どこでもある話 その1

 この前の日曜日に、DRACの上級生追放の歴史を確認しようと1年先輩のT原さんに電話した。この人はカゴシマ出身で、正直学生時代に一番濃い付き合いをしたというか、およそ大学で学べる悪いことは全て教わったと言ってもいいくらいのお方である。頭脳明晰、弁も立つ、文章も僕など足元にも及ばないくらい品の無いお下劣なものを書く才能を持っているので、blogを書いたりSNSに参加したりして、その能力をアピールすればいいのにと思うのだが、全くそういう気が無い。先日の電話でも『FBとかmixiは、やらないの』、と尋ねたら『ヨメさん、子供、親戚みんなFBやってるけどオレはやらん』と頑なである。PCスキルに自信が無いのかと思ったが、仕事でネットは駆使しているのでそうでもなさそうである。ちなみに、拙blogに恐怖の記憶力コメントをくださるデューク中島先輩も、FBやblogはやらない。まあ、FBやblogなんかやるのは、所詮群れるのが好きな小物だってことだな。オレも含めて。

 そのT原さんに夕方の5時過ぎに電話したら「おう」と最初から酒臭い。いや電話だから酒臭いはずはないが、すでに呂律が怪しい。ずいぶん前だったが、日曜の午前10時くらいに突然電話がかかってきたことがあり、その時も自分の部屋でビールを飲みながら音楽を聴いていたら、どうしても出てこない曲名がありそれを尋ねてきたのだが、よもやま話をしているうちにいったい何の用事で電話してきたか分からなくなり、お互いの近況報告が終わるとそのまま電話を切ってしまったことがあった。今回は、僕が「主体的」に「問題意識」を持って電話したので、話はちゃんとできたが、しかし相変わらず酔っぱらっていて話すことが素っ頓狂である。この人にはたしか2~3歳上のお兄さんがいらっしゃるのだが、先日、米寿を迎えた父君のお祝いに、お兄さんはエレキギターを持って参加して、何故か「朝日のあたる家」を歌ったらしい。T原さんも、どうしてオヤジの祝いの席でアニマルズのコピーを聴かないといけないか良く分からなかったが、とにかくめでたいからと一緒に歌ったらしい。

 さらに、この兄弟、父君の米寿の祝いの宴席だというのに、そう遠くない未来に起こるであろう父君の葬儀の時に流す音楽をどうするかというテーマで熱く語り合ったらしい。二人ともストーンズと頭脳警察のファンであるが、ハイカラな父君に敬意を表してストーンズ一本で行こうということにしたらしい。選曲では「ジャンピン・ジャック」は、当然決定。「ホンキー・トンク・ウィメン」をT原さんはプッシュしたらしいが、兄上が『オヤジの葬儀で娼婦の歌を入れるのはどうか』と、本人は米寿の席で娼婦の家の歌を歌いながら異議を申し立てたらしい。「悪魔を憐れむ歌」は逆に弟が、『それ、やばいんちゃう。うちのオヤジ、ケネディ殺してへんで』と反対し、結局まとまらず、再度お互い問題点を持ち帰り次回の会議で最終決定しようということになった、などという話を、あなたシラフで聞いてられますか?

 まあ、こんな調子で放っておくとどこまで話が広がるか分からないので、本来の目的である77年2月のO西さん追放劇の真相を聞いた。

 実は、僕のいたサークルは上級生をクーデターで追い出すという歴史が何度か発生している。もちろん、それが「クーデター」なのか、「大義ある革命」なのか、まあ所詮学生サークルのことなので、そこまで大げさに言う必要はさらさらないが、追い出す側にも言い分があれば、追い出される側にもそれなりの言い分はあるだろう。どちらが正しかったかというのは、その後の結果を見れば一目瞭然で勝てば官軍である。要するにこれこそが進化論の生き証人(by P-Model)だろう。なんだかんだいったって、追い出されたほうが負けなのだ。悔しければ捲土重来を期して、リターンマッチを挑めばいい。なんてったって、一応我がポンニチはミンシュ主義の国である。多数決の国である。もっとも投票権がCDの購入枚数で決まるという、シホン主義に汚染されたミンシュ主義ではあるが。ただ、普通選挙の1人1票っていうのもどうかなぁ。大きい声じゃ言えないけど、アホの1票とオレなんかがしっかり考えた1票はそもそも重さが違うだろう。オレなんかアホ1000人分くらいの票を持っていてもいいんじゃないか、などと書くとベサツだと言われるので注意しよう。

 さて、この放逐の歴史というかドンデン返しの歴史というか、ま、とりあえず「クーデター」という言葉に統一して話していくが、僕が知っている話の中で一番古いものは僕がサークルに入る前の年、74年の出来事だった。このあたりは当事者ではないので、学生時代に聞いたことをまとめたい。僕がサークルに入った時、当然執行部は3回生の先輩たち(何度か書いたがゲゲゲの鬼太郎に似たY田さん、東映やくざ路線を地でいってたS賀さん、それとあこがれの君U村さん、ヨーロッパのバス事故で亡くなられたM井さん等)だったが、何故か4回生がいない。いやA井さんという背の高くて温厚な先輩が一人いたけど、ほんのたまにコンパに参加するくらいで他の活動は一切しない。そうそう、もう一人5回生の先輩でY田さん、通称よっちんという先輩がいたがこの人は雀荘で会うくらいで、そもそもBOXに顔を出さない。あるとき、不思議に思って聞いたら、もちろん以前は71年度生、72年度生、73年度生といたらしいが、74年にヘゲモニーを握っていた執行部の人たちが、とんでもない人たちだったので放逐したという。

 どんなふうにとんでもなかったかというと、これは以前書いたことがあるが先述のT原さんがまだ初々しい(本人いわく)1回生の頃、BOXに来たらドアーズが流れている。当時、BOXでロックが流れるのは珍しく誰が流しているのかと見ると2年先輩のUさん(名前も顔も知ってる。見るからに嫌な奴って人だった。苗字も魚の名前でその生態が良く分かっていない魚の名前と同じである。浜松が名産地だけど、鹿児島の池田湖にも大きいのがいる)で、普段はジャズかクラシックを聴いてる人だ。思わず「ドアーズですか、いいですね」と話しかけると、ケッという感じで「こんなん、シャレやシャレ」と吐き捨てるように言われたそうだ。こういう感じの出来事はしょっちゅうで、それでも当時の1回生は耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのんでいたらしい。特に、当時の1、2回生は九州や四国の人間が多く「長幼の序」をわきまえていたので、先輩にはむかうということはなかった。しかし、研究会でも自分たちの聴いている音楽は高尚で、他は一切ダメだというようなセクト主義。この手の人って結構多いんだよね。またそういう人に限って、理解の良さそうなふりをするけど、ちょっと突っ込まれると保身に必死になる。この上級生たちも1番高尚なのはクラシック、次がジャズ、ロックなんて言うのは不良少年のたわごと、あんなものは音楽じゃないという態度だったらしい。

 その時の上級生グループは71年度生のA部さんという人が中心で派閥を形成していた。とにかくこの人のいうことは絶対で、この人が白といったらカラスも白というくらいの恐怖政治を行っていたらしい。お父さんはY浜銀行のエライサンで就職はコネ全開で心配なし。なんといっても仕送りのお金が半端じゃないので、自分の気に入った後輩にはガンガン奢ったりするものだから、Uさんとか一杯タイコ持ちがいたらしい。しかし、暴虐の鎖は断つ日が来る。きっかけはどういうことか覚えていないが、EVEの時に当時の1回生・2回生を私用でこき使い、当時の学友会に指摘されるような問題を起こした。またそれまでのやりたい放題の不満が、1・2回生にたまりにたまってサークルの全体会議の場で炸裂し、それまで批判することはあっても、批判されることのなかったA部グループは全て放逐されたらしい。このあたりは実際に見聞きした訳じゃないから、どうも歯切れが良くないが、まあ僕の入る前にそういう形での上級生放逐劇があった。

 そして、僕の年になるのだが75年は全く無風状態というか、それまでの上級生の恐怖政治を放逐した人たちがサークルの中心にいたので、愛想が悪いのと女っけのないのは仕方がなかったが、サークルを運営していく上ではなんということはなかった。そして、75年の1年間を通して見た時に、次の執行部の中心はT原さんがリーダーシップを取ってやっていくことが、暗黙の了解であった。ところが、このT原さんが学友会の活動家だったことがその翌年の放逐劇の伏線になるのだった。一気に書こうと思ったけど、現在進行形の嫌なことを思い出してしまうので、続きはまた今度。しかし、自由にものが言えない空間って嫌だな。バカ話の出来ない人間関係って一体なんだよ。



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雛山祭なう



最近、話題の麹を買いに綾町に来たら、雛山祭をやっていた。あちこちに雛人形が飾ってあり観光客が巡回している。うちも以前は雛人形を飾った時期があったが、しまうのが面倒でだしっぱなしにしていたのは、バカ娘達には内緒である。

DRAC興亡史 EVE外伝バンド登場

 やはり、人の記憶というのは限界があるというか、それでもちょっとしたきっかけで思い出すこともある。先日、発作的に書いたDRACのEVEに関するエントリーで、先ずは時系列で75年のゴーゴー喫茶(すまん、ディスコと前回は書いたが、正確には「Go Go & Disco 王将」が正式名称だった)の話からスタートしたが、僕の高校の先輩のバンドがどうして大学は異なり、ましてやDRACとは何の交流もないのに、僕たちの学園祭のGo Go喫茶のハコバンになったか、そのいきさつを思い出した。きっかけはデューク中島先輩から頂いたコメントのお蔭であった。「…貴殿の下宿でだったと思いますが、バンドのボーカル氏とギター氏が居て、私が 何気なく『ピストル型のライターが有るけど、横に炎をまっすぐ出す事って出来ないのだろうか?』と言ったら お二人が 物理や化学の用語で 真面目に検証を始められ 『百万遍にある超一流国立一期校は、そうなるか!?』と思ったものでした(笑)。」という部分だ。

 この話は最初思い出せなかったけど、いろいろ考えていたら突然その日の情景が浮かび上がった。多分、もうEVEは終わっていた時期で、偶然僕の下宿に高校時代の先輩であるそのバンドのボーカル氏(A部さん)とギター氏(U野さん)が遊びに来ていて、そこにばったりデューク中島先輩が遊びに来たのだ。当時は喫煙者であらずば人に非ずという時代、テツガクする大学生は全員喫煙することが思索の前提条件だった時代(大嘘です)、まあ、圧倒的多数の学生諸君は喫煙者だった時代で、当然イチビリの多い大学生は人と違うライターなど持ちたがる。ちなみに僕はWinというメーカーのバッテリーライターというのを買ったことがある。つるんとしたメタリックボディに丸いボタンがついていて、そのボタンを指で下げると内臓のバッテリーが火花を飛ばし点火する仕組みだった。着火音もライター独特のカチャッという音ではなく、ほとんどサイレント、無理に表現すればチッという音ともいえない音がして火がつく。これカッコ良くて、メーカーがテレビコマーシャルしていて、それを見た僕はすぐに買った。確か4,5千円くらいしたと思う。そんなライターを買えるのはブルジョワではないかというご指摘があるかもしれないが、その時はちょうど76年の新学期が始まるときで実家から口先三寸でせしめたお金が懐にたんと入っていたから買えたのである。

 しかしながら、いくら一時的にお金が入っていても生活費というのはかかる。下宿していれば毎月の下宿代、電気代、水道代、さらには食費、たまには飲んだりコンパ行ったりするから交際費もいる。そして、もちろんバクチ(麻雀)の種銭がいる。そうそう大学生だから本やレコードも買わないとイケナイ。そんな一時金などあっという間になくなり、次の仕送りが来る1週間前はイソップの名作『アリとキリギリス』に出てくる冬のキリギリス並みの生活苦が襲ってくる。そんなことは百も承知で発作的にレコード買ったり、本を買ったり、飲みに行ったり、ライブを見たり、そのたんびに仕送り前の1週間水だけで生活するとか、苦し紛れにウスターソースの一気飲みをして気分が悪くなるとか何回経験しても、同じことの繰り返し。パブロフの犬以下の学習能力しかなかった。

 今でも思い出すそういう時期の貧乏生活の話で、あの時は出町にいたから77年だったと思う。毎日かかさずBOXに顔を出すワタクシが1か月の中で2~3日顔を出さない時期がある。僕の先輩、友人諸君は当然ご存じの僕が仕送り前の耐乏生活期間に入っていて下宿に籠って出てこない、いや出て来られない時期だ。それを察した高知出身の先輩のS賀さんと鹿児島出身のT原さん、もしかしたら同期のN谷君もいたかもしれない。とにかく3人か4人くらいで僕の下宿にどやどやとやってきて「おーいdrac-ob、生きてるか。味噌とコメを買ってきたから飯を炊いてくれ。一緒に食おう」と声をかけてくれた。この時はありがたくて、持つべきものは先輩・友人だと感謝して、いくらバクチで巻き上げられようが、いくら余計なボーリョク学生のスローガンを植え付けられようが、いくら単位を落とそうがオレは先輩たちについて行くぞ、と固く心に誓ったものだ。おかげで今は立派なルンペンプレカリアートである。ありがたくて涙が出る。おっと愚痴が出た。

 それでも、近所の出町の商店街で大の男が何人か手分けしてコメや味噌や豆腐、ちょっとした野菜やおかずになりそうなものを買ってきていたので、愛媛出身のY田さんから譲り受けた3合炊きの電気炊飯器でご飯を炊き、味噌汁と簡単なおかずを作ってみんなで食べようとしたその時、一番年長のS賀さんがブッと口にしたものを噴出した。「S賀さん、行儀悪いで、なんぼ先輩でもこういうときは、みんな揃って『戸締り用心、火の用心、お金は世の為、人の為。 チョキチョキ貯金の金曜日~』と一日一善の歌を歌って、声をそろえて『頂きます』、せんとあかんのちゃう」と、これは予期せぬ食事にありつける嬉しさのあまり僕が発した軽口。するとT原さんも口につけていた味噌汁の椀をかざし「お前、なんやこれ、薄すぎて味噌の味がせえへんぞ」と怒鳴る。確かに料理を作った僕の姑息な計算があって、今日届いた食料品を上手く使って、仕送りまでの間、飢餓に苦しむことが無いようにしようと、味噌汁に入れる味噌はほんの気持ちだけ、それ以前に出汁に使った鰹節も出汁の素もかなりケチって使ったので、それがバレたわけである。僕は「え、こんなもん違います。京風のうす味って。いややわ、これやから四国とか九州のお方は。味を濃くせえへんと食べた気がしはらんのやて。いややわ。うち。こんなん」などと必死で抵抗したが、それぞれの椀の味噌汁は再度、ナベに戻され今度は味噌を定量入れるかどうか僕がガス台に立っている間は見張りがついてしまったという顛末。さすがに作り直したものはちゃんと食べられたので、そこにいた全員で美味しくいただいた。

 おっと、余計な話だった。要は何故僕の高校時代の先輩のバンドが我がDRACのEVEに参加するようになったのか、という話だった。それは75年の4月の終わりくらいにさかのぼる(っていうか、このDRAC興亡史は、いつまでたっても75年の前期あたりで話が堂々めぐりしてないかという疑問点を持った方、あなたは鋭い。僕も話を先に進めよう、進めようとしているのだが、どうしても同じところをぐるぐる回ってしまう。そうだな、これからはメビウスblogと、これからは呼んでくれって何を格好つけているのだ)。まだ修学院の生活に入ったばかりの頃だが、ある日の夕方大家さんから電話が来ていると呼び出された。この辺の描写は今の人たちに分かるだろうか。当時は携帯などなかったし、電話は基本的に母屋の大家さんの家に1台あるだけで、下宿生の家族や友人、知人要するに関係者の連絡は全て大家さんの家の電話を通じてしか出来なかったのだ。

 大家さんの声に返事をして、階段を駆け下りておもむろに電話に出ると、それは実家からで僕の出身校の同窓会事務所から葉書が来ており、関西の同窓会があるので是非参加してほしいと、そしてその返事を往復はがきの片面に丸印をして返送しろと書いてあるらしかった。その往復はがきを修学院に転送してもらえば何のこともなかったのだが、たまたまその往復はがきの受取人の住所が同じ修学院であることと、受取人の苗字から察するに同窓生だったA部の兄貴ではないかということが分かったので、直接その返事をA部さんの下宿に行って話せばいいと考えたのだ。A部というのは、高校時代映画研究会にいた男で、クラスは一緒になったことはなかったがいつの間にか良く喋るようになり、ある時に兄貴が『百万遍にある超一流国立一期校』に通っているということを聞いたことがあった。今から考えると、地元を離れて1か月経過して、ちょっと同郷の人間に会いたいという気持ちが強くなっていたんだろう。同窓会も今ではとても考えられないが、当時は毎回参加していた。

 電話で聞いた住所を紙に書いて、大家さんにその場所を尋ねたら僕の住んでいた修学院の中林町から歩いて10分もかからないところらしいので、散歩がてらぶらぶら探しに行くことにした。もっともそのあたりは、あちこち下宿やアパートがあったが、幸いなことにその番地には大きな建物はそこしかなかったので、さほど苦労せずその下宿にたどり着いた。同じような建物が2棟建っていたので、そのうちのどちらかにA部さんはいるものだと思ったが、メモした紙には部屋の号数が書いてなかった。またもや粗忽だなと思いながらも、下宿にはたどり着いたので適当な部屋にノックして出てきた人に、これこれこういう人はいないかと聞いたが、知らないと言われる。じゃ、もう1棟のほうだと思い、そちらで尋ねるがやはりそういう人はいないという。『百万遍にある超一流国立一期校』の在学生で、南九州出身のA部さんと説明するが、その下宿人は長年そこに住んでいるがどちらの棟にも、そんな人はいないという。

 相手の人も『百万遍にある超一流国立一期校』の学生みたいで、嘘や冗談を言ってる感じはなかったので、僕が聞き間違えたのか、あるいは住所を書き間違えたのだろうと思い、お礼を言って帰ろうとしたら、相手が「もしかしたら母屋に住んでる人かも…」といった。詳しく聞いてみると、その下宿の大家さんが裏側の畑の奥に住んでいて、その一番奥のほうに学生が住んでいる。その人がA部さんではないかというのだ。要するに下宿生ではなく、親戚の家に住んでいるんじゃないかという。ダメもとなので、その大家さんの家に尋ねてみると、ビンゴであった。その家はA部さんの親戚の家で、彼はそこに部屋を借りて住んでいたのだ。突然訪ねてきた同郷の後輩をA部さんは、優しく迎えてくれていろいろ京都のことだとか、この近くの安くて美味い定食屋とか、喫茶店は修学院プラザを抜けたところにあるサンルイってところがあるが、あそこのカレーは何故か白いとかいわゆる生活情報をたっぷり教えてくれた。それとA部さんと話が弾んだのは、彼もロックが大好きで、好きが高じて大学の仲間とバンドを組んでいるという点だった。

 A部さんの住んでいたところは、僕が普段晩御飯を食べる定食屋の近くだったので、食事の後のコーヒー目当てで良く足を運んだ。そこでいろんなレコードの話をしたりしていたのだが、あるとき顔のちょっと長いトッド・ラングレンみたいな人がいて、挨拶したら同じバンドのリーダー兼ギタリストだという。その人、U野さんは出身はどこだったか覚えていないが、やはり気さくな人でいろんなバンドの裏話や、実は自分たちのバンドにはボーカルがいないので臨時でA部君に歌ってもらっているが、彼は本当はメンバーでないとかA部さんをからかって言ってるのかマジなのか良く分からないことを話したりした。さて、そこから時間は一気に過ぎて75年の後期が始まる。鳥取の合宿でサークルEVE実(つまりサークルの学園祭責任者)は74年度生のI上さんという久留米出身の人。そして文連EVE実(つまり文化団体連盟の学園祭実行委員)は不肖ワタクシという2人体制で、Go Go & Disco王将プロジェクトはスタートした。

 僕たちが使う教室はS地下4というところで、正確には至誠館という建物の地下にある第4教室であった。そこにBOXからオーディオを運び、大音量でレコード流して踊って頂こうという企画だったが、果たしてそれでどれだけお客が呼べるかは未知数であった。あ、こう書くと売り上げ至上主義みたいに思われるかもしれないが、僕が受け持った文連EVE実の権力を握っていたのは某セクトだったので、売り上げではない、EVEの72時間自主管理を発展的に継承させて全学自主管理が本来のEVEのなんたらで、まさしく、そのような状況こそが、当局と一体となった、あの卑劣なるニッキョ、いやいや、その、まあこういうことを四六時中おっしゃってるエライサンの会議に出るのは結構しんどかったのよ。いやなんの話だったかというと、とにかく9月段階では生バンドを入れたいけど、コネもないしどうしようか、まあ最悪はレコードだけでいいか、でもそうすると他のサークルに客を持っていかれるし、いやちょっとI上さん、それ本来のEVEの目的と違ってますよ、僕たちはそのような商業主義とは分岐を鮮明にしてですね、アホ、お前ええかっこいうな、今度のEVEでしっかり儲けてツィーターとアンプを買い替えるんじゃ、そのためのディスコに決まってるやろが、いや、もちろん売り上げも大事ですけど、僕たちはサークル運動の理念と系譜を大事にしないと別館自主管理の問題がですね、やかましいわ、おまえ、どこかいいバンド知らんか?

 というような会話を連日、僕はI上さんとしていた。そんなある日、僕の下宿に突然A部さんが登場し、開口一番「ちょっと頼みがある。オレたちのバンドをお前の大学の学園祭に出演させてもらえんか」。「あ、うっとこ今年はGo Go & Discoやるんですけど、その手の音楽出来ます?」「大丈夫、大丈夫、じゃ今度お前のサークルの責任者に会わせてくれ」と、普段から押しの強いところのあったA部さんだが今回も強力に迫ってくる。その迫力に負けてI上さんに話をしたが、一度直接会って出来れば音も聴かせてもらって判断したいということになった。いわゆるオーディションというかリハですな。で、ある日、EVE実のI上さん、僕、そしてこういう時は年長者がいるといいという多くの声に押されて(要するに他のサークル員は面倒が嫌いなので)副会長のS賀さんと3人でA部さんの部屋に行った。そこにはU野さんとA部さんが待ち構えていて、しかしながらそこはスタジオでもない普通の日本家屋なので、アンプを通さずちょっと演奏してもらい、簡単にOKが出た。要するに、そのバンドが僕たちのGo Go & Disco王将の栄えあるハウスバンドとなったのだ。しかし…。というところで時間となりました。続きはまた。



DRAC興亡史 EVE外伝イントロダクション

 何年か前から一応Facebookには登録だけはしていたが、普段はblogやmixiのほうばかりやっていて、月に1回でもログインすればいいくらいだった。ところが、先々週の日曜日に86年度生だったT花君から、グループDRACに誘われて参加してからというもの、ほとんど毎日午前様である。もちろん、最初は面識のある80年度生のCHAさん(時々ここにコメントくれる)やN尾君あたりとチャットをしたりコメントのやり取りをしていたのだが、何気に投稿したコメントに次々と若い(本人たちは「もう若くない」というかもしれないが、混迷と停滞の70年代を生き延びてきた僕なんかからすると、十分若い。なんてジジィの戯言みたいなことを、まさか自分が書くようになるとは夢にも思わなかったな。歳月年を待たず、ん、人を待たずか、年を待たないのは当たり前だのクラッカーである。ジェスロ・タルの「Too Old to Rock 'N' Roll: Too Young to Die!」って気分である)後輩諸君がレスをくれて、まあ話が続く続く。この感じ、なんとなく記憶があるなと思い出していたら、何のことは無い。別館4階のBOXでサークル仲間と良くやっていたバカ話・雑談のノリなのだ。

 最初は入学年度が10年以上離れているので、話がなかなか合わないだろうなと思っていたが、なんのなんの、僕たちが残した「バカと恥知らずは承知の上」エキスはしっかり残っているようだ。何しろ「金太の大冒険」だけで延々と話が続く。というわけで、毎日、自分のコメントに対するレスや、誰かがアップした写真やコメントに対するレスを書いたり読んだりしているとあっという間に午前零時というパターンの繰り返しで、お肌の曲がり角を党の昔に、こらこら、そっちの党じゃないだろ、当の昔に過ぎたワタクシではあるが、寝不足は翌日の仕事にこたえる部分もあるし、何しろ図書館で借りた本が読めずに返却日ぎりぎりで駆け足で読み上げるなんて日々が続いております。で、そういう後輩諸君とのやり取りの中で、「DRACのオカマ喫茶はそんな昔からあったんですか」とか「P-Modelの出た『前夜』のポスターはカッコ良かったですね」とか、要するに同時代に体験した僕からすると、一般常識(世間的には「非常識」かもしれんな、笑)だと思われることをご存じないヤングが多い。こりゃ、こっちの記憶がまだしっかりしているうちに(いや、もうずいぶん怪しくなってはいるのだが、何人かはその時の状況を知ってる人が拙blogを読んでくれているので、間違ったときは訂正をお願いしたい)、一度きちんと書いておこうと考えたのだ。

 そういえば、「DRAC興亡史 1975-1980」というシリーズものが、ちょうど75年のEVEの話の前(正確には夏合宿の話の前)で止まっているし、現在絶賛連載中(こらこら、確認できているのは2人だけだぞ)の「ワタクシとジャズ(喫茶)の出会い」も75年の前期の続きがあるので、こりゃいっちょうシンクロさせてみたらどないだ、というか、75年のEVEに僕はジャズとのまっとうな出会いをするので、その話を書けば一挙両得、三方一両損でちょうどいいじゃないか、いいじゃないか、あ、いいじゃないかいいじゃないかとモップスの「御意見無用」を歌いながらエントリーの導入部とするのだ。ここまで書いてWCに行って思い出した。やっぱり夏合宿の話を書かねばならない。何故ならEVEに何をするかは合宿中の会議でいつも決めていたからだ。

 以前、少し書いたが僕のいたサークルの夏合宿は鳥取の民宿でやることが多かった。僕が入った年には、すでに何度かそこで合宿をしていたようで、合宿場所を決める会議もあったけど、「まあ、今年も鳥取でええやん」といういちいち説明するのが面倒だという73年度生のY田会長とS賀副会長のしゃんしゃんで鳥取は浜湯山のかわとね(今も経営されているようである。山陰方面を旅行されるときは砂丘の近くのかわとねに是非)に決まった。

 そのかわとねでは毎日、午前中が全体会議と班別会議。昼食を取ってから、午前中の簡単な総括をしたら近くの海に行って泳ぐ。夕方帰ってきたら風呂に入り、晩飯を食べて議事の進行状態によっては再度会議をして、だいたい21時前後からは自由時間だった。部屋は大広間みたいなところに我々1回生、2回生は適当に荷物を置き、布団を敷く場所を確保するのだが、さすがに3回生以上と女子部員はちょっとこじんまりした小部屋をあてがわれていた。昼間の海水浴の疲れと会議の疲れなど、全然感じず僕たちは21時から麻雀したり、先輩とビールを飲んでバカ話をしたりという幸福な三泊四日であった。で、こういう場につきもののビールであるが、最初のうちは民宿の人に「すいません、ビール5本」などと注文をしていたのだが、我々があまりに頻繁にビールを注文するし、夜の時間も気にせず注文するので、最後にはビールの冷蔵庫のカギをかけず勝手に取ってくれということになった。もちろん、お金はその冷蔵庫の上にあるざるに置いていくのだが、「おい、drac-ob、のどが渇いた」といって千円札を渡してくれる先輩もいたが、お金も渡さずビール「取ってこい」という先輩もいた。僕は根が素直なのと貨幣制度に対するささやかな疑問があったので、お金を預かった時はざるに入れて、そうでないときはビールだけ持ってきていたので、当然合宿最終日にはビールのお金が不足する。

 会計のY本さんが、あ、あの頃は違ったかな、ま、いいや、会計の人が「ビール飲んだ奴は金払え、おい」と恫喝かけるのを「あ、オレは2本くらい飲んだ」とか「ワシ1本半やったかな」「オレ飲んでへんで。あれは先輩のおごりや」などと、まあ人間いざとなったら金離れの悪いこと悪いこと、結局自己申告で集めたお金は請求金額をはるかに下回り、革命的なビールキョーサン主義はあっというまに破たんしてしまい、翌年からは正しい申告、正しい本数というまるで年末調整か確定申告かという厳しいチェックが入るようになった。イカン、こんなこと書いているといつまでたっても話が進まん。先を急ぐ。

 我がサークルの名誉のために言っておくと、普段は麻雀や酒ばかりやってるように見えるかもしれないが、結構会議は真剣というか丁々発止の意見交換、サークルを今後どのような方向に持っていくべきかなどという話もしたし、大学の移転問題に対してサークルとしてどのように取り組むべきかなどといったテーマの話もあった。また酒を飲んで話すときも音楽に関する議論もあったし、ま、青いと言えば青いのだがその時点ではみんな正直に自分の思うところ、考えるところをぶつけ合い、相互理解もできたいい合宿だった。その合宿の多分2日目が後期の学園祭、通称EVE祭に何をやるかというテーマだった。実は、合宿前に久留米出身のSさんNさんと鹿児島出身のT原さんと学祭のイベントについての話を聞いたことがあり、前年の74年はオカマ喫茶をやって大儲けしてそのお金でサークルのオーディオを買い替えたなんて話を聞いていた。もっとも先ほど書いたように僕は貨幣制度というか、お金に対する執着というものがあまりなくて(これは人生において致命的欠陥であることが数十年後発覚した。イッツトゥーレイトである。今更である。多分配偶者、バカ娘一同そう思っているに違いない)、別に儲かるからオカマ喫茶やるいうのはシホン主義に迎合してるんと違うんですかと先輩にたてついた。「どうせオカマ喫茶来るやつって、ちょっと危ない男ばっかりでしょ。そんなん鬱陶しいわ」とも言った。

 するとお二人は淫靡な笑いを浮かべ、「アホやな、お前。オカマ喫茶に来るんは、女の子ばっかりやでぇ。たまに男も来るけど大抵アベックや。仮に男だけのグループが来ても入り口で断ったらええんや」、などという。僕は意味が解らず黙って聞いていたら、「お前、N君なんかエグイんやで。客で来た女の子をいらいまくって、もうわやくちゃ」「T原、なにいうてんねん。お前も女の子に『わー胸大きい』とかいうて、揉みまくっとったやんか」「いや、オカマ喫茶でナンパしたあんたに言われたくない」「お前こそ、帰ろうとする女の子に電話番号教えんと帰られへんいうて無茶しとったやんか」…。などという会話が続き、僕は決心した。EVEはオカマ喫茶だ。

 しかしながら、世の中そう甘い話は無いわけで、当時まだ1回生だった僕の発言力ではEVEの出店をどうするかという会議の方向性を決めることは出来なかった。結局、オカマは嫌だという、まあある意味健全な考え方をするサークル員が多く、その年のEVEはディスコをやることになった。その店の名前は「王将」。むろん、京都を席巻しつつあった大衆中華料理店から頂いた名前だが、まあインパクトがあっていいんじゃないかということで、こちらは比較的すんなり決まった。学園祭の実行委員をI上さんが、上部組織の文化団体連盟のEVE実を僕が担当することになった。当時の僕の大学は、ちょっとややこしい連中が自治会を握っていて、その影響下にあった文連の会議に出るのはみんな嫌がったので、普段からいらんこといいの僕にお鉢が回ってきたわけである。

 それはいいのだが、その年のEVEには僕の高校時代の先輩のバンドが生バンドとして会場で演奏するのだが、そのきっかけが何だったかちょっとはっきり思い出せないので、今日はここまで。しかし、結局ジャズにもEVEの話にも到達しなかったが、それはあくまで結果論である。なんとかつなげる努力をしたが、力が及ばず、って言い訳はこの程度で。



本日の謎かけ

本日の成果とかけて          ”ほんじつのせいか”とかけて~




ネオ・マチスと解く            ”ねおまちす”ととく~





その心は                   ”そのこころ”は~






ノー・チョコレート!!!!!!!


ワタクシとジャズ(喫茶)の出会い~サドンリー・イッツ・スプリング

 何とか、75年の春まで話が進み無事DRACにも入り、その後僕にジャズと運命的な出会いを紹介してくれるE副君も登場し、次はやはりこの人のことも書かないと話が先に進まないだろう。ご存じF田敏雄君である。もっとも彼は以前から何度も拙blogには登場しているのでいささか新鮮味はないが、それでも無視できない存在だ。彼は東北の山林地主(単なる地主ではない。山を幾つも持っている大地主である。その山には1本30万はくだらない杉の木が生い茂っており、その資産を受け継ぐのは何故か二男の彼と決まっているらしい)の孫で、兄は慶応大学医学部に在学中、父親はどこだか忘れたが確か一部上場企業の役員で、自宅に車が3台あって妹はカローラレヴィンに乗っていて、と彼の人となりをほんのちょっと紹介しただけで、華麗なる一族という言葉が浮かぶが、どっこい、正確には加齢臭なる一族とでも言いたくなるようなクサイ話が次々出てくるのだ。

 その彼の話を書く前に、前回のエントリーを書いているときに思い出したジャズ喫茶との、多分ファースト・コンタクトでメイビー、ワースト・コンタクトだった話を忘れないうちに書いておく。そのコンタクトのきっかけは、前回出てきたオール九州人の下宿に住んでいた、長崎出身のT田さんである。時期は4月の半ばくらいだろうか。まだ僕もDRACに入る前で、クラスの友達も岩倉方面に住んでいる連中が多くて終電の関係などもあり、夜は自分の下宿にいるより隣にあるオール九州の下宿にいることが多かった。その日も例によって、オール九州の下宿の多分T山さんの部屋に居たんだと思う。その下宿ではロックの話が通じるのはこのT山さんだけであった。出身は僕と同じ宮崎で、しかもなんと僕の父親から中学の時に美術を教わっていたという経験の持ち主。そのことが分かったとき、僕自身はちょっとおっかなびっくりだったが、T山さん、それまでも優しい先輩だったがさらに親しくしてくれるようになった。理由を聞いたところ、それまでどんなに頑張っても美術の成績は5段階評価で「4」だったが、僕の父親が担当して始めて「5」をもらったらしい。「いやー、いい先生だったよ。オレの描きたいものを分かってくれて、丁寧に助言してくれて話の分かる先生だった」などと言われても、僕は照れ臭いやら面はゆいやらで、しかしながら親のありがたみをつくづく感じた経験だった。

 以前書いたかどうか記憶にないが、僕の父親は中学校の美術の教師で、まあ手前味噌になるが結構指導力があり名もない中学校の美術部を全国一にしたりしたこともあった。ただ、それはあくまで「他人(ひと)の子」だから冷静に教えられるのであり、血を分けた我が子の場合は感情が入って上手く教えられないということを、後年ぼそぼそと話したことがあった。それで思い出した記憶だが、僕は絵は決してど下手ではないが、上手くない。上手くないレベルがどの程度かというと、美術の授業中にスケッチなどを描いて提出すると、必ず「もっと丁寧に描くように」と言われ何度も描きなおしを要求されたくらいである。本人にしてみれば、アズ・ポッシブル・アズ・アイ・キャンという気持ちで描いたのではあるが、先生がそういうなら、まあ妥協点を探すのもやぶさかではない。要するに45分の授業時間の半分もすぎないうちに提出したから、雑な仕上げだと思われたのだろう。確かに背景の色は若干むらがあるので、このあたりをもう少し濃いめに塗ったらいいんじゃないか。うーん、この左側の木の枝が少し細かったかな、もうちょっと太く描くか。などと加筆訂正というのかどうか知らないが、いろいろと手を加えていくと、あ~ら、フシギ。先ほどの絵よりも、はるかに雑で汚いものが出来上がっている。しかし、僕が最初に描いた絵を描きなおせ、手を加えろといったのは先生だから、この結果は先生に責任の一端はあるはずだから、いや、もしかしたら絵が汚く見えるのは僕だけであって、もしかしたらこういうものこそ「社会主義リアリズム」の絵であって、先生から絶賛されるのかもしれんと思う訳もないが、時間が来たので提出すると、先生は無言で僕を見て一言「お前はオレを舐めているのか」。

 こういう経験をたくさんしたので、美術というか絵は嫌いである。もう一つ思い出した記憶で、小学校から中学に上がった時である。それまでは音楽と体育以外は同じ先生が教えていたが、中学はいわゆる教科担任制で全教科別の先生が教えるというシステムだった。これは我がポンニチの公立学校は全て同じはずだ。で、中学に入ってすぐに各教科の担当の先生の一覧表みたいなものを貰って、何故か父親がそれを見て一言。「おう、美術の先生はオレが教えた先生じゃが。オレがお前のことを頼んじょくわ」。嫌な予感がしたんだよな、その時。で、その美術の先生だが、髪が長くて額が広くて東宝映画に出てくる、えーと名前はなんといったか忘れたが、女優にちょっと似ていて、おお、これは楽しい時間になるのではないかと思ったのは大きな間違い。一番最初の授業の時に、「このクラスには優秀な才能を持った生徒がいます」とか「私はそういう生徒と一緒に授業が出来ることを楽しみにしてきました」とか、なんだか妙に力が入っている。オレのことじゃないよな、オレじゃないはず。だってオレ、図画工作はずーっと「3」だったもんね、全然絵なんかダメなんだもんね。とシカトしていたのだが、なにやらどうも視線を感じる。え、まさかオレのこと言ってるんじゃないよね、オヤジが「頼んじょく」といったけど、まさか逆のニュアンスで受け取ったわけじゃないよね。などと思いながら1学期。本当につらかった。自分なりにベストを尽くして出した課題はことごとく却下。いわく「真面目にやってない」「もっと本気を出しなさい」「あなたの才能はこんなものじゃない」「いい加減にしなさい」「私が女だからと舐めていたら承知しない」などと後半は、ほとんど恫喝に近いようなことを言われた。

 幸か不幸か、この先生には1年の時だけで2年は別の先生になったので救われた。そして中学3年になる年に、我が家は父親の転勤で引っ越すことになり、ある意味中学生活をリセットできた。そうそう、一つだけ美術関係で自慢があるのだが、あれは小学6年生だったか、忘れもしない毎日新聞で読書週間のポスターコンクールがあった。僕のいた小学校全体で応募することになり、僕も自宅でポスターカラーなど生まれて初めて使いながら、読書週間に関するポスターを描いていた。絵というのは下書きが必要なのは、皆さんご存知だと思うが、僕もそのポスターの構図みたいなのはだいたいイメージできていたので、鉛筆で画用紙に下書きを描いていた。一日中かかって一生懸命描いたの、でも鉛筆で描いたからいつのまにか消えたの~ってのは古井戸の「さなえちゃん」だが、下手は下手なりに一生懸命描いていたら、いつの間にか後ろから父親が見ていた。父親は黙って僕から画用紙と鉛筆を取り上げ、もう一枚大きな画用紙とサインペンを僕に渡し、「絵は大きくかけ。下書きは鉛筆で描くといつでも描きなおしが出来ると思うから上手くならん。サインペンで間違ってもいいから思い切り描け」と言われた。なるほど、ごもっともである。僕に多少の絵心があれば、なるほどと膝を叩きペンを進めたと思うが、大変残念なことに絵心など全くなかった。強いて言えば下心だけは人に負けないくらいあったが、ってそれは余計か。

 さて、そういわれると萎縮してしまい、余計手が動かなくなったがいつまでも画用紙とにらめっこしていると、いつまたオヤジの雷が落ちるか分からないので、開き直ってサインペンで下書きを描き、それに色を付けていたらまたもや後ろから人の気配がする。オヤジである。「まあ、まこちすったりじゃ(=おう、全く駄目なものだ)。おまや、絵の時間なんきいちょったつか(=お前は、絵の授業中何を聞いていたのか)。どら、貸してん(=ちょっと貸してみろ)」といったかと思うと、僕から絵筆を取り上げポスターに色を付け始めた。子供心にも上手いもんだな~、さすがにプロは違う、などと感心していたら、僕が描いたものと全く違う見事なポスターが出来上がっていた。それを新聞社に投稿したのだが、なんと見事入賞し、全国紙に名前が載った。これはビビりました。なんといっても、オレが描いたポスターではない。しかし、それを見抜けなかった評者も悪い。何ともばつが悪かったのは、その週に全校朝礼なるものがあり、そこで、校長なんかが演説するお立ち台みたいなところに呼び出され、全校生徒の前で感想など言わされた。なんといったか覚えていないが、まあ適当なことを言ったのだろう。

 その入賞の賞品は本であった。これはあらかじめ新聞にも書いてあったので、僕はどんな本が届くか楽しみにしていた。なんといっても天下の毎日新聞である。早川のポケミスなんてことはないだろう。まさか小学館の小学6年生なんてこともないだろう。学研の科学と学習ということもないだろう。いったいどんな本が届くのか。わくわくしながら待っていた。そんなある日学校から帰ったら、自宅に大きな小包が届いていた。ちょっとビックリするくらい大きい。わくわくしながら包み紙を開けると、中から出てきたのは大きな絵本であった。「三年寝太郎」という、その絵本は立派な装丁に見事な挿絵。それはそれは立派な本であったが、バカヤロー。中身は幼稚園生が読むような話じゃねーか。しかしながら天下の毎日新聞が送ってきたのであるから、僕はしっかりその本を読み将来立派な人間になるためにはひたすら寝ればいいということを学んだ。それを実践していたら、大学は留年し挙句の果てには退学になった。何故だ。

 えーと、またもや話が混乱してしまった。まあ、そういう訳で、T山さんの部屋である晩だべっていたらT田さんがやってきて、「あ、drac-obクンもいたの、ちょうどいいや」という。話を聞いてみると、毎月1回出町にあるジャズ喫茶で、ジャズ好きの集いというか会員の集まりがあるのだが、T田さんに休養急用が入って今月の集まりに参加できないらしい。お金は払ってあるし、チケットもあるので代わりに行ってきてくれないかという話だった。別にチケットを買ってくれという話でもないので、二つ返事で行きますと言いかけたが、オレなんかが行っても大丈夫だろうかと思い「僕、ジャズ全然分かりませんけど行ってもいいんですかね」と尋ねると「大丈夫、大丈夫。黙ってジャズを聞いて来ればいいから。コーヒーとケーキも出るし、美味しいよ」などといわれるので、それじゃ行くか、一人だとちょっと不安だがT山さんも一緒に行くというからまあ大丈夫だろうと思い、日時を約束した。

 で、その当日、京福の出町柳駅で待ち合わせてしてT山さんと件のジャズ喫茶に向かった。場所ははっきり覚えていないのだが、出町のアーケードを抜けたところあたりにあったと思う。夜になると屋台のラーメン屋さんが出ていたあたりだ。ジャズ喫茶の場所はすぐ分かったが、建物の2階でずいぶん薄暗い階段を上がっていくと、ランプというかランタンというか、そんな感じの薄暗い照明のお店があった。4月の中ごろだったが、妙に肌寒い日で、その広いジャズ喫茶の真ん中あたりに大きな石油ストーブが置いてあったのを妙に覚えている。参加者は10数名くらいだっただろうか。当然、僕の知ってる人は一人もいない。こんな薄暗い場所で、知らない人ばかりの集まりに一人で参加したら心細くて仕方がなかっただろう。よくぞT山さんと一緒に行ったもんだと思い、T山さんのほうを見たら彼もそう感じたらしく、うつむき加減でソファに座った。チケットを回収されてコーヒーとケーキが出されて、司会者というか、多分そのジャズ喫茶のオーナーらしき人が挨拶を始めた。

 この集まりの前にT田さんに、いったいどんな集まりでどんなジャズを流すのか尋ねたのだが、いわく「ジャズが好きないい人たちばかり」「みんなでジャズの歴史を勉強している」「今回は日本ではあまり人気が無いけど、個人的には大好きなビッグ・バンド特集」「分からないことは丁寧に教えてくれるから心配いらない」などと言われてきたので、全く心配していなかったのだが、司会の人の最初の挨拶からしてどうも妙な感じだった。「皆さんおそろいのようで、それでは今から始めます。今日は初めての人もいらっしゃるようですが、気にせずやっていきましょう」みたいなことを言うのだ。僕は「気にせずやっていく」のは、初めて参加している我々に対してあんまり気にせず気楽に聞いてという意味だと思っていたのだが、その後の進行など見ていると、常連の人たちに「(素人は)気にせずやっていく」という意味ではないかと思い始めた。いや、被害妄想ではなく。

 なぜなら、2時間ほどの集まりの中でクイズやゲームみたいなことをやるのだが、こちらは初めてで勝手が分からない。したがって横のテーブルの人や近くの人に尋ねるのだが、無視する、あるいは「チッ」と軽く舌打ちしてこちらの顔は見ずに、ゲームのルールを早口で言ってあとは知らんぷり。ビンゴもやったけど、こちらが戸惑って話しかけたら「静かに」と言われ「聞き逃したぞ、お宅のせいで」みたいなことも言われた。一体全体なんなんだと怒りがふつふつと湧きあがっていたその時に、司会のクソ野郎が「お待たせしました。本日のメインイベントです」などといって紙を全員に配り始めた。「それでは始めます」などといきなりいうので、いったい何のことか分からず「すいません。これなんですか」といらいらしながら僕は声を上げた。「あ、こちらコンドームですが、お使いになりますか」などというギャグが登場するのは、それから5,6年後だ。

 僕の質問に気がついた司会者は、「ああ、今日初めて、そうでした。いや簡単です、今からかけるレコードについて質問しますから、その答えを書いてください。じゃ1曲目」といっていきなりジャズが流れてきた。もっと聞きたいことがあったので立ち上がったままの僕を見て、T山さんが座るように指示して「もう、余計なことは言わずに終わったらさっさと帰ろう」という。彼も、今日のこの不愉快な集まりに頭に来ていたようだ。レコードの演奏が終わると「はい、簡単ですね。今の演奏でアルトのソロを拭いて吹いていた人の名前を書いてください。それと自分の名前も書いてください」と司会者。しかし、こちらはジャズのJの字すら知らない頃なので、まず演奏していた曲名はおろか誰が演奏しているかなど分かるはずもない。頭に来たから「ロバート・フリップ」と書いて出してやった。その後も身内受けするギャグとクイズが続き、疲れ果てた僕は白紙で出したら「あら、サービス問題なのに、何も書かないと賞品当たりませんよ」などとムカつくことを言う。「ええねん」と覚えたばかりの関西弁で返事して、ようやくその集まりがお開きになった。

 苦痛以外の何物でもなかった2時間が過ぎて、帰ろうとしたら扉の前にあったテーブルに何枚かのレコードが置いてあった。そういえば司会者が「今月発売の新譜を1割引きで販売している」とか言ってたなと思い、何気なく眺めていたらキース・ジャレットの『生と死の幻想』があった。お口直しにこのレコードでも買って帰ろうとして、手にとってレジに行ったら「これ本当に買うんですか」とクソ司会者がいう。「おう、好きなもん買うてなにか悪かとね。オレがこんレコード買うこつであんたになんか迷惑ばかけるとね。オレは頭が悪かけん、ようわからんばってん、なんかあるんならいうちゃらんや」とこれは喧嘩するときは久留米弁が迫力あっていいとオール九州の下宿で教わっていたので、即席久留米弁で返したら「いやいや、そんなことは。そうですか、九州のかたでしたか」と、まるで九州の人間はジャズなど聴いたら犯罪だみたいなニュアンスで言う。思わず「きさんな、ふーてんぬるかこついうとるとぼてくりこかすばい」とこれも教わったばかりの博多弁をいったら意味が分からなかったようで目をぱちくりしていた。

 しかし、不愉快な集まりであった。自分たちにしか通用しない言葉を使い笑いあい、自分たちにしかわからない音楽を腕を組んで聞いて眉間にしわを寄せて、自分たちだけで分かりあったふりをして幻想に酔う。なんだこいつらは、こんな連中とは共に天を戴かずじゃ、オレは腐ってもロックじゃ。と心の中で叫びながら京福に乗って修学院まで帰った4月半ばの思い出でした。しかし、その「自分たちにしか」通用しない世界にその後どっぷりつかってしまうとは夢にも思わないdrac-ob、18の春でした。で、本日の動画は、これは京都で見ました。「突然春です」というフィル・ウッズとズート・シムスの名演です。あ、F田の話が、どこかに行った。



ワタクシとジャズ(喫茶)の出会い~アイル・リメンバー・エイプリル

 なんだか、この前も同じようなことを書いた気がするが多分気のせいだろう。世の中にはシンクロという出来事があって、さらに摩訶不思議なことも十分起こる。いったい何の話かというと、この間書きかけては挫折している「ワタクシとジャズの出会い」であるが、ようやく高校時代の話も終わり、そして高校時代の同級生の女性陣と楽しくお喋りをして愉快な時間を過ごしたという話も終えて、さあ今度こそ時は1975年、ワタクシの大学生活第一歩とそれに伴うジャズ(喫茶)との出会いの話を書くはずだったが、前回の酒池肉林話(何が、いったい何が酒池肉林だったのか、今では忘却の彼方です)に嫉妬したYKZ君が、「オレにもちったぁいい目を見させろ」とばかりに無理やり土曜の夜の飲み会の予定を組み、その時に「7人とは言わないが女性の1人や二人はそろえるのがマナーだろう」みたいな無理難題を押し付けてきた。たしかに野郎二人でROCK BARのカウンターに並んでよもやま話をするよりは、そりゃ女の人が誰か一人でもいたほうが雰囲気も華やぐし、だいたいYKZ君と一緒に飲んだところで30分もすれば悪酔いして昔話を好き放題喚いて終わりというのが明白なので、僕もあちこちの女性陣に呼びかけたが、やんぬるかな、好漢未だに不射の射を知らず、などと突然、中島敦の「名人伝」が出てきてしまうくらい、徹底して拒否された。先週は7人の女性たちと一緒に楽しく飲めたのに、今週はYKZ君と一緒に楽しく歓談しようと誘ったら誰も来ないというのは、いったい誰に原因があるか火を見るより明らかですね。

 それで、もう土曜の午後には諦めて、しょうがないからYKZ君とここ最近の音楽の話、ZEK3の話でもするか、ということはゼップのアルバムをファーストから順番に流してもらうか、などと考えながら、例によって図書館のソファで本を読んでいたら携帯が鳴った。見るとROCK BARのマスターからで、YKZ君が可哀想だからと同学年の女性を1人誘ったとのことだった。もっとも、その女性も好き好んで来るわけじゃないから、飲み代は当然受益者負担の原則でYKZ君が払わないといけないともっともなことを言うので、よっしゃ任しとけ、ワシがあいつに納得も得心も行くようにしたるさかい、その辺はまかせといてんか、そらなんちゅうても銭の花は白いと一人コバコごっこをしながらYKZ君にさっそく電話した。おっと、それともう一つ、美味しい話には裏があるというか、その宴席にI上君も来るから、という一言があったわけよ。I上君というのは、元サッカー部のキャプテンでスポーツマンで陰ひなたが無く、人の面倒見のとてもいい男で、僕が良く「男は日に三言」などと出来もしないことを言ってるが、その言葉をまさしく体現している九州男児である。しかし、悲しいことに酒癖が悪い。飲むとやたら絡む。殴る、蹴る。本人は親愛の情を示しているのかもしれないが、アレを他人にやったら間違いなく刑事事件になる。

 さらにYKZ君は元サッカー部で、当然I上君に対しては頭が上がらない。まあ、しかし自ら望んだ結果がこうなのだから、それは仕方がない。という訳で僕は女性一人来るからその人の飲み代は君負担ね、ということと酒癖の悪いI上君も来るらしいからオレは欠席すると言って電話を切った。君子危うきに近づかず。これは昔からの格言である。しかし、虎穴に入らずんば虎児を得ずという言葉もあるし、なんといっても「騒ぎの好きな俺(by 泉谷)」であるだけに、土壇場になってとりあえず様子だけ見に行こうとしたのが間違いの始まりであった。

 ROCK BARに着いたのは20時半近くで、店内は非常に静かだった。流れていたのは加藤和彦の『それから先のことは』で、僕が持ち込んだアナログだった。レコードコーナーのマスターに挨拶して、カウンターを見るとYKZ君がきれいな女性の隣、嫌らしいことに1つ席を空けて座っている。その二人にも「お、どもども」とあいさつして「ヨースケは?」と尋ねた。ヨースケというのはI上君の名前というかニックネームというか、まあ、彼をI上と苗字で呼ぶ奴はもぐりである。「まだ来てないけど、もうすぐ来るらしい」とはマスター。そうしているうちにドアが開いて誰か入ってきた。I上君ではないが、やはり同じ高校の同窓生で彼も元サッカー部である。そして、それから30分もしないうちに彼はやって来た。ホール&オーツのヒット曲に「人食い(=マンイーター)」ってのがあったけど、まさしくそんな感じで奴は現れた。それから4時間、延々とバカ話は続き、そして不思議にボーリョク沙汰は起こらず、その日の飲み会は無事終わるように見えた(あ、女性は1時間くらいで僕らのバカ話に愛想を尽かして帰りました、涙)。しかし、飲み足りない僕たちはそれからさらにカラオケボックスに突入し、2時間飲み放題歌い放題の夜を過ごし、いい年こいて午前様であった。

 というようなことを繰り返していると、バカになるし第一いつまでたっても話が進まない。これは大学時代に話が入らないから、高校の時の友人知人がシンクロしてくるのだと判断し、話を無理やり1975年、僕が大学に入った年というかDRACに入った年に持っていく。南九州の片田舎から、花の京都シティに引越し下宿もごたごたしたが修学院の居心地のいい四畳半に決まり、僕の人生は順風満帆であった。これで、大学で学問を修め、その知識と見聞をもとに社会に出れば、まあ外務省は無理でもそこそこいいところに就職し、見目麗しい嫁も貰い、子供は優秀な遺伝子を受け継いだ賢い子が二人ほど、その子供たちも無事成長し、あとは年金なんかに頼らずそれまでにためた貯蓄と財産で世界旅行か、セカンドハネムーンか、なんて幻想は徹底してフンサイされた我が人生であるが、ああ、あの時選択を間違わなければ、今こんな時間に端末の画面を見ながらキーボードを叩いていることはなかったであろう。神は何故に試練を与えたまうのか、と恰好つけようと思ったが、良く考えたらオレは無神論者だった。

 えーと、まあ、話を繰り返すようだが大学に入り、4月が過ぎクラスの中にも若干の顔見知りというか友達もできて(良く考えたら、この時すでにN谷君と出会っている。ということは、やはり僕はクラスの出来んボーイの1員になることは避けられなかったかもしれない)、キャンパスの勝手もすこしずつ分かり始めたその頃だった。ずいぶん前のエントリーに書いたが、僕が修学院の下宿を決めるきっかけになった方がいて、その方、高校の先生をされていたが、ご自身も下宿を経営していてそこには九州出身者しか入れなかった。つまり、その下宿、1階は大家さんのお住まいで2階が10室ほどあっただろうか、全部九州の人たちが住んでる空間があるわけですね。つまり、いったんそこに入ると博多弁、熊本弁、長崎弁、鹿児島弁、佐賀弁そして宮崎弁が飛び交う異空間だった。あ、大分出身の人はたまたまいなかった。南九州のド田舎から出てきた僕は、いくらシティボーイだといっても、やはり京都・大阪の人たちと話をするのはやや緊張というか、極力田舎モンだと思われないように知らず知らずのうちにプレッシャーがかかってしまうのだが、その下宿に行くと、気が楽になり九州それぞれの方言とユーミンの『ミスリム』(これを好きな先輩がいて、この4月の時期は毎日何回もエンドレスで流していた)を耳にしながら、それでも先輩や同輩たちから大学の様々な情報を教えてもらった。

 ちょうど僕と同じ文学部の1学年上の人がいて、T田さんというその人は、出身はどこだったか、珍しく九州なまりのない人だった。後で、この人はヨヨギだったということが分かったのだが、別段イデオロギー的なことをどうこう言うことなく、妙なサークルへの勧誘などもなかったが、単位の登録の仕方を教えてくれた時に、「drac-obクン、君の組み方だと午後に講義が集中して、サークル活動が出来なくなるよ」と言われた。4講目や5講目に授業を入れないほうがいいというのだ。自慢ではないが、僕は宵っ張りの朝寝坊でとてもじゃないが1講目から張り切って授業を受けるなんてことは出来ないことと、土台サークル活動なんかする気はないと答えた。するとT田さんは、じっと僕の目を見て「drac-obクン。大学は、それは学問の場ではあるけど、それ以上に大事なことを学べるのがサークルだよ。これは社会人になってからは絶対できないから、是非サークル、何でもいいから入るべきだ。君は本が好きだから歴史哲学のサークルなんかどうだい」と、今思えば実はこの時ヨヨギ系のサークルに勧誘してオルグしようという気がT田さんにあったかもしれない。もっとも、僕は何が悲しゅうて、花の大学に来て歴史じゃ、テツガクじゃ。そんなもんやっとったら、ギャルにもてん。ワシ、暗かった受験生時代を一気に挽回するために大学来たんじゃけんね。ギャルちゅうかナオンちゅうか、まあ、いわゆる異性っていうんですか、そういう方と仲良くなれるなら、サークルも悪くないか、くらいしか考えてませんでした。

 そして、その下宿の他の1回生達もそれぞれ所属サークルを決め、ある人は混声合唱団、確かCCDとか言ったっけ、それに入って毎日お隣の女子大のおねーさんたちと青春の歌を歌っていたり、カメラ同好会に入ってヌード撮りまくるぞと息巻いているのもいたし、その中に一人音楽研究会というサークルに入った男がいた。福岡出身の何故だかグレープフルーツとポッカレモンが好きだった男だったが、彼が言うには「いやもう部室にいる人たち全員が音楽好きでね。特にロックの好きな人が多くて、drac-obクンみたいにミュージシャンやレコードの名前が次々に出る人ばかり。入会の仕方も丁寧に教えてくれるし、慣れてずっと続けることが決まるまで、会費は払わなくていい」と、それはナイスなことばかり。さりげなく女性部員は多いかと尋ねると、にっこり笑い「心配しなさんな。本学だけじゃなくて女子部(D大の付属高校出身のやつらはD女子大のことをカッコつけて女子部と呼んでいた。ここでの彼は博多の田舎モンであることを悟られないように、その手の用語を使ったと思われる)の子もたくさんいるよ、スカート短い子ばかり」。

 こういう話を聞いたら、そりゃあなた。サークル入らないわけにはいかないでしょう。だって、皆が音楽好きで、明るく受け入れてくれて、会費は後払いでいいし、なんといっても女子大のお姉さんたちと一緒に「ブルースの影響を受けなかったクィーンが本国以上に日本で人気が出たのは何故か」とか「プログレは何故アメリカでは根付かないのか」とか、ま、なんちゅうか、ええ格好してしゃべったりしたいわけですよ。で、腹は決まった。こりゃ僕も音楽研究会に入部して、楽しい大学生活を送ろうではないかと思い5月の連休が終わった時期に、別館の薄暗い1階の廊下を歩いていた。音研の部室(BOX)は学生会館別館の1階の一番奥にあると聞いていたからだ。廊下の暗さに目が慣れた頃にその扉はあった。大きく『Ⅱ部音楽研究会』と書いてあるが、ドアに鍵がかかっていて開かない。しばらく待ったが、誰も来そうにない。出直そうかと思ったが、確か4階にも同じような名前のサークルがあったことを思い出し、一応そちらをのぞいてみてそちらに入ってもいいかと考えた。

 1階よりも薄暗く、壁や天井にビラがべたべた貼られていて、さらに赤ペンキで壁に直接いろいろな文字が書かれている階段を上り、4階のBOXに着いた。ノックすると「おう」、とか「うん」とか返事らしき声がする。礼節をモットーとしているワタクシは「失礼します」とあいさつしながらその部屋に入った。中央に四角くテーブルというか大机が置かれて、その周囲にパイプ椅子が、また壁際には長椅子が置かれてある。正面左の机にはプレイヤーとアンプが、その右側の棚にはレコードが無造作に置かれていた。音楽は流れてなかったと思う。正面の椅子にゲゲゲの鬼太郎みたいな人がいて、その横にミラーのレイバンのサングラスをかけた角刈りの人がいた。女の子は、一人もいない。床にはタバコの吸い殻があちこちに投げ捨ててあった。机の上の灰皿も吸い終えたタバコが山のようになっていた。ヤバい、引き返せという声が頭のどこかで聞こえたが、僕は「すいません、ここのサークルに入部したいんですが」と出来る限り丁寧に話した。

 「おおそうか、今日は生憎男性部員ばかりでちょっと汚いが、普段は女の子もたくさんいてきれいにしてるんだよ。タイミング悪かったな君は。ま、ま、かけて、椅子に腰かけて」なんて言葉は全くなかった。鬼太郎は僕のほうを胡散臭げに眺めて、横の角刈りに「入会希望だってよ、どうする」といい、「ま、ええんちゃうか」と角刈りが予想以上に軽く答えた。鬼太郎は、さも面倒くさげに「じゃこれに必要事項書いて」と入会用紙を手渡した。氏名、住所、実家、学年、学部などを記入して渡すと、手に取った鬼太郎は横の角刈りに「おい、また九州やで」といって鼻先で笑った。鬼太郎が当時の会長で3回生だったY田さんで、角刈りが副会長で同じく3回生だったS賀さんだった。しかし、何回思い出しても気分の悪い対応である。これだけ愛想が無いサークルに新入生が入るもんか。しかし、何故僕はこんなひどい仕打ちを受けたサークルに居ついてしまったのか。それは、その時は気がつかなかったが淀川長治、あるいはケペル先生に良く似た男が、僕の様子を見ていてこいつは同じ1回生で見るからに田舎モンだから、オレの話をすべて真に受けるに違いないと手ぐすねを引いており、彼の術中に見事にはまってしまったからである。その男、F田敏雄君との出会いが、ある意味ジャズとの出会いでもあった。

 おっと、もう一つ忘れられない思い出がある。最初はすぐに辞めようと思っていたサークルだったが、何度か出入りしているうちにだんだん慣れてきて、多分入部して1週間位したころだろうか。BOXに行くとY田さんが「おう、ちょうどいいところに来た。ゴミ箱がいっぱいだから捨ててきてくれ」と僕に言った。ゴミ箱は結構大きく、また中のごみも多くてとても一人で持ち運びできそうになかった。するとY田さんは、長椅子に座っていた長髪でこざっぱりした感じの男のほうを見て「お前はゴミ捨て場知ってたよな」といい、その男は「残念ながら知ってます。じゃ、君一緒にゴミ捨てに行こう」と言った。僕は、言われるままゴミ箱を持ち、BOXを出たところで「あ、スイマセン先輩。オレdrac-obといいます。英文科の1回生で九州の出身です」とあいさつした。すると、その二枚目は「敬語使わなくていい。オレも1回生だから」と答えた。彼こそ、僕にジャズやジャズ喫茶のことをいろいろ教えてくれることになるE副君であった。



ちょっと寄り道 ワタクシとロックンロールの再会

 ここ最近のジャズの話から、ちょっと浮気してロックンロールを聴きたいと思いYOU TUBE覗いたのが運のつき。やっぱりオレって、こういう音楽が好きなんだなとつくづく思った。というか、THE MODSの「レッツ・ゴー・ガレージ」の映像を見て、『うわ、やっぱりヤツらはクラッシュが好きだったんだな』と思わず見入ったのがきっかけで、立て続けに時代も何もかも無視して見た動画をだらだらと適当な感想とともにアップしたい。しかし、THE MODSには一時はまったな。アルバム『HANDS UP』は紙箱でTシャツ付のアルバム予約したもんな。そのTシャツ着てハワイ(当時の勤務先の社員旅行、時代はバブルの頃だ)に行ったら、水戸支店の上司に「おめえ、ハワイ来たからって外国かぶれしてんでねえぞ。このデレ助」と妙に絡まれたこともあったな。しかし、ギターの苣木はミック・ジョーンズにクリソツだ。ボーカルの森山も良く考えたら同じ年(向こうが1学年上)だし、そりゃもろにクラッシュから影響受けるはずだ。





 それで次に聴きたくなったのがスライダーズ。独特のうねりとシニカルな歌詞。カッコいいことはなんてかっこいいんだろう。今でも蘭丸はチャボと一緒に演ったりしてるけど、ハリーはどうしてるんだろう。もう一度あのメンバーで重たいロックンロールを聴かせてほしい。無理な注文をしてるのかなぁ。いやメンバーは欠けてはいないんだから、やろうと思えば出来るはずだけどな。誰かが彼岸の国に行った後じゃ、絶対無理だが。





 スライダーズの所で書いたけど、メンバーさえ元気だったらいくらでも再活動なんて出来るのだ。サンハウスを見よ。すでにサラリーマンになっているメンバーも呼んで、当時の音楽をやってるんだから。しかし、菊も客に向かって無茶苦茶言うな。でもこのフレーズはどこかで聴いたことがある。どこでだっけ、などと白々しいことは止めよう(笑)。





 むろん、客に向かって「うるせー」なんて言ったのはこの人が本家本元(かな?)。ボーカルはとっくに天国だし、ギターも病気からなかなか回復しない。この場合はとても再活動は無理だけど、残った連中でなんとか音楽続けてくれると、それだけでうれしいのだ。しかし、何回聴いても痺れるイントロであり、心に突き刺さる歌詞だ。「ココロノミニクイカタワモノ」の聴く音楽こそモノホンのロックンロールなんだよな。





 このあたりからとどまるところを知らず、延々といろんなロックンロールを聴いているのだが、最初がクラッシュからの影響と書いたのでラストもクラッシュからの影響のロックンロールを。右だ左だとうるさい連中が多いが、そんなの壊してゴーゴーゴーである。やめろ、畜生、あることねえこというのは、やめろ、畜生、てめえらなんかに用はねえ。そういえば、最近このバンド名で検索すると別人28号の喇叭―、違ったラッパーにぶち当たることが多く気分が悪い。ま、今の若い連中も20年もすると似たようなこと言うんだろうが(笑)。





 実は↑の動画で終わるつもりだったが、以前にアップされて削除されていた某バンドの某大学前のライブ映像があった。某明徳館前のライブ「超非国民集会」からの映像だと思われる。そのうち削除されるだろうから、良い子のみんなは今のうちに見ておいてね、テヘッ。




 おまけも付いてるよ~。寝ようと思いながらも、ついいろいろ見ていたら何とこの人の動画もあった。演奏しているミュージシャンのクレジットを見て小便ちびるな、ガキ共。1980年の大阪春一番の代わりに行われたイベント、ヤポネシアでパンタ&HALとこの白竜バンドを見られたのは我ながらラッキーだった。というか、それ目当てで見に行ったのだが。当時、ギターは春日ハチだったと思うが、ちょっと記憶が怪しい。キーボードはTKではなかったと思う。しかし、もっと歌ってほしいなこの人は。そして初期のアルバムをCDで発売して欲しい。



ワタクシとジャズ(喫茶)の出会い~ウィスパー・ノット

 高校時代の話を書き終えて、次はいよいよ大学でのジャズとの出会いの話に行くはずだった。しかしながら世の中にはシンクロということが起きる場合がある。御家人ではない。あれはザンクローである。派手な化粧の若い娘ではない。それはガングロである。戦車でもない。それはタンクローである、っていまどきタンクタンクローなんて通用するのかという気がしなくもない。またまたRCのリーダーでもない。それはキヨシロー。などと僕の話は本題と全然関係ない言葉が次々に出てきて、書いてる本人の頭もそちらに引っ張られていくので、挙句は何の話をしていたか分からなくなることが多々ある。タタヤンである。で、タタヤンというとこれである。



 えーと、気を取り直して何がシンクロだ、水泳がどうしたのだ、などとヤボを言う人は拙blogにはいらっしゃらないことと確信して話を進めていきたい。先週の土曜日だったと思うのだが、実家の母の手伝いで大型スーパーにいた。ガラガラと僕は呼んでいるが、あのプラスチックで出来た買い物かごを上と下に積める手押し車みたいなやつを、押していきながらレジに並んでいると先のほうにお年寄りを介護しながらこちらに歩いてくる妙齢の女性と視線が合った。バイヤー、あいついや、あの人は確か高校時代の同級生K田さん。思わず視線をそらしてシカトしようとしたが、先方はこちらに気がつき満面の笑みをたたえて近づいてくる。一緒にいたお年寄りに「それじゃまた」などと声をかけて、くるりと振り向きこちらに一直線にやって来た。

 「お久しぶり~。お元気でした~」と明るい声がする。僕は「お、あ、どうもどうも。元気元気。そちらは」などと、まるで中学1年生の英語の時間で習った初級会話、”How are you?” “Fine. Thank you,and you?”に近い会話を交わし、そそくさ逃げ出したAICK(by Pantax’s World、意味は逆さから読んでください)とばかりにゲルニを決めようとしたのだが、何しろ相手は家の母のことも知ってるし、単なる同級生ではなく我が家のバカ娘1号の小学時代の担任なので、普段から素行の悪いワタクシは落ち着かないのである。昨年の8月にあった高校の同窓会の時もK田さんは来ていて、その時少し話したので、それほど久しぶりという感じではなかったのだが、まあ世間話のいくつかをしていたらちょっと驚く発言があった。「実は今日ね、高校1年の時の女子が集まって会食する予定なのよ」。普段の僕なら、「ちょっと待て、聞き捨てならん。『元女子』もしくは『女性』と訂正していただきたい。それも可及的速やかに」などと突っ込むのだが、何せ弱みを握られているので。と、ここまで書いて何で弱みを握られているのか、オレ何も悪いことしてへんやないか。こない見えてもな、かかぁや子供に不自由させてへんのんじゃ(by INU)。と書いて、あったあった弱みがあった。オレの高校時代のアホさ加減をかかぁや子供にチクられてしまうと、マズイという弱みが。何しろ、バカ娘1号が初めて入った小学校の参観日に我が家にやって来たのは彼女で、当然子供の学校での状況だとか友達との関係などの話をしていったものだと思い、その日自宅に帰ると配偶者が僕を見る目が普段と違う。いや、気のせいかもしれないが、どことなく小馬鹿にした感じがする。ん、ん、と思っていると、「あなた高校の頃、授業を良くつぶしていたの」などと聞いてくる。は?大学時代ならいざ知らず、真面目な受験生だった高校時代にバリストに関わった記憶はない。入試もフンサイしたことはない。いったいどういうことか尋ねたら、「今日、担任の先生が来たけど、あなたとS尾さんが、自習時間になるとすぐ職員室に行って、『早く次の授業をして、繰り上げて帰らせてください』って交渉したらしいがね。それとロング・ホームルームの時間はしょっちゅう訳のわからんロックのレコード流して、独りで喋っていたって。聞いていて私は恥ずかしかった~。結局、子供の話はほんの少しで後は全部あなたのバカな話ばっかりやったがね」と、これはとんだ誤爆というものだった。

 まあ、そういう弱みがあるので挨拶済ませたらさっさと帰ろうと思っていたのだが、元同級生の女性たちが一体全体何の集まりだろうという好奇心から尋ねてみたら、「M本さんが去年絵の個展をして、その打ち上げと新年会を兼ねて、みんなでフランス料理を食べようって集まるのよ」などと、さすがにお金持ちの人たちは一味違う飲み会のお話であった。「あ、フランス料理、オレなんか絶対無理だな。居酒屋とか赤ちょうちんなら参加するけど、ま、そういうことで」と別れようとしたのだが、つい携帯番号の交換などもして、その時はそのまま別れた。そうそう、最初に彼女が介護していたお年寄りだが、その後どういう関係か(近所のお爺ちゃんかって意味ね、決してヤラシイ意味ではない)尋ねたら、K田さんから思い切り肩を叩かれて「何を言ってるのね、あなたは!!あれはT之内クンだがね~」などというショーゲキの事実も分かった。ええええ、T之内?確かに高校の頃から若年寄みたいな雰囲気だったけど、今じゃ立派な年寄じゃないか。どうしたT之内、何があったT之内。などと人の事ばかり言ってるとバチが当たるのでこの辺でやめる。

 で、その日いつものように図書館に行って本を読もうと思ったが、元同級生たちの食事会の二次会にROCK BARを紹介しよう。よくよく考えてみたら、僕とROCK BARのマスターは高校の同級生で、ということは彼女達とも同級生なのである。教えてもらった携帯に電話したけど、だれもでんわ。などという死語的ギャグはやめて、呼び出し音の後留守電のメッセになったが、留守電入れるの嫌いなのでシカトした。で、図書館で本を読んだ帰りに、晩御飯の買い物をしていたら携帯が鳴り、出てみるとK田さんだった。そこで、会食が終わった後にROCK BARを使ったらどうか、マスターとも久しぶりの人もいるだろうから、などと言った後、つい、ま、オレもあそこだったら気軽に行けるし、夜の9時半くらいに行っておく、などとどうして言ってしまったのか。やはり、なんだかんだ言っても女の人が7人もいるってのは華やかだし、そういうところで呑むのもいいんじゃないかと思ったんだろうな。

 ということで、自宅に帰り、それでも晩御飯を食べてパソコンに向かっているうちに、やっぱり女子会に参加するのも気が引けるからやめとこうか、と考えていたらまた携帯が鳴り、今回の参加メンバーの一人がすでにROCK BARに予約を入れいてる、時間は九時半か十時くらいになるとのこと。言いだしっぺが自分なので、じゃそれくらいにはお店にいると返事をした。ついでに参加メンバーを聞いたら、なんとワタクシが高校時代に行為を、違う、好意を持っていた人が二人いる。まあ、お互いトシ食ったから会わぬが花かとも思ったが、やらぬ後悔よりもする後悔とも言うではないかと、これはどういう意味か良く分からないが、とりあえず十時前にはお店に着くよう準備した。

 実はこの時、ちょっと配偶者といさかいがあった。その時僕はすでにパジャマ姿だったので、外出用の服に着替えようとしていたのだが、いきなり配偶者が「ちょっと、まさか、またいつもの緑のシャツで行くのと違うよね」などという。僕のお気に入りの恰好は、緑色のネルシャツに迷彩色のパンツ、それに黒の大きなダウンジャケットというのが定番なのだ。「え、なんで、いつもの格好だけど」と答えたら、「何考えちょっとね、あんたは。仮にも女の人たちの前に行くのに、何であんな軍隊みたいなズボンと似合いもしない緑のセンスの悪いシャツを着るのね。私が恥ずかしいが」などという。おい、ちょっと待てや。オレ若いころから緑色が好きで、学生時代のオレを知ってる奴はそれ絶対知ってるんだけど、配偶者はこれまでにつもりに積もった意見を僕にぶつけてくる。「もう、昔から思ってたけど、あなたは緑は似合わない。絶対似合わないのに、なんで緑ばっかり着るの。また買うの。少しはセンスというものを身に着けてよ。ねえねえ、あなたたちもそう思うよね」と今度はバカ娘たちを味方につけて、こちらを非難する。しかし、これはちょっと堪えたね。そうか、オレは緑、似合わないのかと全身の力が抜けて、ふて腐れて布団にひっくり返った。さすがに配偶者もすまないと思ったのか、「ごめん、言いすぎた。似合わないことはないのよ。ただ、色が白い人だからグレーぽい色を選んだほうが映えるから」などといまさらなことを言う。子供たちも僕がふて腐れているのが哀れに見えたのか「私はお父さんのアーミーの服は嫌いじゃないよ」などとフォローを入れ始め、まあ、そうなるとおだてに弱いワタクシ、結構機嫌直して配偶者のコーディネートした服を着てROCK BARに向かった。

 店に着いたのは十時前だったと思う。珍しく二人客がいて、一人はこれまた高校の同級生の男だった。彼は七時くらいから来ていて、いつも二時間くらい飲んだらさっさと帰るのだが、この日はマスターから「珍しい団体が来るから待っとけ」と言われていたらしい。もうかなり出来上がっていて、呂律が怪しい。さらに珍しいことに20代と思われる若い女の子も一人で来ていた。その二人の間に入り、最初は同級生とよもやま話をしていたのだが、途中からクラプトンが流れてきたら隣の若い女の子が「この人有名ですか」と聞いてきたので、まさにチャンス到来(by バービー・ボーイズ)とばかりに、それから流れるロックの解説をしてやり、「良くご存知ですね」という尊敬が愛情に変わろうとしたその瞬間、店の扉が開き元気な女性たちがやって来た。さて、それから延々2時間。みっちり飲んで話して(あ、女性陣で呑んでたのは画家のM本さんと童話作家のO本さんの二人で、あとはコーラとかソフトドリンクだったと思う)、気がついたら午前零時はとっくに過ぎて、結局この日もジャズに出会えなかったワタクシであった。実はこの時の話を書こうかと思ったけど、結構マジな話が半分ともう完全与太話が半分で、あまりにも個人のプライバシーに立ち入った話が多かったのでやめました。さあ、次こそジャズ(喫茶)と出会うのだ。



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