過去への旅路その10 闇の中のパワーゲーム

 いつの間にか77年の信州合宿の話になってしまったが、行きがかり上もう少し継続する。結局、バスで京都から信州に向かうことになったわけだが、僕は合宿に行く前の決起大会じゃと前日呑みすぎたのがたたって、行きのバスの中では死に寝ていた。最前列には、後で登場するT原さんやO原、H本あたりが固まって、奇声を上げながら気勢を上げていた。ウルサイと文句を言う元気もなく最後部の座席で移動時間の大半を寝ていたのだが、途中でドライブインでの休憩もあり、なんとか信州までたどり着いた。たどり着いたらいつも雨降りという歌があるが、まあ、実際この信州合宿、気分は毎日雨降りそれも土砂降り、完全にスカでした。良かったのは気候くらいで、後はろくな思い出が無い。もちろん昼間の気温は快適で空気も乾燥していて過ごしやすかったし、逆に夜は寒くて、布団も冬用ではないかと思われるような分厚いものだった。毎日が地獄の暑さの京都とは雲泥の差、日本は広いなと実感した。

 そして、カスの話だが合宿初日にH居、F原という先発下見コンビがいかに海千山千の信州観光業者に騙されたかというのが発覚する。まず、合宿の目玉である会議の場所だが、確かにミーティングルームというか、ちょっとしたスタジオみたいなところがあるのだが、そこはたった1か所しかない。その時に同じペンションに合宿を組んでいたサークルや同好会の数は2つや3つなんてものではない。しかも我々のような文科系の研究サークルはほとんどなくて、合唱部みたいな演奏系というか音楽クラブとかテニスクラブといったものが多くて、どこもそのミーティングルームを使いたいと希望している。1か所しかない場所を交代で使用するしかない。さらに優先順位は演奏系というか実技系のサークル(ほとんどが関東モンばかり。標準語で格好つけてしゃべりやがって、「僕達のサークルは思い切り声を出して練習しないといけないので」とかぬかしていた。バカヤロー、そんなもんこっちも一緒じゃ。みたいなやり取りの結果、確かじゃんけんでいつどこのサークルがその場所を使うか取り決めをした)が主張し、3泊4日の期間中、我々が使用できたのは1日だけ。あとは、それぞれの部屋でロックやジャズやブルースといったグループごとに分散してかろうじて話し合いが出来ただけだった。結局、その時の合宿の会議でEVEにオカマ喫茶を復活させることが出来たのだが、それはこの信州合宿を推進した会長・副会長一派があまりの合宿状況のひどさに、それまで絶対反対していたオカマ喫茶案に対して強く反論できなかったところも大きい。

 しかもメシの不味いこと、おかずの数が少なくてしょぼいことこの上なし。『何がしゃぶしゃぶに熱燗付じゃボケ、お前がシャブ打ってたんと違うか』という僕のボーリョク的な発言が全ての怒れるサークル員の拍手で迎えられるくらいメシはひどかった。ひどいうえに配膳が遅い。3度の食事は、そのペンションに宿泊している者が全員食堂に集まって食べるのだが、指定された時間に行っても食器なども置かれてなく、椅子に座って待っていると、如何にも季節従業員というか夏と冬の書き入れ時(これが正しい漢字だとは知らなかった。てっきり「掻き入れ時」が正解だと思っていた)だけ、あたしたちゃ手伝いに来てるだけ、しかも最低時給でやってるんだからサービスとか愛想とかいうものを期待されちゃ大迷惑よ、とでも言いたげなうすぼんやりした連中がてれんこてれんこ食器を持って来たり、ジャーやお鍋を持ってくる。それもどうしたらそんなに時間がかけられるのだ、あなた方は、ハッ、もしかしたら「さぼたーじゅ」というのを実践しているのか、ここは戦艦ポチョムキンかと錯乱しそうなくらい、メシの準備が遅い。あんまり遅いので、僕達のグループは「こら、はよせえや」「遅いことは豚でもするぞ」「メシ、メシ、メシ」「勤労、生殖、睡眠、学習」などという罵声が飛び交った。その時、「食事は楽しくいただきましょう。待つことも調味料です」みたいなことを誰かが言ったかと思うと、男女のコーラスが起こった。東京あたりから来た合唱のサークルの連中が、殺伐とした空気を和まそうとして即興でハモってくれたのだ。

 心が洗われるようだった。今まで罵声を上げて、メシだメシだと言っていた自分たちの次元の低さを思い知るようだった。などというような殊勝な心掛けのやつは、我がサークルには一人もおらず、「アホンダラ、よけいなことすな」「やめやめやめ、聴いてるだけで余計腹が減る」「腹減らした関西人舐めとったら承知せんど、こら、カス」などと罵声はさらに激しくなるのだった。そんな具合に、まずくて遅いメシを食わされ、そして驚いたことに夜になるとペンションの人は誰もいなくなるため、夕食後の夜のお酒のおつまみにするものだとか、夜食になるようなものは何もないということが判明した。また近くにはお店(当時はまだコンビニが無くて、お土産屋を兼ねた何でも屋というようなお店しか期待できなかったが)らしいものが何もなく、ペンションからはるか1キロ位離れたところにカップヌードルの自販機が1台だけあることをかろうじて発見したくらいだった。当時は皆、20歳前後なので良く食べたし、昼間はソフトボールをしたりして体を動かしていたので、すぐに腹が減る日々だったのだ。

 そういう中で、事件は起こった。あれは確か明日には京都には帰るという日、つまり合宿最後の夜だったと思う。とんでもない合宿だったが、それでも最終日には打ち上げということで、ミニバー付の会場を借りてコンパをしていた(僕自身は恒例の打ち上げ花火の水平撃ちごっこが出来なくて欲求不満であったが)。この77年は合宿に参加した人数も多く、また77年に新しく入ったサークル員も多く(1回生だけではなく、2回生から入ってきた連中も何人かいた)、それなりに賑わっていたけど、その会場を借りられた時間が22時くらいまでだったのか、とにかく不完全燃焼で終わったコンパで、呑み足りない連中はそれぞれの部屋で続きをやっていた。その中で、76年度生の女子2名が男子グループと一緒にカップヌードルを買いに行って帰ってこないということが分かった。外は真っ暗だし、結構酒も入っていたので何か事故などあったらマズイということで、役員連中が手分けして探しに行き、ようやく見つけて連れて帰ったのだが、何故かF田君が激怒して、そういうことではいかん、風紀を乱してはイカンなどと延々と説教をしたり、なんだか空気も重くなったので僕は部屋に戻って寝てしまった。

 多分、その時だと思うが、実はさらに2名行方不明者が出ていたらしい。なんと74年度生のT原さんが77年度生の××さん(99%この人だと分かっているのだが、一応伏せておく。数年後別館では非常に有名になる女性で、のちの学友会副委員長の彼女にまでなる、あの人です。分かる人は分かるよね)の行方が分からなくなったというのだ。最初に気がついたのはT永さんで、外に探しに行ってようやく二人を見つけてペンションに戻るよう話したがいうことを聞かない。それで部屋に戻って一部始終をHさんに話したところ、Hさんも先輩のT原さんがそんなことじゃいけないと説得しに出かけたらしい。Hさんは普段はおとなしくて、とても男子に反抗するように見えないが、いえいえ芯の通った方で曲がったことは許さない。今考えると僕の悪行の限りがバレテなくて良かった。もし彼女が知っていたら僕は市中引き回しの上獄門磔になっていただろう(笑)。

 しかし、今になって考えると年頃の男女が、まあ一種のスリルというかアバンチュールを求めて、夜の闇に消えて行ったわけだから、大人であればにっこり笑って見逃せばいいと思うが、残念ながらその当時は皆、ピュアな心を持ったワカモノだった。Hさんは舌鋒鋭くT原さんを追及した。「T原さんは先輩やのに、何でそんなことするん?一体二人でどこで何をしていたん」。この質問に答えたT原さんの答が笑える。「二人で野球しとったんや」。ってこらこら、どこの人間が夜中に男女二人きりで野球をするか、野球拳の間違い違うか、と突っ込みたくなるのはあなたも一緒でしょう(笑)。この話を聞いたN谷君が「T原さん、な、あの人しょうがないんや、あの人は立派なところもあるけど悲しいかな下半身行動委員会の人やから、もう、ああいうのは病気なんや」。

 ということがあって、Hさん、その合宿から帰った後はT原さんと顔を合わせにくいし、てっきりこのことはサークルのみんなが知ってると思い込んでしまったらしい。ところが僕もN谷君も、多分マス坊も今回の会食で初めて聞いた話なので、何も気にしなくて良かったのだが今更後の祭り。それ以来、Hさんはサークルに顔を見せなくなり、そうすると仲の良かったT永さんもだんだんBoxに足が遠のいていった。

 ちょっと、T原さんがワルモンになった話が出たので、その後は、でもT原さんもいいところがあったという話題になった。前回だったか、73年度生で下級生があこがれる素敵な女性先輩にM井さんという人がいたと書いた。実は、このM井さん、今では彼岸の国の住民になっている。それも結構全国的なニュースになった事故に巻き込まれたせいである。デューク先輩はもう社会人になっていて、その日の朝出勤前でテレビで流れるニュースを何気なく見ていたらしい。ヨーロッパでバスが崖から転落して、日本人旅行客もその被害にあって亡くなったというニュースだ。特に眺めるでもなく、ぼんやりそのニュースの画面を見ていたら、そこにM井さんのフルネームが出てアナウンサーが読み上げた。そんなバカな、他人だと思ったが年齢的にも合う。82年か3年くらいのことだと思うが、ヨーロッパを旅していたM井さんは、そのバス事故にあって亡くなられたのだ。

 この時に関西にいた元サークル員の女性陣は連絡を取り合って、お通夜や葬儀に参加されたらしい。M井さんの事故で、何年かぶりにサークルの友人や先輩・後輩が顔を合わせることになったのだが、あまりに悲惨で気の毒な事故だったためにHさんも、その葬儀の時のことはぼんやりしか覚えていないという。そして、葬儀も落ち着いて四十九日も過ぎた頃、M井さんの日記に実はT原さんが好きだったというようなことが書いてあり、遺族の方が、このT原さんという人はどこに住んでいるのか、どうにかして連絡を取って話をしたいという依頼があり、Hさん達、OGが協力して田舎に帰って働いていたT原さんに連絡し、線香を上げに京都に来てもらった。幸薄いM井さんだったが、T原さんが来てくれたことは喜んでいると思うとお母さんがおっしゃっていたらしい。T原さんは、女子と夜野球をするだけでなく、こういういいこともしていたのだ。

 しかし、この話を聞いた僕とN谷君は根っから下衆なので、T原さんはM井さんに何にもしてなかったんやろうかという話題を出しかけたのだが、Hさんに睨まれたのでやめた。というような話を延々と茨木のお店で2時間以上話して、名残が惜しかったけどそろそろみんな用事もあることだしと分かれることになった。Hさんは家に帰るし、マス坊も家に戻るという。僕とデューク先輩、N谷の3人はこれから京都に向かい、懐かしの今出川から百万遍あたりまで一丁ブイブイ言わせる腹である。うーん、この調子で書いていくと今月中に終わらない気がしてきたが、まだまだ過去への旅路は続くのである。



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過去への旅路その9 Ramblin' ManいやGamblin' Manの話

 とりとめのない話というのは、どこまでいってもとりとめがないのだが、30数年ぶりの再会の宴は延々と続いた。その中で、Hさんが実は77年の後期からサークルに行かなくなったという話が出た。僕はHさんが75年の入学後すぐにサークルに入って、そのままずっと在籍していたと思い込んでいたが、言われてみると最後の方の印象がない。そのあたりのことが話題に上った。僕は全然記憶が無かったのだが、Hさんは3回生の夏合宿の時に、先輩のT原さんと大喧嘩して、それ以来何となくBoxに行きづらくなり、後期はほとんどサークルに顔を出さなくなったそうだ。T原さんと喧嘩したなんて、そんなこと気にせずBoxに来れば良かったのに、などといまさらなことを言ったりしたが、幸い前述したE副君やK下君と同じゼミだったので、たまにDRACのうわさは聞いていたらしい。昼ビーの勢いもあり、以前もその時のいきさつは聞いたことはあったのだが、今回は聞き手にデューク先輩、N谷君、マス坊と学年もばらばらな人間がいたので、もう一度話をしてもらった。

 問題の合宿は、信州だった。僕は75年から80年までずっと夏合宿に参加したが(思い出した、81年も参加している。その時は既に京都から地元に引き払っていたのだが、アルバイトでお金を貯めて、OBとして参加したのだ。まあ、同級生のF田君は現役学生として合宿に参加していたので、全然不安は無かったが。笑)、その中で唯一鳥取以外の場所で合宿をした年だ。これも何故そんなところで合宿を組んだかというと、話は長くなるが当時執行部だった会長のS戸君と副会長のF田君の二人がシティボーイにあこがれて、「夏は信州のテニスコートで恋とバカンス」みたいなポパイ的キャッチフレーズに、すこーんと足元さらわれたせいだ。だいたい、加西の田舎モンだったS戸君や堺のセンミツと言われたF田君の二人が組んで出す提案に碌なものは無かったが、最悪だったのがこの合宿計画だった。合宿場所を決める役員会の時に、事前に根回しをして会計のH居と渉外のF原まで巻き込んで、断固鳥取派の僕をエセ民主主義的多数決で以てフンサイしやがった。しかし、転んでもただでは起きないワタクシなので、「そんなら信州が絶対いいという証明をせえや。渉外のF原だけが下見に行っても、あいつは酒好きで飲まされるとすぐいい返事をするやろうから、念のため下戸のH居も一緒に行って冷静に判断して、それでも信州がいいというなら、承諾する」と、今考えてもオレ結構わがままなことを言っていたと思う。

 それで、二人は信州のなんたらというペンションの予約体験コースみたいなものに参加して、現地からBoxに電話をかけてきた。F原もH居も工学部だったので、要点をかいつまんで話すということが出来ず、またH居に至っては朝日新聞の天声人語を天政神語と書いたり、大器晩成を晩期大成と言ったり書いたりする国語力だったので、現状を正しく報告できるか一抹の不安はあったのだが、そういう不安や予感というのはえてして大抵あたる。この時も「凄い、すごい、いいよ、ここ。もうここで決定」とH居君がやたら興奮して口走るがこちらはどういうことなのか全然分からない。とりあえず順番に確認したことは、僕たちは文科系のサークルなので合宿は基本的にミーティングや会議が中心になるため、そのような場所が確保できるか(鳥取のかわとねは宴会場にもなる和室があったし、10人くらいずつ分かれて打ち合わせが出来る部屋が沢山あった)、駅からの交通の便はどうか、食事などの待遇面はどうかということを聞いたのだが、「洋室の広いミーティングルームがあって使い放題」とか「駅からはタクシーでも行けるし、直行の臨時バスがある」とか、「食事は最高、昨日の夜はしゃぶしゃぶでしかも熱燗付(これはF原君の感想、こういう点は抜かりがない)」、そして決定的だったのは「東京からの有名女子大の団体が良く来る」だった。

 それで一応役員会(サークルの執行部)としては、信州でいいんじゃないかと方向性を決め、それでも全サークル員参加(もちろん欠席者は委任状を提出)での会議を行ない、僕はあくまで鳥取断固死守だったが、やはり信州という言葉の魔力にやられたサークル員は数多く、特に少数であったが女性部員(もちろんHさんや、前回のエントリーに出てきたT永さんも)の圧倒的な賛成で、77年夏合宿は信州に決定した。ところで、京都から信州に行くには通常はJRの特急を利用する。しかし、非常に人気の高い路線なので、発売日の前日は駅に泊まり込んで、朝一番で申し込まないとチケットが取れない。とりあえず参加人数を確認して、サークルのお金を立て替えて京都駅にチケット獲得闘争貫徹実行委員会が結集することになった。いや、要するにこういうことが好きな連中が集合した訳ですな。メンバーは記憶している限りでは74年度生のT原さん、僕、会長のS戸、副会長のF田、そして何故か77年度生、つまりは新入生のグループから何人か、確かO原、H本あたりが参加したと思う。マス坊はどうだったか、多分参加してなかったと思う。

 京都駅に泊まり込むと言っても待合室などは貸してもらえないので、私鉄とJRを結ぶ通路の上に新聞紙を敷き、その上に僕が下宿から持ってきたコタツを組み立てた。何のために?当然麻雀をするためである。ニッカの黒の50(ウィスキーです、念のため。僕らは抑圧された黒人へのシンパシーとして飲むウィスキーは黒の50と決めていた。サントリーのホワイトなどを買ってきた日には、『お前はKKKか、白人至上主義か、アイ・セイ・サントリーか』、などと非難ごうごうだった。スコッチは当然ジョニ黒、の筈はなく、そんなものを飲んでいる奴は『プチブルだ、走資派だ、オレにも一口飲ませろ、それでもキョーサン主義者か』などと大騒ぎであった、いやシャレですが。笑)だとか日本酒だとか当然アルコールもつまみも買ってきてある。夜の10時過ぎくらいまでは通勤客や堅気の客の行き来があり、別段何の問題もなかったのだが、深夜零時近くなってくると何やら怪しげな人たちが、通路を行き来する。信州行きに限らず、夏のいい時期のJRのチケットを求めて泊まり込みをしているグループは他にも結構いたし、学生風なグループも多かった。しかし、他のグループの人たちは新聞や週刊誌を読んだり、雑談したり、せいぜいが缶ビールなどを飲んで談笑しているくらいで、大声で「リーチ」だ、「ロン」だ、「わー、フリテンや、チョンボや~」などと大騒ぎしているのは僕たちのグループだけであった。

 当然、目につくのでその筋のややこしい人たちが通路を通るたびに声をかけていく。ナントカ組の見回りだと称する3、4人組が何度も僕たちの前を通り、そのたびにちょっかいを出してくる。特に、その中の一人の痩せた男がしつこかった。「おう、兄ちゃん麻雀か、オレも入れてくれや」とか「レートはナンボや、何、ノーレート、ガキの遊びちゃうぞ、お前ら、そこの財布の金かけて勝負せえや」。当然、仲間内であってもお金を賭けてやっていたのだが、下手にこの手の人にそんなことをいうとどんなアヤをつけられるか分からないので、お金は賭けていないと答えたのだが、それが余計火に油を注いだようだった。それ以来、何かと僕に話しかけてきて、「お、兄ちゃん、白をポンして、チュンが対子か、アオ持ってきて大三元やな」とか「お前、ダマテンすんなや、オトコやったら堂々とリーチせんかい」などといちいち人の手に口をはさむので、頭に来て伏せ牌にしたら、その痩せた男が「こら、お前、なんやその態度は、一遍シバイたろか」などと言って絡んでくる。ちょっと焦ったが、上の立場の貫禄あるオッサンが「こらこら、お前、セイガク相手に何いちびってんねん。そんなんほっとけや」と言ってくれたので助かった。

 ようやく、その人たちが立ち去った後で、すぐ近くにいた社会人風の人が「君たち、麻雀やってるから絡まれたんと違うか。それと、もう夜中や。周りの人に迷惑になるから、麻雀は止めてくれんか」と言ってきた。なるほど、ごもっともである。僕達、革命的麻雀主義者同盟のメンバーならいざ知らず、麻雀に興味のない人は牌をかき回す音や、話し声がうるさいだろうと、さすがにいくらアホ学生でもその程度の常識はあったので、「そやな。周りにも迷惑やさかい、麻雀はやめますわ」と素直に従った。もっとも、麻雀は止めても、大の男が何人も集まって、ただ時間をつぶすのももったいないのでサイコロを使ってチンチロリンを始めたが、これも周りから「音が響くのでこらえてくれ」と言われ中止。しょうがないからトランプでもするかとカードを出したその時だった。

 「兄ちゃん、何やんねん」と話しかけてきたオッサンがいた。頭は角刈りで背は低く小太りな男で、40過ぎくらいに思えた。先ほどのチンピラと違って、一人だし、それほど怖そうな人ではなかったので、「え、ドボンとか大貧民とかそんなんです」と答えたら、「そうか、ほんならワシも混ぜてや」と言ってくる。多少酒臭かったが、こちらもアルコールは入っているので気が大きくなり、「あ、そんなら一緒にやりますか」といって大貧民を始めた。今考えると、どうして見ず知らずのオッサンと一緒にカードゲームを始めたか、良く分からない。組関係の人はちょっとアレだけど、一般市民、とりわけ零細企業で額に汗するプロレタリアート諸君と連帯するのだ、みたいな熱にうなされていたのだろうか。そんなこともないか。

 とにかく、最初は愛想のいいオッサンで、大貧民のルールも知らないというので説明して一緒にやるのだが、全然ルールを守らない。というか、どうもゲームを理解しようとする気は無いようだった。それでも何回かやって、当然オッサンが最下位なのでカードを混ぜてシャッフルを始めたのだが、よく見ると両手の小指が無い。印刷工場にでも勤務していてプレスの事故でもあったのか、可哀想だな、くらいにしか思わなかった僕は世間知らずだった。カードを切ったオッサンが「兄ちゃんたち、今までワシは兄ちゃんたちに付き合ったから、今度はワシに付き合ってくれ。いつまでも子供みたいな遊びは止めて、これからはカブやろ」と低い声で言ってきた。僕は「あ、株、株はあかん。オッサン、オレ達はこう見えても現代シホン主義を憂えるメンバーなんや。株なんちゅうのは、額に汗して働く勤労とちごて、右の金を左に持って行って、シホンの沢山ある奴がどんどん勝ち進んで人民をサクシュする、まあ、要するにマネーゲームや、不労所得や。」などと言うと、ジロリと睨みつけ「兄ちゃんのいうてること訳分からんわ。ルール知らんのやったら、教えたる」とカードを切って配る。その時、酒に酔って半分眠りかかっていたH本が叫んだ。「オッチャン、これ絵札入ってるで。カブに絵札入れたらあかんやろ」。するとオッサン、「シバくぞ、ワレ。黙ってやらんかい」。

 それまでとガラリと人格の変わったオッサンに圧倒されていたが、良く考えてみれば金さえ賭けてなければ、いくら負けようが屁のカッパだと思って適当に相手していたら、ついにオッサンが言いよった。「おい、兄ちゃんたちよ、このままやっても緊張感がないから、10円でも50円でもええから賭けよか」。ほら来た、と思って僕は、「あ、金、ワシら金持ってへんねん。ここで汽車の切符取るように頼まれただけやさかい、個人の金は持ってない、ほら」とポケットから小銭入れを出し、それを開いてさかさまにした。チャリーンと音がしてコタツの天板の上に落ちてきたのは、部屋のカギだけだった。それを見たオッサンさらに低い声で一言、「シバくぞ、ワレ。ワシもいつまでも甘い顔してへんぞ」。こりゃ困ったオッサンやな、どうしようと周りを見回すが、普段修羅場には慣れていて、高校時代は不良と喧嘩ばかりしていて傷口の収まることは無かったと豪語していたF田君は何故か視線を合わせようとしない。S戸君は、さすがにサークルの会長をしていたので、ここはひとつ押さえようと「兄さん、すんません。ワシら貧乏学生ばっかりやし、こいつが言うたように余計な金持ってまへんねん」とフォローに入ったが、オッサン聴く耳持ちません。「金ない奴が国鉄の駅で、何で泊まり込みしとるんや。ええ加減なこというとシバくぞワレ」。

 その時だった。麻雀の時までは元気よく参加していたが、注意されてからは不貞寝していたT原さんが僕にだけ分かるように声に出さず口を動かした。「こ・う・あ・ん」と読めた。ん、ちょっと待て、仮にも反権力、反体制の運動をしている人間が、いざ苦しくなったからと言って国家権力に頼っていいものか、それでも元全×闘か、と一瞬思ったものの、背に腹は代えられない。僕もT原さんにだけ分かるように頷いた。

 5分ほどして屈強な鉄道公安員が二人登場して、「なんや、××やないか。お前、こんなところで何してるんや」と一人がオッサンに声をかけた。オッサンは顔を上げたが、それまでに見せたことのない笑顔で「あ、どうもお疲れさんです。いや、学生さんたちと楽しくトランプしてましてん」「何が楽しくトランプや。どうせお前のこっちゃ、賭けてやろう言うたん違うか」「いや、そんなことしません、ワシ、昔のワシと違いまっせ。もうすっかり足洗って、真面目にやってまんねん」「真面目にやってる人間が何でこんな時間に京都駅でぶらぶらしとるんや、ちょ、詳しい話聞かせえや」「え、いや、そやから、何もしてませんて、なあ、兄ちゃんたち何とか言うてや。一緒にゲームしてただけやな、な」「僕達がトランプしてたら無理やり入ってきて、『カブしよ』て言い出しました。『金は賭けん』というたら『シバくぞワレ』て何べんも言われました」「そ、そんなこと言うてない。なにテンゴいうてんねん、兄ちゃん、そんなんちゃうやろ」「『絵札入れてカブやろ』とか無茶苦茶いいますねん、このオッサン」「な、なんやこの餓鬼。シバくぞワレ」「分かった、分かった、ここは他の人にも迷惑や。向こうの事務所でゆっくり話を聞くから」。

 というようなやり取りというか悶着が起こっていたその最中に、いきなり一人の目つきの悪い男が、公安官に「近鉄の入り口はどっちでっか?」と話しかけてきた。そのあまりに当たり前みたいな質問にちょっと公安は戸惑ったものの仕事柄「向こうや」と指を刺したが、その男はそこから動かず、じっと事の顛末を見送っていた。抵抗して喚くオッサンを二人係りで持ち上げた公安官が去った後、その男は僕たちの方に近づいてきて「お前ら、ようもやってくれたな。覚えとけよ」と捨て台詞を残して去っていった。「こりゃ、ヤバいな」「なんやあのオッサン、カブのやり方も知らんのに」「でも小指無かったやろ」「あ、お前も気がついたか」「いや、あんなオッサン一人やったら、この人数やったら勝てたん違うか」「あほ、そんなことしたらあの手の人たちが仰山来て、オレら日本海かどっかに連れて行かれるぞ、比叡山かもしれん」「しかし、最後に来たオッサンも不気味やったな」「こらもうトランプも止めて大人しくしとこか」「このまま全員寝てしまったら、さっきのオッサンが戻ってきたときに襲撃されるから、寝ずの番を決めて順番に見張っとこ」。

 最後の提案は中々に現状認識が出来ていると全員一致し、それではこういう場合誰が起きているかというと1回生ダッシュの原則である。これはサークル活動をしたことがある人、とりわけ体育会系の人にはわざわざ説明する必要はないだろう。この場合はJRのチケットを入手するという大命を帯びた先輩たちを守るため、1回生のワカイモンが起きて革命的警戒心で以て敵の襲来に備えるということである。当然、H本やO原は不満げであったが、「誰が先輩や」というT原さんの一声でしぶしぶ寝ずの番に着いた。

 はっと気がついたら朝だった。すでに泊まり込みをしていた人たちは皆起きて、それぞれ希望する窓口に移動しつつあった。我々、チケット獲得闘争貫徹実行委員会はと見ると、全員いぎたなく寝ている。いやさすがに会長のS戸君は起きて準備をしている。寝ずの番の後輩連中は、と見るとガーガー爆睡していた。頭に来たので、蹴って起こして全員で切符売り場の窓口に行き、会長・副会長の二人が行列に並んだ。待つことしばし、まずS戸君が首を振りながら、「あかん、売り切れやて」。そして、F田君も「どないなってんねん、朝一番で来て全部売り切れや。切符無いと信州行かれへん」と至極当然なことを言う。どうやら、せっかく徹夜して切符を買いに来たものの既に売り切れだったようだ。僕は内心小躍りして、これで信州案は却下、鳥取案復活と喜んでいた。まあ、どんなに頑張ってもないものは無いわけだから、今回の合宿はキャンセルするとS戸君がペンションに電話をしに行った。

 4、5分すると満面の笑みをたたえたS戸君が戻ってきた。気でもふれたのかと思ったら、「信州いけるで。特急の切符取れへんかったって向こうの人に言うたら、それならバスをチャーターしてください、ってバス会社の電話番号を聞いた。国鉄と同じ金額ちゅう訳にはいかんけど、交渉次第でそれに近い様にしてくれるらしいで。それでこういうことはホンマは渉外のF原の仕事やけど、あいつこういうこと苦手やから、drac-ob、お前やってくれや。相手は海千山千のバス会社や、しっかり頼むわ。ペンションの人も弁の立つ人が交渉したら金額はナンボでも変わりますて言うてたから」。だったら何のための渉外だよと思いながらも、おだてに弱い僕は「分かった、オレに任せろ」と安請け合いした。こういう性格というのは治らないものだろうか。この時からおよそ35年以上経過するが、安請け合いしてドツボに嵌るという体験を腐るほどしてきたが、全く学習できない。

 バス会社との交渉は難航した。とにかく無茶苦茶な金額を言ってくるので、こちらも相場が分からないため一旦電話を切って、いろいろ調べたらどうも相手が言ってくる金額はかなり高いことが分かった。それで次はその情報をもとに交渉すると、相手は路線が空いているときはその金額でいいが夏場のピーク時はその金額ではとても無理とか、今からよそのバス会社に当たっても絶対空きは無いとかいろいろ言ってくる。頭に来たので、じゃ断ると強く言ったら少し慌てたようで、バスのランクを少し下げれば希望する金額に近くなるが、その手のバスが空いてるかどうか、詰まっていたら調整しないといけないから少し時間をくれとか、まあ、だいたい単価の交渉で発生するようなやりとりが何度か繰り返され、最終的にはこちらの希望に沿った金額に収まった。役目をはたして安心した僕が「そしたら、いろいろあったけどお願いします。7月の22日の朝9時半に場所は京都駅近くの、そちらが指定したところにチャーターしてもらえますか」と言ったところ、「了解しました。間違いなくバスが向かいます。それで申し訳ないけど、金額さげたから車掌というかガイドはつかないけど、いいですね」「無問題です」「じゃ、それで。おっと大事なこと忘れてた」「何ですか」「いや、バスに全員乗ったら運転手にチップを渡すの忘れんといて」「え、何ですか、チップって」「え、知らへんの。お宅どこの人。長距離バス乗るとき、運転手にチップ渡すの常識ですやん。チップ渡したら丁寧に運んでくれるけど、チップないと彼らも人間やから、無茶苦茶粗い運転するで。ま、ゲロ吐く人が出ても構わんなら、それはそれで」「ちょ、ちょっと、それはマズイ。チップっていくらやればいいんですか、2千円、3千円」「何眠たいこというてますの、これやから坊ちゃん学生はんはモノ知らんと笑われるんや。一本です、一本」「一本、一本ていうと」「いちまんえん」「…はあ」。

 やられた。最終最後でドンデン返し。こちらが世間知らずなので足元見て、チップだ。もちろんこれは運転手ではなく、このバス会社がサクシュしたに違いない。しかし、それでも、これでなんとか信州へ行く足を確保できたので、僕は胸を張ってサークルの合宿前の打ち合わせに出席し、当日は朝間に合わないという連中を出町の下宿に泊めてやり、前祝じゃといってサーカスでバーボンを呑み、それでも足りなかったからカジマヤでトリスを買い、当然朝は二日酔いのムカついた気分のままバスに乗り込んだ。

 …。えーと、いつの間にか信州合宿の話のイントロダクションになっていました。さて、この合宿で何が起こってHさんは、その瞳から真珠のような涙を流したのか、また今回では後輩の危機を救ったT原さんが、実は下心行動委員会の主要メンバーであったというバクロ話は次のエントリーのこころだぁ~。ちゃららっちゃちゃちゃちゃちゃん~。



過去への旅路その8 あい・おんりー・うぉな・びー・うぃず・ゆー

 阪急の茨木駅前で午前11時55分の待ち合わせだったので、摂津富田から1駅戻った。当時数少ない女性部員で、しかも同じ文学部の同級生だったH小姐との会食の待ち合わせをしていたからだ。デューク先輩を先導として、僕とマス坊はJRの茨木駅の改札を出た。ここでもう一人、75年度生のN谷君と待ち合わせていたのだ。デューク先輩曰く「N谷は、彼に会うという先入観をもって会うなら何とか大丈夫だけど、事前情報なしで街ですれ違っても絶対分からない」と力強く断言。うーん、僕も学生時代からすると、とても信じられないくらい大きくなったけど(口の悪い人は太ったとか、腹が出たとか表現するが、慎みとかたしなみのある人は貫禄がついたという。僕本人の認識は人間幾つになっても成長である。ただ上下の成長は既に完了したので左右とか前後に成長しつつある、という認識なのだ。ワハハ、オッサン、そろそろ夜の散歩でも再開しないかね)、N谷君はどういう風に変わっているのか。期待と不安でいっぱいだった。携帯で連絡を取り合っていたが、駅の改札近くのコインロッカーの前で会おうと伝えていた。

 改札を出て、コインロッカーの方に向かうと大笑いしているオッサンがいる。可哀想に連日の暑さで気がふれた人なんだろう。ああいう人とは視線を合わせないように、合わせないように、あれ、向こうがこちらにガンつけてくる。いや、関西ではメンチカツを食うといったか、いやいやメンチを切るとかいったな、あれをやってる、あれ、あのキツネ目の男はN谷君じゃないか?リュックを背負い、半ズボンというより七分の丈のパンツをはいて、Tシャツ姿のいがぐり頭は、間違いない、N谷君だ。彼とも四半世紀以上の再会であった。デューク先輩、マス坊そして僕と全員に対して、久しぶりの挨拶をして簡単に近況報告。そして何故かコインロッカーの前で記念撮影。通りかかったカタギの方にカメラのシャッターをお願いして、4人全員の集合写真を撮ることが出来た。

 荷物をコインロッカーに入れて、ようやく身軽になった体で今度は阪急の駅に向かった。茨木の駅前の商店街を一列縦隊、時々二列縦隊になりながら今どこに住んでどうしているとか、昔と比べてお互い随分変わったけど心は純真な少年のままだ、などと他人が聞いたらこいつらは大丈夫かと思われるような話をしながら阪急の駅前に向かった。そして、そこで34、5年ぶりでH小姐との再会。しかし、Hさん、学生時代と全然変わらなくてクリビツテンギョウ。いや、かえって若々しくなったというか、昔のイメージはおとなしい、ちょっと悪い言い方すると少し暗い感じがあったけど、今は明るい明るい。話し声の感じも大きく弾んでいる。もっとも、彼女はお母さんの介護を毎日しているというとても大変な状況で、いや、そういう状況だからこそ明るくなれるのが人間の強さかもしれないな、学生時代にこういう表情を見ていたら、もしかしたら惚れていたかもしれん、などと最後の方はややリップサービス気味な妄想(いやいや、オッサン、相手にも選ぶ権利があるというか、君なぞ相手にされなかった可能性が非常に高いのだが。まあまあそこを何とか、などとオレは一体誰をなだめているのだ、笑)をしながら、そして、いろんな雑談をしながら昼食の予約を入れているお店に向かった。

 約束していた時間より早めに合流できたので、お店の前に着いたときは予約時間より10分近く早かった。まだ「準備中」の看板がかかっていたので、店の前で総勢5人、とりとめのない話を続けた。僕とHさんはかれこれ34.5年ぶりだが、N谷君もマス坊も多分同じくらい久しぶりだとHさん。唯一、デューク先輩が2~3年前にHさんと会っている。そうそう、デューク先輩、Hさんと再会した時はわざわざその場から僕の携帯に電話をくれたっけ。そして、さすがに本人の前では言わなかったが、後日改めて電話があり「Hさん、ね。全然変わっていないよ。もちろん、年齢は重ねているけど、学生の時のまんま成長した大阪のおばちゃんになっている」と大変失礼なことをおっしゃっていた。あ、Hさん、オレはそんなこと思って、思ってなくはないけど、その、好きです。などとどさくさに紛れて愛の告白をしたりしていたのだが、お昼になってもお店は「準備中」のまま。いくらなんでもおかしいということになり、Hさんが入って交渉したら、『もう準備OKなのでどうぞお二階へ』とのこと。総勢5名はなんだかんだと言いながら階段を上った。

 広い座敷に客は僕達だけであった。エアコンも良く効いていて、汗がすぐに乾燥していく。先ずは再会の乾杯を、と昼ビーを注文するがモノホンのルービーは僕とN谷君だけ。後の3人はノンアルである。ノンアルでもまあ、見かけは黄色くて泡がでるので、これで十分だ。5人でグラスをぶつけ合って乾杯する。お互い、まさかこういう形で再会するとは夢にも思わなかったなどと声が出る。そりゃそうだ、僕だって7月に入り、今回のツアーの連絡をして、いよいよ明日明後日には出発というときにセッティングされた会食だ。本当は、僕とHさんと「二人だけのデート」(by ダスティ・スプリングフィールドだが、ここはやはり青春のBCRで聴きたい)の筈だったのだが、デューク先輩が「私も一緒に」、N谷君も「ワシもええやろ」、マス坊に至っては「僕も行きますわ」とあっという間に増えた。いやいや、これは照れ隠しというか、本当はこのメンバーで会食できて楽しかった。

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 さて、74年から77年の間に入学し、同じサークルに所属していたわけだから当然その時の話題、もっと正確に言うとその時の先輩・後輩の話になる。以前も書いたと思うが、僕がこのサークルに入った75年は非常に荒んだ年だった。どういうことかというと、サークル員の7割以上が男、それも九州・四国勢が圧倒的に多い。女性陣は数少なく、また研究会には出席するが授業の空き時間にBoxに来て一緒にダベるということが少なかった。そりゃそうだよな、階段や通路には薄汚いポスターやビラがべたべた貼られ、Boxの床にはタバコの吸い殻が散乱していて、椅子やソファのビニール部分はあちこちが引きちぎられて、中のクッションというかスポンジが露出していて、それを暇つぶしにムシル奴がいるので(僕もワン・オブ・ゼンだったけど)、そこに座るのもなんとなく憚れるというすさまじさ。よっぽどイケメン(これは唯一、同級生でE副というのがいたけど。ま、しかし良く考えてみると、あれは一種の逆冬山現象だったのではないか。つまり、周囲にいた男性部員が1週間も10日もシャンプーしていないような小汚い長髪だったり、ゲゲゲの鬼太郎に似ていたり、角刈りで咥え煙草でミラーのサングラスかけていたり、かまやつひろしに似ていたり、そんな奴ばかりいたので、そのなかで小奇麗でルックスも甘かったE副が異常に人気があったのじゃないか、などと考えたかったが事実E副君は良くモテた。ナンパも上手くて僕やN谷君のような女性の愛に不自由な連中に、恵みをもたらしてくれたことは1度や2度ではなかったと思う。長いな、このカッコ)でもいなければ、女の子が来て楽しい場所ではなかったと思う。

 それでも掃き溜めに鶴はいるもので、2学年上にU村さんとM井さんという憧れの女子部員がいた。U村さんという人は、ここでも何度か書いたが熊本のご出身で僕と同じく英文科、言語学の単位がなかなか取れず、『原爆許すまじ、O田妙(教授のフルネーム)許すまじ』などと言っていた。どちらかというとイメージは「わたしは泣いています」の「りりぃ」とかそんな感じ、いわゆる「やさぐれ系」。当然、僕と多分デューク先輩はこちらのファンでした。かたやM井さんというのは女子大の人で、見るからに清楚、京美人という感じ。ふんわりした感じの人でした。こちらは野獣派のN谷君なんかがファンでした。後は誰がいたかな、そうそうM井さんの同級生でM荷さんという人がいて、この人の名前が最初読めなかった。後は1年上に強烈な個性を放っていたS本さんという人がいた。この人の身を暴漢から守ったのに、僕がボロカスに言われたことは以前のエントリーで書いた。

 そして僕たちの同級生で今回一緒に食事をしたHさんと、いつもベレー帽をかぶって関西ブルース系のライブにしょっちゅう参加していたT永さんがいた。名前が非常にユニークな人だったが、実家がお寺さんだとこの時に初めて知った。今もかなり格式の高いお寺さんに嫁いでおり、いつものオレなら(by Panta)、何が寺じゃボケェ、などとめちゃくちゃ書くところであるが、いやいや、そういうことをしたらあかんぞ、とやや自主規制が入るくらいのお寺さんであった。え、でもT永さんて最初はS戸と付き合っていて、その後I上さんに乗り換えたんとちゃうか、などと暴言を吐くのは僕、だけではなく今回はN谷君がいたから心強かった(笑)。

 もう一つ余計な話をすると、1年下にも女子部員が少なかった(2年下になると、どういう訳か一気に増えたが)。その数少ない女子部員にK瀬とK繁という仲良しコンビがいた。この二人も女子大だったが、どちらも背が高く肩幅があって、なんというか、その貫禄があるというか物怖じしないというか、そういうタイプの子であった(どんなタイプやっちゅうねん、笑)。要するに「ごつい」のである。もっとも、英会話などは個人レッスンを受けており、一度オカマ喫茶にその先生を連れてきたことがあった。僕が接客したのだが、余計なことに僕を英文科の学生だと紹介しやがって、おかげで紅毛碧眼人になんだかんだと話しかけられて、これは学園祭のイベントなのか英作文の授業なのかと冷や汗ものだった。それでも、その先生がニュージーランド出身だと分かったので「フィル・マンザネラがプロデュースした『スプリット・エンズ』を知っているか」と聞いたら、大いに喜んでくれて、「お前はendにsをつけて発音したが、あれは『enz』つまり枝毛のことだ」と教えてくれた。そうか、それで鉄腕アトムみたいな頭をしているのかと納得した。

 違う、違う、この話じゃなくて、要するに英語がペラペラだけどごついおねいさん二人が、何とJALのスチュワーデスとして就職してしまったのだ。その事実を知った時に思わず「え、なんでや、スッチュワーデス、ちゅうのは『容姿端麗』が条件ちゃうんか」とBoxで絶叫したら、ある後輩に、その条件はちょっと女性蔑視の感じがあるので今年から廃止されたなどと教えられた。でも、お前、高いオゼゼ払って飛行機乗るのに、スッチュワーデスがK瀬かK繁、場合によってはその二人が同時に搭乗して来たらどうする、え、どうするんだと逆上したら、その後輩も苦しそうな顔をしてうーんとうなったきりであった。



過去への旅路その7 ザ・ウェイト

 連日のうだるような暑さも、時に部屋に吹き込む風に秋の匂いがほのかに感じられる今日この頃ですが、皆様方はいかがお過ごしでしょうか。僕はと言えば、最近時間があるとすぐ寝てしまうという悪い癖がついてしまい、昨日も板の間に茣蓙を敷いて昼寝をしていたところ電話の音で目が覚めました。携帯ではなく固定の電話です。固定にかかってくる電話というと高齢の親戚関係か、あとはセールス電話で、これは電話を取った人間の口調でどちらかすぐ判断できるのですが、昨日はちょっとニュアンスが違いました。バカ娘1号が取ったのですが、どうもリアクションが普段と違い「父ですか、少々お待ちください」などと、お、あいつも敬語の使い方は全然知らないわけではないな、こういうときに「お父さん」なんていう若い世代が多くてイカンな、このあたり国語教育に携わる関係者はどのように考えているのかなどと寝ぼけた頭で考えていたその場に受話器を渡されたので、当然「もしもし」と出てみた。余談だが、77年度生で今は没交渉になっている岡山出身のM原君の父君は電話に出ないことで有名だったらしいが、それでも周りにだれもおらず本人が取らざるを得ない時は、「もし」と一言言って取っていたらしい。「もし」というと連想するのはブレッドのヒット曲か、夏目漱石の『坊ちゃん』くらいである。で、その電話であるが、出てみると図書館からで、予約していた本が入ったので1週間以内に取りに来いと言う。

 図書館に本を予約した覚えは無いし、ついこの前4冊借りたばかりだったが、仕方がないので読み終えた本の返却もかねて行ってみた。貸し出しのコーナーで渡されたのは『父・金正日と私』であった。思い出した、新聞の書評で見て面白そうだがお金を出して買うほどもないと思い、図書館に予約を入れておいたのだ。しかし、かなり前のことだったので本人もすっかり忘れていたわけだ。ちょうど、日中関係、日韓関係そして日朝関係が微妙な時期に差し掛かっていて、今後はどうなるのかいろいろ考えることも多いし、ここでの対応いかんによっては我がポンニチの将来もずいぶん変わってくるなどと柄にもなく考えたが、まあ、オレが考えても碌なアイデアは出てこない。小人閑居して不善を為すである。ちょっと意味が違うか。などと近況報告をチラリといれてみました。さて、過去への旅路の2日目に行ってみましょう。

 前日の夜の宴について、ちょっと書き忘れたことがあったので、先ずはそこから始めます。僕とマス坊は19時から呑みはじめたのだが、メンバーがあらかた揃ったのは20時過ぎくらい、そして最後のT花君が来たのはもう22時近かったのではないか。このあたり、記憶があいまいである。間違っていたらご指摘お願いしたい。その酒席では、さまざまな話題が飛び交ったのは前回も書いたが、何しろ75年度生の僕に77年度生のマス坊、78年度生のネルシャツO畑君、79年度生のsugarmountain君、80年度生のF田君、ここまでは実際にBoxで顔を合わせていたメンバーで、最後に来たのが86年度生のT花君。彼と僕は11年の差があるわけで、そうなると当然僕がリアルで知っているサークルメンバーの話と、僕が全然知らないメンバーの話と2極化するのは当然である。そして、今ふと気がついたが、80年度生のF田君と86年度生のT花君は5年あいだが空いているので、通常であれば面識はないと思われるのだが、その時の呑み会では全く違和感なく喋っていた。そうか、この飲み会の1週間前にも元DRACの連中の呑み会があって、そこで知り合ったのかとも考えたが、そのあたりはどうなんだろう。

 おっと、余計な話に時間を取られた。呑み会の話なので、あとは駆け足で簡潔に書く。F田君の問題発言、「あの人たちはもう犬畜生かケダモノかと思った」一同爆笑。T花君の先輩とて容赦はせんぞ発言、「sugarmountain先輩のblog、面白いしとても参考になります。流石は『鮫肌音楽』」「オレは鮫肌文殊か!!!でも、そのネーミングいいな、アナザー・blogとして開設しようかな」。ネルシャツO畑君の問題発言、「あの時、清友荘でみんなが寝静まった後に…」。わー、やっぱり書けません、とてもじゃないけど書けません。もう、若かったからって何でも許されるわけじゃない(汗)。でも、書いてみたいと思う気持ちもあるけど、やはりここは良心と良識に従って、そう、仮にも新島先生の薫陶を受けた人間として、この場に出た話は一切公表せずに墓場に持って行きます。でも、どんな話か聞きたい人はメールをくれれば、ってこらこらそういう無節操なところが70年代じゃな、フォッフォッフォッってオッサン人格が崩壊したんかい。

 などと、いったいどんな話だったのか何も見えないまま、その夜の宴は終わり、翌朝は8時半にロビーでマス坊と待ち合わせをした。9時半にはJRの摂津富田駅でデューク先輩と合流し、その足で松原君の実家に案内してもらう約束になっていたからだ。ホテルのサービスの新聞をバッグに詰めて、二人して地下鉄の駅に向かった。梅田までいったん戻り、そこからJRで摂津富田に向かうのだが、地下通路でマス坊が立ち止まる。こちらは黙ってついていくだけなので、やや不安はあるが何と言っても関西在住50云年の男だから、まさか乗り換えが分からないということもあるまい。30秒ほど天井の標識を見ていたマス坊は小さく、しかし力強く「よし、こっちや」と歩き始めた。勿論、以下同文でついて行く。しかし、どうも先ほど通った通路のような気がする。阪神百貨店だったか阪急百貨店だったか、同じような入り口を通ったような気がするなと思っていたら、またもや立ち止まった。たまりかねて「マス坊、大丈夫か、道間違ってないよな」「多分…」「なんや、お前、多分て、メイビーとかパーホップスの話はワシ嫌いや。アイムシュアの話でいこや」などと昔ならった英単語の話などを出して笑いを取ろうとするが、マス坊にこりともせず、「最近このあたり全然来てまへんのや、ようわかりませんわ」などと不安なことをいう。

 しかしながら、我がポンニチの地下通路はその昔の地下水道のようなことは無く、案内板に従って行けばちゃんと目的地に着く。9時過ぎの電車に乗って摂津富田に向かうことが出来た。途中、デューク先輩からメールが入り、「摂津富田に到着しました。目立つように ジャニスジョプリンの黒地にカラー写真のTシャツを着てます。」などと書いてある。マス坊にそのメールを見せていたら、摂津富田の駅に着いた。ふと窓越しに見ると、物凄く派手な格好をした人物が見えた。四半世紀以上は会っていないが、デューク先輩に間違いない。改札を抜けて北出口から外に出ると、「熱烈歓迎 (僕の実名)先生御一行様」と書いた紙を持った怪しい人物が立っていた。アポロキャップにジャニスのTシャツにサングラスという、まるで東南アジアの人買いのようである。女衒の達という『麻雀放浪記』の登場人物を思い出した。久しぶりの再会を祝して一杯という訳にもいかず、とりあえずバス停に向かいながら3人で近況報告をしながら歩く。しかし、今回の旅で感じたのは学生時代の先輩・友人・後輩というのは長期間会ってなくても再会して一言二言交わしただけで、あっという間に昔の感覚に戻れるから嬉しい。

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 バスを待つ間に(by 平浩二)、本日お昼に合流する予定のN谷君にメールする。午前中に松原君の実家を訪問した後、茨木市で同じく75年度生のH小姐と一緒にランチをする約束をしているので、その確認である。関西に着いて2日目なのに、一気に大学時代の仲間と再会が出来そうで感無量である。そうしているうちにバスが来て、3人で乗り込んだ。バスは街中の道を大きく左折したり、右折したりしてだんだん坂道を上っていく。20分くらい揺られて降りたのは山を切り開いて出来た住宅街という感じの所だった。そこからさらに坂道を歩いていくのだが、午前10時だというのに太陽は容赦なく照り付け、僕は昨日持ってきた大きなショルダーバッグに、松原家の手土産に買ったお菓子の入った紙袋とT花君が持たせてくれたお土産の袋をもって、汗をだらだら流しながら歩いた。しかし、しかしである。こういうことを書くと嫌われるとは百も承知であるが、マス坊。こういう時はウソでもいいから「センパイ、1個くらい荷物もちましょか」くらい言うものだよ。ん。この日京都に着いてからはデューク先輩は荷物を1個持ってくれたぞ。ウソでもええねん。気持ちやねん。それからお前な、前の日にオレとホテルで雑談してた時、オレが「のどが渇いたな。ビールでも飲みたいけどsugarmountain君はまだ仕事中だからコーヒーでも飲むか」というたら「ハイ」て返事したけど動かんかったやろ。結局オレがコーヒー買いに行かざるを得なかったやないか。ああいうときもやな、「センパイ、僕一走りして買うて来ますわ」ちゅうのが後輩としての道ちゃうか。え、どないや。などと心の中でこぼしているうちに松原君の実家のある場所に着いた。

 山の一角を切り開いて作った分譲マンションが多分10数棟は立っている広い団地であった。煉瓦で出来たペイブメントが幅広く、街路樹もたくさん植えてありその木陰の中を歩いた。目的の棟に着いて、デューク先輩がオートロックのインターフォン越しに我々が到着した旨を話した。松原君のお母さんの声が聞こえた。オートロックのドアが開き、そこから少し歩いて部屋の前に来た。再度インターフォンを鳴らすと、ドアが開いて多分35、6年前にお会いして以来のお顔がそこにあった。応接間に通されて、デューク先輩が僕とマス坊を紹介してくれた。僕の名前を言うと「ああ、お兄ちゃんからしょっちゅうお名前は聞いてました。九州からわざわざ来てくれはったんですね、ありがとう」と何度も頭を下げられた。顔つきや声の感じは以前お会いした時とそう変わらないが、明らかに体力は弱っているというか、精神的なものと年齢的なものとが重なっているんだろうと思った。このマンションに病気療養中の松原君と一緒に暮らしてらっしゃったが、彼が亡くなった後は独りで生活をしているという。もっとも、松原君の弟たちが1人は直ぐ近くにいるし、もう1人もそれほど離れていないので何かあっても安心だと言われる。しかし、ご主人を亡くして間もなくご長男も亡くされたのだから、その時の心労はいかがだったろうか。察して余りある。

 仏壇に通してもらい彼の戒名を見ながら線香を上げさせてもらった。心の中で、「随分遅くなってスマンな。ま、オレのことは良く知ってる松ちゃんだから、いつもの苦笑いを浮かべてるだろうな」と手を合わせた。彼の亡くなった時、その前後の話を伺いながら飲み物を進められただが、頂いたのは缶チューハイ。昨日の酒も結構残っているし、これから昼はまた会食で多分、いや間違いなく呑むだろうからちょっと躊躇したがデューク先輩もグレープの缶を取って呑んでいるのでオレも覚悟を決めて呑んだ。良く考えてみれば、松原の家で、松原と呑んでいるのである。何の遠慮があるもんか。下戸のマス坊はコーヒーを頂いていた。オレもコーヒーにしておいた方が、と一瞬脳裏をかすったが、松原が「なにいうてんねん、オッサン。オレんとこに来て、シラフは許さんで」といったような気がして、さらに缶チューハイを煽った。今、冷静に考えてみると松原君がそういったという確証はなく、要するにオレのスケベ心が日中飲酒の正当性をこじつけようとしていただけのような気がする。しかも、後で分かったのだが、デューク先輩も健康のためお酒は控えており、その時の缶チューハイはノンアルだった。ノンアル2人に対して僕は、アルアル一点突破主義を貫徹したのだ。ま、いいか。

 応接間でいろいろ話を伺い、松原君のすぐ下の弟さん(車を持っていたので、僕達がイベントの情宣をする時に協力してくれた。文句も言わずあちこち走ってチケットを配ったり、売り上げの回収に行ってくれたりした。ちょっとツイストの世良に似ていた)が、会いたがっていたが仕事で来れないので宜しく伝えてほしいとか、その下の弟さんは昼くらいには顔を出せるなどと話がでた。そして、タイミングを見て彼の部屋を見せてもらった。写真を撮っていいか尋ねたら快く許してくれた。彼の部屋に入ると、北白川の伊東荘の雰囲気が少し残っていた。アナログレコードと本とさまざまなJRのお土産品(彼の亡くなった父君は国鉄職員だったのだ)。机の上には、彼の書いたキャッチコピーや弔問に来てくれた人たちの名刺やはがきなどが沢山並んでいた。その名刺の1枚を見て僕は固まった。学生時代、一緒にマーマレードというミニコミを作っていたのだが、その編集長だったMilk氏のものだった。尋ねてみると、つい先月ここに来て線香を上げて行ったらしい。そうか、もしかしたらこの家で彼とも再会できたかもしれないと思うと、人と人との縁の不思議さを感じた。

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 彼の亡くなる前の写真を見たが、学生時代とそれほどイメージは変わらなかった。相変わらず強面の顔である。前日、F田君が「松原さんは怖かった。どんな人やったかって(T花君に向かって)、そやな、布袋、顔は布袋で目つきはもっと鋭かった」などと形容した、確かに知らない人間が見たら視線は避けたくなる顔ではある。しかし、驚いたのは彼の小さい頃の写真で実に可愛いのだ。お母さんも「小さい頃は、可愛いお兄ちゃんやったけど、いつくらいからやったか、もうごっつい怖い顔になってしもて」と苦笑交じりで話をされた。彼の机にはいろいろなノートや手帳などが置いてあり、仕事に使っていたものだと説明を受けた。そのうちの1冊のノートをお母さんは僕らに手渡し、「これは亡くなる前につけていた日記です。もう字が読めないくらい汚くなってますけど」。確かに、彼の力強く独特の文字とは異なる文字列がそこに並んでいた。

 彼は大手の広告代理店で働いていたが、やはり向上心の強かった男であり、独立することになった。そして事務所も借りて、今まで以上に頑張って仕事に打ち込んでいる中、病で倒れてしまった。そして、そのリハビリを兼ねて実家で暮らしていたのだが、ある日生命の灯が消えてしまった。友人たちは、少しずつでも社会復帰し始めたと思っていただけにとてもショックで、彼のことを惜しんだ。彼と一緒に何かをやったことのある人間は、もちろん仕事も遊びも、そしてイベント関係も、彼のその独特のキャラクターと裏表のない誠実な性格にひかれて親しく付き合ったと思う。もっとも多少、個性的な性格だったので絶対波長が合わない連中も結構いただろうし、彼もまた人の好き嫌いが結構激しく、あいつは嫌いだと思うと容赦のないところがあった。もっとも、その嫌っていた人間であっても意外な一面を見てしまうと、特に義理と人情関係だが、ぱっと評価を変えて、「あいつもあんなしてるけど、結構いい奴やで、drac-obさんも、そんな毛嫌いせんと付き合うてみたら」などと屈託のない顔で言うこともあった。

 彼の最後の日記を読んでいて僕は思わず声を上げた。その日記には病気から立ち直ろうとしていた彼の行動、特に仕事の再会や昔のDRACの仲間との付き合いのことなどが書いてあったが、その中に僕の名前が、それもフルネームで書いてあった。『××××(僕の本名)氏と打ち合わせ』と日付と時間が書いてある。そんなはずはない。彼が亡くなった時、僕は九州に住んでいて、学生時代の連中とは年賀状の交流もない、全くの没交渉だった時期だからだ。何かの間違いか、松原君の勘違いだろうと思って読み進んでいくと、僕の名前が何度も出てくる。どうやら、僕と同姓同名のコピーライターがいて、その人と一緒に晩年は仕事をしていたようだ。しかし、デューク先輩に聞いてもお母さんに聞いても、どんな人か心当たりはないという。何とも不思議な感じがして、彼の部屋を後にした。

 もうすぐ、一番下の弟が来るからという松原君のお母さんのお誘いを、昼に約束している友人たちがいるからと言って丁重にお断りして、お暇することにした。松原君のお母さんは何度も何度も頭を下げ、特にデューク先輩にはいつもいつもお世話になりますといいながら見送ってくれた。彼の住んでいたマンションを出て、今度は下り坂になっているペイブメントを3人で口数少なく歩いてバス停に向かった。今回の過去への旅路で一番やりたかった松原家訪問は無事終了した。これから茨木市に向かって、同級生だったH小姐とN谷君とも合流し一緒にメシを食い、それから、京都に向かうと思うと足取りは軽かった。足取りは軽かったが、荷物は相変わらず重い。いや、松原君のお母さんが、これ持って行きといって缶チューハイを5,6本くれたので、更に重たくなっている。おーい、マス坊、こういう時はウソでもいいから、一言「センパイ、荷物持ちまひょか」くらい言うんやぞ。



過去への旅路その6 すべての若き野郎ども

 ここ2回ほど、ちゃんとしたエントリーではなく写真付絵日記でお茶を濁してきた拙blogですが、しかし一度知った禁断の味はいかんともしがたく、2回やるも3回やるも同じや、毒を食らわば皿までというやないか、もう1回くらいは絵日記でエイントチャウ。いや、いやそういうことばかりやっているから人間がダメになるのだ。話というのは起承転結をしっかりつけてこそ話であって、ただ感情まかせに適当に書いてしまってあとは知らん顔というのはいかんのではないか。というような葛藤が心の中で起こっていた。それで、やはり話はちゃんと書いていかないといけないという原則論が勝利したので、ちょっと時間をさかのぼり旅日記は初日に淀屋橋のホテルに着いたところから再度始める。

 ノックの音がした。という切り出しで始まる星新一のショートショート集があったな、などとまたもや余計なことを書いて脱線しそうになったので、もとい。ノックの音がした。返事をして扉を開けるとマス坊が立っていた。髪に白いものが目立つが、背も高く腹もあまり出ておらず、どちらかというと筋肉質で凛々しい顔になっていた。僕の記憶にあるマス坊はいつも少し猫背で顔が丸くて少し赤く、何か話すときはぼそぼそと小さい声で喋る。普段そんなに冗談を言わない男であるが、普通に話す世間話が妙に可笑しい。まあ、サークルでも目立つ方ではなかったが、弱小ブルース班を再建し、発展させてきたのは彼の力量である。

 先ほど、ホテルの内線電話で声を聴いていたので、多分四半世紀ぶりだというのに、つい昨日別れたような感じで話が始まった。彼は生粋の京都人で、小・中・高・大とずっと同じ家で育ち、そのまま地元で就職したので彼の年齢イコール実家での居住年数という、なかなかにレアな人である。要するに下宿生活というか独り暮らしという経験が無い。そのせいか、よく僕の下宿に泊まっていった。終電どころか、まだまだ帰りの電車が充分あるのに「drac-obさん、今晩泊めてもらえまへんか」と研究会の後などに言ってくることがあり、僕もちょっとでも賑やかなほうがいいので帰り道の酒屋でビールや日本酒を買って、一緒に呑みながらバカ話をしたものだが、如何せん彼はお酒が弱い。ビールをコップ一杯飲んだだけで真っ赤になり、多少陽気にはなるがそれ以上は呑まないし、暴れるようなこともしない。当然、割り勘で買ったサケの9割以上は僕の胃袋に収納されるという非常にありがたい後輩であった。

 そのマス坊と、かれこれ26~7年間のお互いの消息についての話だとか、共通の先輩や後輩の消息についての話をしていたのだが、その時に嬉しいニュースの一つにネルシャツO畑も今日の呑み会に参加するという話があった。このネルシャツO畑君というのも、ユニークというか変わり者というか、何しろ1年365日毎日ネルシャツを着ているのだ。1年中ですよ、1年中。京都の真夏のあの炎天下の中を緑のネルシャツを着た彼の姿を見るたびに、「お前、暑くないんか。ネルシャツ脱げや」といっても「いや、大丈夫ですわ。わははは」と何故か力強く笑う。また京都の冬は物凄く寒い。秋でさえコート無しでは寒いと加川良が歌ってるくらいだから、1月や2月という時期はとんでもなく寒い。その寒い京都の冬、比叡おろしが吹きすさむ中、彼はネルシャツ1枚で大阪から登場してくるのだ。さすがに真冬は手に軍手をはめていた(後年、妹からもらったという赤いスタジャンを着てきたことがあって、その姿を見たときに僕は「立身出世」ということはこういうことかと妙に納得したが、良く考えてみると全然「立身出世」ではない)。見ているこちらが寒くなるので「O畑、お前、いくらなんでもその恰好は寒すぎるやろ」というと「いや、両手をグーで握りしめて手をまっすぐ伸ばして歩くと、案外さむくないんですわ。わははは」と、これまた力強く笑う。

 このネルシャツO畑君が、マス坊の直属の後輩でブルース班の後継者だった。あれ、そのほかにブルース班はいたかな。あ、いたいた、マス坊と同級のH本も確かブルース班だったけど、ほとんど影が薄い。というかマス坊とネルシャツO畑の二人のキャラが濃すぎて他のメンバーの印象がなくなるのだ。

 この二人、ブルースはかなり聴きこんでおり、ブルースで何か分からないことや知らない名前が出たら尋ねるのだが、知らないということが無かった。またレコードもコレクターで半端ではない枚数を所有していた(そのコレクションがどれくらいになったかは、その夜の宴で判明するのだが)。僕は、ブルースはあまり得意ではなかったが、T・ボーン・ウォーカーがどうしたとか3大キングがなんたらとかエルモア・ジェイムスがどうしたとか、やはりRCAブルースの古典は名盤であるとか、そういう分かる人には分かる話をしていたものだ。しかし、この二人の本当の本質は次の会話で判断できるだろう。

 「マス坊はん、キャンディーズ、そんな好きなんですか?」「おう、誰がなんちゅうてもワシはランちゃんや」「ランちゃん、そんなええかな。ま、カワイイいうたらカワイイですけど」「アホ、お前、ランちゃん最高やぞ、ああ、ランちゃんと結婚したいわ~」「え、まだ若いのにもう結婚ですか?」「そや、結婚したらお前、毎日ランちゃんとデキるんやぞ」「毎日、ですか。そらええですな。ワシもそれやったらランちゃんと結婚したいわ」「何言うてんねん、先にいうたのワシやないか、ワシが先や。ワシが飽きたらお前に譲ってもええわ」「あ、そうでっか、そら楽しみですな」。

 「お、マス坊、それなんや(今度はワタクシです)」「あ、これでっか、キャンディーズの新しい写真集ですねん」「お、ちょっと見せてみ」「いや、ほんでこれですけどな、この間買って家に置いてたら、ツレが遊びに来て一晩貸せいいますねん。まあ、返してくれたらええいうて貸したら、そいつなんちゅうたと思います?」「なんちゅうたんや」「『ラッキー。これで今夜のおかずが出来た』いうて1週間返してくれまへん。この前からやっと催促して、今日取り上げて来ましてん」「わ、なんや、バッチィ感じするする思たら、使用直後かいな。もうええわ」。

 えー、良識と品位で売ってる拙blogにこのような下世話な話題はいかがなのものかとアップするのを躊躇していたのですが、何しろ今回のタイトルは『過去への旅路』であり、まだ僕たちが10代後半から20代前半だったAll The Young Dudes時代の話なので、社会主義的リアリズムを貫徹するためには、多少のシーモネータ話も出てくるという教訓でした。とまあ、弱小ブルース班を支えたお二人の人となりを多少でも分って頂いただろうか。そうそう、それとネルシャツO畑君には「巨人のハラ事件」というのもあった。これは、確か79年か80年の鳥取夏合宿の話である。夏合宿はほとんど毎年鳥取の民宿に行っていた。交通手段は大多数はJRでのんびり行くのだが、車を持っているプチブルな連中もいて、その車に3、4人便乗して行きガス代などを割り勘にすると結構安くで行けた。しかし、ネルシャツO畑君は、ブルース班である。ワイルドなのである。大阪の自宅から原付で鳥取に向かったのだ。

 大阪鳥取間はおよそ200キロメートル。原付で時速40キロで走ったとしてもノンストップで5時間である。途中、休憩や食事を入れると半日はかかったはずだ。あ、原付じゃなくてカブだったかもしれんが、とにかくヤマハメイトとかラッタッターなんていうCMソングがまだまだ幅を利かせていた時代に、大阪から鳥取まで原付で走った勇者なのだ。途中でガソリンを補給しながら、当然本人も水分や食料を補給しながら鳥取までたどり着いたのだが、民宿にたどり着く直前、国家権力が検問を行っていた。「オイ、そこのバイク、ちょっとこっち来い」「あ、何でっか」「何でっか、やない。ワシが呼んだら国家が呼んだのといっしょや、もうちょっというと畏れ多くも賢くも天○陛下が呼んだのと一緒じゃ、きりきり歩いてこっちこんかい」「はあ、ちょっと急いでるんやけど」「どっから来たんや、兄ちゃんは」「ワシですか、ワシ大阪から来ましてん」「ええ加減なこというな、ここは鳥取や、大阪からそんなちんまいバイクで来れるか、アホ」「いや、ホンマですねん」「お前、なんや怪しいな、とりあえず免許証出せや」「免許証ですか、ほな、これ」「…。お前これなんや」「免許証ですけど」「アホ。免許証にお前何を貼ってるんじゃ」「おもろおまっしゃろ」「アホ、おもろいことあるか!!!」

 おまわりさんが手にした免許証にはシールが貼ってあった。その頃、ガムだったかチョコだったか50円くらい出して買うと、ナンセンスなイラストのシールが入っていて、結構人気はあった。しかし、いくら人気があったからと言って、大学生が免許証の自分の顔の所に「巨人のハラ」とかいたシールを貼って、貼るだけならまだしも検問の警官に堂々と提示するのはどういう神経だったのか。そのシールのイラストはジャイアンツのユニフォームを着たデブが腹を露出しているものだったので、確かに「巨人のハラ」である。ところが、このおまわりさんがジャイアンツファンだったかどうかは知らないが、免許証というものは公文書であり、勝手に加工したりするとお上は怒るものだということを残念ながら、ネルシャツO畑君は知らなかったようだ。その後、散々説教されて始末書か何かを書かされてようやく解放された。いつまでたっても民宿に来ないので、心配していたらこういう出来事があったのだ。「鳥取のおまわりはセコイわ。大阪やったら笑って許してくれるちゅうのに」というのが、彼の感想だった。いや、多分、間違いなく、大阪でも怒られると僕は思った。

 そんなバカな話をしているうちに、時間は過ぎて行った。この日は18時過ぎにsugarmountain君がホテルに来て、3人揃って呑み会の会場に向かう約束になっていた。そろそろ時間だと思っていたところに、仕事の関係で約束の時間に行けなくなったとメールが入った。ネルシャツO畑君も仕事帰りに来るとのことで19時半くらいになる予定だし、他の参加メンバーも集合時間の19時に来るかどうか怪しい。それでも、少し早めに僕とマス坊はホテルを出て、予約していた呑み屋さんに向かった。真夏の大阪は、太陽は少し傾いていたが、アスファルトの熱気はまだまだ強烈で前方には陽炎が見えるようだった。約束の19時よりだいぶ早く会場についてしまい、目の前の御堂筋を走る車を眺めながら参加予定者の連絡を待っていた。誰も何とも言ってこない。大丈夫かなと思いながらも時間が来たので、お店に入った。

 店は鳥舞台という名前の居酒屋で、19時だというのに結構な人数が集まって飲み食いしていた。マス坊が予約していたので、僕達はテーブル席ではなく奥の座敷風のコーナーに誘われた。奥に4人、手前に4人、コーナーを入れると10人はゆっくり座れる座敷が、左右2か所あった。もう片方は、何やら会社の仲間の宴会みたいで、結構出来上がった男女たちだ。僕はマス坊と生ビールを注文し、焼鳥や串カツなどそのお店の自慢の料理を適当に注文した。昼過ぎに宮崎を出て、夜にはもう大阪でビールを飲んでいる、そして目の前には学生時代の後輩がいるという状況が、ちょっと夢の中のようでビールの回りも速かった。お腹もへっていたし、のども乾いていたので軽快なピッチでジョッキのお替りを頼み、昔はつまみと言えばキャベツとか、あたりめとかシシャモなんかを頼んで、それを時間をかけて食べていたワタクシであったが、今は食うことこそ生きがいみたいになってしまい、バンバンつまみを頼むのでマス坊はちょっと呆れているようだった。時間も30分以上過ぎるが誰もやってこない。O畑君がそろそろ来てもいい時間だとマス坊に話しかけたら「ほな、電話してみますわ」と携帯を取り出した。

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 「あ、もしもし、O畑か、今、どこ、え、店に来た。あ、奥や奥の座敷でもう始めてるわ」というマス坊の声と「え、どこですか、奥、座敷、さっき行ったんやけど」という返事が同時に聞こえる。これはもしかしたら、テレパシー、ではなく何とO畑君はとっくの昔に呑み屋にたどり着いており、奥の座敷ものぞいてみたが、知らないおっちゃんが二人で呑んでいたので、場所を間違えたと思って一旦出たらしい。それでも店の名前も間違いないで、もう一度入りなおしたところにマス坊からの電話が入ったわけだ。ということで、78年度生のO畑君も合流。彼は体形も顔つきも全く変わっていなかった。髪もほとんど真っ黒で、しいて言えば顔にしわが刻まれており、それが大学を出た後の彼の時間を物語っていた。「懐かしいですな~、drac-obさん。何年振りですかね~」と話しかけてきたが、いや、懐かしいのはこちらも同じ。しかし、まさかこうして元ブルース班の二人と一緒に呑める日が来るとは夢にも思わなかった。

 こうして3人になって話が盛り上がって来たところに「遅くなりました」と言って乱入してきたのがsugarmountain君と80年度生のF田君。sugarmountain君とは、5~6年前に僕の地元で会っているので、違和感が無いがもう一人のF田君は、これはもう何も知らずに街ですれ違っても絶対分からないだろうという別人28号になっていた。僕の記憶にあるF田君はレイバンのサングラスをかけたチリチリパーマの男の子というイメージだが、目の前にいるのは、どこかの工務店の2代目社長というかニッカボッカが良く似合う現場監督という雰囲気である。声も昔に比べてドスが効いている。それでも話を始めると、あっという間にあの頃のBoxの雰囲気に戻る。

 もうその頃にはビールは終わり、僕はその日サービス価格で提供されていた赤霧島のロックを呑みはじめていた。当然、酔いは回るし話はとりとめがない。先ほどのシーモネータどころではないような、今だから云えるバクロ話シリーズに盛り上がっていたら、「スイマセン、遅くなりました」と人のよさそうな顔をした男が入ってきた。86年度生のT花君である。僕は初対面だ。実は彼こそが、今回の宴会の陰の仕掛け人である。フェイスブックにDRACのグループを立ち上げて、彼らの同級生、先輩、そのまた先輩という風にルートを広げて行って、今では30人を超すコミュニティを実質管理しているのがT花君である。面識は無かったが、コメントのやり取りや以前チャットをしたこともあり、全然初対面という感じはしなかった。また話題への関わり方に、やはり別館族の匂いがした。僕たちのサークルの真面目な面もアホ丸出しの部分もしっかり継承してくれている。このことは翌日、8788年度生のS田君と初めて会ったときにも感じた。

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 さて、野郎6人で話す内容は全く支離滅裂で、昔の出来事、こんなことがあったとか、こういう奴がいたけどあいつは今どうしているのかとか、実はあの女の子はオレに気が合った、いや、思い込みちゃう、ここでは言えないが、実はこういうことが、あ、言うたらアカン、言うたらアカンといいながらつい手が出て、みたいな話が延々と続くのである。で、あるのだが、やはりそこはそれ、学生ではないから今は一体だれが一番甲斐性があるのか、もっとも僕たちのサークルの仲間であるから、やれマスコミに就職したとか広告代理店でブイブイ言わせているとかそういうステイタス自慢ではなくて、今、どういう風に音楽を聴いているかという話題になった。

 その中で、先ほどの元ブルース班の2人が突出する。何と、ネルシャツO畑君は2テラバイトのハードディスク4台にMP3に圧縮した音源を貯めこんでいるという。2テラですよ、2テラ。しかもMP3にしているから、どれだけの数の演奏がそこには詰め込まれているのか。本人も何度かエクセルでデータ整理をしようとしたが、手が付けられなかったらしい。また同じ演奏がダブっていや、トリプって入っていることを除外しても、物凄いデータである。

 しかし、しかしである。上には上がいる。もう一人のブルースの鬼、マス坊は何と音楽を聴くために蔵を建ててしまったというではないか。蔵ですよ、あなた。100人乗っても大丈夫のイ○バの物置ではなく、コガネムシは金持ちだの歌に出てくる蔵ですよ。先に書いたが、彼の住まいは京都の田舎の方でそのあたりの地元の人はだいたい160坪くらいの敷地に家が建っているらしい。160坪という広さが、もうちょっとビヨンド・マイ・コンプリヘンションではあるが、その敷地に20坪だが30坪のレコードを聴くためだけの蔵を建てたという。その蔵には奥方もお子達も絶対進入禁止であり、毎週末、そう金曜の夜とか土曜の夜になるとマランツのアンプにJBLのスピーカーが歌い始めるのである。壁一面には数えきれないほどのアナログレコードの棚が。この話を聞いて誰が呟いたか「私にとって天国に一番近い島を、とうとう見つけてしまった…」。

 この話のあと、酔っ払いジジイ達は緊急集会を開き、早期に京都マス坊宅にて一人一人が自慢のアナログと寝具と酒を持参してオールナイトのレコードコンサートをやろうということになった。現実的にはいつになるか分からないが、あの時の勢いではもうこの夏やるぞという雰囲気ではあったな。しかし、こういう時は最年長のオレがしっかりせんといかんと思い、はやる若者たち(いや、T花君以外は全員50代だが)を抑えて、「し、しかし、いくら京都の田舎とはいえ、夜中にフルボリュームでレコードかけたら近所からクレームくるやろ」というと、マス坊はいたってのんびりした口調で「いや、回りに家はあるけど離れているからクレームなんか来まへんで」。参った、参った狸は目で分かるのだ。というような、終わりも果てもないバカ話もついに時間が来て、それぞれ電車で帰るのであった。次の大阪夏の陣での再会を約束しながら。



 追伸、書き忘れたけどsugarmountain君が手土産に持ってきたCDとDVDも楽しかった。音楽モノでは僕はマリーンと熱帯ジャズ楽団のセッション、ノラ・ジョーンズの1st、ハーダーゼイカム(そういえばジミー・クリフを円山野外音楽堂でマス坊とT原さんと一緒に見に行ったな)のDVDなんかをもらった。それとT花君は、今回の呑み会が終わるときにわざわざ僕にお菓子の手土産を持たせてくれた。お二人には改めて感謝したい。

過去への旅路その5 インタールード

 すいません、ごめんなさい。と、のっけから何を謝っているかというと、ここ数日、憂世の義理で初盆に行ったり実家の墓参りに行ったりとなんだかんだで更新できず、ここをほったらかしにしていました。いや、実は何度も時間のあるときに、ログインしたんだけど写真付の絵日記で更新するか、きちんと話を書くかで迷っていて、そういうときなのに図書館でまた本を借りてきてしまった。4冊借りたうちの1冊が『加藤和彦 ラスト・メッセージ』って本で、トノバンが亡くなった後に出版され、本屋で立ち読みしたけど、彼の死を商売にしているという印象が強くて買わなかった。

 ところが、図書館で見つけて読みはじめたら、それほど目新しい話はないけど、それでもトノバン自身が語るミカバンドのことバンド解散後のソロ活動の話とか読みはじめたら止まらなくなって、一気に読んだ。もちろんその間に『竹島密約』だとか毎度おなじみ山田風太郎の明治小説などを並行して読んでいたので、こりゃ当然blogを更新する時間的な余裕はない。またこういう状態だからFBとかmixiといったSNSにもほとんど書き込みせず。まあ、それじゃいかんと思って、先ほどエントリーを書き始めたが、とりあえずこの間のご無沙汰はこの動画を貼ることで許してほしい。知らなかったんだ、高中がこんな形でトノバンの追悼をしていたなんて。



過去への旅路その4~ワイルドサイドを歩け

 前回やってみて、意外に好評(いや、イマンさんがコメントで褒めてくれただけですが、笑)だった写真付絵日記をもう少し継続したい。女子大の入り口の右手に視線を向けると、そこは御所だった。御所というのは、皆さんご存知のようにやんごとないお方の昔の住まいであったわけだが、これがめちゃくちゃ広い、僕の学生時代は体育の授業はここで行われた。確か野球のグラウンドが4つか5つくらいあったと思う。まだ1回生だった頃、隣のオール九州人の下宿に住んでいたT中君から準硬式野球部の練習用のバットを持っていくよう頼まれて、場所が分からずうろうろしていたら警備のこまわりくん、じゃなかったオマワリさんに怪しまれたこともあった。しかし、このアングルを見ると「青烏」という言葉や、「日×民×」という単語が浮かぶのは何故だろう。とにかく何かあるとここにカマボコ(マルキの人たちが待機している金網付のワンボックスというかワゴンというか、どっちかというと装甲車ってイメージの特殊車両)が待機していたり、ジュラルミンの盾を持ったごついお兄さんたちがいたな~。そんで、時々は同じくらいの若いおにいさんなんだけど、新聞の拡張員と選挙に行くことが仕事になってる、そうそうR大学の学生が多いグループが集まって、何やしらんが「ボーリョク学生は帰れ」とか「学生の学ぶ権利を邪魔するな」とか大声で喚かれたような気がするが、多分気のせいだろう。

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 今出川通りを河原町に向けて歩いていくと、有名なほんやら洞がある。岡林を始めとする、当時の関西文化人グループが交流と発表の場にしたところだ。店内は木で出来た大きなテーブルと長椅子があって、ずっと座っていると尻が痛くなるところだったし、ここに出入りする髪の長い人たち(僕も当時は長かったけど)の話すことが、どうも苦手で何度か入ったけど、居心地が悪くて待ち合わせや休憩に使うのは、「レノマ」とか「やぎ」という喫茶店だった。もっとも両方ともとっくの昔に無くなっているようだった。「レノマ」の入っていたビルはそのままあったが、「やぎ」は結局場所もどこだか分からなくなっていた。ところが、この翌日出町の商店街を歩いていたら、「やぎ」のうどん・おにぎり部を統括していたパンチパーマのオッサンが自転車こいでいた。気おくれして声をかけることが出来なかったが、間違いないと思う。オッサン、この界隈でまだ商売してるんかと考えるとなんだか嬉しくなった。

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 そういえばオデッサ書房がこのあたりに在ったはずだと、探してみたが見当たらなかった。85年くらいに京都に来た時ですら、流行遅れの本や機関紙を置いているややアナクロな書店だったが、非常に居心地が良かった。そこだけ時間が止まってる感じがしたが、さすがに平成も20年以上たった今日、そのような良心的な書店は存在しえないのか、などとちょっと柄にもないことを考えた。そうしているうちに出町である。桝形通りである。この近辺には3回生から4回生の間、つまり2年間生活していた。その下宿(造りは普通の一軒家で、共同のガスコンロがあり、部屋は6畳だったので随分リッチになった気がしたものだ。何しろ修学院はフォー・ジョー・ハーフだったから)を紹介してくれたY田さんという73年度生の先輩から炊飯器も譲ってもらったので、自炊を覚えた頃だ。出町の商店街というのはアーケードの中にあり、乾物屋や総菜屋、肉屋に米屋(そうそう、コメを買うときは米穀通帳が必要だとF田敏雄君に言われて、オレそんなん持ってへん、どないしよと青ざめたのも今はいい思い出、の筈がない。あの野郎、毎度毎度適当なこと言いやがって)、とにかく買い物するのに事欠かない。また、特に買うものを決めずにぶらぶら散歩しながら、あちこちのお店を冷やかして楽しんだこともあった。

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 と、ここまで書いたらお腹が減ったので今から晩御飯を食べる。続きはその後すぐに書く予定です。いやー、週末だったのでハイボールなど作って飲み食いしていたら、女子バレーの3位決定戦が始まり、ついつい見てしまった。銅メダルおめでとう、惜しむらくは狩野さんをもっと使ってほしかった。などと、脱線しましたが、出町の商店街を横切っていくと、王将がある。この出町の王将には良く通いました。以前のエントリーにも書いたけど、僕は中華料理というのは京都に住むまで、ほとんど食べたことが無くて、王将も珉珉も最初はおずおずという感じで先輩なんかと一緒に行っていたが、慣れるとそりゃもうひっきりなしに通った。特に、王将は餃子のタダ券の綴りを通学路で配布していることがあり、これをゲットできると最低餃子はタダで食べられる。当時、餃子の1人前は120円だったと思うが、それに30円プラスすれば焼きそばが食べられる。また、そのタダ券は京都市内の各王将店舗の名前が印刷してあって、たとえば出町店で他のお店のタダ券出しても駄目なのである。したがって、餃子を求めて三千里みたいに、あちこちの王将に通ったのだが、やはり出町は店員も個性の強い人が多くて頻繁に通った。ウソかホントか知らないが、毎週定休日の月曜日は王将新メニュー会議みたいなことをやるなんて話があって、ホウレン草のバター炒めと付け合せでポパイ定食などというメニューが突然登場したりして、いや、王将も新規開拓を真剣にやっていたんだと思う。ちなみに出町店のメニューを写真に撮ったが、ポパイ定食がパパイ定食になっていた(笑)。

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 出町は商店街が近いのと河原町今出川という交通の便のいいところにあったので、非常に住みやすかった。ミニコミのマーマレードに関わったのは、この時期である。そうそう、そのマーマレードの編集長だったMilk氏と今回の旅行がきっかけで、連絡が取れるようになったのは、大きな収穫だ。僕の記憶違いの所があったら指摘してくれるというから心強い。出町に住んでいるときは王将という早い、安い、旨い(?)食堂があったが、もうひとつ忘れてはいけない貧乏学生の強い味方、「中島」があった。これは「なかじま」と読むのだが、とにかくメニューが半端なく多くて壁中にさまざまなおかずの単価表が所せましと貼られているのが特徴だった。それと入り口に受付があるのは不思議ではないが、そこに何故かマイクがあって、客は自分の名前と食べたいおかずをそこで言うと、受付の小汚いバイトの兄ちゃんが復唱して、それがマイクを通して奥の厨房に伝達されるというシステムだった。そして注文して5分くらいすると「○○と××と△△を注文されたお客さん~」といって、これまた長髪の薄汚いバイトの兄ちゃんがお盆に乗せたご飯とおかずと汁を持ってくるのだった。そういえば中島は大衆食堂だったけど、ご飯につきもののお汁はすまし汁が多くて、味噌汁は朝か昼間の時しか出なかったような記憶がある。すましといっても薄い塩味のついた汁で、出汁は鰹節の10番出汁くらいでもろ化学調味料の味がして、具といえば素麺が4,5本浮いてるとか、金魚かフナが食べるような麩が浮いているくらいだった。あの汁はお替り自由だと聞いたが、僕が通っている間に汁のお替りをした人はいなかった。

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 その中島食堂だが、訪問した時は休業で定食屋というよりお弁当屋さんになっていたようだ。あそこで働いていた数多くの学生諸君はどこにいったのだろう。そして、確かR大学の学生だったと思うがちょっと背の低い、童顔のお兄ちゃんがいて、彼がいつも受付をしていた。中島で本名を名乗るのはおのぼりさん、あるいは粋が分からない野暮天という暗黙のルールがあって、そこでは佐藤さんと田中さんが仲良くサバ煮定食を食べていたり、関東弁を使う大橋君と関西弁ばりばりの藤本君が口角泡を飛ばしながら、レバニラ炒めにキムチをつけるかどうかで迷っているなどと言う光景が見られた。そういう訳のわからない客を相手に受付をしていたお兄ちゃんは、確か大学を留年してそのまま中島の社員になったと風のうわさで聞いたが、今はどうしているんだろう。もしかしたら、ビッグな経営者になって出世したかもしれんな、などと考えながらじっとわが手を見ていたら悲しくなってきた。ということで、河原町今出川まで出てきたが、ここから賀茂川を渡り出町の三角州を横目で見ながら、百万遍に進撃するのだが、すまん、もう眠くなってきたので続きはまた今度。

過去への旅路その3~想い出のフォトグラフ

 前回の話の続きを書いて行こうと思うのだが、このところ仕事が忙しくて文章を書いてアップする時間が無い。それでも、楽しみにしてくれている数少ない人たちを待たせるのもいかがなものかと考えていたら、いいことに気がついた。今はちょうど夏休み。夏休みと言えば絵日記。この前の旅行では8GBのSDカードにたっぷり写真を撮って来たので、今日はその中の一部を簡単なコメント付けて紹介したい。旅の初めからやってると大変なので、2日目の午後、地下鉄で今出川に着いたところからアップする。

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 およそ四半世紀ぶりのキャンパスはあちこちで工事をしていた、後日、職員になったK君から耐震補強と、新校舎建築の真っ最中だと聞いた。うーん、バブルやのう~。まさかアネハが構造設計していたとか、そういう疑惑は無いのか、このあたりD学生新聞の諸君はレポートしないのか、などと。

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 敷地内に入り、昔と変わらぬ猫の額ほどのキャンパスを歩く。心ある学生たちのたまり場、集会や大衆団交の晴れ舞台となった明徳館前、通称M前に来てみた。立看などどこにもないし、歩いている学生たちはみんなこざっぱりしている。しかし、ほとんど全員がスマートフォンを持っているのは何故だ。しかし、そのスマホ片手にさっそうと歩いているおねいさんたちの眩しいこと。これは決して太陽のせいではないと思う。今日、ママンが死んだのは太陽のせいだったと思うが。などと、やや錯乱してきたので、明徳館の地下の学生食堂あたりを冷やかしてみた。

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 なんだか、綺麗になっているのである。昔はもっと通路にいろいろなものが置いてあって狭かったと思う。気のせいか蛍光灯ももうちょっと薄暗かったかな。大学できちんと授業を受ける「ええとこの子」たちは、この通称M地下の学食でランチを食べていた。当然僕も何度か食べたことがあるが、僕は授業に出ない「あかん子」別名「いらん子」だったので、普段のシーメは学生会館の1階食堂で、金があるときはSランチ(スペッシャルちゅうこっちゃ)、無い時はBランチ(S>A>Bというランチヒエラルキーがあったのだ)。思い出した、大学に入ったばかりの頃、九州人だけ入居している下宿の人たちと一緒に御所で野球をして昼飯を食べにここに来たことがあった。生協の会員証を持っていなかったので定額で支払ったら、「アホやな、会員証くらい貸したのに」と言われ、「会員証の貸し借りとかしたらあかんのちゃいますの」などと口答えした。なんの、それからちょっとしたらサークルでしょっちゅう金の貸し借りをするのだから、人生一寸先は闇である。その時食べたメニューも思い出した。ラーメンと札幌ラーメンというダブルどんぶりであった。

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 食い意地がはってるせいか、今の学生がどんなものを食べているか気になって陳列台を見た。結構、普通の惣菜が多くてちょっと安心。もっとも昔のSランチとかAランチという呼び方は無くなって、普通の何とか定食みたいになっていた。学生会館の食堂もこういう単品おかず(味噌汁とかサラダとか冷奴とかそういうやつ)は、陳列台にたくさん置いてあって、学生はそこに食券を出して勝手におかずを取るというシステムだった。当然、すれた連中は食券など買わずに、勝手に味噌汁やら焼き魚とか好きなおかずを取るのだが、食堂の職員もバカではないので見張っている。ある時。「君、食券出して無いやろ」と言われて、「出したで、どこに目つけ取るんや」と答えると、「最近、出る品と入る食券の数が全然合わんから、今日はしっかり見張っとったんや。ちゃんと食券こうて取らんとあかんやないか」。「何言うとるねん、お前らオレ達を色眼鏡で見てるやろ。オレも男や、そんなせこいことせんわ」と言って危機を潜り抜けたが、今だから云おう。スマン、食券など買ってはおらんかった。しかし、さすがにそれ以降はちゃんと食券買うようにしたから、心を入れ替えたというお話。

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 いつまでも食い逃げもどきの話をしていてもしょうがないので、急いでキャンパスを出た。出たところは我らが心のオアシス、女子大の入り口である。この横断歩道を渡り、女子大の入り口から次の入り口まで、ざっと500メートルくらいを、通称「男の花道」という。学生だった頃、ここを通るたびに女子大のおねいさんや本学の女子学生たちのきゃぴきゃぴ言う声が聞こえたものだ。それなのに、ああそれなのに、眉間にしわを寄せて大学の移転問題がどうしたとかサークル運動は単なる同好会であってはならないとかロックは鑑賞する音楽ではないので、それを聴いてどういう行動をするかが大事なのだ、みたいなことを口から泡を飛ばしてしゃべったりしていたので、なかなかおねいさんたちと触れ合うというか出会う機会が無かった。今考えてもこれは自己批判せねばならないだろう。ちくしょー、しょうもない格好つけてた、当時のオレのバカヤロー!!!

 などと書いて行ったら、これまたキリも果てもないので今日はこの辺で。しかし、こういう絵日記もいろいろ思い出して面白いな。長々文章書くより、すっきりしていいんじゃないか、ね、ね、と同意を求める姑息なワタクシ。

過去への旅路その2~スィート・ホーム大阪

 今年の5月に初めて九州新幹線に乗った。鹿児島から熊本に行ったのだが、そのあまりの速さに驚いて腰を抜かしかけた話は以前書いた。新幹線は速い、とその時感じた。しかし、飛行機はもっと速いのだ。何しろ、南九州から大阪まで55分である。鹿児島から熊本まで新幹線で1時間。ところが宮崎から大阪まで飛行機だと55分なのである。うーん。空を飛ぶということはそれだけ凄いことなんだな、などと当たり前のことを考えながら空港の搭乗口にいた。今回利用する航空機は、つい先日一部上場企業となった、あそこである。随分前にはヤルパックとか農協御用達とか、ボロカスに言われたこともあるし、日本で初めてのハイジャックが行われた航空会社、っていい加減しつこいか(笑)。学生時代はほとんど全日空しか利用したことが無かったので、JALはずいぶん久しぶりである。そういえば、学生時代は東亜国内航空なんて飛行機の会社もあったが、どうなったんだろう。ドレミファ・エアとでも名前が変わったんだろうか。

 などということは、当然今この文章を打ちながら考えているわけで、大阪行きの飛行機を待ってる間は、ただひたすら外の景色、飛行機を整備している状況などを眺めていた。そうそう、搭乗手続きをしていた時に、突然妙齢のおねいさんに「こんにちは」と声をかけられドギマギした。僕一人だったら、そりゃもうあっという間にテイクアウトというか、ごちそうさまです、なのだが(見栄です、三重のアコヤガイです)、如何せんバカ娘2号と一緒なので、何食わぬ顔で、どこのどなた様でしょうかという顔をしていたら、「マイル貯めませんか?」などと言ってくる。マイル?マイルス・デイビスは好きだけど、オレは50年代の4部作の頃が一番好きで、まあクールの誕生もいいけど、スケッチ・オブ・スペインもいいけどな、などとズージャの話ではないのは、その営業スマイルを見れば一目瞭然。子連れでなければ、ティー・フォー・トゥーでフロム・ミー・トゥー・ユーのお話をしたかったが、父親の威厳をこういうときに見せねばと思い、「あ。必要ないから」と答えると、なんと相手は「えー、モッタイナイ、どうして、せっかくマイル貯まるのに」。いや、マイル貯まるかもしれんが、その前に金が続かんのじゃとシホン主義の悲しき現実を訴える元気もなく搭乗口に急いだという出来事があった。いや、それだけ、何の伏線もありません。しかし、その営業おねいさん、もう、やたら元気であちこちのツーリストに声をかけていたが、見方によっては夜のお店の呼び込みみたいであった。

 さて、飛行機に乗るのもずいぶん久しぶりではあるが、手順なんてものはそう変わってないだろうと思ったのは甘かった。恒例の手荷物検査と思想検査は相変わらずあって、マルクスの資本論を足元に置かれて、それを踏まないと飛行機に乗れないというのは例のハイジャック事件以降、我がポンニチの常識ではあるが、いや、ウソです。ウソ。こういうことを書くと真に受ける奴が、いるわけはないか。まあ、要するにポケットの中の鍵や、小銭入れ、携帯などを小さいかごに入れ、自分自身はなるべく金属物を身に付けずゲートをくぐると、若い頃は必ず鳴っていたピンポーンの音もせず、すんなり通った。すぐ後ろでピンポーンとなる音がするので、どこのどんくさい奴が止められたのかと振り返るとわが娘である。親の因果が子に報い、というフレーズが頭をよぎる。何度か私物を出したりして、ようやく通り抜けた娘は「いっつも、うちはあそこでひっかかる。てげ、むかつく」とごもっともな感想を言う。僕も学生時代に半袖Tシャツにジーンズ、サンダル履きでチャイムが鳴った時は激怒した。これはてっきり、どこか遠隔カメラで見ている当局者がいて、こいつはちょっと怪しいと思ったらボタンを押してチェックしているんじゃないかという疑惑は晴れなかった。

 まあ何だかんだあったが、ようやく搭乗口近辺で待機していると機内に案内するアナウンスが流れて、最初は子供と妊婦が優先で、その後は一般なのだが、以前は大き目のチケットを読み取りの機械に通して、出てくるときは小さな半券になってるという登場パターンだったが、今はバーコード読み取りである。なんでもかんでもバーコード、便利なんだか不便なんだか良く分からない。それでも、きちんと機内に案内され、飛行中にはジュースやスープのサービスもあり、僕は買ったばかりの文庫本を読んでいるうちに、大阪の上空であった。空から見る大阪は広くて大きかった。あちこちにビルや行きかう車があって、当たり前だが、そのひとつひとつに人の生活の匂いがある。大阪のこういう景色を見るのは久しぶりだと思う間もなく、機体は大きく傾斜して着陸の体勢に入った。ドスンという音と大きな振動がして、飛行機は無事伊丹空港に到着した。

 伊丹でバカ娘2号と分かれ、僕は高速バス乗り場に向かった。本日は淀屋橋のホテルを予約しているので、早めにチェックインして英気を養い、先ずは本日の宴に万全を期すつもりでいた。バス乗り場に出てみると、モノレールが見えた。昔はこんなの無かったよな、などとぼんやり考えていると、梅田行きのバス到着。梅田行きも行先がいくつかあって、ちょうど来たのは丸ビル行きだったが、まあ目的地は淀屋橋なのでとにかく梅田から地下鉄に乗ればいいと簡単に考えていた。高速バスも速い。30分足らずで丸ビルの前に到着。バスから降りたら、物凄い熱気であった。良く考えてみたら空港、機内、高速バス内とエアコンに当たりっぱなしで、外気を本格的に感じたのはこの時が最初。そういえば、機内のアナウンスで大阪の気温は35度と言っていたが、何故に南国から来たオレがこういう熱気というか熱波に悩まされるのだとぼやきながら地下鉄乗り場に向かう。そのとき、視線のどこかに「タワーレコード」の文字が見えた。

 人間、習慣というものは恐ろしいもので、僕は何も考えずにその看板の指す地下の店に入った。タワーレコードの梅田店であった。お店が二手に分かれているようだったが、日本のロック関係のコーナーをちらちら冷やかす。左とん平の「ヘイ・ユウブルース」が平積みされているのを見て、流石は大阪、オレは「大阪へやって来た」とつくづく感じる。しかし、荷物は重いしお腹はすくし、とにかく早くホテルに入ろうと地下鉄乗り場に移動。1駅で淀屋橋に着いた。まあ、ここまでは想定内というか、昔の土地勘でノープロブレムであった。しかし、淀屋橋11号出口を出た僕は、地図を逆に見てしまい炎天下ホテルを求めて20分、ひたすら歩いて、もうだめだ、汗はだらだら喉はからから、ひとすじのパイプラインが海へ海へと果て無く続く幻想を見かけたときに、かすかに揺らぐコンビナートを見る代わりに、地図を見直したら「淀屋橋11番出口から2分」という文字が見えた。2分、こっちは20分以上さまよっているんじゃボケ、舐めとるんか、と思い切りののしりたかったが、ふと、オレ地図を反対に見ているんじゃないかという考えが浮かび、ええい、もう騙されたつもりでもう一度地下鉄の出口に戻れと歩みを変えた。地下鉄の11番出口に立ち左を見た。目指すホテルの看板があった。確かにそこから2分でホテルに着いた。こういうときに粗忽者は困るのだ。

 ホテルはマス坊が選んでくれたアパホテルであった。結構大きなホテルで、入ると空調がしっかり利いていた。フロントには、まだ午後の3時だというのに人の列が出来ていた。順番を待って、予約番号を言うと何やらカードをくれた。ルームキーになるものと、メンバーズカードのようだ。ルームキーはともかく、メンバーズカードなんかいらないのだが、くれるものを断るのも波風が立つ。ありがたく受け取ると、今度はノンアルコールビールの無料交換券をくれた。これもありがたく受け取る。お金を払おうとすると、それは向こうの機械でやるように言われる。今、ここで客と話をして、こちらも名前や住所をカードに書いたわけだから、本人確認は十分だろう。お金もその場で受け取って領収出せばいいのにと思いながらも、そういうシステムならしょうがない。その2台並んでいる機械の所に移動した。ちょっと嫌な予感がしたのは、僕の前にその機械で手続きをしていた人が、何度も首をかしげて、挙句の果てはスタッフを読んで手続きをしてもらっていたのを見たせいだろう。まあ、どこかの田舎モンがタッチパネルの使い方も分からず腰を抜かしているんだろうと鼻先でせせら笑った僕が悪かった。

 何度やっても駄目なのだ。最初に「精算」「チェックイン」「チェックアウト」と3択が画面に出るので、当然「チェックイン」にタッチ。♪誰もかれもが知らんぷりして、僕をふんづけたりなんか~して、などとお気楽にP-Modelなんぞ歌っている場合ではなかった。画面は「カードを入れろ」となるので、先ほどもらったメンバーズカードを入れるとすぐ戻ってきた。おいおい、オレも粗忽だな、磁気の部分がさかさまだろう。これじゃ機械は読み取れないよ、はい、こちら向きね。うん、入った。それで、と、あれ、エラー。なんでエラーじゃ、お、こら、ま、汗でも着いていて読み取れなかったのかな。じゃ、最初から、ええと「チェックイン」「カード」入った、え、またエラー。今度は何やらエラーコードの紙が出てきたけど、なになに「スタッフを呼べ」。バカヤロー。誰にモノ言ってるんでぇ。さっき金を払うと云ったら拒否したのは、おまえんとこのシステムやんけ、ボケェ。今更スタッフなんて呼べるかボケ。もうええわ、お前は遊んどれ、隣の機械でやるわ。ええと、「チェックイン」、「カード」、入った、入ったけどまたエラーや。カードの向きも間違ってないし、どないしょ。後ろに別の客も来た、こら、あかんな、しかし、さっきからオレが悪戦苦闘しているのを、フロントのねーちゃんたちは気がついてないのか、え、接客は四方八方に気を配るのが基本だろうが、「お客様、何かお困りでしょうか」ぐらいいえんのか、ボケ、こら、ええ加減にさらせよ。人を九州の田舎モンやと思ってたら承知せんぞ、承知せんけど、これどないしたらええねん。ねーちゃん、ねーちゃん、これ機械が壊れてるで~。

 結論でございます。そもそも最初が間違っていた。先ずは「精算」そして挿入するカードはルームキーのカードでした。そうすると「朝飯予約しとらんけど、ほんまにええんか、うちのめしは旨いで、たったの1260円や、けちけちせんと買うとき」みたいなメッセージが出て、当然スルーするとまた「なんやらかんやらいらんか」みたいな質問があり、これもスルーするとようやく精算金額というか、とりあえず1泊分の金額が明示され、トラの子の札を入れると、するすると吸い込んでいき釣りと領収を出しよった。しかし、良い恥をかいた。というか、そういう意味での経営合理化はいかがなものか。宿泊業はたしかに部屋の質であるとか、目に見えるサービスで決まる部分はあるが、本来もてなしというのは無形のものだろ。客と宿人の心と心の触れ合いが無くなってしまったら、将来ないぞ。心が亡くなると書いて「忙しい」と読むのや、ゼニの花は白い。などと最後はもう混乱して花登コバコの世界へワープしたが、いや良い経験しました。

 さて、それから部屋に入り、そこに何故か2人分の浴衣が折鶴と一緒にベッドの上にあり、あらぬ妄想をしていたのだが、そんなことより先ずはシャワーで汗を流し、腹も減ったので、何か食べようとホテルの周辺をうろつきセルフサービスのうどん店に入った。つるまるうどんという店だったが、そこもシステムが良く分からず、冷やしぶっかけうどんを注文したのはいいが、レジで金を払おうとしても店員が反応しない。おかしいなと思って、それでもレジの所に居たら、店員から今うどんを茹でている店員の所に行けと言われる。しょうがないので、そちらに進んだらお盆があり、なるほどここにうどんのどんぶりを置いて、さまざまなトッピングを選んで最後にレジで代金を支払う訳か。うーむ、これはコンビニやドラッグストアなんかでレジの近くにガムやフリスクとかちょっとしたものを置いてついでに買わそうという浪速アキンドの商法だな、ちょこざいな、薩摩剣士隼人が成敗してくれるわ、などと考えながら食べたが、結構おいしかったので満足した。

 ホテルに戻って、ベッドに寝そべりテレビを見ていたら、突然ものすごい音がした。一体何かと思って見ると、電話が、ホテルについている電話が鳴っている。なんだなんだと思って受話器を取ると懐かしい声で「drac-obはんでっか。O崎です、今ホテル着きました」。おお、ブルースの鬼マス坊ではないか。そうか、彼も今日はこのホテルにチェックインする予定だった。ということは、これからしばらくは道に迷ったりすることは無いと安心した。しかし、実はマス坊も、このホテルのチェックインの仕方が分からず、全部スタッフにさせたというのを聞いて、僕はやや不安が。大丈夫だろうか、オレはこの先無事に京都まで行けるのだろうかと言いうささやかな疑問が湧いてきたことを、正直に告白しておく。ということで、このお話の続きは次回に。



過去への旅路その1~京都慕情

 もっと早く行くべきだった。行って、確かめて、自分の過去に区切りをつけておくべきだったとつくづく思う。今回の小旅行は自分の中の幻想が明確に否定され、そして別の新たなる幻想を生み出した4日間だった。などとらしくないイントロですが、ご存じ毎度毎度のバカ話。しかし、27年ぶりの京都は僕に対して妙によそよそしく、それでも最後に少し笑ってくれたような気がする。きゃー、なんかキザというか青春という感じがしないでもないけど、とりあえず『過去への旅路』の総括を行ってみよう。

 きっかけは、実にひょんなことだった。もっとも伏線はあったのだ。ひとつは、拙blogに突然サークルの後輩だったマス坊がメールしてきたこと。彼がDRACでググったら最初は妙なblogに当たったらしいが、それにもめげずに検索していったら僕のblogにたどり着いた。僕が誰だか分かったのは「ブルースの鬼マス坊」とか「タケノコの話」などのエピソードを読んで、これはあの6回生だったdrac-obハンに間違いないと確信してメールをくれたそうだ。それ以来、普段のちょっとしたことをメールでやりとりしたり、FBに僕が誘ったりして交流を深めていたのだが、あるとき突然彼から『マーマレード持ってます』と連絡があった。僕が大学時代にやっていたミニコミだが、僕自身も実家のどこかにしまいこんでしまい、かれこれ四半世紀は見ていないものだった。てっきり一番最初の創刊準備号だけ持っているんだろう(要するに、創刊準備号はまだ誰にも認知されていないわけだから、身内に無理やり売りつけるしかなかった)、と思い軽い気持ちで「ついでのときに郵送かデータで送ってくれ」と頼んだら、なんと全巻、といっても4冊だが、それでもコピーして郵送してくれたそのブツはちょっとした厚みがあった。

 読み返してみると、青臭い理屈ばかりのミニコミではあるが、自分自身の基本的な考え方は今とほとんど変わっていないことに気がついた。また一緒にやっていた1学年下の松原健君が今は彼岸の人ではあるが、彼の連載していた『日本のロックを追って』というシリーズは実に良くできているし、彼のことを何とか記録に残したいと考え、しばらく拙blogに連続してアップした。その時から(いや彼が亡くなったことを知ってからずっと思っていたのだが)、彼の自宅に行って線香をあげたいという気持ちが強くなった。

 それでも、最終的に今回の旅行を決断したのはバカ娘2号の大阪旅行がきっかけである。今年短大に入学し、以前にもましてアルバイトを連日やっていると思ったら、夏休みに大阪に旅行するつもりでお金を貯めていたのだ。本人が自分で稼いだお金で行くわけだから、親としても全然問題なかったが、唯一心配したのは彼女がとんでもない方向音痴だという点。それでも、それほど気にしていなかったが夏休みが近づいてきたときに、当然飛行機で大阪に行くものだと思って、チケットの予約をしたか聞いてみたら「飛行機は高いからフェリーで行く。フェリーやったら5000円で行けるっちゃわ~」などと能天気なことを言う。「お前、フェリーって、港に着いた後どうやって目的地に行くか分かるのか?」と尋ねると「アイフォン持ってるから大丈夫」などとお気楽なことをいう。「はぁ、アイフォン?お前は地図が読めんだろうが、アイフォンあっても宝の持ち腐れやないか」というと「なら、お父が連れて行ってくれるとね」などというので、売り言葉に買い言葉ではないが、娘の大阪行きの案内というか同行という名目で、何十年ぶりかの京都旅行、過去への旅路に出るのもいいのではないかと閃いた。

 もっとも、思い立つのは簡単だが仕事を休まないといけないので、そのあたり周到に根回しをして金曜と月曜に休みを調整し、都合3泊4日のスケジュールは押さえた。次は、M作戦というか軍資金の確保である。幸い、これまで耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、こつこつ貯めたsecret savings、つまりヘソクリというやつがあった。まあ、そんなに贅沢しなければ何とかなるだろうと目鼻がついたので、先ずは格安航空券の手配を行った。普段から『Webはバカと暇人のもの』を座右の銘にしているワタクシではあるが、こういうときはWebが便利である。伊丹空港までの往復チケットの見積を数社依頼して、返事を待った。問い合わせをした翌日には、それぞれの会社からメールで回答が来たが、しかし同じルートの同じ航空会社のチケットなのに、それぞれ単価が異なる。まあ、それはいいのだが、返事のメールの文面も全く機械的にこちらの質問に対する答えだけ送ってきた会社が1社、もう1社は「これ以外、どこに尋ねても空席は無いぞ。申し込みなら1日でも早くせんと間に合わんぞ」と、およそこれが客に対する回答かと思いたくなるような会社が1社。最後の1社は担当者のフルネーム入りで丁寧な回答だったので、当然そこに申し込んだ。

 次はホテルの予約である。以前、熊本に旅行した際にじゃらんで検索したら、普段は1万以上するホテルが、ネットの予約で5千円を切る金額で泊まることが出来たので、そりゃあなた、柳の下のドジョウをねらうのは人の子として当たり前だのクラッカーである。しかし、まあ、京都のホテルというのはいろいろあるもので、当然こちらは貧乏旅行なので格安ホテルを探していたのだが、迷いましたね。もっとも、この迷いは楽しかった。ほうほう、ここは四条河原町のすぐ近くか、じゃ飯はあそこで食べて、十字屋でCD物色して錦小路でお土産買って、とか、うーん、温泉大浴場は魅力だよな、旅の疲れと汗を温泉で流してこざっぱりして浴衣でぶらり、縄のれんをくぐると『あらお兄さん、おひとり?』などと中年増が声をかけてきて、いや、その、思い切ってプールのあるホテルで昼の暑い時は泳いで、プールサイドでオイチョカブやったろか(これ、今は亡き塩次伸二大先輩が高野のホリデイ・インで実際にやっていたらしい、オイチョでもう1枚引くという鬼の勝負をしていたとサーカスのバイトから聞いた)、などと妄想していると3時間4時間はあっという間に過ぎて、もう目はしょぼしょぼ。などという日が何日か続いた。

 さらに並行して、昔の友人、先輩、後輩にメールや電話をしまくった。我が家では僕は友達がいない人間とバカ娘たちから位置づけられているが、何、ひと声かければ500人の隊列が、なんてのは大嘘だが、それでも結構あちこちに連絡してるのを見て、姉妹二人で「お父も友達がおったっちゃね~」「宮崎にはおらんけどね~」「まあ、でもよかったわ」などと勝手な会話をしていたのを僕は聞き逃していない。もっとも、今回の旅行で最優先したかったのは松原君の実家訪問だったので、それを案内してくれるデューク先輩と何度かメールをやり取りするのだが、何しろ相手のあることだし、先方の都合が良くてもデューク先輩の都合がつかないとにっちもさっちもどうにもブルドッグ(by 四葉)なので、このあたりはなるようにしかならない。一応、目安としては土曜日か日曜日の午前中に行けるのではないかという結論になった。フェイスブックのDRACのwallにも、僕の上方登場はどうなったかという質問が出て、とりあえず27日から3泊4日で京都大阪方面に登場すると返事を書いたら、それじゃ一緒に呑みましょうという嬉しいお誘いもあり、中にはWebでしかやり取りしたことのない、学年で言うと10年以上離れているT花君とかS田君なんかからもお誘いを受けた。

 最終的に決まったスケジュールは、27日の夜に大阪は淀屋橋で元DRACの後輩諸君と会食。参加メンバーは77年度生のマス坊、78年度生のネルシャツO畑君、79年度生のsugarmountain君、80年度生の反動F田君(これは本日の彼の行動でワタクシが独断で付けたニックネーム)、そしてフェイスブックでDRACのグループを組織した86年度生のT花君と、こりゃまあ見事に男ばかり。うーん、これもオレの人徳か(苦笑)。そして28日午前中にデューク先輩に案内していただき松原君の実家に訪問。そしてそのままお昼には、数少ない同級生のHさん、あ、今回唯一登場する女性、と元ボーリョク学生の同級生N谷君、あとはマス坊もちろんデューク先輩と合計5人でランチ。そのまま京都に移動して、今出川キャンパスをブイブイ言わせて、出町、百万遍あたりを散策し、夜は87年度生のS田君も交えて会食。

 日曜日になる29日は、D大の職員になったK君の案内で元学生会館跡のレストランでランチ。これは抵抗有ったんだよね。なんといっても僕たちの根城であった場所に大学当局が建てたレストランで飯を食うのは嫌だ、出来れば明徳館の学生食堂で今の学生諸君と同じ飯を食いたいとも考えたが、まあこういう機会はめったにないしK君も職員としていろいろ大変な経験をしてきていることだし、元ボーリョク学生のN谷君と大学当局のK君も交えた鼎談というのは、必ず収穫があると思ったわけよ。そして、なんとこのランチのあとは田辺町キャンパスまで足を運ぶことになったんだが、それはまた改めて話をしたい。そして最終日の30日は、僕の学生生活のスタートになった修学院を散策するという6年間の僕の京都での生活をほぼ2日半で網羅しようという無謀な計画だった。

 さて、例によって前説ばかりが長くなったが、いよいよ当日になった。荷物をショルダーバッグに詰めて、子供と一緒に空港に着いた。今回の航空券はチケットではなく、受付番号をもらって、それを搭乗手続きの機械に入力するか、窓口で受付するかというやりかたなので、早めに空港に着いたがそれでも座席指定して、荷物を預けて出発までには1時間以上あいだがある。一人だったら焼酎の試飲コーナーあたりに行って、手当たり次第タダ酒呑むか、場合によっては売店で生ビールを買って地鶏なんかをつまみにちびちびやるのだが、さすがにバカ娘にそういう姿を見られると配偶者にチクられて、ただでさえ低い僕の家庭内地位がますます落ちて行き、我が家のカーストで最下位になる可能性があるので、じっと我慢した。しかし、今考えてみると、もともとオレの家庭内カーストは最下層であるから、いまさらそんなもん見栄張ってもしょうがなかった。ま、いいか。それで、時間つぶしに文庫本のコーナーをざっと見ていたら、『つぶやき岩の秘密』という単語が飛び込んできた。

 新田次郎の多分、唯一の児童文学作品だと思うが、この『つぶやき岩の秘密』はNHKの少年ドラマシリーズの中でも特別に印象に残っている作品だ。少し暗い話になるが、以前うつで働くことが出来ず、苦しんでいた時に突然脳裏にひらめいて調べたところ、県立図書館の書庫に1冊在庫があると分かり借りて読んだ。テレビドラマと若干ストーリーが異なっていたが、「紫郎はなにかひとりで考えながら海岸を歩くことが好きだった。」という最初の部分から一気に話に引き込まれ、読み終えた後の充実感は、たぶんうつが少し良くなっていった時期と重なっていたんだと思う。しかしすでに絶版になっていたので、ワードで一生懸命入力してデータにした。さらにはNHKのオンラインショッピングでDVDを入手して、何度も繰り返してみた。音楽は石川セリで「遠い海の記憶」という名曲が使われていた。その曲が収録されている『ときどき私は......』といいうアルバムは、学生時代のあこがれの先輩女性のアパートで聴かせてもらった。ラストに「遠い海の記憶」が流れてきたときに思わず「つぶやき岩の秘密だ」と叫んで、回りにいた人たちをびっくりさせたことがあった。

 その名作が文庫で復活していたわけだ。こりゃ、僕の過去への旅路は幸先良いぞと思いつつ搭乗口に向かうのであった。



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