いい加減でやけっぱちな反省

 わ、わ、わー、輪が三つ、というのは昔懐かしいCMソングだが、違った、わ、わ、わー、もう10月も終わりだ。今年もあと2か月。どうしよう、どうしよう、オ~パキャマラド、パキャマラド、パオパオパ~って、僕はクラリネットを壊してはいなかった。いやいや、そんな戯言行ってる場合じゃなくて、本当にもうあと2か月で、3.11の不幸は未だに続いているし、フクシマ原発も何だか良く分からない状態だし、どさくさに紛れてQ電は知事と社長を温存してうやむやにしようとしてるし、大阪では行列のできる弁護士の同窓会が開かれそうだし、渡る世間は鬼と人でなしと沈黙する羊たちであふれているし。ああ、今月も無駄に月日が過ぎていきました。

 今月の反省は、エントリーのシリーズものを書こうとしていたけど、どれも中途半端というか尻切れトンボで終わったこと。自分自身にお金を稼ぐ才覚が無いと分かったこと。そういえばここ1週間は毎日ジョニ・ミッチェルの『コート&スパーク』ばかり車の中で聴いていること。エリック・アンダーセンの話を書こうと思いながらも、手を付けていないこと。部屋に積み重ねてあるハードカバーに文庫本にマンガに雑誌などの中に読んでいないものが結構あって今は『ミックジャガーの成功哲学』というのと、『天皇ごっこ』と『闇の子供たち』を並行して読んでいるうちに訳が分からなくなったこと、などをすべて総括して11月に臨みたい。

 そして、今までのようにだらだら文章書くことを止めるとワタクシ宣言したいが、それはちょっと自信が無い。しかし、早いよなぁ。頭も回らないし首も回らない。やれやれ、それが人生ってものかな…。多分違うと思うけど。ま、いつもは月初に書く繰り言を月末に書いたことは、自分を褒めてあげたい。てなとこで、今月は終了。

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金でも無いかと下見て歩く



お金が無いので断っていた飲み会だったが、再三のお誘いメールが届き、どじょうがTPPの協議に参加するというニュースを見て、ふざけるな、まだまだ討論の最中だろうが、あらかじめ結論ありきの茶番だったのか、ナメるのもいい加減にしろと、怒り狂って激怒に震えて、目が血走ってピンクにチェンジしたので、今から夜の街にでる。

怒っているので、おねいさん関係は無い。いや、怒ってなくても無いのだが。


タイトルなしでアップしていたことに気がついたのは翌日だった

 どくとるマンボウ、北杜夫、違いが判る男のゴー×ド・ブ×ンド。違いが判る男はインスタントコーヒーなんか飲まねぇよな、などと悪たれついていた頃が懐かしい。作家、北杜夫さんが亡くなられた。享年84歳。狐狸庵先生こと遠藤周作と今頃は一緒になって大ぼら吹きまくっているだろうか。

 最近、全く小説を読まなくなったが、中学・高校の頃は手当たり次第乱読していた時期があった。北杜夫と初めて出会ったのは、高校に入学した直後だった。それまでユーモア小説と言えばケストナーのエミールものだとか、地下鉄サムだとか要するに紅毛碧眼人のものしか知らなかった僕に、この作家の本は面白いと教えてくれたのはS尾君だった。今でこそ、仙台市で某国営放送に勤務し、例の震災の時は「明けない夜はありません。被災地のみなさん、もうすぐ夜明けです」と感動的なアナウンスをした立志伝中の人ではあるが、高校で初めて出会ったときは、国富町という田舎から毎日小一時間バスに揺られて通学してくるとか、やたら話し声が大きくて目立つとか、サッカーとサイモン&ガーファンクルが大好きでその2つに対しては一切批判を認めないというような、どこにでもいる普通の高校生だった。どこがや?そういえば拙blogにたまにコメントしてくれるYKZ君は彼の従弟だったな。どうでもいい話だが。

 そのS尾君と同じクラスになり、何故か妙にウマが合ってすぐに親しくなったのだが、あるとき彼が「××(僕の本名)、お前は北杜夫知っちょる?知らん?ほら、『船乗りクプクプの冒険』書いたやつよ~」と話しかけてきた。「くぷくぷ?プクプクと違うんか」と答えると、「お前ゃ、何も知らんね。よし、オレが本を貸しちゃるわ」とネイティブな宮崎弁、正確に言うと国富弁でまくし立てたかと思うと、翌日文庫本を貸してくれた。薄い文庫本で、どれどれと家に帰って読みだしたら止まらない。読みだしたら止まらない、パクパク、カ×ビーのカッパえびせんである。あまりの面白さに驚いて、翌日本を返して感想を話したら、「おもしりーじゃろが。こん他にも『どくとるマンボウシリーズ』ちゅうとがあって、てげおもしりいっちゃが」と言われ、次に『どくとるマンボウ航海記』を貸してくれた。これも一気に読んだ。当時はまだ『兼高かおる世界の旅』なんかがテレビの視聴率を稼いだ時代で、今のように気楽に海外に出かけられる時代ではなかった。何しろ1ドルが360円で海外に持ち出せる円も限度があった時代だ。

 そんな時代に1年間、マグロ船の船医として世界各国を回った体験記を面白おかしくかいてあったんだから、そりゃツボにはまる。いろんなエピソードを楽しんだが、今でも覚えているのはスケベニンゲンという地名があるという話や、船酔いは絶対しないと心に決めて、それでも猛烈なシケの時に酔いそうになったのでウィスキーをがぶ飲みして先に酒に酔ったなんて話は頭に残っている。そうそう、後年受験勉強をする時の気つけにウィスキーのストレート用の小さなコップに氷を1個入れて、そこになみなみとウィスキーをついで勉強しながらちびちび舐めるということをしたのも、この本の影響だ。もっとも、まだ高校生で酒の味など分かるはずもなく、何回か試したが、そのたびに爆睡してしまい、あるとき証拠隠滅を忘れて親に見つかり、てげ叱られた。

 『航海記』もすぐに読み終えて、あとS尾君が持っていた北杜夫の本は『幽霊』だけだったので、それも借りて読んだが、こちらはいわゆる純文学であてが外れた。ただユーモアものと違うシリアスな雰囲気は気に入った。それからというものの、図書館や書店で北杜夫とあったら手当たり次第に読んだ。新潮文庫に入っているものも結構あったが、文芸春秋社や中央公論社から手ごろな価格でペーパーバックスが出ていたので、そちらも片っ端に(もっともお小遣いの予算があったので、古本屋などでも物色した。当時はブコフなどがまだなく、正統古本屋が宮崎には1軒しかなく、そこの辛気臭そうな店主に煙たがられながら立ち読みしたものだ。真面目な本だけではなく『SM奇譚』なんてバイヤーな本も立ち読みしたが、そういう時に限って気配を隠して人の背後にまわり咳払いなどされて15センチくらい飛び上がったことなどもあった。残念ながら、その哀愁のある古本屋は後継者がいなかったため現在は閉店している。歩道橋のそばのその店を通るたびに、誰か再開しないかと念じている)。

 この後、読んだ本で記憶に残っているのは『夜と霧の隅で』、芥川賞受賞作でナチの人体実験がテーマの純文学。高校生の時に読んだ印象は、あまりいいものではなかったが後年パンタが『クリスタル・ナハト』を出した時に、メンゲレの伝記と一緒に読み直した。印象はずいぶん変わった。『羽蟻のいる丘』は、淡白な印象の純文学。ストーリーは覚えていないが、昔の高価な本についていたロウ紙(パラフィン紙)のようなイメージがあった。『遥かな国遠い国』は、少し頭の弱い少年が船乗りになり、ソ連に拿捕された話。『三人の小市民』という短編も入っていて、てんで冴えない小市民がパチンコでツキはじめて玉がどんどん出ている間は「オレは大魔王だ」などと気持ちが昂るのだが、もちろんそんなもの長続きせず最後は文無しになって店を出る。文体というか表現がユーモア小説の時と似ていたので、「ラッキー、明るいほうだ」と喜んだが、読了した後は「やっぱり暗いほうか」と少しがっかりした。当時、北杜夫の本は面白いもの(ユーモア小説、エッセイなど)は「明るいほう」、純文学系は「暗いほう」と呼んでいたのだ。

 『あくびノオト』、『へそのない本』、『南太平洋ひるね旅』は「明るいほう」だったが、どうも中身がスカスカで、思いつき一発で書いたような感じがした。とにかくたくさん出版されていたので、どれが自分のツボにはまるものか分からず手当たり次第読んでいた。「明るいほう」のものでも、読後、「いやー、これは面白かった」と思うものと、「なんじゃこりゃ」とがっかり来るものと落差が激しかった。大学を終わるころ読み始めたシーナマコトの本も一時期そういう感じがあったっけ。さて、そういう試行錯誤していた中で、「暗いほう」と「明るいほう」のホームラン級の作品に連続してぶち当たった。「暗いほう」は、あの長編小説『楡家の人びと』である。北杜夫がトーマス・マンの大ファンというか崇拝者であることは有名で、ペンネームの「杜夫」も実は、「杜二夫」として「トニオ」と読ませたかったと何かのエッセイに書いてあったくらいで、『楡家』もトーマス・マンの名作『ブッデンブローク家の人びと』からタイトルを拝借している。

 このボリュームあふれる小説は、北杜夫の家族である斎藤家、斎藤茂吉をはじめとした奇人変人一家の興亡が3部にわたってつづられる。斎藤茂吉、強烈な個性を持った精神医学科で歌人で、北杜夫の父親である。こういう強烈な父親がいたら、子供はずいぶん迷惑だろうなと思うが、まあ、本当に迷惑な人であった。北杜夫が文学を志すことに反対し医学の道を進むように手紙を書き、その書き出しが「愛する宗吉へ」などと妙に可笑しい。あ、これは『青春記』のエピソードだったか。『楡家の人びと』は、高校時代に読んだきりだが、また時期をみて読み直してみたい。今の年齢になった僕はどういう感想を持つか楽しみではある。

 その前後に読んだ(文庫で購入した)『どくとるマンボウ青春期』はいわゆる『マンボウ・シリーズ』で1,2を争う面白さだった。主人公である北杜夫が、実家の精神病院を離れ(つまり親元を離れ)、旧制松本高(現、東北大学)に入学し、そこでいろんな先生や先輩・友人と出会い、刺激しあい大学の医学部に進むまでの話が軽快なタッチで描かれている。純文学者の辻邦生は先輩で同じ寮で暮らすのだが、ものすごい知性の持ち主として登場してくる。ま、そんな話より、一番覚えているのは旧制高校の試験が実におおらかだったこと。問題を読んで分からない時は、その授業で出てきたことを思いつくだけ書けば、少なくとも赤点にはならなかったという話があり、ある化学の試験で何一つ問題が解けなかった先輩は「問題を見てピクリン酸、脇の下にアセチレン」と化学用語をちりばめた落首のようなものを書いて進級したエピソードなどがあった。

 それで思い出したのが大学入学後に入った某サークルで、T原さんという鹿児島出身の先輩に教わった試験対策の話。「おう、××(ワタクシの本名)。大学の試験なんか三味だ、三味」。「三味ってなんですか」と純真、純情きらり時代のワタクシ。「三味線でいい、ってことだ。問題読んでダメだと思ったら『上記の問題はさておき、昨今の大学におけるマスプロ教育の弊害について以下述べる』てなこと書いて出せば、『優』は無理でも『良』、悪くても『可』で単位は取れる。オレはこの手で1回生の時に42単位取った」などという。根が素直で正直なワタクシは試験などというものはそういうものだ。そういえば北杜夫が旧制高校の話でそういうことを書いていたなと思いだし、ただ教授の傾向と対策というものがあり、A先生は反ヨヨギ系なのでこの手の話が好きとかB先生はヨヨギシンパという噂があるから共×党の悪口は書かないとか、C先生は根っからのクリスチャンだが今の教会に対しては多少批判的に書いたほうは受けがいいとか、そんな情報収集する暇があれば普通に授業を受けて試験に臨めばいいものを、授業は全然出ずにサークルのBOXばかり通っていたから、僕は1回生の時は5単位しか取れなかった。今、もう一つ思い出した。T原さんの時は全学バリストのため試験が中止で、全面レポートに切り替わった年だ。オレの年は普通に試験があった年だ。ま、いまさら詮無い話です。

 さて、北杜夫の本の話に戻るが、そのほかに読んだ本は「明るいほう」では『どくとるマンボウ昆虫記』『どくとるマンボウ途中下車』の2冊はまあまあ中堅ヒット。『高みの見物』はゴキブリが人間社会を嗤うという確か朝日新聞の連載小説。僕は北杜夫は漱石を超えた、明治人の漱石は所詮ネコどまり、どくとるマンボウはゴキブリの世界まで進んだと夏休みの読書感想文に書いて、現国の教師に「お前。オレを舐めているのか」と恫喝を受けた。『奇病連盟』や『マンボウおもちゃ箱』は、うーん、もう一つかな。『怪盗ジバコ』は面白かった。終わり方もお洒落だったし、僕が好きな怪盗ものは北杜夫の『ジバコ』と実相寺昭雄の『怪盗ルパンパン』、それとサイモン・天麩羅―、ちがうテンプラーの『セイント』シリーズである。『月と10セント』を読んだときは、北杜夫はモームを超えた。サマセット・モームは『6ペンス』だが、北杜夫は『10セント』だと、読書感想文に書こうと思ったが、現国の教師が1年、2年と持ち上がりだったので、また恫喝されるのは嫌だったのでやめた。『人間とマンボウ』、『狐狸庵VSマンボウ』あたりまで読んで、マンボウシリーズは卒業した。

 「暗いほう」は、『牧神の午後』を読んだがドビュッシーの協奏曲ははっきり覚えているのに小説の記憶が無い。面白かったという読後感はあるが、作品の内容もすっかり忘れている。『白きたおやかな峰』は図書館で借りて読んだ。恥ずかしながら、最初この題名の読み方が分からず『白きた、おやかな峰』と区切ってしまい『白きた』とはどういう意味だろうか。麻雀していて白(ハク)を積ってきたということだろうか、などとは考えなかったが意味が分からなかった。読後に「白き、たおやかな峰」であることがわかり、「たおやか」という形容動詞を学んだものだ、ワハハ。ヒマラヤ登山に挑戦する各国の登山家の話だが、やや日本人を誇張して書いてる感じがして、そこだけがちょっと嫌だった。『黄いろい船』と『星のない街路』は先述した古本屋で購入した。どちらも古本屋の匂いが良く合う小説集だった。

 とめどなく、思い出したことを書いてきたが、年代的には73年から74年くらいまでで僕の中の北杜夫フィーバーは終わった。彼の小説やエッセイが嫌いになったわけではないが、めったに政治を語らない彼がたまに「自分は中道現実派でちょっぴり右」というスタンスが、当時の僕にはふがいない感じがしてだんだん離れていったんだろう。大人になって、確か30代半ばくらいだったか、急に北杜夫を再読したくなり『青春記』を文庫で買いなおしてみた。読んでいて、忘れていたことや記憶違いの所とかあって、なるほどと思う箇所はいくつかあったが、昔読んだ時のように気持ちがときめかない。あれはやはり「青春時代」に読むものなんだとつくづく思った。いつまでも若い若いと自分に言い聞かせて来たけど、もうそういうのはいいんじゃないかな、なんて一瞬思った。人生いつまでも青春だなんて寝言いってるアホもいるけど、いつまでたっても道に迷ってばかりいてもしょうがないよな。あ、いつの間にか北杜夫の話が終わってしまったけど、まあ、なんだかんだ好き放題書いたけど、その節は大変お世話になりました。安らかにお休みください。偉大な父上とも再会されたでしょうか。合掌

♪きっさてんに、かのじょと、二人で入って、コーヒーを注文すること、あ~それが青春~(だと思ってるバカがいる)。


恍惚日記、あるいは夢一夜

 …、おお、よく来てくれたな。ずいぶん久しぶりじゃが、元気にしておったか。最近は、もう誰もこのワシに会いに来てくれるものはいなくなった。たった一人の孫のお前くらいじゃ。おや、ずいぶん汚れた格好をしているが、いったいどうした。それと、その手に持っているものは何じゃ?ん、ん、その紙に包んであるものの中にあるのは。な、なんと、お前はいったいどこでそんなものを手に入れてきた。もしや、あの蔵に入ったのか。あれほどダメだと言っておったのに、どうしてまた、そんなところに入ったのじゃ。あの蔵は、入った人を中毒者にしてしまい、揚句はもだえ苦しませるから二度と近づいてはならんとあれほど言ったのに。周りの人は、あの蔵の事を「地獄の味噌蔵」と呼んでいることは以前教えただろう。…まあ、いい。若いときはそういう無茶をしたがるものだ。このワシも若い頃は、え、もういいいだと、あの関東を代表する空港が勇者たちによって封鎖され、管制塔が占拠された話は、そうか、聞き飽きたか。じゃ、あの時計台の話はどうじゃ。責める青ガラスに守る学生部隊、催涙ガスと放水の中、高らかと奏でられる自由放送、あ、この話ももういいか。ゴホン。で、お前の持っているその、紙包みをちょっとこちらに持ってきてみなさい。なんと、これは、ほ、本ではないか。しかも、今はもう消えてしまった「ろっく」という音楽が、まだその存在を主張し、多くの若者に支持されて、もしかしたら価値観の共有とともに新しい世界を構築できるかもしれないという幻想が市民権を得ていた、あの時代のカタログじゃ。懐かしいのぅ。うむ、せっかく来てくれたから、今日はこの本の最初の写真のページ、当時は「ぐらびあ」などと呼んでおった、そのページに出ている連中の話をしてやろう。こう見えてもワシは昔、「若手ロック評論家」などと呼ばれたこともあった。なに、ウソを言うなだと。このワシが、いつウソを言った。なに、この前来た時は元カゲキ派、元ボーリョク学生と言っていただと。その前は必殺スケコマシ、下心行動委員会の幹部だと言っておっただと。うん、まあ、その、人間というものは単純にひとつのカテゴリーでくくれるものではない。多面性というものを持っているのじゃ。お前にもいつの日にか分かるだろうて。ほれ、以前教えたあの歌、CCBじゃったと思うが「さむでぃ・ねばー・かむす」というやつじゃ。おっと、無駄話が過ぎたようじゃ。さっそく1枚目の写真を見てみようか。

 おお、なんと、トップページはYMOじゃ。YMO。というても、当然お前は知らないだろう。これは3人組のロックバンドで、わが国が中心となって起こした「てくの・ぽっぷ」というジャンルで世界中の若者を凶器乱入、じゃなかった、狂喜乱舞させたバンドじゃ。なに、正式名称じゃと。ええと、Y、M、Oと書いて、何と読むのじゃったか。…。そうじゃ、思い出した。Y-M-Oと書いて「イモ」と読むのじゃった。思い出したぞ。正式名称は、「イモキン・トリオ」じゃ。ほれみろ、ちゃんと3人組じゃ。なんといっても演奏スタイルが独特でな。当時まだ音楽にコンピュータを導入するなどとは、誰も思わなかった時代じゃ。いや、ちょっと待て。西ドイツに、「グラフと仕事、つまりグラフとワーク」とかいう名前のユニットがおって、そっちが本家「てくの・ぽっぷ」じゃった。おお、そうか、お前はドイツが東西南北に分かれていた時代を知らんのか。東ドイツに西ドイツ、南ドイツに北ドイツとドイツは第二次世界大戦後、4つに分割されておったんじゃ。東ドイツはソビエト連邦、何、ソビエト連邦も知らんだと。いったい社会科の先生は何を教えているんじゃ。嘆かわしい。まあいい。学校で学べないことを、年寄りから学ぶのは正しいことじゃ。東ドイツにソ連、西ドイツにはアメリカがそれぞれ後ろ盾についておった。北ドイツと南ドイツにもそれぞれ後ろ盾がおってな。あるとき、どこの国が正当なドイツの後継者であるか揉めたことがあってな、その解決策に使われたのがタモリイズムじゃ。知ってるじゃろう。何、社会の教科書に出て来た?そう、そのマッハジャングというスポーツを通して勝敗を決めたのじゃ。これが本当のスポーツマージャン、なんちゃって。で、どの順番になったかって?当然、トンナンシャーペイの順じゃ。つまり、東、南、西、北じゃな。で、結局、南は東ドイツに、北は西ドイツに吸収され。その東西の分岐を明確にするために出来たのが、ベルリンの壁じゃ。



 うん、そうそう、そのベルリンの壁を壊したのが、のちの性的拳銃なるバンドのボーカルをやったジョニー・6トンじゃ。その名の通り、体格のいい、肥った男じゃった。何、ボロボロの服を着て、安全ピンを付けていたじゃと。バカモン、そんな乞食みたいな恰好をした奴が、あの大きな壁を壊せるもんか。何、パンク?パンクはタイヤじゃ。パンツの間違いではないのか。うん。あの頃から、パンツといえば下着ではなくズボンのことを言うようになったな。ズボンじゃ、ズボン。マンボズボンをしらんのか。あの頃はマンボズボンはあるは、ジャンボズボンはあるは、サンボズボンはあるは、いい時代じゃった。ところが大阪あたりに住んでおったわけのわからん親子が、サンバはいいがサンボはいかんというてな、焚書坑儒をやったしもうたんじゃ。暗い時代が続いたぞ。何かいうと、それは「ベサツ」じゃないか、とか、そんなことばかり。そのおかげで、ワシもそれまで集めておった書物を、誰にも見られないようにあの味噌蔵にしまいこんでおったんじゃ。

 おっと、話が飛んでしもうたな。その「イモキン・トリオ」と仲が良かったのが、蛇男一座というやつらでな。いや、もう彼らの演奏は素晴らしかった。個人的にはYMOより、ワシはこっちが好きじゃった。リーダー格の男は、ハヤシ・カツヤとかいうたか、確か広島は福山出身のハワイ人じゃったの。進駐軍の通訳をしとったが、広島訛りが激しくてな、「ウェルカム」を「来んしゃい」などと訳しておったわ。その後はラジオのDJをやって人気を博したもんじゃ。何、「なんとかだYO」、とか「ちぇけラッキョ」とかいうて、レコードプレイヤーをもてあそぶ連中ではないわ。あれは確か「脱糞」とか「ヘップがホップした」とかいう連中じゃろう。ああいう、中身も思想もないものじゃないぞ。何しろ蛇男の仲間にはガミラス帝国の総統もおったし、ちり紙交換から政治家になった立身出世のもクワバライチモツもおる。多彩な連中じゃったの。いや、懐かしい。さて、次のページをめくろうかの。

 おお、これは…。なんというものを見せてくれたんじゃ。これこそは、ワシの生き甲斐じゃった、日本の産んだ偉大なるろっくんろーるバンド。RCサカナクションではないか。このバンド名のいわれはお前も知っておるだろう。メンバー全員がものぐさでな、国立で共同生活していたのは良かったのじゃが、貧乏で冷蔵庫が無くてな、ある日近所の有名な一家から魚をくわえたドラ猫が逃げてきて、それを追いかけてきたパンチパーマで割烹着の奥さんをなんとか宥めて帰したのはいいのじゃが、その間に肝心の魚を腐らせてしまったというエピソードから来た名前じゃ。「ある日魚を腐らせた」、というわけじゃな。もっとも、この説には異論もあって、実はRCというのは正しくは、THE REMAINDERS OF THE CHERISHの略で、つまり、もともとはチェリッシュの生き残りという意味らしいのじゃ。悦ちゃんとかマツザキとかいう二人だけになったことを意味しておるらしいが、そんなことを言っておると京都に意味もなく行くことになるらしいから用心した方がいい。噂によると京都の町はそれほどいいらしいぞ。

 えーと、居眠りしていたようじゃない。どこまで話したのかのぅ。そうそう、RCの話じゃったな。このRCというバンドは、もともとはフォークのグループとしてデビューしておるのじゃ。もっともリーダーだったキヨシロウは、フォークグループという意識は無くて、好きな歌をギターを弾いて歌えればそれでいいという感じだったようじゃな。キヨシロウ、しっとるじゃろう。小さい頃から経営の才能があってな、車の販売店の店長をしておった。子供店長、子供店長というて、そりゃあもう大人気じゃった。何、義務教育の子供が店長になれるはずがない、じゃと。お前もまだまだ考えが浅いのう。もちろん、学校があるから、毎日の事ではない。ほれ、一日店長というやつじゃ。それを何度も繰り返しておったんじゃろう。ただ、人気というものは儚いもので、ついこの前まで子供店長ともてはやしておったのに、はっと気がつくと今度は丸丸モリモリ快適トイレとかいうフレーズの子供二人に人気をさらわれてな。そういえば、「黒猫の単語」で有名になった子供はどうしたかのう。やはり、辞書関係で旺文社に就職したんじゃろうか。

 このRCには才能のあるメンバーが多くてな。まずはギター担当、この男はキヨシロウと古くからの友達でな、やはりフォークのバンドをやっておった。確か、ストリート・グライダーズとかいう名前でな、ラン子じゃなかった、ラン丸という名前じゃった。もちろん芸名じゃが、普段はニックネームで呼ばれておったな。その、ほれ、ウコッケイじゃったかジトッコじゃったか、とにかく鶏のように首が動くからそういうあだ名がついたようじゃ。いや、いい男じゃったぞ。奥さんも美人でな。写真家じゃった。たしかリンダ・イーストマンとかいう名前じゃったな。ほれ、世界的に有名なコダックの血筋じゃ。その彼女のために作られた歌が「コダクローム」じゃ。聴いたことがあるじゃろうが。しかし、所詮、紅毛碧眼人が歌っておるから「ニコン」を「ナイコン」などと発音しておるわ。片腹痛い。そういえば「クイントリックス」という言葉もちゃんと発音できずに叱られておるコマーシャルも同じくらいの時代じゃのう。このほかにもベースを弾いておった、リンゴシーナというメンバーや、ドラムを担当していたニイダ・ゴーゾーとか、キーボード・ロボットのポンタ2号などもおったな。ん、ポンタはドラムじゃないかだと。いい質問じゃ。ポンタ1号は我がポンニチが誇る天才ドラマーじゃ。わしがいうたのはポンタ2号。これはキーボードを弾き狂っておったが、ギターのウコッケイと仲が悪くてな。挙句の果てはスキー屋のおやじに収まってしまった。それで、キヨシロウは、RCを活動停止にして、大麻ズとかジーサンズとか、パフィーパフィーとか別のバンドで活動するようになったんじゃ。

 RCの話をしておるときりがない。今日は、次のページで最後にしようか。ええと、次は…。おおお、なんたるちぁ、さんたるちぁ、あの偉大なる「すたーりん」ではないか。この名前はお前も歴史の教科書で知っておるだろう。本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ、鋼鉄の男、「すたーりん」じゃ。ちなみに、統一教会を批判していたジャーナリストの有田芳生の名前は、この「すたーりん」の本名からつけられたのじゃ。しかし、えらい迷惑なことじゃのう。子供の名前というのは良く考えて付けないと一生笑われるからのう。最近は小説など読む者がおらんから、それほど話題に上がらんが、三浦朱門などというのも東大の赤門からつけられたんじゃから、哀れなもんじゃ。もっとも、枕鈴と書いて「ぴろりん」とか馬蹴と書いて「ましゅ」とか、もう全く馬に蹴られて死んでしまえと言いたくなる名前もあるがのう。で、この「すたーりん」は、おい、どうした、どこへ行く、何、もう与太話にはつきあえんじゃと。ど、どこがヨタ話じゃ。そりゃあ、年寄りじゃから多少は思い込み違いや、記憶違いもある。しかしながら大筋は間違っておらんぞ、おい、ちょ、ちょ、ちょっと待て~。

 というような夢を先日見た。

本日も粗忽

 ん、何か忘れていたような気がする。今日は何の日だった、と叫びながら布団を蹴飛ばした。大急ぎでパソコンのキーボードを叩いて調べてみたら、そうだ、今日はパラシュートの日ではないか。残念ながら、パラシュート革命(by ZK)の日ではないが、パラシュートの日。そうそう、パンタ&HALの名ギタリストだった今剛(ちなみにこの名前を「コンゴウ」と読んだ友人がいて、「おい、パンタのバンドにごつい相撲取りみたいなやつおるな」と僕に話しかけてきたのは、サークルの会長だったS戸君であることは内緒である)が、腕利きのスタジオミュージシャンたちと結成したパラシュートの日だ。うん、うん、ああいう過小評価されていたバンドを全国民が顕彰するのはいいことだ。



 と、久しぶりに『6kinds 6sizes』を聴こうとして思い出した。10月22日じゃない、大事なのは♪じゅってん・にいいち、さーんーりづかー(by 戦争しか知らない子供たち)であった。しまった、昨日は国際反戦デーだった。デモにいかなくちゃ、君に会いにいかなくちゃ、の日だった。忘れていた。うーん、粗忽もここまでいけば国宝である。しかし、10.21のデモなんて今時あるのか?ない罠。と、サドンデスでエントリーが終わる。うん、最近はだらだらした話がなくなっていい傾向だ。ここまで書いて、念のため10.21の国際反戦デーのデモはないかとネットで調べたら、なんと10.21花王本社デモというのがあった。例の反韓流のデモらしい。時代は変わるな~、いや何も変わらないのか、そうパンタレイ。



一体いつのブツだ?



家に帰ったら、配偶者が本棚の整理をしたようで、ゴミとして処分しかけていた一連のブツを保護。しかし三十年近く前のブツもあるが、その頃の嗜好傾向、思考傾向ともいえるが、それは全く変わっていないことを再確認した。ロックにジャズにノスタルジックなカタログ、そして運動関係。最後に皮肉な悪意ある笑い。


ああ、嫌になるくらい変わらないワタクシ(涙&溜息)。

柳よ、泣いておくれ

 柳ジョージが亡くなった。享年63歳。元ゴールデン・カップスというより、元レイニーウッドと言ったほうが通りがいいかな。初めて、彼らの音を聴いたのはラジオの番組だったのか、とにかくライブ演奏で「Weeping in the rain」がオリジナルだと知って驚いた。てっきり向こうの曲だと思ったくらい、バタ臭い、泣きのフレーズが充満している曲だった。ボーカルも渋かったな。個人的には「フェンスの向こうのアメリカ」の歌に出てくる情景、「白いハローの子」という表現なんかが印象に残っている。もっとも、一番印象的だったのは、「酔って候」で、もちろんあの国民的作家などというと怒られるかもしれないが、司馬遼太郎の小説であり、坂本龍馬のことを描いたものだ。これも、ラジオの番組で柳ジョージ本人が語っていたけど、本来小説の題名を流行歌(!)のタイトルにすることはまかりならんと許可してもらえなかったらしいが、何度も司馬遼太郎のもとに足を運び頼みこみ、その熱意に負けて許可してもらったと嬉しそうに話していたことがあった。学生時代にそのことを先輩のT原さんに話したら、「おかしいな、酔ったらソウロウになるはずがない。チロウの間違いじゃないか」などと言われたこともある。おっと大人のジョークだな、ってかお下劣でした。しかし、まだまだ若いのに、残念である。あちらでカップスのリーダーとかジョーあたりと一緒に飲んでいるんだろうな。合掌。あ、今日のタイトルは単なる柳つながりです。



本日の粗忽

 昼休みに携帯でメールチェックしていたら、某密林から不思議なメールが届いていた。

「からだからここに来た!」

 どこから、来たんだろうか。体からどこに来たんだろうか。と、しばらく考え込んだ。全然分からなくて、もう一度良くメールを見直した。

 『×mazon.co.jp からだからここに来た!-全日本フォーク・ジャンボリーの記録』、とあった。なんだ、中津川フォークジャンボリーのDVDのセールスメールだったのか…。ていうか、ちゃんと句点をつけろ!!言葉の乱れはココロの乱れです。



つわもの共が夢の跡



Nコンに参加したバカ娘2号の迎えで空港に来た。一昨日、熱狂的なライブ会場だったスペースが、本日は宮崎の物産展と化していた。この前のジェイクの熱気が嘘のようだ。さて、飛行機は定時に到着するか、アナウンスを聞いてみるか。

ジェイク・シマブクロ Live At Miyazaki Airportの話

 やられた。反則じゃないか、それは、と思ったが、良く考えてみたらそんなことは全然ない。こちらの先入観というか、単なる思い込みだった。

 ジェイク・シマブクロのライブのチケットが当たったので、当然見に行ったわけだが、何とも強烈、圧倒的な50分間であった。そう、50分間。以前のエントリーに書いたように、いつものズージャのライブだとかロックや歌もののライブであれば、デーハーなナオンと一緒に行くのもイッツ・マイ・プレジャーというかシークレット・プレジャーであるのだが、相手は何と言ってもハワイのウクレレの貴公子である。ここは、デーハーでナイスバデのナオンもいいが、知的美少女などと一緒に行くとこりゃまた結構(by 巨泉)なのだが、いかんせん軍資金が無い。つい先日配偶者に給料日に必ず返すからと言って、ガソリン代として1万両借りたばかりで、1万も2万もおんなじやんけ、けちけちするな、金は天下の回りもの、などという捨て台詞が通用するはずもなく、仕方がないので、これまでブコフなどでコツコツ買い集めた『ジパング』全43巻を大人売りしてやろう、ついでにもう読まないだろうバロン吉元の文庫本やその他もろもろ持っていけば、まあ5000円くらいになるんじゃないか。いや、この間ブコフに1巻から20巻までが4000円で売っていたから、もう少し安くなるかもしれん。そういえば前半の1巻から15巻くらいまではブクマで50円で買ったやつなので、20巻くらいまでは1冊25円だとしても、それ以降のはもうちょっと高くで買い取るだろう。

 などとトラタヌして、悪くても3000円にはなるはずだと思いながら握りしめていた番号札5番。呼び出されて、すぐに行くのはいかにもお金が無いことを相手に分からせ足元見られるだけだから、一呼吸おいて、え、なに、呼んだ?みたいなどこかのボンボンみたいな鷹揚な感じで買い取りカウンターに行った。そこで渡されたレシートに書いてある金額を見て気が遠くなりそうになった。総額1350円。あの不朽の名作、かわぐちかいじの傑作『ジパング』全巻43冊が涙、なみだの1070円。これは何かの間違いではないかと抵抗する気力もなく、サインして1000円札と小銭をポケットに入れた。よって、今回のライブはデーハーなナオンも知的美少女も一切無。まいどまいどのY尾君と一緒に行くことになった。いや、つーか、いつものパターンですが、ハイ。

敗戦の証拠

 もともとこのライブは地元の某ケーブルテレビ開局15周年記念のエアポートライブ、希望者はメールかお葉書で申し込んでくださいという広告を見つけて、すぐにメールを入れて、そのままY尾君に電話して「オレはこれこれでメールで申し込んだ。当然、外れる場合があるからお前も申し込んでおいてくれ。ペアでご招待なので、どちらかが当たれば行けるからな」と、タイアップを頼んでいたのだ。で、僕の自宅のポストに当選のはがきが来たので、急いでY尾君に電話してそちらの状況を尋ねてみた。こういう時に日ごろの行いの差がでるのか、彼はハズレだった。いわゆるスカである。つまりレゲエの前身のリズムで、70年代後半にスペシャルズマッドネスセレクターなどがその覇を競いあった市松模様のジャケットで、っていい加減誰か止めてほしい。そっちのスカではなく、アテモン(関西では駄菓子屋で売っているくじのことをアテモンという。この単語は大学に入って、DRACで初めて知った。なるほど、子供にしてみれば目的の景品を「当てるもの」だからアテモン、言いえて妙である。ちなみにポケモンが大ブームになった裏側には、このアテモンという言葉のゴロに似ていることが関係しているのではないかと言語学的に研究する権利は興味のある方に譲る)でいうところのスカ、つまり当たらなかったわけである。

 そういうわけで、いつもの二人連れでライブに行くことにしたのだが、何しろ会場が宮崎空港という、オールモストのピープルはエアプレーンでフライトするために、あるいはファーラウェイのビッグタウンからアライブするために使う場所であって、あまりライブだのコンサートなどで行く場所ではない。と、何故かルー大柴が入ってしまったが、場所はさておき、開場20時半・開演21時・ライブ終了予定が22時40分くらいという、もう、なんていうかアダルトの時間。せっかくのライブなので、軽くアルコールでも入れたいので、公共交通機関のバスや電車(なんと宮崎空港にはJRの駅があり、そこが終着点になっている路線もあるのだ)を調べてみたが、行きはいくらでもあるが最終が23時前なので帰りようがない。いや、懐に余裕があればシータクで帰るとか、そのまま勢いで浮かれ街に行きライブの無念を晴らす尾根遺産関係(©ズトさん)のお店に乱入という、大人の夢があるのだが、しかし悲しいことにお金が無い。それにつけても金の欲しさよ、じっとわが手を見る、などと嘆いていても始まらない。

 結局、Y尾君の車で行くことにした。当然、アルコールは抜きである。19時半に僕の家の近くの駐車場で待ち合わせ、合流して空港に向かった。晩御飯はどうしようか迷ったが、とりあえず自宅で札幌一番味噌ラーメンと買い置きの王将の豚まん(ちなみに豚まんは関西での名前で、一般的には肉まんというらしいが、何ぬかし豚年、いや、何ぬかしとんねん、あれは豚まんじゃ!!)を食べておいた。一方、Y尾君は何も食べていないようで、空港近くにある長崎ちゃんぽん屋で食事して、時間を見計らって空港に行こうという。自分だけインスタントラーメンと冷凍の豚まんとはいえ、食べてきたというのは何となく言いそびれたので、適当に相槌をうっておいた。

 そのちゃんぽん屋は長崎に本社のあるチェーン店で、女の子が驚いたような名前である。その心は「リンがハット」なんつって。えー、笑いが取れなかったようなので、無視してお店に入った。しかし僕は、つい先ほど食べたばかりなので当然それほどおなかはすいていない。それなのに、ああ、それなのに、ウェイトレスが持ってきたメニューを見て、一番無難なちゃんぽんを頼んだまではいいが、相手の「麺の量はどうなさいますか?」の質問に、再度メニューを見ると麺は普通・1.5倍・2倍と3パターンあって値段は変わらないと書いてある。思わず「い、いってんごばい」と答えてしまったワタクシには、今日まで支配階級に苦しめられた飢えたる者たちのタマシイが乗り移っていたに違いない。そんなワタクシを誰が責めらりょうか?飢えたる人民の怒りを思い知れとばかりに敢然と1.5倍の増量麺を注文する、これが男の生きる道~などと勝手に盛り上がっていたら、Y尾君から「ビール飲んだら?」という悪魔の誘いが。いや、君が運転しているのに、オレだけ飲むわけにはいかん、あ、そうだ、ならお前はノンアルコールビール頼むか、などと一応は辞退したが、再度勧められたので、あまり固辞するのも人間関係にひびが入る、人の好意は素直に受けるというのが、このシホン主義社会で学んだ人生の真理であると、このあたりは適当だが、せっかくなので中ビンを1本だけ頂いた。そうそう、ここの支払いはチケット代が要らなかったからとY尾君が奢ってくれた。いやー、持つべきものは友である。携帯でメールが出来ないとか、パソコンが使えないくらいがなんだ、人間の価値はそんなもんじゃないんだ。などとセンダじゃないほうの、「みつを」が言いそうなことを思わず書いてしまった。

 Y尾君はさすがに何も食べていないので、注文した皿うどんを軽快なペースで摂取していくが、僕は途中から明らかにペースダウン。なんといっても1.5倍の麺。食えども食えども麺が減らない。しかし、食べ物を残すのはイケナイと、これは小学校の頃から教わった文部省の方針、ではなく、父母、祖父祖母の教えであるから必死に食った。人間必死に食えば何とかなる。しかし、こうやって無理に食べているとちょっと厄介な病気になる危険性がある。どんな病気か、その心はメンヘル(麺減る)。などと、またもや大外れのダジャレを放ち、我々は空港に向かった。

 ここから先は、前日の携帯からのエントリーを参照していただきたいのだが、まず空港に入る交差点で信号待ちしていたら、目の前をやたら車が走る。夜の8時過ぎに空港に向かう車というのは、到着便の迎え以外ないはずだが、とにかくやたら目の前を通過する。少し嫌な予感をはらみつつ、青信号とともに空港の駐車場入り口に近づくと、大渋滞。車が止まって動かない。後から来た車は、僕たちの車を追い越して先に行く。空港の駐車場は入り口近くの西口と、その反対側の東口とある。待っている車のあまりの多さに、東口に移動するかと話したが、おそらくそちらも大して変わらないだろう。こういう時は、その場で待機が一番とじっくり腰を据えた。少しずつ車が駐車場に入っていき、僕たちの乗っている車の番になった。こういうときに、歩くのを惜しんで奥のほうに行くと今度は車を止めるスペースを探すのに時間がかかるので、ゲートのそばの空いたスペースに車を追いて歩いて会場に向かった。そのあたりにいた人たちは服装や会話の感じで、みんなライブを見に来た人だと分かった。圧倒的に尾根遺産たちが多い。もう少し、心に余裕があればじっくり観察できるのだが、そんなことをしている間に席が無くなると思い、断腸の思いで無視して進んだ。

 入り口の自動ドアの所に来て、ちょっと固まった。なんと目の前にはすでに長い行列ができている。もどかしい思いで、中に入ると列の後方が折れ曲がっていて、その最後の所に『最後尾』と書いた立札を持った係員がいた。小走りにそこに行って並んだ。先を見ると、エスカレータのベルトが見えて、その先の会場からずっと人の列ができている。並んでいる人の話から、無料チケットで300人招待しているらしい。300人なら、なんとか会場内で座って見られるなと思ったのは大きな間違いであった。20時半過ぎくらいから行列が動き出した。会場に客を入れ始めたようだ。少しずつ、少しずつ列は動き、ようやく会場の近くまで来たときに、妙な景色が見えた。会場は、空港のロビーの真ん中にあるイベント用のスペースで、その手前に2階に上がる階段とエスカレータが並行してある。会場に入るには、当然、その階段とエスカレータの横を通過していくはずなのに、僕たちの前の人々は、エスカレータのところで左に曲がり、上に向かっている。「おい、あれ、おかしいんと違うか」「もしかしたら1階は、もう満員で上の階で見るのかもしれんな」。

 悪い予感は当たった。1階の会場は、もう全席満員で、そこに入れない人たちは止めてあるエスカレータを歩いて上がり、2階の通路に鈴なりにならんでいた。僕たちもなんとか2階で場所を確保したかったが、とてもじゃないが空いている場所は無く、仕方なく最上階の3階に上がった。3階の西側通路のどん詰まりの手摺の所に、ようやく場所を確保して上からステージを眺めた。かなり小さい。これじゃ演奏者の顔とかはっきり見れない。しかし、まだ僕たちはいいほうで、あとから来た人たちは僕たちの後ろで隙間から下をのぞく形でしか、ステージを見ることが出来ないのだ。

 今回のライブの目玉は、なんといってもスーパー・ウクレレ・プレイヤーのジェイク・シマブクロである。昨年の宮崎口蹄疫の時も、ずいぶん心配してくれて全国からカンパを集めてくれた。また今年の3.11には、自分のルーツが福島ということもあり、熱心に復興の応援をしてくれている。僕は、5~6年前に『フラガール』のサントラと、もう1枚彼のCDを、閉店する電気店のコーナーで格安で手に入れ、その卓越した演奏能力と作曲能力に興味を持った。もっとも、それほど熱心なファンだったわけではなく、たまにYOU TUBEで演奏を眺めるくらいだった。そういう意味では今回のライブは大いなる収穫、発見が沢山あった。



 21時になり、空港の最上部のからくり時計が動き出した。1階の椅子に座っているお客さんからは、やんやの喝采と口笛が鳴り響く。2階、3階の通路で立って待っているお客さん(インクルーディングY尾君&ワタクシ)たちは、やや疲れてやけくその拍手が起こった。からくり時計が動いている間、何気に下を見たら、スモークが結構たかれている。風味堂というグループが前座に出るはずなので、その演出だろうと思って見ていた。からくり時計が終わり、暗くなった1階の客席から大きなどよめきと拍手が上がった。「ん」と思わず声を出して、下を見るとジェイク・シマブクロがいきなり出てきた。「アローハ。ミヤザキ、ウェルカムトウザミヤザキエアポート」とあいさつを述べた後、いきなり演奏が始まった。音響は思っていた以上にいい。空港は吹き抜けなので、音が広がりすぎるんじゃないかとか、僕たちのいたところは3階の通路なので、すぐ後ろに壁があり音がこもってしまうんじゃないかなんて心配は無用だった。

 しかし、いきなり本日のメインが登場するとは思わなかった。ステージにはドラムセットもキーボードも、そして見えなかったがベースのアンプなどもセットされていたから、またキャリア的にも当然風味堂が前半の小一時間やって、そのあとジェイクだと思っていたのだ。もっとも、ハプニングというか演出で、オープニングにジェイクが2曲ほどやって、そのあと風味堂の登場じゃないかとまだまだ疑っていたのだが、なんとなんと、そのままジェイクは演奏していく。途中、MCを入れながら演奏するのだが、このMCが聞き取りにくかった。声がこもってしまうのと、ちょっとジェイク自身の滑舌が良くないのと、英語と日本語とハワイの言葉のちゃんぽん(お、ここ偶然にもちゃんぽんだ)で、良く分からないところがあった。

 それにしても、1曲目で腰が抜けた。彼のテクニックの素晴らしさは織り込み済みのつもりだったが、とにかくライブは凄い。ウクレレでチョッパーはやるわ、トレモロは強烈だわ、おい、この楽器は弦が4本だろう、どうしてこんな音が出るんだ。え、ウクレレって弦楽器だよね、鍵盤楽器じゃないよね。左手と右手でリード弾いてるぞ、アンビリーバブル。などと頭の中には紫の煙(by ウシャコダ)であった。それで、最初に出てきた感想が「マキシンより上手い、さらに藤井君よりも上手いぞ」と、当たり前といえば当たり前だが、要するにウクレレプレイヤーとして後知ってるのは高木ブーだけだが、ちょっと彼と比較するには、僕はブーさんのことを知らなすぎるので、子供のころから見慣れてるマキシン(こう書くと、なんだか外国のミュージシャンのようだが、これはもちろん、あの偉大なる牧伸二である)と比較してしまったのだが、これはどちらにも失礼だった。闘っているフィールドが違うんだから、比較のしようが無いよな。



 ジェイクのMCは端的なものが多く「日本の音楽は大好きです。一番好きな曲『さくら、さくら』をやります」とか「次の曲はロックぽいです。エディ・ヴァン・ヘイレンにインスパイアされました」とか「一番好きなグループにビートルズがあります。そのビートルズのジョージ・ハリスンの曲で『While my guitar gently weeps』です」とか、簡単な曲目紹介だけやってすぐに演奏に入る。あ、そうそう、ステージの半ばくらいに今回のイベントの主催者である某ケーブルテレビとFM曲の名前とスペシャルサンクスで宮崎空港なんて言ってたな。それと、もう一つ、こちらは笑い話と言えば笑い話だが、ライブの途中に到着便のアナウンスが入り「エアポートからのお知らせです」とジェイクが手を差し出して、放送を聞かせたけど、あれ演奏中だったらとんでもない話だよな。まあ、空港は当然の業務だったわけだけど、MCの時間で良かった。

 演奏を見ているときに気になったのが、ステージの一番前の席に派手な扇を持って、1曲ごとに体全体を左右にゆすっているTシャツ姿の子供だった。ちょっと、その会場では浮いた感じだったが、とにかく休むということを知らず、全身で演奏に反応していた。よっぽどジェイクが好きなんだろうとその時はそれくらいしか思わなかった。まあ、それが分かったのも3階から見下ろしていたからだけど。そのTシャツの横に髪の長い女性がいて、その人も扇を持っていたように見えたので、ファンクラブの人かと思っていた。ところが、演奏の最後のほうでジェイクがMCで自分のルーツは福島で、その縁もあってフラガールの作曲をしたみたいな話を始め、その後に福島からこちらに来ている母子だと紹介した。いやー、ええ話やないか。オジサン二人は3階から涙を流しながら、拍手を惜しまなかった。



 ジェイク・シマブクロの演奏については、もう書くことが無い。というか、何度もこのblogに書いているのだが、本当に素晴らしい演奏を聴いた(見た)あとは、その感動を言葉に、文章に書いてもどこか違ってしまうのだ。ウソという訳ではないが、やはり音楽というのは瞬間の芸術なんだと思う。プレイヤーが奏でたフレーズはその瞬間に消えてしまうのだ。あまりにも儚い。その儚い美しさを形に残そうと作られたものが、レコード(記録)であり、今やCDなのだが、ただどうしても録音された音楽と生(ライブ)の音楽は異なる。というか、全く別のものではないかという気が最近している。その瞬間瞬間に消えてしまうものを、後に残る言葉(文章)にしようというのは土台無理な話じゃないのか。じゃあ、どうしてそんな無理なことをしているかというと、自分の体験した楽しさを残しておきたいからとしか言いようがない。それと、こんなに素晴らしいものだから、もし機会があれば是非体験してみないかという、まあ一種の勧誘だろうか。

 ええと、ちょっとマジになってしまったが、圧倒的な50分間はこうして終わった。その後、風味堂という博多出身のバンド、キーボードとベースとドラムというエマーソン、レイク&パーマースタイルのバンドだったが、演奏する曲は、なんていうのか今風のニュー・ミュージックって死語なんすかね、まあ、そういう感じの歌もののバンドでした。結構ファンはいたみたいで、それはそれで盛り上がってたけど、僕の心にはちょっと響かなかったな。

 そして、最後に全然今回の話と関係ない親バカ話を書いておきたい。本日、10月8日に某NHKの合唱コンクール、いわゆるNコン2011の決勝大会が東京で行われたのだが、うちのバカ娘2号の所属する高校が見事金賞を取った。テレビで見て応援していたのだが、まさか全国ナンバーワンになるとは思わなかった。普段、親をアッシーくらいにしか思わないバカ娘であるが、アルバイトをしながら続けた部活の成果である。今年は何回も辞めるといいながらも続けて良かったとつくづく思う。おめでとう、と帰ってきたら迎えてやろう。そういえば3年前は、長崎に応援に行ったっけ。月日の経つのは早いなぁ。

ジェイクは突然演奏(やり)だした



いきなりジェイク・シマブクロは登場した。圧倒的な1時間。と、入力したら次のバンドが出て来た。

絶望が終わる時、君は遠くなる



長蛇の列の最後尾に並び、ようやく会場に入ると思ったら、係員から上に上がるよう指示され、たどり着いたのは三階の通路。二時間、立見だ。

ぬかった!!



ジェイク・シマブクロのエアポートライブを見に来た。20時半開場だったので、長崎ちゃんぽんとビールで武装し、いや、お腹を満たし、20時15分に来てみたら駐車場が渋滞。何とかスペース見つけ馳せ参じたら、あああ、ご覧の通り長蛇の列。

立見上等。

DRAC興亡史 番外編 でも話はまだまだこれから

 予兆はあった。予兆はあったのだよ、明智君。今月、最初に予告した話を今日こそは書き始めるのだが、考えてみたら学生時代から30年以上経過して、まさかこういう形で再会するとは夢にも思わなかったのは事実だ。先日、このFC2blogのメールフォームを経由して僕宛にメールが届いた。差出人はK下となっていた。K下?WHO?てな感じでメールを開くとこう書いてあった。

件名:××(僕のリアル名)だわな
えいりさんに聞きました。
どえりゃあ懐かしいじゃん。


 え、この名古屋弁、もしかして、あのK下か?イケメンのE副に連れられて、76年からDRACに参加して飲み会の宴会部長というか、まあ多彩な芸を見せてくれて77年のEVEの時には消えていた、あのK下君ではないか。確か最初は軽音に所属していたけど、そこを辞めてDRACに入ってきたんだよな。EVEの時に突然セミアコのギターを持ってきて弾いたりしたけど、E副から「下手だから軽音首になった」なんてからかわれていたけど、愛嬌のある顔で笑ってごまかしてたよな。うわー、ずいぶん懐かしいな。でも、どうしてオレのblogが分かったんだろうか。エイリちゃんが教えたみたいなことを書いているけど、一体全体どうなってるんだと思った僕はさっそくこういうメールを送った。

件名:K下?あのK下か?
おお、懐かしいどころか、びっくりしたぞ。
確か、E副と一緒のクラスだったよな。
Hさんから話を聞いたということは、今大阪にいるのか?
オレはまあ、いろいろあって今は地元の宮崎でなんとか
生活している。DRAC時代のバカ話を中心にblogを書いていて、
K下君もちらっと登場しているぞ。
このアドレスが普段使ってるものなので、またメールください。
オレも改めて近況をメールします。
取り急ぎ、DRACの75,6年の頃の話でも読んでいてくれ。

http://gakkan.blog64.fc2.com/blog-entry-710.html
http://gakkan.blog64.fc2.com/blog-entry-704.html
http://gakkan.blog64.fc2.com/blog-entry-659.html
http://gakkan.blog64.fc2.com/blog-entry-646.html

タグは「歴史から飛び出せ」というのに、DRAC関係の話を書いてます。
とりあえず、今日はこんなところで、しかし、驚いたな(笑)。


 K下君は、2回生になった76年にE副君に連れられてDRACに入ってきた。最初から愛想が良くて誰とでも付き合えるタイプの男で、偏屈な音楽マニアの多かった僕たちのサークルには珍しく、いわゆる社交性のあるタイプの男だった。僕の今覚えているイメージは、やや小太りで愛嬌のある顔をしていて(パンチ)パーマをかけていたという印象なのだが、パーマの部分は本人に否定された。当時の思い出で良く覚えているのは、銀閣寺にあった「おとくに」という居酒屋、いや小料理屋だな、そこで飲んだ時の彼の多芸さである。「おとくに」は銀閣寺のサーカス&サーカスを出て、すぐ左手の角を曲がりまっすぐ行った突き当りの左手にあった。そうそう、銀寿司の道路を挟んで対面にあった。30過ぎくらいのちょび髭のマスターと背は低いがなかなかグラマーな女将さんの夫婦2人でやってる小さなお店だった。7,8人座れるくらいのカウンターと4人掛けの小さなテーブルが3つくらいあるだけのこじんまりしたお店だった。

 酒の味を覚えたかどうか位の頃、しかも貧乏学生の身の上だったのに月に1回くらいは顔を出していたので、居心地ももちろん良かったが料理の味も美味しくて、なんといっても値段が手ごろだったから、行きつけのお店になったんだと思う。もっとも、当時はまだ大学の1回生か2回生の頃なので、オレの行きつけの店だなんて格好つけたくてしょうがない時代だったんだな。今思うとちょっと恥ずかしい。

 このお店では、カウンターで2~3人でししゃもや出汁巻きなどとつまみに熱燗をきゅっとやるなんて、大人飲みをしていたのだが、あるときN谷君、僕、ええとS戸君もいたかな、あ、違う、あの時は何故かK瀬とK重というD女子大の1回生が一緒だった。まあ、例によってN谷君がいつ絡み始めるかというスリリングな展開を期待して参加していたのだが、その時はもうK下君が一人でしゃべって一人で盛り上げる、談論風発、酔って周囲を飽かせることが無いなんて言葉はこの男のためにあるとしか思えないくらい、物まねからバカ話、聞いてるこちらは腹の皮がよじれっぱなしだった。なんといっても、あのN谷君が、「おい、こいつは何モンや、こんな面白い奴、今までDRACにおらへんかったぞ」などと絶賛するのだ。

 その言葉を聞いたK下君は突然、K瀬さんのしていたベージュのマフラーを取り上げ、自分の首に巻き「トレビアン、なんたらかんたら」と出鱈目のフランス語をしゃべり、両手を脇につけてそれをちょっと開く、つまり「やれやれ」とか「まいったな」みたいなポーズをしたのだが、それはまさしく当時のテレビでアラン・ドロンがやっていたダーバンのCMの物まねだったのだ。これも受けました。そんな他愛もないことを思い出していたら、メールの返事が来た。

件名:RE: K下?あのK下か?
K下です。
だろ?
俺も驚いた。
実は、K村ゼミで結構一泊旅行とかしてるんだけど、9/23・24が
大阪ツアーで、エイリさんが幹事。
一日目の飲み会でエイリさんが隣にいた時に一言「K下君ってDRAC
にいたんちゃう?」と言われました。

今までずっといてもそんな話は初めて。
えっ、なんでエイリさんそんなこと知ってるの!!!
そこから、「drac-ob君はブログも知ってるし、連絡も取れるよ」って。
いやぁ、びっくりこきました。

元気なら全然OK。
バタバタしてて、まだあなたのBlogもよく見てないけど、結構Highな
感じで、昔のままじゃん。
私は、今もE副とはつきあいあるので、たまに彼が名古屋に仕事で来る時
に会いますよ。

あの頃は、まだ若かったから、卒業してもいつでも会えるような気がして
特に連絡先も聞かずにそのまま音信不通って奴も結構いるよね。
この歳になって、ようやく、「また会って話してみたい」と思ってます。
元気でなにより。
また、会って飲みたいね。

因みに私も2年くらい前からBlog書いてるので、暇あったら見てね。
枯れちゃってるけど・・・
http://ameblo.jp/lifeischaos/


 もちろん、彼のblogは直ぐ見てみた。学生時代のイメージと違って、ずいぶん落ち着いた感じだった。ただ言葉の端々に、以前のK下君のイメージがあってほほえましかった。特に出町の王将のオッチャンが、名古屋に転勤になって彼の目の前に現れた話なんかは、いかにもという感じだったが、一番おかしかったのは酒のつまみに王将の餃子を買いに行ってそのオッチャンと再会したという部分で、なんだよ、相変わらず王将の餃子をナーホして買ってるんかと、その姿を想像したら笑いが込み上げてきた。

 こうして、K下君とは30年以上たってWebの世界で再会した。これ以降もメールのやり取りをして、互いの近況報告をしたのだが、その中でついにあのE副君の消息も判明した。彼の話はK下君以上に書いているのだが、どうも僕が彼のイメージを損なってるらしいので、次回は社会主義的リアリズムに基づいてE副君との出会いと再会の話を書いてみます。実は、この再会が無くてもシリーズものでE副君は登場予定だったのよね。少し前に「河原町での女子大生との出会い」の話を書こうとして中断していたのがあったでしょ?って、書いてた本人が忘れていたくらいだから、覚えてる人はいないっちゅうの。というところで、いよいよDRAC興亡史の再開、ってか、ここにこんな人がいたシリーズというか、まあ、与太話に次回から突入します。今度こそ、毎日更新だ~。

復活予告 DRAC興亡史 番外編

 早くも10月に入り、今年もあと3か月。などと、毎回、月の初めには同じようなことを書いているのだが、そして、この最初の日には今月こそエントリーを絶やさず書こうとか、せめて1日おきにはとか、いやいやそれまでの中途半端に放り出している話の続きを書いて、とりあえずは完結させないといかんと反省はするのだ。反省はするが行動が伴わない。これは一番良くないことであって、行動が伴わないなら反省などしないがマシ。なまじ反省などするから、気おくれしてしまい、エントリー書くのもヨダキイということになる。あ、この「ヨダキイ」というのは、こちらの方言で「余は大義じゃ」という殿様言葉が語源だと言い張る言語学者もいるが(オレ、ね)、要するに「めんどくさい」というような意味。ちなみに、似たような意味の方言では「ダレた」というのと「ノサン」というのがある。「ダレた」というのは「だるい」という標準語もあるので、ニュアンスはつかみやすいだろう。この「ダレた」から発展した単語で「ダレ止み」というのがある。実は、ワタクシ、恥ずかしながらこの単語を知らず、30年ほど前に昼飯の時に入った大衆食堂にその文字が書いてあり、当時の上司に「あそこに書いてある、『ダレ止み』ってなんですか」と尋ねたら。「お前の一番好きなもんだ、昼間から何考えてる」と怒られた記憶があり、え、当時、一番好きだったのはエ、いやいや、その、エントリーを考えること、の筈がない、当時はまだアナログの時代だ。

 そういうことを言われても、分からないものは分からないのでしつこく尋ねたら、「『ダレ』が止むっちゃかい、『ダレ止み』、晩酌のことよ」と教えてもらった。そして「ノサン」というのは親が子供に残してやる山林財産のこと、ではなくて(誰か、それは「イサン」だろ、と突っ込んでくれ、笑)、やろうと思えばできるんだが、やることが面倒だというか、主体的にかかわりたくない時に使う、まあ、意味合い的には「疲れた」という意味なのだ。自慢ではないが、僕の田舎では「疲れた」という状態を表す言葉が3種類もあるのだ。わはは。

 と、ここまで書いて、いつの間にか本題を忘れそうになった。いかんいかん、いつもの悪い癖だ。えーと、心を改めて、今月こそはしっかりエントリー書いていきます。というのも、先月、恒例のキャンプで社会人時代の懐かしい人たちと再会したと思いきや、なんと今度は大学時代の同級生2人と、30年以上になるのだが、Web上で再会したのだ。むろん、DRACの仲間であり、何度か拙blogに登場したこともあるお二方だ。特に片方は、このblogに決定的に不足しているおねいさん関係に強烈なパワーを持っている方だけに、書く僕も楽しみである。さて、今から晩御飯を食べてじっくりネタを整理しよう。



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