、ジャングル大帝はライオンキングのパクリだ、なんて言い出しかねない世の中を支持する国民が過半数いるってどういうことだ、などと考えるとまあ頭は痛くなるは、怒りは収まらないは、そのうち目の前が真っ暗になって来たので寝た。頭痛と飛蚊症はひどくなるばかりだった。

 そしてようやく眼科で眼底検査をしてもらい、網膜はく離やその他の心配するような病気ではないと言われた。ただ目の奥で出血した跡があり、今現在何処かで出血しているかを調べたが、どこにもないので以前何かの拍子で血管が切れて出血していたのではないか、念のために薬を出すので1週間様子を見てその後再検査すると言われた。大変残念だったのは、やはり飛蚊症は治らないということ。それと原因は華麗、違った、カレイ、でもなく加齢、つまりジジイになったので眼球が縮んでしまい、それで飛蚊症がひどくなったと説明された。しかしながら左目はまだまだヤングとも言われ、やはりレフト・イズ・ライトだ、などとわけのわからない理屈を自分でこねて、その日はそのまま帰った。医者が心配しなくていいといいながらも、もし飛蚊症の症状がひどくなったり右目の違和感が強くなったらすぐ来いと言ったのが少し気になって、ネットで調べたら眼底の出血って結構バイヤーな病気が多いのでやや気にはしていたが、まあ右目が見えにくくて勝手が悪いだけだから放置していた。どちらにしても日曜日はジャズナイトがあるし、その翌日が運よく休みを取れていたので、その日に眼科に行けばいいと思っていたのだ。

 日曜日のジャズナイトは万全の態勢で臨んだ。惜しむらくは、Y尾君のネゴシエーション不足で、前回一緒に香月さんのライブを見た、おねいさん二人組をこのイベントに誘いきれなかった事だ。この小さな田舎町で、どうして同じ週の土日にかたや野外の音楽イベント、かたや街中で歩行者天国にした夏祭りなど企画するのか。観光が大事な産業である我が地元の、夏場の観光の目玉を何故バッティングさせるのか。これ、どんなに小さな社会でも必ずある、縄張り争いというか権力争いじゃないのかね。というのも、僕が参加するジャムナイトはイベントの頭に地元ローカルテレビ局の名前がついている。つまり冠付イベント。そして、もう片方の夏祭り、その名も「まつり えれこっちゃみやざき(どうでもいいけど、何とかならんかこのセンス。書いてもしゃべっても恥ずかしい)」は、名前こそ出てこないがやはり地元の古くからのテレビ局が応援しているのだ。おっと、それより大変なことは、何とこの21世紀の我がポンニチで、僕の地元は民放のテレビ局が2局しかないのだ。どうだ凄いだろう、エヘン。

 とにかく、おねいさん二人は夏祭りの踊りに参加する、もちろん浴衣を着てということなので、心情的にはそちらに行って一緒に踊って、ストーンズの「ダンス・リトル・シスター」などをバックに流しながら親睦を深めるということも一瞬考えたが、いやいやそこはそれ、男には男の付き合いがある。祭りもいいが、ズージャの祭りはもっといいじゃないか、去年も一昨年も素晴らしい生演奏が聴けたじゃないかということで、Y尾君と高校時代の同級生と一緒にジャズナイトに行くことにした。とりあえず当日は現地直行組もいたが、僕とY尾君はバスセンターで待ち合わせて、併設しているショッピングセンターで飲み物や食べ物を買い込んでいくことにした。日曜日の午後、家族連れの買い物客が賑わうショッピングセンターの一角で、買い物カーゴにリュックや荷物を詰めて、缶チューハイを飲んでいるオヤジ二人が、今年のライブはああだ、こうだ、今年のジャズナイトのオープニングは陽太のグループだから絶対時間に遅れちゃいかんぞ、ライフタイムの時は開演時間を間違えていたから30分は聴き損じた、などとグタグタ言ってたらバスの時間になった。

 先ほども書いたが、この日は街の中心部は歩行者天国になっていたため、バスもいつものルートを大きく迂回して会場に向かった。街の外側を回っていくのだが、それでも駅から中心部に沿った道路には浴衣を着た若いおねいさん達や、それに並行して歩いている若いあんちゃん達、あれはペーパータトゥーに間違いないとか、なんやあの小汚いひげは、お前はトラヒゲか、などとバスの窓から若いお兄さんに対して毒づきながら、それでもいいな、羨ましいな、健全な青少年たちは「祭りだ祭りだファッションファッション(by 一風堂)」と盛り上がっている。それに比べてこちらはズージャなどというメリケンの音楽を聴きにわざわざ街外れに向けてバスで走っているなどと考えるとちょっと悲しいものがあったが、仕方ない。これが私の選んだ人生だ、などと声に出してはとても言えないことなどをぼんやり考えていた。

 会場には同級生のS尾君夫妻が先に着いていた。メールでどちらか先に着いたほうがステージに近い場所を確保しようと約束していたので、さっそく合流し近辺にいた人々に「ここは我が国古来の領土であるから、速やかに移動するように。あ、そこのカップルは可及的速やかにワタクシの目の前から消えるように。あ、いや、おねいさんだけなら、そこにいてもいいが、兄ちゃん、あんたはだめ。排他的経済水域から移動するように。なに、そういう態度を取るともう海上保安庁だけの問題じゃなくなるぞ、この野郎、出すぞ、ジエータイを」的な態度でビニールシートを広げた。会場に着いたのは17時前だったが、それまでの連日のギラギラ太陽は影をひそめ、ぼんやり薄曇りの天気。風も潮風が時々拭いていい感じだった。トンボもたくさん飛んでいて、そういう自然の景色を見ながら、それでも時々モニターから流れる大音量のCMなども愛でつつビールを飲み枝豆をつまんだ。

 オープニングに登場したのはEJQ、EARTHDAY JAZZ QUINTETである。地元都城でOLDEARTHというライブハウスを経営しているドラマーの古地克成が率いるクインテット。ベースとピアノは関戸夫婦、パーカッションに谷口潤実、そしてサックスに我らが宮里陽太である。6月にライフタイムでこのグループでのラストライブ、じゃないか、宮里陽太グッドバイライブを見たが、演奏も熱いしお客さんも熱い良いライブだった。小林市に住んで音楽活動をしてきた宮里陽太が、この夏から横浜に引越し今まで以上に音楽活動に専念するわけだ。昨年、山下達郎のツアーメンバーに選ばれた時から予想されていたことだが、やはり地元から離れるのは我々ファンとしてはちょっとさびしいものがある。しかしまあ、人生至る所に青山ありだ。これは洋服の青山は全国チェーンで日本中どこにでもあるという意味では全然ない、そんなことは分かってるか(笑)。



 ライフタイムの時は古地さんのMCも比較的多く、メンバーもお喋りに参加したが今日は挨拶抜きでガンガンやってくれた。前回の演奏も良かったが、この日の演奏はそれ以上だった。お客もノリノリで、僕たちの斜め前に陽太のファンだと思われる若い男女のグループがいたが、演奏の終わり近くになると全員総立ちで踊っていた。そうそう、ステージの最前列に小学生くらいの男の子と女の子、それを引率してきたお父さんという雰囲気の3人組がいた。ディレクターズチェアを3脚並べて座って見ている。子供のうちからジャズなど聴かせていると碌な人間にはならない、こともないな。宮里陽太は子供の頃から父親の聴くジャズのレコードに囲まれて育ち、立派なサックスプレイヤーになったわけだから。この日、陽太のお父さんもどこかでこの演奏を見ていたはずだ。会場で会いましょうと約束していたが結局会えずじまいだった。携帯に電話を頂いたときは既に会場を後にされていた。久しぶりに聞いたその声はやはりどこか寂しそうだったが、成長していく我が子に対する期待も感じさせる話だった。

 EJQの演奏が終わると、次は大野えりグループである。ベースは米木さんなので応援するつもりでZEK3のTシャツを着て声援を送ったが多分分からなかっただろうな(笑)。さて、この大野えり、ルパン3世のテーマなどでおなじみの人で、ライフタイムのマスターが気に入ってるのか、結構宮崎でライブをやっている。宮崎市以外でもお寺やいろんなところで出張ライブをやっている。で、あるのだがワタクシ不覚にも彼女が大学の先輩、しかも学科も同じエーブン科の先輩だとはとんと知らなかった。彼女は73年度生なので確実に2年間くらいは同じキャンパスに存在した時期があったと思われる。もっともあちらは軽音で当時からジャズをやっていたので、文化団体連盟傘下のサークルにいた別館族の僕のアンテナには入ってこなかった。大学の先輩でジャズ関係というと向井滋春がすぐ浮かぶのだが、大野えりは知らなかったな、お恥ずかしい。



 さて、その大野えりだがボーカルが素晴らしいのは当然として、ピアノが実に面白い。片倉真由子というそのプレイヤー、こちらも調べてみたら洗足学園出身、てことは陽太の後輩になるのか。ちょっとファンキーなカッコいいフレーズをガシガシ弾く女性でした。あ、ルックスがどうこうじゃないからね。あくまで純音楽的な興味です、ハイ。一緒に見ていた友人たち全員が彼女のピアノはいい、もう一度ゆっくり聴きたいと話しているうちに山中千尋トリオが出てきた。こちらはバケモノでした。いやいやルックスはかわいらしい山中嬢ですが、こと演奏になると容赦はしない。片倉真由子がガシガシだとしたら、山中千尋はグァランドウスーンドテドテというか、みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれ、すぎかきすらのはっぱふみふみ、分かるねぇ、分かる分かるてなもんであった。いやー、やはり紅毛碧眼人がたむろしているヌーヨークなんてところで細腕一本でヤノピで暮らしている人は違うな~と感嘆することしきり。

 そして、次はフュージョン大会というか本田俊之率いるバーニングウェーブにプリズムの和田アキラがゲストというゴージャスな顔合わせ。本田がMCで話していたが、彼がまだ20代、てかこいつオレの1コ下だからほぼ同世代なんだけど、多分79年のフェニックスジャズインに出ていた。タイガー大越や神崎オンザロードなんかも出ていて、多分その時のコンサートのテーマがクロスオーバーだったと思う。この次に出てくる渡辺香津美も出ていたと思う。まあいかにも彼らしい電気のズージャだったけど、正直ワタクシの心には沁みてこないのよ。ジャズ評論家のオヤジの顔が嫌いだったという先入観もあったかもしれないし、いわゆるサラブレッドの人なんだよね。オレはどっちかというとアラブ・レッドの方だったから、どうにも合わんな。

 ということで次の渡辺香津美と沖仁の演奏も、そのテクニックの凄さに圧倒されるものの、どうにも我が胸に響いてこない。二人でユニゾンで弾く「スペイン」なんかは真夏の定番といえばそれまでだけど、本当に物凄い演奏でアコギ2本だけの演奏がチックコリアとRTFよりも迫力があるとすら感じた。まあ分かりやすい例えで言うとアラン・ホールズワースとスティーブ・ハウが一緒に演奏するようなもんだな。え、分かりにくいか、近頃はプログレファンというのは居らんのか。などとしょうもない愚痴を書いたが、最後のMJQは感動モノでした。まさかこの歳になってモダンジャズカルテットが聴けるとは、などというボケはさておき、マンハッタン・ジャズ・クインテット。モノホンのズージャを聴かせてくれた。デビッド・マシューズの左手だけのピアノはオレの心にグサッと来たね。最後のアンコールで山中千尋が彼のフォローをしていたのも健気で良かった。ということで今年のジャズインは意外にもピアニストが全員良かったというのが結論。そうそう、オープニングを飾ったEJQのピアニスト、関戸敬子さんも普段のイメージとちょっと違うけど白いステージ衣装で陽太や古地さんに負けずガンガンやってましたな。



 終わりに、今回のエントリーは書きはじめが選挙前の7月21日で、アップが8月5日という体たらく。話も全然まとまらないが、とりあえず真夏の夜のジャズ話はこれで終了。目の方は継続治療中ですが、大したことはないみたいです。

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