ほな、わしらワーキングプアのろーどーしゃはどないせ、いうねん?
本日、携帯に届いていたメール。Yahoo! JAPAN 防災速報
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熱中症情報 暑さ指数 宮崎県宮崎(7月24日 15時)
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【発表時刻】
7月24日 15時00分 環境省発表
暑さ指数31(運動は原則中止)を超えました。熱中症の危険性が高まっています。
外出はなるべく避け、涼しい室内に移動してください。
運動は原則中止し、乳幼児や高齢の方は水分を補給しましょう。
【観測地点】
宮崎県宮崎
※当情報は、設定した地域から最も近い観測地点の暑さ指数をお届けしております。
【今後の熱中症指数予測】
18時 厳重警戒 暑さ指数29
(激しい運動は中止)
21時 警戒 暑さ指数26
(積極的に休息)
24時 警戒 暑さ指数26
(積極的に休息)
3時 警戒 暑さ指数26
(積極的に休息)
6時 警戒 暑さ指数27
(積極的に休息)
今後の情報に注意してください。
関連情報
環境省熱中症予防情報
http://yahoo.jp/Z3ikrG
熱中症になってしまった場合の対処法など。危険度チェックも。
http://medical.yahoo.co.jp/feature/necchusyo/
▼詳細情報はこちら
http://weather.yahoo.co.jp/weather/jp/45/8710/45201.html
<参考:熱中症危険度の目安>
・危険 (暑さ指数31~) 外出はなるべく避け、涼しい室内に移動する。
・厳重警戒(暑さ指数28~) 外出時は炎天下を避け、室内では室温の上昇に注意する。
・警戒 (暑さ指数25~) 運動や激しい作業をする際は定期的に充分に休息を取り入れる。
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バルタン星人襲来
かと、一瞬思った。選挙に行こうとして我が愛車国産ロールスロイスに乗ろうとした、その時に発見した。この駐車場はアスファルト舗装だし、近くに土が露出している場所は無いのだが、一体どうやってここまで辿り着けたのか。しかもわざわざ僕の車で脱皮しなくてもいいのに。もしかしてワタクシ、意外に蝉の世界では人望があるのかもしれない。
ところで投票場はガラガラで、市役所の職員も手持ち無沙汰。こんなことで我がポンニチは大丈夫なのか。泣く子と地頭には勝てないというか長いものには巻かれろのノンポリアパシーだらけの世の中だ。
そんなことを考えていたら、ふと「選挙行きませんか」というフレーズと「セコムしませんか」というフレーズは何となく聞いた感じが似ていることに気がついた。だから、どうしたという話じゃないけど…。
続報
本日もテツガクしながら、昼休みの散歩をしていたら昨日のカラスの狼藉現場に遭遇。良く見るとカップ麺は更に突かれまくっていた。また昨日は無事だったスープ袋も刃物で切り裂いたような跡がある。
おそらく前回で味をしめたカラスが、まだ麺があると思い、容器を突いたが既に中身はからっぽ。しかしゼロという概念の無い鳥頭なので、腹いせにスープ袋を裂いたと思われる。しかしスープはほとんど残っていたので、袋を裂いて中身をナメたら辛過ぎて食べられなかったのだろう。だから、お湯を注いで三分待てと言ったのに(笑)。
しかし、カラスは多分ガスも電気も契約していないので、お湯も沸かせない。これでは粗忽な買い物客がまたカップ麺を落としても同じ事の繰り返しになる。もっとも買い物客がカップ麺と一緒に正露丸を落としてくれたら楽になるかもしれない。
などと、本日はシラカバ派の随筆のような事を考えたワタクシである。
鬼畜の所業
昨日、昼休みに散歩していたら買い物客が落としたと思われるカップ麺をカラスが突いていた。人が近づくと逃げるが、半径3m以内で様子を見ており、人が居なくなるとまた近づいて突つく。鋭い嘴なので、あっという間にボコボコである。石でも投げてやろうかと思ったが、大人気ないので止めた。
そして本日、同じルートを歩いていたら空のカップ麺を見つけた。中身は外に飛び散ったスープ袋だけ。全部カラスが食べたらしい。しかし、近辺に姿がない。所詮、鳥頭のやることだから、お湯を注いで三分待つという知恵も無く、生で食べたから腹を壊したのだろう。明日はゲリピーのカラスに出会うかもしれない、などと散歩中テツガクするワタクシであります。
お詫びと訂正
先日アップした「帰ってきた過去への旅路 遥かなる田辺その1」に事実と異なる部分があると、事件の当事者よりメールを貰いました。そのまま引用します。ワタクシが書いた文章では無灯火で歩道を走った自転車にN谷君が怒ったようなニュアンスになっていましたが、実際はチリリン、チリリンとベルを鳴らせば良かったようです。ということで、自転車と来れば高田渡のこの歌で、許してもらおうと思います(笑)。あの学生に怒ったのは、無灯火だったからではありません。
狭い歩道をすり抜けていく時、普通はベルを鳴らすものです。
正しくは、「ベル鳴らさんかい。ボケ、危ないやろ。」と思います。
以上
帰ってきた過去への旅路 遥かなる田辺その1
突然、発作的に「過去への旅路」の続きを書きたくなった。花の75年度生トリオの一人である、PHさんが先月、京都に小旅行した話を写真と一緒にFBにアップしていたのがきっかけだったか、あるいはダラダラダラダラと書いてきた「過去への旅路」だが気がついたら最初の話からもうすぐ1年。ということは、去年の今頃、ワタクシは京都の地を何十年ぶりかで両足で踏んでいたのか、などと考えるとやや感慨深いものがあって…。というより、1年前の話をどの程度覚えているのか、不安はあるが前回(前回っていつだったの、などという野暮な質問は止めて頂きたい。ワタクシの理想はプルーストの『失われた時を求めて』、あるいは中里介山の『大菩薩峠』のようなネバー・エンディング・ストーリーというかウェスト・サイズ・フトーリーの最近である、なんのこっちゃ)の話の続きというか、百万遍でN谷君とデューク先輩と串八でたらふく飲み食いした後の話から始めよう。その日、大阪で故M原君の実家へ案内して頂き、その後に同級生だったHさんとの昼食会、そして京都のホテルへのチェックイン、そして今出川キャンパスを一緒に散策して、この百万遍まで付き合って頂いたデューク先輩はここから自宅に帰られた。最近、知ったのだが、実はこの頃のデューク先輩の体調は最悪で足の状態も良くなかったのに、バカな後輩のセンチメンタル・ジャーニーに長時間付き合って頂いた。改めてお礼を申し上げたい。さて、先輩と分かれてN谷君と二人になり、ここまで来たら銀閣寺に行こう。サーカスの跡地とオレ達は腐っても元文学部同士、哲学の小径まで行って、その昔を偲ぼうではないかと意見が一致した。陽はまだ完全に暮れてなくて、それでもさすがにだんだんと薄暗くなっていくなか百万遍から銀閣寺に向かって、学生時代の頃のようにバカ話をだらだらしながら二人並んで歩いていた。その時である。無灯火のスポーツサイクルがN谷君のすぐ横をすり抜けた。その瞬間、「アブナイやんけ、ワレ~」の大声とともに何かが、その自転車の方向に飛んで行った。
その物体(後から考えると僕が暑さ対策に準備していた持ち運び用の保冷剤、ガリガリ君のイラストのついたやつでした)は、自転車の運転者の横をすれすれに飛んで地面に落ちた。自転車乗りの学生にしてみたら、確実に自分に向けて投げつけられたことは明白である。自転車を止めて、こちらを振り向いた。やや怒っている様子は明白だった。「こら、待て、オノレ、自転車無灯火で歩道走ったらアブナイに決まってるやないか、舐めとんのかお前は、こら、待てちゅうのに、おいこら」と、流石は元ボーリョク学生というか姫路の893とも呼ばれた、狂犬N谷の本領発揮である。自転車に乗っていた学生(多分に百万遍にある元国立一期校の学生だと思われる)は、こちらに来るそぶりを一瞬見せたが身の危険を察したのか、軽やかなステップで自転車を立ち漕ぎして去っていった。「なんや、あいつ、若いくせして、逃げやがって」とこちらは興奮収まらないN谷君。しかし、この男は若い頃から喧嘩っ早かったが、雀百まで踊り忘れずの言葉通り、今でも十分現役であった。この後「喧嘩は先手必勝や、先に手を出したほうが勝つ」と、まるで夕焼け番長か片目の銀二のようなセリフを聞かされるワタクシであった。
そんな出来事もあったが、あたりはだんだん暗くなり僕たちは旅の初騒ぎ状態のハイテンションのまま銀閣寺道の交差点まで着いた。この信号をまっすぐ行くと銀閣寺、途中に哲学の小径もあるし映画『パッチギ』で朝鮮学校の生徒が暴れる土産物店などもある。また右に向かって歩いていくと岡崎があり、さらに進むと祇園の八坂神社、コンパの待ち合わせ場所がある。しかし、圧倒的に多数のケースはこの信号を左に曲がってすぐのマンションの地下にあるライブハウスに行くことが多かった。そう、拙blogに何度も登場し、DRACの第2Boxとまで呼ばれたサーカス&サーカスがあったのだ。
初めてサーカスに行ったのはいつだったか、どうしても思い出せない。一人で入れるはずはないし、DRACの誰かと一緒に、多分先輩に連れて行ってもらったと思うのだが、僕のサーカス&サーカスのイメージはライブハウスというより、バーボン・ウィスキー、アーリー・タイムスをほとんど店頭価格でボトルキープできて、氷や水のチャージもタダ、あるいは最初に何百円か取っただけで追加料金なしだったか。またつまみも安くて美味しい(特にピザは多分生まれて初めてここで食べたと思う)、つまり、学生向けの格安パブで早い時間に行くと誰かが生演奏している場所というイメージだった。それと憂歌団の事務所、ユニオン・シャッフルがあるというイメージだった(THIS BOYさん、間違ってないよね?)。
そして初めてじゃないかもしれないが、イメージ的には初めてだと思いたいくらい深酒してべろべろになり翌日死ぬような二日酔いを経験したのもこのライブハウスが原因だった。今でも忘れない。75年の12月19日。その日は僕の誕生日で、いつものように室町今出川にあったグリーンという雀荘で先輩たちと麻雀を打ち、その中で「今日はオレの誕生日なんすよ。このまま帰るわけにはいかないからサーカスで呑みましょう」と、記憶にある限りでは久留米出身のNさん、鹿児島出身のT原さん、そしてさらに1学年上で高知出身のS賀さん、あと同級生のS戸君とF田君もいたような気がするが、このあたりは自信が無い。多分、室町今出川から乗り合わせのタクシーで銀閣寺に行ったと思う。キープしていたバーボンを呑みはじめたが、今日が誕生日というハイテンションと、普段は麻雀でカモってばかりいる先輩も誕生日ということで僕を持ち上げてくれたおかげだろうか(多分、新しいボトル代は僕が負担するとかなんとか言ったんだろう)、あっという間に酔っぱらってしまった。
まだ大学の1回生の頃で、ようやく酒の飲み方を覚えたくらいの頃だったが、ロックで呑みはじめ、途中からほぼストレートでチェイサーもほとんど飲んでなかったから、悪酔いするのは早かった。真っ暗闇の記憶の中で断片的に浮かび上がってくるのは、S賀さんに向かって「こら、S賀、お前、ふだんから偉そうにしやがって、踊れ、踊れ(と言いながら持っていたミネラルウォーターの瓶を振り回し、本人もS賀さんもびしょびしょになった)」などと暴言を吐き、それでも人のいいS賀さんは立って踊りだし、回りの先輩たちも呆れていた姿。それからどれくらい時間が経ったか分からないが、当時のサーカスにはジュークボックスがあって、そこにニルソンの新譜のシングル曲があったのでそれをかけ、先輩たちに向かって、「この後、僕の下宿でニルソンの研究会をします。テーマは『俺たちは天使じゃない』、じゃあ一体なんだ。という形で時間は2時間程度予定しています」などと言ったシーン。そして、最後の記憶はサーカスの階段を先輩二人に肩を貸してもらいながら、何とか地上まで上がってきて、一息ついたところで「ニルソンの研究、おぇ、しま、ぅ、げ、げ、ぉぷ~」「あー、こらこらこんな道の真ん中でもどすな、街路樹のとこかどっか陰でやれ」「いや、もうあかん、う、うげげげげ(以下略)」。
そして目が覚めると修学院の下宿の布団に包まっていて、コタツの上には電気ポットがあり、その横にオレンジの金属製のマグカップに水がたっぷり入っていた。恐る恐る腕時計を見ると、もう午後、それも夕方が近い時間だった。おもむろに起きようとすると吐き気とめまいがして、また布団に倒れこんで一体全体何がどうなったのか考えていたら頭がずきずきしてきた。それでも、その日は磔磔に憂歌団のライブを見に行くと以前からS戸君と約束をしていたことを思い出し、S戸君とだけの約束ならバックれても苦しゅうないが、I上さんという先輩も一緒に行く約束をしていたので、九州男児としては行かねばならぬ、イカネバの娘であった。そして、フラフラの状態で憂歌団のライブに行くのだが、当日電車が遅れたのか何かトラブルがあったのか開始時間になって始まらず、客席からブーイングが飛び交い始めたその時にお店から日本酒の一升瓶がサービスで回され、いわゆる迎え酒というのをやったら実に快適で、その後のライブも最高だった、などということがあった。
まあ、こんな具合にこのサーカス&サーカスではお酒のうえでのいろいろな思い出があるし、もちろんライブハウスとしての記憶も嫌になるくらいある。ウシャコダも見た、P-Modelのライブを見ているときはお忍びで来日していたデビッド・ボウイがやって来たこともある。山本翔と一風堂も見た。もちろんパンタは何度も見たし、ここでインタビューさせてもらった時のカセットは家宝として実家に置いてある。関東から来るメジャーミュージシャン以外にも地元のイカシタ連中、中には「こんばんは、吉田拓郎です」と言って登場した雷徒人とか、カリブの嵐を率いていた西岡恭蔵、レイジ―ヒップ、こんなことを書きはじめたらいつまでたっても終わらないので切り上げるが、とにかく思い出の詰まった場所だった。
そのサーカス&サーカスがCBGBという名前になり、時々ライブはやるものの、いわゆるクラブになったと聞いたのは、すでに一介の労働者になっていた80年代の中ごろだったか。当時は筑波が本社の会社に勤めていて、下館の代理店の手伝いをしていた頃だ。後で登場する77年度生で、サークルの会長も務めたK君が結婚するということで招待状をもらった。披露パーティに参加するのは大部分がサークル関係者だったので、会場がCBGBに設定されていた。大学を離れてから6~7年たっていたが、その時は京都もそれほど懐かしい感じはしなかった。CBGBには当然ながら知っている店長もバイトも誰もいなかったし、なんといってもスタッフが全員同じユニフォームを着ていた。ステージの後ろに在ったモニュメントというか銅像というか、ギリシャとかローマにありそうな石膏の象はなくなっていた。要するに内装は完全に変わっていた。
N谷君と二人で、元サーカス&サーカスだったマンションに着いた。地下に向かう階段はそのままだった。CBGBがいつまで営業していたかは分からないが、廃業してからそれっきりだった様子がうかがえた。通路の壁に打ち付けてあったスケジュールボードはCBGBの名前がそのまま残っていた。地下に行く階段も途中から人が入れないよう、ロープや障害物が置いてあった。ほとんど何もしゃべらず何分間かそこに立っていた。ふと気を取り直して、サーカスから北に向かい一本目の路地を入ってみた。その奥の右側に昔、銀寿司という格安だが偏屈な親父がやってる寿司屋があった。貧乏学生の自分が江戸前ずしなど食べられるはずがないと入学当時は思っていたが、これまたたしかS賀さんたちに連れて行ってもらい、たらふく食べても割り勘で払えば大した金額にならない学生向けの寿司屋だった。そして銀寿司の対面にあったのが「おとくに」という居酒屋。ちょび髭のマスターと小さいがボーイッシュでちょっとセクシーな奥さんがやっていた。カウンターとテーブルが2つくらいの小さいお店だった。ここで軽く飲み食いして、サーカスでたらふく飲むというパターンも結構あった。もちろん、どちらの店も無くなっている。それどころか跡地にマンションや家が建っていて、様子が完全に変わっていた。
そこから、信号を渡り哲学の小径を少しうろついたが既に20時をはるかに回っており、あたりは真っ暗で景色を楽しむ余裕が無い。あちこちうろついたので小腹もへって来た。この日はWeb上でしか会ったことのないDRACの後輩のシバデン君と時間が合えば一緒に飲もうと約束していた。串八に入るあたりから何度かメールしたのだが、彼の仕事がなかなか終わらず、そうこうしているうちに僕たちは銀閣寺まで来てしまった。ままよと、N谷君の判断に任せて、一軒のお店に入った。和風だか洋風だか良く分からないが、座敷もあり落ち着いて飲み食いできた。場所をメールしてしばらくすると、店の戸が開いて一人の男性が息を切らせて入ってきた。「シバデン君?」と尋ねるとイエスの返事。拙blogを以前から読んでいてくれて、FBで友達になった男だ。この時は単なるロードーシャだったが、今は高学歴ワーキングプア業界ではナンバーワンの男だ(笑)。
N谷君はFBもやらないし、ネットもDRAC関係者のblogを時々のぞき見るくらいなので、シバデン君のことは全然知らない。簡単に紹介して三人で呑みはじめた。もっとも僕とN谷君は結構出来上がっていたので、シバデン君は圧倒されているようだった。どんな話をしたか正直ほとんど覚えいていない。唯一覚えているのは、そろそろ帰るかというときにN谷君がシバデン君は払わなくていいと男気をだしたことと、シバデン君のチャリに乗って帰る姿が印象的でバックに加川良の「下宿屋」が流れたような気がしたくらいか。さて、その日はホテルに戻って大人しく寝たが翌日は先ほど登場した77年度生で元会長、そして今はD大の職員として学生を弾圧している、違ったか、学生を援助しているK君と元学生会館で一緒にメシを食う約束をしていた。そして、そこから遥かなる田辺への旅が、また始まるのだ。つーって、全然終わらない。どうしよう。困った。