話はぜんぜんこってないけど、こった話

 気がついたら2月も終わりである。この所、ずっと更新をさぼっており時々携帯から写真を投稿してお茶を濁していたのには理由がある。実は、首が回らなくなった。いや、それはもう社会人になってからずっと首は回らないのだが、ええと、そういう例えではなくて実際物理的にというか肉体的にというか、フィジカルに首が回らなくなり、更には右側と左側の手の根元の上の部分、世間では肩と言っているあたりも痛くなった。昔、四十肩というのをやりそうになった。十年以上前だが、突然右手が上にあがらなくなり、これじゃ選手宣誓も出来ないし、ハイルヒットラーも出来ない、パンパカパーン・パパパ・パンパカパーン、今週のハイライト、ってのはてんぷくトリオだったか、トリオ・ザ・スカイラインだったか、あるいはナンセンストリオだったか、などと今時のお子達は決して知らない幻の日本のコントブームなどをちょっと思い出したりもしたのだが、ええと、何の話だったか・・・。

 そうそう、首が回らなくなり肩が痛くなったという話だった。首が回らないというのはちょっと不正確で、なんていうのか首をラジオ体操の時みたいにぐるりと後ろ側に回していると、途中でボキッという音がしてちょっと気持ちが良くなることってあるでしょ。あれが出来なくなった。つまり、首をぐる~っと回していると、あ、ここで鳴るな、鳴るなというポイントに来るけど、その途端痛くなって動かせなくなる。まるで、ビートたけしの下手な物真似みたいになってしまう。しかも情けないことに2回に1回は、首を回している途中に思わず「イテテ」と無意識に言ってしまうのだ。配偶者や子供たちからも、最初は心配されたが、そのうちまた始まったみたいな感じになり、見ていて気持ちが悪いからもうするななどと言われてしまう。仕方がないので「ダンカン、このやろっ」とたけしの真似をしてみるが、似ていないとにべ無く言われて終わり。

 そうこうしているうちに、今度は肩が痛いというか固くなって重く感じ始めた。僕は肩こりというものを経験したことが無いので、良く分からないのだが、こういう状態を俗に肩が凝ってるというらしい。肩の筋がカチンカチンで、石のように固いのだ。自分の手で揉んでみるが、ちょっとほぐれたかなと思うといつの間にかまた固くなっている。まあ、ガキの頃からロックなどを好んで聴いて来たから、自分自身もついにロックと化してしまったと思い込もうとしたが、それでいったい何のメリットがあるのかと考えたらあほらしくなってやめた。

 僕は我慢の人である。大抵のことは我慢できる。痛さもつらさも大丈夫だ。何しろ「艱難汝を珠にす」を子供の頃から座右の銘にして真実一路に生きて来たから、我慢強い。今回の首と肩も我慢していた。しかし、我慢していて状態が良くなることはない。Getting betterになるには、何らかの対策を打たないとダメなことは、流石に半世紀以上も人間をやっていると分かってくる。それで、とりあえずは肩に湿布を貼った。どういう訳か自宅に整形外科から処方された湿布が結構あったので、両肩に1枚ずつ貼ってみた。お風呂上りの肩に熱が走るというか、何やらじんわり体内にしみこんでくる感触がある。思わず「カプシプラスト」と叫んでしまった。いったい何のまじないだろうと思って検索してみたら、70年代に元クールファイブの前川清がモノホンの母親と一緒に出ていた湿布薬の名前だった。刷り込みの原理とは恐ろしいもので、あれから40年経過しているのに、湿布を貼ると思わず出てきてしまったのだ。まあ、カプシプラストで良かった。「伸びて縮んでまた伸びる、縮んで伸びてまた伸びる」などというフレーズだったら60年代である。

 で、湿布を貼ったら肩はなんとなく軽くなった気がした。そのまま布団に入って寝て、翌日起きて仕事に行った。仕事が終わって家に帰り、服を着替えていたら何やら違和感がある。義和団の乱ではなく、違和感の乱である。ハッと気がついて肩を見ると湿布がしっかり張り付いている。つまりほとんど丸一日、湿布を貼ったまま行動していたのだ。今日は妙齢のおねいさんとも仕事で会った。もしかしたら、そのおねいさんに湿布の匂いを、いやそんな上等な漢字ではなく臭い、こっちのほうだ、を春一番を過ぎたちょっと南風に乗せてかがせてしまったのではないか。職場での好感度1,2を争うと自負しているワタクシとしたことが、とんだ不始末をしてしまった。明日、職場に行くと「drac-obさんて、湿布くさいよね」とか「仁丹の臭いがする」とか「華麗な匂いがするわ、じゃなかった加齢臭がするわ」などと言われるのではないか。という心配より、僕は肌が弱いのでカブれてしまったのではないかと焦った。

 幸いかぶれはなかったが、それに懲りて湿布は一日おきに貼り、そして翌日の昼休みにはこっそりはがすようにした。そういうやり方をして耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んできたのだがあかん。全然状態が変わらない。Getting betterどころか、Knockin’ on Heaven’s Doorになりかけている。首はますます回りが悪くなり、ついに5回に1回くらいしかポキポキ言わなくなった。どうする、整形外科に行くべきか。しかし、整形に行っても湿布薬を処方されるくらいで全然良くならないという話も聞く。あちこちの人に聞いてみたら、やれ指圧だ、やれ鍼灸だ、やれカイロプラクティクスだ、と話が全然まとまらない。その中で誰かが教えてくれた整骨院、というものがあった。柔道の先生なんかが骨接ぎなんて看板出しているあれである。車周作がまむし酒を造ったり、土方をしたりして収入を得ていたが、その中に骨接ぎの仕事も確かしていたな、などとこれまた意味のない記憶を呼び戻し、よっしゃ一発整骨院を試してみるかという気になった。

 実は健康保険が使えるという経済的理由が一番大きかったのだが、それでも清水の舞台から飛び降りる覚悟で、生まれて初めて整骨院に行ってみた。教えてもらったその整骨院は閑静な住宅街の中にひっそりと建っていた。看板が無ければ普通の民家みたいなところである。恐る恐る入っていくと受付があり、そこに先生がいた。保険証を出して症状を説明したらすぐに治療室に通された。その時に受付のPCの画面が見えたが、ソリティアをやっている途中だった。こりゃ、暇な整骨院みたいだけど腕は確かだろうか、治療費が高いんじゃないかなどとやや不安になりながら、30分。非常に快適になり治療室を出たのであった。

 あー、ダメだ。もうこれ以上は肩が痛くなってくるのでやめるが、こういう状態だったのでPCからの更新はちょっと厳しいかもしれない。3月も携帯からの話が多くなるかもしれん。とりあえず2月はこれでおしまい。

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こんな時もあったんだ



弟の命日なので墓参に来た。ワンカップを捧げ、線香をあげ、出たゴミを捨てようとしたら…。数年前の新聞に包まれ、捨てられていた花束があった。一面に満面の笑みを讃えているミスター子供手当も、確か母親が亡くなったばかりの筈。

人の世は虚しき事ばかりだな、などとシニカルに考えたのであった。

この雑誌の名前が



尿道雑誌、と見えて驚いた僕は病気かも知れない。笑ったあなたは尿管結石の地獄の苦しみを知らない極楽トンボにちがいない。

何故、この日を祝う?



地元の和菓子屋でサービスのコーヒーを飲んでいたら面妖なものが目に入った。ポスターではない。こちらは覆面シンガーから素顔を表したGILLE。訳がわからないのは、ポスターの横の文字だ。バレンタインと読めるが、シカゴギャングの虐殺の日だ。こんな日を祝うのは893にちがいない。ちがいないったらちがいない。

過去への旅路その15 串八慕情てかシカト列伝パートⅡ

 しょうもないスパムメールをネタにしていたら、あっという間に1月も終わりだ。ちょっと待ったれや、おい。ついこの前、年越しそば食ったばかりやっちゅうのに、もう1ヶ月が過ぎようとしているってどういうこっちゃ。などと、ここ何年か1月のこの時期に毎回同じことを書いている気がする。が、しかしだ。時は人を待ってくれないというのは、これは昔からの真実であるし、ストーンズも元気の良かった頃、そんな風なことを歌っていた。あの曲の間奏のギターソロはサンタナにちょっと似てたと思う。もちろん、まだロン・ウッドが加入する前のストーンズだったが。

 などと、一瞬、お、これは久しぶりの音楽ネタではないかと読み手をぬか喜びさせておいて、実は昨年完結しなかった京都旅行の話の続きなのだ。いい加減しつこい。しつこいけれども、この話の続きを楽しみにしていると年賀状に書いてくる後輩もいるわけだから、とりあえず話は完結させておきたい。とはいうものの、いったいどこまで書いたのか、ちょっと調べてみないと分からない。で、過去の記事を調べてみたら、なんと13回も書いていた。もっとも、よーく見直してみると11回目を2回カウントしている。2重カウントですな。それで、もう一度番号を振りなおしてみたら、なんと14回もダラダラと、いや、その大河シリーズと銘打ってるだけに『山鳥の尾のしだり尾のながながし』(by 下記の素人麻呂、って変換しやがった。これじゃ「かきのしろうと、まろ」である。むろん柿本人麻呂である)話を続けているのだ。しかも旅はまだ半ば。記憶が薄れないうちに一気呵成に行きたい。

京大_convert_20130206000422

 ええと、出町から進撃を始めたデューク先輩、N谷君、ワタクシの3人縦隊であるが、今出川通りをぶらぶら歩き、そういえば昔ここで特殊工作隊に襲われたことがあったなどと話しているうちに百万遍に着いた。あの国立大学が一期校、二期校と分かれていた時代、ダントツに難しかった一期校であり、ノーベル賞受賞者を輩出している、あの京都大学のテリトリーである。百万遍の交差点に立ち、左手を見るとその昔、かいじん21面相が脅迫状をコピーしたというお店は既に無くなっていた。右手に折れると伝説の西部講堂のオリオンの三ツ星を見ることもできる。そして、斜め前の京都大学の入り口には、昔懐かしい立て看がその存在感を示していた。「学生自治最後の砦、京大」などと書いてある。N谷君と「ゲバ字や、懐かしいな。ここまだボーリョク学生がおるんやな」などととぼけた会話をしていたが、そろそろ夕方。今日は朝から電車に乗ったり、バスに乗ったり、そしてもちろん徒歩にて(かちにて、と読んでいただきたい、エーゴでいうとon footっちゅうやつや)、大阪から京都までうろうろしたので、いい加減腹も減ったしのども乾いた。今回、同志社から出町、百万遍と歩いてきたのは、実は串八でシーメを食いたいという狙いがあったからだ。

 串八というのは、名前の通り串カツ専門のチェーン店で、値段も手ごろで店内もすっきりしたお店で貧乏学生時代に良く通っていた。なんといっても当時はキャベツが金属のボールにいっぱい入っていて、それはお替り自由、つまり食べ放題だったわけだ。大してお金はないが、お酒は呑みたい。出来ればおつまみを食べながら一杯やりたいが、貧乏学生にとっては高値の串カツをばんばん頼んでいると支払いの時に金が足りなくなる、などというのは毎度毎度のことだったので、いかに安くてしかも適当なアテを食べながら呑める店は無いかと探していく中で出会ったお店である。もちろん串も美味しいことは間違いなし。結構からりと揚がっていて量を食べても胃にもたれることがないのだ。京都で子育てしながら古本や音楽に情熱を燃やしているもりさんのblogで年に2回ほど串八の話題がアップされ、そこに出ている写真を見るたびに、いつかオレも串八に再び行くぞ、アイシャルビーリリースト違ったアイシャルリターンだと固く決意したのが、つい昨日のように思い出される。もっとも一番よく通ったのは銀閣寺店だったが、そこまで歩く気力もなかったので百万遍のお店に入っていった。

串八_convert_20130206000448

 お店に入ると、まだ夕方の5時過ぎだったのに、すでに1階のカウンターにはかなりのお客さんがいた。「3人さん?お二階にどうぞ」と店員に案内され、急な階段を上る。2階はテーブル席でそれぞれのテーブルは格子で仕切られていて、他の客を気にしなくていいつくりになっていた。さっそくテーブルを囲み、3人で飲み物と料理を注文。もっともデューク先輩は、その日帰ることになっていたこともありノンアルコール。僕とN谷君は当然生ジョッキである。しかし、前日の大阪夏の陣で串カツを貪り食っていたため、流石に2日連続だとちょっと手が伸びず、N谷君が注文しただし巻きやサラダなどをつまみに男3人またもや身の上話、世間話、昔話に花を咲かせた。

だし巻き_convert_20130206000344

 しかし考えてみれば、この3人だけで呑むのは初めてかもしれないが、そのほかのメンバーを交えて一緒に飲み食いしたことは、数限りなく在った筈だ。僕たちのサークルは大抵月に1回、少なくとも2ヶ月に1回はサークル員全員参加のコンパをやっていたし、それでなくても研究会のあとや、何かイベントを、当時だったら映画の上映やレコードコンサート(!!!アンビリーバブルでしょ、薄暗い教室にオーディオセットを置いてひたすらレコードをかけるイベント。あ、一応司会進行というかディッスクジョッキーは僕が何度か担当したけど、今のクラブのDJと違って大衆音楽に勝手な屁理屈つけて、これはいいから是非聴けとか、これはオンナコドモに受けているが大した音楽ではないので買うなとか持っていたら捨てろとかめちゃくちゃ言ったりしてたな。ひどい時はウィスキーのポケット瓶をやりながらしゃべっていたこともあり、完全に人格破綻者であった)などのあとに打ち上げとか研究会の第二部などと口実をつけては呑みに行っていた。またお酒なしの昼飯や晩飯も何十回も一緒に食べているはずだ。それは出町の王将だったり、中島食堂だったり学生会館の学食だったり、焼肉のローラだったり、駱駝艦の釜飯であったり、天下一品のラーメンだったり、と書いていてもキリが無い。

 その何十回、下手すると百回以上一緒に飲み食いして、その都度真面目な話からバカ話、時には口論、酔っぱらったときは大ゲンカといろいろなパターンはあったが、ほとんどの話は「もし××だったら」とか「これがこうなったら」とか「あの時は面白かった」とか、要するに日常からやや乖離した、要するに生活感の伴わない話がほとんどだった気がする。しかし、あの時代から30年以上経過し、お互い髪は白くなったり、薄くなってしまったり、その反動で余計な肉がついて腹回りはあきらかにハーフのジーンズは絶対に入らないようになってしまい、それから家族などが出来て生活の比重はそちらにかかってきて…。何が言いたいかというと、その時のお酒の席での話は今現在のそれぞれの生活の話から始まり、ああお互い年齢を重ねて来たんだなということをつくづく感じる2時間であった。この3人の中では一番年長で、冷静なデューク先輩もときどきため息をつきながら、「セラヴィ」みたいな相槌を打つことも何度かあった。

 もっとも、そういう真面目な話もあったが、やはり一番楽しかったのは学生時代のバカ話や当時の友人・後輩のその後の人生、いわゆる噂話でしたな。同級生についてはやはりセンミツの異名を取るF田敏雄君の話で、まあサークルの先輩後輩で直接の面識が無くても、この男の話題を出せれば盛り上がること間違いなしのF田君。今回も大いに笑わせてもらいました。また先日のエントリー『DRACシカト列伝』の筆頭に挙げるべきだったS戸君。あれだけ学生時代は濃い付き合いをしておきながら、しかも職場はデューク先輩と1駅隔てただけだというのに意図的音信不通。電話にでんわ、伝言は無視するわ、挙句は「あいつ(ワタクシのこと)と付き合ってもワシ何にもメリットあらへん」とまるでナニワ金融道の桑田澄男みたいなことを言ってるのは知ってるぞ、コノヤロ(笑)。というような話の中で、僕達の時代に一番サークル員が多かった77年度生の話題になった。ネタの中心人物はN谷君である。

 そういえば、その時話題になった77年度生にもシカト列伝に上げていい奴が二人いた。一人は同じ文学部で同じ英文科の後輩だった、M原という岡山は鴨方出身の男。まあ、人当たりがいいというか調子を合わせるのが上手いというか、愛想のいい男で口から出まかせばかり言う男だった。ある時、合宿の朝だったかもしれないが、とにかく前日何人かで酒を飲み一緒に泊まり、朝起きたらテレビのワイドショーが映っていた。何やら貧しい農家の男が生姜の生産を始め、もちろん艱難辛苦を乗り越えて一代で立派なお屋敷に住むまでになり、近所では生姜御殿と話題になっているなんて番組だった。その番組を見てM原、素っ頓狂な声で「言い得て妙が、やってみて生姜」と絶叫。あまりのバカバカしさに大爆笑だった。

 この手の話題には事欠かなかったが、まあこういう言葉遊びが好きなだけあって就職は広告代理店一本に絞って、次々挑戦していた。ちょうど糸井重里が1行100万とか、いやいや仲畑貴志は1言100万らしいとか言われていた時代だった。「オイシイ生活」なんて書くだけで1年間メシが食えるなどともてはやされて、根が楽天的なM原君は自分に最適の仕事、天職だと思ったのだろう。大手のD通やH報堂はもとより手当たり次第挑戦していた。その就職活動のときの話で、関西の中堅の広告代理店の1次試験をパスして2次試験、これを突破すれば社長面接で内定がもらえるという大事な時。その段階で10名だったか20名だったか、まだ結構な人数の応募者たちがある部屋に通された。そこには1人1人に割り箸が置かれていた。てっきり何か食べ物でも出してもらえるかと思っていたら、なんとそこに原稿用紙が配られて、割り箸のキャッチコピーを書けという試験だった。そして、我らがM原君の作品は「割り箸をパンと割る音、伝統の音」とかなんとか書いて、見事採用された。という話を以前話題になったT畠君から聞いた。

 ええと、話が過去に飛び過ぎた。そのM原君だが、今はもうその広告代理店にはおらず、別の会社に転職しているのだが、どうもそのあたりから様子がおかしくなり、電話してもでんわ(これはさっきも使った、汗)。何とか連絡付けて話をしようとしても、なかなか話が通じないし、たまには気晴らしで呑みに誘おうとしても絶対に出てこないらしい(以上、N谷情報)。僕も4,5年前に何度か連絡したが、留守電になってしまい話ができない。留守電にメッセージ入れても音沙汰なしが続いたので、こちらから連絡取ることをしなくなった。そして今回の京都旅行が決まり、ずいぶん久しぶりに電話してみたが、案の定出ない。まあ、いつものことだとこちらもすぐに電話を切ったが、それから5分もしないうちに折り返しかかってきた。開口一番が「えらいすんません。ちょうど打ち合わせ中でして。電話もらいましたな、どちらさんでした?」。要するに僕からの電話だと思ってなかったようだ。「おう、久しぶりやな、ワシや、drac-obや。今度関西に行くことに」「あ、すんません、今仕事中ですねん」「いや、その、なら折り返しでんw」「ハイハイ、ほなまた」。でガチャンである。

 その一部始終をデューク先輩とN谷君に話したら、N谷君が「そら、お前の電話が久しぶりやさかい、誰か分からんかったんやな。でも、もうお前の番号って分かったはずやから、これから電話しても絶対出ぇへんで(笑)。あいつ、少しおかしくなってんねん。うつ病ちゃうか」。なるほど、そうかもしれんが、そこはそれ何でも考え何でもかんでもやってみようというケペル先生的イデオロギーの持ち主の僕は、「そんなん分からへんで、出るかもしれん」といって電話をその場からしてみたが、コールは虚しく響き、すぐに留守電のアナウンスが流れるのであった。「あの野郎、学生時代は散々ただ酒、ただ飯食わしてやったのに、恩をあだで返すとはこういうこっちゃな」と激怒するワタクシであった。

 さらにもう一人(本当はこの他にもいるのだが、ちょっとこういう所で書くのはマズイ話なので、自粛)、シカト列伝間違いなしなのが同じ文学部でこちらは筒井康隆にあこがれて心理学科に入学したO原。この男の実名はこのアルファベットをそのまま発音したらわかるのだが、それはさておき。筒井康隆は同志社の偉大な先輩であるが、文学部の美学専攻だったのは有名な話。ところがO原君は筒井の作品に心理学用語が沢山出るのでてっきり心理学科だと思い込んで受験したと、多分これは作った話じゃないかと思うが、もしかしたら本当の話だったかもしれない。学生時代はチャ―に似たルックスで結構女の子にもモテた。酒の付き合いも良かったし、麻雀も良くやった。いわゆる男気のある奴だと思っていたのだが、どうも違っていたらしい。N谷君は彼の結婚後も時々会ったりしていたらしいが、ある時期から人を人とも思わない態度を取るようになった。要するに社会での成功、まあ収入であったり会社での立場であったり、そういうものに比例して自分は偉くなった、大学の先輩とてナンボのもんじゃいという口調や態度が目につき始めて、それ以来付き合わなくなったという。

 僕は南九州のド田舎で生活していたので、そういうことは全く知らず偶然FBで彼の名前を見つけて、すぐにメールしたが返事が無かった。仕事が忙しくて気がつかないのかと思い、時間を空けて再度メールしたがなしのつぶて。こうなったら奴のウォールに直接書き込んでやろうと思ったら、どうも奴は自分の知り合いだけのグループを組んでいて、それ以外の人間からの接触は断っているようだった。ムカついた僕は何か方法がないか考えてみた。そうだ、あいつは三度の飯より女が大好きだった(いや、オレも決して嫌いな方ではないが、って何を言ってるのだ)。オレからのメールは無視できても女からのメールには飛びつくだろうと思い、時々拙blogにコメントくれるCHAに頼んでみた。当時は1回生で花の19歳、可愛かったCHAからのメールだ、O原のボケは飛びつくに違いない。しかし、どうしたことかやはりとんと打ち返しがない。もしや赤玉が出てしまいオトコではなくなったのかと考えたが、ハタと思い出したことがあった。あのナイスバデで当時松田聖子かCHAかともてはやされた彼女ではあるが、残酷なことにあれからやはり30年経過していたのだ。賞味期限が切れ、いや、その、なんていうのか、あ、その今は美魔女とかいうじゃねーか、そんな怒るなよ、悪気はないんだから、と一体オレは誰に謝っているのか、収拾がつかなくなったので今日はここまで。

※お詫び~このエントリー書き始めたのは1月の中旬でしたが、なんだかんだでそのままにしていたため、ちょっと混乱した時間帯日付になっています。

ジャストシンクロニシティ、あるいは還暦のジャックと豆の木

 いや、驚いた。こんなことがあるなんて、人生は捨てたものじゃない。今日、FBの投稿で、後輩のシバデン君がアマゾンからジャックスのアルバムをまとめ買いしたなんて記事を書いていた。ジャックスについては、まあ若い頃はいろいろ感じることもあったが、今はちょっと辛気臭くてパスしたい。その時、脳裏にひらめいたのが♪いつか~故郷を捨てて、一人~旅に出た僕~という歌いだしで始まる、ジャックと豆の木というグループの「二十才の手紙」という歌。これは、僕が中学3年生の時、一部の深夜放送で良く流れていた歌だった。歌詞もいいのだが、途中に出てくる南九州方言のモノローグがなんとも時代がかっていて、まるで「男おいどん」の世界であった。ただ「芋焼酎が飲みたか~」という叫びが非常に印象的で、当時中学生だった僕は、その本来の意味というか叫びを理解できたはずはないのだが、何故か後年そういう状況に陥るのではというアプリオリな印象を持ったものだ。

 ネットで検索してもほとんど情報らしい情報はなく、YOU TUBEで探しても全くヒットしなかった。もっとも、同じような雰囲気を持っていたニッチモ&サッチモ(しかし、数年前宮崎から衆議院選挙に出るかもしれないというニュースを聞いたときは驚いた。詳細はここを読んでください)がたまにアップされることがあったので、もしかしたらという期待はしていた。そして、先ほどのことだ。『八重の桜』を見て、ううむ、吉田松陰も刑死したか、井伊直弼も桜田門で万延元年のラグビーボールとなってしまったか、我がポンニチはどうなるとものの見事に国営放送の罠に、ジャスト、フォールイントゥアトラップ状態で、このまま本を読んで寝るのもアレだから、だからアレってなんだよ、という繰り返しは止めて、ほんの軽い気持ちでYOU TUBEで検索したら、なんとジャックと豆の木が、「二十才の手紙」があったのだ。

 改めて聞きなおしてみると、サウンド的にはあの時期の歌謡曲と洋楽、フォークソングのチャンプルーな演奏で歌い方もフォークな感じはせず、どちらかというとあの「出発の歌」みたいなアレンジだけど、間違いない。その昔、高校受験の勉強の合間に聞いていたあの歌である。しかし、71年に聞いてそれ以来、何十年ぶりか。ひと頃ジャックと豆の木というと山下洋輔が全冷中を立ち上げた幻のスナックの名前でヒットするしかなかったのだが。いや、嬉しい。こんなことがあるから人生捨てたもんじゃないのだ。


攘夷か(笑)



街中をぶらぶら散歩していたら面妖なポスターを見つけた。侍日本と読める文字と、おそらく武士だと思われる人物が右手に何か持っている。最初は刀かと思ったが先端が丸くて太い。どうやらバットのようだ。日本刀だと刃物になるからバットで夷狄を退治しようという考えだろうか。いずれにせよ凶器準備集合罪にはひっかかるだろうな。

幕府はどうやら開国を決めたようだが、我がポンニチにえげれすやメリケンの伴天連が跋扈するようなことがあってはならない。かようなことを許せば、いずれは労苦や反苦などとという反抗音楽に毒される人間が増え、ポンニチアズNo.1と讃えられた我が祖国が零落することになる。

などと妄想を膨らませる暇があったら帰って本でも読むか。

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