ライオン君はガバチョ達に会えただろうか

 うーん、また一人、個性的な声を持った人が亡くなられた。ひょっこりひょうたん島では「ライオン君」で、あのヤッターマンてか、タイムボカンシリーズでは「ドクロベエ」として、そして子供の頃一番好きだったテレビアニメの悟空の大冒険では「八戒」の声でおなじみだった滝口順平さんが、胃がんのため80歳でお亡くなりになった。ひょうたん島のメンバーでは、ドン・ガバチョの藤村有弘、マシンガン・ダンディの小林恭治のお二方も彼岸の国の住民である。今頃、ライオン君もお二人と久しぶりに顔を合わせていることだろう。ひょうたん島の動画にライオン君の出ているものはないか探していたら、「大学とは」というドン・ガバチョの歌があった。あまり記憶にない歌だったので、通して聴いてみたら中々感動的な歌詞であった。

 いわく、「大学とはすべてを学ぶところ」であり、そこでは真理と正義と愛を学ぶらしい。なるほどと思いながら2番の歌詞を聴くと「大学とはすべてを考えるところ」であり、人間とは何か、国家とは何か、幸せとは何かを考えるところだという。そういえば、そんなことを考えたような気もする。そして、ラストの3番で「大学とはすべてに素晴らしいところ」だと歌われれる。自分自身を振り返って、何か素晴らしいことがあったかなと考えていたら、クラブ活動、うん、サークルこそがオレにとっての大学のすべてといえなくもなかったな、長い休み、これもそうか、夏・冬はともかく私立の大学だったので春休みが長かった。そして学生割引、アルバイトと歌われた後、突然に「でも」と出てきた。最初は接続詞の「でも」だと思い、その後のフレーズを聞いたがそこで終わっている。ということは、これ名詞の「デモ」ですかね。いやはやなんとも(笑)。

 ひょうたん島はこういうシュールな歌が沢山あった。おっと、そういう話を始めるとキリが無いので、ここでは滝口順平さんのあの個性的な声に合掌。



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ビッグウェーブ



ラストサマーがニアなので、青島のシーにカムズアゲインしたら、タイフーンのエフェクトでビッグウェーブがアゲイン&アゲインだった。マザーネイチャーズサンのワタクシであるが、ある格言をリメンバーしてアフレイドしてしまった。その格言とは、ジーニアスはフォーゲットしたころにカムズアゲインというやつだ。

あ、ジーニアスじゃないか。ナチュラルデザートかな(笑)。

お盆過ぎたけどお盆日記 同窓会編その2

 さて、開演時間じゃなかった、ああいう場合はなんというのか、開催時間でいいのか、要するに同窓会が始まる時間が近づくと、いったいどこから湧いてきたのかと思うくらい、怒涛の勢いでオジサン・オバサンが会場に入ってきて、あ、あいつはもしかしたら何とかといったやつじゃなかったか(名前が出てこないのだ)、とか、ん、あいつは確か高校の頃はもっと痩せていた(人の事は言えんぞ、おっさん、キャインキャイン)とか、うーん、あの方は絶対同世代ではないはずだが、あ、よく見たらエイゴの先生だったU先生ではないか、とか、もっとも僕は目が良くないのであまりいろんな人を見ていても良く分からず、知り合いの顔を探すのも面倒なので隣の席に座った元担任の先生とずっと話をしていた。すると突然先生が、「あなたはアレだったよね、お酒とか飲んでも全然変わらないというか、落ち着いていたよね」と、一体全体どこをどう間違えたらそういう記憶になるのだろうかというようなことを言われ、おののきながら「いや、もう、お酒の上での失敗は数限りなくありまして、ハイ、医者から断酒だと言われて2年間ほど1滴も飲まない生活をしていたのですが、まあ、転職とか人生の転機がいろいろあって、本当は未だに飲んじゃいけないというか飲まないほうがいいのですが、飲まずにいられないこの憂世とでもいいますか。あ、要するに全然お酒にはだらしがないです」と訂正というか修正をしたりしていた。

 すると、元担任は「そうそう、あなたは昔から音楽が好きで、レクレーションの時にいろんなレコードかけたりしてたよね。それで、あなたの好きだった歌い手の、あれ、なんと言ったかな、この間亡くなった野原とかなんとかいう人」。野原?誰だそれ、と頭の中で最近亡くなったミュージシャンの顔と名前を思い出していたら、その話を聞いていた元女子(失礼!)が「あ、RCのイマーノキヨシローじゃないの、drac-ob君の好きだった!」などと言って、思わず「そうか忌野清志郎か、先生、彼はもう三回忌が来ますよ」と話すと、「え、もうそんなになるのか、ついこの間亡くなったように思っていたが」などと、去る者日々に疎しの会話などしていた。そして、そのような話をしているうちに時間は19時になり同窓会が始まるというアナウンスがあり、それからなんだか良く分からないけど主催者側の女性のスピーチがあり、全部で123名参加しているとか、亡くなられた先生が3人に対して、同窓の物故者が15名だとか、一種の近況報告みたいなものがあった。その後、同窓会長のやはりスピーチがあり、彼はO合君というのだが、当時、同窓生で現役で東大の理3に入った秀才のO合君という別人28号がいたので、相変わらずつかみの部分は「みなさん、こんばんは。アホのO合です」というもので、確か20年ほど前の全体同窓会の時のつかみも、「勉強が出来んほうのO合です」というものだったな、などと過去を思い出していた。

 脱線ついでにこの秀才のO合君のことを書くと、あ、彼は故人なので故O合君と書くべきかな。その故O合君は、地元では超有名な秀才で高校進学の時も、お隣の鹿児島にある名門Rサール高校に進むという選択肢があったらしいが、本人いわく「Rサールから東大理3は当たり前だろ、オレは地元のO宮高校から現役で東大理3に行く」と豪語して実現させたから、大したものである。しかし、こういう発言を中学生の段階でぬけぬけと言えるのだから、まあ、あまり仲のいい友人はいなかったように思う。僕が彼を初めて知ったのは、高校の音楽の時間で、芸術の授業は選択制だったのでクラスの異なるO合君をそこで初めて見たのだ。それも強烈な印象で。音楽の先生は太宰治ファンで、あ、そんなことはどうでもいいか、音楽の最初の授業で「わが心はや」とかいう歌があって、その楽譜に訳のわからない横文字が書いてあって英語ではないし、こりゃ何語だと思っていたら、その先生が「O合、読んでみろ」と指名し、はあ、こんなん読めるわけないのに、この先生は何考えてるんだと見ていたら、なんとO合君、教科書片手に流暢な発音で読み上げた。以下、歌詞をググったらあったのでコピペする。

Nel cor più non mi sento
brillar la gioventù;
cagion del mio tormento,
amor, sei colpa tu,

Mi pizzichi, mi stuzzichi,
mi pungichi, mi mastichi,
che cosa è qesto ahimè?
pietà, pietà, pietà!
amore è un certo che,
che disperar mi fa!

 で、こんな感じで読んだわけです。



 あたしゃ、しょんべんばちびりました。左門豊作です。こちとら中学出たばかりで、ようやく英語の文章の簡単なものなら何とか読めるというレベルなのに、イタリア歌曲を原語でそのまま読めるってのはどういうことだと。いったいあいつは何者なんだと、周りの連中に聞いたら、彼が秀才の誉れ高きO合君で、あいつを知らなきゃもぐりだと言われ、オレたちゃ高校合格良かったよかったなんて人種だが、彼はこの段階から東大現役合格を宿命づけられてると、それも理1や理2じゃだめで理3、つまり医学部ですな、そういう人種だと。こういうことを教えてくれたのは、O合君と中学が同じだったS藤君で、彼は何故かO合君に気に入られていたようだった。で、なんでO合君はイタリア語をすらすら読めたかというと、大学というところは英語以外に外国語を勉強するらしく(おかしいな、僕はフランス語とラテン語を登録した記憶はあるが、習った記憶が無い。あ、授業出てなかったからか)、その準備のためにイタリア語とドイツ語を趣味で勉強しているという話だった。やれやれ。

 しかし、まあ、O合君も賢かったが、こいつは本当に賢いなと思ったのはN井君といってクラスは一緒になったことはないが、日本史を教えてくれた先生が話してくれたエピソード。その日本史の先生は、僕の通っていた高校のOBで歴代秀才の5本の指に入ると言われるくらいの人だったのだが、授業中に良く脱線することで有名だった。あるとき、夏の暑い時だったと思うが、教室が何となくざわざわした感じでだらけていたその時に、「あんたたち、静かに授業を聞かんね。あんたたちは普通の人間じゃかい、私のいうことをよく聞いてノートにとって勉強せんとダメよ」などという。なんだか聞き捨てならず、誰かが「普通の人間て、普通じゃない人間がいるんですか」などと尋ねたら、「D級のN井君よ。彼のような頭をあんたたちが持っていたら何も言わんよ。何しろ彼は、授業中に私が話したことは一言一句間違わず記憶しているよ」などとおっしゃる。そりゃいったいどういうこった、とみんなが聞き耳立てていると、こういう話だった。

 日本史の先生がN井君のクラスに入ると、当然彼以外の人間はみんな教科書を開き、ノートを取りながら授業を受けるわけだが、N井君は何故か机の上には何もおかず、両腕を組んでまっすぐ先生のほうをにらんでいるらしい。それが毎回毎回なので、いい加減先生も頭に来て、ある時に「N井君、あんたそんなことで私の話が頭に入るね?」と聞いたところ、N井君はその日のその時間、先生が入ってきて「じゃ教科書の××ページを開いて」というところから、「N井君、あんたそんなことで私の話が頭に入るね?」というところまで、一言も間違わず再現したらしい。しかし、日本史のややこしい授業を一回聞いただけで全部記憶できるというのは、どういう頭の構造なんだと、その元秀才の先生はこぼしておりました。しかし、さすがは教師という仕事を長年やっているだけあって、N井君はしょうがないが、他の「普通の人間」である我々にはしっかり話を聞いてノートを取るよう説教したという訳である。

 脱線ついでに、この日本史の先生、大変真面目な先生で僕たちがおちゃらけて授業を聴いていると必ず「あんたたちは、このあたりをしっかり勉強しておかんと大学行ってすぐアジられるよ」などというので、「先生、アジられるってなんですか」と聞くと、「頭に帽子以外のものを被ってわっしょいわっしょいやるようになって、親が泣くし、就職もできなくなるし、人生棒に振るような目に合うということよ」などと教えてくれたのだが、その忠告を聞かなかった生徒が約1名いたような気がする。忠言耳に逆らうとか良薬口に苦しなどという言葉の意味がようやく分かる年頃になったワタクシです。あ、遅すぎますか。そうですか。ええと、またもやこのあたりで力が尽きて来ました。本当は今日で終わる話なのに、まだ終わらない。続くような気がします。

お盆過ぎたけどお盆日記 同窓会編その1

 毎日、暑いな、アジイナ~などと言ってるうちに、先日の同窓会から早1週間(以上過ぎてしまった、わはは)。まっこと月日の経つのは早いものよ、などと言ってる場合ではなかった。前回(といっても、いつのエントリーが前回なのか、曖昧模糊、あなたのモコになってしまっている今日この頃、司会のタマオキでございます)のエントリーの続きを書かないと、河原町の洋酒パブの話も解決しないし、もうすぐ届くはず(訂正:届きました)の新譜レビューのエントリーも書けない。困ったチャンである。大急ぎで、「お盆日記 イントロダクション」を読み直し、そうそうS原が突然YOU TUBEの画面に出てきてびっくりした、その後から話を続ける。

 このS原君とは高校の1年、2年と同じクラスだった。へえ、何か縁があったのか、などと思う人は浅はかで、要するに高校1年から2年は持ち上がりと言って、クラス全員がそのまま同じメンバーで進級したし、ついでに担任の先生も同じだった。高校3年になるときは、それぞれの希望進路と進学するための学力状況を鋭く分析され、彼は国立理系のクラス、それも医学部を狙うやつらがほとんどというトップクラスに、片や僕は、一応国立文系ではあるが、成績も問題あるがどちらかというと思想傾向というか、問題行動を良く起こす連中だけがかき集められた、まあ、当時の同窓生からは「吹き溜まり」と言われたクラスに進んだので、実質2年間の付き合いしかなかったが、お互い高校卒業した後も大学在学中も、さらには社会人になっても、意外なところで再会し、会ったら一献傾けるが、それ以外は全く没交渉という、ま、そのなんだ「君子の交わりは淡きこと水の如し」とでもいうような付き合いだった。

 そういえば、JEP時代に宮崎から出張で鹿児島に営業に出かけた時、訪問先の家が分からず、その近辺の家で車を洗っている人がいたので、その人に尋ねてみようと声をかけたらS原だったことがあった。あの時もずいぶん驚いた。声をかけたほうも驚いたが、かけられたほうもびっくりしていて、ちょうどその日は日曜だったので(今でいうブラック企業だったのよ、JEPは。たまに営業数字は悪いことなんかあるじゃないか。今月ダメなら来月頑張ればいいじゃないか、どこまでいっても明日はあるというようなドン・ガバチョ的な楽観主義を認めることが無かった。その月の数字が悪ければ日曜休みの返上など、日常茶飯事、もちろんこれは社員が自発的に仕事をさせてくれと言ってきたから、上長は仕方なく認めるというアリバイ工作はありましたけどね。ああ、話が長ったらしい。要するに、その月の売り上げが良くなかったから、日曜返上で営業していたら、こちらは日曜日に愛車を洗車していたS原君にばったり会ったという話)、僕がS原の家を訪ねてきたと思ったみたいで、「おお、久しぶりだな、天文館行くか?」などという暖かい言葉をかけてもらったのだが、とてもそんな余裕はなく、また今度なと返事したら、彼は沖縄に再度転勤になりそれっきりなんてことがあった。

 そのS原君が突然YOU TUBEの画面に出てきたので、驚いた僕はこりゃ知らない人たちに教えてやらねばと思い、当然本人のS原あてにメールを作り、CCでS藤君やYKZ君(このときはまさか実家に帰っていたとは思わず、気分的には東京にメールした感覚だった。しかし良く考えてみたらメールなんだからどこにいても同じ、じゃないか、Web Mailだったらどこでも見られるが、メーラーを使っていたらそのPCしか見られないな)、そしてロックバーのマスターにも送っておいた。

 そして、前回のエントリーに書いた対配偶者および対バカ娘1号との不毛な会話があって、僕は反メタボ闘争の一環として、自転車に乗って(by 高田渡、「クドイ」という人がいるかもしれないが、僕はこのフレーズを書くときは必ず「by 高田渡」と書かないと収まらないのだ)イ×ンへの道をひたすら走ったのだ。ひたすら走ったのだが、さすがに8月の濡れた砂じゃなかった、ギラギラ太陽は孤独なサイクリング者には強烈過ぎて、道半ばではあったがハード×フという、ブコフのハード版のお店で休憩した。休憩なら休憩でおとなしくエアコンの風に吹かれて水分補給でもしていればいいのだが、そこはそれ悲しいサガで中古CDのコーナーやアナログディスクのコーナーを物色してしまい、ロック関係は大したものがなかったが、ズージャ関係は結構、珍盤・廃盤が置いてあり、そうそう、笑ってしまったのはあのねのねのLPレコードがあって、アルバムタイトルが『いつまでもあると思うな人気と仕事』というもので、一瞬買おうかと思ったけど、帯を見たら新曲「雪が降っています」などと書いてあり、あれはあのねのねの真面目路線というか「流転の歌」路線で、ちょっと面白くなかったことを思い出して止めておいた。そうそう、フィル・ウッズの『ミュージック・デュ・ボア』もあったっけ。

 そんなことをしているうちに小一時間は過ぎて、汗はすっかりひいたので、またもや♪アイ・ウォント・トゥ・ライド・マイ・バイスィクル~などと鼻歌交じりでイ×ンはタワレコに向かった。タワレコに着いてからは、CDの配置がどうも気にくわないとか、バカやろ、サンハウスを有頂天のコーナーに置くなとか、え、なんで下地の新譜がないんだとか、いい加減ZKのアルバムを補充しておけよとか、ぶつぶつ言って、その時の様子は8/13の「舐めとんか!!」に書いた。そしてイ×ンの帰り道にブコフではない、フルモトに寄ろうとしたら携帯が鳴った。出てみるとロックバーのマスターである。「どーも、メール見ました。ところで今日の同窓会は参加?」と聞かれたので、「あ、あれね、一応出席のはがきは出したけど、面倒になったのでやめようと思ってる」と答えたところ、出席の返事をしたのであれば人数に入れてあるはずだから、ドタキャンはマズイ。どうしても参加できないなら幹事に早めに連絡するよう言われた。よく考えたら彼も幹事で、その時間は同窓会の開始1時間前くらいだったのだが、準備のために会場に向かう途中だったらしい。とりあえず、分かったと返事をしていったん家に帰った。とにかく全身が汗まみれなので、シャワーを浴びないと気持ちが悪い。

 で、家に帰ってシャワーを浴びて、身だしなみのコロンを振って、あ、いや、ほら、オトコたるもの常在戦場で、いつ何時、何が起こるかは予測不能で、そういうときに汗臭かったり下着が古かったりすると、せっかくのチャンスが、ノー、ノー、同窓の人たちをどうこうしようとかいう話ではなくてね、ほら一次会の後、勢いでラウンジだとか、なんちゅうのかな、その低めのストライクゾーンいっぱいのおねいさんたちが、たむろしている、そういうところにもしかしたら乱入というパターンが無いとは言い切れないではないか。明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは、などともいうではないか、とこれはいったい誰に言い訳しているのか良く分からないが、かような心の動きのまま、とりあえず同窓会には行ってみることを決意したのだ。

 それで、会場は街中のホテルで19時スタートだったが、18時30分から受付という案内を見て、とりあえず会場に着いたのは18時45分くらいだった。ホテルに入ると、いきなりロックバーのマスターがいたので「ども、一応来たぞ」と声をかけたら、すぐ横に受付の机があり、そこに見たことのないオバサンたちが沢山いた。ふと、気がついて周囲を見渡すと、あれあれ、見たことのないオジサン・オバサンが沢山いるではないか。僕の記憶によれば、同窓会というのは、同じホタルノヒカリ窓の雪で、共に学んだ友人たちとの再会の場だと認識していたのだが、なぜにこんなに知らないオジサン・オバサンがたむろしているのか。そうか、僕はここが僕のいた学校の同窓会会場だと思い込んでいたが、別のイベントの受付に来てしまったに違いない。そうか、そうだな、で、僕のいた学校の同窓会は、と目をあちこちしたら、その受付に置いてある名札に見覚えのある名前とどこかで見たことのある顔写真が付いていた。あれ、あの名前と顔はどこかでみたぞ、ええと、あれは、あれは、オレではないか、高校の卒業アルバムでこの顔写真だけは絶対嫌だと思っていた顔が、ああああ、とやや錯乱しながらその名札を受け取り、代わりに会費を払って力なく階段を上がり会場に入っていった。

 僕は、高校の同窓会というのは大学時代や20代の終わりから30代の最初の頃までは、結構幹事をしたりして積極的にかかわったのだが、ある時期からいきなりそういうものに興味がなくなり、出席しなくなった。同窓会開催の往復はがきが来ても、そのまま丸めて捨てることもざらで、だからここ15年、下手すると20年近くは一切参加していなかった。したがって、ずいぶん久しぶりなのだが、それにしても知ってる顔がない。うーん。こりゃやっぱり来なければ良かったかなと思いながら、クラス名が掲げられている丸テーブルを見渡し、自分の属していたクラスのテーブルは会場の一番奥にあるのを見つけて、そこに向かって歩いた。会場の一番はずれにあったテーブルの、そのまた一番後ろの席に腰かけて、携帯でエントリーを送ろうとしていたら、3、4人の女性から「お久しぶりです」と声をかけられた。顔を見たら、うーん、なんだか見たような見たことないような感じだったが、名札の名前と写真で記憶がよみがえった。高校3年の時に一緒のクラスにいた人たちだ(同窓会で同じテーブルなんだから当たり前だ)。

 5年前にも、この全学同窓会(こういう呼び方をするかどうか不明だが)が行われて、その時に参加した男性は、なんとY尾君一人だったという話をその人たちから聞いた。そうか、Y尾の野郎、そういう経験をしたから今回不参加なのか、なるほど、などと一人考えていたら、横に座った元同窓生からとんでもないことを言われた。「drac-ob君は高校時代、すごく目立っていたよね」「個性的だったよね」「自分というものを持っていたよね」。いや、ホント、そんな風に言われたんですよ。もう、びっくりぎょうてん、あ、あ、動揺してクリビツテンギョウという暇もないくらい、僕は口を開けて驚いてしまった。「え、オレ、目立っていた?は、何かの間違いでしょ。人見知りして大人しかったのに」「なーに言ってるの、クラスでdrac-ob君の声を聴かない日は無かったわよ。聴こえない日はあなた休んだ日くらいよ」「え、それ絶対間違い、そんなはずないって。オレは20世紀少年で言えばフクベエみたいな、その、クラスにいるかどうか分からないくらい、影の薄い…」「え、なに20世紀梨、いやね、お宅もいうこと古いわね。今は幸水とか豊水、それか新高みたいな大きくて水分多いものが人気あるのよ。相変わらず世間知らずよね」「いや、その梨の話じゃなくて、浦沢直樹のマンガの、いや、その、もういいです」。

 まあ、しかし驚いた。人の記憶はあてにならないことが良く分かる。この後、当時の担任の先生も来られて、この方は元高教組バリバリだった人で、もっともそういうオルガナイザー的ないかにも活動家という人ではなくて、僕たちのような出来損ないもちゃんと人格を認めてくれて大学受験は自由にさせてくれた。大学受験くらい自由にどこでも受けられるだろうというのは、都市部に住まれていた人たちの考えであって、南九州の田舎の進学校ではどこの大学を受験するかというのは、高校3年の時の担任に大きく左右されるのだ。僕のクラスは、担任がそういう先生だったので、真面目な女子学生はさておき、男子学生は、お前は自分の偏差値を見たことがあるのかと思わず言いたくなるような、とんでもないような名門校を志望校に平気でしていた。ところが、僕の隣のクラスのやはり文科系のクラスは担任が、一律地元の宮崎大学以外は内申書を書かないと言って、したがってそのクラスは現役で大学合格した生徒がほとんどだったが、生徒の希望など全く無視されていたのだ。

 もちろん。三者面談などがあり、本人の志望校があまりに現実離れしているときは担任がデータに基づいて、別の大学受験を勧めるというか、まあ半強制的にするなんてことはありだと思うが、一律志望校を統一して、それに向けて頑張らせるというのはどうなのか。片や僕のクラスの担任は、その手の指導は一応するのだが、本人がたとえば東大の文1を受けたいといえば、とりあえずは受験させてくれるという、まあ、思想信条の自由ではないが、進学の自由を担保してくれて、おかげで僕のクラスで大学を現役で合格した男子学生は僕とY尾君の二人だけだった。また、その後の就職や今現在の立場、収入など考えると、うん、管理教育バンザイ、いやいや、その、自由であることは人間が人間であるために、はあああ、しかし、なんだかんだいったって世の中金だもんな~。クソ、こんなことなら、オレもあの時志望校を、いや、あの、はい、多分、タイムスリップが起きて当時に戻ったとしても、やはり僕はD大を選んでしまい、薄暗い別館を徘徊しただろうな。はあああ。三つ子の魂百までか。

 ええと、なんだかちょっと気力を失いかけたので、今日はここまで。次回で同窓会の話は完結します、させます。人生が二度あれば、ああ、幾つになっても甘かねぇなぁ~。



無事到着



アマゾンから注文していたCDが届いた。タワレコで買うのを止めた、レオン・ラッセルのライブインジャパンと中山うりのVIVA、そして前作から、これまで以上に無国籍なジャケットの下地勇のNO REFUGである。これからじっくり聴いて、感想はまた今度などと無責任なことは止めよう。ピープル・レッツ・ストップ・ザ・ウォーである、余計に訳がわからないか(笑)。

ちっちゃいことは気にするな(笑)

 ちょっと言い訳めいた話になるが、先日携帯からアップしたエントリーに誤解が多々あるようなので、ひとこと。8/13付でアップした「舐めとんか!!」というエントリーなのだが、改装の終わったタワレコに行ってみたら『大人のJ-POP』などというコーナーがあって、そこにオジサン・オバサンはこんなの聴いてたでしょ、ほらここにあるのよ、そうそう老眼だしアルファベット順だと探せないだろうから、ご老人にも分かりやすいように50音順に並べておいたからね、ここのコーナーで探すのよ、スタッフはみんな忙しいし「若い人用のJ-POP」の販売に忙しいからむやみに呼び止めてしょうもないCD探しさせちゃダメよ、分かった、返事は、あんたったらいつも愚図なんだから。みたいな思想で構築されたに違いないコーナーで、それでも屈辱に耐えながら何か気になるCDは無いかと物色していたら、あなた、とんでもないものを見つけてしまったわけですよ。

 いや、「有頂天」のコーナーがあったのはびっくりしてしまったというか、ケラ再評価というかナゴム再評価という時代の波が来たのか、そうするとラフィン・ノーズとかコブラなんかのCDも再発かな、などと思ってよく見たら(スマン、老眼なのは間違いない、俗にハ・メ・マラというが、前2器官はヤラレテしまったが最後の、そう最後の砦は何としても守るぞ、その決意がストライクゾーンを広げるのだ!!)、ななな、なんと、我らが九州を代表するロックバンド、サンハウスのアルバム『有頂天』が同じところに並べてあるではないか。あわてて「サ」行を探して、サンハウスのコーナーが無ければしょうがない、次善の策でシナロケのコーナーに移そうと思って見たら、おい、どうなってるんだ、サンハウスのコーナーありまっせ。しかもご丁寧に『TWIN PERFECT COLLECTION』も置いてある。怒り狂って、激怒に震えて、目が血走りながら(by P-Model)、サンハウスのCDをあるべき場所に戻した。

 その顛末を短いセンテンスと写真でアップしたのだが、どうやら有頂天の次に内山田洋とクールファイブのコーナーがあったことに激怒したという風に読んだ方がいらっしゃったのだ。えー、しかもそれは頂いたメールで分かったという次第。そのメールをくれたのは元DRACの数少ない女性部員であったHさん、通称エイリちゃん。それと、こちらは高校時代の同窓生YKZ君のお二人であった。YKZ君には、実はこういうことで怒っていたのだという種明かしのメールをしたけど、エイリちゃんにはしていない。多分、このエントリーを読んで分かってくれると思うけどね。…、今、ふと思ったけど、オレの文章表現が拙かったせいでもあるな、うん。もっと分かりやすい文章を書かないとイケナイ、反省だ。



 それはさておき、その日タワレコに行った目的は、ちょっと遅くなったけど下地勇と中山うりの新作を購入しようという動機だった。その途中に有頂天に当たってしまったわけだな。その後気を取り直して、CDを目で追いかけて「サ」行に来た。下地勇は「しもじいさむ」だから当然「サ」→「シ」の順ですぐに出てくると思ったら、あれ、無い。あ、そうか、以前はSEAMOの次に下地勇のコーナーがあったっけと思い、探した。無い。目印にしていたSEAMOのコーナーもない。そうか、下地勇まだまだ若い。これはきっとワカモノ向けのJ-POPのところにあるはずだと思って行ってみた。無い。どこを探しても下地勇のCDが無い。僕の怒りは再度ゲージを急上昇した。ふざけやがってこの野郎。人間こうなると目が血走ってしまい、この分だと中山うりもコーナーごと無くなってる可能性があると思い、急遽「ナ」行に移動したら案の定無い。うりちゃんのコーナーが無い。何考えてるんだ、タワレコ、ええ加減にせえよ、本日は反メタボ闘争の一環としてサイクリングがメイン行事であったけれど、今ここで緊急糾弾集会に切り替えてもいいぞ、何だったら一人で芋虫もフランスもやったるぞ、ボケ、などと怒り心頭、コーマンの怒り、違った、満腔の怒りを表明しようとしたら、あれ、「ナ」行のところにプラスティックのパッケージに入ったCDがあるではないか。よく見たら、中山うりの『VIVA』ではないか。思わず手に取ってだれにも渡さない、これはオレのものだとしっかり抱きしめて(余談だがF田君が何かの拍子に「抱きしめて」というのを「抱かえて」と言ったことがあり、「抱かえて」のほうがなんとなく、感情がこもっているなと思ったことがあった。いや、一瞬思い出した他愛のない話)、それから洋楽のコーナーから、ジャズや民族音楽のコーナーまで延々と歩き物色したのは言うまでもない。

 その結果、レオン・ラッセルの『ライブインジャパン』などという、大昔にアナログで持っていたアルバムが、ボーナストラックたくさんついて売っていたので、よっしゃこれも買うたると手に取って、そこで一瞬考えた。どっちにしろ下地のアルバムは無いので注文することになる。するとまたもやこのタワレコに来る必要が出てくる。しかし、ちょっと待て。このタワレコでの初めの5分間ほどの怒りはいったいなんだったか。ここでわざわざうりちゃんとレオン・ラッセルを買ってタワレコ儲けさせるわけにはいかん。そうだ、アマゾンがあるじゃないか。タワレコの仇はアマゾンでというではないか。よっしゃ、買うのやーめた。という結論に至りました。で、なんだかんだ忙しかったので、そのままにしていたけど昨日無事アマゾンにそれらのCDを注文。多分土曜日には届くので、この週末のエントリーは久しぶりに新譜のレビューになる予定である。この続きは土曜日以降になるのでお楽しみに。

 そうそう。高校時代からの友人であるYKZ君は、ようやく僕の性格が分かってきたようで、メールの最後にこんなことを書いていた。

以下引用。「ま、この話はいずれ続編・・・がほとんどあてにならないというのはようやく理解しました(笑)。」引用終わり。

わはははは、ようやく分かったかね。僕の悪い癖で、続きはまたなんて書いておいてすっかり忘れる。いや良いようにとれば、常に旬のエントリーを提供しようという心掛けなのよ。でも、忘れてしまう訳じゃないんだ。って言い訳はいいから、早く同窓会の続きを書かねばの娘なのだ。

ジ・エンド・オブ・ザ・サマー



夏の休みも今日までなので、青島まで醤油を買いに行った。もちろんカネナ醤油である。そのついでに海を見た。海は広くて大きいが、どこかに溜まってるはず、ホーシャノー。ノー!!

お盆日記 イントロダクション

 その葉書が届いたのは、確かまだ5月の上旬だったと思う。往復はがきで差出人の名前にあまり見覚えがなく、とりあえず中を開いたら高校時代の学年同窓会の案内であった。この手の案内は完全シカトしているワタクシであるが、その時はどういう気の迷いだったか、あるいは案内文の中で3.11に触れたところがあって、「日常への回帰こそが復興につながるのではないか」というフレーズが、前年の口蹄疫の災害からの復興とシンクロして、うん、悪くないなと思い、発作的に、出席に丸をして投かんした。そして、それっきり忘れていた。思い出したのは前日の12日、翌日から4日間ほどお盆の休みに入るその時だった。拙blogをお読みいただいている方は、ご存じでしょうがワタクシ、いわゆる華やかな席というのが苦手で、ひどく人見知りをしてまったくしゃべれなくなるという持病がある。それでも多少なりとも気心の知れた友人諸君がいれば何とかなると思って、毎度毎度ライブの友であるY尾君にメールしたが、折り返しかかってきた返事は「前回参加したから今回はパス。次回、還暦同窓会なら出る」などという。しょうがないので、今度はS藤君にメールしたら、S良君、A部君、N原君など僕の数少ない友人連中が軒並み不参加だと教えてもらった。5秒考えて結論が出た。ゲルニ、である。あ、まだ会場にいるわけではないからゲルニではなく、パスというかサボりというか、いわゆる無断欠席というやつである。

 それで、同窓会に行かないのなら、その浮いたお金でCDを買えばいいじゃないかという素晴らしいアイデアがひらめき、そういえば先週イ×ンのタワレコが12日に新装オープンするという情報もゲットしていたし、さらに自宅から自転車でイ×ンまで行けば、これは立派な反メタボ闘争になるではないか、うん、それがいいそれがいいと思いつき、「今からイ×ンにチャリで行く」と家族の前で宣言した。すると配偶者が「お父さん、何考えちょっと?イ×ンまでどれくらいあるかわかっちょっとね。やめときない、倒れるよ。近くの本屋くらいにしちょきない」などという。そういわれると半月ほど前に、自転車に乗って(by 高田渡)宮崎港まで行ったが、あまりの暑さに死ぬかと思った記憶がよみがえりイ×ンは宮崎港よりはるか先だったことに気がつき、一瞬ためらっていたら、上の子供が一言「男がいったん口に出したことはちゃんとやるっちゃろ」。頭にきましたね、あたしゃ。こう見えても九州男児だ、男は日に三言だ、なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり、だ。この名言はかの上杉鷹山公、我らが郷土の生んだ偉人の言葉ではないか、オレも男だ、吐いたツバは飲まんわい、と絶叫した。

 あ、前後が間違えた。イ×ンに行く前に、実は午前中、なんとなくYOU TUBEを眺めていた時だ。8.8ロックデイのことをぼんやり思い出しながら、そういえば75年の8.8の目玉は紫だったよな、何か新しい音源がアップされていないかなと思って検索したら、結構いろいろアップされていて、その中に「ニュースステーション」が特集で97年の再結成の時の映像が3部に分けてアップされていた。物事は順番というものがあるので、当然第1部から見始めた。音響スタッフの訃報が紫の一晩限りの再結成の引き金になったことや、75年にデビューして、順調にキャリアを形成しつつあり、いよいよアメリカ・ヨーロッパへの進出という78年に突然解散してしまったのだが、その謎についてのメンバーの解説(もっともいまいち良く分からないところがあったが)などをうんうん、なるほど、ふーん、そうだったのかと思いながら第2部を見て、当然第3部を見た。見たらいきなり腰を抜かしそうになった。高校時代の同級生がインタビューされていた。えー、S原、紫好きだったっけ?彼の家で、いろんなロックのレコードを聴かせてもらったり、僕が修学院に下宿するきっかけを作ってくれたのが、ほかならぬS原君であった。と、ここまで書いたら、出かけないといけなくなったので続きは帰ってからアップします。



ま、負けるもんか



二次会でロックバーに来たが、横に同級生のおねいさんがいる。で、でも負けるもんか!僕のストライクゾーンは死守するのだ。で、でも妥協という言葉もある。

浮世の義理で



高校時代の同窓会に出てきたが、まあ居心地が悪い。友が皆我より偉く見えるときはルンルンを買って家に帰ろう、だったか、失敗したと反省している。回りに、おねいさんが全然いないのは何故だろう。悲しい。今日は、少し荒れるかもしれない。

舐めとんか!!



先週、店舗改装中だったタワレコに来た。『大人のJ-POP』というカテゴライズも、ちょっとウザかったが写真のコーナーを見て激怒。偉大なる博多のバンドを何と思っているのだ、バカモノ。


河原町の洋酒パブの話 その前に

 前回、登場したN谷君であるが、結構いいところもあった。実は、この前のエントリーは半分眠りこけながら書いていたので、どんな内容を書いていたかはっきり覚えていなかった。それで、先ほど読み返したら、あら、まあ、これはひどい。いくらワタクシが真実のレポーター、日本のラルフ・ネーダー(いまどき、誰も知らねーというか、あの人もう亡くなったんじゃなかったっけ。で、実は結構権力サイドに買収されていたとか噂になったような気がするが、調べるのが面倒なのでパス)といわれようが、ちょっと、ね、というところがあったので、バランス感覚として彼のいいところを最初に書いておく。

 ええと、彼の酒癖の悪さは前回、簡単に紹介しておいたが、では、相当な量飲むタイプかというとそうではなく、だいたいビールをコップで1、2杯あおると、顔と目が赤くなり、やや呂律が怪しくなる。そのまま大瓶を1本空けたころには完全に目が座って、やたらニタニタしてしょうもない話を延々と繰り返す。日本酒に切り替えると、小さなお猪口に目一杯、手酌で酒を注ぎ、そこに「おっとっとっと」などと言いながら口を持っていき、まずチュッチュッと吸う。そして残ったお酒を片手で一気に呷る。それを2~3回繰り返すと、「お前はな~」といきなり人に絡み始める。挙句は独りだけ、酔っぱらってしまいぐでんぐでんになって歩いて帰っていく。…えーと、彼のいいところを書こうと思ったのだが、切り口を間違えたようだ。

 そういえば、あれは79年の夏、恒例の鳥取の合宿が予定されていた時の話だ。当時、大学5回生になっていた僕とF田君とS戸君、そしてN谷君の4人は、サークルではもう完全に雲の上の人というか、単なる煙たい留年カルテットというか、『あのオッサン達、鬱陶しいけど、一応サークルの先輩やし、立てておかんと後々うるさいし』、などと後輩諸君が陰でひそひそ話しているのは重々分かってはいるものの、もはや別館以外に居場所のない、しいて言えばS戸君はサーカスというバイト先があったが、あとの3人はほとんど別館のボックス以外は居場所のない、ロンリー留年トリオだったので、『まあ、お前らは現役サークル員やさかい、みんな一緒に電車で行けや、そういう団体行動で協調性ちゅうもんが磨かれるのや。ワシらはOBの特権として車で先乗りするさかいに』、とまあ勝手な理屈で合宿予定日の前日の夜から車で鳥取入りして、昼間は砂丘なんぞでナンパの一つや二つはしてこまして、まあ、その勢いでそれぞれゲットしたおねいさんとイイコトして、夜は民宿に結集してビールで乾杯して日本海の魚に舌鼓打とうやないか、そうや、そうや、そうしよ、と、ワタクシたち留年4人組は、合宿の前夜、ワタクシのアパートに夜20時集合して、F田君の運転するホンダのアコードに乗って、夜の中国縦貫道を走って、一路鳥取に向かうはずであった。

 こういうときに、一番段取りがいいというか、こまめに動くのは意外にも“せんみつ”のF田君で、彼はその前日から僕のアパートに泊まり込みで、車はアパートの前の一方通行の道路に路上駐車したまま、いつでもスタンバイOKという体制。また、S戸君も荷物をまとめたり、行きの車中におなかが減った時のスナック菓子であるとか、ロードマップであるとか、あ、こういうのあると便利だよね的なものをまとめて、そこはそれ長年バイトで時間厳守の生活をしていたので20時の30分前には僕のアパートに来ていて、この中では一番準備が悪くて、まあ、それでもいざ準備となればものの3分でバッグに着替えから文庫本からカセットテープまで、あっという間にそろえるワタクシの3人は烏丸中学前のワタクシのアパート、S友荘の1階の共同玄関上がってすぐのワタクシの部屋に結集していた。

 さて、それから待てど暮らせどN谷君が来ない。もともと時間にはルーズな男だったから、当然30分や1時間くらい遅れることもあるだろうと思い、本当の出発時間は21時、ぎりぎり待てて21時半と、N谷君以外の3人は決めていた。まあ、そのうち来るだろうくらいの感覚で、これからの合宿の楽しみ(まあ、麻雀で後輩たちから荒稼ぎするとか、いつもの海に今年は海の家が出来て、地元のおねいさんや関西方面から海水浴に来たおねいさん達と親しくなれるチャンスが、必ず今年こそ来るはずだとか、夢のまた夢の話)を話し合っていた時に、僕の下宿の2階に住んでいたT畠という、3学年下のサークルの後輩がひょっこり赤い顔して僕の部屋に来た。開口一番、「あれ、やっぱり今日車で行くんですか?」などと聞くので、「おう、今夜のうちに走って鳥取に行く予定してたんやけど…」と僕が答えたら、「あ、でもN谷さん、さっき金八で飲んでたで、結構もういい感じで出来上がってたけど…」などという。僕たち3人は同時に「はぁ?お前なんで止めんかった、あいつ飲んだら酒癖悪いの知ってるやろ、どうしてそのまま飲ませたんや!!」と叫んだ。T畠君は、とんだとばっちりだとばかりに「そんなん言われても、あんな酒癖悪い人、後輩の僕なんかではよう止めませんよ、まあ、でも結構飲んでたから、もうじきここに来るんとちゃいますか?」というや否や、無用のトラブルにかかわるまいと自分の部屋に戻った。

 T畠君の階段を上る足音を聞きながら、僕たち3人は善後策を話し合った。「しかし、あいつめちゃくちゃやな、今日、鳥取に行くて、決めてたのに一人で飲みに行くか、ふつう」とS戸君。「あいつがむちゃくちゃなのは、もう以前からわかっとったけど、ここまで無茶するとはな。ま、でも物は考えようで、あいつ飲んだらすぐ寝るさかいに、車のバックシートにほっておけば静かでええわ」とこれは僕。「あほ、お前、そんなことしたら、あいつ絶対寝ゲロしてシート汚すに決まっとるやんけ。ワシ、絶対いやや、酔っぱらいは車に乗せたらアカンてお父ちゃんにも言われてる」とこれは今回の鳥取行きに車を提供し、往復単独で運転することになるF田君。「ま、どっちにしても、20時集合と言うてるから、そんなに遅くはならんやろ、酒もほどほどにして、まあ、車中はうるさいかもしれんが、とにかく、今夜のうちに鳥取に向かうようにしようや」と僕。しかし、それから待てど暮らせどN谷君はやってこない。当時はまだ携帯もなかったし、またその金八というのは、あちこちの大学の活動家連中のたむろする居酒屋だったので、そんなところに電話して呼び出すのもどうかと思い、僕たち3人はそれほど聴きたくもないレコードをかけて、彼のことは極力話題にせず、じっと待っていた。

 22時過ぎて、S戸君がついに恐れていたことを言い始めた。「あかん、今夜はもう無理や。今夜はすっぱり諦めて、明日の朝一番で出るしかないんちがうか」。「まあ、しゃあないな。でも、ワシは一言N谷に言いたい。お前は人を待たせて何ぼのもんじゃ、と」と、F田君。僕は、もうどうでもいいや、こうなったらオレも飲んでしまうかと頭の中で考えていたその時だった。ばたばたばた、と足音がしてバターンと部屋のドアが開いた。そこには真っ赤な顔をしたグリコ・森永犯のモンタージュの男が仁王立ちしていた。あ、そのころはまだグリコ事件は発生してなかったので、よく見たらやはりN谷君の顔だった。その真っ赤な顔が大きくゆがみ、崩れるように部屋に倒れこんできて、そのまま大声で叫んだ。「あかーん、酔うてもた~」。N谷君が、飲みすぎて足腰立たない状態で僕の部屋になだれ込んできたのだ。僕たちは怒る気力もなくしていたが、一応義務的に聞いた。「お前、なんで酒飲んだ。今夜、鳥取に行く約束したやんけ」「あ、あ、うん、知っとる。知っとる。今夜、とっとりいくんやろ、しっとるでぇ、わは、わは、わはは」「いや、知っとったら酒飲みに行かんやろ、ふつう。なんで飲みに行ったんや」「あ、なんでて、その、ほら、あれや、前祝いうやろ、あれやがな」「前祝いはええけど、20時の約束やったさかい、それまでに戻ってくるとか、飲みに行く前に誰かに話しておくとか方法あったん違うか?」「あ、うん、うん、う…」。最後は言葉にならず、もうすでにすやすやと寝息を立てているのであった。

 N谷君の熟睡している姿を見て、頭に来た僕たち3人は、そのままS戸君のマンション(彼は勤労学生だったので、当時では珍しい鉄筋のエレベータ付、ユニットバス・キッチン付、オールフローリングのワンルームマンションに住んでいた。しかしその家賃をねん出するためにほとんど毎日夜はサーカスのバイトに通い、昼間は小学生の塾のアルバイトに通い、大学に行く時間はほとんどなかった)に行き、こちらもやけ酒をあおって、そのままS戸君の部屋で雑魚寝した。翌朝、やはり鳥取に行くという気持ちの高ぶりからか、8時前には3人とも起きて、顔を洗い、前日あれだけ飲んでぐっすり寝たからN谷ももう起きて準備しているだろうと車で僕のアパートに戻った。僕の部屋の玄関のドアが開いていた。中には誰もいなかった。「あいつ、どうしたんや」「あの状態で家に帰ったんやろか」「まさか、どっかその辺で車にはねられてるのと違うか」。心配になった僕は、彼の下宿に電話して、彼がいるかどうか尋ねた。「…ハイ、N谷ですけど。どちらさん」。地獄の底から響くような不機嫌な声。わははは、前日飲みすぎたN谷君は二日酔いで半分死にかかっていたのだ。それから、小一時間過ぎて、シルバーメタリックのホンダアコードに3人の学生が楽しそうな顔をして国道9号線を南下していく姿が見られた。ん、3人。いやいや、我々の友情は固いのだ。もう一人のN谷君はシートに身をうずめ、断続的に襲ってくる二日酔いの頭痛と吐き気と闘いながら鳥取に向かっていたのだった。車中に流れる音楽は、これは当然、ハードなパンクやギンギンのニューウェーブが大音量で流れている。楽しい合宿に向かう青春の一こまを今回、レポートいたしました。あ、河原町の恋の物語はまた今度ね。



河原町の洋酒パブの話 その予告編

 ちょっと、どうしようかなとも思ったが、こういうのは行きがかり上ちゃんとしなくちゃいけないと思って始めてみる。つまり、「河原町の洋酒パブの話」である。時期的には76年の学園祭の前、つまりEVE期間中の話なんだけどね、この間から思い出そうと努力はしているけど、どうしても思い出せないことがいくつかある。自慢ではないが、僕は結構記憶に自信があって、いったん忘れていたことも何かのきっかけで完全に思い出すことが多いのだが、この時の話だけは断片的にしか思い出せない。記憶の奥の底に眠らせておいたほうがいいと誰かが言ってるような気がしないでもない。まあ、勿体つけるほどの話でもないし、見方によってはアナザー・サイド・オブDRAC興亡史とも言えなくないので、とにかく始めてみよう。

 76年という年は、僕も大学の2回生になっていてサークルでも後輩が出来たし、なんといっても大学に入って1年以上たつわけだから、大抵の事は2度目であり当然初めての時のような失敗はしない。最初は、分からないことでも1年たって2回目になれば、やり方だとかうまい対処の仕方というのは自然と学ぶものである。もっとも、これはサークル活動に関してだけであって、世間一般で大学はサークルの府ではなく、学問の府であるため、講義を聴いて試験を受けて単位を取って進学・就職するらしいのだが、僕にとって大学の単位ばかりはどうしようもなかった。1回生でとるべき単位のほとんどを落としてしまい、もっと正確に言うとD大の1回生の必須科目だった宗教学の4単位と保健理論の1単位の合わせて5単位しか取れなかったのだが、だからといって再履修したら取れるというものではない。まあ、このあたりのマスプロ教育に対するカクメー的批判というか、つくばチューキョーシン路線を体を張ってフンサイしていた僕の思想活動については割愛する。話せば長くなるから、というのは大嘘で、ようするにサークルばっかりやっていて授業に出てないだけではなく、試験すらまともに受けてなかったから当然の報いである。その報いが今も延々と続いているので、我が子には「大学ちゅうとこは単位取ってナンボじゃ、気合入れていかんかい」と反面教師的に教えるのだが、イデンというかDNAの反乱というか、あ、愚痴になるのでやめます。

 えーと、単位の話なんかする気はなかった。どっから切り出せばいいのかちょっと迷っていたが、そうだな、まあ、拙blogにはほとんど出てこない、おねいさん関係のお話になる。75年に大学に入り、別館、サークルという居場所を見つけてごそごそ動き出したワタクシでしたが、友達づきあいというのは、最初のうちは大学のクラスの連中が多かったけど、授業に出なくなったらどんどんそういう関係は薄くなり、それと反比例してサークルの友人・先輩との付き合いは濃くなっていった。それでも、まだ76年はちょくちょくクラスの連中との付き合いもあり、そうそう、岩倉在住のN谷君がDRACに入ってくるきっかけを作ったのは、ほかならぬワタクシでありました。N谷君は姫路の出身で、D大の英文科のクラスメイトで、75年に入学して親しくなった。というのも、英文科というのは1クラスが50人ほどいたのだが、そのうちの40人以上が女性で男は、えーと、M鳥、O川、K坂、K藤、あと名前が出てこないが、全部で10人いるかいないかだったので、すぐ顔と名前を覚えたのだ。また、この男はジャズが好きで、コルトレーンがどうしたとかロリンズがなんたらと良く言ってたので、当時はジャズの知識がなかったワタクシもこいつはもしかしたらなかなかデキル奴かもしれんと一目置いていた。

 もっとも75年当時は、あんまり親しく話した記憶は無くて、M鳥クンという熊本出身のザ・九州男児を間にはさんでつきあっていた。当時の僕の下宿が修学院で、彼は岩倉だったから同じエイデンで一緒になることもあり、そういうことからちょくちょくしゃべったりしてはいたのだが、まあ75年までは挨拶とちょっとした世間話、噂話をするくらいだった。ところが、この男が76年になったらいきなり「おう、お前確かレコード音楽をなんたらするサークル入っとったやろ、ワシもいれてぇな」みたいな感じで話しかけてきて、2回生になったばかりの僕は新規会員を勧誘すると他のサークル員たちに対して箔が付くみたいなところもあったので二つ返事で4階のボックスに連れて行った。

 ところが、こいつはとんでもない酒乱でヘンタイなところがあって、普段は真面目な小難しい顔をして「ブルースの真実は」とか「虐げられたゲットーの黒人たちへの連帯」だとか「組織された暴力とプ××タリア国際主義」とか言ってるくせに、ちょっと酒が入ると暴れる・喚く・絡む、というトンデモな男だった。忘れもしない76年4月の新歓コンパ。場所は祇園のかがり火だったか。2回生とはいっても、サークルに入ったばかりのN谷君は諸先輩方や同期生たちに挨拶をして回るべきなのに、一人手酌で日本酒をあおり、当時二日酔い防止のためにお酒を飲んだ後は軽くお茶漬けで胃を満たすという日本の正しいお酒飲みの行為をしていたワタクシに持っていた徳利の酒をぶちまけるわ、サークルの先輩たちを片っ端からわけのわからない議論に巻き込み、最後はこちらも酒癖の悪さでは人後に落ちないT原さんにも絡んでいき、ついにはあのT原さんが「おーい、drac-ob!!こいつなんとかせぇ」と叫んだという事実もあるのだ。

 その翌日にエイデンで顔を合わせたN谷君は、屈託のない笑顔で「昨日のコンパ、おもろかったな、ああいうのは毎月あるん?」と聞いてきた。僕は怒る気力もなく、「ああ、うちは結構酒が好きなやつ多いし、月に1回はなんだかんだ口実つけてコンパするし、同級生同士や研究会単位でもちょくちょくコンパするけど、しかし、お前、酒癖悪いな」というと、「え。ワシ、何かした?あ、お前に酒かけたんは、みんなで酒飲んどるちゅうのにお前が茶碗もって飯食ってたから、ちょっと腹立ってな。かんにんな、悪気はないんや、オレも陰ひなたのないまっすぐな人間やし」などとシャーシャーというのである。さらに、他の先輩たちに絡んだことを追及すると、満面の笑みをたたえて「ほんま?ほんま?全然覚えてへんわ~。そらT原さんやS賀さんは怒ってるやろな~。今日、謝っとくわ」と全然へこたれない。よく見ると眼鏡の奥の目はまっすぐ一直線である。普段も目の細い男だが、笑うと目が無くなるんだなと思った。後年、テレビを見ていたら突然、このN谷君の顔が出てきてびっくりしたことがある。よく見たら「グリコ・森永事件」のモンタージュ写真であった。あの事件が発生してあちこちで「どくいりきけん たべたらしぬで」のコピーとモンタージュが出回った時、僕はN谷君も間違いなく容疑者としてポリのマークが付いているはずと確信していた。まあ、こういう男だということが分かって、徐々にサークルに溶け込んでいき梅雨が明けるころにはもう一端のサークル員で、ボックスのど真ん中で胡坐をかいてタバコを吸ってジャズのレコードをかけるという態度であった。

 えーと、ここまで書いて気がついたこと。エントリーを書くときは、さっさと書こう。後でいい、あとでいいなどと思っていたら眠くなってはかどらない。これからはこういうことをしてはいけないが、本日は睡魔が手を変え品を変え、やってくるので一時中断して、また明日。という体験は大学時代と言わず、学生時代さんざんやってきて、それじゃだめだということを嫌になるくらい経験したはずなのに、ああ、それなのに、学習能力がないというのはこういうことかもしれん。もしかしたらCIAの陰謀かもしれん、などと考えている頭がすでに眠っているのだ。ということで、今回は予告編まで。

グッバイ、ジョー

 なんだか、月に1度は訃報を書いているような気がするが、ジョー山中が亡くなった。FTBが再結成されて、ZKなんかと一緒に西部講堂でライブをしたのは、ついこの前だと思っていたのに。肺がんで闘病生活をしていることも知らなかった。いつだったか、奥さんと小さい子供さんと一緒にテレビのバラエティか何かに出ていて、いや、ジョー山中、老いてますます盛んだなと、うらやま、いや、応援の気持ちを込めてみていたのだが。病には勝てなかったようだ。このニュースは、携帯で偶然見たので、そのまま悪名高いや不※(ヤフーコメントのことです)を見ていたら、もちろんジョーのロックシンガーとしての偉大さをご存知の方も多かったけど、♪ママ、ドーユーリメンバー~の、「母さん、あの帽子どうしたでしょうね」のフレーズで有名な『人間の証明』のテーマを歌った人というイメージが強いようだった。中にはこんなコメントもあった。「『探偵物語』など故松田優作氏の作品によく出演されていましたね。また昭和の名俳優が逝ってしまった、残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。」。うーん、いいんだけど。



 中には「樋口さんが逝ったと思ったら、山中さんも」などと、単なるジョーつながりだけでコメント書いてる人もいたけど、まあ、追悼の気持ちは理解できるし、ジョーもそういう洒落は分かる人だと思うので、いいんだけどね。中には「オレの知らない人の訃報記事を出すな」とか「連鎖反応でまただれか死ぬといっただろ、的中率100%」などと、もうこれはコメントで他人の気を引こうとしているとしか思えない、チーハクなものもありました。ま、書いていて不愉快でしょうがない。で、先ほどジョーのホームページ見てきたら、以前と全然変わっておらず、そこに今年の5月9日に毎日新聞のインタビューが掲載されていた。読んでいて不覚にも涙が出てしまった。ジョーをご存じの人にはぜひ読んでいただきたいので、以下引用します。

人生は夕方から楽しくなる:ロックミュージシャン・ジョー山中さん
2011年5月 9日

 横浜中華街の媽祖廟(まそびょう)。災害から人々を守る女神として、華僑の信仰を集める。境内の鐘楼は関東大震災で倒壊した建物のレンガが使われている。この辺りは空襲を含めて2回、焼け野原になりそのたびに復興した。「悲劇」から1カ月余の昼下がり。ジョー山中さん(64)の姿があった。

 横浜がふるさとだ。

 東日本大震災の被災者支援の募金活動だった。少し疲れているように見えた。内田裕也さんらロックの仲間たちに促されるように歌い始めた。

 ♪ママー、ドゥ・ユー・リメンバ~

 「人間の証明」のテーマ。アカペラの力強い声が春の空に溶けた。感傷的なもの言いだが、母を恋うる歌は、祈りのそれとして心に響いた。

 「抗がん剤をやっているからね。ちょっとやせたけど、声は大丈夫だよ」

 肺がんと宣告されたのは昨年2月だった。ステージ3。手術をするかどうか、選択を迫られた。体にメスを入れることには抵抗があった。

 「手術をしていたら歌えなかったと思うよ。オレの人生、歌を取ったら何も残らない。友人のカシアス内藤(元東洋ミドル級チャンピオン)もボクシングのトレーナーとして声を失いたくないから手術しなかった。5年以上たつけど元気だ。最初、オレが励ます立場だったんだけどね......」

 厳しい試練は続いた。がんの診断から半年ほどたったころ、住み慣れた鎌倉の自宅が全焼した。「家族が無事だったし、延焼しなかっただけよかった。形あるものはいずれなくなるし、大切な思い出は心の中にある」。普通ならなえてしまうところだが「落ち込んでなんかいられない」。

 ただ一つ、奇跡があった。

 「焼け跡から、一枚しかなかったお袋の写真が出てきたんだ。オレは小学2年の時、結核と診断されて療養所生活。その間にお袋は死んだ。サヨナラも言えずにね......」

 生まれたのは終戦の翌年。横浜はガレキの山だった。男ばかり7人兄弟の真ん中。1人だけ肌の色が違った。

 「事情は知らないし、本当のおやじについて聞こうともしなかった。その必要もなかったね。お袋は堂々とオレを『私の子供』って胸を張って言ったんだ。あの時代、大変なことだったと思う。名前は『明』っていうんだけど、明るく、というお袋の願いがこもっていると思うんだ」。大切な話を打ち明けるように言葉を継いだ。「育てのおやじが亡くなる直前、こう言った。『お母さん、お前のこと、とても心配していた』って。分かった、もう、OK。それ以上の言葉は何もいらないと思った」

 「人間の証明」では、西条八十の詩の英訳を手がけた。<お母さん、あなたが僕にくれた人生>などのフレーズは原詩にない。それに、「かしこまったマザーではなく、ママでなくてはならなかったんだ」。「山中」は母の姓だ。

 家庭の記憶は母親が亡くなった時で途切れる。家が貧しく、養護施設から学校に通った。「恨む? 運命を? まさか、まさか。以前、オノ・ヨーコさんがオレのことウオー・ベイビーって呼んだ。イメージ的にかわいそうって感じだけど、それは違う、オレはいつも前を見て生きてきた。生まれたらその運命を懸命に生きなくてはならない」

 20年近く海外でのボランティア活動に取り組んできた。訪ねた国はアフガニスタン、ミャンマーなど30カ国ほどになる。難民キャンプなどを回って、笑顔を忘れた子どもたちに歌声を届けた。チェルノブイリにも2回行った。

 「施設にいたから分かるけど、気に掛けてくれる人がどこかにいる、そう実感できるだけでもうれしい。いつの日か、喜びが希望に結ぶときが訪れると思うんだよね」

 養護施設を出て3年ほどプロボクサーとしてリングに立った。KO負けはない。ロッカーに転じても自分を貫いてきた。今ヘビーな戦いをしながら、新作のレコーディングに挑む。等身大の己を描く「魂の証明」になりそうだ。「敗れざる者」にラストゴングは鳴り響かない。【隈元浩彦】

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 ■人物略歴

 1946年生まれ。ロック、レゲエミュージシャンとして日本の音楽シーンをリード。参加したフラワー・トラベリン・バンドは70年代いち早く海外を目指したことで知られる。


 今日、偶然昔のノートが出てきて、そこに85年のテレビで見たニュー・イヤー・ロック・フェスティバルのことが書いてあった。ジョーはジョー山中&レゲエバイブレーションとして登場していた、糸井重里が付けたコピーは「目を閉じてもすぐわかる」だった。僕のメモには「ボブ・マーリーそのもの、うまいな。レゲエは凄いぜ。何かおかしいと思うが見事」、と書いてあった。ジョーの圧倒的なボーカルにしびれながらも、どうしてレゲエをやっているか必然性が感じられなかったのかもしれない。そんなことはどうでもいいか、とりあえず合掌。



結局



タワレコが閉まっていたので、隣の書店でひつまぶし、ならぬ暇つぶしをした。雑誌コーナーに「」ぴあ」の最終号が平積みしてあったのでゲット。もっとも85年のイラストが裸のボーイ・ジョージなのはいいが、吹き出しに「グラムロックの草分け『カルチャー・クラブ』のボーイ・ジョージよ、知ってる!?」というのは、イタダケナイ。グラムロックは70年代前半にT・REXやボウイ、あるいはアリスやドールズが草分けでしょう。

もっともページをめくると懐かしいイラストばかり。おまけに72年の創刊号の復刻版が付いて、さらに満足。あと山下洋輔の新書も手に入れご機嫌だったが、家に帰る前にネットで前田武彦の訃報を知り、昭和はまたまた遠くなったとつぶやきながら車を走らせた。

週末に



お金も無いのに、夏バテ対策は焼肉だと、バカ娘二人と一緒に食べに行き、その帰りにイ×ンのショッピングセンターに来た。子供達は服を見に行くというので、僕はタワレコで時間をつぶそうとやって来たら、写真の通りである。しょうがないから、夏の露出の多いおねいさん達を見守っている。地域の防犯に貢献しているのだ。決して下心ではない、うん。

THIS ISガリの話

 昨日の省エネエントリーにズトさんから米をもらった。ちょっと驚いたのは僕と、それほど年齢は違わないはずのズトさんだが、ガリをご存じないという。いや、あの握り鮨の横に鎮座しているちょっと甘くて酸味があり、口に入れてかじるとお口すっきりになるアレではない。あれもガリだが、ここでいうガリはガリ版刷りのことだ。ガリの原稿というか、印刷物など腐るほどあるはずだと思って、部屋をがさごそやったら84年に後輩のK君の結婚式で京都に行ったときに入手した、当時のD大の学友会のチラシがあった。あ、チラシというと失礼かな。一応は「救援会機関紙」とうたってあるから、わら半紙のぺらぺらの冊子でも立派な機関紙かもしれない。このころ僕は当然、働くお兄さんというか、先天性労働者というか、ま、その当時はJEPから出向して、下館の代理店にいたのだが、僕が大学にいたころから、当局と学生間でなんだかんだあった移転問題にからんで当時の学友会のメンバーがタイホされて、裁判になっていろいろ大変だったようで、その支援のカンパを要請するため、またはそのカンパの使用先の明細を出す意味で、この手の機関紙を発行していたようだ。とりあえず、こいつを取り込んでアップすればいいかと思ったが、よく考えてみると、これ正確には鉄筆で書いたガリではないことに気付いた。これは多分、ボールペンで書いて、輪転機で印刷したか、もしかしたらオフセット印刷かもしれない。あ、真ん中の写真のところなんか、ガリじゃ無理だからオフセットだな。

機関紙表紙

 ガリ版、すなわち謄写版というのは「ロウ紙と呼ばれる特殊な原紙(薄葉紙にパラフィン、樹脂、ワセリン等の混合物を塗り、乾かしたもの)を専用のやすり(鑢盤)の上に載せ、ヘラや先の尖った棒のような形状の鉄を木の軸に固定した器具「鉄筆」を強く押し付けて、絵や文字の形に原紙を傷つけて版を作って行く 。この部分は紙の塗料がヤスリ目の形にけずれ落ちて細かい孔がたくさん開き、「透かし」となる。この作業を「原紙を切る」「ガリを切る」などという。面印刷の部分は写真製版の密度の高い網点のような状態になっている。濃淡を作りたい場合はヤスリの山が荒い網点のような配列になったものを使用し、筆圧を変えるなどして孔の大きさで表現する。間違った場所は修正液という薄いニスのようなものを塗って孔を埋め、レタッチを行なう。(Wikiより引用)」。

裏表紙


 僕が、小学校の頃は鉄筆とやすりで盤の上に「かりかり」という音がして、なかなか風情のあったガリ版も、その後進化していき、確か中学3年の時だったか、何かの用事があって学校職員の部屋に行ったら、そこでガリの原稿を書いていたのだが、なんと鉄筆ではなくボールペンで直にロウ紙に文字を書いているのを見て、思わず声を上げたら、さらに驚かされたことに、印刷も1回1回手でローラーを回さなくても、輪転機みたいな機械のハンドルをぐるぐる回すとバンバン印刷されるのを見て、ガリ版も進化したなとつくづく感心したことがありました。昨日のエントリーに出てきた文連の印刷機というのが、このハンドル回して一度にたくさんの印刷ができるタイプだったのだが、これは使うのは順番待ちというか、最優先は文連本部、その次はDプロ、広研、観研、と来て我らがDRACはそのあとくらいだったので思うように使わせてもらえなかった。そういう場合は自分たちのボックスにおいてある旧式の印刷機を使って1枚1枚刷り上げるしかなかったのだ。ガリ版でググったらYOU TUBEに動画があった。下に貼っておくが、その動画の1分8秒あたりにガリ刷り名人の技が見られる。もっとも自慢ではないが75年当時の僕も、あれくらい、いや、ちょい遅かったかな、まあでもあれに近い速さでガリを刷っていたのだ、ワハハ。そうそう、このガリ刷りの動画の最後に「今、ガリがナウい」みたいな話が出るから、よく見てちょんまげ。古きを訪ねて新しきをしることをウンコ、違った温故知新というのだ。今日の話は短いけど、教訓が入ってるな~。




DRAC興亡史は不滅です

 きのう書いたエントリーに、sawyer先輩が長文のコメントを投稿していただき、そういえば「DRAC興亡史 1975-1980」などという昔話のシリーズも途中で投げ出してしまったことを思い出し、いやいや、あれはあくまで「真に解放されたblogとして再開する日まで一時中断」しているだけだと、自分に言い訳してもちょっと心苦しい8月の夜である。いや、実は昨日の話の中で、その続編として高校時代にでっち上げたミッシェル・レコード・カンパニーの顛末を書こうか、76年に上映した『バングラディッシュのコンサート』にまつわる話を書こうか、迷っていたのだが「DRAC興亡史」の件もあるので、大学時代の話にしようと決めた。ただ忘れていることもあるので、以前書いたエントリーを見直していたら、75年に上映した『ウッドストック』についての話と、その上映後に発生した婦女暴行未遂事件をワタクシdrac-obが身を挺して救ったのに誰にも感謝されず、敗れたベルボトムのジーンズとかかとのとれたハイヒールのサンダルの費用は誰にも請求できず、泣き寝入りした話を5年ほど前に書いてあって、読み直したら結構面白かったので、ここに再録します。要するにエコだな、エコ。

 僕のいた大学は学園祭の期間が異常に長く、確か9月の半ばから、10月と11月は間違いなくEVE期間といって、いろいろなイベントや研究発表が行われた。もちろんその会場や、開催に関する様々な手続きは学園祭実行委員会(略称;EVE 実)を通して行わねばならなかった。このEVE実には様々な学生が関与していたが、当然大学の自治会関係者のヘゲモニーが圧倒的だった。僕の所属していたサークルは夏休みに合宿(という名の強制コンパ、麻雀、討論、乱暴、狼藉、打ち上げ花火の水平撃ち特訓、修羅場パーティ但しほとんど男子学生のみ etc…)を行いそこで、EVE期間中の計画を立てるのが常であった。僕自身その年はまだペーペーの1回生だったので、先輩方の話にただ頷くだけであった。結局10月に映画を、11月のEVEにゴーゴー喫茶(しかし、古いね。死語だ)をやる事が決定した。映画は「ウッドストック」を上映する事になった。

 今はどうなっているか知らないが、当時学生が映画を上映しようと考えたらフィルムをレンタルしてくれる会社に連絡して、希望の作品、日時、金額等を交渉して借りてくる、というのが一般的だった。当時、その手のフィルムレンタル会社は関西に何社かあったように記憶しているが、学園祭シーズンになると東京の会社がDMを送ってくることがあった。そして、その内容を見ると品数も種類もレンタル単価も圧倒的に地元の会社より優れたものが多かったように思う。特にロック関係の映画は当時、種類も少なかったので別のサークルが同じ映画を企画しているなどと言う情報が入ると急遽ストーリーモノの映画の上映に切り替えたりした事もあった。それにしても、当時の映画上映と言うのは僕たちがたむろしていた別館のすぐ隣にある学生会館(大学当局は必ず『大学会館』と呼んだり書いたりしていたが、心ある学生達はあれはガッカンなのだと譲らなかった。まあ、そのどちらも今は無くなってしまったそうだが)のホールでカンパ制で上映されていた。カンパ制だからいくらでも良い。つまり1円で映画を見る事だって可能だ。中にはその1円を払うのが惜しくて「レポだ」と言ってタダで入る奴もいた。ホールは千人規模のしっかりしたものだったが、何せ入ってくるのはインテリヤクザを気取ってるのがほとんどだったので、タバコの煙はもくもく上がるわ、缶コーヒーの転がる音がするわ、マナーは最低だったが、そこには何か不思議な連帯感があったような気がする。

 映画の上映日程が決まり、フィルムの交渉などは1年上の先輩達が中心になってやっていたが、我々1回生は何をしていたか。もちろん単純肉体労働及び営業活動である。公称2万人の学生のいる大学だったので、不特定多数にアピールするには原始的ではあるが看板とビラ配布が大事な広告媒体であった。しかし、この看板作りは多少大工仕事の上手い奴が指図してやるとすぐ出来るのだが、表側の文字と配色やレイアウトは美的センスが必要で、悲しい事にそれを持ち合わせているサークル員は女の子と上手くやってるので、看板作りなどには参加せず、アリか奴隷のように看板作りをやっているのは、こういってしまうと身も蓋もないが女の子とは縁が無いと言うと言いすぎなので、縁が薄い連中がほとんどだった。幸か不幸か僕はその一人であったというか、積極的に関わる一人だった(口の悪い連中はワンアンドオンリーといっていたが、そんな事は無い。たびたびこのブログに登場する「せんみつのF田」君やカンニングがばれて留年したS戸君などは良き協力者だった。おお類は友を呼ぶ)

 いまでも思い出すのは、我がDRACのタテカンは常に黄色の背景色に黒の太文字のワンパターンだった。ひと頃、♪黄色と黒は勇気のしるし、24時間戦えますか?→ 出来ません!などと歌われ、黄色に黒目立つじゃないかと思われそうだが、再度言います。看板はセンス。美的センスの無い奴が作るとブザマだった。しかし、とにかくサブロク(判じ物の一種ですね。三尺×六尺、建築用語で言う900ミリ×1800ミリ)のベニヤを4枚縦に並べて作るものだから、目立つには目立った。ビラはガリを切り(今の人に理解できるだろうか。しょうがを切るのではなく、油紙の用紙に鉄筆で文字を書き、謄写版で印刷するのだ。何?言葉が解らない?「イミダス」か「現代用語の基礎知識」の「死語」のコーナーで調べてくれ!!)、シャツの手首を真っ青にしながら刷った。文化団体連盟という上部組織があり、そこのBOXには輪転機があったが何せ順番待ちだったので、大抵は自分達のBOXで刷りまくった。BGMはRCAが出した「ブルースの古典」という企画モノでワークソングを聞きながら、ひたすら印刷をした。

 印刷をしたら次はビラ配りである。キャンパスで一番人通りの多いM徳館の前で、配るのである。ここはビラ配りのメッカというか、D大の原宿、表参道と呼ばれたところで(ウソ)数多の人たちがビラを配っていた。最初何も知らずにこの場所にいたら、やたら髪が短く青春ドラマの悩み多き若者みたいな連中がビラを配っているのに遭遇した。ナニゲニ眺めていると、いきなり、そうたとえて言えば公園の噴水の周囲にいた鳩が一斉に飛び立つような感じで、ビラを投げ散らかして逃げ出す光景が見られた。唖然としてると、そこに赤いヘルメットに白衣を着て、手には角材を持ってる人たちが駆け込んできて、逃げていく青春ドラマを追いかけていった。当時のD大の自治会をおさえていたセクトと日本 ××党の青年同盟の学内自治をめぐる権力闘争であった。どう見ても正しいのはヘルメットだなと思っていたら、その半年後くらいにある暗いBOXで「中国 ××党との党派闘争をやるのか、否か」とわけの分からないことを言われ、何とか反論して逃げた甘い青春の1ページが…ちょっと脱線した。このあたりの話は後日に譲って、軌道修正する。

 とにかく人通りは多いので、次々にビラを撒こうとするがなかなか上手く受け取ってくれない。ビラ配りは先日アップした「入試情宣」でも散々やったが、これにはちょっとしたコツがあって歩いてくる人の進行をさえぎるような形で渡そうとしても無理である。気の短い奴なら「ケンカ売っとんのか!!」という話になりかねない。コツは歩いてくる人が自分の目の前を通り過ぎるその瞬間に差し出すと(心持ちやや後方から差し出す形)反射的に受け取る可能性が高いのである。このバックハンド方式を発見して以来僕は他のサークル員にビラ配布では圧倒的な差をつけたものだ(得意、得意)。しかしこの時に、身に付けた技術の『ガリキリ』と『ビラ配り』は実社会ではほとんど役に立たなかった。既に時代は青焼き(これも説明がめんどくさいけど、建築図面なんかで青っぽいのあるでしょ。あれ薬品につけて焼くから青焼きというんです。だから年配の人になると未だにコピーする事を「ちょっと焼いてきて」などと使うし、甚だしいのは「これゼ○ックスしといて」とか「リ○ピーする」などと活用する人が…もはや居ないよな!?)ちなみに専門の言語学で習った「狼に育てられたアマラとカマラ」の話はセールストークで使えて重宝した。こんなことならもっと真面目に授業を受けておくべきだった。


 これを読んでびっくりしたのは、他でもないワタクシでした。昨日のsawyer先輩のコメ返しに「また別の機会に書きます」みたいなこと書いているのに、5年前のエントリーにも同じようなことを書いているとは(汗)。うーん、薄暗いボックスでねちねちオルグされていた話は、しっかり思い出して書きます(多分、年内、などというのがイカンのか、笑)。それで、この話の続きが以下に続きます。

 M徳館前でのビラ配りはランチタイムがメインだったが、各授業の休み時間なども行った。しかしながら確実に大勢に配布出来るのはランチタイムだったので、その間は「1回生ダッシュ」と先輩から号令がかかりメシも後回しで、みんな結構真面目に配ったように思う。前にも書いたが映画の入場料はカンパ制なので、前売券の販売などはなかったが、それでも入場者を確保するために普段はさぼってばかりいる専門の授業にも出て、クラスの連中にもPRした。しかしロックに意識的な連中は既に「ウッドストック」は見ており、もっと他の映画は無いのかと無茶を言うし、僕が所属していた英文科はクラス50人中40人が女性という今考えると「はらいそ」とか「天国に一番近い島」などの言葉が脳裏をよぎるが、僕は授業にほとんど出ないイケナイ学生だったので自ずと親しくしてくれる女の子も決まっていて、彼女らはロックと言えば上田正樹やファニカン(もう解散してたが)、あるいは我がD大の誇るウェストロードブルースバンドみたいな純国産がお好きであった。

 と、ここまで書いてまた寝てしまい1日過ぎた。このところ夜の散歩の時間が、10時過ぎだったので終わって汗を流すと、すぐに12時。それからあちこち御馴染みのサイトをうろついてるとすぐに 2時を過ぎてしまい翌朝きついというパターンだった。そこで、今日から散歩は夕食が終わるとすぐ、時間にすると8時半くらいから始めた。一人でぼんやり大淀川の橋を渡っていると前方に半月が見えて、思わず口元から”Burn down the mission~”とエルトン・ジョンの「布教本部を焼き落とせ」のフレーズが出て来た。昨日は「オリオン頌歌」を口ずさんでいたが、今日はエルトンで次は自然と「だにえるとらべりんとぅないとおなぷれいん、あいきゃんしざれっらいとうへでぃんふぉすぺぇえん~」と名曲「ダニエル」のフレーズが出て来た。何でだろうと考えていたら、夜空の合間を点滅等をつけたジェット機が音も無く、闇に溶けて行くのが見えたからだった(ここ、ちょっと城達也のジェットストリームぽくね?オッサン無理して若者用語つこてもアカンデ!!)。

 そして帰り道、橋の途中で振り返ってみた観光ホテルの夜景と月の風景が綺麗で思わず、携帯で写したが画素数が少ないので、ちょっとぼんやりしている。ただ雰囲気はわかってもらえるのではないかと思っている。今日の散歩道も寒かった。京都の秋はもっと寒かった。あー、やっと話が元に戻った。映画上映の当日は朝一番から集合がかけられたが、平日で当然授業のある者も多く、上映時間とその日出席しないとまずい授業の確認があったが、こういうとき1回生はほとんど意見を聞いてもらえない。まあ文化系のサークルだったので、怖い先輩もそれほどおらず、結局この手のイベントが好きな奴が受け付けやお金の保管、その他もろもろの雑用をやる事になった。僕?僕は当然「お祭好き、騒ぎの好きな男」だったので指名されるまでも無く、朝から最終まで付き合うことにした。正直な話、この映画の上映前の準備の大変さは良く覚えているのだが、上映当日の事はほとんど覚えていない。予想より1回目の上映に人が入り、その売上で購入予定のツィーターがかなり良いランクの物が買えそうだと会計担当のY本さんがその端正な顔をニヒルにゆがめて笑っていた事くらいだ。

 そして上映が無事終わり、片付けもすんでBOXには1年先輩で女性のS本さん(以前書いたと思うが「嗚呼、花の応援団」に出て来る美鈴ちゃんに良く似ていて、いや外見がブサイクだ等というのはまだマシな話で、とにかくこの人性格が悪くて99.9%のサークル員から嫌われていた)、同級生のE副君(こいつが二枚目で静岡出身のええとこのボン、ナンパさせたら仕掛けて仕損じなしの必殺ナンパ人で大変お世話になったのだが、FM○岡に就職したと聞いてからその後の消息は知らない。後年リクルート事件で彼の名を見て驚いたが、単にリクルートの創業者と同姓だっただけだってイニシャルになってないやんけ!)と僕の3 人が何故かBOXに残ってしまった。確か会計のY本さんがどうしても用事があって、お金を預かれないので副会計のS本さんが残っていたと思う。はっきり覚えていないが、ちょっとまとまったお金だったのでS本さんの女子寮まで僕とE副で送るという事になっていたと思う。もちろんE副は女子寮に何らかの意図を持って接近しようとしていたようだし、僕はもしかするとそれは大変な幸運をもたらす事かもしれないと本能的に悟っていたので、この「ザ・ガードマン」役を請け負ったと思う。

 3人で階段を下りて別館の中庭に来てから、僕はBOXのカギを預ける守衛さんの所に行き2人は先に行ってるものと思っていたが、何故か中庭のところにいた。しかもちょっと様子がおかしい。E 副が両手を広げてS本さんの前に立ち、その手の先にはスキンヘッドの背の高い男がいた。ぱっと見たときはE副たちがふざけて通せんぼをしているかと思った。E副とS本さんが左右に動くとスキンヘッドもそれにあわせて動く。「おまえら、ナニしとん?」と僕が声をかけるや否やE副が「○○(僕の本名)、そいつを捕まえろ!」と叫んだ。なんだか解らないが、ふざけてるんだろうと思いスキンヘッドを後ろから羽交い絞めした。その途端、脱兎の如く(余談だが、毎度御馴染みのF田敏雄君はこの「脱兎の如く」の意味をよく理解しておらず、「今から脱兎の如く眠る」などと使い心ある人たちから顰蹙を買っていた。しかし不幸な事に工学部出身のH居クンなどこの使い方が正しいと思いクラスで使い、「品のある表現だ」と言われたらしい。そこから話を広げて、工学部は字が読めなくても大丈夫らしい、というとんでもないデマを広めたのは僕です)、彼ら二人は走り出した。僕は『今度は鬼ごっこかやれやれ』と思っているとスキンヘッドが僕の胸元を掴んでこう呟いた。

 「おま、おま、おまえ、なんでオレに女くれなかった、なんでくれなかったなんで…」壊れたプレイヤーのように際限なく呟きながら、僕の胸元を持ち上げる。その時気がついた。僕は身長175だが、当時はヒールのサンダル(恥っ!ほら、昔流行ったでしょ、ポックリみたいな奴。ロンドンブーツは風を通さないけどサンダルは通気性が良いから履いてましたって今更言い訳するな!!)を履いていたから185くらいあったはずだが、目の位置が同じ、つまりオレよりはるかに背が高く、目が完璧に飛んでいました。それから頭にマジックで線を引いたような、孫悟空の緊箍児 ( きんこじ )みたいなものが目に入った。このスキンヘッドが喋る事、目の異様さ、頭の線、これらを総合して僕の小さな灰色の脳細胞はフル回転する暇も無く結論を出した。「ガイキチだ、基地の外に居る人だ。アウトオブベースいやアウトオブブロークンマインドの人だ」。最後のフレーズはこのブログを書くためにでっち上げた言葉だが、尋常な人ではないことが即座に理解できた。

 右腕がぶぅんという感じで振り回されてきた。両手で防御したが、今度は左手が飛んでくる。転びながらも何とか逆襲をとサンダルのヒールの部分で回し蹴りをお見舞いした所手ごたえあり。「うぅ」か、なんか言いながらスキンヘッドがうずくまった。僕は義経もかくやといわんばかりの、三段跳びで別館の正門のほうに逃げ出した。烏丸通に出るとE副の姿は見えないが、S本さんが半べそでおたおたしていた。「ナニしとるん、はよ逃げぇや!!」と叫び後ろを見るとスキンヘッドが追いかけてくる。既に夕暮れ時で人影もまばらだ。とにかく逃げないとと思いながらも、S本さんの身の上より苦労して集めた売上金が惜しい。人間こういうときに本性が出るが、ブサイクなS本さんは人身御供に差し上げても構わないが、新品のツィーターが手に入らないとみんなに迷惑だ、しかし金庫はS本さんが握り締めている。とコンマ5秒で状況判断をして、S本さんの手を握りながら駆け出した。丁度タクシーが来たのですぐに止め、行く先も告げず早く出すようせかした。

 車のミラーでスキンヘッドの口惜しそうな顔を見て、少し安心して女子寮まで走った。最初は恐怖で二人とも口が聞けなかったが、落ち着いてきて話を聞くとE副と二人で中庭の花壇を通り過ぎようとした時にスキンヘッドがいきなり「おんな、おんな」みたいな事を言いながら近寄ってきたらしい。様子がおかしかったのでE副が庇っていた所に僕が運悪く声をかけたようだ。しかしE副の判断は素晴らしいが別館を出た所で「脱兎の如く」一人だけ逃げて行ったようだ。あいつが居なければ、僕の独力で女子大の寮の厚き扉は開けられないななどと未練なことを考えてはいたが、とにかく無事にお金も(ついでに)S本さんも送り届ける事が出来そうだ。寮の前でタクシーは止まった。車から降りて、いやあ今日は大変だったですねなどと他愛ない会話をしていたら、川の土手のほうでスーッとタクシーが止まった。「まさか」と二人同時に行った途端、目が点になった。スキンヘッドが睨みつけながら降りて来た。「逃げろー」、僕は絶叫した。S本さんは今度は腰を抜かさず、すぐに寮の門をくぐり安全は確保された。次はオレだ。必死で走った。途中サンダルの踵が折れて、足を挫きそうになった。それでもひたすら走った。舗装道路の上を何度か転びながら走った。

 「るるー、道なき道をがむしゃらに手探りで走ってきた、今まで。暗くて何も見えなかった。涙で何も見えなかった。何回と無く転びよじれ流され、頭からつま先まで汚れきってしまった…」と、今になってみれば丁度「暗闇の人生」の歌詞どおりの状況だったのだが、そのときはそんなゆとりは、当然無かった。土手の上を何度も後ろを振り返りスキンヘッドの影を確認しながら、走った。逃げた。「ザ、ヒュージティブ。リチャード・キンブル、職業医師。正しかるべき正義も時として盲入ることがある。彼は身に覚えの無い妻殺しの刑で~」なつかしのTVドラマ「逃亡者」のナレーションが頭の中でぐるぐる回っていた。途中で空のタクシーが通りかかり何とか修学院の下宿までたどり着いた。サンダルは片方の踵が切れて使えないものになっていた。お気に入りのベルボトムのブルージーンズ(恥っ、そんな時代だったの♪ベルボトムブルース、ユーメイクミクライ~)は何か所か穴が空いており、まことに残念ながらその年75年にはまだパンクは始まっていなかった。あのジーンズを穿いていればオレが京都で最初のパンクやと威張れたものだが(良く考えてみるとベルボトムを穿くパンクはおらんな)。

 散々な目にあった、余計なタクシー代は使うは、サンダルやジーンズを買うお金も必要になるしとこんな経済面の心配をするゆとりはなかった。まだ心臓がバクバクいっており、何とか落ち着くためにライ・クーダーの「天国からの夢」をかけた。心地よいアコースティックの音に全身が溶け出したように感じた時に、また緊張が走った。コン、コン。狐の鳴き声ではない。ドアをノックする音だ。「だ、誰」とやや怯えた声で聞くと「Y岡や」と同じ下宿の仲間の声。ふーっとため息をしてカギを開け、Y岡さんを部屋に入れた。「なんや、凄い事になってるな」彼はにっこり笑いながら僕のサンダルとジーンズを指さした。  この話は後日談がある。かのスキンヘッドは、僕は知らなかったが当時の別館では知る人ぞ知る名物男だった。いつもは大人しくて別館1階の学生食堂で、女子学生だけのテーブルを見つけるとそこにうどんを丼ごとぶちまけ四つんばいになって食べるという奇癖のある男だが、過去暴力沙汰などは起こした事は無いらしい。頭の線は、以前脳の手術をしたときの傷跡だという(しかし、ロボトミーでもしたのだろうか。見事に1周、線が回っていた)。このちょっとした事件が彼の保護者の耳に入ったらしく、それから彼を見かけなくなった。

 一方、僕は得意満面であった。身を挺してサークルの売上とブサイクとはいえ女子部員の貞操を守ったのだから。「死んでもラッパを離しませんでした」の木口小平(しかし例えが古いな、みんなついて来れるかな?)なみに大絶賛されると思い込んでBOXに行った所が…。例のF田敏雄君がにやにやしながら1級上のO西さん(いかん、この人も発音したら名前がばれる)と一緒に「お前、アホやな。何でS本サンを捨てて逃げんかったんや。金よりS本さんがいなくなるほうがみんなのしあわせや」などと無茶苦茶言われた。さあ、しかし解らないのが男女の仲というやつで、このときS本さんをボロカスに言っていたO西さんとS本さんが付き合い始めるのであった。なお、O西さんは翌年権謀術策の限りを尽くして、サークルの幹事長になるのだが、そのあまりにワンマン体制、人のえり好みの激しさを糾弾され、サークルを放逐されるのだ。その最先端に居たのがナニを隠そう、この僕なのだ。こういうのを「江戸の敵を長崎で」と言うのだが「回る因果は糸車」という言葉もあるようにO西さんの最後の罠に見事ハマって僕は77年度の幹事長の座を逃すのであった。


 ふー、コピペもしんどいけど、もともとのエントリーはもっとごちゃごちゃ書いてあります。全文読んでみたいという奇特なお方は、「アウトオブザブロークンマインド 前篇」と「アウトオブザブロークンマインド 後編」をクリックしてください。さて、次回はちゃんとした話を書かねばの娘だ~。

ベンガル人民共和国の思い出

 多少、高めのボール球でもブンブン振っていくことで定評のある(しかし、意味が分からない人が多いだろうが、わかる人に分かってもらえればいいので訂正はしないのだ)花の75年度生のPurple_Hazeさんのblogで、バングラディッシュのコンサートが71年の8月1日、つまり40年前の出来事であることを思い出した。僕のいたサークルはレコード音楽を研究するサークルだったので、学園祭やオリエンテーションの時に発表する作品とか研究結果というものがないので、そういう時期には音楽に関連した映画の上映やレコード・コンサート(これ、分からないだろうな、今の人たちには。大学の教室に手製のスピーカーやアンプなどのオーディオセットを設置して、そこでレコード流すというもので、一応趣意書なるものを書いてパンフレットなんか置いてたな)、あるいはライブのイベントなんかをやっていた。そういえば『バングラディッシュのコンサート』は76年と、えーと79年だったか80年だったか、2回上映したなんてことを思い出した。

 僕の所属していたサークルの上部団体に文化団体連盟、通称文連という組織があり、学園祭やその手のイベントに参加するときは必ず趣意書を書いて、承諾をもらわないと何もできなかった。詳しいことは、いずれまた書くかもしれないが、当時の学内の政治力の関係上、75年、76年あたりは僕のいたサークルは発言力が弱く、しかも僕らのことを結構目の敵にしている他所のサークルもあったおかげで肩身の狭い思いをした。その一つはDプロダクション、通称Dプロというサークルで、映画を研究しているというか、映画を作っているはずだけど、その完成品というのは一度も見たことのない不思議なサークルだった。そこに僕と同学年のTという男がいて、何かにつけて当時僕のいたサークルにケチをつけるのだった(後年、えーと77年の終わりくらいから関係改善が行われて78年くらいには結構「同志・友人諸君」という関係になったと思うけど)。僕たちが学園祭やオリエンテーション期間に映画を上映しようとすると、必ず横槍を入れてきて「ストーンズはいいけどビートルズの映画は認めない」とか「ウッドストックはいいけどバングラディッシュは商業主義だから駄目だ」とか、まあわけのわからないことをいう訳だ。

 しかしながら、毎回毎回そういう横槍にハイハイと従うのも腹が立つし、まあ75年は僕も1回生で発言力もなかったし、学内の政治関係も微妙だったのでおとなしくしていたのだが、76年、2回生になってからは多少なりとも言いたいことは言う、いや、出しゃばってどうこう言う気はさらさらないが、それでも一言言わせておくんなせぇ、てな感じでちょこちょこ会議の場でものを言ったり、自分たちのやりたい映画や企画を通せるようになった。バングラの映画はTが強く反対していて、なかなか手ごわかったのだが、僕もさまざまな手を使い、また他のサークルの人間関係なども利用させてもらい、どさくさまぎれで趣意書を通して、Tが気がついたときは本部としては許可した後という展開になった。それでもTは未練がましく「どこからフィルム借りたんや、え、××、あっこは高いことで有名やんけ、なんで一言事前に相談せえへんかったんや」「(お前に相談したら、ビートルズがらみは全部ヨヨギやと言われてつぶされるやんけ、ボケと心の底で思いながらも)あ、いっぺんな、相談しよう思って、そっちのボックスいったんやけど、なんや自分、風邪ひいて休んでいたやんけ、たかがうっとこの上映映画の話に、DプロのTさんに病を押して出てきてもらう訳にもいかんやんけ」「フン。まあ、ええわ。ところで、何ぼで借りたんや?」「いや、これこれの金額やけど」「あほか。お前は。こんなんあと3割は負けさせられるで、お前、文連の金やと思って適当に交渉したん違うか?まあええわ、今後、DRACの映画をやるときは事前に相談にこいや」「(誰が行くか、ボケェ、と腹の底で舌を出しながら)もちろん、そんな安くなるんやったら毎回頼むわ、やっぱ、餅は餅屋やんな~」。などという戦略会議があったことを知っている人は数少ないと思う。

 とまあ、本当はもっといろんな妨害工作というか、なんだかんだあったんだけど、無事76年の10月だったと思うけどバングラの映画は上映できた。で、その上映の日に、実はこのblogには珍しく、女の子の話が出てくる。というのも、その1週間ほど前に僕のサークルにいたE副というイケメンが河原町のグラスホッパーだったか、その手の洋酒パブで女子大生のグループをナンパして、たまたまその時E副と一緒に遊びに行っていた僕と、やはり同級生のN谷という男がそのおこぼれを頂戴して、時ならぬ恋の発情期を迎える話を書こうと思っていたけど、長くなりそうなのでまた次の機会にします。

 バングラディッシュのコンサートでもう一つ思い出したのは、確か71年のガッツというギター雑誌に連載していた加藤和彦のエッセイで、友人からバングラディッシュのコンサートの海賊版を送ってもらい、音はとても悪いのだけど雰囲気が同窓会みたいでとってもいい、とかまだ本来の3枚組のアルバムが出る前で、ディランを貸さないとCBSがごねてるけど、今回の企画の主催者はジョージなんだから快く貸してやれよ、ケツの穴が小さいぞ、みたいなことを書いていて、その文章がとても愛情あふれていてなんだかいいなと思ったことだった。バングラディッシュのライブアルバムはその後、ごついハードケースに入った3枚組としてCBSソニーから発売になった。僕の周囲には、そのアルバムを購入できるお金持ちはいなかったので、全然大嫌いな奴だったけどお金だけは持ってる奴がいて、僕はちょっと悔しかったけど、そいつに頭を下げてアルバムを借りた。もう名前も思い出したくないやつで、普段ロックなんか聴いてもいないくせに、歴史的メモリアルだからといって買い、まあ貸してくれたのであんまり悪く言うのもあれだけど、返した翌日に「お前、もっとレコード丁寧に扱えよ。指紋がいっぱいついていたぞ」と言われ、絶対そんなことはない、ちゃんとレコードスプレーで何度も噴き上げたというが「まあ、今回はオレが泣けばいいけど、他の奴にはそういうことをするなよ」などと説教しやがって、チクショー、と、僕の怒りは根が深いのだ。

 それと、もう一つ。高校時代に音楽専科とかその手の音楽雑誌を読んでいると、最後のほうに読者のコーナーがあって、そこに要らなくなったレコード売りますとか、買います、あるいは交換してくれませんかみたいなページがあった。当時、月の小遣いが2000円で、当時のアルバムがぴったし2000円(その少しあとから2000円を超えるのだけど、このときもCBSソニーは2500円という法外な金額に設定した。畜生、足元見やがって)。つまり、月に1枚レコード買ったら、その月は一切自由に使える小遣いがない。女の子とお茶を飲みにも行けないのだ。しょうがないから、親に参考書を買うからとか昼はパンを買うからと言って小金をちょろまかし、昼飯なぞ全然食わなくても平気でレコードを買っていたのだが、それでも追い付かない。じゃ、こういう雑誌のコーナーを作って売り買いや交換すればいいと思いつき、さっそくミッシェル・レコード・カンパニーというのをでっち上げた。名前の謂れは、当時僕が好きだったミッシェル・ポルナレフと略称がMRCとなり、地元のテレビ局MRTにちょっと似てるので、企業イメージがいいんじゃないかと思ったからだ。

 ま、それはいいが、そのミッシェル・レコード・カンパニーの最初の取引でバングラディッシュの海賊版を手に入れることができた。あれはお金で買ったんじゃなくて、何かのレコードと交換したんだけど、よく覚えていない。そのブートレグを送ってくれた相手が、要らないと思ったのかフォーチュンズの「雨のフィーリング」のシングルを一緒に入れていてくれて、それ以来僕はバングラディッシュのコンサートを聴くと「雨のフィーリング」のイントロが流れてくるのだ。ああ、寝る前に一気に書いたけど、またいろいろ思い出してきたので、このあたりの昔話をまた書くかもしれません。



それだけの話

 8月に入った。月が替わってうれしいのは、GYAOで映画『悪名』シリーズが更新されることだ。6月に偶然気がついて、それから7月、8月と月初に見ている。今日も、もちろん見た。『悪名一番』、1963年の作品である。東京オリンピックの前の年で、八尾の朝吉親分と清次がひょんなことから東京に出て、いろいろあって、今回は清次が囚われの身になってピンチになるのだが、最終的には当然であるが悪い奴らをどついて成敗するのである。勧善懲悪、見ていて気持ちがいい。ストーリーは単純だが、勝新と田宮二郎の名コンビぶりはいつ見ても愉快、痛快、奇奇怪怪(by 怪物くん)である。あ、でもこういう雰囲気は関西系の人でないと分かってもらえないかもしれない。僕自身も大学で関西に住まなければ『悪名』を面白がったりはしなかっただろうな。そうそう、今回はヒロインが江波杏子だったけど、綺麗でね、最初は范文雀かと思って、ドキドキして見ていました。結局、見終わっても誰だか分からなくて、ググってみたら江波杏子だったことが分かって、ちょっとビックリ。ラジオから流れるモダンジャズや、深夜喫茶ぽいシチュエーションもあって、ああ、こういうのが『フーテン』の時代背景なんだなと思って見てました。まあ、それだけの話なんだけどね。



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