今更日記

某月某日 連日、暑い日が続き油断しているうちに1週間が終わる。それどころか7月も今日までという慌ただしさである。1年の半分以上が過ぎたのだが、何も変わらない毎日が続いている。今日は、日曜日だったので思い切り朝寝坊しようと思っていたが、6時過ぎに目が覚めてしまった。二度寝しようと思って、頭を枕につけたら、寝る前にコチンコチンだった保冷剤が、こんにゃくみたいにぐにゃぐにゃになっていたので、冷蔵庫まで行って別の保冷剤を取出し、それをタオルで巻いて枕にした。次に目が覚めたのは11時前で、部屋中が熱気に包まれていた。ぼんやりした頭で起きだして、アイスコーヒーを飲みおなかがすいたので蕎麦を湯がいて食べた。何もする気が起きず、PCを立ち上げたもののただあっちいきこっち行きで、無目的にサイトをうろつく。こんなことしていてもどうしようもないよな、などと思いつつ今月半ばに行った。UMKのジャズナイトの放送があるので、録画した。そうこうするうちに、また眠くなりフローリングの床の冷たさを感じながら眠った。枕をしていなかったので、途中頭が痛くなり目が覚めた。押入れから枕を取出し、また寝た。今度は暑さが気になって寝つけず、起きて前日作っておいたカレーをスパゲッティと一緒に炒めて食べた。なんということもない日曜日がもうすぐ終わる。

某月某日 今日は仕事帰りに何気に立ち寄ったフルモトで江口寿史の『キャラ者』と諸星大二郎の『バイオの黙示録』を入手。以前、夜遅くテレビをつけたら突然「プックンです」という声が聞こえて、え、あれと思って見たら、間違いなくあのプックンが画面いっぱいに出ていて驚いたことがあった、確か教育チャンネルだったと思う。諸星大二郎のマンガは、例によっていわゆるSFではあるが想像力を刺激する話ばかり。ちょっと驚いたのは2000年から2008年まで足かけ9年かけて描いた作品を並べているのだが、見事に話がつながっている。途中で出てくる幕間劇が、狂言回しとして、あるいは次の話の導入部として効果的に使われている。この人の作品にはロマンを感じさせるものが多いのだが、今回は特に「案山子」のハードボイルドさに思わず涙してしまった。話を膨らませていけば長編SFか映画にでもなりそうな物語である。そうか、物語が不足しているんだ、今の僕にはとつくづく思う。

某月某日 SFつながりだが小松左京氏が亡くなった。日本SFの父と言える人だ。日本SFの母は星新一だろう。で、日本SFの放蕩息子(口笛吹ながらスポーツカーに乗ってやってきた、という形容詞をつけるべきだろうか)である筒井康隆氏、落ち込んでしまうのではないか。小松左京の作品は高校時代にむさぼるように読んだ。しかしながら、ほとんどの話を忘れている。『日本沈没』もコミックの単行本で最近読み直して、ああ、こういう話だったなと思い出したくらい。オートマチック・リベンジ・システムという、敵国に核をぶち込まれたら自動的に反撃する装置があって、結局、人類はみんな滅びてしまった地球の上を核ミサイルが何度も飛び交うというシチュエーションは『復活の日』だったか。当時のSFが絵空事にならない世界になりつつあることを、恐れながらも氏の「この危機は必ず乗り越えられる」的な楽観主義に身を任せてみたくなる。しかし、共同通信の金子文化部長の書いた評伝で「…代表作の『日本沈没』は、SF的手法にのっとりながら、成長の果実に浮かれたままで推移する日本社会への深い憂慮と警鐘が、込められていたと言えるだろう…」という表現には不快感を感じた。だーかーらー、SFというのは本来現代文明に対する「深い憂慮と警鐘」が込められているものなんだよ。単に科学的用語をまぶした荒唐無稽の話じゃないことくらいわからないのだろうか。このあたり。士農工商犬エスエフの時代から何も変わっていないんだな。

某月某日 訃報記事つながりで、中村とうよう氏が亡くなった。自殺らしい。僕はニュー・ミュージック・マガジン一派が大嫌いで、今でこそ本屋でたまに購入したりすることもあるが、若いころは蛇蝎のごとく嫌っていた。何がって、あの権威主義ですよ。お前ら、無知蒙昧の輩に、しょうがないから啓蒙してやるから、黙ってこれを聴いてありがたがれという姿勢ですよ。だいたいNMM持ってるやつってのはろくなのがいなかった。定期購読しているやつは大嫌いだった。どうしてかって?たとえばこちらが、あるミュージシャンが好きだとかいいというと、「ああ、彼××から影響受けててね、知ってるでしょう。××、あ、知らない、それじゃ彼の音楽分かったとは言えないね」みたいなスノビズムの塊みたいなやつばっかりだったの。中村とうよう氏の訃報記事が発表されてから、あちこちでとうようさんは偉大だったとか、影響受けたとか、その手のblogや日記をたくさん目にしたけど、ふーん、そんなもんですかとシカトしておりました。

 自殺と言えば、NMM一派の今野雄二も自殺だったけど関連性はないだろうな。小倉エージとか北中正和あたりは自殺なんかしそうにないし。そうそう、僕はなぜか小倉エージが雁屋哲と同一人物だと思い込んでいたことがあり、エントリーにもそういう話を書いたけど、当然別人28号だったけど、そのあたりは誤爆しても苦しゅうない。もう一つ、中村とうよう氏について書くと、名前が「とうよう」だけに右の人だと思われるかもしれないが、プチブルラジカルというか、中道現実やや左というか、ノンセクト市民連合みたいな人で、もしかしたらフェビアン協会の人じゃなかったのか、っていまどき使われない単語ばかり出たけど、まあ、そういうところもあわなかったですね。こんなこと書くと、心ある音楽ファンからは非難ごうごうかもしれないが、嫌いな人は嫌いだし、嫌なものは嫌だ。人のことなんか構ってられるか、オレはオレで大変なんだ。

某月某日 夏野菜が無性に食べたくなり、近所のスーパーで買い物しようとしたがどうも新鮮なものがなかったので、地元の農家の人たちが共同で出している市場まで買い物に行った。安いし、新鮮である。肉厚のピーマンが7,8個入って100円、ズッキーニじゃないのかと言いたくなるくらい成長したキュウリが4,5本入って100円、青首大根がそのままどんと置かれていて1本120円、ちょっと茶色くなったり虫が食べていたりするけど取り立ての枝豆が1パック150円、そのほかにも手作りのモロミ味噌や、青島で作ったテンプラ(魚のすり身を油で揚げたもの)や厚揚げ豆腐など、美味しそうなものばかり。手当たり次第に買って全部で1380円。レシートもらって思わず笑みが出たのは、キュウリいくら、ピーマンいくらではなく個人名が書いてあって、その後ろに金額が書いてある。つまり、この野菜などを作った人の名前がそのまま反映されている。自転車の荷台に買ったばかりの野菜を積み込んで、家に帰ってまずはそのまま短冊に切り、塩昆布とまぶして食べたら美味しかった。そのほかの野菜もたくさん買ったので、もったいないからカレーを作ったが、こちらはいまいち家族には不評であった。それはそうだ、つい2~3日前にも晩御飯にカレーが出たばかりだったからな。

某月某日 もういいか、こんな話書いていてもしょうがない。

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手抜きじゃない、エコです、エコ

 昨日、偶然見つけた「東電に入ろう」がとても面白かったので、他にないかなと思って探してみたら、ありました。同じく、高田渡の歌である「値上げ」を替え歌にして歌っていた。こちらも良くできている。



 「東電に入ろう」でバックコーラスをつけている女性が、リードボーカルをとってる「フランシーヌの場合」の替え歌もなかなか秀逸。もしかして歌ってるのは重信メイ?声が似ているけど、そんなことはないか。



 高田渡といえば、加川良がその弟子で「教訓Ⅰ」なんて歌を歌っていました。その替え歌は、なぎらが「教訓Ⅱ」として歌ってます。



 おっと反原発の替え歌は「教訓Ⅲ」でした。



 替え歌っていえば、やはり『カバーズ』から1曲入れたいということで、「明日なき世界」。



なるほどな



小林万里子、お元気そうで何よりである。

こういうのも、ありました。高田渡、今頃苦笑いしているであろうか。

王将カムズアゲインってF田イングリッシュか(笑)



性懲りもなく、王将でナーホである。王将アトザパーティである。本日は餃子とエンザーキを二人前、回鍋肉を一人前である。オーダー受けた店員、厨房に向かって叫んだ。

「餃子、から揚げ、リャンリャン、回鍋肉、イー」。だから、違うって(涙)。出前の王将行って勉強して来い!

先週のライブの話 ジャズナイト編 その3

 ジョージ川口とビッグ4の名前を知らない、ポンニチのジャズファンはいないはずだ。何しろ、初代のビッグ4はジョージ川口(ds)松本英彦(ts)中村八大(p)小野満(b)というそうそうたるメンバー。メンバーひとりひとりが日本のジャズの生き字引みたいな人たちで、たとえばジャズに全然興味がないという人でも、中村八大の作った歌を知らないという人はいないだろう。何しろ日本の有名なロックンロール(byキヨシロー)、「上を向いて歩こう」を作り、さらに六・八・九コンビで様々な名曲、ある意味スタンダードナンバーを作っている、と中村八大ばかり紹介したが、あとの人たちも八大に勝るとも劣らぬ名ミュージシャンである。そのジョージ川口の息子である、川口雷ニが父親の代から一緒に演奏しているビッグ4+1とボーカル・グループのBREEZEを率いての登場だ。メンバーは水橋孝(b)、市川秀男(pf)、川村裕司(ts)、岡野等(tp)、もちろんドラムは川口雷ニ。

 実は、僕は一度だけだがジョージ川口と話をしたことがある。ずいぶん前のエントリーにアップしたことがあるのだが、例によって余計な話をごちゃごちゃ付け加えているので、肝心なところだけ抜粋して、ここに載せます。これをエコ・blog・スタイルと呼ぶのはあなたの勝手である。

 それとこのアルバム(注:鈴木勲の『blow up』というアルバム)については後日談があり、僕が大学6回生のころ(恥)帰省して地元のジャズ喫茶に行った時のこと。あれ、ジャズ喫茶じゃないか、ライブも出来るしお酒が主体の店でスペイン語で「友達」という意味の単語を店の名前にしているところで、大上瑠利子並の恰幅のいいママさんとキリギリスみたいに細く、外見は哲学者みたいなマスターがやってるお店だった。結構宮崎のジャズファンとジャズファンを装ったスノッブが集う所で、生意気盛りの僕はよく店の二人に議論を吹っかけたりしていたが、軽くダッキングされて終わりというケースがほとんどだった。一度だけローカルナショナリズムと地方で有名なお店であることの自己満足についてマスターに絡んでいたところ、どこかで地雷を踏んだらしく初めて真顔で怒られた事があった。あら、話が逸れた。そのお店で日本のピアノでは菅野邦彦が一番好きだとそこに行くたびに吹聴していたのだ。ある晩県庁に勤めていた同級生と一緒にその店に行ったときの事、たしか平日の水曜か木曜で、客は僕たち二人きりだった。

 店のママが電話を終えて僕たちのところに来て「今からジョージが来るよ、もしかしたら菅野も来るかも」と言った。ビックリして聞き返すと、ツアーの途中だかなんだか分からないがジョージ大塚が他のジャズメンとオフで宮崎に来ており、今からウナギを食べにこの店に来るとの事だった。その店にもアップライトのピアノはあったので、菅野さんが来たら「エブリシング・ハプンズ・トゥ・ミー」をねだろうと待ち構えていた時だ。「よう!」と野太い声がしてカイゼル髯の小太りの男と痩せ気味の若そうな男が店に入ってきた。ジョージはジョージでも川口さんのほうで、一緒に来たのはベースの水橋孝さんだった。お二人は出前のウナギを黙々と食べ、その間は声をかけるのも憚れるような雰囲気だった。ようやく食べ終え、お茶を飲んでいるところをママが話しかけ、たまたま客の僕たち二人も会話に参加させてもらえた。

 一体全体どうしてジョージ大塚が川口になったのか、最後まで分からなかったが伝説の川口さんは本当に話の面白い人だった。川口さんは一滴もアルコールは口にしない。代わりにコーラを水代わりにがぶがぶ飲み。ライブの後はバケツで飲むそうだ(ほら、始まった。ジャズミュージシャン特有のホラ話だ)。ベトナムで米軍に護衛してもらいながら川で泳いだ話とか、後に本で読んだジョージ伝説のエピソードのいくつかを直接話してもらい、彼の独特な話し方と身振り手振りで全て本当の話と思ってしまうくらいの迫力だった。よく覚えているのはプロの手は、プロの手でドラムの練習のし過ぎで指が変形したとかなんとか言われ、調子に乗った僕が握手してもらい、ついでに水橋さんにも手を差し出したら「僕はまだ修行中だから」といって拒否された。その時の水橋さんの表情にいつかは自分もジョージさん以上のミュージシャンになるという決意を見たというのは、こちらの勝手な思い込みだったか。


 今から、ざっと30年前の話だが、その時はまだ若くて痩せた(今も痩せてはいるが)、へなちょこファンには利き腕は預けないというゴルゴ13的クールさの水橋孝が、ベースを弾いている。そしてドラムはジョージの息子だ。これでぐっと来なければ、血と涙の通っている人間ではない。また、管楽器がいい。特に岡野等のトランペットは空間を切り裂くというか、音がドームから空中へ、空に向かってまっしぐらに突き進んでいくようなサウンドだった。まずは、バンドで1曲やって、それからコーラス・グループのBREEZEが出てきた。男女2人ずつのメンバー構成で、ハーモニーを聴かせる。もっとも、今回急に組み合わせが決まったせいか、あるいはビッグ4+1の名前に遠慮があったのか、やや緊張して萎縮しているというか、ちょっとお邪魔させてもらいましたみたいなところがあって、かわいそうだった。このコーラス・グループを見ていたら、やはり30年ほど前のフェニックス・ジャズインで見たコーラス・グループを思い出した。デビューしたばかりの神崎オンザロードがバックを務めた、そのグループはITSといった。

 いや、実は、そのグループ名はすっかり忘れていたのだが、今回エントリーを書くために、川口雷ニのHPをチェックしていたら(彼のバイオグラフィーを見ていたら)、なんと1980年のところに「プロ入り。JAZZコーラスグループ、IT'sのバックバンドの関係からCMレコーディング。」という記述があり、僕がフェニックス・ジャズインでITSを見たのも、間違いなく1980年だったし、それ以上に長年忘れていたそのグループの名前が分かってうれしくなりググったら、またまた面白いことが判明した。ITSで検索したら、株式会社オフィスケイというHPにヒットして、そこの社長である東郷輝久氏のプロフィールを見ていたら1978年のところに「佐藤允彦氏の協力により、ジャズヴォーカルグループ『ITS(イッツ)』を結成。全国でコンサート活動を行い、人気を得る。」という項目があった。なるほど時系列的にはその通りだなと思いながら、その前の歴史を見ていたら。1965年のところに「故本田竹広(ママ)氏とソウルバンド『MOJO(モウジョ)』を結成。弘田三枝子氏、由美かおる氏等と全国を回り好評を得る。」という部分があった。最初は何気なく見ていたのだが。MOJOというバンド名に何か引っかかるものがあり、ぼんやり考えていたら、思い出した。

 頭脳警察を結成するはるか前に、ホリプロのGSである『ピーナッツバター』のベーシストとして参加したパンタが、もちろん、あの性格だからミリタリールックで失神サウンドを歌うGSなどに収まるわけがなく、すぐに脱退するのだが、その後に参加したバンドがMOJOで、本人も何かのインタビューで弘田三枝子のバックをしていた時期があると発言していたことがあった。おお、なんというめぐり合わせ。日本のジャズとロックのシンクロ。前のエントリーでパンタの義兄はジャズのトロンボーン奏者の故板谷博だということを書いたが、僕が見たり聴いたりした音楽で、これはいいなと気に入った音楽は、こういう形でリンクしていたのだ。この発見にちょっと僕は痺れたね。



 おやじ譲りの豪快なドラムで、川口雷ニのビッグ4+1の演奏は終わった。今回のイベントを担当している男女のMCが出てきて、昨年は口蹄疫でジャズナイトが開催できなかったが、今年は3.11などがあったにも関わらず、まただからこそこの会場内でも募金コーナーを設けているのだが、こういう風に盛大にイベントが出来てよかった、みたいな話をして、続けて、これから最後の演奏の前に花火を打ち上げます、昨年の予算が余っていたので今年は2年分派手に打ち上げますと盛り上げた。後ろを振り返ると一気に花火が打ち上げられて嫌でも夏のムードを盛り上げてくれた。さあ、いよいよラストのお笑いのおばちゃん、じゃない、綾戸智恵のライブだ。そうそう、この綾戸智恵のライブだけは最前列で見ようというY尾君の提案に従い、僕たちは最前線へと移動し、早く来てシートや椅子で見る場所を確保している真面目な市民の隙間にもぐりこんだ。目の前はステージだ、と言いたかったが、実は最前線を陣取ってる団体がいて、しかもその前にはレールが2か所並行して敷かれていて、そこにはテレビカメラが左右に移動して視界を遮る。ここでちょっと報道関係にクレームを申し上げたい。なぜ、君たちはさも当然のような顔をして、一番前に陣取り、しかも人力で、つまりは己の足で移動しながら映すならまだしも、レールの上にトロッコみたいなもの乗っけて、助手に押させて左右に動き、ここだというときは止まって撮影をするのだ。その後ろにいる人間は視界が遮られて見づらいだろう。そんなことも分からないのか。いつから我が国はこのように他人の痛みや苦しみが分からない国になったのか。あ、コイズミの頃から、そりゃ間違いない。

 で、まあ、出てきました、体は小さいが声と態度はめちゃくちゃでかい介護のおばちゃん、我等が綾戸智恵。テレビなどで見て、小さいなぁと思ったことがあったが、実物は本当に小さい。しかし、声は本当に大きく張りがある。トークも芸人かと思うくらい流暢でツボを押さえていて笑わせる。今回はニューアルバムのプロモーションを兼ねたライブだったので営業トークも多かったが、嫌味がないんだよね。「せっかく新しいアルバム出したのにプロモーションを会社任せに出来まっか?何でも人任せはあかんちゅうねん。もう、そんなんは自分でやらんと誰もしてくれまへんがな。これから歌う歌聴いて、ええな、思たら、後ろのテントに仰山CD積んでますから、お父さん、買うてや、あ、今ちゃいますよ。歌聴いてからでええんですから、もうほんま年寄りは気が短くてあかんわ」みたいなことを延々とやるのだ。笑わせるツボと聴かせるツボをしっかり持ってるおばちゃんである。メンバーは宮野弘紀(g)、金子雄太(org)、西嶋徹(b)、田中倫明(perc)、それに綾戸智恵のピアノとボーカルである。ピアノがあるのに、オルガンってのはと思ったけど、いいんだなこれが。オブリガードみたいに使ったり、リードを交代で弾いたり、そうそう、ロックで言えばザ・バンドみたいな感じだったな。

 ニューアルバムからの曲を主にやったのだが、突然MCで「トム・ウェイツいうおっさんがおりましてな、これ、あんまり売れへんおっさんやけど、ええ歌書きますねん。あんまりヒットはせえへんけど、私が日本で歌ってヒットさせたろと思てうとてますねん。曲は『’Ol 55』ていいます」。なんと、僕の大好きな(初期の)トム・ウェイツのナンバーだ。原曲より若干黒っぽいアレンジだったが、そんなに大仰な感じではなくピアノとともに歌い上げてくれた。朝早く起きて女の家を出て行かなくてはならない、その切なさを歌った歌だが、綾戸智恵の歌声はトム以上に切なかった。



 演奏が終わり、盛大な拍手で送られたあと、当然アンコールの拍手は止まない。その拍手にこたえて、またもやメンバーが出てきた。あれ、ちょっと人数多くね(このあたりの表現、ヤングやね~)。なんと綾戸智恵のグループのほかにサックスの川嶋、コーラスのBREEZE、トランペットの岡野、さらにゲストボーカルでこのイベントのオープニングを飾った阿川泰子も登場した。曲は「スウィングしなけりゃ意味がない」。いやもう、みんなで大盛り上がり。綾戸智恵がアドリブでゲストミュージシャンをおちょくる。阿川泰子には「かわいいやんけ、かわいいやんけ、オバハンやけど、ほんまはオバハンやけど」とか、「川嶋、川嶋、元サラリーマンの川嶋」とかもう言いたい放題である。阿川泰子も負けずと言い返すのだが、声の太さと大きさで負けていましたね。で、アンコールはまさかのこれ1曲。拍手が響き渡る中、登場した男女のMCはブーイングの嵐の中ひたすらお詫びしていました。とまあ、なんとかジャズナイトのレポートを終わります。しかし、やっぱり1バンド40分じゃ物足りない。やはり地元のジャズ現場をしっかり追いかけねばの娘だ。

先週のライブの話 ジャズナイト編 その2

※お断り~これまで「ジャムナイト」と表記していましたが、「ジャズナイト」と訂正します。

 そういえば、平賀マリカがMCで話したことが印象的だった。「宮崎に来れてうれしい」というのは、まあ一般的にこういう場ではみんないうことだが、その後に続けた話が「実は、去年も招待されていたんですが、昨年は例の口蹄疫で中止になってとても残念でした。もっとも地元の人たちはもっと大変だったでしょうが」みたいな感じで、それを聞きながら、そうか、去年の今頃はとどまることを知らない口蹄疫で、ありとあらゆるイベントや行事が中止になったっけ。ようやく口蹄疫も収まり、今年はいい年になるかと思ったら新燃岳の噴火、それが少し静かになったかと思ったら3.11である。さらに、それに続いて起こった福島の原発事故。そういえば、制服向上委員会もフジロックに参加して、脱原発の歌(「ダッ!ダッ!脱・原発の歌」ってタイトル見たときは、なんじゃこれはと思ったが、結構聴ける)を歌うはずだったが、その歌を歌うならステージに上げないという圧力がスポンサーサイドからかかったらしい。全くどうしようもないな、『カバーズ』の頃から、何一つ変わっちゃいない。おっと、話がまたあらぬ方向に行きそうなので、ジャズナイトの話に戻る。

 平賀マリカのCDを購入して、ほくほく顔で自分の席に戻って、例によってY尾君とこれまでに見た2人の歌姫のステージをああでもない、こうでもないとお互い感想を述べ合っているうちに、あたりはすっかり暗くなった。今回のジャズナイトはテーマが「Natural Voice Colors」というもので、すべて女性シンガーのライブというのが売りだった。ただ、ボーカルばっかり5組も聴くというのは、ちょっとしんどい。というか、少し物足りない。やはりジャズなら、管楽器が聴きたい。はらわたにしみこむサックスや脳髄にきりきり入ってくるトランペットなんぞを聴きたい、というのが偽らざるところである。トップバッターの阿川泰子のバンドにはサックスが入っていたが、歌伴に徹していて、なんちゅうか、ほんちゅうか、アドリブちゅうか即興ちゅうか、ま、そのズージャがズージャたりうる、レーゾンデートルっちゅうか、その、ほら、みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ、とでもいいますか、などとだんだん誰のことを書いているのかネタバレになりそうなのだが、次に出てきたのはチカシンガーwith椎名豊トリオ+川嶋哲郎であった。

 大変恥ずかしい話だが、僕はこのチカシンガーというのが誰だか全く知らなかった。フライヤーの写真やジャズナイトのホームページの写真を見ると、お、結構色っぽい豊島、違った年増じゃないか、やはり大人のオンナは違うね、若いだけのおねいさんだと出ない色気だね、みたいなことを考えながら鼻の下を伸ばしていたことを、決して否定しないが、その日ステージに上がってきた人は一瞬、亀淵友香か大上留利子、あるいは森公美子(そういえば、以前ヤフーの知恵袋で「森公美子という太った女性の歌手は、どのくらいの量の大便をするのですか?」という質問を見て、まあびっくりしたことがあった。一番びっくりしたのは、そういうトンデモな質問に対して「体内に栄養分が蓄積されるので、案外出す量は少ないかも。」などと真面目に回答している人間がいるということだった。このあたり、『ウェブはバカと暇人のもの』の考え方に激しく同意する)というのは言い過ぎだが、紅毛碧眼人があいさつ代わりにするハグというやつをしたら、絶対両手は背中に届かないだろうと思われる、いや、その、まあ、そういう重量感ある年配(年増じゃないよ)のシンガーが出てきた。

 歌はさすがにお上手である。ただそれ以上に、管どうした、じゃなかった感動したのは、やはり男川嶋の泣きのサックスだった。これだよ、これ、こういうのじわ~っと聴きたいんよワシ、ボーカル抜いてピアノトリオをバックに2セット吹きまくってくれと言いたくなる。おっと、メンバーを書き忘れるところだった。椎名 豊(pf)、本川 悠平(b)、広瀬 潤次(ds)、川嶋 哲郎(sax)というメンバー。チカシンガーというのは、先ほどの前フリで気がつかれた人がいるかもしれないが、あの「なんつったってああた、めんたんぴん、三色、どらどらばんばん、ばかったれ、てなもんで(by 畠山桃内)」と言えば分るというか「せーの、どん、さすが三択の女王お見事」といったらいいのか、どちらにしてもネタは古いが、あの大橋巨泉の次女である。残念ながら、彼女の歌はYOU TUBEになかったので、ここは川嶋のサックスを貼っておく。



 今回のジャズナイトは女性ボーカルばかり5組出るライブだということは書いたが、登場するシンガーそれぞれが一家言あるというか、一枚看板でやってる人たちだが、次に登場したドンバはちょっと違った。当初の予定ではTiffanyというLA出身のジャズ・シンガーだったが、「東日本大震災の影響で来日出来ない(主催者側発表)」になって、急遽BREEZEというコーラスグループが出ることになったようだ。しかし、「東日本大震災の影響」だなんて奥歯に物が挟まったような言い訳せずに、はっきりと「原発事故のため」と書く(言う)べきだろう。LA出身ということから、ジャクソン・ブラウンらのNO NUKESの仲間である可能性あるな、いや、シンパか。なんて話はさておいて、要するに後の4組のシンガーたちの表記は歌手名プラスバックミュージシャンという形なのだが、このグループはバンマスとバンド名が最初、それにボーカル(実際はボーカルグループね)がくっついているという感じだ。そりゃ、そうだろう、あの故ジョージ川口が率いたビッグ4なんだから。

 というところで、スマン、眠くてしょうがない。続きは明日書くので勘弁してください、つっても誰も読んでない罠(笑)。♪いいんだ、いいんだと~、はやり歌口にして~(by センチ)。

先週のライブの話 ジャムナイト編 その1

 話は、香月さんのラストライブの前の居酒屋に戻る。タナボタでジャムナイトのチケットが手に入ったので、Y尾君と翌日の段取りを話し合った。「開場が17時で開演が18時だから、夕方のバスで行くか」と僕が言うと、「じゃ、ネットで時間を調べて適当なやつを見つけておいてくれよ。それから飲み物や食べ物は現地だと高いので、事前に買って持込みしよう」「まあ、それはいいけど、バスの時間が分かったら電話すればいいのか」「いや、メールでいい」「ちょ、待てよ、お前、メール見ないから気がつかないだろうが」「いや、最近は見るようにしているから大丈夫(笑)」。という会話があったのだ。実は、Y尾君は携帯でメールが出来るようになったのは、つい最近、正確に言うと今年になってからである。以前は、Reでメールの返信が出来ることを知らず、こちらが送ったメールの返事をいちいち新しく送ってくるし、しかもそれが平気で4~5日過ぎてからなので、いったい何の要件だったのか、自分の送ったメールをいちいち確認しなければならないこともあったのだ。PCのメールに至っては未だに使えない。ヤフーでもグーグルでも、フリーアドレス作れば細かな連絡も写真や音源などのデータも送受信できるというが頑なに拒否している。何しろつい昨年までは、「用事があったら会社に電話しろ」などと平気で言っていたから恐れ入る。ライブの誘いや飲み会の誘いを、そう頻繁に会社に電話できるかって。まあ、今回はタダ券ゲットといういい仕事をしてくれたので、これ以上は書かない。

 で、翌日、いろいろ調べたら臨時バスや路線バスなどあるが、あまり早くいって炎天下、熱中症になるのも嫌だったので、16時02分発か30分発のバスで、しかも始発のバスターミナルが僕の家の近くだし、そこにはダイ×ーも入っているので飲み物や食べ物もより取り見取りなので、バスの発車時間より少し早めにそのバスターミナル(ちなみに宮交シティといいます。宮交とは宮崎交通という地元の皆様の足として観光宮崎を支えている企業ですが、近年の不景気や観光客の減少でなかなか経営も大変で、って、そんなローカル経済話はいいか)に集合しようとメールするが、返信なし。多分、メールに気がついてないなと思って、電話するとドライブモードになっている。まあ、まだ15時だし、そのうち着信に気がついて電話があるだろうと高をくくっていたが、待てど暮らせど音沙汰なし。少しイラついて、メールをまた送ったが、やはり返信が来ない。電話してもドライブモードのまま。だいたい、本当に運転しているのか。携帯が億劫なので、ドライブモードにしたままじゃないのか、などの疑念がわく15時45分。おい、もう16時02分には間に合わないぞ、いったい何やってるんだ。

 やきもきした僕は、一人で買い物を済ませて会場で待っていようと思い、リュックにタオルやクーラーボックス、折り畳みの椅子など詰めて、さあ、出かけようと思って立ち上がったところ腰が砕けた。チケットはY尾君しか持っていない。いくら会場入り口で待っていても、彼が来なければ入れない。そう、前売り券が完売したので、当日券は無いとテレビでも放送していたのだ。困った。そうこうするうちに16時半を過ぎた。こりゃ、何かアクシデントがあって、ライブに行けなくなったのかな、だったらしょうがないから家でCDでも聴きながら、ビールでも飲もうかと開き直っていたら、携帯が鳴った。「ごめん、ごめん、メール見たけど、ちょっとバスの時間が早いね。17時くらいのは無いの」「あ、17時17分てのがあるな」「うん、それがいいが、それで悪いけど飲み物と食べ物はそっちが買ってくれんか」「分かった。じゃ17時10分くらいには宮交シティに行くから」。冷静な会話が出来た自分を褒めてあげたかった。ふつう、怒るな、うん。

 近くの市場で、飲み物とつまみや食べ物を買い込んで、宮交シティに着いたら、Y尾君がワンコインパスというものがあると教えてくれた。土日に限り500円でバス乗り放題というもので、ここから会場であるシーガイアまで普通の運賃だと620円。往復で1240円になるのだが、このパスだと500円でOKだという。なかなかいい話だと、即購入して、久しぶりにバスに乗ってシーガイアに向かった(この時車内で飲んでる写真はアップしました)。しかし、いつもは自分の運転する車で走る街並みも、バスに揺られて眺めるとずいぶん違った景色に見える。車の振動にビールの酔いも回ってきて、いい感じである。500円で乗り放題ってのはいいな、休みの日は缶ビールと文庫本を片手に終日バスに揺られるというのも、なかなか男のロマンではないかと思う。まあ、このあたりの価値観は所詮、オンナコドモにはわからない。これ間違いありません。自宅で配偶者とバカ娘たちに話したら、鼻先で否定された。自分ひとりバスに乗って楽しむのではなくて、家族を楽しませろ、このところライブに行ってばかりだが、家族をどう思っているのかとか、たまには旅行に連れて行けとか、志の低いことしか言わないので(以下省略)。

 18時ジャストにシーガイアに着いた。バスを降りると、それ風な人たちが列を作って歩いている。念のため、ホテルのスタッフに会場を聞くと、歩いて3分のところにあるという。指差した方向に歩いていくと、松林が見えてきて、ステージや売店のテントなどが見えてきた。通路が吹き抜けになっており、潮風が気持ちいい。入り口でチケットを渡し、ドーム状になっているステージのほうに歩きかけると、軽快なメロディが流れてくる。「あれ、A列車のイントロ違うか」「ん、あの声は阿川泰子?」。大慌てで、ステージの見える方向に向かうと、はるか先でシックなドレスを着た阿川泰子が気持ちよさそうに歌っていた。



 ステージから10メートルほど離れたところに空きスペースを見つけたので、そこに椅子を置いてリュックをおろし、クーラーボックスと食べ物の入ったビニール袋を置いて、さっそく2本目の缶ビールに手を伸ばした。MCで阿川泰子が「宮崎に来るのは、もう300年ぶりかしら。昔は、オールナイトのジャズインなんてありましたけど、もう覚えている方はいらっしゃらないのでは?」などとくすぐりを入れてくれる。久しぶりに聴く(見る)阿川泰子は、やはりそれなりの年輪を重ねてはいるものの、相変わらず派手でゴージャスで、昔はシュガーボイスなんて言われた声も相変わらず色っぽい。曲はスタンダードばかりで耳になじんだ曲ばかり。しかし、今回のジャムナイトの目玉は綾戸智恵と阿川泰子の二人だと思っていたので、こんな明るい時間に登場してくるとは思わなかった。そして、まだまだ太陽は残っているのだが少しずつ夕暮れっぽい感じになり、このメロディが流れた。



 書き忘れたが、バックを務めたのは村岡建(sax)、古野光昭(b)、市原康(ds)、松本峰明(pf)。例のくすぐりMCの中で「宮崎に来たのは300年ぶりだけど、松本さんと知り合ったのは600年前だわ」などと言っていたっけ(笑)。しかし、阿川泰子って笠井紀美子とイメージがダブるところがあるけど、どっちが先輩なんだ?

 阿川泰子のステージは40分ほどで終わった。会場は盛り上がっていて、アンコールの拍手が続いたが、地元のテレビ局のアナウンサー二人が出てきてショーは終わったと説明があった。今回、ジャムナイトで一番不満だったのは、セット時間が短すぎるということ。限られた時間内で5つのグループを見せなければいけない、というのも分かるが、もう少し時間配分の調整は出来なかったのか。18時に始まり、5つのグループが演奏して、最後の綾戸智恵のグループとゲストメンバーでアンコール1曲やって、終わったのが22時30分くらい。もちろん、ミュージシャンが入れ替わるときは、セッティングがあるのでインターバルが15分程度あるから、正味40分、下手したら35分くらいのステージしか出来ない(見られない)。いい演奏が多かっただけに、消化不良というか、もっとやらせろ、もっと見せろ、もっと聴かせろというストレスはあったが、まあ、気に入ったミュージシャンはCDを買うなり、単独のライブやコンサートに行けということなのか。

 阿川泰子が終わり、次に登場したのは平賀マリカ。地元出身で昨日一緒に話をさせてもらった荒武 裕一朗(pf)を初めとして、バックは生沼 邦夫(b)、力武 誠(ds)というピアノ・トリオ・スタイル。この平賀マリカが凄かった、良かった、個人的には今回のジャムナイト見てよかったと思わせるステージだった。オープニングはバート・バカラックの曲で「雨にぬれても」。B.J.トーマスの大ヒット曲で、多くのミュージシャンがカバーしているが、どちらかというと男性ボーカルに向いてると思っていた曲だが、いやいやどうして、なかなか、われらがマリカ姫はじっくり歌って聴かせるんですよ。で、彼女のMCとかライブのスタイルが、どこかで見たことがあるような、何か懐かしい感じがしていたのだが、ステージ見ていてはたと気がつきました。忌野清志郎だ。われらがボスだ。コールアンドレスポンスのスタイルやMCの口調が清志郎クリソツ。僕のこの判断は、彼女がラストの曲の途中で言ったこの言葉で確信に変わった。「最後まで聴いていただきありがとうございました。愛してま~す」。



 彼女の名前は不覚にも知らなかったが、調べてみると、もう知る人ぞ知る実力派シンガーで、ええと、その、こういうことを書くと誤解する人が出て困るのだが、ゴホン、美人シンガーでも有名であった。この日は大きな縞のドレスを着ていて、まるでジラーフのようだった。大変申し訳なかったが、最初の阿川泰子の声がかすんでしまうというか、シュガーボイスというのは、今はもう平賀マリカの声に対していうべきじゃないかとまで思ってしまった。バックの演奏も、荒武さんのピアノを中心にメロディもリズムもシャープで小気味いい。それと選曲がカーペンターズとか懐かしいヒットポップス中心で、いわゆるジャズ・ジャズしてなくて会場のお客さんもすんなり彼女の世界に入って行けたと思う。圧巻は「イエスタディ・ワンス・モア」の時で♪Every Sha-la-la-la Every Wo-o-wo-o Still shinesのフレーズをお客さんに歌わせるのだが、最初はまばらだった声が彼女のアジテーション(こういう単語は不適切か、笑)で、一気にヒートアップして、最後は会場中から歌声が聴こえるという、小憎らしい演出であった。

 平賀マリカのライブが終わり、第2弾トイレに行かねばの娘を実行した後に、会場周囲を歩いてみた。飲み物や食べ物のブースもあって、7,8年前に当時勤めていた会社の取引先の関係で、チケットを買わされ最悪なことにその日仕事があって、夜10時くらいにネクタイ姿でジャムナイトに行ったことがあるのだが、そのときは飲み物や食べ物がバカ高かった記憶があった。今回パトロールした結果、焼きそば300円とか地鶏500円とか結構お手頃価格で、こりゃ無理して持込みなどせずに、テントの屋台なんぞを冷やかすのも手だななどと考えた。さらにうろうろしているとCDのブースを見つけてしまい、当然平賀マリカのCDを手に取っていろいろ比較検討して、売り場のバイトの子に「どのCD買ったらマリカ姫のポスター付くの?」などと、尋ねるようなことはしてません。廃。マイケル・フランクスとランディ・ブレッカーが入っているボサノバのアルバムを買ったのだが、なんと僕がジャズを聴くきっかけになったフィル・ウッズも入っていて、クリビツテンギョウ。いい買い物でした。というところで、お話は後半に続きます。



言い訳日記、あるいはこの間のライブ日記 その2

 15日の金曜日は、香月さんのラスト・ライブなので、いつものY尾君はもとより、昨年から親しくなったワカイモン(といってもどちらも30代なのだが)も半強制的に誘ってライフタイムに行くことにしていた。もちろん、今回のライブは20時開演なので、その前にいつもの居酒屋で18時過ぎに集合ということにしていた。脱メタボ闘争を革命的に闘い続けているワタクシは、今回も自宅から居酒屋まで歩いて向かうことにした。もちろん、宮崎の7月の夕方は太陽ギラギラ、ビルの谷間(by エレカシ)であり、その中を走れ、熱いなら(by Panta)とばかりに、一目散に目的地に向かうワタクシの姿があったはずだ。それはまるで、一度は裏切ろうとしながらも、いやそんなことをしては人間の風上にも置けない、と気を取り直して走るメロスの姿にも似ていた、と言えなくもないのではないかと二重否定を使いすぎて、意味が混乱しているけど、それくらい暑い中を信号に間に合うよう走ったり、汗を拭き拭き歩いたりして、いつもの居酒屋に着いたのは今回も18時を少し回ったころだった。

 例によってY尾君は中ジョッキをもうほとんど空にしていて、その横にある小皿に残った水分と皿の端にへばりついている黄土色の残骸から、「おでん、大根と厚揚げ、うーん、あと一つは、これはちょっと待てよ、そのかすかに残った繊維質からしてゴボ天、どや、間違いないやろ」とエルキュール・ポアロか隅の老人かというような名推理を働かしたが、ミステリをほとんど読まなかったY尾君には通じなかった。しょうがないので、「あ、オレも生1杯、それからおでんで、こんにゃくと厚揚げね、それから豚バラと鳥皮とネギマを各2本」と力強く宣言した。注文した品が出てきて、「まあまあ」、「それじゃ、お疲れ」とかなんとか言いながら乾杯した後、Y尾君がおもむろに、「お前、UMKのジャムナイト、行ったことあるか」と聞いてきた。自慢ではないが、昔のジャズ・インだったら何度も見に行ったが、フェニックス・グループが撤退というか倒産して、その後地元の放送局が冠になって、しかもジャズの日が1日、ラップだとかその手の若者音楽の日が1日の2日間のイベントになってから、まともに行ったことはない。だいたい、俺んち電子レンジ(むろん、これはオレ×ジ・レ×ジ)なんてバンドのライブなんか見てられるか、そう伝えると、「いや、オレも行ったことはなかったし、ジャムナイトで5000円使うくらいなら、地元のミュージシャンのライブを2回見たほうがいいと思っていたんだけど」、と何やら奥歯にものの挟まったようなことをいう。

 前回は、彼の鬼平に対する熱き思いをおちょくりながら聞いていたので、今回はおとなしく話を聞いていたら、とんでもない話に変わっていった。「それで、会社の同僚にジャムナイトのことを聞かれたので、さっきみたいなことを言ったら、『じゃあ、誰かほかの人がいいかな』なんていうから、よくよく話を聞いてみたら、そいつはチケット買ったけど、どうしても都合がつかなくなったから、代わりに行かないかという話で」と、おもむろに茶封筒からチケットとフライヤーを取り出した。よく見たら、チケットは2枚ある。「てーと、なにかい、そのお方が野暮用で当日行けない代わりにこちとらに行ってくれとそういう訳かい」とワタクシ、突然時代劇の登場人物にジャガーチェンジして聞いてみた。「うん、お前、行くか」「郁々、いや違った、行く行く」、ということで、急遽、翌日のジャムナイトへの参戦が決まった。

 さあ、そうなると人間、あっさり態度が変わるもので、実は一昨年のサリナ・ジョーンズは見たかったとか、今年は女性ボーカリストばっかりだけど、阿川泰子もずいぶん懐かしいし、綾戸智恵はこの前のローカルバラエティで地元のアナウンサーとセッション(そのアナウンサーがアマチュアながらトロンボーンを長いことやっており、マジで2曲セッションしたのを偶然見たのだ)してたとか、口調は急速にジャムナイト、なかなかいい企画じゃないかという話になりつつあったら、今回はY尾君が爆弾発言をした。

 「実はオレ、UMKの就職の面接で4次までいったっちゃわ~」「へー。4次つったら、ほとんど最終面接みたいなもんやけど、なあ」「そこでね、向こうの面接官から『君はうちの会社に入ったら何をしたいか』と聞かれて、オレは胸を張って『フェニックス・ジャズインを城島ジャズ・インに負けない日本一のジャズのイベントにします』って言いきったわけよ。」「ほー、なかなかにチャレンジャーというか向こう見ずというか、♪若さゆえ~なやーみー、若さゆえ~くるしむ~初めての~」「歌はもういい。で、相手の面接官は確かにちょっと感動したと思うっちゃわ。ただ、オレの場合そのあとのことを考えてなかった」「え、というと?」「面接官が『わかりました、そのほかにあなたが私たちの会社に入ってやりたいということを教えてください』と聞かれたから、オレは『別にありません』って答えたんよ。」「はい?いや、お前、そりゃジャズ・インを日本一のイベントにするって立派だけどよ、放送局のメイン業務じゃないだろう、ふつう、他の目標っていうか、本来の目標って考えておくもんだろ」「いや、オレはジャズ・インを日本一のイベントにするしかなかった」「いや、そら、あかんやろ」「おう、だからUMKは落ちた」。Y尾君の名誉のために書いておくと、彼はその後地元の大手の会社にしっかり就職して、現在に至っている。

 というような、バカ話をしているうちにワカイモンもやってきて、やはり人数が増えると話も盛り上がるし、飲み食いも勢いがつく。大いに飲んで食べているうちに時計は、はや19時半を過ぎている。前回、20時前に行ったら満席だったという苦い体験をしているので、二度と同じ轍を踏まないよう、その段階で居酒屋を切り上げて、ライフタイムに向かった。2階の踊り場に長机が出ていると不味いなと思いつつ、階段を上った。しかし、店の扉を開けるとやはりほぼ満席。空いてるのは後ろのカウンターくらいだった。それでも、前のほうをよく見てみると、いつもシルバーシートと呼んでる壁際の席のところに空いてる椅子がいくつかあった。大急ぎでそこに行き、とりあえず4人無事に座れた。場所的にはステージ向かって左側のところで、目の前にマイクが立っている。

 開演の時間になり、いつもの香月バンドが登場した。と、思ったらベースがレギュラーメンバーの諏訪園君ではなく、以前のメンバーである海江田君だ。香月さんのMCで、諏訪園君は突然福岡への出張が入ったので、出演できなくなり、急遽、鹿児島にいる海江田君を呼んだらしい。こういうところが、いかにも地元のバンドというか、セミプロのミュージシャンって感じで、応援したくなる所以である。今日が、正真正銘、宮崎での最後のライブになるので、それまでにいろいろ関係のあった人たちにメールしたら、こんなにたくさんの人が来てくれた、どうもありがとうというお礼の言葉からライブは始まった。

 例によって、まずはユーフォニウムの演奏から始まった。彼女を初めて見たのは2006年のニュー・レトロ・クラブでのクリスマス・イベントで、僕の目的はその日のゲスト・バンドのリトル・ジャイブ・ボーイズだった。その日に30年以上ぶりに藤井君と恵副君を見て大いに盛り上がったのだが、彼らの演奏の前に、そのイベントの企画グループの演奏があり、そこで香月さんの歌と楽器を聴いたのが最初だった。ほとんどアマチュアばかりの演奏者の中で、香月さんの歌と楽器は完全に突出していた。お金を払ってでも見たい(聴きたい)と思える音だった。今年は6月に藤井君のソロ・ライブを見ることができて、その1か月後に香月さんのラスト・ライブを見ているのかと思うと、一瞬、ぐっと来た。こういう縁というのは不思議で、その不思議さは翌日のジャムナイトの演奏メンバーの中でも見つけるのだが、それは別の話だ。

 香月さんのことばかり書いてしまったが、僕たちが彼女のライブを見に行くようになってから、バンドメンバーはほとんど変化がない。あ、ベースが諏訪園君から海江田君になり、またもや諏訪園君になったというのと、ドラムが、そう、ドラムが最初はライフタイムのマスターである草野さんが叩いていたのだが、香月さんのお兄さんの宏文さんが宮崎に戻ってきてからバンドに加わり、リズムが一気に締まった。いや、草野さんの時は締まらなかったとかそういう意味じゃないんですよ、とここは素早くフォローを入れる、気配りの男、drac-obであった(笑)。そういう意味では唯一不動のピアノが大西洋介さんで、彼のリリカルなピアノが香月さんの伸びのある声によく合っていた。

 えーと、僕はどうしてもボーカリストとしての香月保乃を見てしまうので、彼女のもう一つの楽器であるユーフォニウム(ユーフォニアム)についての記述が少なくなる。というか、最初にあの楽器見たときはチューバだと思ったくらいで、でんでん知らなかったのだ。音色は暖かいというか、おっとりしたなんていうのか、非常に人間ポイ。サックスやトランペットは金属的に聞こえることがあるが、ユーフォニウムはまるで肝っ玉母さんというか陽気な未亡人というか、まあ、そんな音色なのよ、って読んでる人はわからないだろうから、自分で調べて聴いてみてください。ここでは、ボーカリスト香月保乃の話しかでてこないのだ。



 楽器の演奏が終わり、マイクを持ち歌い始めたのは「サマー・タイム」だった。日本の原発は安全です、ってやつじゃない。それはRCの「サマータイム・ブルース」だ。「サマー・タイム」は、これはもうワールド・ワイドのスタンダードで、本当にたくさんの人が歌っているが、僕が一番好きなのはジャニス・ジョップリンの歌ってるやつ。バックはエレキバンドだけど、もうブルースが満タン状態で、特に深夜一人で聴くと鳥肌が立つこともあった。それに近い感覚を持ったのが、何年か前に廃店舗でのライブを聴いたカルメン・マキ。あの時は最強トリオだったから、板橋文夫のピアノに太田恵資のバイオリンで、そういえば太田恵資さんとはこの間のストリートで立ち話が出来たっけ、とトッショリの思い出話は終わりがない。

 次に歌ったのは、意外や意外。ビートルズの、それもホワイト・アルバムの収録曲の「ブラックバード」。以前から、香月さんのライブの時にはオジサンたちのキラーチューンである70年代ポップスを歌ってくれたのだが、ビートルズナンバーはやったことがあったっけ。まあ、僕が聴いていないだけかもしれないのだが。原曲はポールがアコギ一本で歌っている、切々とした歌。暗闇の中に希望を求めて飛ぶブラックバードは、ビートルズ解散後、ウィングス率いたポールが「ブルーバード」として『バンド・オン・ザ・ラン』の中に録音していると僕は勝手に判断している。最初の曲目紹介の時に、香月さんが「ジョンの曲です」といったので、黙ってりゃいいのに、おせっかいなワタクシが演奏後に「ポールの曲だよ」と声をかけたら、律儀に訂正のアナウンスをしていたっけ。うーん、こういう素直なところは見習わないといけないな。



 そうそう、うれしいハプニングもあった。翌日のジャムナイトに参戦するため宮崎入りしていたピアニストの荒武裕一郎(宮崎市出身)が、ライフタイムに来ており、草野さんの計らいでデュオで1曲やってくれた。曲は「Misty」。ここでは本格的なジャズ・ボーカルをしっとり歌ってくれた。荒武さんは、このほかにもその日ライフタイムに来ていた女性の人たちの歌伴をやってくれた。余談だが、演奏終了後、酔っぱらったY尾君が「オレはフェニックス・ジャズ・インを日本一のイベントにしたかったが、それをUMKの面接官はわかってくれなかった」という話を荒武さんにも話してしまい、それを聞いた荒武さん大いに受けて、明日UMKの社長を紹介するから15:30からのパーティに出てきたらとまで言ってくれた。いや、もちろんリップサービスだけど。荒武さんは、宮崎出身のいろいろなミュージシャンの話もしてくれて、ギタリストの西藤大信はメロディ・メイカーであるとか、以前ポレポレ(宮崎にあるジャズのライブハウス、週末のみ営業)で宮里陽太と古地克成と一緒に演奏した時の話など、面白い話ばかりだったがちょっとここには書けない。



 デジカメで録画していたのだが、やはりバッテリーと2GBのカードのため限界が来てしまい、そのあと歌った「ア・ソング・フォー・ユー」は途中で切れてしまった。カーペンターズのヒット曲であるが、僕はオリジナルのレオン・ラッセルの歌とピアノが一番気に入っている。いやー、男の色気ってんですか、少し狂気をはらんだ歌声が、何とも言えないんですよね。レオン・ラッセルのカーペンターズ提供曲では、そのあとのシングルになった「スーパー・スター」のほうが有名であるが、あの歌を別の立場から歌った「グルーピー」というテイクは、やはりレオン・ラッセルの名演・名唱の一つだよな、などと、ここでもオジサンの妄想はネバー・エンディング・ストーリーなのだ。

 それでも、時間は過ぎていきライブもツー・セット終わり、香月さんの宮崎での最後の演奏も終了した。花束を抱えて、集まったお客さんにお礼を言ってバンドは演奏をやめた。さあ、そのあとが大変だった。草野さんがマイクを持ってスピーチをするのはいいのだが、最初はこんなにたくさん来てくれてありがとうという話だったのに、途中から本音が出て、毎月1回定期的にやってた時は来なくて、ガラガラだったぞ、もっとライブに足を運べ、この野郎というもので、それもデジカメで録画したのだが、さすがにこれをアップすると本人から確実にクレームが来ると思って自粛。一人で見直して苦笑しております。しかし、香月さんも8月からニュー・ヨークに渡り、向こうの学校に入って勉強するというから、最低でも2年間はライブが見られないのだが、今はYOU TUBEやU-STなんて便利なものがあるから、時々は音を聴かせてくれるとうれしいね。あ、My Spaceもあるか。以前、渡米していた時はニューヨーク日記てのをアップしていたし、今回もまたそういう形で元気な様子を見せてくれるのだろうが、次回はどこまで成長して戻ってくるか楽しみである。体に気をつけて、頑張りすぎないように行ってらっしゃい。2年たったら、オレも40代か、とどうして最後の最後で大嘘書くのか、ワタクシは!!

言い訳日記、あるいはこの間のライブ日記

 雨の降る音を聞きながら、発作的に思い出した中学の頃の話を書いていたのだが、例によって最初に思い出した記憶にたどり着けぬまま、修学旅行や当時の有名人の話など横道にそれまくっていた。しかし、本日はそれも中休み。時はいきなり、現代に戻り、この前の土曜日(先々週です。これ書き始めたのは11日の月曜だったけど、それからまた日が過ぎてしまいました)の話を書く。拙blogで何度か書いているが、地元宮崎のジャズシーンをボーカルとユーフォニウムでけん引している香月保乃さんが、この夏またしてもニュー・ヨークに音楽修行に行くことになった、という話は書いたような気がするが定かではない。調べるのも面倒なので、ここはひとつ書いたということで納得してくれないか、お互い大人だ、無駄な摩擦は避けよう、などという馴れ合い、談合体質が競争を阻み、さまざまな弊害をもたらすのだという正論大好き君はこの際黙っていてくれ。そういうやつが出てくると、話がこじれる。所詮、ガキの正義感を振り回したところで世の中どうにもならんのよ、などといういい方には断固反対してきたワタクシではありましたが、まあ最近とみに人間が丸くなり、昔はその手の発言に対しては「なんやワレ」的態度で首尾一貫していたのだが、最近は「まあまあまあ」とか「いやー、ご無理ごもっとも」とか「あんたが大将、あんたが社長(by九州出身の説教癖のある元フォークシンガー、短足長髪がトレードマークで尊敬する人物が坂本竜馬というヒントではなかなかわからないかな、ってオレ今日いつもより饒舌だな。いかん、男は日に尊、違った、三言だ)」的態度に変わりつつある人生後半なのだ。しかも、本当は日曜日(つまり10日の日曜日ですね)にはこの話は書いておこうと思っていたのだ。

 しかしながら、15日の香月さんのラストライブの前に、なにやら別バンドで客演するらしいという情報をライフタイムのHPでゲットし、それが9日の土曜日ということで、ではしばらく会えないので11日、15日と連荘でライブを見に行ってはいけないだろうか、いやそんなことはないという反語的解釈で、例によってY尾君とS藤君を誘って行くことにした。しかし、物事は事前の準備が大切というか、せっかくHPでライブのスケジュールを確認したら、開演時間も確認しておけばいいのに、どうせいつものように20時開演だろうから、それまではいつもの居酒屋で腹ごなししておけばいいと思ったのが、ちょっとした判断ミスだった。

みんなの十字軍

 とりあえず、夕方の18時にいつもの居酒屋集合という形にしたのだが、S藤君は仕事の関係で直接ライブハウスに来るという。僕はY尾君を待たせてはいかんと思いつつも、普段運動らしい運動もしていないので、自宅からその居酒屋までは歩いて15~20分程度、歩数にして2500歩というところなので、脱メタボ闘争貫徹のために歩いていくことにした。しかし、7月の夕方というのはまだまだ太陽ギラギラ、ビルの谷間(by エレカシ)で、その日差しを受けながら帽子もかぶらず歩いていると、途中気が遠くなりそうで、しかし、こういう場合も人生Walk On(by ニール・ヤング)だと意地で歩いていると携帯が鳴った。出てみるとY尾君で、いつもの居酒屋が閉まっているので、駅の近くのガード下の焼鳥屋に変更したという。やれ、うれしや、いつもの居酒屋からさらに10分、歩数にして約1200歩も増える。歩け、歩け、幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだ、1日1歩3日で3歩、3歩進んでオレは絶対下がらんぞ、などと半分錯乱する頭で熱中症と闘いながら、その店についたのは18時を少し回っていた。

 先に来ていたY尾君は、店の奥のテーブルで早くも地鶏を魚に生ジョッキをもうほとんど空にしていた。見ると彼の顔や手も真っ赤である。どうした、また新燃岳の灰の撤去にでも行ってたのかと尋ねるとゴルフだという。朝5時に起きて、準備をして8時スタートで炎天下ヘロヘロになりながらボールを叩いていたという。僕は自慢ではないが、あのプチブル的娯楽であるゴルフというのに興味がなくて、まあ、それでもジャンボ尾崎がフェニックス・トーナメントを3連覇するときは見に行ったりしたこともあったが、あの広い敷地に小さなボールを追いかけて、途中砂場や池があったりして、なんだか良く分からないのだが一定の回数以内に穴に入れれば勝ちとか負けとか、杭を越えたら悔いが残るとか(ここ、洒落です)、まあ、ルールや道具も良く分からないので口をはさむのは止めた。あ、そうはいっても何度か大きな大会で優勝して記念品をもらったことはある。みんなのゴルフの2だったか3だったか、ってゲームだ、そりゃ。

 彼はゴルフのスコアとか、その状況を聞いてほしそうだったが、僕自身が全く関心がないのでスルーしていたら、突然妙なことを言い出した。「おい、オレはここ1~2週間くらい、ずっとジャズのCDを1枚も聴いていない」「へー、まあ、そういうこともあるんちゃうか」「その代わりにはまったものがある」「(興味なさげに)ふーん、何にはまった?」「時代劇、特に鬼平犯科帳はいいぞ、最高だ」「…、は?おに、鬼平?」「おお、お前も見ろ、人生で大切なことは全部鬼平にあるぞ」。まあ、昔から深夜放送だとか中間小説や山登りとか一旦はまると限度というものを知らない男だったが、いったいどうして時代劇にはまったのか、詳しく聞いてみると、実は大学のころからテレビは時代劇しか見ないという友達がいたらしく、もちろんY尾君もついこの間まで、時代劇には特別な思い入れもなかったので、その友達の趣味については相手にしてなかったらしい。しかし、何かの拍子で鬼平犯科帳を1作見てしまい、1作見たらついもう1作、またもやもう1作と次々DVDをレンタルしてしまい、全部で120話くらいある鬼平のドラマの半数、60話ほど見てしまったらしい。そして、そのことを時代劇ファンのその友達に告白したら、彼は破顔一笑「お前もようやく人生が分かったか」と言われて、いたく感激したらしい。

 しかし、いったい鬼平の何がそんなにおもしろいのかと尋ねてみたら、「登場人物が全員脛に傷をもっているところがいい」という。要するに、完全無欠のスーパーヒーローなどおらず、主人公の鬼平ですら若いころは乱暴ばかりしていた旗本退屈男で、多岐川裕美演じる奥方も以前「テゴメ」(こういう単語を聞いたのは何十年ぶりだろうか、美しい日本語は残さなければいかんなぁ。「新鉢を割る」なんていう言葉も死語になって幾星霜である)にされたことがあるとか、鬼平を慕う密偵の梶芽衣子が拷問で苦しめられても口を割らないのはどうたらこうたら、とにかく歌舞伎役者の中村吉右衛門が主役をやっているので、出てくるレギュラーの役者もいいが、ゲストで山田五十鈴とかものすごい役者が出ているので、お前も一度見ろと延々とまくし立てられた。

 まあ、ワタクシはこういう性格なので、彼が熱弁をふるうごとに「あ、多岐川裕美、デビュー作は『聖獣学園』だったよな、その節は大変お世話になりました」とか「梶芽衣子、『さそり』や、『さそり』。ちなみに東アジア反日武装戦線が登場した時に劇画型カゲキハの登場って言われたんだよな」とか「池波正太郎といえば、やっぱ『必殺仕掛人』の藤枝梅安でしょう。オレタチが高校生の頃、土曜の深夜に『木枯らし紋次郎』をやってて、その裏番組が『必殺仕掛人』だったよな。仕掛人はお金で依頼された悪人を殺すという、どちらかというと痛快な話だったけど、紋次郎は常にイッツ・ツー・レイトの話ばかりで、それでも関わりたくないといいながら関わらざるを得ないところなんかは、やはり実存主義的だったな、うん」とかわけのわからない話で挑発するのだが乗ってこない。まあ、こちらの話に付き合ってるとキリも果てもないので、長年の友人である彼はよく心得ている。

 その中で、唯一彼が反応したのは鬼平のテーマ曲や劇中の挿入曲が実にいいという話から、時代劇のテーマ曲はずいぶん変わったという話になり、必殺シリーズは音楽がマカロニ・ウェスタン調でなかなか良かったが、一番よかったのは西崎みどりが歌った「旅愁」だという結論に達した。そして、そのときに実はワタクシ、西崎みどりのファンでデビューアルバムとセカンドアルバムは、今は亡きH楽器店で予約購入しポスターもゲットしたという話をつい酒の勢いでしゃべってしまい、デビューアルバムにはあの浅田美代子が歌った「赤い風船」も収録されており、同じ歌なのに表現者が違うとこうも違うものかと驚いた話をしているうちに、そろそろライブ開演の時間となった。

 そのお店を出て、オッサン二人はふらふら歩きながらライフタイムに向かった。時間はもうすぐ20時、いつものライブなら十分間に合うはずだった。が、ライフタイムの入っているビルの1階に来たら、上のほうから何やら音がする。あれ、もう始まってるのかと思いながら階段を上がると、2階の踊り場のところに長机が置いてあり、そこにチケット売りの女の子がいた。え、こんなの初めてだとちょっと戸惑いながら、「もう始まってるの」と聞くと、2曲目の途中だという。大急ぎでお金を払って、ライフタイムの扉を開けると、見たことのない光景が広がっていた。満員御礼というか、鮨詰状態である。香月さんのライブはかれこれ片手では数えられないくらい来ているのだが、こんなに客が多いのは初めてというか、なんだか学園祭のライブ会場に来たみたいに若者が全席を陣取っている。僕たちはマスターに挨拶する間もなく、ようやく見つけた丸椅子を確保し、入り口のドアを背にして座った。テーブルもないから、飲み物も持ったままである。

 よいこの十字軍と名乗るそのバンドはトロンボーンがバンマスで、ピアノとベースが香月さんのいつものバンドメンバーで、そのほかにもギターとドラムが参加していて、かなりにぎやかな感じだった。バンマスのMCからクルセイダーズのコピーをしているから「十字軍」と名乗っていることを知った。演奏はというと、ギターがなかなか張り切っていて楽しかったな。それ以上に、今年見た香月さんはユーフォニウムの演奏しか見せてくれず、歌を歌ってくれなかったのだが、このバンドではかなり歌ってくれた。楽器6:歌4くらいの割合か。R&Bやジャズのスタンダードなど、これまで聴いたことのあるものばかりだったが、宮崎でのライブもあと1回しかないことから、全員が送り出す気持ちのこもったいい演奏でした。僕は持ってきたデジカメを使って、彼女の歌を録画していたら、マスターの草野さんから「保乃とは、しばらく会えなくなるからしっかり撮っておけよ」と言われ、思わず「15日も来ますのでよろしく」と答えたら、マイクがそれを拾っており、そのこともあって、YOU TUBEへのアップは断念した。

 しかし、ステージから離れたところで、望遠で録画していたので画像も荒いし音声もきちんと拾えてなかったが、セカンドセットだったか、板谷博(パンタの義兄で、故人。というより、元生活向上委員会のメンバーといったほうが通りはいいか。パンタのファースト・ソロ・アルバムで「Pantax’s Horns」として、向井滋春と一緒にトロンボーンを吹きまくっており、その演奏は鬼気迫るものがあった)のアレンジによる「ネイマ」を演奏したのだが、これが良かった。途中のギターソロも良かったが、バンドが一つになってエンディングにもつれこんでいくところは、まだ終わるなモッタイナイというココロであった。

ギターソロ

 ファースト・セットが終わった時に、ステージから降りる香月さんに挨拶して、15日も来るから頑張ってくださいと伝えた以外は特に面白い話もなく、ただ、セカンド・セットが終わって、アンコールの時に草野さんがメンバーの何人かに居残りを指示して、強制セッションが始まり、これもまた楽しかった。メンバーにトランペットが加わり、ベースは以前香月バンドだったメンバーに変わって、そうそう、ドラムは御大草野さんで「ルート66」を演奏。なんだかやたら饒舌なライブだったという印象でした。演奏が終わって、客がざわざわしているところを携帯に撮り、blogにアップした。テーマは、昔から追求してきたジャズ喫茶に出没する謎の美少女(たち)についてだ。いや、本当にきれいな女の子がたくさん聴きに来ていたんです。もちろん、普段のライブにもぽつぽつと来てはいたのですが、このときは多かった。あれだけたくさんいるんだから、一人くらいは何とかなるだろうとトラタヌ計算をしていたのだが、オジサンにテイクアウトの力量はなく、というか、ワタクシがナンパすると営利誘拐と間違われる危険性が高く、場合によっては青少年なんたら条例にひっかかる可能性もあり、泣く泣く断念した次第です、Purpleさん。そうそう、結局、S藤君は仕事が忙しく参加できず、夜中にお詫びメールが来たんだけど、まあしょうがないっちゃしょうがない。ということで、次回は香月バンド・ラスト・ライブと棚から牡丹餅とはこのことですみたいなお話をアップします。というか、こういう話は自分自身の備忘録だから、誰も読まないか(笑)。

セッション

まさかの阿川泰子から



バスが着いたのが、ジャスト6時。歩いて三分の会場に入ると「A列車」のメロディーが、え、この声は阿川泰子?ラス前に登場すると思ってた大御所がオープニングアクトで登場。夕日と浜風を浴びながら、「イパネマの娘」を聴く。


この歌が終わったら、トイレに行かねばの娘である。

ライブの前、あるいはクズオブニンゲン



フェニックスUMKのジャズナイトジャムナイトのチケットが手に入ったので、バスに乗って会場に向かってるところ。僕は止めたのだが、チケットをゲットしたY尾君が、車内で軽く一杯やろうと言い出した。しょうがないからつき合うった。



ライブは、これからなのに大丈夫か、ワタクシ。

整然とした人達



香月さんのラストライブの前に、どんなんかなって思って来たライブ。若い衆ばっかりで、以前提示したジャズ喫茶における謎の美少女というテーマをもう一度考えたくなった。

かわいいおねいさんばっかりで、もう限界です。ジャガーチェンジします。ケダモノです。

何じゃ、この店は


炎天下の中、反メタボ闘争を貫徹するために、街中を自転車に乗って(by 高田渡)、走行中に発見したロック食堂。良く見たら堂の字に、濁音がついてる。ロックじょぐどう?トーホグの人が、避難してきて開業したのか。

謎を解くために、入ろうとしたら閉まっていた。残念だが、もし営業していたら反メタボ闘争が敗北していたかもしれない。桑原、桑原、桑原茂一。

発作的昔話の4、修学旅行の重い話・軽い話

 K平さんのコメントを読んで、思い出したことがあった。何年か前に家族で長崎旅行をしたことがあって、それは今でも楽しい記憶として残っているのだが、何故だか中学時代に2年連続で修学旅行で長崎に行ったことがすっかり頭の中から消えていた。その消えていた記憶が甦る勤労、闘うドーロー千葉、じゃないか、甦る金嬉老、これも違うっていうか蘇られたらちょっと怖いような話を聞いてみたいような、もとい、甦る金狼とばかりに脳内再生されたことを少し書いて、前回の続きとしたい。あ、甦るシリーズの言葉遊びの落ちは松田優作の映画のタイトルだからね、ってこういうことをいちいちエクスキューズしないと話が通じない時代になったのは嘆かわしいことに、僕もジジィの仲間入りしたからか。

 K平さんのご指摘の通り、宮崎の中学校の修学旅行は初日熊本を経由して長崎入りして、翌日グラバー邸だとか、平和公園だとか大浦天主堂を見学するのだが、バスガイドさんの解説でかなりインパクトのあったことがいくつかある。最初に長崎に向かって走っていくときに、長崎は沢山の歌になったみたいな説明があり、我々クソガキ集団は「知ってる、知ってる、クールファイブの♪長崎は今日もあめぇ(ここちょっとひっくり返るのがミソだったね)だった~」とか「春日八郎の『長崎の女(ひと)』もあるぞ」とか「長崎から船に乗って神戸に着いた~」、というのは71年の8月のヒットだからありえないのだが、まあそんなことを勝手にワイワイ言ってたら、ガイドさんが実に色っぽい歌を教えてくれた。「長崎の夜はむらさき」である。パープルナイトインナガサキである。ん、違うか。とにかく歌詞の意味も分からず、ちょっとエキゾチックなメロディだったので一発で覚えて、修学旅行が終わって何気に自宅で歌っていたらオヤジから怒られた。修学旅行で何を学んできたか、と言われたのだが、もちろん原爆の悲惨さもしっかり見てきたし、ちょっと前にも書いたが、まだ当時は傷痍軍人もいた(もちろん、中には偽者もいたのだろうが太平洋戦争の爪痕としての傷ついた兵隊さんという存在を認識するのにやぶさかではなかった)。

 その原爆の悲惨さは、もちろん平和公園でしっかり見てきたが、頭に刷り込まれたのは、やはりガイドさんの教えてくれた「6つの女の子」という歌だった。歌詞は未だにはっきり覚えている。何しろイントロが♪扉を叩くのは私、あなたのあなたの胸にひびくでしょう、
小さな声が聞こえるでしょう、あたしの姿は見えないの、というショッキングな歌詞と物悲しいメロディは一度聴いたら、耳に残り忘れられなかった。歌詞の最後に実は、その女の子は原爆のため6歳で亡くなったということが語られる。ここまで書いて、記憶が間違ってないかググってみたら、なんとこの歌「死んだ女の子」というタイトルで元ちとせなんかが歌ってるんだね。でんでん、知らなかった。ずっと「むっつの女の子」だと思い込んでいた。たぶん、ご存知の方も多いだろう。歌詞もアレンジも全然違っているけど、教授と元ちとせバージョンの動画を貼っておきます。ただ、僕がガイドさんから教わったメロディと歌詞はここにリンク貼っておきます。



 しかし、平和公園で見たさまざまな写真や資料は強烈な印象だったし、浦上天主堂なども見て当時、ややネオ・ライト的だったワタクシのココロに反ゲンバク、ノーモアウォー、ベトナムに平和を、ベトナム観光公社にも平和を的な印象を強烈に残した歌であった。まあ、イメージが強烈だっただけにある時期からすっかり忘れてしまったのかもしれない。

 おっと、今日は長崎の話ではなくて実は我がポンニチを明治維新から支えてきた製鉄業の見学の話を書こうと思っていたのだ。ご存じのように明治維新以降のスローガンというのは富国強兵・殖産興業であり、もうこれは読んで字のごとく産業興して国力付けて進め一億火の玉だとばかりにいてまえ路線に突っ走れというぶるじょわいでおろぎーで、こういうのをフンサイしたがったのが先進的学友諸君であったことは間違いない、あ、いかん、こういうヤクザなことからはちょっと距離を置かないと。

 えーと気を取りなおして、実は修学旅行というのは物見遊山の旅ではない(延岡のM中学の指導主事のおっかない先生がこういったから間違いない)。義務教育が終わろうかという時期に、広くあちこちの土地や風物を見て彼我の違いを認識したり、各地の産業はどうなっているのか、また文化的な差異はどれほどあるのか、そういうことを学ぶのが本来の狙いであるから、土産物屋でペナントや提灯や木刀を買って、その地にお金を落とすという経済的な効果も確かにないとは言わないが、女子の風呂を覗くとか夜、女の子の部屋に忍び込み彼我の体形の違い、いわゆる生きたジェンダー教育を受けるということも大きな目的で、仮にそれが貫徹できなくても、やろうと志すところに青春の門はあるのだ。あ、その、話がちょっとそれたか。

 いやね、その中3の修学旅行に結局行ったんですが。3日目の昼は終日、新日鉄の工場見学が組まれていて、確かお昼を食べた後、バスが工場に入り、そこで我らがガイドさんは降りてしまい代わりに新日鉄の社員がバスに乗り込み、工場を案内するという段取りであった。1年前に、全く同じコースをたどった僕には、全然面白くないところで、まあそれでも一人だけ見学しませんというわけにいかないので、冴えない中年の眼鏡をかけたオッサンのぼそぼそ話す解説を聞きながら、工場見学をしていたその時だった。同じクラスの陸上部だった奴が「なあなあ、あの説明している人、もしかしたら君原と違うかな?」などと聞いてきた。「君原?あのマラソンの?オリンピック選手の?」と僕は半信半疑だったが、確かに良く似ている。痩せた体形はまさしくマラソンランナーのものだし、そういえば眼鏡をかけていたな、でも他人の空似じゃないだろうか。でも君原は新日鉄(当時は八幡製鉄という方が通りが良かったけど)だったしな。と疑問を持ちながらも確信は持てなかった。

 工場見学は2時間ほどだったろうか、最後のほうはその男性の説明を静かに聞いてる生徒はほとんどおらず、「君原?」「キミハラかな」「キミハラじゃないんじゃない」「いやキミハラだって」などというひそひそ声が飛び交う始末だった。ようやく工場見学が終わりに近づき、その男性は「最後に何か質問はありますか」と尋ねた。「ハイッ」と真っ先に手を挙げたのは、もちろんワタクシで、その勢いにつられて「じゃ君」とせっかく指名してくれたのに、僕の質問は日本の重工業における新日鉄の位置づけだとか、世界と比較した製鉄技術などではなく「すいません。ガイドさんのお名前は何ですか」であった。ちょっとためらいながらも、その男性は「キミハラといいます」。ウォーというどよめきが湧き上がり、当時からイチビリだった僕は「すいません。ここにお名前とご住所お願いします」と生徒手帳を出した。

 流石は天下の君原健二、嫌な顔一つせず生徒手帳に名前と住所を書いてくれた。結局、その後は誰も質問せず、それぞれが持っていたカメラ(デジカメなんてなかった。白黒フィルムを入れたペンタックスかちょっとお嬢さんお坊ちゃん連中はポラロイドなんか持ってたからパチパチ写真を撮っていたな。僕はコダクロームで写真を撮った。前はニコンを持っていたんだけど、ママに取り上げられて、ってポール・サイモンかオレは!)で、一緒に写真を撮ったり、僕に釣られた連中がサインをせびって、もうこれ以上は勘弁してと言われたり、いやー、そんなことがありました。で、どうして名前と住所なぞ希望したかというとお礼状を書こうとおもっていたのだ。しかし、思うだけで実行しなければ意味はないとケストナーが言ってるように、僕はその生徒手帳は机の奥にしまいこんだままで次の学校に転校したのだった。この続きはWebで、って、ここがWebと違うんか。まだまだ続く中学3年日記です。



発作的昔話の3、中学の事もやれば思い出せるのだ

 梅雨は明けたはずなのに、またしても連日激しい雨が続いている。今朝、某国営放送の天気予報を見ていたら「九州地区の南部に停滞している梅雨前線が…」と、はっきり言いやがった。え、梅雨明け宣言したんと違います?それとも、宣言は撤回ですか?いや、いいんですよ、間違いなんて誰でもある。不当人事だって、あっちゃいけないけど、元に戻せばみんな笑顔で解決するんです。このところの天候不順は、間違いありません。半井さんのタタリです。早急に午後7時30分の天気予報に彼女をカムバックさせるように、関係者各位にお願いしたい。と、相変わらず、天気と言えば半井さんを思い出して、心が痛む。心は痛むが、物事には起承転結というものが必要で、とりわけ雨が降るのを眺めているときに、発作的に思い出した厨房時代の話の続きに入る。今日こそは、話にけりをつけるのだ。

 F城地区から中学に通うようになり、あ、その前に転校したばかりの日のことを思い出した。父親に連れられて、O淀中学校という学校に行った。僕が、前の年まで通っていた延岡の中学校は2つの小学校が全児童、そしてもう1つの小学校から確か三分の一くらい通っていたので、クラス数も8クラスあり、大きいというほどは無かったが、それなりの規模の中学校だった。ところが、今度通うことになったO淀中は、全クラスが確か12ほどあった。1組から12組まであったような気がする。何しろ2か月しかいなかったので、正確な数字は覚えていないが、10クラスは優にあった。で、その中学で僕が入るクラスの担任が、これは偶然だろうが、僕が通っていた延岡の中学の出身ということもあり、かなりいい感じで受け入れてもらった。簡単な挨拶と自己紹介をした後、新しいクラスに連れて行かれたのだが、回りの生徒はみんな坊主頭である。宮崎は県庁所在地なので、中学生も長髪だと聞いていたのだが、あれはウソだったのか。恐る恐る担任の先生に聞いてみたら、以前は長髪だったが、生徒会で議題が上がり多数決で坊主に決まったと言われた。うーむ、多数決で坊主か、納得いかんがしょうがない。などと、考えていると、もうクラスの入り口である。先生からクラスの全員に僕の紹介があり、その後自己紹介をするよう言われたので、適当に挨拶した。いや、適当な話をしたということではなく、まあ当たり障りのない挨拶をしたということだ。

 学校を転向、こらこら誰が義務教育でイデオロギーの話をするんじゃ、転校のほうだ、学校を転向転校(書いたときは気がつかなかったが、またもや字を間違えていた。汗)経験のある人は分かると思うが、転校生として新しい教室に入るときはプレッシャーがある。すぐにクラスになじむことは出来るだろうか。いじめられたりしないだろうか。教科書は同じだろうか。習ってるところは一緒だろうか。その学校やクラスなりの流儀にすんなり入ることが出来るだろうか。まあ、簡単に言うと新たな共同体に受け入れられるかどうか、受け入れてもらうために儀式はあるだろうがなるべく穏便なものがいいな、みたいな、ね、わかるでしょ。

 まあ、転校生を受け入れる連中も好奇心満点の視線で、こちらを見るのだが最初の接触を求めてくるのは比較的道化的な立場の生徒が多いような気がする。クラスの大物というかドンみたいなのは、「やあ、君がdrac-ob君か。何だ、延岡から来たのか。夏目漱石が『坊ちゃん』の中で『人と猿が半々に住んでいる』と断言していた延岡、いや、失敬、今は立派な企業城下町だよね。旭化成がくしゃみしたら町中が風邪をこじらせて、インフルエンザになるという、え、ならない、またまたご謙遜を」みたいなことは絶対言わない。それどころか、自分の手下のちょっとひょうきんぽいのをレポとして繰り出して、転校生の人となりや戦闘能力、経済力などをチェックし、①取り込む、②手下にする、③しばらく様子を見る、④いじめる、みたいな対応を決めるんだな、これが。

 幸い、そのクラスにはその手のドンはいなかったようで、最初に接触してきた奴も気さくな感じの男で、結構すんなりクラスにはなじむことが出来た。転校生との会話は、最初は彼我の違い、つまり君のところの学校はどうだった、でもこの学校はこうだよ、で、当然自分たちの学校の方が進んでいるというか正しいんだみたいな話になる。その時も、いろいろその手の話をしていたら、相手が突然「今度修学旅行があるけど、うちの学校は北九州方面を3泊4日で行くんだ(どうだ、凄いだろう。延岡あたりの中学じゃ、せいぜい別府あたりに1泊二日だろ、地獄めぐりしかできないところだったけど、運よくこちらの学校に来れて良かったよな、な、な。みたいな優位性を含んでいたことは間違いないと思う)」などというので、「え、修学旅行は去年行った」。「ウソ?」「いや行ったよ、行きました」「ど、どうせ別府あたりに1泊二日じゃないの、こちらは福岡とか博多とか北九州に行くんだぜ」「(いや、それ全部福岡県なんですけど、と思いながらも転校生は口に出さず、下から行くのだ)うん、全部行った。3泊4日だから結構楽しかった」。

 この会話で僕は修学旅行のオーソリティの立場を確保し、彼らが回る予定の計画表やガイドブック(いやガリ版で刷って、ホッチキスで止めてる粗末なものだけど)を見せてもらったら、ああら不思議、1年前に僕が行ったパターンと全く同じ。要するに旅行代理店の企画が全く一緒だったということだろう。それで、僕は各観光スポットの情報、お土産の種類や値段、つまり木刀はどこで買ったら安いとかペナントや提灯はここで買えとか、このあたりには傷痍軍人がいて手風琴を回しながら募金箱を出してくるので、日本男児なら浄財を寄付せよ(すんません、このころはどっちか言うと映画の陸軍中野学校のファンだったので、てーこく軍人大好きっ子だったのよ、わはは)などと、中3男子ならではの、ナイスなアドバイスをしていた。

 その日は家に帰って、新しいクラスの事やその日の出来事みたいなことを親に話して「そうそう、宮崎の中学は3年生の時に修学旅行があるんだって。オレはもう行ったから行かなくていいよね」と相談したら、両親ともちょっと妙な顔で「え、まあ、でも早く友達が出来るから行った方がいいよ」などという。その当時は、尊敬する人物が二宮尊徳だったので、それは無駄というもので、まず第一にお金が無駄、第二に同じところに二度行って学ぶことが無い知的無駄、さらに宮崎の中学生が3泊4日で遊びほうけているその隙に、一気に城を落とすのが戦の常道、ゆめゆめ油断なさるな、なんてことは絶対思わず、考えず、二つ返事で「ラッキー、また修学旅行に行ける」と喜ぶような小人物だったので、オレは出世できなかったというか、成功しなかったんだろうなと反省することしきりです。

 それで、修学旅行は二度行くことになった。こんなところでツキを使ったせいか、高校は修学旅行の無い学校に行ってしまい、ずいぶん寂しい思いもしたが、まあそれはそれで仕方がない。

 そのO淀中学校でちょっとびっくりした話をもう一つ。僕は中3の新学期から、その学校に行き始めたので、当然すべての授業が初めてであったが、これはもともとの在校生も同じで、4月から新しいクラスになって、各教科の先生も、もちろん全学年前学年からの継続もあったけど、転勤で新しく来た先生もいる。で、最初の体育の授業の時だった。体育の先生は前の学年と同じなので、やり方は変わらないみたいなことは聞いていたのだが、体育の最初の授業は体育館で行われると伝達事項があった。体操着に着替えて、体育館に行くと、全員が勝手に倉庫からバレーボールを持ち出してきて、サーブやスパイクの練習を始める。これには、僕はクリビツテンギョウ。僕がいた中学では、教師の許可というか指示が無い限り、勝手にボールや教材を持ち出すなどもってのほかで、そんなことしようものならぶん殴られたり、教師の虫の居所が悪かったら廊下に正座なんて当たり前だのクラッカーであった。その廊下も板張りです。フローリングなんてしゃれたものではなく、あちこちに節があって、ささくれていて裸足で歩いたら間違いなくけがをするような板の間の廊下に正座。これはキキます。そして、その廊下を歩く教師たちは正座をしている生徒に必ず「わら、なんしたとか(お前は何をしたのか)」と尋ね、聞かれた方は自分のやったことを素直に言うと「ほー。お前はワシントンのごつあるね(お前はワシントンのようだ=正直だ)」と言って、手に持った出席簿の角の所で必ず、こちらの坊主頭を小突く。これがまた痛い。

 というようなウルトラ体罰学校にいたもんで、まあ、みんなが好き勝手にボールで遊んでいる(あれはどう見てもバレーの練習じゃなくて、単なる遊びだった)姿をみて、こいつらは恐いということを知らないのだろうかとひとりビビっておりました。そこへ、ボンレスハムがジャージを着たらこうなる、と言わんばかりの体育の先生が来て、首から下げた笛を一気に吹いた。その鋭角的な音を聴いて、これは間違いなく全員ビンタだね、と思っていた僕に、その先生は一言「ハイ、止め。今日は器械体操をやります」で終わり。はああ、どうなってるんだ、この学校は、ぬるい、あまりにぬるいやないけ。こんなんで集団生活のルールは守られません。もっと規律ある行動を、などと当時のネオ・ライト少年だったワタクシは思うのでした。あ~あ、また本筋に行きつかなかった。

 オマケ。僕が延岡の中学校で最初に受けた体罰。入学してまだ3日もたってなかったと思う。それぞれのクラスでホームルームが行われ、僕のいたクラスは正規の時間に終わり、僕は、先ほど出て来た板の間の廊下を下校するために一人で歩いていた。アフタースクールの気安さからか、思わず「街の明かりがとても綺麗ね、ヨコハマ~」と当時流行していた歌を口ずさんだ。ガラガラと木製の窓が開いて、鬼瓦みたいな教師が僕をにらんで「わら、何組のもんか(お前は何組の人間か?)」と叫んだ。僕は直立不動の姿勢を取り「ハイッ、1年6組のdrac-obです」と腹の底から声を出した。「おまえんクラスはもう終わったかもしれんが、こんクラスはまだやりよっちゃが、そこにおまえん上手な歌が聞こえてきたかい、みんな気が抜けてしもたが(お前のクラスは…以下略、大体わかりますな、はい)」。「はい、すいませんでした」「すいませんですむか、そこんすわっちょけ!!!」。

 というわけで、入学して1週間もしないうちに廊下で正座。しかも下校時間だったので、同級生たちはくすくす笑いながら通るし、そこに時々教師連中も通りかかるので、↑で描いたような「わら、なんしたとか」という不毛な会話と出席簿の角で小突かれるというのを何度も経験しました。そして、そのクライマックスは、ワタクシの担任が廊下で正座しているワタクシを見て「わら、おれん顔に泥を塗るとか!!!!」と絶叫され、その後のことは思い出したくありません。しかし、そうやって僕たちは鍛えられてきたのだ。だから九州の人間は言葉が激しいって、あれ、どこかで聞いたような…。

 やけくそですが、この話続けます。


発作的昔話の2だけど、まだまだイントロなんです

 その集落の地名はF城といった。意味はold castleだ。今でこそ、その付近は山が切り開かれたので、南宮崎の幹線道路からまっすぐ平坦な道路で行けるが、当時は中心部から二山(ふたやま)超えてようやくたどり着く小さな集落だった。とにかく家はバス停のある場所を中心に14,5戸ほど固まっているだけで、あとは道路に沿ってぽつぽつ立っているのみ。電柱の間隔が家と家の間隔でもあった。父はこの集落に、仕事の関係で住んでいた友人を頼って家をあっせんしてもらったらしい。しかし、何度も書くが延岡から宮崎に引っ越す、つまり宮崎ローカルでの勝ち組パターンだと思っていたら、とんでもないどんでん返し。僕が生まれた漁村だって、もっと人家はあったし、第一お店もあった。

 とにかく、その日は引っ越してきたばかりで、応援に来てくれた父の友人たちも引越しの手伝いを済ませたら、宴会どころではなくさっさと引き上げていった。そりゃそうだ。こんなところでお酒を飲んだら、帰り道に狸に化かされて小便の池で泳がされたり、コエタゴ(これは古代ローマのカルタゴとは全く関係ない、別の呼び方ではコエダメとも言ったな。今日日の平成ボーイズ&ガールズにはなんのことだか分からないだろうが、君たちの大好きなエコライフにはこういうものが付いてくるんだよ、わかるかね明智君)の風呂につからされたりすることが、絶対ないとは言い切れないような、真っ暗な闇が訪れるド田舎である。

 それでも、その日は引っ越し祝いということで近所に住んでる父の友人一家と僕達一家でささやかながらちょっとした食事会をやった。驚いたことに、そんな辺鄙なところなのに電話が通っていて、あ、いや僕の家には電話が通ってなくて、父の友人の家に通っていたのだが、そこから寿司屋に電話して出前を持ってきてもらった。パワー寿司(キャッチコピーが、「ち」からつく―「か」らだの調子―「ら」んらんらん、という正しく錯乱というかコンフュージョン・ウィル・ビー・マイ・エピタフと泣きながら歌いたくなるようなコピーである。ちなみにカッコの中の文字を続けて読むと、あーら不思議、お店の名前が浮かんできます、ってオレ頭にウジが湧いてきたかもしれん)という名前のその寿司屋は、南宮崎名物といっていいかもしれないが、大人の握りこぶしくらいある大きな寿司で有名なところであった。もっとも、僕はその時に、生まれて初めて握り鮨というものを食べて、世の中にこんなにおいしいものがあるとは思わず、流した涙がひとすじ、ふたすじ。いや、それまで「寿司」というのは「ちらし」や「いなり」に「海苔巻き」、せいぜいが「バッテラ」どまりで、生の魚の切り身が甘酢で味付けしたシャリの上に鎮座し、しかもその魚とシャリの間のかすかな隙間にその実存を緑色で主張しているワサビがオブジェクトをイグジスタンスしているのは、なんというか、アンビリーバブルなミラクルワールドで、ええと、初めての鮨で興奮してうまく言えないのだが、多分、これくらいエキサイトして、その鮨を食べてみんなで談笑している間は、このさびしい集落のことを忘れることができた。

 しかし、どんな宴も終わりがやってくる。ショー・マスト・ゴー・オンと祈っていた中学生のワタクシの祈りも通用せず、お開きの時間が来た。書き忘れたが、父の友人の家には、僕の弟と同学年の男の子がいて、翌日からの通学は一緒に自転車で行ってくれると約束してくれていた。ちょっと頼りなさそうな中学1年坊主だったが、背に腹は代えられん。こいつをおだてて学校まで案内させないとバイヤーだと思い、別れる前に「じゃ明日は何時にそっちの家に行けばいい?」と聞いたら「6時45分」などという。ハァ、そんな時間は眠っている時間だっちゅうの、というフレーズは当時まだブレイクしていなかったが、早い、なんという早い時間に通学するのだと思いつつも、「遅れると置いていくよ」という言葉に少し気おくれして、「大丈夫、ちゃんと行くから」と返事した。

 それからのことはあまり思い出したくない。毎朝、朝日はもう昇るよ、少しずつだけどね、その時その日こそ自由になるんだ~という歌詞を当時知っていたら、嘘つくなこの野郎、こちとらこれから自由のない学校に行くんじゃボケと毒舌を喚き散らしていたに間違いないのだが、当時はまだヒットポップスを聞き始めたばかりで、でぃらんⅡなぞ知りようもなかった。とにかく、朝は眠いのに起こされて、朝飯食べずに学校へ、1時間目が終わったら、あ、この歌は知っていたな、何しろ自分自身が受験生だったから。などという音楽小ネタはどうでもいいのだが、本当にこのころは毎朝まだ少し暗いうちに自転車を漕いで1つ目の山を登り、そのてっぺんからは一気に滑走して2つ目の山に差し掛かるのだが、あれほど加速のあった自転車がだんだん遅くなりついにはふらふらし始める。倒れてはならじと思いペダルを踏む。力を込めて踏むが、回転しなくなる。ええい、ここだと一気に立ちこぎに切り替え、必死でペダルを踏むのだが、何度挑戦しても2つ目の山の途中で自転車は立ち往生してしまい、仕方なくサドルから降りて、自転車を押しながら坂道を登るのであった。

 引っ越して何日目だったか、日曜か土曜日だったと思う。お昼前の時間に母親から買い物を頼まれた。F城の僕の家の近くには煙草屋ともう一軒魚や肉や惣菜を売ってる小さな店があった。母親から、その煙草屋じゃないほうの店に行ってアゲミ(魚のすり身を油で揚げたものを延岡近辺ではこう呼んでいた。さつま揚げとか丸天とかいうやつ、いわゆる練り物の一種)を買ってきてくれというのだ。お安い御用なので二つ返事で行こうとしたら、母親が急に声を潜めて「この辺ではアゲミのことをテンプラというから、テンプラ4枚と言わないと通じない」などといった。そんなアホな。アゲミも方言だけど、魚のすり身がどうしてテンプラだっちゅうの。ほな、テンプラ定食頼んだら魚のすり身が山ほどでるんかいな、逆に野菜やエビや肉を衣で巻いて油で揚げたあの食べ物はなんちゅうねん、え、そういうのはカマボコとでもいうんかいな。は、笑わせらぁ。テンプラは南蛮渡来のごちそうじゃねえか、このあたりの田舎モンが食えるようなしろものじゃねーんだ、てやんでぃ、と、もはや言語も錯乱して、要するに「ほんまかいな」ということが言いたかったのだが、まあ、ここは親の顔を立ててだまされたと思っていってみた。

 「ごめんください」「いらっしゃいませ、どこか悪いんですか」「あ、頭が痛いんですよ」「頭ねぇ」などとスネークマンショーをやってる場合ではなかった。ごめんください、とその小さな店の1間の扉を開けると、平たな木製のケースにガラスがはめ込まれた陳列台があり、その中に確かにアゲミというか目指す魚のすり身があった。僕はそれを目で押さえながら、店のおばさんに「テ、テンプラを4枚ください」と小さくいった。おばさんは「ハイよ、テンプラ4丁ね。あら、あんたはこんど引っ越した来なさった家のボクじゃね。何年生ね、えー、じゃったらO淀中じゃね、うちの親戚の子も一緒の中学に行きよるっちゃが」と、こちらが余所から来た人間、つまり、この共同体で新たに商品を購入する見込みのある人間と認識した途端饒舌になった。しかし、言葉もちょっと違うし、第一、テンプラが通用したことに驚いて、僕はさっさと買ったすり身を受け取ってさっさと家に帰った。

 ええと、こんなしょうもない話ですが、本当に描きたかった思い出したくない話には、まだまだたどり着けません。とりあえず、この話続けます。



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