過去への旅路その14 京都学生下宿事情

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 烏丸今出川から河原町今出川まで、圧倒的に密集した隊列で移動した僕達3人であるが、出町の王将を見て外見も雰囲気も全然変わってないと嘆き、中島食堂が弁当屋になっていて変わり果てたと嘆き、パチンコのキングは立体駐車場もあり立派な姿を残しているのに、ラッキーは影も形もないと嘆き、ハタ坊の実家だったヨルダン社はどこだったか、探してみたが分からない。多分ここじゃないかという場所しか分からず、しかしながら後で撮った写真を調べたら全く違う家だった。そういうことをだらだらと話しながら、いよいよ賀茂大橋を渡り百万遍に向かった。大橋を渡りながら、川の土手など眺めると家族連れや友人連れの人たちが真夏の街中の熱気を避けて川風で涼を取っていた。浴衣姿のおねいさんも何人かいて、「お、あれはなかなか」、「いやいやあっちのほうが」、「え、あれ何ですの、浴衣の丈がちんちくりんというか、あれが今はやりのツィッギーのミニスカートちゅうもんでっか」、などと大ぼけかましていたら、とんでもないものを見つけてしまった。

 心ある市民の皆様が一服の清涼剤として川べりで時を過ごしているというのに、川の中の飛び石に「二人羽織か。お前たちは!!」、といいたくなるくらい固く密着している二人組。男同士ならモーホーだが、非常に不愉快なことに男女のカップルである。あんまり不愉快だったので、橋の上から石を投げつけてやろうと思ったが、悲しいかな、そこは舗装されたペイブメントであって、レンガや石ころは見当たらなかった。しょうがないからコーラの自販機を見つけて、中身はもったいないから一気飲みして空き瓶にガソリン詰めて火炎ビンにして放り投げてやろうと思ったが、なんと今時のコーラは全て缶入りで瓶に入ったコーラはどこにもなかった。おそらく学生の反乱を恐れるアメリカ帝国主義者の陰謀であろう。などと、あまりの暑さにこちらも少しおかしくなりながら歩き続けた。

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 大橋を渡って少し歩くと、N谷君が「あった、あった、ここだ」と指差す方向を見ると、そこにはドミトリー・ア×バがあった。1階にブティックが入っていて鉄筋の6階建てくらいだったか、70年代末に僕たちの前に登場したワンルーム・マンションである。当時、学生(むろん頭に「貧乏」という名詞が付く。僕の周囲に、その名詞が付かない先輩・友人・後輩諸君はほとんど皆無に近かった。これぞ「類は友を呼ぶ」である)が住むのは、さすがに賄いつきの間借というスタイルはほとんど滅亡していたが、大抵は下宿。それも4畳半は当たり前。下手すると1畳分の備え付けのベッド、要するに畳一畳分を60センチくらい床から上げて、上に布団を敷いてベッド代わりにし、その下の空間に引き出しを取り付けてタンスとして利用するという、まあ狭いスペースを少しでも広く使おうという考えだろうが、その分、活動スペースは3畳しかないなんてところも結構あった。また誰かを泊めるときは、その1畳のベッドに頭をお互い反対方向にして寝るしかない。要するに自分の顔の横に相手の足が来るという、非常に勝手の悪いものであった。これはK町君(後で説明します)の銀閣寺の下宿で体験したから間違いありません。その点、僕などは出町時代、清友荘時代と連続して6畳の部屋を借りてきたので、結構みんなから羨ましがられたものだ。

 何が言いたいかというと、当時の学生で風呂トイレ付の部屋を借りるというのは大変なぜいたくで、僕の京都時代6年間を振り返ってみても、そういう部屋に住んでいたのは一乗寺にお住まいだったU村さん、この方は風呂トイレ付のアパートに住んでいた。もっとも木造モルタル造りのアパートで鉄筋コンクリートではなかった。もう一人は同じ高校出身で、R大学に進んだM君。彼は実家が建設会社を経営していたので、大ブルジョワジーであり、何と衣笠の方に和室二間のアパートに一人暮らしという贅沢さ。当時、K町君というM君を通じて知り合ったR大の学生曰く「あっこは天国やで」。そう、6畳一間の安アパートですら、贅沢などと言われた時代に、6畳、4畳半の二間と台所、風呂、トイレのついていた彼のアパートは確かに羨ましかった。そういえば、このM君も卒業前は鹿ケ谷あたりに鉄筋のワンルーム・マンションを借りていたな。

 話がそれたが、そのドミトリー・ア×バというマンションに入居したのは、毎度まいど話題に出てくる同級生で、77年にサークルの会長になったS戸君である。彼は、兵庫県は加西市というイノシシが国道を歩いているような田舎町で育ち、入学当初は岩倉という人外魔境に住んでいたが、通学電車のエイデンから見える修学院プラザや一乗寺のにぎやかさに釣られて、北白川の下宿に引っ越してあのF田君と一緒に住んでいた。しかし、立志伝中の人というか一念発起の男で、サーカスのバイトと塾の講師のバイトで礼金・敷金を貯めて花のマンション暮らしを始めたのは79年だったか。その前に中古ではあるがトヨタのFTOを購入し、その車に装着している8トラのカセットでジュリーやキャンディーズの歌を流しながらナンパするという離れ業も見せる男だった。

 彼の乗っていたFTOは真っ赤なボディで結構足回りもよくて、あちこちドライブに連れて行った貰った。ある時、場所はもう忘れてしまったが、どこかへドライブに行く途中で道を間違えたことに気がつき、黄色い車線に入っていたが後方から来る車もないので、ウィンカーを上げて右折車線に入った。その途端に、『ウーウーウー』とサイレンが鳴った。「何だなんだどうした」とあたりを見回すと、白バイ警官がどこからともなく登場して路肩に車を止めろと指示する。「免許証見せてもらえますか」「任意、任意なら見せない」「いや、お宅、今違反しましたやろ」「違反なんかしてへんわ、天下の公道を車で走っとっただけやんけ」「いや、てんごいうたらあかん、車線変更しましたやろ。あれは『指定通行区分違反』いいますんや。黄色車線に入った時は、道を間違っててもそのまま行くて自動車学校で習たんとちがいます」「…。見逃してください」「あかん、あかん、はよ免許証出しなはれ」「これで堪忍しとくれやす。減点してもええさかい、罰金だけは堪忍して、な、悪いようにはせえへんさかい。罰金だけは」。ここで彼が歌い出したのがオナッターズの「恋のバッキン」、というのは大嘘で、だいたいあの歌は85年なので時代が違う。しかし、白バイにつかまり何の抗弁も出来ず、切符を切られたことと、クールなポリスから「指定通行区分違反」と言われたのは間違いない事実です。



 さらに、そのFTOをある時ぶつけてしまい助手席のドアが凹んでしまった。それだけならいいのだが、ドアのロックも壊れたようで助手席に乗るときは空けたままになっている窓から乗り込むという、まるでスーパージェッタ―の流星号みたいだった時期もあった。この時は伏見あたりの車のパーツ屋というか解体業者の所に行って(不肖ワタクシも窓から乗り込み、ナビゲートしておりました。笑)、山のように積まれた廃車のなかからトヨタのFTOを探して、傷のついてない車を見つけたのは良かったが、悲しいかな、その車のボディカラーがホワイト。真っ赤なボディに助手席のドアだけ純白という、ある意味立派なツートーンの車が出来たのだが、流石にそれは恥ずかしく思い塗装屋に頼んだ。後日、車のドア代も塗装代も予期せぬ出費だっただけに、塾で教える科目を増やしたとぼやいていた。

 そのドミトリー・ア×バが目の前にあった。1階にブティックがあったことは書いたが、今は既に無くなっているようで空き店舗になっていた。そういえば、このブティックの雇われだったか、オーナーだったか分からないが、要するにお店のマスターは顔の広い人だったようで、当時発刊されたばかりのFineという雑誌の記者がインタビューに来たことがあった。その時に、京都のシティ・サーファーというか今風の若者を誰か紹介して欲しいと頼まれて、あろうことかS戸君を推薦した。そのマンションには他にもっといい男がいたと思うが、毎日その店に出入りしていたS戸君に情が移っていたのか、とにかく『どんな雑誌か分からないがワカモノ向きのポパイのような雑誌がS戸君に取材に来る、そのついでに友人関係の話も聞きたい』と言われ何故か僕もそこに参加することになった。

 調べてみたらFineという雑誌は日之出出版の月刊ファッション雑誌で78年の9月発刊なので、やはりまだ出来たてほやほやの時期だったようだ。雑誌のイメージ戦略の一環として京阪神のヤング(笑、死語ですな完全に)のファッション状況を記事にしようということだと思うが、そして取材に来たのはいかにもヤリ手のキャリア・ウーマンというか、私、第一志望はキナメリさんの編集するPOPEYEだったのよ、最終選考まで行ったけど土壇場でコネを持ってる子が採用されて、そんな裏事情知ったらもうPOPEYEへの未練は無くなって、今度は私の一人の力でFineを日本中のヤング(笑、死語ですね完全に)の愛読書にするために出した関西取材企画なのよ、それなのに、何、このかまやつひろしみたいな子と、まあでもかまやつは多少はこざっぱりしてるからいいけど、一緒にいる米軍放出品のアノラックを、多分三信衣料で3980円くらいで中古で買ったの間違いないけど、そんな信じられないモノ着て、やたら饒舌に日本のロックシーンがどうしたとか、関西のパンク・シーンは今が見どころで、あのだててんりゅうのトナリさんがDUFFってバンドでコステロの曲やっていてそれは単なるコピーじゃなくて、商業音楽へのアンチテーゼだとか何とか言ってるウザイの、こんなのうちのおしゃれな雑誌に載せられるわけないじゃない。ということを心の中で考えていたに違いない取材記者が、それでも愛想は良く話を聞いてくれて、S戸君が15分位、おまけの僕もついでに5分位しゃべらせてもらって、出来上がった雑誌を見たら、S戸君が見開きの特集ページの隅っこに「サーフボードは持ってるけどまだ海に行ってませ~ん」みたいなキャプション付けられてひっそりと映っていた。僕が熱心に話した当時の関西ロックシーンの話やサークルがイベントを企画していて、そのイベントは間違いなく関西のニュー・ウェーブ・シーンの歴史に残るはずだという話なぞ、どこにも載っていなかった。当たり前か。

 このドミトリー・ア×バでは、他にも『ピンクは血の色事件』とか『踊り場に置いてあった共用の灰皿を引っ越し祝いだといってS戸の部屋に持ち込んだ、あいつは誰だったか事件』とか『不良高校生桃色遊戯事件』とか『留年したお前たちはええなぁ、ワシもう滋賀で家具屋の仕事してて近所の商店街のオッチャン達と接待麻雀の毎日や、しかし、あれやね、大地に足を付けて生きるというのも嫌なもんやね事件』とか、様々な事件があって、もう全部時効だから実名バクロシリーズで書いてやろうかと思ったけど、そんなことをしても誰も喜ぶ奴はいないと思って止めた。まあ、そういう思い出の場所をまた一つ確認して百万遍に向かって歩いて行った。そう、過去への旅路はまだまだ続くのだ。

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世の中、バイ菌だらけになっていくのか ※10/20追記有 ※さらに追記有

 つい先日、若松孝二監督が交通事故で入院したというニュースをネットで知り、FBにリンクを貼った。そして今朝、携帯の目覚ましで起きてネットのニュースをチェックしたら突然の訃報記事だ。最初のニュースでは「はねられて重傷」だが「命に別状はない」とあったのに、実際は12日の夜に事故に遭い、救急車に乗せられた時は自分の名前を言えたが、それから意識不明だったようだ。三島の映画を見たばかりで、次は中上健次の作品を映画化するというので楽しみにしていたのに。この間のカンヌでは「自分は映画で戦うしかない。東電の原子力(原発事故)の話を死ぬまでに必ずやりたい。国が隠そうとしているものを全部ぶちまけたい」と相変わらずの若松節を聞かせてくれて大いに楽しみにしていたのに。心からご冥福をお祈りしたい。しかし、それにつけてもWebに巣食うコメントマニアの性質の悪さは何とかならないものか。監督の訃報記事がアップされていたのは未明の1時過ぎだったが、その時から「横断歩道じゃないところを渡るから自業自得」とか「タクシーの運転手は悪くない」とか「酔っ払いが道路で寝てはねられるのと同じ」とか。こんなコメント書くお方はさぞや交通ルールをきちんと守り、社会の約束事(そこには国民の三大義務の順守ももちろん含まれるぞ)を堅持し、安定した人生を送っていらっしゃるのだろう。社会の弱者に対する視線だとか、ご都合主義の分捕り合戦で割を食う人たちのことなど何も考えない、というか想像すらできないんだろう。

 若松監督の話で展開していくと、レフト・アローンになりそうなので、今日はもう一つ大変腹が立った話を書いておきたい。僕の住んでいる街の話だ。それもついこの前起こった大変な悲劇に関する話だ。先ずは、地元紙のHPの記事を引用する。

農水副大臣「菌生きている」 口蹄疫で事実誤認発言

口蹄疫からの復興支援を要望するため農林水産省を訪れた西都市の橋田和実市長ら県内1市5町の首長らに対し、吉田公一農水副大臣が「まだ(口蹄疫の)菌が生きている」などと、風評被害を招きかねない事実誤認の発言をしていたことが17日分かった。

 要望は埋却地の原状復旧に対する支援を求めたもので、16日に実施。


 これだけでは何のことだか分かりにくいと思うので、上の記事の続きを本日の宮崎日日新聞から引用する。

 要望は埋却地の原状復旧に対する支援を求めたもので、16日に実施。橋田市長や同席者によると、要望書を手渡された吉田副大臣は「宮崎は口蹄疫は初めてでしょ」と語り掛け、橋田市長が2度目と指摘すると、副大臣は「じゃあ、まだ菌が生きてるな」と述べた。
 この発言に、川南町の日高昭彦町長は「衆院農林水産委員長の経験があると聞いていたが、口蹄疫に対する認識がどれだけか分かり、悲しくなった」と落胆。都農町の河野正和町長も「農水副大臣でありながら、その程度の認識だったことは残念だ」とコメントした。
 橋田市長は吉田副大臣から良く17日に「不手際があり申し訳ない」と電話で謝罪を受けたが、「宮崎の安全をアピールする立場の副大臣でさえ間違った認識をしており、風評被害が心配」と憤っている。
 同席した道久誠一郎衆院議員(九州比例)は「発言は副大臣個人の誤解や言葉不足によるもの。政府、農水省はきちんと理解している」と説明。その場にいた農水省職員に吉田副大臣は「口蹄疫のような伝染病は用心するに越したことはない」との意図があったと説明したという。
 口蹄疫はウイルスを撲滅する全ての措置が終了後、2010年8月に県が終息宣言を行ない、11年2月には国際獣疫事務局(OIE)が日本の「清浄国」復帰を認定した。


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 さて、この発言をした副大臣殿であるが続きがある。宮崎の人間のような忘れっぽい、頭の悪い連中にしっかりせんかと忠告してやったんだぞ、ありがたく思えとしか受け取りようのないお言葉を再度、新聞社のHPから引用する。

吉田農水副大臣、会見で「失言ない」

 吉田公一農水副大臣は18日の定例記者会見で、本県の口蹄疫の状況について事実誤認の発言をしたことについて、「失言をした覚えはない。終息宣言をされたと言いながらも、まだまだ油断できないのではないかというつもりでお話した」と述べた。
 一方で、口蹄疫の病原体を「菌」と表現するなど、実態を把握しているのか疑念を抱かせる発言もあった。


 確かに「終息宣言」しても全然終息していない人災事故が北関東であったと思うが、あの宣言をしたのは国家の最高権力者で副大臣殿の上司にあたるお方ではなかったか。こういう腐った連中を若松監督ならどんな喜劇に仕上げてくれただろうか。考えると歯がゆくて悔しくてたまらない。言いたいこと、書きたいことは山ほどあるが、はっきり言いたいのはいつまでも舐めとったら承知せんど、ボケということ。



 ところでこのニュースは全国的には全く無視されているようで、地元紙以外は報道していない。まあ、そんなもんだろ。日本全国、のど元過ぎたら熱さ忘れる体質に慣れさせられているのだろう。しかし、足を踏まれた痛みは忘れないのが人間だ。今日の地元紙の社説が、いいこと書いているので丸々引用する。

口蹄疫 農水副大臣失言 2012年10月20日

事実の誤認を猛省すべきだ

 どん底から立ち上がろうと力を振り絞っている人たちが、冷や水を浴びせられた。

 口蹄疫からの復興支援を求めて農林水産省を訪れた県内1市5町の首長らに、吉田公一農水副大臣が「まだ(口蹄疫の)菌が生きている」などと妄言を吐いた。

 2010年の発生から感染拡大、終息、そして現在の復興途上まで、どれだけ多くの県民が悲しみ、苦しんだことか。国の責任ある立場の副大臣が一連の経過を知らないでは済まされない。厳重に抗議する。

風評被害招く恐れも

 首長らが農水省を訪れたのは16日。殺処分された牛や豚の眠る埋却地について、現状復旧の支援を要望したところ、吉田副大臣は「宮崎は口蹄疫は初めてでしょ」と話し掛けた。西都市の橋田和実市長が2度目であることを指摘すると、「じゃあ、まだ菌が生きているな」と述べた。

 事実誤認、理解不足も甚だしい。本県では00年、国内で92年ぶりに宮崎市で口蹄疫が発生。肉用牛繁殖農家3戸の35頭が殺処分されている。

 10年4月の2度目の発生時には8月に県が終息宣言、11年2月には国際獣疫事務局(OIE)が日本の「清浄国」復帰を認定した。国際的にも認められた終息を吉田副大臣は否定したことになる。さらに言えば、口蹄疫はウイルスが病原体で細菌ではない。

 00年は早期に終息したが、畜産関係者は風評被害の恐ろしさを身を持って知った。吉田副大臣の軽率な発言で、県内の関係者がそろって猛反発したのは当然である。ウイルスがまだ存在しているという誤解を生みかねず、再び風評被害を招く恐れもあるからだ。

 今も防疫に懸命な畜産農家の気持ちを踏みにじった吉田副大臣は猛省すべきだ。

全国の支援にも失礼

 10年の口蹄疫感染拡大で殺処分された牛や豚は29万7808頭。感染を防ぐためにさまざまな行事が自粛や中止を余儀なくされ、畜産だけでなく観光、飲食、運輸など県内の幅広い産業に被害が及んだ。県の発表では経済的損失は総額2350億円という。

 心に傷を負った県民を励まそうと、全国から温かい支援がたくさん寄せられたことを私たちは忘れてはいない。復興に力を貸してくれたそんな全国の人たちに対しても、吉田副大臣の思慮を欠いた発言は失礼極まりなかった。

 本県同様復興途上にある東日本大震災や東京電力福島第1原発事故の被災地に関しても、政治家による不謹慎な発言が繰り返されている。国民に寄り添わない政治には、不信が増殖していくことを肝に銘じるべきだ。

 私たちが苦しんだ口蹄疫の記憶を風化させてはならない。なぜなら、二度と悲惨な経験をしないための教訓だからである。今回のように誤った形で不安を呼び覚ましては何の意味もないのだ。


 後日談だが、この副大臣は大臣から「アホか、お前は。波風立つようなこと言うな」と説教されたそうです。もっとも説教したほうも単なるアリバイ作りかも知れないが。そのような、さまざまな偏見や風評被害にも負けず和牛のオリンピックと言われ、5年に1回開催される全国和牛能力共進会で我らが宮崎牛は何と連覇を達成。全国の心ある皆様の支援のお蔭で宮崎の畜産は復興の第一歩を踏み出しました。東北、とりわけ福島の原発人災事故で苦しむ皆さん、共に闘わん。

過去への旅路その13 出町メモリーズ

 さて発作的にかつ断続的にアップしている「過去への旅路」であるが、前回は出町商店街を散策したところで終了してしまった。出町は僕が3回生から4回生の間住んでいた街だということは以前にも書いた。住所は「相国寺西入ル上ル相生町」というややこしい地名だったが、出町のアーケードを横切りビールの自動販売機の置いてある、古い日本家屋の裏にある駐車場にその下宿というかアパートはあった。アパートと書いたが、外見は普通の一戸建てと変わりがなく、駐車場の入口に1棟、その奥にもう1棟。都合2棟建っていた。手前の棟の玄関に赤の公衆電話が置いてあり、誰かに電話がかかってくるとそこの入居者が取って、奥の棟まで呼びに来てくれた。また入り口の棟は1階が女子学生、2階が男子学生という住み分けが行われていたが、僕の住んでいた奥の棟は男子学生ばかりだった。

 以前のエントリーで、ここに住んでいたシェークスピア好きの苦学生をT原さんが酔っぱらって恫喝して追い出したことを書いたが、実はもう一つ思い出した話がある。ただあまりにみみっちい話だったのでアップしてなかったのだが、今日はその話をイントロダクションとして書いてみる。僕の住んでいた棟の1階は全部で3室あり、玄関入ってすぐ左手の部屋は近所の会社の労働組合が借りていて、月に1回か2回、打ち合わせとか会議に使うくらいで普段は誰もいない。その後ろが僕の部屋で、廊下をはさんでもう1部屋、ここには3回生の時は社会人が、4回生の時は僕と同じ大学の学生が住んでいた。2階は4部屋あったが、例の苦学生が引っ越した後は全員百万遍にある国立一期校の学生、要するに京大生が住んでいた。修学院の下宿の時も、この後引っ越す清友荘というおよそ、その名前と住民の実態が正反対の安アパートに住んでいた時も京大の学生諸君と一緒だった。確かに彼らは頭はいいし何と言っても国立大学でさらに一期校の学生なので「末は博士か大臣か」と思われるような優秀な人ばかりだったが、それでも僕のようなアホ学生にも分け隔てなく接してくれる人ばかりだった。しかしながら、このアパートの2階に住んでる連中は全員、なんというか付き合いにくい連中ばかりだった。

 第一、挨拶をしない。挨拶というのは、これは人間関係の基本であり、人が「おはよう」といえば「おはよう」と、「こんにちは」といえば「こんにちは」と、「さようなら」といえば「さようなら」という具合に、言葉尻合わせ日が暮れる(by エレカシ)ものである。ところが、ここの連中は、朝こちらが「おはようさん」と声をかけると、「神は死んだ」みたいなことを口の奥でもごもごいうだけで、頭の一つも下げない。まあ、それでもこちらの呼びかけに一応は答えた感じもするので、僕もことを荒立てる気などなかった。もちろん、心の中では「てめえ、この、大の男が頭を下げて挨拶しているのに、なんだその態度は、バカ野郎。きょうび、3つの子供でも朝の挨拶くらいちゃんとするぞ、ボケ」などと思いながらも、そこはそれ、やはり大学入試を5教科で突破してきた方たちだし、ドンパチ関係では同学会とか西連協とか連帯の意を表すのにやぶさかではないグループもいるし、まあ大目に見ていた。というか、付き合いにくい連中だな、多分、あいつらは全員工学部だなと決めつけていた。いや、工学部というのは僕のいたサークルでは「漢字が読めない」「ギャグが笑えない」「(人によるが)背が異常に低い」などの特質を持っていたので、勝手にそう思い込んでいたのだ。

 そんなある日ことは起こった。朝目が覚めて、共同の洗面所で洗顔をしていた時だ。男ばかりのアパートの共同洗面所がどんな様子か、経験した方は直ぐ分るでしょうが、要するに洗面道具、歯ブラシとコップ、石鹸などが、一応それぞれの所定の位置はある程度決まってはいるが、要するにあたり一面に散乱していて、その中からそれぞれ個人の私物を取りだして使用する、という原始シホン主義というべき、まあ、徹底した私物使用主義があるわけだ。で、当然僕もいつものように水道の蛇口をひねり水を出し、顔を洗いタオルで拭いた。次は歯を磨くわけだが、コップと歯ブラシはあったものの歯磨き粉が見当たらない。プラスチックのコップの中に歯ブラシといつもツインで入っているはずの歯磨き粉のチューブがない。あれ、もしかして残りが少なくなって捨てたかな、と一瞬考えたが、そんなはずはない。つい2、3日前に出町の商店街で特売していたザクトライオンを買ってきたばかりだ。

 間違えてどこか別の所に置いたかと思い、あちこち探したが見当たらない。困ったな、今日は歯磨きやめておこうかとも思ったが、オトコがいったん外に出たら7人の敵がいるわけだし、いつ何時、花の女子大生とセップンする機会が無いともいえない、絶対無いとは言えないだろう、え、おい、ゼッタイとはいえんばい、ジェッタイとは、と後半何故か九州の中部から北部あたりの方言に変化しながらも、何とかして歯を磨こうと考えていた、そのとき、目の前にザクトライオンが見えた。しかし、これは明らかに他人様のザクトである。止めておこうと思ったが、ちょっと待て。同じアパートで一緒に生活する仲間じゃないか。困ったときはお互い様と云うじゃないか、何もザクトを全部使おうとか完全私物化しようというんじゃない、ちょっと借りるだけや、許してくれよキョーサン主義者などと都合のいいことを考えながら、そのザクトを拝借して歯を磨いた。その時に後ろに人の気配を感じた。

 今で言うと「惚れてまうやろー」とか絶叫して笑いを取る漫才師にクリソツの顔と体形の、それでもまだ20代は前半の男がそこにいた(要するにデブで黒縁のメガネ)。2階の京大生である。僕は歯磨き粉ドロボーの現場を見られたかと焦りつつ、それでもそんなん大した罪とちゃうやんけ、金に困って高利貸しの婆あを殺したわけとちゃうやんか、え、という態度で開き直り「おはようさん」と声をかけた。いつもなら「ゴビ砂漠は内モンゴル」みたいな返事が来るはずだが、その時は一言も口を開かず、やや吊り上った目で僕の方を睨みながら自分のザクトライオンを取って歯を磨いた。バレたな、と思ったがこういう時に僕は反省が自分に向かない。オレが悪いよ、確かにな、でもな、たかが歯磨き粉じゃないか、テイクイットイージーだぜ、京大の兄ちゃんよ、みたいな開き直りとなんか文句あるなら言うてや的な、まあ、これは人によっては横着な態度と取られかねないのだが、要するに今の言葉で言うスルーして洗面所を出た。吊り目男は最後まで僕をにらんでいたが、僕が彼の眼を見ようとすると慌てて視線を避けた。もちろん、その時にウソも方便で間違えて君の歯磨き粉を使ってゴメンくらい言っておけば良かったのだが、つい言いそびれてしまったのだ。

 その日は別段何事もなく終わった。翌日、洗面所に行くと壁に何か白いものがある。よく見ると紙に何か書いて貼ってある。目を凝らしてみると「他人のものを使うな」と大きく書いてあった。根の暗い昨日の男が、ザクトライオンを使われまいと自衛策で張ったようだ。そうそう、肝心の僕のザクトライオンは、洗面所の下の収納扉の中にあった。多分、僕が床に落としたのを誰かが拾って、そこに置いてくれたのだろう。まあ、悪いのは僕なので、その張り紙は破ったりせずそのままにしておいた。

 そして、それから数日たってのこと。そのアパートは洗面所と台所とトイレが同じスペースにあり、その日生活費が苦しかった僕は台所でインスタントラーメンを作り、それを晩御飯にしようとしていた。アルミの鍋に水を入れて、ガスにかけて沸騰したら麺とざく切りにしたタマネギをぶち込んで、仕上げに玉子でも落としてメインディッシュにしようと鼻歌交じりで準備していた。調理時間約5分、少し麺が伸びたほうが腹もちがいいということを体験的に会得していたので、ちょっと長めに時間をかけてラーメンを作り、さすがに台所でそのまま食べるのはみっともないので、自分の部屋でふっはふっはと食し、さあ食べ終わったらそのままにせず、すぐに洗うと次の時にまた気持ちよく料理が出来ると流しに鍋やどんぶりやお箸など持ってきた。水で流した後にスポンジに洗剤を含ませ、ごしごし洗う。洗い終えて使った洗剤などを流し台の下の扉にしまいかけたときに、例の吊り目が入ってきた。僕が使っていた洗剤は天下のママレモン、モウストポピュラーな食器洗剤である。そのママレモンを流し台の下に入れようとしたときに、同じものがあるのに気がついた。

 流し台も共同で使うから、それぞれの洗剤や包丁や鍋釜なども収納扉の中に置いてあるのだが、そのアパートで料理をするのは限られていて僕と吊り目と後1人くらいだった。僕は全然気にせず使い終わったママレモンを収納扉の中に入れて台所を出た。その時に吊り目が「マ、マダガスカルは共和国」みたいなことを呟いていた。何がいいたいんだ、こいつはという目で彼をにらみ、僕は自分の部屋に帰った。後で考えてみると、この前は歯磨き粉、今日は洗剤を勝手に使ったと言いたかったのか、と気がついた。しかし、歯磨き粉はさておき、洗剤は自分のものを使ったのだから文句を言われる筋合いはない。僕はラーメンアベックオニオンエッグ(要するにタマネギと卵入りのインスタントラーメン)を食して、お腹がくちくなりそのまま爆睡したのだ。

 翌朝、例によって顔を洗いに洗面所に来たとき、視界の端に何か白いものが見えた。そのアパートの洗面台と流し台はそれぞれ北側と南側の壁に設置してあるのだが、洗面台の方に向こうとしたときに何やら白いものが目に入ったのだ。とりあえず気にせず顔を洗い、自分のザクトで歯を磨き、すっきりした気分で自分の部屋に戻ろうとしたときに、その白い紙に書いている文字が目に入った。そこには以前よりも大きな文字で「他人のものを使うな」と書いてあった。一瞬何のことか分からず、誰か人のものを勝手に使うやつがいるのか、このアパートも油断できんな、私物には名前を書いておくとかちゃんと管理しておかんといかんな、などと気楽に考えてその日はそのまま出かけた。

 その日の夜遅く、サークルの研究会のあとグリーンで麻雀をして勝ったものの、メンバー全員現金を持っておらず(自分が勝ったら即金でもらい、負けたらツケだとかなんとかいって払わない、まあ麻雀打ちによくいるパターンである、もっとも僕もワンオブゼンだったが)、虚しく点数表に数字だけ書いてアパートに戻った。そして部屋に置いてあった黒の50をちびちびやっているうちに朝見かけた台所の張り紙のことを思い出した。あの張り紙が貼られたのは僕が台所でラーメンを作ったその日である。しかも、そのときに例の吊り目が僕を疑わしい目つきで睨んでいたこと。その前のザクトライオン拝借事件のときの吊り目の対応などから推測するに、あれは吊り目が僕に対して書いたものに間違いないと思うようになった。ザクトの時は、こちらが悪いと思ったから何も対応しなかったが、今回は明らかに濡れ衣である。冤罪である。このまま何もせずに、罪を被っていいのか、オレはリチャード・キンブルか、と自問自答した結果、張り紙を破るという結論に至った。そのまま台所に行き、張り紙をはがした。押しピンで留めてあるだけだったので簡単にはがれた。気分がすっきりしたので、北白川の友人の下宿に遊びに行って、そのまま泊まった。

 翌日は友人の下宿からそのまま別館に直行し、例によってBoxでうだうだぐだぐだ時間をつぶし、晩飯代わりに炉端焼きで軽く呑んで自分のアパートに帰ったのは夜だった。もう遅かったので、歯を磨いて寝ようと洗面所に入ったら、何やら白いものが目に入った。流し台の壁に前回よりも大きな文字で「他人のものを使うな」と書いてあり、さらに「破るな」とも書いてある。しかもご丁寧に今度は押しピンではなく両面テープの強力な奴でべったり貼ってある。あの吊り目の仕業に間違いない。メロスは激怒した。違った、僕は激怒した。あの粘着質の吊り目野郎、またもやこんな張り紙しやがって。頭に来た僕は、そのまま2階に上がり吊り目の部屋のドアを蹴った。「こら、出て来い、このブタ」と喚きながらドアを蹴った。えーと、若干言い訳させていただくと、普段はワタクシ実に温厚です。このような野蛮な行為はまずしません。どんなに相手に非があっても「話せばわかる」という姿勢を保っているのですが、まあ、このときは若かったしお酒も入っていたし、ほんの出来心で、ってもういいか。

 とにかく何故あのように激怒していたか、良く分からないのだがドアを叩いて蹴って大声で出てこいやこら~などと喚いていたら、隣の部屋の学生が出てきた。この男も朝晩顔を合わせると軽く頭を下げることはあっても口をきいたことは無い。それでも、その時の僕の様子が尋常ではないと思ったのか、おずおずと出てきて何があったのか尋ねてきた。僕は、台所の張り紙の件を話して、ああいうものを貼ったのはこいつに間違いない、言いたいことがあるなら直接言えばいいじゃないか、どうしてああいう陰湿な行為に出るのかみたいなことを一気に話した。そうしている間に、吊り目のドアが少し開いて、本人が顔を出した。その顔を見た瞬間、また一気に怒りがこみあげてきて「ゴラァ、お前出てこいや。お前はカタツムリか、そんなとこから顔だけ出して」と喚くと、吊り目も反論してきた。本人いわく、張り紙などした覚えは無い。ただ先日から自分の持ち物がちょくちょくなくなるので、大家さんに相談したからもしかしたら大家さんが貼ったのかもしれない、などという。それを聞いてさらに頭に来て、「お前。それでも学生か、大家に泣きつくとは情けない。ここはオレタチ学生が共同生活している場やないか。何か問題があったらお互いに話し合って解決するのが筋ちがうんか。大家なんて、お前、あれは不労所得者、額に汗せずオレらから金巻き上げてるだけやぞ。いわば階級的敵ともいえるわ、ボケ」などと僕も言ってることがめちゃくちゃになってきた。

 結局、その張り紙を誰がしたかとか何故そういう張り紙が貼られたかという点は曖昧なまま、まあ同じ下宿に住んでるわけだし多少の行き違いはあったかもしれないが、今後はそのようなことが無い様に仲良くやったらいいじゃないかという吊り目の隣の部屋の学生の仲介案を僕も呑み、吊り目も不本意ながら呑み、その場は解決した。それ以来、台所や洗面所に張り紙が貼られることは無かった。しかし、その後いろいろ考えてみたが大家がわざわざ学生の苦情のために張り紙をしにやってくるとは思えなかった。このアパートの大家はかなり離れた別の街に住んでいて、毎月1回家賃の回収のときに顔を出すくらいで、普段はよほどのことが無い限りこちらに来ることは無い。僕はあの張り紙は吊り目の仕業に間違いないと確信していたが、いかんせん証拠が無かった。しかし、天網恢恢疎にして漏らさず、やはり張り紙は吊り目がしていたことが分かり、僕の怒りはさらに増してついにはアパート内にビラを張り付け、吊り目との最終決戦を行なうのだが、えーと、良く考えてみたら僕は「過去への旅路」の続きを書くはずだったのではないか。出町のアパートのしょうもないトラブル話を書いてどうする。まあ、今回は出町メモリーズと題して、番外編ということで(しかし、番外編やインタールードがやたら多い話でスマン、笑)。



バイバイ、ミスター・ドラマー

 遅くなった昼休みに携帯で遊んでいた。FBは以前嫌な書き込みがあったので、自宅でPCで見る以外は携帯で眺めたりしないのだが、今日はなんとなく覗いてみたくなってアクセスした。小さい画面をスクロールしていたら内田勘太郎オフィシャルのウォールに珍しく記事がアップされていた。読んだけど意味が良く分からず、しばらくぼんやりして携帯を閉じた。

 仕事の帰りに駅の近くのブコフに寄り道した。いつもならすぐに中古CDの掘り出し物を探すのだが、あまり気乗りがせずコミックとかハードカバーのコーナーでしばらく立ち読みした。ようやく気分が落ち着いて、中古CDのコーナーを格安のところから、普通の金額のところまで全部見た。「や、ゆ、よ」と口から小さな声が出て目的のものを探すのだが、ついに「憂歌団」のコーナーはなかった。村八分のボックス・セットは2つも並んでいたのに、憂歌団は一枚もないのかと一瞬怒りが込み上げてきたが、98年の活動停止(実質的な解散)から12年もたっているからしょうがないかという気持ちがそれに勝った。若い頃だったら絶対に考えなかった事だ。これが大人になったというか、丸くなってきたということだろうか。

 自宅に戻り、夜の散歩をしながら75年の12月20日の磔磔を思い出していた。憂歌団のライブを初めて見た日だ。どうして日にちまで覚えているかというと、その前日が僕の誕生日で、サークルの先輩や友人とお酒を飲みに行き2次会でサーカス&サーカスに行った。そこでバーボンを浴びるほど飲んで、普段は何を言っても論破された先輩のS賀さんに絡んで無理やり踊らせたり、一緒に呑んでいた連中に「お前らも踊れ、祝いや、オレの誕生日や」などと言ってコップに持っていたバーボンをぶちまけたりした。当然つぶれてしまい(あの頃はお酒を覚えたばかりで、しょっちゅうこんなことをやっていた)、修学院の下宿まで先輩や友人たちの肩を借りて帰った。

 その翌日に約束していた憂歌団のライブに出かけた。二日酔いで頭は痛いし時々ムカムカするし最悪の気分だった。さっさと見て早く下宿に帰りたかった。断れば良かったかと一瞬考えたりもした。開演時間になってもバンドは登場しない。関西の客はこういうとき大人しく待っていたりしない。「どないなってんのや」「ええ加減にせえよ」「チャージ払わへんぞ(爆笑)」などの罵声が飛び交う。お店の人たちも電車が遅れてもうすぐ来るからとか言い訳して、まあこれで機嫌直してやと日本酒の一升瓶を回してくれた。比較的前の方にいたので、僕の所にもお酒がまわって来た。前日の酒が残って気分は悪かったがタダ酒だ。コップに目一杯注いで隣のテーブルに瓶を回した。「なんや、もうほとんど空やんけ、兄ちゃん、一人だけええ目して」と皮肉交じりに言われたが、無視して一気に飲み干した。

 迎え酒はアセトアルデヒドに犯されていた全身を解放し、一気にボルテージが上がってきた。パチパチと拍手の音とウォーという野太い野郎どもの声がした(そのライブには女性客はほんの数人、後は全部男だった)。ステージを見ると薄汚く、ガリガリに痩せた兄ちゃん達が4人、それぞれギターをチューニングしたりドラムセットを固定したり、演奏の準備をしていた。「お、お、お、おそなってすまんのぅ」と、やや吃音でボーカルが挨拶し、演奏が始まった。怒涛の演奏だった。ボーカルもボトルネックギターもこれまで聴いたことのないような音だった。圧倒的に目立ったのはボーカル。MCの時は何をしゃべっているか聞き取れないくらいモゴモゴ言うだけだが、歌になると物凄いパワーを炸裂させる。こんな歌はそれまで聴いたことがなかった。横でサングラスをして、ときどき咥え煙草でギターを弾いている男もとんでもなかった。カルピスのビンの首を切り取って作ったボトルネックでギターを縦横無尽に弾きまくる。圧巻はそのビンの首をギターの弦にこすり付けて、まるでバイオリンのボウのようにして音を出して「生駒」をやった時だった。

 そして、その興奮の、多分1時間以上あったライブの間、クールにブラッシュ・ワークを聴かせていたドラマーがいた。そのドラマーが亡くなった。自死だとか、事故だとか報道は勝手なことを書いているが、亡くなったことだけは間違いないようだ。木村は取り乱してしまいコメントが出来なかったが、勘太郎は彼らしい几帳面なコメントを出していた。花岡は…、花岡はどんなコメントかコメントしていないのかも分からない。ドラムとベースというバンドの屋台骨を一緒に支えた、驚異のリズムセクションだっただけに何とも言えない気持ちだろう。

 憂歌団の解散後は、いや活動中からあちこちのブルース系のセッションで活躍し、また今月も演奏のスケジュールも入っていたのに、どうして、いったい何故、などと詮索してもしょうがないし、事実は変わらない。サヨナラだけが人生だ、という言葉がシャレにならなくなったここ最近。島田和夫よ、安らかに。



スパム大作戦ってか、悪銭身に付かずの歌

 昨日は嵐の中の名月を楽しんだ方も多かったと思う。あれほど、暑かった夏もいつの間にか過ぎてしまい、季節は秋。いや、「過去への旅路」もちろん続くのですが、今日は全国1000万人のスパムファンの方々に、リアルタイムのスパムレポートを贈りたい。最近は、しかし芸のないスパムばかりで、以前のように「旦那がオオアリクイに食い殺された未亡人の話」とか「私は実はチンパンジーなんだが、あなた(オレのこと)はチンパンジー界で人気があるので友達になりたい」とか、想像力を刺激するというかジ・オリジネーターというものがない。ないったらないのである。だったら何でまた、スパムの話をと思われるかもしれないが、実は今回アップするスパムはこの土曜・日曜に連続で届き、今日はぱったり止まったので一体全体なんだったんだと思い、拙blogを冷やかしに来ていただく同好の士に「アホや、こいつ」と笑っていただきたく、謹んで進呈いたします。先ずは最初の切り口から。

減資による資本金の減少差益【1億5000万】.をお預かり頂けませんか?
2012年9月29日 土曜日 午後1:01

私は現在ネットワークビジネス会社を経営している、 代表取締役兼CEO 伊東 遥希と申します。
ほんの数分で済む話なので単刀直入に申し上げましたが、こちらの減資による資本金の減少差益【1億5000万】を現金.で一.括にて貴方様にお受け取り頂きたいのです。
資本金の減少差益【1億5000万】は、非課税処理を行い完 / 全な形でお振込みにて受け渡しを致します。
不安などがあるのは当然ですが、断じてゲストさんに迷惑をおかけするようなことにはならないので
銀行名、支店名、口座番号、名義人名こ ちら4点を提示頂.けないでしょうか?
振込みの準備はさせて頂いてからご連絡させて頂きましたので、時間を頂くことはありません.。
いい返 事をお待ちしております。
※直メールですので、そのま ま折り返しご返信.ください。
iPhoneから.送信


 お前どうやって1億5千万振り込むんだ?今日は土曜だぞ。あ、ネットバンクか。まさかCDの前で50万ずつ何回も振り込むんじゃないんだろうな、などと突っ込むのはそこじゃない(笑)。「ほんの数分で済む話なので単刀直入に申し上げましたが」って、まだ「申し上げてない話」をどうして過去形で書けるのか(笑)。で、それだけの大金を誰に提供するの?「ゲスト」さんって誰よ(笑)。こんな突っ込み書いてるとキリが無いので、第2弾行きます。

なるほど…わかりました。
2012年9月29日 土曜日 午後4:25

10万、せいぜい100万の話であれば内容を信じて頂けたかもしれませんが
1億5000万では真実味がない、ということなのでしょうか?
少しでもご協力いただければ実際にその目で私が嘘をついているかどうかは、振り込まれた口座をみて理解頂けると思うのですが…
【銀行名/支店名/口座番号/名義人名】
こちらを提示して頂くことは出来ない、ということでしょうか
※直メールで.すので、そのまま折り返しご返信.ください。
iPhoneから送信


 「実際にその目で私が嘘をついているかどうか」などというフレーズは、『ぼちぼちいこか』の1曲目で大阪のオッチャンがパチモンの時計を売りつけようとするセリフを思い出させて、哀れを誘います(笑)。しかし、こんな糞メール1発で「【銀行名/支店名/口座番号/名義人名】」を「提示」するアホはおらんだろう。まあ、これで終わりだろうと思っていたら第3弾届きました。

単刀直入にお伺いするので、どちらかお決めいただけませんか?
2012年9月30日 日曜日 午前10:05

伊東です。
一言だけで構いませ ん。今のゲストさんの素直な気持ちをお教えいただけませんか?
ゲストさんに1億5000万をお受け取りいただけるか否か…
お受取頂けるなら.『はい』、不要なら『.い.いえ』だけでも構いません。
素直な気持ちをお聞かせ願えないでしょうか?
※直メですので、そのまま折り返してください。
iPhoneから送信


 「伊東です」って気分はもう友達(笑)。「素直な気持ちをお聞かせ願えないでしょうか?」と低姿勢でお願いする部分に好感が持てるが(嘘)、しかし、キミ、伊東君。返事をもらいたい相手のせめて名前くらい書いたらどうだ。「ゲストさん」って誰かカバやねん、って言いたいわ(笑)。しかし、前回のメールから一晩経過して送ってくるというのは、その間にどんな葛藤があったのか余人にはうかがい知れない。そして飽きもせず第4弾。

何時ごろになさいますか?今日でよろしいのですよね…
2012年9月30日 日曜日 午後2:56

1億5000万の受け渡しについてですが、ゲストさんの返事一つでいつでもお振込に進めるよう.準備させて頂いております。
このままお受け取りいただけるのであればすぐにでも進めたいのですが…
何か不明な点でも御座いましたでしょうか?
準備をしてしまっている関係上本日お受け取りいただけるか否か、それだけでもお聞かせ願えませんか?
※直メですので、そのまま折り返して.ください。
iPhoneから送信


 ついに堪忍袋の緒が切れて、「急がせる決め手」と「買う(貰う)と決めてかかる決め手」という決め手七則のうちの2つを使ってきた(営業、とくに即決の営業経験者でないとご存じないセールステクニックかもしれないが、笑)。「何か不明な点でも御座いましたでしょうか?」と空とぼけるスタイルもクール。で、本日受け取れって、今日は日曜日だと何べん言わせるのか。この手のスパムで思うのは、送信側はサンデー毎日みたいなご身分だから、曜日の感覚がないんだろうな。平気で土日に銀行から振り込むとか書いてくる。それと、平日の昼間に「今すぐ会えますか」って(笑)。その時間行動できる奴は、おそらく90%以上の確率でプーだと思うぞ。いや、熊のプーさんなんて可愛いもんじゃなくて(笑)。そして、まさかの第5弾。

大金をそんなに簡単にもらえるわけないだろ!!騙されるか!!
2012年9月30日 日曜日 午後4:49

こう言った内容の話を持ちかける以上、ゲストさんにそのように思われることは予想していましたが…。
実際に耳も傾けていただけないとなると、やはり傷つきますね…。
当然のことですが私も寄付などで資本金の減少差益を全て処理しきれるのであればそうしたいのですが現状ではそれを許しませ ん。
オフショア法人までの限られた期間で、本来の目的を果たす為にはゲストさん.にご協力いただくしか手段がないのです!
ゲスト さんに税 務処理をお任せすることも、後で返却を求めることもありません。
*銀行名*支店名*口座番号*名義人名
お振込には必ずこちらは最低限必要となりますが、
非課税で全.額お渡し致しますので、最低限の確認事項だけでもご協力いただけないでしょうか?
※直メですので、そのまま折り返 してください。
iPhoneから送信


 ようやくメールの受信者の一般的な反応を予想したのはいいけど、実は伊東クンってとっても傷つきやすい代表取締役兼CEO(笑)なんだよね。「オフショア法人までの限られた期間で、本来の目的を果たす」って言ってる意味分かってるのかね。とりあえず、オレはいらないから東京都か福島の被災地にカンパしてやってくれや(笑)。しかし、ここまでしつこく時間を見てメールしてきたので、今日も絶対来るだろうとロングネックでウェイティングフォーザメールだったのに、ナシのつぶて。寂しいなってググってみたら、なんだ伊東クンって有名人だったのね。「ここ」にも「ここ」にも書かれてるじゃないか。ワンアンドオンリーじゃなかったんだ。ということで、本日はここまで。



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