6周年のご挨拶というか駆け足で振り返る6年間

 昨日、花の75年度生トリオの一人であるPurple_Hazeさんのblogをのぞいたら、blog開設5周年とあった。彼は2007年の4月から『Blues Power』というクラプトンの曲名から頂いた音楽blogをやっているのだが、よくよく考えてみると僕も2006年の4月から拙blogをスタートしており、ということは6周年ではないかということに気がついた。そもそも4月29日にblogをスタートしたあたりに、分かる人には分かるこだわりというものがあるのだが、まあ、その辺の話はさておき、気がついたら6年たっていた自分の歴史を振り返り、総括することも必要ではないかと考えたのだ。

 考えてみると、このblogは最初、『人生はさすらい』というタイトルでパスワードをかけた閉鎖的な、要するに特定少数に対するblogだった。何度も書いたことなので、またかと思われるかもしれないが2006年の4月当時僕は無職で、職安で紹介された職業訓練を終わったばかりだった。3か月間の職業訓練だったが、そこでパソコンの勉強を一緒にしたのは20代、30代の若者たちで、当時十分オッサンだった僕は疎外されることもなく彼らの輪に入れてもらい、まあしかし、こういう性格だからついつい若者諸君に説教垂れることも多く、僕と同世代の連中であれば「てやんでぇ、このジジィ」的態度で反抗すると思われるのだが、いまどきのワカイモン(このあたりの表現、オッサンだね~、笑)は説教に慣れてないのか、逆に新鮮な刺激だったのか、結構重宝してくれて、じゃ訓練終わった後も、皆でいろんな意見や話を共有できる場を作るということで始まったのだ、このblogは。

 もっとも、最初の1か月くらいは僕の身辺雑記的な話と大学時代のちょっとした思い出話を書いていたのだが、5月の終わりから東京にアルバイトに行くことになり、そのあたりから元訓練生の諸君の登場が少なくなり、えーと9月くらいだったかコメントくれるのは元DRACの先輩、後輩だけになり、だったらパスワード書ける必要もないし、もう今後はオレの言いたいこと、書きたいことを表現する場としてblogを再スタートしますと宣言し、その時に『別館4階のBOXから』というタイトルが決まったのだ。そうそう、実はもう一つ、こっちのタイトルも捨てがたいと思っていたのが『それどころや無かったんや』というやつで、これはもう75年から多分82年までの間にDRACにいた人でないと分からないという完全楽屋落ちのタイトルであった。いまだに、一時のシャレで『それどころ』にしなくて良かったと思っている。

 さて、簡単に拙blogスタートのいきさつを書いたが、一口に6年と言っても小学生が入学から卒業までの期間と等しい。つまりロングロングタイムアゴーである。ざっと振り返ってみると、2006年の6月から7月にかけては東京の保谷というところでバイトをしており、アキバのメイド喫茶探検の話(未遂に終わる)やCDを買いまくる話などが中心だが、いまだに心に残っているのは吉祥寺のいせやに行って、高田渡をしのびながら焼鳥を食べたことだ。今は立派なビルになってるいせやだが、当時は昔のままの古い民家風で威厳のある建物だった。おっと、その前に一番最初のエントリーは何だったかというと地元のショッピングモールで行われた内田勘太郎と下地勇のジョイントライブのレポートだったっけ。そして、この年はもう一つ印象に残ったのは9月の加川良だった。ギター1本で「舟をこぎながら」歌う姿は感動的でした。

 2007年は何と言っても『フォークソング・クロニクル』という不定期なフォークの話を書いたな。わははは、例によって途中でどこかに消えてしまったが(※実は今、僕の若い友人である澪ちゃんが「フォークソングクロニクル」というタイトルで、シリーズを書いています。僕のような「面白けりゃ多少事実と違っていてもええんちゃうか」的なものではなく、しっかり歴史を検証して続けているので、興味をお持ちになった方は訪問してください。澪ちゃん、これでいいかな、笑)。6月にはWeb上では再会していたSugarmountain君と地元でこちらも多分20数年ぶりに再会。大いに呑んで食って語り合った。それをきっかけに元DRACの人たちの消息がぼちぼち分かり始め、あの未完の大作『DRAC興亡史1975-1980』がスタートした。もっとも75年の夏合宿から先に、あ、違うか、秋のEVEの話の導入までは書きました。なかなか続きを書くのが面倒、いや、その何かきっかけがあればまた始めるつもりだけど(汗)。ライブ関係は9月にまたもや加川良、このときはスティールギターのすぎのと一緒だった。そしてなんといっても11月に初めてカルメン・マキ最強トリオ(板橋文夫ピアノと太田恵資バイオリン)のライブに行き、そこで高校時代の同級生だったY尾君と20数年ぶりの再会を果たす。この年はライブの当たり年で同じく11月に故塩次伸二とウィーピングハープ妹尾のブルースを聴いた。そして12月には27年ぶりのジャンプをしたリトル・ジャイブ・ボーイズ、要するに元ウシャコダの藤井君と珍教祖との再会があった。

 2008年は衝撃のZEK3を初めてライフタイムで見た。いやー、その驚きというか感激は半端なものじゃなかった。あまりに嬉しくて、この気持ちを何とか伝えたくてくるみさんのホームページに書き込みしたら、レスを頂き、それから何度かメールもやり取りさせてもらい、なんと昨年僕の誕生日にあったライブでは、ソロのアドリブでハッピーバースデイを演奏してもらった(得意顔)。おっと、地元のジャズを頑張っていた香月保乃さんの単独ライブもこの時期から通い始めた。2セットの間に1曲か2曲、70年代のヒットチューンを入れてくれるのが楽しかった。キャロル・キングを歌ったときは「次はジョニ・ミッチェルね」とリクエストしたが、それは今度ニュー・ヨークから戻ってきたときに聴かせてもらおう。そうそう、この年の4月にフランシス・マバッペという強烈なミュージシャンのライブも見た。カメルーン出身でリズムが強烈、しかしながらメロディも美しい。一緒に演奏していた西藤ヒロノブのギターもマルでした。

 この年もライブは当たり年で、7月に天下のBAHOを見た。アコギで聴くベンチャーズ、そしてアンコールの「SMOKY」はエレキと変わらないというか、エレキ以上のド迫力でしたな。石やんとの掛け合いも最高でした。おっと、忘れていた。地元のイベント、みやざき国際ストリート音楽祭に行き始めたのもこの年から。ここで宮里陽太と出会った。クラブジャズだか何だか知らんが、テレテレしたサックスというかちゃらちゃらしたサックスが主流のこの時代に「男はバップ」という、流石は九州男児の心意気のサックスに惚れたね。その彼が山下達郎に認められたのは、実に感動である。そうそう、10月には坂田明とジム・オルークのちかもらち(「ちからもち」のタイプミスに非ず)。悪いわけがない。最近アルバムが出たらしいので、何とか入手せねばの娘だ。ジム・オルークは若松監督の『実録連合赤軍』の音楽も素晴らしかったな。そして11月はさがゆき、パリャーソウィズフレンズとしてのライブを見た。12月には何故か餃子屋でカルメン・マキ最強トリオを2年連続で見られた。CDにサインも貰った。

 めったにない家族サービスとしては9月に下の子のコンクールの応援に長崎に行った。実にエキゾチックな街で、2泊3日があっという間だった。是非もう一度行きたい街の一つである。さらに、この年の12月に以前勤めていたJEPという会社の仲間たちと再会し、それ以来夏と冬はキャンプに出掛けている。山岳ゲリラというか山岳ベースキャンプ設営である、そんなわけないか。まあ、その手のバカ話と当時20代30代だったイケイケ時代の話をして盛り上がる楽しいキャンプである。誰がハングオーバーになるかというロシアン・ルーレット的楽しみもある(笑)。

 そして2009年は自分の娘だと言っても全く違和感のない酒井ハルカのBONOBONO BANDを見た。ライフタイムがテーブルを取っ払って、客が入るだけ入れた唯一のライブではないか。ちなみにハルカちゃんとはFBでもオトモダチである。決して下心などないことを公然と宣言しておく。おお、そうだった、この年に『ヤングな僕のぽっぷす・なう』というシリーズを始めたが、こちらもいつの間にか忘れ去られている。ま、そのうちやります。実は昨日、図書館で『僕らの「ヤングミュージックショー」』という本を借りてきて、パラパラ見ているのだが、懐かしいですね。クリームの解散コンサートやディープ・パープルとキャット・スティーブンスの放送など、このあたりの話は一度じっくり、などと安易に書くからあとで困るということを未だに学習できないワタクシです。

 ただこの年は思い出したくない訃報もあった。5月の清志郎と10月のトノバンである。特に清志郎はゴールデンウィークの後半に入る、まさにその時だったから余計気が重かった。というか、しばらくは無かったこととして現実の受け入れを拒否していた。反対にちょっといい思い出はストリート音楽祭で小野真弓を見た。可愛かったな~。

 2010年は地元にとって最悪の口蹄疫の1年だった。普段は能天気な拙blogもこの時期は、暗い記事や重たい話が何度かアップされたな。もっとも春先はZEK3を2回連続で見られてご機嫌だったんだけど。それとこの年は頭脳警察の5時間を超す映画のDVDをようやく入手して繰り返してみた。しかし、パンタもトシもこの時は既に還暦なのだが、今は還暦つっても下手な若者より体力気力十分であることは、先日のミチロウライブでも体験済みだ。そうだ、口蹄疫で落ち込んでいた僕に中山うりを燐さんが教えてくれて、それからはまりましたな。そうそう、個人的にもこの年はろくなことが無くて、未だにエントリーにアップできない話があるのだが、オープンにした不幸話としては、10月に追突されて1か月以上整形外科に通う羽目にもなった。大した後遺症もなかったのが不幸中の幸いだったっけ。

 2011年つっと、去年だけど幻の連続エントリー「ワタクシと北関東の出会い」を書いていたら、3.11が起こってしまい、それだけが原因じゃないけど、こちらも宙ぶらりんになっている。僕の最初の会社のスパルタ話だけど、こんなもの誰も読まないだろうと思って書いていたら、意外と面白いと言ってくれる人たちもいて、じゃあ、そういう応援をうけているのならしっかり連続して書けばいいと思うかもしれないが、ま、人にはそれぞれ事情というものがあって、要は、僕は飽きっぽいのだ。わははは、この年になってようやく気がついた。ライブはこの年もかなりの当たり年でした。なんといっても藤井君の「ウクレレ抱いた渡り鳥」を見ることができた。アンコールで「何年たっても」を演奏してくれたのは最高の思い出です。10月は宮崎空港でジェイク・シマブクロのライブを見たけど、あの演奏の強力さは記録媒体には残せない、まあ、これはジェイクに限らないけど、やはり音楽は生き物だ、ライブだということですね。11月にはakikoのライブも見た。ジャズバンドをバックに歌うビートルズナンバーは素敵でした。今月ついにCD買いました。

 とまあ、駆け足で書いてきたけど、それぞれに思い入れのある話ばかり。書ききれなかったのは2007年1月にそのまんま知事が誕生し、3月にオールナイトニッポンやったのをテープから起こしたけど、途中でダウンした話とか必殺二枚三枚の下を持つ男中山センセとか、いつも愉快なタモさんの話とかね。そうそう、リザードのモモヨさんともWebで再会できた話も。全然、まとまりませんがここはひとつ”Every Dog Has His Days”ってことでひとつヨロシク。そうそう、ここまで拙blogが続いてきた大きな要因は、いつも愉快なコメントを入れてくれる諸兄姉のお蔭です。さらに、こんなエントリーのいったいどこがツボだったのか、常に悩ましてくれる拍手の人たち。もちろんROMの人も、皆さんへ、愛してます。今後もご贔屓に、宜しくお願いします(土下座)。

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楽しいバス旅行顛末記

 家に帰ってポストを見たら、何やら透明なビニールの袋に入った封筒があった。配偶者宛の郵便物だと思い、手に取ってみると旅行がどうたらとか書いてある。だいたい郵便ではなくブラックキャットヤマトのメール便だったので、毎度毎度のスパムというかジャンクメール、いわゆるダイレクトメールだと思いゴミ箱に投げ捨てようと思った瞬間「旅行招待券在中」という赤文字が見えた。え、何、招待券、どうせ何かの勧誘じゃないの、と思いながらもスケベ心が勝り封を開けた。そこには「ご当選おめでとうございます」と大きく書いてあり、その下に「平素は××各店をお引き立て賜り誠にありがとうございます。さて、このたびは『2012年お客様大感謝キャンペーン!!』にご応募いただき、誠にありがとうございました。抽選の結果、2等の『日帰りバス旅行』にご当選されましたのでご招待させていただきます…」という文が続いており、ようやくいきさつを思い出した。

 実は、1か月ほど前クリーニング屋に汚れ物を持って行った時に、そこの店のおばちゃんから「今、福岡への1泊旅行が当たるキャンペーンをやってるから応募せんね?」と言われ、まあ、どうせスカだろうと思いながらも福岡へ飛行機で往復、ホテルも付いてるという宣伝文句にひかれ自分の名前を書いた。すると、おばちゃんは「奥さんの名前も書いて入れないよ。いっちゃが、いっちゃが。」などと勧める。ほな、お言葉に甘えさせてもらうわ、と心で呟きながら配偶者の名前でも応募した。どうやら1等は外したらしいが、2等の日帰りバスツアーが当選したらしい。パンフレットを見ると「北原白秋が愛した水郷柳川川下りと熊本きくすい、豪華昼食&ジュエリーの旅(一部省略)」などと謳っている。福岡と熊本の日帰りバスツアーで豪華食事、ええんちゃう、でもこのジュエリーってなんだろう、ま、細かいことはいいか。しかし、オレじゃなくて配偶者が当たったのか、と、やや気落ちしながら読んでいくと、出発地のところに招待者は無料だが同伴者は実費を払えば参加できると書いてある。金額は平日10,290円。うーん。それほど高くは無い。いや、普段の質素な生活からすると、たかがバス旅行に1万両も払うのはいかがなものか。そのように浮かれている間に、北にある挑戦的な国が人工衛星スタイルのミサイル発射したらどうする、などという考えも一瞬浮かんだが、ここしばらく旅行らしい旅行はしていないことに気がついて、ええい、有休も残っているしここは清水の舞台から飛び降りたつもりで、いったれ、この、よっ太っ腹、などとたかが1万円くらいの旅行代金を考えただけで萎えていく自分の貧乏性に蹴りをいれ鼓舞した。

 で、配偶者に「これこれ、当たったぞ。お前、行ったらええわ」とパンフレット渡すと、物事を素直に信じられない敵は、胡散臭げに「何ね、また何か悪いこと考えちょるとね」などと斜に構えている。「とにかく読んでみ」と促すと、だんだん表情が変わってきて、「なに、これ、お金要らんと?タダ?いくいく」などとまあ、手のひらを返したように態度が変わる。「土日は混んでるから平日行かんと無理だろうな」と話すと、「それは休みを取れるからいいけど、一人で行ってもつまらんから」などという。ここがタイミングと思い、「うーん、オレも有休ちょっとあるから、何やったら行ってもええぞ」というと、「あ、行こう行こう。そうだ、お母さんも誘って行ったら。あんた何にも親孝行らしいことしてないし、もうすぐ母の日だから」などと、言い出す。しかし、配偶者の言うことももっともで、よくよく考えると、当方が大学に進学して以降、親は1日たりとも安心した日は無かったのではないか。挙句の果ては大学を6年も行って中退し、就職は訳の分からない会社に入ったと思ったら、やれ関東だ鹿児島だ、熊本だと地元にいた試しは無いし、挙句の果ては倒産して持ち株は全部鼻紙になるわ、やめよう、あまりに悲しくなってきた。ま、それくらい親不孝は貫徹してきたということだ、エヘン。

 まあ、たかだか日帰りバス旅行に連れて行くことが親孝行になるかどうかは別にして、普段は僕の母親と折り合いの悪い配偶者が珍しく一緒に行こうなどというので、渡りに船だと思い、実家に行って話をすることにした。おっと、その前にパンフレットにあった「世界中のジュエリーを取りそろえたジュエリーファクトリー」とか「「世界中のジュエリーを厳選し、製造・展示・販売している」などという文字に敏感に反応した配偶者と仁義なき戦いがあった。「これ、何ね」とそのジュエリーなんたらのところを指さしするので「あ、ジュエリーちゅうくらいやから、宝石やろ」「そんなことは分かってる。で、ここで私にジュエリーを買ってくれるとかいう気持ちは無いと?」「え、なんで?」「なんで(怒)。あんたは今まで私に何か貴金属とか服とかアクセサリーとか買ってくれたことがあったね?」「ない」「少しは自分の嫁にそういうものをプレゼントしてやろうという気持ちは無いのね」ここで正直に「ない」と答えた日には、壮絶なるバトルが予想できたので、しばし考えた。

 「うーん、えーと、その、ご、ごせんえんくらいだったら、うん、五千円だったら買ってやる」と今の僕にできる最大限の譲歩というか提案をしたら、何故か烈火のごとく怒り始めた。「何考えちょっとね、あんたは。あ、五千円で何が買えるね。え、ゼロが二つか三つくらい足りんわ!!!」「え、ちょ、ちょ待てや。おま。おまえ五千円て大金やぞ。ブコフの中古CDやったら10枚買えるぞ。もっと古いやつやったら20枚、うんCDが20枚買える金額や。CDちゅうのは昔のLPレコード2枚分くらいのデータは入るから、たとえば500円のCD10枚分ちゅうのは、昔のレコード20枚分の価値がある。で、昔はLPレコードは1枚2千円、いやその後は2500円になったから、2500かけるの20は、え~と、ご、五十万の価値があるわけや。だから、この五千円をただの五千円と思うな、気持ちの上では五十万の価値のある五千円や」などと、詭弁を弄したが当然怒りは収まらなかったが、毎度毎度のことなので呆れ果ててしまったようだ。

 というわけで、日曜日に配偶者と一緒に実家に行き、母を誘ったらこちらも二つ返事で柳川の川下りが楽しみだとか、今から体調を整えておかないとなどと気の早いことを言う。配偶者も母と一緒になって、あれもしたい、これもしたい、で、やっぱりジュエリーは見るだけだとつまらないから、一緒に見てもしいいものがあったら、などと夢を見ている。その二人の会話の中でちょっと気になる発言があった。パンフレットを見ていた配偶者が「えーと、この旅行を企画しているところは、なになに大阪府知事認可、あ、ハシモトさんが許可している企画だって」などという。ハシモト市長の推薦文でもあるのかと思って見たら「大阪府知事登録旅行業」と書いてある。「アホ、お前、旅行業者というのは本社のある自治体の長の許可がいるわけや、だいたいハシモトはもう知事じゃない、市長だ」と指摘して、そういえばこの旅行会社はどんなところなんだろうと気になった。というのも、以前大手の旅行会社の企画したツアーに参加したことがあるが、とにかくスケジュールはぎゅうぎゅうで、土産物店のバックマージンがあるせいか、くそしょうもない土産屋で時間を取られたり、あまりいい印象がない。それに第一、オレはハシモトは大嫌いだ。あ、これは関係ないか、誤爆だ。

 しかし、ちょっとネットで調べてみようと思い、その旅行会社の名前で検索したら、いろんなblogにヒットして、「楽しかった」とか「得した」とか良さげなことがたくさん書いてある。2つ3つ他のblogをのぞいてみたが、どれも同じ感じだった。ま、大丈夫かなと思いつつも検索していると、ちょっと妙な記事にヒットした。「お一人様無料ご招待の裏側」というものだ。あれ、うちのパターンと、いや、まだツアーに参加してないけど、同じじゃないか。やや、不安感が増して、他にも検索してみた。「宝石見学で90分はきついって」っていう記事もあった。ますます不安になる。さらに2ちゃんでは目一杯スレが立っていた。国民生活センターにも「バスツアーで訪れた展示会場でからだによいと宝石を販売する業者」などと、それ風な相談が来ている。

 この検索結果を配偶者と母に教えたら、二人とも口をそろえて「やっぱり話がうますぎると思った」。「まあ、それでも1人はタダだし、要するにジュエリーなんぞ買わずに無視したらええねん。それか、具合が悪いいうてバスの中で休んでいたらええんちゃうか」と提案したが「それでも、その後お昼をバクバク食べていたら変だと思われる」とか「いや、そんな宝石とか見せられて黙って見ているなんて出来んわ」とかまあ勝手なことをいう。しかし、何故か家族で旅行したいという気分は盛り上がったままで、バカ娘二人は大学があるので留守番させて、たまには親はのんびり旅行でいいじゃないか。そうだ、何年か前に行った長崎がとても良かったから是非もう一度行こうと誘うが、長崎は交通の便が悪いと却下。九州新幹線に乗ってみたいと、普段は犬猿の仲の配偶者と母が何故か同じ意見。んじゃ、鹿児島までバスか電車で行って、そこから新幹線に乗って適当なところ、熊本か福岡で降りて一泊して、帰りは阿蘇の阿蘇ボーイに乗って帰ろうかと、これは予算というものを全く度外視した話も出たが、とりあえず平日に家族で小旅行をする羽目になった。バス代1万ちょい、ジュエリー代5千円ちょい、締めて2万でおつりがくると考えていた僕は、途方に暮れているのだ。ベイビー、途方に暮れてるのさ~。オイラ途方に暮れてるのさ。



サヒカブイのタワレコで



今年になって初めてタワレコに行き、CDを購入。ずいぶんしばらくぶりだったのでポイントが失効していた。しかし、いつものフルモトと違い、当然ながら新譜が多い(当たり前か)。5枚組セットを物色して、ランディ・ニューマンとかカーズを買おうかとも考えたが、通販で買うと1900円なのに、わざわざ買いに来たら輸入モノは2500円、国内盤は3000円以上する。シホン主義の矛盾を感じるので止めた。

結局、購入したのはエミ・マイヤーのミニ・アルバムとakikoのビートルズのカバー・アルバム。そしてアナログしか持ってなかったザ・スターリンのSTOP JAP。レジがロン毛のにーちゃんだったのが不本意だったが、「毎日、女子ジャズ。」というブックレットとエミちゃんのポスターカードが貰えてご機嫌である。ミチロウのアルバムにはオマケが付かなかった。サービスで飢餓飢餓海峡のボックスセットをくれないか期待したが無理だった。こちらも通販で買うほうが安いかな、などと考えていたら大事な事を忘れていた。

お金は使えば無くなる。また月曜から額に汗して働いて、お小遣を貯めねばの娘である。あ、うっかり忘れるところだった。大飯原発再稼動、断固粉砕!!



信じられる60代 遠藤ミチロウライブその2

 ミチロウと僕の最初の出会いは、いったいいつ頃だったか。ひとつはっきりしているのは、僕が大学を退学して地元に帰り、とりあえず堅気の仕事に就くためにアルバイトをしていた1981年の5月か6月くらいだと思う。それまでライブだ、イベントだ、あるいは集会だ、デモだと毎日大騒ぎだった学生時代とは打って変わって、南九州ローカルで変化も刺激もない毎日を過ごしている僕宛に届いた松原健君からの手紙だった。松原君は、今は鬼籍に入っており何度か拙blogでも故M原君と書いていたが、イニシャルで書くよりも実名で書いたほうが彼を知っている(知っていた)人からのアクセスがあるかもしれないと考えたことと、個人情報保護のためのイニシャルというのもちょっとオカシイ、個人情報は生存者の情報であるから、今後は彼についてはそのまま実名で書こうと思った次第だ。

 その松原君からは、81年82年にかけてはちょくちょく電話を貰ったり、手紙のやり取りをしていたのだが、81年の初めの頃に来た手紙に、スターリンの『スターリニズム』とネオマティスの『No Chocolate』、後は射殺魔のレコードだったか、とにかく「借金してでも買って聴いたほうがいい」という文面と、それらのレコードの解説が彼独特の文体で書いてあった。正直、バイトでの収入はたかが知れているし、実家に食費も入れていて小遣いなんて雀の涙だったが、あの松原が進めるんだから間違いはないだろうと思いお金を送ったら折り返しレコードが送ってきた。もちろん、どれも素晴らしいレコードで、ああ今頃関西のシーンはどうなっているんだろう、僕が一時期所属したPILBOXはどうなっているだろうとか、逆里心がついてしまい、ある日ついにそれまで通ってきた学校の校舎の白い壁に別れの歌刻み込んだり、窓ガラスをすべて叩き割って「留年からの卒業」などと絶叫したなどということはさらさらなくて、いかん、いつもの与太話に戻りそうなので再度巻き戻し。

 その松原君から送ってきたレコードは全て衝撃的で、それぞれの感想はあるものの、やはり一番驚いたのは、ザ・スターリンの『スターリニズム』だった。A面に針を落とすとシャリシャリという安っぽい音がしたかと思うと突然大音量で「ぶーたにしんじゅが、ぶーたにしんじゅが、のさーばってる~」とチープなバンドの音をバックに凶悪そうな歌声が響いた。歌詞は、当時の僕の屈折した心にまるで乾いたスポンジが水を吸収するように、一気に襲ってきた。「頭の上にマストを立てた学生どもには自殺入門書、傷つきやすいオジジやオババに永久不滅のホウレン草を!!」。なんだ、こいつらは、いやこの歌を歌っている男は。そして2曲目の「サル」である。「朕は××××」というモノローグから始まり、ものすごい歌詞が炸裂する。リフは「やり出したら止まらない、やり出したら止まらない」である。こいつらガイキチか?頭が半分真っ白になった。そのまま「コルホーズのタマネギ畑」である。ソフホーズとコルホーズ、ソ連の計画経済なんて社会科で習ったよな、などとぼんやり考えているうちにA面は終わっていた。

 大急ぎでレコードをひっくり返してB面を聴いた。「猟奇ハンター」は最初あまりピンと来なくて、何故かプガジャに連載していた川崎ゆきおのマンガを連想した。現実的には佐川一政の事件を連想させるとしてタイトル名を変えられたりもした。しかし、最初はあまり良く思わなかったその曲が、今では大好きな曲に変わっているから、感性というのは年齢によって随分変わるものだと思う。そして、問題の「スターリニスト」。おどろおどろしい歌詞から、演奏から展開されるイメージはミチロウのアジテーションで一気にボルテージが上がる。そして「増え続ける、増え続ける、増え続ける、増え続ける…」と煽っていき、最後は本当にあっという間に終わってしまう。これは強烈なインパクトがありました。このアジの部分を一生懸命ヒアリングして、後年入社したJEPという会社の全社員参加のグァム旅行の余興のステージで、九州を代表して僕はこのアジをぶちかました。一部の社員には大変受けたが、直属の上司は始末書を書かされたらしい。T岡さん、スイマセンでした。若気の至りです。

 この衝撃的なミニアルバムを購入後、アルバム『STOP JAP』を始めとして、一連のアルバムを購入し続けた。ザ・スターリンが解散する85年までの間というのは、僕が堅気の会社に入ってシホン主義のなんたるかをぶち込まれている時期で、ちょうど関東への出向時期とも重なっていて、毎日会社で説教食らい、仕事の何たるかを叩きこまれつつ、それでもオレは金のために体は売っても心は売らないぞと、思うそのバランスを取るために毎晩ウォークマンでミチロウの歌をフルボリュームで聴いていたのだ。当時の枕にはオレの涙とウォークマンのヘッドホンの痕がしっかり残っている(嘘だけど)。

 いかん、またもやバカ話に脱線しそうになった。大急ぎでライブ当日に戻る。



 ミチロウの声で「天国への階段天国の扉」を聴くことになるとは夢にも思わなかった。イントロが聴こえてきたときに、これは何かの間違いだと思った。いや、向こうの曲に彼独自の歌詞を乗せて歌ったものは沢山ある。「ハートに火をつけて」とか「No Fun」とか「ワイルドで行こう」とか大好きなものもたくさんある。しかし、よりによってディランの曲を、クラプトンがカバーしたこの大ヒット曲をこんな歌詞にして、ホーミーを入れて歌うとは思わなかった。しかし、それまでややざわついていた会場中が静まり返る、そんな時間であった。

 『仮設宿舎でライブをやったんだ。ああいうところでは男はダメだね。小さく固まってどっかに行っていないんだ。お客は全部女の人ばっかり。それも年齢層が高い、いわゆるおばちゃんやらおばあちゃんたちばっかりで。まあ、そこで、どんな曲やったら一番嫌がられるかと考えてね(笑)。それでやったのがこの曲』というMCに続いて歌ったのが「オデッセイ・1985・SEX」ならぬ「オデッセイ・2011・SEX」。しかし、この歌の途中で僕の目の前にいた素敵なカップル、多分彼氏と二人して「ねぇねぇ、今夜、遠藤ミチロウっていう、ちょっと普通のロックファンは聴いたことのないシンガーがライブに来るっちゃが、一緒に行かんね」「うん、よかよ、いくいく」みたいな能天気な会話をして、このライブハウスに来たと思われる感じのいいカップルが、顔色を変えて足早に会場から出て行ったのは何故だろう。僕は歌詞に影響されて男のほうが「オレは欲情」したからだと思うのだが、ライブの後で他の3人に尋ねてみたら「そりゃデートの雰囲気がブチ壊れそうになったからと違うか。だって見るからに草食系で線の細い感じだったぞ」という意見だった。真相はどうだったんだろう、ま、余計なお世話か。もっとも僕は椅子投げ男が、ライブを途中退場するカップルにいちゃもん付けてトラブルになるのではと期待、いや、その危惧したのだが、椅子投げ男はネバー・エンディング・ポゴダンスであった。



 しかし、仮設宿舎でのライブだから多分に被災者の方を励ますというか和ませる曲や演奏をすればいいと思うが、そのあたりは流石にミチロウ。一番嫌われると思う歌を歌うなんていうのは、そのあたりのボランティアのバンドや歌手には真似できない(真似しない、したがらないか、普通、笑)。この「オデッセイ」はミチロウがザ・スターリンを解散してソロでGNP(グロテスク・ニュー・ポップ)なんていって3部作を出したりしていた時期の曲だ。しかし歌詞が強烈過ぎて、実は配偶者とまだ婚姻関係になかった時期に、つまりまだ十分人生のやり直しがきく時期に、どこかにドライブしている途中でこの曲が入っているカセットをうっかりかけてしまい、しばらくヘンタイを見る目で冷たい対応をされたことがあった。あの時、そのまま二度と会わなかったら、僕の人生は大きく変わっていたことと確信する。

 『でもね、仮設にいたおばちゃん、おばあちゃん、喜んでくれてね。オレもちょっと意外だったな。それともう一つ受けた曲は中原中也の詩の曲だったな』

 さて、実はこのあたりから記憶が怪しくなる。飲み物は焼酎をロックで1杯(もっともたっぷり2合は入っていたけど)なので、それほど酔っぱらったわけではない。実は、このライブの時もデジカメを持参していたのだが、写真を撮ったり動画を撮ったりしていると目の前のライブに集中できないので、この時までウェストポーチに隠しておいたデジカメは扱わなかったのだが、さすがにちょっとむずむずしてきて手にとっては元に戻すなんてことを繰り返していた。その間にやった曲は「仰げば尊し」だったり、「負け犬」だったり、あともう1曲、ザ・スターリン時代の曲をやったのだがどうしても思い出せない。(※4.21追記、その後ようやく思い出したその曲は「MISER」だった。『何にも思わずにここまできたけれど、このまま許されるはずはないから。今に何か、いやなことが、不吉な何かが必ず起こる』という歌詞の通り、不吉な人災事故が起きてしまった。)

 「仰げば尊し」を歌い終わった時に、なんとなくこれでライブは終了という空気が会場にあったんだと思う。ギターを横のスタンドにかけようとしたミチロウに客席から、「ミチロウ、今日、こいつの誕生日」というかけ声がした。ミチロウが『え、誕生日、おめでとう。じゃ、何かリクエストある?』と、声のするほうに向かった。僕達とは反対側のテーブルに座っていた2人組である。声をかけてきたのは友人のようで、肝心のお誕生日の方は中々口を開かない。その隙にあちこちからリクエストの声がかかるが、ミチロウは『ダメだよ、彼が誕生日だから彼のリクエストだけね。で、何歳になるの』と質問の角度を変えた。「41歳」と今度は本人が答えた。『41歳?厄年ジャン。厄払いに行った?え、行ってない。ダメだよ行かないと。オレ41歳の時に厄払いに行かなかったら離婚しちゃったよ。で、今度の61歳の厄年は大震災だよ、嫌んなるよ』。大震災という言葉で僕は初めて笑ったような気がする。ミチロウも笑った。もちろんこれはちょっと不謹慎な冗談だが。

 「ロマンチスト」、と小さな声でリクエストが来た。『え、あの曲はギター1本じゃちょっとね』とミチロウはためらっていた。僕は我慢しきれず、ステージに向かって「吐き気がするほどロマンチックだぜ」と歌詞を叫んだ。ジャージャージャジャン、耳を疑ったが、間違いなく「ロマンチスト」のイントロだ。1-2-3-4と僕は思わず声を上げてカウントした。「何でもいいのさ、壊してしまえば、お前はいつでもアナーキスト、壊れていくのはてめえばかり、ぬかみそになってオポチュニスト、吐き気がするほどロマンチックだぜ、吐き気がするほどロマンチックだぜ~」。ミチロウの熱唱が続いた。エンディングもカッコよく決まった。

 『ホント、厄払い行かないとダメだよ。絶対に。5千円くらいかかるけどね。絶対明日厄払いに行けよ』、ミチロウはおせっかいにも繰り返した。あのミチロウに厄払いに行けと言われた彼の気持ちはどうなんだろうなと考えたが、今日のミチロウの話の中で昨年の大震災以降ライブハウスで顔を見ることが出来なくなったファンのことを話していたので、やはり心の優しい人なんだろうなとぼんやり考えていたら、いきなり「解剖室は空いたか、バラバラになって早く出ろ!ホラホラお前の番だ!」とミチロウが歌う。「解剖室」だ。短い曲だがリフが印象的で初期スターリンの代表曲の1つだ。その「解剖室」を歌い終えたミチロウはにっこり笑い『これが厄払いの歌ね、でもちゃんと神社行ってお参りしろよ』と最後まで優しい。

 そしてミチロウが『何やろうか、ボージャングルやろうか』と言いながら歌い始めたのが「ミスター・ボージャングル」だった。



 ジェリー・ジェフ・ウォーカーが、などとしたり顔で書くのはやめよう。洋楽を聴いたことのある、60年代から70年代の洋楽を聴いたことのある人なら、誰しも聴いたことのある懐かしいメロディがミチロウの手によって蘇る。これはソロ、それもかなり後期のソロになって演奏している。僕の持っているCDアルバム『50 HALF』にも入っているが、そちらはもっと静かな感じ。でも、最後にこの曲が聴けて良かったと思っていたら、大どんでん返し。なんと最後の最後は『じゃ、次で本当に最後です。昨年亡くなった金正日にささげます』というMCの後に始めた曲は、なんと「先天性労働者」であった。もう全員前に出て中指立てるわ、踊り出すわ、手におえない。僕?僕は「キョーサン主義の当面の目的は階級のプロレタリア階級の形成、ブルジョワ支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取である~」と絶叫していました。

 そして、外の風を心地よく感じながら交差点で信号が青に変わるのを待つ間に時計を見たら…。

信じられる60代 遠藤ミチロウライブその1

 交差点で信号が青になるのを待つ間に時計を見た。21時47分だった。スタートが19時40分くらいだったから、みっちり2時間近いライブだったわけだ。それも間に休憩をはさまず、ほとんどノンストップで、たった一人だけのライブをやってのけた男は、還暦をすでに過ぎていた。その人の名は、遠藤ミチロウ61歳、福島県は二本松出身の詩人でありミュージシャンであり、プロデューサーであり行動者でもある。アジテーターだった時期もあり、オルガナイザーだったこともあった。今年が始まってまだ半分にも満たないのだが、本年のベストライブの1つであることは間違いない。このところジャズやフュージョンなどに慣れていた耳に、久しぶりに本物のロックの歌を、いやロックだパンクだとか、そういうジャンルはどうでもいい。心に響く歌と演奏を聴いた。とにかく強力な、強烈なライブの報告をこれからしていきたい。

 ミチロウのライブがあるという情報をどうやって入手したか、はっきり覚えていないが去年は気がついたらとっくにライブは終わっていて、随分悔しい思いをした。今年はそういうことが無い様に、ちょくちょくインフォメーションをチェックしていたから、そこで分かったのか、僕の周囲に普段ミチロウを聴いている人はいないので友人・知人関係からの情報ではないと思う。そんなことはどうでもいいか。とにかく、あの遠藤ミチロウが宮崎でライブをやるということが分かったが、誰かを誘うという考えは最初は無かった。どうしてかというと、僕の友人関係というのは、僕が言うのも変な話だが結構社会的なステータスの高い連中が多く、ライブ関係の話に毎回登場するY尾君も実は地元の大手金融会社のエライサンで中心街活性化の担当もしている。そのほか、高校の同級生も会社を経営していたり、大手企業の役員をしていたり、ひどいのになると医者とか弁護士などという世間一般では学校関係以外なのにセンセイと呼ばれる奴らもいる。それに引き替え、このワタクシはいい年こいて立派なルンペン・プロレタリアートであり不安定な雇用の中、明日をも知れぬ身である。いったいどこで道を間違えたのか…。書いていて暗くなったのでやめる。

 要するに、ミチロウのライブを喜んで参戦しそうなのは、ちょっといないかな。最近、日本のロックを聴かねばの娘だとオルグしているロックバーのマスターも、『パンクは苦手でもクラッシュくらいなら聴ける』なんてタイプだから、どうしよう困ったなと考えていた。しかしながら下手な考え休むに似たりとはよく言ったもんで、結論から言うと総勢4名でのライブ参戦となった。最初は例によってY尾君から『前回の陽太のライブは行きたかった』というメールが来たので、遠藤ミチロウのライブがウェザーキングであるけど、どうすると返信した。すると普段は返信に3日4日かかる男が直ぐに『行きましょう』とやたらノリノリで返事が来た。参加はいいけど、『随分メールの返信が早くなったな』と折り返したら、『実は今、親の入院の付きそいで病院にいて手持無沙汰だったから』、などと返事が来た。一瞬、彼は遠藤賢司と間違ってるのじゃないかと思ったが、そのままにしていた。その後、S藤君、ロックバーのマスターも参戦するということになった。S藤君はパンタや頭脳警察も聴いていたから、ザ・スターリン時代のミチロウも知っているが後の2人はどうなんだろう、大丈夫だろうかという不安を持ちつつ当日を迎えた。

 18時30分開場だったので、その時間にライブハウスの入り口(地下にあるライブハウスなので、1階の雑居ビルの入り口あたりでと連絡しておいた)で待ち合わせたのだが、直前にメールで確認したらY尾君はまだ仕事で職場にいたし、S藤君も仕事が片付き次第向かうというし、ロックバーのマスターは今自宅でこれから出るなどという。そうそう、その日は春の嵐というか突然発生した低気圧でものすごい風が吹きまくり、もう4月だというのに真冬に逆戻りしたような天気だった。あまりの寒さにそれまで着ていたジージャンを脱いでダウンのごついジャケットを着こんだが、それでも顔や手に当たる風は冷たくて風邪をひきそうだった。待ち合わせ時間の5分前について、彼らを待っていた。するとどう見ても小学校の高学年とか中学生くらいの女の子が、ビルの入り口に吸い込まれていく。ときどきわけあり風な化粧をした、ちょっと恋と人生に疲れているんじゃないかと思う30代の女性とかそういう人も吸い込まれている。やるな、ミチロウ、流石はミチロウ、幅広い女性ファンがついているな、などと考えていたが、30代はさておき小中学生はどうも違うんじゃないかと思って、そのビルの看板を良く見たらEXITとかなんとかいうダンスユニットの教室が一緒に入っていて、どうもそちらの生徒たちのようだった。その看板を見るまでは、流石ミチロウ、バージンキラー、スコーピオンズ、オレもまだまだなどと無駄な対抗心を燃やしていたことは内緒にしておこう。

 最初にY尾君がいかにもいままで仕事をしていたという格好で登場し、次にS藤君が「早い、早すぎじゃ18時30分は」と愚痴りながらやってきて、そろそろ45分になるぞという時間にロックバーのマスターもやってきて、これで全員集合。さてライブハウスに入るかというときにS藤君が「Y尾君とかマスターは30分もつかな」などと不安なことを言い出した。Y尾君も「オレ、昼間職場の40代のやつに『今日、遠藤ミチロウのライブに行く』と話したら、『エッ、ああいうの聴くんですか』って絶句されたぞ。不安になったから、どういう音楽なのか聞いたら、そいつが『明日は間違いなく筋肉痛です』とかいうけど、どんな曲やるんだいったい」などという。今更、ライブは見ないなどと言われると困るので、「うーん、なんというのかな。言語に敏感な、あ、吉本隆明、この間亡くなった、彼から思想的影響を受けていてね、うん、そうそう、『一本道』の友部正人、知ってるだろ、彼のバックでベースも弾いていた時期がある、なんていうかな、吟遊詩人といえばいいのか、いや若いころは、そりゃだれだって若いころは無茶するじゃないか、まあ、若いころのバンド時代はいろいろ武勇伝があって、豚の臓物投げたり鶏の首を投げたり、若い女の子にフェ、いや、ま、とにかく入ろう」と無理やり地下への階段を下らせた。

 入り口でチケットを出すとドリンク代500円を請求され、払うとコインをくれた。そのコインをドリンクバーに持って行って、希望の飲み物に交換するというスタイルは以前来た時に知っていた。実は数年前に某松風カルテットというジャズコンボのライブをここでY尾君と聴いたのだが、その時の演奏がトラウマになっていて正直このライブハウスとはウマが合わないイメージがあったのだ。また地下に降りる前にS藤君と話していた時に、今日のライブはオールスタンディングか椅子があるかという話をしていて、S藤君が自信たっぷりに「ここはオールスタンディング、それ常識」などというもので、足腰が弱りかけている我々は30分もつだろうかという不安もあった。焼酎のロックを注文しながらステージのほうを見ると、ちゃんと椅子があったので一つ安心して注いでもらったプラスチックのコップに勢い良く注がれる焼酎は、多分正味2合近く入ったのではないか。なんだ、そんなに悪い店じゃないぞという気持ちで前から2列目のテーブルに座った。目の前に2つテーブルがあったが、そこにはカップルと単独の女性がすでに座っていた。

 そのライブハウスは普段良く行ってるライフタイムの4倍近い広さがあり、第一ステージがかなり広い。向かって左側にはドラムセットが収納されてあり、中央にマイクとPAが、そのPAの横にセミアコのギターが置いてある。また右側には小さなテーブルがあり、そこにペットボトルやちょっとした小物が置いてあった。客席にはテーブルが12,3組、2列平行に置いてあり、客は10数人だった。19時になると、痩せた若い男が出てきた。「こんばんわ」と大きな声で挨拶して深々と頭を下げた。一瞬ミチロウかと思ったが、声の感じが違うし、ちょっと若すぎる。後で知ったが雅季というシンガーだった。マイクに向かっていきなり歌い始めた。悪くない、時々歌詞に気になるフレーズもある。ギターもまずまずだ。しかし、MCが随分低姿勢で「ミチロウさん、もうここに来てるんですが、ちょっとだけ僕の歌に付き合ってください」とか「あと2曲で終わります」とか、手にはタトゥーをしているし、レザーのパンツにはチェーンも付けているけど、言葉遣いもきちんとしていて、ものすごく礼儀正しいパンクスだった。あ、パンクスと決めていいものか、良く分からないけど。スタイルはセミアコのギター1本で絶叫する。しかし、声がのどから叫んでいる感じで、せっかくの言葉が聴き取れない、伝わりにくい。また叫び方が一本調子で、聴きようによっては動物のいななきみたいで、非常にもったいないと感じた。そうだ、その雅季君が歌ってる間、前の一番左の席にいた男の客がノリノリで頭振り乱し、足でビートを取っていた。それはいいけど、2曲目か3曲目の時に突然椅子を放り投げたのには驚いた。お、こりゃ、喧嘩でも始まるのかと思ったが何も起こらなかった。椅子も安っぽいビアガーデンなんかに良く置いてあるプラスティックのへなへな椅子なので、衝撃で音が響くとか周りのコップが割れるなんてこともなく、いったいあれはなんだったのかという感じだった。

 そして雅季君のラストナンバーが終了し、ついにミチロウが登場してきた。驚いたことに椅子投げ男は、ミチロウが登場すると一番前のステージと客席を隔てているフェンスのところに突進し、ライブが終わるまでそこでポゴダンスを踊っていた。ちょっとおとなしい感じで挨拶したミチロウはいきなり演奏を始めた。僕の知らない、最近の曲のようだった。歌詞に何度も2011年という単語が出てくる。重い、暗い歌だった。ただオープニングアクトの彼と違って、言葉がはっきり聞こえる。歌に込められた怨嗟の感じも強く伝わる。間違いなく、あの震災とその後の人災の関する歌だろう。ミチロウの声はナイフのように突き刺さり、そして理不尽な現実のせいでこの世から去らなければならなかった無数の人たちの嘆きを悲しみをホーミーで訴えてくる。このライブを通して、一番感じたことは、ミチロウは歌がとてつもなく上手い、そしてホーミーでのアクセントのつけ方はギター、ブルースハープに続く第3の楽器であった。

 1曲演奏が終わってMCが入った。昨年の3.11の時、ミチロウはこのライブハウスで演奏するために宮崎に向かっていたらしい。そして飛行機が着いたころに、あの大地震と大津波のニュースが空港で繰り返し流されていた。東京の知人や福島の実家に電話するが全く連絡がつかず、詳しい状況はライブハウスのパソコンで、ネットから情報を得るしかなかったらしい。その日のライブはどういう風に終わったか全然覚えていないという。それはそうだろうな。『あの大震災以降、東北のあちこちでライブやったけど、いつも来てくれていたお客さんの顔が見られないと物凄くつらい。今日は、初めて会う人もいるけど、また次のライブでも元気な顔を見せてくれることが一番うれしい』。



 『日本で初めて原子力発電所が出来たのは、どこか知ってる。そしてその電気はどこに送られたか知ってるかい。1970年のことなんだけど、君たちはまだ生まれてないよね』。ミチロウ、そんなことはないぞ。少なくとも1970年には既に中学校に通っていた元ヤンが4人来てるぞと、叫びたかったが、一緒に来ている連中が「やっぱりアブナイ奴だ。もうライブ見るのやめて居酒屋行くか」などと言い出しかねないので、心の中で叫んだ。『正解はね、敦賀原発。そしてその電気は大阪万博会場に送られたんだ。だからあの太陽の塔ってのは本当は原子力の塔だったかもしれない(笑)。そういう時代に流行った歌を歌います』といって歌ったのは「夢は夜開く」、といっても三上寛バージョンだ。「開く夢などあるじゃなし」という世界だ。キター!!!!!この歌を聴いた瞬間、オレはあの希望と不安がごっちゃになっていた70年にタイムスリップしていた。そして、『今の歌は宇多田ヒカルのお母さんの藤圭子って人が歌ってヒットしたんだけど、知らないよね。もっともオレが今歌ったのは三上寛という東北の人のやつだけど』。その後、東北について簡単に話した後に出てきたのが「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れました」。これも強烈なインパクトを持って僕の胸に突き刺さった。カセットブック『ベトナム伝説』で初めて聴いた歌だが、歌詞のおどろおどろしさと東北のイントネーションを感じるミチロウの歌い方、そして演奏の重さがしみじみと伝わる名曲だ。ボブ・ディランに捧ぐとあるのはどういう意味だろうなんて考えていたこともあったっけ。

 『しかし、今回の原発事故でみんな思っただろうけど、何がひどいって政治家が一番ひどいね、何にもしない、どうしようもない。でもそのどうしようもない政治家を選んだのはオレ達一人一人の責任だ』といって歌い始めたのが「下水道のペテン師」。
>掃き溜めばかりが花開く、アメリカばかりが何故赤い、愛するためにはウソがいる、そうだよ、オレもペテン師~。

 『この前、東北のツアーを回ってさ、もちろん原発事故の避難区域に当たるところも通ったんだけど、人っ子一人いないんだよね。その代わりにいたのがイノシシ。いや、もうあっちこっちに集団でいるんだよ。それから牛、飼われていた牛が、もう畜産農家の人も飼えないから放してやったんだね。野良牛だ。そういうのが沢山いて、もちろん放射能をたっぷり含んだ草や水を食べているから長生きできないけど、でも人間がいないので自由に暮らしてるんだよね。こうやって見ると、あの事故も動物にだけは良かったのかもしれない』。『僕の田舎のフクシマには阿武隈川って大きな川があって、あちこちの小さい川がその阿武隈川に合流して、最後は海にそそいでいるんだけど。その阿武隈川の周辺ではセシウムが凄いんだ。だからもう近くに住んでる人は川に絶対近寄らない。なん百億ベクレルなんて数字が平気で出てくるんだよ。これで安全だっていったって誰も信用なんかしない』というMCの後歌い出したのが「カノン」だった。
>ボクは今日 ふたのついた ビンの中で泳ぐ 玉虫色の光を キラリキラリさせながら
 腹を出して 尾っぽを流して 泳ぐ赤い金魚 ふ~らり、ふ~らり、ふ~らり…。歌詞の「ふ~らり、ふ~らり」のリフレインが心地よい。しかし、その水の中にはおぞましいものが、海の広さで薄められて入るものの確実に僕のあなたの命を奪う物質が…。

 前半、いや別に前半後半と分かれて間に休憩を取ったりせず、我らのミチロウはノンストップで2時間を疾走するのだが、あえて前半と区切らせてもらうと、ミチロウがアコギで演奏する意味が少しわかったような歌があった。「Just Like A Boy」というその曲は、ミチロウの歌、詩の世界がいかに素晴らしいものかが良く分かると思うので、ここに貼っておく。さて、この続きは明日必ず書くので、今夜はここでサヨナラだけが人生。



入学式なう



バカ娘2号の入学式に参加。いつもなら、何故オレがと反逆の軌跡パート2となるのだが、今週はミチロウライブに行ったり、宴会があるなど、当方に不利な事情があり仕方なく参加。

校門付近で何やら資料らしきものを沢山持った集団と遭遇。懐かしいな、情宣部隊か、この学校のトーソー課題は何だと資料を受け取ったら営業だった。シホン主義の堕落はこのところこのあたりにある(怒)。

ま、オレは怒りを持続させることがエネルギーの源だから仕方ない。

帰り道なう



宴も終わり、帰る途中である。前のエントリーにも書いたようにセクシーなおねいさんをテイクアウトしている。ナイスバデイのおねいさんである。

もっとも、著作権とか言うややこしいものがからむ。えーと、帰り道のフルモトで江口寿史のお蔵だしを補導したのだ。ついでに懐かしいCDも。

それにしても夜桜は美しい。

宴会なう



このところ、週末はいつも宴会である。こんな事でいいのか、課題は山積み、エントリーはそのまま、人生大変なんだが今日の宴会は両隣が、おねいさんなので嬉しい。

おーい、ここはテイクアウト大丈夫だよな、え、ご自由に、分かった。

TEA FOR TWOなら知ってるが



ミールクーポンを持っていたので、学食でランチ。頼んだチキン南蛮にも異議申し立てしていたのだが、テーブルにあったメニューが目に入った。お、二人でお茶を。チコ・ハミルトンの演奏が好きだったなと思い出していたら、どうもスペルが違う。

TABLE FOR TWOという先進国と途上国の食にたいしての運動らしい。先進国の20円は途上国の給食一食分になるから、代金に20円乗せますというものらしい。消費税みたいなものか。しかしどことなくヨヨギの臭いがする。

大学なう



バカ娘1号の就職説明会に参加するために大学に来た。そんなもん本人が、しっかりやればそれでいいじゃないか、なにゆえ親がそーいう説明会に参加する必要性がある。ツクバチューキョーシン路線断固粉砕と、ブーたれたのだが、なんとこの日に遠藤ミチロウのライブがあると知ってジャガーチェンジ。いまどきのゆとり世代は、当てにならん、オレが有休取ると宣言したのだ。


しかしながら、当日は新入生のオリテをやっていて人大杉。それにしても、タテカンはないしビラも散乱していない。だいたいハンドマイク持った学友諸君がいない。どうなっているのだ、大学は。

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