若松監督の三部作



今、見終わった。三島の映画というより、森田必勝の映画だった。前作で主演していた寺島しのぶが三島の奥さん役で、ラスト前に「何にも変わらなかった」というところと、生き残った隊員が、奥さんからの問いに黙って両手を見せるラストシーンがよかった。板橋のピアノも悲しげで印象的だった。

ところで、前作の『キャタラー』は見逃してるので、DVDを探してみるか。

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マーマレード興亡史 松原健遺稿集その3

 松原君の『日本のロック・アルバムを追って』シリーズもついに3回目。つまり、マーマレードも無事3号目が世に出されたというわけである。取り扱ってくれるところも、大阪はプレイガイドジャーナル社、マントヒヒ(ミナミ)、NOW(梅田)、アンクル(茨木)、京都ではJAM HOUSE、聖家族、磔磔、ミッキーハウス、DUSTBIN DAN、カントリーコンフォート、RENOMA(僕の行きつけだった喫茶店)、ニコニコ亭、空、どらっぐすとあ、拾得と少しずつだが販路を開拓していき、ついに今号では読者からの投稿もあり新たにスタッフに参加するなどの動きも出てきた。また京都でライブを企画しているいろんな団体や個人とのネットワークも出来始めて、今回のパンタのインタビューはそういう関係の中から生まれた。

 僕自身はこの時と、その2年後の2回パンタにインタビューしたのだが、その時点ではもうマーマレードは無くなっていて、えーと、雑誌の名前は出してもいいか『サイレント・エイジ(Silent Ageという英語表記だったと思う)』というミニコミのスタッフとしてインタビューに参加した。パンタはリップサービスだと思うが僕に向かって、「前にインタビューしてくれたよね。その時と雑誌の名前が違っているけど、どうしたの」などと言ってくれて、いたく感激したものだ。おっと、僕の話はどうでもいい。松原君と一緒にサーカス&サーカスのライブが終わった後のパンタにインタビューして、それをもとに彼が書いた原稿である。え、原稿?インタビューじゃないの、と尋ねるあなたは鋭い。何故これがインタビューではなくレビュースタイルの原稿になっているか、ちゃんと最後に説明があるので、じっくり読んでね。

シリーズ 日本のロック・アルバムを追って その3
『パンタックス・ワールド』によせる間違いだらけの歌

パンタ

 最初にことわっておくが、パンタっていうのは「パンダフル・ハウス」などという、アホらしいのを通り越して微笑ましくさえある名前のバンドを率いてはしゃいでいる、どこやらの心情右翼とは別人である。

 このアルバム『パンタックス・ワールド』は、あのあまりにも鮮烈だったロック・バンド、頭脳警察の解散後、ソロ活動を始めた元ヴォーカル&ギターのパンタの第一作目のレコードである。バック・アップ・ミュージシャンは東京・関西の腕利きプレイヤーばかりでギターには我らがカントリー・ボーイ、どんぶりくん(※drac-ob注:マーマレードの執筆スタッフ、ほっぺたが真っ赤で純朴な九州男児を装っていたが、意外と陰獣的なところもあった、笑、ごめんなK木君)と同じ九州は大牟田出身・京都在住の塩次伸二や今をときめく竹中“チャ―”尚人なども参加している。だが、云うまでもなくこのアルバムは絶対にパンタ自身のアルバム以外の何ものでもないし、豪華なセッション・メンバーによる圧倒的なハード・サウンドに乗って、彼は僕らに向かって「毒」のある言葉を吐き続けるのである。それもポップな親しみやすさを狡猾にまとい、より知能犯的に、より確信に満ちて。

 アルバムの作詞、作曲者のクレジットは全て「中村治雄」となっているが、これは知る人ぞ知るパンタの本名である。そして、頭脳警察時代のクレジットが全て”Pantaxs’ World”となっていたことを併せ考えるなら、ここらあたりにこのアルバム『パンタックス・ワールド』の主要コンセプトを理解するカギがあると云えそうだ。

 即ち、彼の抽象化された観念世界である”Pantaxs’ World”を通して描かれてきたのが頭脳警察の音楽であったのに対し、今や肉体的現実としての「中村治雄」が現象化し彼自身の存在証明として『パンタックス・ワールド』との同一性を獲得する。それは同時に一つの訣別であり、方向への意志でもある。そして、この国のロックが自らの表現を持つだけでなく、それを取り巻く情況を切開してゆく力量を持たねばならないものなのだとしたら、このアルバムはその意味でははじめて真にロックたり得たものだと云えるだろう。

 どういうわけか、アルバムのA面はニニ・ロッソ風のトランペットとともに幕を開ける。だが、サウンドは「ワン・ツー・スリー・フォー!」の叫びとともに怒涛のようなハードロックに変わる。俺が君になり、君が俺になるとき、二人は猫になり、また屋根の上へ、とうたわれるこの「屋根の上の猫」はまさに真の意味でのハード・ロック・ナンバーである。言葉がナイフになって僕らの肉体に直接突き刺さってくる。彼は、僕らは独りであるそのことによって決して独りではないのだ、とでも云いたげだ。



 「屋根の上の猫」の衝撃力はバラードの「Excuse You」や「明日天気になれ」、珍しいスロー・ブルーズの「青い烏のブルース」などをはさみながら、「三文役者」「ロックもどき」、そして9分22秒の対策「マーラーズ・パーラー」へと持続していく。

 僕は彼のスロー・ナンバーやラブ・ソングを決して否定するのではないし、古くは「さようなら世界夫人よ」「光り輝く少女よ」から最近の「やかましい俺のROCKめ」や「夜明けはまだ」までの一連の曲を愛するものであるが、このアルバムに関しては、そのような傾向のものに若干のアレンジの行き過ぎなどもあって、ハード・ナンバーの方が圧倒的に勝っているようだ。こう云うと実に無責任な云い方になってしまうが、それでも彼の曲は全て普遍的な意味でのラブ・ソングであることには変わりはないだろう。実際、僕らに大きなインパクトを与えてくれるアーティストはいつもラブ・ソングしかうたわなかったのである。

 ここで頭脳警察について少し書いておきたい。今更、彼らのことについて口を開くのは時代錯誤もはなはだしいかもしれないが、何故、彼らが単なる「過激派」バンドや破廉恥バンドに終わることがなかったのだろうか(未だにそのように考えているバカは無視している)。

 先に「心情右翼」という言葉を使ったが、僕は何も頭脳警察やパンタが左翼で、だからいいのだ、などといった愚にもつかぬ議論を行なおうとしているのではない。

 たとえば、「世界は一家、人類は皆兄弟」という言葉があるが、これはそれ自体としては非常にいい言葉であり、僕なども常々座右の銘にしたいと思っているくらい好きな言葉なのだが、ただ、その言葉を発することによってあたかも現実に、現在「世界は一家」であり「人類は皆兄弟」であるかのように扱われるとき問題が生じる。「右翼」とはそのようにして、自らが置かれている立場も状況も省みようとしない人間の心のあり方のことなのである。

 頭脳警察に置いてパンタは一貫して「政治とは無関係に、純粋な意味で僕らはミュージシャンだ」と云ってきたし、トシも解散後「俺達は右でも左でもない、うたいたいことを素直にうたっただけだ」と証言している。勿論彼らは自らの現実を見つめ、自己の真にあるべき姿を問うことによって演奏し続けてきたのだし、それがもし「左翼」と呼ばれ「過激派」と呼ばれるのだとしたら、これは一体どういうことなのか、賢明な人達にはおのずと知れることである。フラワー・トラベリン・バンドの「サトリ・パートⅡ」の中のフレーズをもじるなら、『There is no right or left. Your Truth is the only Master…』ということなのであり、この意味でこそ、頭脳警察は素晴らしいバンドであったのだ。

 だが、彼らのラスト・アルバム『悪たれ小僧』のラスト・ナンバー、「あばよ東京」で表出されたものが、彼ら自身の一つの答えであり、それ故彼らの弱さであったとするなら、即ち、自己の抽象的過程への一面化が、肉体的現実から自らを引き裂き、それが「拒絶」という形態をとることを余儀なくしたのだとしたら、彼らの解散もそのための「必然」だったのかもしれない。

 そして、あたかもそれに対応するかのように、この『パンタックス・ワールド』のラスト・ナンバー「マーラーズ・パーラー」においては、まさにそのような自己との抽象観念と肉体とが、不断に移りゆく生の過程を媒介にして緊密に結びついてゆくのである。この歌は日本のロックの「新たなる夜明け」を告げる歌なのであり、たどり着いた地平としてはゼップの「アキレス・ラスト・スタンド」をもはるかにしのぐ名曲なのである。



 ボードレールの『悪の華』と並ぶ悪の教典であるロートレアモンの「マルドロールの歌」の中の、有名な「コーモリ傘とミシンの手術台のうえの不意の出逢い」の詩句を織り込みながら始まるこの歌もまた、かつての多くの歌と同じようにいくつかの箇所で歌詞の修「正」を余儀なくされた。たとえば「彼女が逆立ち中ピ連」「ILOの言い訳さ」「中朝ゲラゲラ腹を抱えて」「そそくさ逃げ出したKCIA」などがそうである。

 個々の歌詞自体は非常に難解で、何の脈絡もないかのようにみえるが、実はこれらの言葉によって彼は僕ら自身を取り巻く現代の混沌情況を描いているのではないだろうか。そして、そのような世界の片隅の夜に毒された路地裏に、腐りかけた愛を見つけたとき、彼は雨に満たされた軒先で星がはじけ飛んだあと信じるのである。この「腐りかけた愛」というのがなんなのかは知らない。だが、それはおそらく僕らの一人一人が違った場所で、違った方法で見つけてゆかねばならないものなのだという気がする。が、ともあれ、ここに彼はこれまでついに見出すことのなかった「だから、ロック」という地平に到達するのである。

 ロックとは確信であり、意志であり、ロックとは世界であり、僕ら自身である。従って、それは僕らを取り巻く虚構としての「世界」にとっては「毒」になる。階段の下でふるえていたねずみが明日を見つめるように、時の流れに身をまかせながら今日も街を徘徊するとき、やはり僕らの合言葉も「ロック」でなければならないだろう。正面きっての「反抗」が無効だと云うのなら、僕らは日常生活に「毒」をふりまき続けよう。いや、「毒」そのものになろう。そして、やがて世界が僕らの「毒」に満たされるとき、それはもはや「毒」ではなくなるのだから。

 たとえば、加川良が「うたは世につれ風まかせ、コンコンうたうは狐か狸」と開き直り、大塚まさじが「くたばってもいい、死んでもいい、僕の血が言葉となっていまあを時代をうたうなら」と盲信するとき、それはやはり「フォークの理論」でしかない。だが、彼、パンタの場合、時代をうたったくらいのことで、くたばったり死んだりはしない。何故なら、僕らは生まれたまま、そのままで既に「時代」そのものなのだし、彼はまさにその「時代」を自らの手で新たにすることによって、何が何でも生きてゆかんと意志するのである。

 何れにせよ、「マーラーズ・パーラー」、この決意の歌は彼の、そして日本のロックの一大到達点であるだけでなく、新たなる闘争開始宣言なのである。これ以降の「ガラスの都会」や「走れ熱いなら」「人間もどき」などはどちらかと云えば外向的な歌であるが、以前のものとは明白に異質に響くのは、彼が彼の「ロック」に確実に依拠しているからであろう。そして、彼と新しいバンドHALが今後も更なる邪悪さをもって、世界の「昼」を脅かし続けるだろうことを僕は疑わないし、それは僕自身の内なる「ロック」を信じてゆくことでもあるのだ。

 攪拌者として彼は「世界」を切り裂く。僕らの未来はその傷口から、まるでうみのように、拡がってゆくのである。

―お詫び―
 4月23日(※1978年)、僕らは銀閣寺サーカス&サーカスで2時間にわたってパンタにインタビューを行ない、今回それを掲載の予定でしたが、ミニコミ「屋根の上の猫」(※註1)編集長のチョンボでテープが消されてしまいました。疲れているのに快く僕らの要望に応じてくれたパンタとマネージャーさん、申し訳ありません。読者の皆さん、申し訳ありません。

 尚、この僕の文は非力ながら僕なりにパンタとの会見を踏まえて書いたものです。




 ※註1~「屋根の上の猫」という、もうストレートそのもののミニコミをやっていたのが、浜さんという女性。明るくて快活でとてもロックなどに命を懸けているようには見えないのだが、関西ロックを聴く「ねこの会」というものを組織していて人脈も広かった。もともとこの時のインタビューは浜さんがネゴして許可を取ったのだが、自分だけでは不安があるからと松原君を誘い、松原君は僕を誘い、結果的にはマーマレードの単独インタビューみたいになったのだが、好事魔多し。その時のインタビューテープを浜さんがじっくり聴きたいからと家に持ち帰り、なんと、当時テレビで放映していた『ムーミン』をその上に録音してしまったのだ。カセットの爪を折っておくとかダビングしておくなどの知恵がまだなかった頃の話だ。このパンタフェイドアウト、ムーミンフェイドイン事件は、あまりのことに僕たちは脱力して怒る気にもなれなかった。この時のマーマレードはパンタ宛に送ったはずだが、さすがにムーミンを録音したから消えたとは松原君も書けなかったんだろう。

 この時のパンタとのインタビューは初めてだったこともあり、とても興奮していてどんな話をしたか、良く覚えていない。印象的だったのは、2時間のライブの後だというのに煙草(セブンスターだった)を立て続けに、吸いながら誠実に答えてくれたこと。僕と松原は当然アルコールが入っていたが、パンタは全然飲めないということも初めて知った。そうそう、当時のパンタのマネージャーだった石井さんに最初あいさつしたのだが、名刺をもらって驚いた。僕のイメージでロックと名刺って、全然畑違いだと思っていたのだ。それと、この時の写真は編集長のMilk氏が撮ったと思うが、なかなかに良く撮れていた。特にトップに飾ったマイクを横向きに持つパンタの顔は迫力があって松原も気に入っていた。しかし、思い出すな、いろんなこと…。

マーマレード興亡史 松原健遺稿集その2

 前回、マーマレードの創刊準備号、つまり記念すべき処女航海の第1号に掲載された松原君の『シリーズ・日本のロック・アルバムを追って その1 村八分』をアップしたところ、同時代に彼と付き合いのあった先輩のデューク中島氏と彼と一緒の隊列を組んでいたguevara129さんのお二人から、僕も知らなかった彼のエピソードをコメントで頂いた。そのほかにも拍手でシンパシーを示してくれた人たちがいて、実にうれしかった。本日は、第2弾をアップします。その前にお詫びと訂正。前回の記事の最後に、次回登場するのは「漢字四文字」のあのバンドと予告しましたが、それはまだ先で、本日は何と意外な豊田勇造です。この原稿を書いていた頃、松原君は北白川の伊藤荘という下宿に住んでいました。木造2階建ての下宿で京大生と同大生が半々くらい、確か20人近く入居していたと思います。その伊藤荘に拙blogによく登場するF田敏雄君とS戸君という2人の人間がいるのですが、そのうちの1人であるS戸君が、今回の豊田勇造に外見がそっくり。これは僕達だけではなく、あの中山ラビもS戸君と豊田勇造を間違えたというウソのような本当の話もあります。多分、この原稿を書いていて行き詰った時はS戸君の部屋に行き、彼の顔を見ながら再度気合を入れなおしていたのでは、と勝手に想像しています。それではどうぞ。

シリーズ・日本のロック・アルバムを追って その2
『さあ、もういっぺん』 豊田 勇造

 ジャケットがいい。このアルバムの主役である勇造が暗闇の中で斜め下方30°を見つめている横顔のアップである。『民青』や『自衛隊』なんかのポスターで、りりしい若者がまるで『希望の明日』を見つめるといったふうに彼方の大空を眺めているのとは雲泥の差である。これは即ち『これからもっと寂しくなるだろう』とうたう彼の現実に対する認識そのものなのであり、『60年代』という一つの時代を自己との関わり合いにおいて真摯に生き抜いてきた彼の現在の姿勢なのである。そして、たとえ直体験としての『60年代』を持たぬとしても、彼とその時代を共有することによって『今』を、そしてこれからの『未来』をともに生きようとする意志のない者は彼の歌など聴かなくてもよいし、僕のこの文章も読まなくてもよい。

 豊田勇造、彼は世間一般にはフォークあるいはブルース・シンガーとして評価されている。そして、生ギター中心に淡々とうたわれているフォークという音楽形態は、その表現が表現者自身に対して保守的である、とはロックの側からしばしばされる批判である。確かにそれは正しいし、うたの『肉体』としてのサウンドを持たぬフォークの本質的な脆弱性といったものは、かつての反戦派フォークシンガーの多くが運動の退潮とともに反動的とも云える転換を行ない、四畳半フォークや短絡的な自然回帰へと堕してしまったことでも証明済みである。

 だが、同じようにフォーク・ゲリラなどの活動を経て、今、『俺の牢獄がギターなら…』と敢えてうたう勇造の場合、それは当てはまらない。彼のステージの圧倒的な迫力や歌詞とメロディーとギターの音との相乗効果による独特のノリなどは『フォーク』や『ブルース』の域を大きくはみ出している。何故、『日本のロック・アルバム』に彼のレコードを、と思う人もあるかもしれない。だが、たとえ音楽形態としてはロックでなくとも、このアルバムは誰が何と云おうとも『ロック・アルバム』なのである。そして、そんな彼のレコードを、既成の独占(ブルジョワ)音楽産業に頼ることなく、更にはそれへのアンチとして表現メディアの奪還のため録音し制作し販売までを自主的に敢行し、これほどの出来映えのものにした彼とスタッフである『クリエイティブ・アクションズ発見の会』の方法論を断固支持したい。

 ギター・ピアノ・ハーモニカ・歌の全て豊田勇造自身によるAB面9曲のうち、最も古い作品が71年6月の『行方不知』である。そして、この『行方不知』こそが現在の彼の歌の原点なのである。京都ベ平連やフォークゲリラの活動を通じて運動の渦中に身を投じていった彼。個としても自立した主体による自由なコミューン的結合体としての『全共闘』という運動形態を生み出した教育学園・70年安保諸闘争もその独自性を存分に発揮出来ぬまま、いや、むしろ、それが出来なかったが故に明らかな敗北を迎えざるを得なかったことを、彼は鋭敏に感じとる。(※以下20数字削除)。そして、彼はより拡がりのある寛容さと柔軟さにみちた運動への模索の道を歩み始める。『選ぶことが捨てることでないようにするにはどうすればよい…』とうたう彼はやがて、『全てよ歌い手となれ』という答えを見つけるのである。僕らが全て自らの歌い手となるまで、勇造はうたい続けるだろう。

 『俺はちっぽけな男で結構、裏切り者と呼ぶがよい』とうたわれるこの歌をよくある『転向』の歌だと解する人がいるかもしれない。だが、メシも食えばナニもする、人を愛しもすれば憎みもする人間、そのような認識からしか『革命』などあり得ないし、またそのような人間こそが『革命』を必要とするのである。エセ反体制フォークなどはこの歌一つの前に、こなごなに砕け散ってしまう。

 A面冒頭の『ワルツを踊ろう』には勇造の愛する女への『優しさ』がうかがわれる。『優しさ』は『甘え』などではないし、主体性のない、いい加減さとも無縁である。ここでも『お前と幸せに狂いたい』『離れ島から監獄からうたおう愛の歌』などの歌詞に、彼の厳しい現実に対する眼がうかがえる。



 『大文字』は72年8月16日京大グラウンドで行われた三里塚幻夜祭でノリにノッたウェスト・ロードのあとにステージに立ち、聴衆の罵声を浴びたときのことをうたった歌。『さあ、もういっぺん、さあ、もういっぺん…』。挫折とはそのたびに新たなる出発なのである。

 『行方不知』以降、日常的営為と関わりの中で自らの『闘い』として歌をうたい続けてきた豊田勇造はやがて一つの頂点に達する。彼の最もよく知られる代表曲『ある朝高野の交差点近くをうさぎが飛んだ』がそれである。二日酔いの頭のガンガンする朝、比叡山のすそ野の見える窓の外を眺めていると、突然一匹のうさぎが視界を横切る。そして、うさぎとの対話のあと、残ったものはいつもどおりのちっぽけな自分と、たった一つの小さなメロディー。



 人間が生き続ける限りどうすることもできない孤独感、人間とはその存在そのものが本質的に『ブルース』なのである。だが、そのような孤独感を抱きながら『内なる世界と外なる世界の果てしない国境』にたつとき、それは一変して世界への『愛』に転じる。『もどらなくなったピアノのキーにも生命はある』とうたわれるように、それは全ての生命あるものへの『愛』なのである。政治情況に対しても彼は、『力を失った方向と方向を失った力よ、仲間割れを起こすな、暗い部屋の中』と持ちまえの『優しさ』で対応する。

 個的な孤独感が世界への『愛』となるとき、彼は朝の光の中で一匹のうさぎとなり、世界の果てにまでも風とともに融けこんでいってしまう。気負いたった『自我』なぞ消えうせろ、寂しさと名のついた『自由』なぞ裂けてしまえ。この歌は『悟り』の歌などでは断じてない。これからが『始まり』なのである。そしてミシシッピー川へと僕らを運ぶ『市電』がなくなり、地の果て田辺(※2)へ行く『地下鉄』が完成されようとしている今、僕らの見えないもう一つのレールはどこにあるのだろう。

 今年(注:1977年)の夏に出た拾得でのライブ・アルバム『走れアルマジロ』でも、勇造はそれを探し求めてますます力強く歌い続けている。
(マラっ子)

 P.S.これを書く上でアルバムの大変詳しい解説がとても役に立ちました。未だ収支が赤字らしいので僕の拙文を読んで興味をもった人は是非レコードを買いましょう。
 ※2田辺-京都の某私立大学が当局による教育の帝国主義的再編のため、移転を予定している現代の人外魔境。建設中の地下鉄烏丸線と近鉄奈良線の連結で直通になる。


 前回の創刊準備号は77年の10月くらいに準備を始め、11月の終わりにあちこちの喫茶店やライブハウス、書店などに置いてもらった。そして、この創刊号は1月に発行している。つまり前回の発行後立て続けに原稿を書いて、印刷して製本も自分たちでやりあちこちに配本と言えば聞こえはいいが、要するに新規開拓をしていた頃だ。松原君の文章力は一気にアップしているのが良く分かる。途中の「※以下20数字削除」の部分は、最初、とある「革命」党に対する批判が書いてあったのだが、この原稿を僕に読ませて載せるべきかどうか相談を受けた。完全に削除するんじゃなくて、上から塗りつぶす、ちょうどポルノに墨が塗られるようにしたらどうだというのが僕の提案で、彼は彼を知っているすべての友人たちの記憶にあるちょっといたずら坊主みたいな笑顔をして「それええな」といって採用した。こんなつまらないことも思い出した。

 この創刊号では、「大特集 激突 ニュー・ウェイブV.S.クロス・オーバー」というテーマで、彼はクラッシュの原稿を書いている(ちなみに僕はピストルズ、もう一人大牟田出身のほっぺたの赤い男がジャムについて書いている)。また僕と二人でロンドン・パンクの対談(正確には筆談、一人が文章を書いたらそれを渡し、もう一人はそれを読んで返事を書いてそのまま渡し、そして、という感じで行われた)をやっている。次回はそちらを、とも思ったが、やはり『日本のロック・アルバムを追って』シリーズをアップしたほうが連続性もあり良いと判断して、いよいよパンタとのインタビュー話が登場予定です。

マーマレード興亡史 松原健遺稿集その1

 先日、自宅に届いたマーマレードだが、どういういきさつでそのミニコミに関わるようになったかとか、どんなメンバーだったかという話を書くべきだと思った。ただ、それを先に書いてしまうと、妙な先入観と言うか、僕の悪い癖で話を面白おかしく加工してしまうので、それぞれの人物のイメージが違って伝わるのもどうかと思い、今回は僕にとって忘れられない友人である松原健君(残念ながら今は彼岸の国の住民だが)の、原稿をしばらくアップしていきたい。僕のショウモない原稿を読みたいなどという奇特な人はいないと思うが、リクエストがあればアップすることもしないわけではない(こういう時、ニホンゴの二重否定と言うか、言い回しって便利だよね、一瞬どっちか分からない、ダンコン世代には余計分からないだろう、笑)。おっと、おちゃらけはそれくらいにして、彼の遺稿集というつもりで、先ずは記念すべき創刊準備号からの記事を以下に書いていきます。

シリーズ・日本のロック・アルバムを追って-1-
『ライブ村八分』-見てる方はエエなあ-

 僕らが、この世に生を受けると同時に、その死は始まる。生と死の相克、そして、やがて極めて予定調和的な一つの死が訪れる。そう、それは単に一つの死に過ぎない。
 僕らは生まれた瞬間から、死者としての生を生きるのであり、そんなとき、自らの死の確認が一つの出発点となるだろう。

 村八分というロック・バンドがあった。数々の伝説とともに、その名は異様な響きをもって僕らに迫る。69年から73年まで、全共闘運動の興亡を背景とする京都激動の時代と生死をともにした彼ら。そんな彼らの唯一のアルバムが西部講堂での最後のコンサートのライブであったのも何か象徴的である。この圧倒的な二枚組アルバムは「生存者」としての自己を捨てた異形の男達の僕らへのアジテーションである。
 レコードのA面に針をのせると同時に、チャ―坊が観客に向かって発する「うるせえッ!」という叫び声にど肝をぬかれる。そして、始まるはストーンズを思わせるギター・リフの「あッ!」 チャ―坊はマイクに向かって吠える。



     俺のこと解る奴いるけェ!
     解る奴いるけェ、俺のことォ!

     俺はかたわ、かたわ者…
     心の醜い、かたわ者…

 僕は未だこの曲を超える日本のバンドの演奏を知らない。自らは何ら為すところもなく、ただ幾許かの金と引換に、それ自体で完結した(実際にはこの世に「完結」するものなど何一つとしてあり得ない!)時と空間をむさぼりに来る無責任な見物人達を突き離し、かたわ者-異者としての自己を表明し、それでも尚、俺のこと解る奴いるけェ、とうたう。一見、自家撞着の如きこのような姿勢こそが村八分の真に純粋なロック性なのであり、更には全ての表現者に問われるべき本来的な姿勢なのである。
 彼らの演奏は続く、「夢うつつ」という曲…。

     日曜日の朝早く御所の中で夢うつつ
     ここで、ここで夢うつつ
     日曜日の昼下がりうすらぼんやり独り言
     むかし むかし独り言
     夢 夢うつつ ここは夢の中

 昔読んだニュー・ミュージック・マガジンに、記者が村八分の連中と数日間行動をともにしたとき、彼らはほとんど言葉を口にせず、チャ―坊だかフジオだかがわずかに「夢…」とつぶやいただけだった、と書かれた記事があった。「夢」は彼らの演奏の主要なコンセプトの一つである。それは少年少女達が希望に瞳を輝かせて語る「夢」ではなく、まさに現実そのものの中の「夢」なのである。即ち、夢を夢として知覚するとき、それは既に「夢」ではなくなるように、現実を夢として認識するとき、それは「現実」ではなくなる。これは最初に書いた「死者」としての自己の確認でもある。そして、そこからの突破口はどこにあるのだろう。
 云うまでもなく、彼らはそれを自分達の聴衆に求めた。彼らは僕らにもこの「死の確認」を、そして彼ら自身は無自覚であった真の「生」への解放のためのいわば「思惟」の自殺を要求したのである。それは同時に実に日本的な怨念、僕らを今ここに在らしめているところの「歴史」に対する怨念に満ちていた。だから彼らは、音楽的にかなりの部分をストーンズに負っていたにもかかわらず、彼らの音そのものに内在する「他者性」、そして歴史意識の確かさに基づいた現実認識という点で、未だあてどないブルーズ衝動を抱きつづけるストーンズより、はるかに時代的に先んじていたバンドだったと云えるだろう。
 何度も云うようだが、彼らは常に僕らとの「共犯関係」を求めてきたのであり、演奏者-聴衆という関係性を拒絶しつづけてきたのである。そのためにこそ、チャ―坊の「なんもよう云わんのか…」「見てる方はエエなァ…」などの揶揄的言動はあったのである。
 アルバムの最後は唯一のスタジオ録音の「序曲」。「弾かないギタリスト」と云われたフジオのギターは、その無類のテクニックにもかかわらず、他の饒舌なギタリスト達のようにむやみに走り廻ることを敢えてしない。単調なフレーズと退屈な曲展開が延々とつづく。そして、この空白を埋めるのは僕らであるはずだった。だが、彼らの「孤立」は彼ら自身を自然消滅へと追いやってしまった。だから彼らのためにも、僕は遅ればせながら僕自身の「序曲」を奏でてゆかねばならないだろう。
“マラっ子”
マラっ子写真



 最後の“マラっ子”というのは、彼のペンネームである。謂れは、そのうち書くかもしれない。今、読み直してみても、短い文章の中に鋭く光るものを感じる。決して愛想のいい男ではなかったが、笑うと妙に幼い感じがした。ただ怒りの対象に対しての言葉は辛辣でそういうときの彼の目つきの鋭さはちょっとタジタジとなることがあった。そういえば、彼と約束したイベントの準備をすっぽかして自己批判を迫られた時があったが、あの時は1年後輩ながらマジで怖かった。ところで、最後に貼ってあるのは、彼の白黒写真だが、どこかで見たような気がしないか。その答えは次の「シリーズ・日本のロック・アルバムを追って」で明らかになる。漢字四文字のあのバンドだ。

マーマレード興亡史 イントロダクション

 曲がりなりにもblogを継続していてよかった。今回、30年ぶりくらいに学生時代のサークルの後輩からメールが来た。サークル名で検索したらヒットして、エントリーを読んでいるうちに僕の正体がわかったらしい。その彼と電話やメールで近況をやり取りしていたら、ひょんなことから僕たちが学生時代に作っていたミニコミの創刊準備号を持っていることが分かった。実は僕自身は当然持っていたのだが、どこにしまいこんだのか実家の倉庫か押入れの中に眠っているとは思うのだが、ここ最近は探しても出てこないとあきらめていた。77年の秋口から78年の夏まで、1年間もたなかったミニコミだったが印象に残る記事も結構あり、特に一番親しくしていた松原君は数年前に亡くなっており、彼の強烈な個性あふれる原稿はそのまま日の目を見ずに終わるところだった。本来はご家族の方の了解を取るべきかもしれないが、「馬鹿と恥知らずは承知の上」で「無恥な奴らが舞い踊る」のを一緒に笑った仲間なので、僕の独断で彼の原稿を少しずつ紹介したい。その前に、今回はイントロダクションと言う意味で、創刊準備号の前にビラ形式で出した『内部通信 No.1』という記事をアップする。文責はミニコミの編集長だったMilk氏、彼は同志社プロダクションというサークルに所属していたが、1年でそこを辞めて始めたのがこのミニコミ『マーマレード』だった。このあたりのいきさつは、そのうちゆっくり書いていきます。
さて、それではどんなことが書いてあるかwktkで僕もタイプしていきます。

マーマレード創刊準備号

 編集後記に代えて―内部通信 No.1再録 昭和52年11月16日編集局発行

はじめに―編集局よりのアッピール
 マーマレードに結集されているすべての諸君、そしてこれから共に運動を共有される新しい友人のみなさんに、12月号 11.20発行に向けて、編集局よりアッピールを行うとともに、今号への意志一致をとってゆきたいと考えます。

 我々マーマレードのスタッフは、創刊予告号でもふれたように、決して一つの方向性の下に集っているのではないことは確かです。例えば、スタッフは各々個々にRockを扱う、あるいはRockをメディアとした運動を考え直す等と言ってきましたが、しかし実際には、10月段階ですらRockに対する我々の一貫した見解なり方向性について、最低の意志一致すら取れなかった事も事実です。そして、その事は、我々の運動の最低基盤(=目的意志性)について再度議論し合わなければならないという事を示しているとも思います。

 しかしながら我々は、力量の不足、目的意識の不明確等をあえて承知しながら、まず雑誌を作りはじめようという意志一致の下、準備を続けてきました。私的な理由を述べるならば、たまたまスタッフの大半が大学のサークルなり他の運動なりに一種の挫折をしたあとで、何かはじめなければならないという「あせり」があったのですが、しかしながら、我々は、まず自らの力量をさらけ出して、批判―自己批判を受けねばならないという事を唯一の目的として続けてきたつもりです。我々のこうした事情を、60年代を体験として持ちえない世代である我々に残された数少ない「自己表現」の方法の第一歩として、積極的に評価、支持されることを望みます。あれやこれらを論じながらも、結局は何一つ始められないのではなく、あえて、使い古された方法論(むろん組織論、運動論を含んだ意味で)を再び繰り返すのも許される事だと思います。まあ、自己弁護とでもいうべき弁解じみた我々の方法論への意義付けはレベル(出発点における問題意識)における批判を大いに期待していますが。

―――内部通信について
 編集局発行の内部通信第一号は、11.20創刊準備号における編集後記に代わるものとして(=言わば、マーマレード総体での論理の一貫性を補完するものとして)発行されたのですが、編集局としては、今後もできるだけ多くの内部通信を出す意向を持っています。

 内部通信は、今後は、スタッフ・シンパ間に討論の場を提供するものとして、存在させていくつもりです。とりわけ現在のように個人個人の見解が不一致(というより意思表明が不充分)な段階では、個々が問題提起を行うことによる相互批判―相互浸透がまずはなされるべきであり、又それを抜きにして、単に雑誌の方向性について安易に意志一致を取ったりするのは誤っていると思います。だからこそ、この内部通信を1つのコミュニケイションの場として活用してゆきたいと考えます。

―――今号における若干の問題提起
 マーマレード創刊準備号を11.20に発行する(およそ唯一と言っていい)意義は、先にも述べたように、まず「自らの手で始める」という事だと思います。その上でスタッフ=編集局としては、個々が自分の進めるテーマなり、問題意識なりを、より明確にするための研究を進めようという事を提起しておきたいと思います。今後にしても、スタッフが少ないことや、討論の時間が充分に持てなかった事により、実際には執筆者から受け取った原稿をそのまま載せている状態ですが、でも、本質的な事は雑誌の形態(装丁etc)や記事の面白さだけではなく、個々の問題意識だと思います。それ故、次号以降も、編集局としては、単に「売れる」雑誌をめざすだけではなく(もちろん売れる―支持されるという事も最重要な問題のひとつですが)、「自己変革のための」雑誌をめざすのだということも、1つ、執筆者諸氏に問題提起をしておきたいと思います。そして、今後は一般のヤング向け音楽誌などとの分岐を鮮明にして行きたいと思います。そしてそうした運動を我々が始める最低基盤が個々の問題意識であり、相互批判―自己批判―相互浸透だと考えます。

 最後に我々マーマレードは決して1つの方向性の下に結集して始まったのではありませんが、しかし、逆のその事を批判点として個々の多様な、およそミニコミ誌を運営するにあたっては必要が無いと思われる問題であっても、共に考えていくという機会を今後も持ち続けるつもりです。またその為にスタッフ及び友人諸君のみでなく、読者諸氏の広範な批判、問題提起を受けて行きたいと思っています。また、とりわけ今号及び次号より新しい諸君の斬新な問題提起を期待しています。(文責 Milk)



 まあ、生硬な文章ではあるし、大いなる自負もあるが、考えてみたらこういう編集方針の下、作られていったミニコミではあるが、それなりに読者もついて投稿してくれる人が出てきたり、関西のイベント関係やロックシーンに関わっていくわけだが、いやー、しかし、まだ当時の京都は熱かったんだな。

R.ウェルチの思い出、ラクエルじゃなくて残念だけど

 ボブ・ウェルチの名前を初めて知ったのは、たぶんロッキング・オンの記事だったと思う。76年くらいのことだ。ゼップやパープルといったハードロック第一世代が全盛期を過ぎて、ちょっと試行錯誤というかバンドとしての方向性や音楽の路線に迷いが生じたころ、キッス、エアロスミス、クィーンという第二世代が次第に第一世代にとって代わろうとしていたころ、それらの音に物足りなさを感じていた僕はパリスという名前のバンドに興味を持った。元フリートウッド・マック、元ナッズ、元ジェスロ・タルというメンバーのキャリアも何ら共通性が無く、一体全体どんな音なのか想像もつかなかった。ただファースト・アルバムは購入していない。FMで聴いた記憶はあるが、何だか物凄い音の塊みたいなイメージで、それまで聴いてきたハードロックバンドの音とは異質のものだった。

 というわけで、最初に購入したのは『BIG TOWN 2061』というタイトルのセカンドアルバムだった。それも新譜ではなく中古で購入した。どこのレコード店で買ったのか、どんなに記憶をたどっても思い出せない。思い出すのは夏の暑い日、高野からずっと歩いてきて、あまりの暑さに途中にあった公園のベンチで休憩していたら、目の前が真っ黄色になってきてこのまま倒れてしまうんじゃないかと思ったことだけだ。もしかしたら、高野のイズミヤで中古レコードの特売があって、そこで買ったのかもしれない。とにかく覚えているのは、真夏の京都のぎらぎらした太陽の下、片手に買ったばかりのレコードを持って延々と歩いて下宿のある修学院に向かってひたすら歩いていたこと。もともと南国の生まれなので、暑さには強いと思っていたが、盆地の太陽は生半可なものではなく、たぶん脱水症状を起こしかけていたと思う。さすがにこのままでは死んでしまうと思い、そこから歩いて少しのところにあるアコシャンという喫茶店に涼みに行った。もちろん水分補給も兼ねて。

 そのアコシャンという一乗寺にある喫茶店を教えてくれたのは、隣の九州人だけが寄宿できる下宿の住人で同学年だったT中君。熊本出身のもっこす(もっこり、ではない)で一緒にキャンディーズのライブを産大に見に行った仲だ。そのT中君が「drac-ob君、美人姉妹が経営しているしゃれた喫茶店が一乗寺にあるのを知らんね。店の雰囲気もヨカし、あんたの好きな西洋人の音楽もよう流しとるバイ。ま、それでん、一番ヨカとは店で働いている姉さんと妹さんたいね。オレは年下が好みばってん、姉ちゃんのほうで良かったら譲るバイ」みたいなことをいうので、まあ「美人姉妹」はどうでもいいが、「あんたの好きな西洋人の音楽」を良く流しているというから、ロック喫茶かと思って行ってみたら普通の喫茶店だった。もっとも流れていた音楽は有線ではなくレコードだった。ターンテーブルの横にレコードラックが置いてあり、そこには結構な枚数のレコードが無造作に突っ込まれていて、客は勝手にそこからレコードを取り出してかけてもらっていた。雰囲気も良かったし、コーヒーも美味しかったし、何より「美人姉妹」(やっぱりそこか、などという指摘は止めて頂きたい。あのころ僕も若かった、分かってほしい、ん、スパイダースか、笑)も良かったので時々行くようになった。

 そのアコシャンまで、ようやくたどり着き窓際の席に座った。午後の2時くらいで、客は誰もいなかった。エアコンが効いていて、出されたお冷を一気飲みしコールコーヒーを注文した。それから持っていたレコードを渡して、流してくれるようお願いした。誰もいない喫茶店にそれまで聴いたことの無いようなヒリヒリしたサウンドが響き渡った。



 頭をハンマーでぶんなぐられたかと思ったくらい、その1曲目は全身に響いた。素っ頓狂なイントロから、天空を駆けるようなヘンタイギター、ボーカルも上手いんだか下手なんだか良く分からない。コーラスもファルセットで絶叫する。なんだかわからないが憂鬱なロビンフッドがあちこち放浪しているらしい。先ほど炎天下を歩いてきたせいで、頭は完全におかしくなっているのか、何も考えられずに音に身を任せていた。とにかく、カッコいい。ギターのフレーズも断片的というか、ソロをだらだら弾くのではなくシャキっとしたフレーズをガンガンこちらにぶつけてくる。ただ音のバランスが無茶苦茶で、一歩間違うとぐちゃぐちゃになりそうなのを何とかギリギリ押さえている。物凄い音だな、今までのバンドで似たようなものは無かったな、なんてことが次々頭に浮かんだ。あっという間にA面が終わった。アコシャンでレコードをリクエストすると、いやこれは当時どこの音楽喫茶でもそうだと思うがA面かB面どちらかを尋ねられ、片面だけ流すというのが普通だった。特に指定が無い時はA面だけ流して、終わると別のレコードをかける。不特定のお客さんの好みに合わせるためだから仕方のないことだ。当然、僕のレコードを終わって次は高田渡の『Fishin! On Sunday』あたりがかかると思っていたら、お店の人はレコードを裏返してくれた。客が僕一人だったからサービスしてくれたんだろう。

 A面の余韻を残しながらB面に入ると、こちらはさらに曲のバリエーションがスゴイと言うかハードロックなのかコーラスグループなのか、あるいはプログレなのか良く分からない。ただ、ひたすらカッコいい曲が続いた。「ハートオブストーン」という、ストーンズとは別人28号の曲は一発で痺れたね。



 「現代社会に住む人間は石の心を持たねばならぬ」という歌詞もカッコいいし、ギターのリフもカッコいいし、ボーカルも突き抜けている。その次の「奴隷商人」もライブ演奏だけど、とってもクールで歌詞のリフレインが延々と頭に残る。”You were born to loose”と初めて聴いた曲なのに後半はもう一緒に口ずさんでいた。しかし、一番頭に刷り込まれたのはラストの曲のフレーズ、” Janie’s in love again, Janie’s in love”ってやつ。もうその頃には汗も完全に引っ込み、エアコンの風は冷たいくらいだったが、そこでアルバムジャケットとライナーを見比べながら延々と聴いていた。それから、毎日必ずこのアルバムは自宅で、サークルのBoxで聴いた。

 それから1年くらいたって、僕は3回生になりサークルでロックの研究会を担当することが多くなった。パリスはサードアルバムを出すことなく解散した。ある日、リバーサイドだったかどこだったかとにかく輸入盤店で、特別何が欲しいという訳ではなく棚に並んでいるレコードをあれこれ見ていたらBob Welchという名前が飛び込んできた。パリスの時はRobert Welchで表示されていたが、BobならRobertのニックネームじゃないか、お、もしかしてパリスのリーダーのソロかと思って取り出したレコードは、パリスとは似ても似つかぬジャケットであった。薄いグラサンつけたヘンタイぽいオッサンがマッチの火を消そうと息を吹きかけているその横に、な、なんと、ガウン姿の色っぽいおねーさんがべろ出して、そのべろをヘンタイオッサンの耳元に近づけているじゃないか、これは法律違反だ、法律違反だ、イッツアゲンストザローだ、僕とフリオは校庭だ、とまあそれくらいびっくりしてそのままレジに向かった。いや、いわゆるジャケ買いってやつですが、パリスのロバート・ウェルチのソロに間違いないとの確信はあった。確信はあったが、あまりにパリスと違うので驚いたのだ。しかし、その驚きは自分の部屋に戻ってレコードを聴いてさらに深まった。あのカチンカチンのドハードロックをやっていたボブが何ともポップな、それも中途半端なポップさではなくアルバム全部が初めから終わりまでポップで固められていた。もっとも、ギターやベース(このアルバムではあまりギターを弾かず、ベースを弾いていた)のフレーズのカッコよさはパリス時代と変わらなかったけど。



 アルバムの1曲目はフリートウッド・マックの『枯木』に収録されていた「センチメンタルレイディ」で始まる。マック時代よりも、アレンジがシャープになっていて特にイントロのキーボードはチェンバロ風でいい。歌い方もマックの時より自信たっぷりで、そりゃこれだけ自信たっぷりだとアルバムジャケットのようなおねいさんを口説くことが出来ただろう、などとこれは邪推。あの女性はアルバム・プロデューサーの奥さんだと、これはどこかの雑誌で読んだネタ。まあ、当時の僕は、所詮、紅毛碧眼人節操と言うものが無い、倫理というものがない、相手は人妻ではないか、世の中やっていいことといけないことがある、浮気はいい。そりゃしょうがない。気持ちが軽く、そう、まさにポップになって浮いてしまって失敗のひとつやふたつはいい。だが不倫はいかん、人の道に外れるというのはもはやケダモノだ、などと、えー、話がどこかでおかしなことになった。

 まあ、とにかくこの『フレンチキス』は大変なもんで、どの曲もシングルでヒットしそうな曲ばかり。アルバム通して聴いても確か40分かからなかったと思うが、もう全曲素敵なラブソングだらけだった。今回の訃報があって、彼の情報をネットで検索したが、実はパリスのサードアルバムとして発売するつもりだったというのを読んで、ビックリした。いや、ファーストとセカンドも随分イメージが変わるが、それでもバンドのロゴやアルバムジャケットの統一感はあった。それがいきなり、こういうジャケットでサードアルバムっていったい何を考えているのだ、この男は。このアルバムも毎日聴いた。それも1日1回どころではなく朝・昼・晩と最低でも3回聴いた。そして当然Boxにも持って行ってかけた。いや最初にかけたのは研究会の時だった。ちょうどキャプテン・ビヨンドがオリジナルメンバーで再結成してアルバムを出したりしていたし、アメリカのハードロックバンドが勢いがあった時だったから、テーマは「アメリカにおけるハードロックの変遷と今後の展望」みたいな感じで、例によって僕が言いたい放題でやっていた。その日の研究会の最後に「実は、あるハードロックミュージシャンがとてつもないソロアルバムを出した。まずはこの曲を聴いてくれ」と言って流したのが、「Lose Your Heart」。大甘のストリングスから導かれるメロディ、コーラス。完璧なポップスだ。参加していたサークル員はみんな目を白黒している。そして続けて「Hot love & cold world」をフルボリュームでかけた。これでO原を始めとした77年度生のサークル員はほとんど全員このアルバムを買ったはずだ。

 うーん、ボブ・ウェルチの話をいろいろ書こうと思って始めたんだけど、真面目に書いたところといつもの与太の話とばらばらで、あ、こういうところがパリスの魅力だったんだと強引に結論を持ってきて今日の話は終わり。最後に元マックのメンバーと一緒にやってるこの演奏で。




またもや訃報、しかも自殺

昼休みに弁当食べながら、携帯でYahoo!のニュースをチェックしていたら、元フリートウッド・マックのボブ・ウェルチが拳銃自殺とあった。遺書もあり、自殺に間違いないらしい。フリートウッド・マック時代もよかったがソロになってからのほうが知名度は上がっただろう。

しかし、僕にとってはあくまでロバート・ウェルチであり、パリスのリーダーだ。夏の暑い日、一乗寺にあったアコシャンという喫茶店でビッグタウン2061をフルボリュームで聴いたことは忘れない。合掌。

またもやさよならの話、グッバイジョニー

 早いもので先日の熊本小旅行から1週間経過した。今日は、その時の旅のバカ話を書こうと思っていたのだが、またもや突然の訃報で気が重くなった。ジョニー吉長が亡くなった。63歳、死因は重症肺炎。イエローで強烈なドラムを聴かせてくれた。泉谷の「眠れない夜」をバックで演奏していた映像をNHKのテレビで見た。その映像で僕は彼の存在を知った。その後、金子マリとバックスバニー時代はサーカスでライブを見た。ボーカルのマリが歌いやすいように、歌伴のドラムはこう叩けとでもいうような演奏だった。残念なのはジョニー、ルイス&チャ―でスリリングなサウンドを展開していた時期のライブを見逃していることだ。彼の日本人離れしたルックスとドラムテクニックはカッコいいという形容詞しか当てはまらない。粋でクールでシャレのわかる大人のドラムだったな。



 以前、キヨシローの日記だったと思うが、ジョニー、ルイス&チャーとスタジオでセッションの約束をして、珍しくキヨシローが時間通りに行ったけど誰も来ない。そのうち段々人が来始めたのはいいけど、みんな仮面していたり派手な服着ていたり、どうもミュージシャンというかセッションという雰囲気は無い。ようやくジョニー、ルイス&チャーがやって来たが、彼らもぶっ飛んだ服装でメイクもしている。「いったい何だ」と尋ねたら「ハロウィーンパーティ(イースターのパーティだったかもしれない)だよ、大騒ぎしよう」と言われて拍子抜けしたなんてエピソードを思い出した。ということで、今日はダウンな気分が抜けないので、ジョニーの映像を貼って彼のことをしのびたい。バカな話はまた次回。



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