発作的昔話

 梅雨が明けたと、このあいだ書いたばかりなのに今日は午後から雨が降り続いている。時々雷の音もする。もっとも、宮崎でちょくちょく見られる突然台風が来たのかと思うくらいの土砂降り(ゲリラ豪雨なんて名前が付く前から、南九州では突発的集中豪雨ただし半日以上へ継続せず、というような気象状況は頻繁にあったのである)ではなく、しとしとしとしと静かに降り続く雨だ。いかにも梅雨の雨みたいだけど、梅雨は明けたんだよなぁ。でも本当に明けたんだろうか。半井さんが天気予報に出なくなってから、とんと天気予報は見なくなったし、気象庁のいうことも信用できないので、もしかしたら梅雨未だ明けずという敗北宣言でも出て来ないかとネットのニュースを探してみたが、とりあえずは見当たらない。

 そんなとりとめのないことを考えていたら、いつの間にか6月も今日までである。さて、1年の半分を振り返ってみても、何もいいことはなかったような気がすると書きかけてちょっと待てと頭の片隅で誰かが言う。そんなことはないぞ、藤井君のライブも見れたではないか。ストリート音楽祭では宮里陽太のバンド御大山下洋輔のグループも2日に渡って見れたではないか、佐山雅弘のソロ・ピアノも堪能したではないか、とここまで振り返ってみると、なんだ楽しかったのはすべて音楽関係ばかりではないか、ほかにもっと楽しいことは無かったのか、友達はいないのか、オレは、と何だか逆上しそうになってきたが、ワハハ、友達なぞおらんわ。人間所詮死ぬときは一人。何が友達じゃ、ぬるいこと言うとるとだちかんぞ。と、あらら、これはどこの方言だったか。確か昔のテレビコマーシャルに出て来たフレーズだったか。でっかいどう、北海道、ちっちゃいどう、H居だどう、とこれは70年代後半にDRACにいた人間でないと分からないギャグだな。

 まあ、とにかくこんな静かな雨の降る日は人生を振り返ってみるのもいいかもしれない。などと書くと、なんだまた修学院の話か、大学時代の話かと言われそうだが、今日はもっと前の中学生の頃の体験で、先ほど雨音とともに思い出した、正直言うと思い出したくない記憶の話を書いてみたい。

 僕は父の仕事の関係で、中2までは宮崎の延岡市というところにいたのだが、中3に上がる年に宮崎市に引っ越すことになった。いわゆる親の転勤ですな。ここで、宮崎をご存じない方にちょっと解説。宮崎県は太平洋に面した県で、南北に長い海岸線を持っています。てなこたぁ、どうでもいいか。ま、延岡市というのは旭化成の企業城下町で、一時は景気のいい時もあったが僕が中学の頃はすでに青息吐息に近い状態で、人口も都城市に抜かれたか、抜かれる直前位だった。つまり宮崎県ではナンバー2か3の位置づけであった。宮崎市は勿論県庁所在地で、県内ナンバーワンのシティだったのよ。何しろ、延岡の中学生は全員丸刈り、つまりボーズ頭で制服着て、雑嚢を肩から下げて通学していたけど、風のうわさによると宮崎は中学生でも長髪、かばんは手提げかばんで制服もブレザー風だとか。そりゃあなた、ちょっと色気づき始めた中学3年生になるかどうかの時期。ボーズ頭の延岡から長髪、自転車通学可能な宮崎に引っ越すんだから、うきうきですよ。しかも、宮崎にはデパートが2つもある(当時はT百貨店、あ、偶然にも咲ちゃんちの苗字と一緒だ、それにY形屋という、それぞれ宮崎資本、鹿児島資本の百貨店がありました。今もどちらもあるけど、T百貨店はJャスコ資本が入って生粋の地元資本ではなくなったけどね)。さらにレコード店も大きなものが2つもある(H楽器店とN村楽器店という2大巨頭がおりましたが、今はどちらもありません。あ、N村楽器店は細々とやってますがCDは注文販売というアンチカスタマーサティスファイド路線を貫徹する楽器販売原理主義の店になってます。要するにCDが売れないってことだな)。そういう宮崎市で高校進学前の中学生活を送るのだから、当然期待しますね。

 で、引っ越し当日、電車で宮崎に向かった。当時、父は車の免許は持っていたが車を持っていなかったので、知人の車を借りて先発隊として宮崎の新しい家に家具や荷物を入れ込んでおり、後の家族は日曜日を使って電車、いや言葉は正確に使おう、当時はまだ汽車というべきだな、その汽車に乗って南宮崎駅というところで降りれば迎えに来ているという段取りだったのだ。降車駅が宮崎駅ではないところにちょっと僕は抵抗があったのだが、まあ南という文字は付いているが同じ宮崎市内、そんなに大した違いはないだろうと高をくくっていた。汽車は南宮崎駅に無事到着した。改札を過ぎて通りに出たら、目の間にまっすぐ道路が通っていて、車や人の行き来も多くて結構賑わっていた。

 駅前には父がいた。なんだかぶっきらぼうというか、あまり愛想が無い。今回の宮崎の家は父の友人である人があっせんしてくれたらしく、まだほとんど新築といってもいいくらいの家だと聞いていた。また部屋数も結構あるので、受験生になる僕には1部屋、僕専用の部屋がもらえると聞いていたので、早くその家に行きたくてうずうずしていた。ほかの兄弟や母親も同じ気持ちだったのだろう。おなかが減ってないか、新しい家の近くには食堂が無いので駅の近くで食べて行った方がいいと父が提案したが、そんな贅沢はもったいないし、それよりも早く新しい家に行きたいと母が言った。発言の前半部分は「ナンセンス!!」と否定したかったが、まだ当時は中学生だったので、そのような表現方法を知らず、さらに後半部分は「異議なし!!」状態だったので、あ、もちろんこういう表現方法も知らなかったが、っていい加減くどいですか、そうですか。

 とにかく、父以外の家族全員が早く家を見たいというので、憮然とした感じの父はバス停までみんなを案内した。「××行のバスに乗るから」とぶっきらぼうに言った父の言葉を耳にして、バスの時刻表を見たら本数が少ない。1時間に2,3本である。おかしいな、と思ったがそんなに気にせず、到着したバスに乗り込んだ。

 バスは南宮崎の中心部を快適に走った。途中、大きな池が見えた。それまで見たことのない景色だったので、思わず見とれていたら、バスはそこから大きく曲がり何だかちょっと薄暗い道に入って行った。周囲は木が生い茂っていて、道は舗装されておらずだんだん山の中に入っていく。「この山の中に家があるん?」と父に尋ねたら、黙って首を振った。すぐにバスはその小さな山を下り始めた。ちょっとした集落があった。ここが新しい家のあるところかと父にまたもや尋ねたら、男がペラペラしゃべるなと叱られた。そういう時代だったんだよな。九州の男は白い歯を見せるなとか、男は日に三言とか、良く言われた。そのせいか、僕は人とほとんど話さない。いいたいことがあってもじっと黙っている。耐えに耐えて、もうほとんどの人が我慢できないくらいまで来ても耐える。耐える。耐える。しかし、極限まで行ったら、雪の降る中を唐傘を差しながら歩いていく。途中で、別の男と黙って合流する。オレの目を見ろ、なんにもいううな~、って東映やくざ映画かっちゅうの。

 父に質問を遮られて、不安感はますます募った。バスは小さな集落を過ぎて、またもや山道に入っていく。その頃には家族全員に不安が伝染して、誰も何も言わない。2つ目の山を下って行ったその先に小さなバス停があった。周囲に14,5戸くらいの家がある。バス停の前が煙草屋、そのちょっと先が公民館。その横に交番。父に促されて降りたバス停の風景はそういうものだった。そりゃ食堂はない。それ以前に普通のお店やスーパーが無い。なんというド田舎だ。ここは宮崎市ではないだろう。そういったら、父親から男が小さいことをぐちゃぐちゃいうなと怒られた。父に案内されて向かった家は確かに新しかった。僕の部屋も小さいながら確保してもらった。しかし、僕が通う中学校は先ほどのバスが通って来た道を逆に行かなければならない。つまり、学校に行くのに山を2つ超えていかなければならないのだ。これが夢に見た宮崎での新生活か、と思うと泣けてきた。別れてきた延岡の同級生たち、とくに親しくしていた友人たちの顔を思い出しながら、全身の力が抜けて行った。しかし、僕の思い出したくない話は実はまだ始まっていないのだ。話はその家を2ヵ月もしないうちに引っ越した先で起こるのだ。



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マンガの話を書くつもりだったけど

 6月もあと少し残っているのに、梅雨が明けた。先週半ばくらいから、晴れた日はずいぶん暑かったし、夜は寝苦しいので氷枕をして寝た。いや、氷枕なんて素敵な伝統ポンニチアイテムは持ってないので、お菓子の保冷剤の大きい奴をタオルでぐるぐる巻きにして枕の上に載せて寝ていた。最初はずいぶん固くて「石に枕し流れに漱ぐ」とはこういうことかなどと中国古典のいわれについて考察したりする余裕はなく、ひたすら「アジィ、寝付けん」などと口の中でつぶやきながら、それでも一瞬の睡魔に誘われてうとうとして、はっと気がつくと保冷材は、やや軟化しており最初の頃より頭にフィットする感じである。それにしても今年は梅雨明けが早い。6月に梅雨が明けたというのは、ここしばらく無かった。これから本格的な夏が来ると思うと鬱陶しい。今年はもう夏はいいから、一気に秋が来て冬が来るといいのだが、こればかりはそういうわけにはいかない。

 日曜日に楽しみにしていたテレビドラマの『JIN-仁-』が終わった。原作と若干違うストーリーだったので、すでに完結していた原作を読んでいた立場から、どういう風に解決を提示するのか見ていたが、おおむね納得というか、或る意味原作より納得できる終わり方だった。タイムスリップ物の常套手段で、パラドックスを解消するためにも多元世界(パラレルワールド)の考え方をどうやって見ている側に納得させるかがポイントだなと思っていたら、主人公の同僚に解説させるという展開で、なるほどな、と思った。原作では仁先生と咲ちゃんは結ばれるのだが、そういう結末ではなく時空を超えたラブレター、それも薄れゆく記憶に抗ってというストーリーは見事だった。原作にない仁先生の恋人がどうなるのかと思っていたが、ああいう形で話をつなげるとは思わなかった。ああいう終わり方は非常に良かったな。願うならば、絶対に続編は作らないでほしいし、アナザーストーリー的な映画も作らないでほしい。それくらいきちんと完結していたと思う。船中九策とか、国民皆保険制度とか、○○先生へというあたりは、このドラマの脚本を書いた人間の歴史観や思想性がちょっと透けて見えて、そういうところも面白かった。

 などと、書くのは拙blogらしくないので、スタイルを戻す。まあ、テレビドラマの『JIN-仁-』は最初は我が家のバカ娘2号が好きで見ていて、アルバイトで最初から見られないことがあるので録画しておくように頼まれることが多くて、そのついでで見ていたら、だんだん面白くなって嵌ってしまったのだ。特に咲ちゃんの健気さが胸を打って、あ、花魁の野風というか仁先生の現代の恋人役の、中谷美紀はどうも苦手な顔で、彼女を見ると何故かチェシャ猫を思い出してしまい、あかんのですわ。まあ、それでも彼女の存在は結構ストーリーの上でも大事だったな。おっと、こんなことを延々書くつもりではなかった。実は、テレビドラマの『JIN-仁-』も面白かったが、マンガの『JIN-仁-』も大層面白かった。村上もとかのマンガは『龍-RON-』も、ストーリーの意外性、展開の面白さ、そして登場人物の魅力(主人公の書生として接近した転向党員とかね)もいっぱいの大長編マンガで、まあ彼は『赤いペガサス』や『ドロファイター』の頃は、いまいちだったけど『六三四の剣』から一気に力を付けてきた感じで、読ませるようになった。個人的には『水に犬』という読みきり連載が面白かった。タイの食べ物やタイの人の考え方が、上手くマンガに行かされていたと思う。

 それに比べて、あえてT・レックスのシングルのタイトルのマンガというか、鉄腕アトムの1つのエピソードを目一杯広げまくった、某漫画家の最近の蝙蝠マンガは実に退屈というか面白くない。という話をきっかけに、ここのところの面白いマンガ、クソゲーみたいなマンガをあれこれ挙げて、バカ話を展開しようと思ったのだがピーター・フォークや日赤の丸岡修やよど号の柴田泰弘、そうそう「人権110番」の千代丸健二、音楽関係ではC・クレモンズ(ヤフコメに「誰こいつ」と書いてたやつがいて、一瞬殺意を覚えたが、まあ世間一般的にはそういう反応もあるか、と自分を納得させた僕は丸くなったと思う)、さらに文学界の御大、団鬼六(僕はこの人の名前をSMマガジンで初めて知ったときにダン・キロクと刷り込んでしまい、以来「オニロク」と書いてあると別人28号のような気がしてならないのだ)、などなど死臭累々な感じになって来て気力が衰えたので、ここ最近のマンガの話はまた今度。



ワタクシと中華大衆料理の出会い、あるいは王将物語

 この前、王将の話をちょっと書いたら無性に懐かしくなったので、今日はワタクシと大衆中華料理の出会いというテーマで行く。単なる中華料理ではなく、大衆中華料理であることをお断りしておく。こちとらフカヒレとか北京ダックとかクマの掌なんぞには縁が無いのだ。ギョーザだ、シューマイだ、ホイコーロだ、チャーハンだといういわゆる大衆中華の話である。で、悲しいことに大衆中華との出会いはやはり大学時代にさかのぼる。京都で学生生活を送るようになって驚いたのは、やたら中華料理店が多いということだった。実は、恥ずかしながらワタクシ、高校生の頃まで中華料理なるものはほとんど食したことがなく、つまりラーメンとかちゃんぽんとかあんかけ焼きそばとかの麺類は大好きでよく食べていたのだが、どういうわけか自宅ではあまり中華料理が出てきたことが無かった。したがって中華料理のメニューを知らなかった。その昔、「ハリスの旋風」だったか、ちばてつやの描いていたマンガに貧しい家庭の子供が晩御飯に酢豚を作ってもらうシーンがあり、そこで登場人物が「わー、今日は酢豚だ、ごちそうだ」というのを見て、酢につけた豚肉を中国人民はありがたがるのか、日中文化の相互理解は難しいなと思ったくらいで、結構真面目に酢豚=酸っぱい豚肉(というか、肉が酸っぱけりゃ腐ってる可能性が高いということに気がついてなかった、笑)というイメージが刷り込まれてしまった。また、これまたマンガで見た1シーンなのだが、夜、学習塾に通ってる子供が主人公で、お腹がすくので晩御飯は塾の近くの中華料理店で食べるのだが、最初にラーメンを注文してちょっと戸惑ってしまう。なぜなら、その日母親からお店ではラーメンばかり食べずに栄養のあるものを食べろと注意されたばかりだからだ。そこで、ラーメンを止めて五目そばを注文し直すのだが、その五目そばという食べ物がよく分からない。だいたいが中華そばという言い方も知らなかった頃で、ラーメンに近い食べ物で五目そばというものがあるらしい。いつの日か、自分で自由に食事が出来るようになったら食べてみたいと固く心に誓った。たぶん小学校の4年生くらいだったかな。

 だから、要するに中華料理そのものをあまり食べたことが無かったので、京都での下宿生活が始まっても自ら進んでその手のお店には入らず、ごく普通の大衆食堂、そうそう京都には力餅食堂という訳のわからない食堂があちこちにあって、そこには定食から麺類までいろんなメニューがあったので普段の晩御飯はそういうところで食べていた。朝は寝坊するから当然食べないし、昼は別館の学食(ときどき無性に学食の薄いみそ汁とセットになった定食を食べたくなる時がある。SランチとかAランチとか、まだあるのだろうか)か近くの喫茶店などで済ましていたのだ。ただ、入ったことは無かったが京都の地理になじんできて、あちこち動き回るようになるとやたら「王将」とか「」とか「李白」だとか中華料理店の看板が目に飛び込んできたので、いつの日か入ってみたいがちょっと不安という、まるで日活ロマンポ×ノを見に行きたい中学生みたいな心理状態であった。

 で、最初に入った中華料理店は出町の王将だったのか、それともエイデンの出町柳駅近くにあっただったか、もしかしたら一乗寺にあった小さな中華料理店だったか定かではない。誰といったのかもよく覚えていない。このエントリーによく登場するDRACのメンバーではなく、修学院で同じ下宿に住んでいたY岡さんと、あ、そうだ、彼の友人のY本さんと3人で食べたときだ。うん、出町柳のだ、間違いない。中華料理はほとんど自宅では出なかったと先ほど書いたが、よく考えてみるとチャーハン、いわゆる焼き飯というのは結構食べた。食べたが、何故だか僕は若い頃はチャーハンが嫌いだった。多分、実家のチャーハンの味付けが好きではなかったので、嫌いだったんだろう。大体、玉ねぎと卵と後は適当な具をブチ込んで炒めていて、そうそううちの母親はケチャップをチャーハンの味付けに使っていたので、甘いんだかなんだか良く分からない味で、僕は嫌いだった。そのせいもあって、オムライスとかがいまだに苦手である。

 まあ、ケチャップ入りのチャーハンなどは論外だが、今思い出したことに僕は小さい頃マヨネーズご飯が大好きで、これは冷たいご飯にマヨネーズでもいいし、あったかいご飯にもマヨネーズでもいけた。それと黄粉に砂糖をまぶしたものをご飯にかけて食べるのが好きだった。そんなことはどうでもいいか。出町柳のの思い出である。何故修学院から出町柳まで行って晩御飯を、それも同じ下宿ながら学校は全然違っていたY岡さん、さらにY岡さんの友達で僕が住んでいた部屋に1年前住んでいたY本さんと3人で食べに行ったかは、もう全然思い出せない。はっきり覚えているのは、のテーブルに置かれたもやし炒めとご飯、その横にチャーハンとお椀に入ったスープという風景である。中華料理のメニューを知らない僕は、何を食べようかさんざん迷った挙句、無難なもやし炒めを注文し、Y岡さんは何を恃んだか覚えてないが、Y本さんは間違いなくチャーハンを注文した。チャーハンだけを注文したのに、何故か店のおばちゃんは大皿とお椀を持ってきた。そう、チャーハンを注文するとスープがついてくるのである。これは驚きだった。またそのスープの匂いが良くて美味しそうで、おもわず「Y本さん、このスープ少しもらえない?」と聞いたくらいだ。その時の彼の返事ははっきり覚えている。「あかん、欲しかったら頼んだらええやん」。なんと薄情なやつだ。九州男児が頭を下げてお願いしているのだ。快く譲ってくれてもいいだろうが。オレもただでくれとは言わん。もやしの一口位、いやここは思い切って豚肉とにらともやしを込みで3口分くらい譲ってもいいという心意気で頼んでいるんだ。それをなんだ、けち臭い男だ。だから、三重の人間はダメなのだ。などとむちゃくちゃな逆恨みを心の中でしながら、それでも京都に来てまだ1ヶ月もたたないうちに出来た大事な知り合いなので、表面はにっこりと「あ、オレ、チャーハン好かんからいい」と返事をした。

 しかし、くだらないことほど良く覚えているものだ。あの時のチャーハンについてきたお椀に入ったスープが飲みたくてたまらなかったが、前にも書いたようにチャーハンを食わず嫌いでいたものだから、その願いがかなうのはずっと後になる。まあ、出町のは、かの佐藤優大センセもひいきにしていたようで、「私のマルクス」だったか、何かあるとでビールと餃子を食べたみたいなことが書いてあった。そうそう、花の75年度生のPurple_Hazeさんもこのお店はひいきにしていたようだ。このというチェーン店は僕が入学した75年当時は結構、京都市内にあちこち支店があって王将といいライバル関係にあったのだが、なにせ昔からの中華料理屋でメニューも店構えもいっさい手を入れなかったので、ギョーザのタダ券を配りまくったり、開店記念日にはビール大瓶1本サービスとか、真夏のクソ暑い時期に、夏バテ防止ご飯大盛サービスなんていうトンデモな企画を出して、さらにはあちこちに支店を出店しまくった王将に、だんだん押されていき、京都における中華覇権闘争は王将の圧勝という結果に終わるのであった。

王将出町店

 それで、肝心の王将なのだがやはり出町の王将で食べたことが一番多いので、そこの話になる。修学院からD大に行くには市バスという方法もあるが、36番線というとにかくめちゃくちゃ混む路線なので、圧倒的多数の学友諸君はエイデンで通うことが多かった。そのエイデンの終着駅が出町柳で、そこから河原町今出川を抜けて、烏丸今出川までてくてく歩くのだ。時間にして10分前後だろうか。河原町今出川の信号を西に渡り、ちょっと行くと出町のアーケードがあり、その近くに王将はあった。この王将デビューは、もしかしたらK平先輩と一緒だったかもしれない。というのも、出町の王将のもっとも古い記憶は、BOXでA水先輩とK平先輩と一緒になり、もう夕方だったのでご飯を食べに行こうということになり、まだそのあたりの食事が出来るとこを良く知らなかった僕のためにいくつか店を教えてくれたのだ。

 今覚えているのは「焼肉のローラ」と「冗談の王将」ともう一つなんだったか、やはり出町近辺というか今出川周辺の安くてうまいお店だった。中島食堂だったのかな。その可能性は高いが、どうしても思い出せない。当時、中華料理にやや苦手意識を持っていた僕は、できれば普通の大衆食堂か喫茶店みたいなところに行きたかったのだが、A水さんとK平さんは「じゃ、今日は王将にしよう」と二人で決めて、後輩であるワタクシは黙ってついていくしかなかった。初めて入った王将は、時間帯が夕方の混むときだったせいもあるが、カウンターに固定された丸椅子がずらっと、そう14,5人くらいは楽に入れるお店だった。僕は今でもそうだが、食事中に活字を読まないともだえ苦しむ活字中毒者(by 椎名誠)なので、そこでもまずは新聞か雑誌の類を探したが、「ここ、そんなもんないよ。ここは安くて多くて早い店だから、食べるのも早く食べて出ないといけない」と忠告してくれたのはK平さんだったと思う。

 で、そのとき何を食べようか、お金も無駄遣いしたくないし、かといって知らない料理を頼んで、それがまずかったら嫌だし、安くて無難なものをと検討していた僕の目に飛び込んできたのは「餃子ライス」という文字だった。金額もめちゃくちゃ安い。ただ何と読んでいいか自信が無かったが、オレも男だ。思い切って大声で叫んだ。「サメコライスください!!」。・・・すいません。ネタです。ただしこれは昭和の30年代だったか、高信太郎という漫画家の実話です。それでは、もといっ。

 で、そのとき何を食べようか、お金も無駄遣いしたくないし、かといって知らない料理を頼んで、それがまずかったら嫌だし、安くて無難なものをと検討していた僕の目に飛び込んできたのは「酢豚」という文字だった。いや、実はほかにも頼んでみたい料理はあったのだが、お店のお客さんと店員の会話が全く理解不能なものだったので、怖くて注文できなかったのだ。僕の耳に聞こえてきたのは、「ギョーザとから揚げ」「ハイ、コーテルイーガー、エンザーキイーガー」とか「ハイよ、コーテルリャンガー、ナーホね」「はい、お待ち、リーチ一発ね」「ホイコーロイーガー」「ムースーロー、こちらね」などとこれはどこの言葉だ、なんとなく毛沢東の雰囲気がすると訳の分からないことを考えていた。その不可解な単語が飛び交う中に「スブタ」という言葉が何度か聞こえたので、「そうか、酢豚はスブタでいいのか。昔読んだ漫画にもごちそうって書いてあったからたぶん大丈夫だろう」と判断して、おずおずと酢豚と餃子とライスを頼んだ。

 嘘か本当か分からないが、まあ、この話はF田敏雄君から聞いたので千に三つの確率で出鱈目だと思われるのだが、王将の中華料理のメニューの呼び方は大阪外大のアルバイト生が付けたとか聞いた。どうなんでしょうかね、本当のところは。まあ、そういう真相を探るようなことはどうでもいいか。

 先輩二人と一緒に食べた王将のご飯は美味しかった。おなかもいっぱいになった。それ以来、王将には一人で行って食べるようになったが、酢豚以外のメニューにはなかなか触手が伸びなかった。一緒に食べに行く仲間はレバニラ炒めとかニラ玉とかいろんなものを頼むのだが、僕はレバーが苦手だったので、あの安くて栄養豊富なレバニラとかレバー炒めとかは頼めなかった。それでも、慣れてきたら、黒コショウと一緒に盛り付けられるエンザーキ(鶏のから揚げの骨の付いて無い奴)のダイナミックさと、その皿の端に必ず添えられるレタスにマヨネーズというのも頼むようになったり、僕のアパートで飲み会をやるときにはギョーザやムースーロをナーホして持参してくる友人なども出来て、中華コンプレックスは徐々に解消された。

 それ以来、良く通った。あるときボーリョク学生のN谷君と、あ、この時も確かK平さんがいたような気がするのだが、例によって出町の王将で晩飯喰って帰ろうとしたら、なんとその日は出町店の開店記念日で、店の兄ちゃんが「お兄ちゃんたちビール飲むか?今日はサービスやで」と声をかけてくれて豪快に大瓶のビールを並べて、乾杯して飯を食った後、N谷君が「こういうラッキーな日はラッキーでパチンコしたら出るんちゃうか」という凡そチーハクとほとんど変わらない提案をして、当然こちらもタダビーで気持ちが大きくなってるから、「異議なしや、いったるか」と突撃して、当然世の中そんなに甘いはずはなくボロボロに負けて店を出たら、向かいにはキングというパチンコ屋もある。「ラッキーの敵はキングで」を合言葉に先進的学友諸君は突入したが、これまた無残に返り討ちにあって、泣く泣く修学院へ、一乗寺へ、そして岩倉へとそれぞれのねぐらに帰ったなどと言う日もあった。

 で、結局何が書きたかったかというと、そのような青春の蹉跌とさまざまな燃える思いの詰まった王将が、こともあろうにファミレスだと、この野郎!!何が新人店長研修じゃ、コノヤロ。あの煮しめたような白衣で油まみれて餃子焼いてたチンピラ兄ちゃんや新人のバイト生に「お前足寒いやろ、長靴の上からお湯かけたるわ」と普段は怒ってばかりなのに、一瞬見せた優しさだとか、目の前で食器を洗ってるおっかなそうなオッチャンに「洗剤が皿に飛んできてかかったんだけど」と軽くクレーム付けたら、ギロッと睨まれてドスのきいた声で「死にゃせん」と言って、その後一切のコミュニケーションを拒絶した、あの王将ワールドはどこに行ったのか、という問題提起なのだ。全ての戦闘的市民、学生、労働者の諸君、王将のプチブル的ファミレス思想を断固粉砕し、真に貧しい学生のためのプレカリアートのための解放された中華料理屋に再建されるその日まで、一時この放送を中断します、ってもう支離滅裂になったところでおしまい。この話は続きません、たぶん。

ナーホ!!!

王将のようで王将出ない、ベンベン

王将で持ち帰りを注文すると、店の兄ちゃんは○○ナーホ!と絶叫したものだ。多分、ナーホ=内包の意味ではないかと思うのだが、僕たちは何か信じられない事が起こると、ナーホと言っていた。つまり、ナーホ=んなアホな、という意味である。

で、今回のナーホは後者の意味である。まず見た目がまずそう。次に盛り付けが少ない。ボリュームがない。そして決定的なのはナーホは紙箱でなければならない。発泡スチロールの容器に入れるなどというのは階級的堕落である。京都王将の毛沢東主義はどこに行ったのだ。貧乏学生は皿洗いすればタダ飯くえた、あの中華料理キョーサン主義は…。

王将なう



宮崎にもついに王将がオープン。大阪王将は何年か前にオープンしていたが、こちらは京都王将の流れを汲む鹿児島王将の支店のようだ。回鍋肉にムースーロにエンザーキを持ち帰り、もちろんリャンガーコーテー付きである。


確実にメタボる、なう。

※追記~だいたいこんなこじゃれた内装の店じゃねーんだよ、本当の王将は。背もたれのついてる椅子なんか邪道だ。固定された丸椅子で、隣の人とスペースの取り合いするくらいでないと、王将イデオロギーは伝わらん。店員も声が小さい。料理名を王将的エセ中国語で叫ばんかい!!

最悪の日から2日過ぎて

 月曜日は散々な目に遭ったけど、あれ以来何とか無事にここまで来ている。軽いめまいは数回あったが、座り込むほどではないし、吐き気が一度あったけど、その時は明らかに晩御飯を食べすぎていた。人間腹八分目が一番だが、なかなかそれを守れないところが、いかにも人間らしいじゃないか。食いすぎたっていい、人間だもの。「お腹すいた?」って聞くと「お腹すいた」って答える。「ご飯お代わり?」って聞くと「ご飯お代わり」っていう。「もう、お腹いっぱい?」って聞くと「まだまだ、これからが本番じゃボケェ、けちけちせんと持ってこんかい!」と居直る。木霊でしょうか?いいえ我が家の食卓での一こまです。

 などと、アホなことが書けるのも何とか調子を取り戻しているおかげである。もっとも、自分の病気が本当にメラニー症候群じゃなかった、メニエール症候群なのか、よく分からないので近いうちに総合病院に行ってみようとは思っている。思っていても実行しなければ差は無いと「エミールと探偵たち」の作家は書き残している。そんな話はさておき、実は僕はこれまでいろいろ痛い目に遭っている。あ、いや、その女性関係とか浮いた話とかそういうのじゃないのよ。もう、言葉通り「痛い目」つまり、肉体的な苦痛や精神的な苦痛を多分同年代の人たちと比べてもかなり多い経験をしていると思う。なんつったって、ああた(ここ巨泉風に、クイズダービー風に)、最初に入った会社では社員持ち株制だったので、なけなしのお金を出して株券買ったら、3年間無配で挙句は倒産したからすべて鼻紙という痛い目にも遭ってる。あ、こういう話は暗くなるから、あの歴史的大スペクタクルロマン「ワタクシと北関東の出会い」シリーズで書こう。書こう書こうといいながら、溜まっていくエントリーの卵はいったいいくらあるんだろう。

 まあ、そういう話じゃなくて、病気で痛い目に遭った話を整理して書こうと思って、過去のエントリー調べたら結構書いてました。今日は時間も遅いので、以前のエントリーのリンク貼っておくので、お暇な方はのぞいてみてちょ。しかし、めまいが収まった理由のひとつに首筋と肩のところに「塗って塗ってア■メルツ」を塗ったことがあるかもしれない。肩こりが原因でめまいになることもある、と人から聞いたので、まあ騙されたと思って試してみたら気持ちがいい。僕は肩は全然こらない体質だが、ア■メルツを塗る前に肩や首筋を触ってみたらガチガチに固くなっていた。うーん。これが原因だったのか。

 というところで、痛い思いをした話は、先ずは自然気胸という病気の話で、例によって1つの話にまとめきれずに、パート1から3まであります。

自然気胸の話 その1
自然気胸の話 その2
自然気胸の話 その3

 それから「内視鏡検査と大腸憩室炎」。こちらは1つにまとまっています。さらに、「尿管結石の話」。こちらは補足説明を入れたほうがいいかもしれないけど、それはまた今度でも。しかし、このほかにも沢山痛い思いしてるな、オレ。あ、そうそう、オレがめまいで苦しんでいた間に平田隆夫さんが亡くなった。セルスターズ、カッコよかったよな。和製セルメンって感じだったっけ。合掌。



最悪の日

 予兆は全くなかった。週の始まりの月曜日、目覚ましの音で目を覚ましコーヒーを飲んで、もうすぐ車検の切れる車に乗って職場に向かった。朝のミーティングも終了し、同僚らと他愛のない雑談を交わしながら仕事の準備をした。ちょっと異変を感じたのは、最初のお客さんと話をしていたときだ。なんだかやたら汗をかく。その日の僕の服装はスーパー・クール・ビズということでアロハにチノパンという軽装だから、暑いはずはないのだが。とにかくやたらに汗をかくので、ハンカチでぬぐい、喉が渇くので給湯室に水を飲みに行こうと立ち上がったら、度の合わない眼鏡をかけたように床がぐにゃりと曲がった。軽いめまいがしたんだろう、いわゆる立ちくらみか、とたいして気にせず水を飲んで、席に戻り次のお客さんと話をしていたときだ。

 どうにも力が入らない。普段はしょうもないオヤジギャグ等をかましている僕なのだが、そのときはとにかく早く話を終わらせたくてしょうがなかった。なんとか仕事を済ませて、一息入れたが、目が回る感じがやや強くなった。今度はトイレに行って気分転換しようと立ち上がったが、先ほどよりひどいめまいがする。真っすぐ歩けない、という歌が確か憂歌団にあったが、まさしくその通りで真っすぐ歩けず、ふらふらしながらトイレに行った。その頃には、僕の体調に異変に隣に席の人が気がついて、大丈夫ですかと声をかけてくれた。ちょっと軽いめまいがする、と答えて、次のお客さんと話していたが、ついに声がほとんど出なくなった。汗は顔じゅうから噴き出て来るし、手足は冷たくしびれた感じが止まらない。なんとか、お客さんの用事を終わらせて顔をハンカチで拭いたが、左右の席の同僚から、顔色が悪いとか真っ青だとかいわれ、休憩室で横になったらどうかと言われた。

 その時点でのめまいはすさまじく、その昔のヒット曲に「メタル・グルー」というのがあって、最初に聞いたときは「メルグルー」としか聞こえず、そのことをクラスの友人に話したら、相手は「いや、俺には『目が回る』と聞こえる」なんて会話をしたことを思い出す余裕などとてもなく、上司に体調が悪いので少し休ませて下さいと言って2階の休憩室に行った。窓が閉め切って暑かったので、1か所大きく窓を開け、その下で横になったら急激にまためまいがして気分が悪くなってきた。そのうち、その気持ちの悪さがどんどんひどくなっていき吐き気がし始めた。猛烈な嘔吐感である。オレはサルトル的実存主義者ではない、などと考える余裕もなく、ふらふらする体を気合いで起こして通路の端のトイレに行った。大の部屋に入り鍵を閉めて、便器に向かって思い切り吐いた。吐いたつもりだったが、さきほど飲んだ水しか出ない。嘔吐感はまだまだ強烈にあり、オエッ、オエッとまるでひきつけを起こすような感じで、胃の中のものを逆流させようとするが、不快感が増すばかりで何も出ない。オエッ、オエッとやっていたら、扉越しに誰かトイレに入ってきたのが分かった。自分の調子の悪いところを見られたくないので、♪Oye como va mi ritmo Bueno pa gosar mulata~と、サンタナの歌を歌って誤魔化す余裕など全くなく、せいぜいが声を小さくオエ、オエいったくらいだ。

 それからどうやって休憩室に戻ったかは記憶が無い。人の気配を感じて、目を開いたらすでに昼休みになっていて、食事をしている人たちがいた。起きようとして、体を動かしたらまたもや強烈なめまいがする。僕の同僚もいて、無理せずにもう少し寝ているよう言ってくれたので、好意に甘えてそのまままた寝た。次に目が覚めたら、もう1時過ぎで遅い昼ご飯を食べている人が2.3人いた。「お、ようやく目が覚めましたか」、とそのうちの一人が話しかけてきたが、「昼寝じゃなくて、体調悪くて寝てたんです」「二日酔い(笑)?」「いや、昨日は飲んで無いし、めまいがひどいんですワ」「めまいはほっとくと危ないよ、メニエールとかだったら大変だから、病院にいったほうがいい」「ありがとうございます。もう少しめまいが収まったら、いきつけの病院に」ここまで喋ったら、またもや吐き気とめまいに襲われ、そのまま休んでしまった。

 次に目が開いたときは、もう誰もいなかった。とにかく起きて、病院に行かないと大変なことになりそうな気がした。相変わらず、めまいはひどく、手足は冷たくしびれている。そういえば、昔読んだ本に「血は冷たく流れる」という短編集があったな、などと考える余裕は当然なかった。一度上半身を起こしたが、そのとたん周囲がものすごいスピードで回り始めて起きられない。横になったが、今度は嘔吐感がまたもや襲ってきて気分が悪い。このままだと部屋の中で吐いてしまいそうだった。いくらなんでも、人さまがお昼ご飯を食べる場所で嘔吐してしまうとひんしゅくだと思い、むりやり体を起してみたらめまいはするが何とか立ち上がることが出来た。この機会を逃すと絶対無理だと思い、這うような感じでトイレに入り、胃の中のものをもどそうとしたが、今回は水も飲んでいないので何も出ない。気がつくと目の端にうっすら涙が浮かんでいた。体をもう一度起こすと、なんとか立ち上がれたので通路や階段の手すりを頼りに事務所に降りて、上司に病院に行くために外出したいと伝えたら、「早く行きない、人間の顔の色しとらんよ」と急かされた。車に乗って、かかりつけの病院に行こうと考えたが、この状態で運転などして事故でも起こしたら最悪だ。背に腹は代えられないので、専門医ではないが歩いて1分の位置にある病院に入った。

 自動ドアが開いて、待合室に入ると人が少ない。受付に保険証を出したら「ここは診察は午前中だけです。午後の診察はしていません」などと言われた。こちらは今にも死にそうな思いで来てるのに、なんという言い草だ。お前は人の命を何と思っているのだ。南方先生の爪の垢でも煎じて飲め、と激怒したかったが、怒るだけの体力は残って無かった。「今まで休んでいたけど、めまいと吐き気が止まらず苦しい、診てください」というと体から力が抜けてしまい、受付のカウンターに崩れてしまった。さあ、それから受付の事務員やナースの態度がすっかり変り、「大丈夫ですか」「ダイジョウブジャネーカラココニキテルンダ(心の声)」「問診表ですが書けますか」「オラァ『モンモウ』ジャネーカラモジハカケル。タダ、アタマガマワラナクテモジニナラナイ(同)」。てなやりとりがあって、5分後診察室に呼ばれた。

 不機嫌そうな医者が、こちらの症状を尋ねる。朝一番はどうもなかったけど、9時くらいからめまいがしていたこと。吐き気がひどくて2回トイレに行ったが、水以外何も出なかったこと、3時間くらい寝たけど全く症状は変わらず、さらにひどくなっている事などを死ぬ思いで伝えた。血圧も図らず、脈も取らず、こちらの顔を見た医者は、あっさりと「メニエール症候群です。耳の中の…石が…三半規管に…すぐには治らないけど1週間くらいで…注射し…薬を…」みたいなことを言われて、そのまま点滴を打たれた。1時間半くらいかかるのでトイレは大丈夫かとナースに聞かれたことは覚えている。それからしばらくは寝てしまって、何も覚えていない。気がついたら16時過ぎで、まだ少しふらふらした。僕が起きたことに気がついたナースから、まだめまいがあるならもっと寝ておくよう言われたので、そのまま30分くらい寝た。

 ようやく体も少し楽になったので、ベッドから降りて、支払いを済ませて薬局に行った。吐き気止めとめまいを止める薬が出ていて、嘔吐感がまだあったので吐き気止めは直ぐ飲んだ。事務所に戻り、報告をして帰りは自分の車では危険がアブナイ感じがしたので、同僚に送ってもらった。

 夜、配偶者が仕事から帰ってくるなり「寝てたらダメ。私もこの間病院でメニエールと言われたけど、安静にするのが一番いかんとよ。無理してでも起きて、首をぐるぐる回すと治るよ」などという。無茶だ。気分が悪くて寝てるのに、起きたら余計気分が悪く目が回ってくる。その旨を簡潔に申し述べたら、敵の機嫌が悪くなり「せっかく、心配してアドバイスしているのに」などとふてくされる。しょうがないので無理やり起きて、今、日記を書いているのだが、どんなにネットで検索してもめまいがあるときは安静が一番と書いてある。一体、配偶者の狙いはなんだろうか。どうして、ああいう無茶苦茶をいうのだろうか。それとも、めまいの時は無理して起きていて、時々首を回すと早く治るのだろうか。もう、僕の頭の中はぐちゃぐちゃである。ザクロになってめちゃくちゃである。

 しかし、このしんどさが1週間続くのはつらい。何とかしてくれ、神様、仏様。



ちゃんちゃんな話

 いまさらですが、1号機から3号機までメルトダウンしていました。ごめんね、ごめんね~(by U字工事)というニュースが本日出ていて、例によってヤフコメ読んでいたら、まあ、ごもっとも、みたいな声が多かったが、一番納得したのは↓のコメントだった。

ほあんいん ぜんいんあほ=保安院全員阿保!!

 お見事である。回文である。ちょっと怪文的な回文で、ここはオレも一つと考えたがいいのが出来なかった。とりあえず、拙作。

かんかんか=管感化 我らが総理は一体、何に感化されたのだろうか。あるいは感化するのだろうか。

 もういっちょう。

えだのだえ=枝野だえ 「だえ」って宮中の人かって(笑)。

 さらに品の無い、むりやりなやつ

はとやまかまやとは=鳩山カマやとは…。解釈、あの総理辞めてから、議員も辞めるはずだった鳩山さん、じつはカマだったらしい。という噂を関西人が知ってツイッターでつぶやいたとか(笑)。しょーもないけど、こういうことを考えたりしてもいいと思う。人間だもの。

藤井康一ライブの話、ようやく完結

 「じゃ、時間なのでそろそろ始めます。宮崎は何年ぶりかなぁ。3年、4年?まあ、それくらい久しぶりですが、皆さんこんばんは、藤井康一です。あ、その前にお店の売り上げに貢献するために、皆さん、お手元のグラスを持ってください、用意出来ました?それじゃ『かんぱーい』、これから1曲やるごとに乾杯しますから、ヨロシク」。20時を少し回ったあたりで、トイレの横のスペースをステージ代わりにして藤井君のライブが始まった。楽器はウクレレと首から下げたカズー(別名、和子ちゃん、昨日はヨーコとか呼ばれていたらしい。京都にいるときはしのぶと呼ばれていたかもしれない)。本来であれば、彼はウクレレとサックスをプレイするのだが、なんといっても普通の雑居ビルの中の普通のスナックなので、当然、防音工事などしてないだろうから、サックスは遠慮してカズーということになったのだろう。

 しかし、スナックのボックスの予備ソファ(ほら、ラウンジあたりでヘルプに来たおねいさんが座る丸い、なんというか円柱状の小さいクッション付きのストゥールですよ。上のクッションを空けると、中は小物が入れられる収納になってるようなやつ)に腰掛けて後ろのテーブルからビアジョッキを取り乾杯しながら見るライブというのも、なかなか普段は体験できないと思う。というか、自分と同じ高さの位置にいるミュージシャンの演奏を見るというのも、なんだか不思議な感覚で、そうそう、その昔、まだカラオケが8トラで、歌詞カードはモニターじゃなくて歌本みたいな分厚いのをぺらぺらやりながら選曲して、順番が来たら店の中央にあるマイクスタンドのところにいって歌っていたような、そんな昭和の時代のカラオケ・スナックにいるような錯覚を覚えるような状況だった。およそ4年ぶりの藤井君のライブは、オープニングは何だったか、古いアメリカのスタンダードじゃなかったかな、少なくともウシャコダやリトルジャイブの曲ではなかった。もっとも、今回のライブは「ウクレレ抱いた渡り鳥」なので、藤井君がソロで歌う曲ばかりをやるんだろうという予想はしていた。

 30人弱のお客は、最初から暖かい雰囲気というか、あまり音楽のライブという感じは無くて、まるで身内のパーティみたいな、そう、ウクレレ愛好者の会みたいな感じだった。以前にリトルジャイブのライブを見たときも、主催はラッパ会というアマチュアの金管楽器愛好者の会で、次々とトランペットやトロンボーンやサックスが出てきて、一番最後の盛り上げに藤井君たちが出てきて、そこはそれ、とにかく客を乗せることにかけてはぴか一の人なので、とにかく訳のわからないくらい盛り上がったライブだったな、と昔のことを思い出していたら、3曲目あたりだったか(あ、1曲終わるごとに乾杯して全員で飲むというスタイルだったので、ライブ前に黒霧島を注入していた僕は、もうそのあたりでかなり酔いが回ってきていたのだ)、「美しいひーとーに出会ったときは~」と懐かしいフレーズが聞こえてきた。ご存知「月光値千金」である。4年前のライブの時は、確かオープニングでやってた曲だ。で、このスタンダードは僕にとってはリザードのイメージなんだよな。『バビロン・ロッカー』に入っていて、最初聴いたときはビックリしたけど、繰り返し聴いていくうちに慣れていった。というか、エノケンのオシャレなセンスは21世紀の今でも十分通用する。

 藤井君はウクレレ片手に、客との会話を楽しみながら淡々と歌っていく。力をに抜いているようで、要所要所はしっかり聴かせ、それでも時々しょうもない笑いを取りながらステージを進めていく姿は、見ていて気持ちが良かった。何曲目の時だっただろうか、お店のマスターを呼んで、一緒に演奏しようと声をかけた。前に書いたかもしれないが、マスターはロイクの人で、スティールドラムを叩くらしい。えーと、トリニダード・トバコの出身といったか、プエルトリコといったか、失念してしまったが要するにカリブ海周辺のあの辺出身らしい。最初はちょっと遠慮していたが、ついには登場し、そうはいっても二人が並んで立てるスペースは無く、藤井君の右手にあるトイレの前に置いたスティールドラムのところにいき一緒にやり始めた。最初にやったのは「セント・トーマス」。ご存知、ロリンズのカリプソナンバー、といいますか、あの演奏は個人的にはマックス・ローチのドラミングなんだが、まあ多いに乗せる曲なので、それでなくても盛り上がっていた客席は手拍子、足拍子、小皿叩いてちゃんちきおけさ状態であった。

 その演奏が始まったあたりから、いやもう少し正確に状況を思い出すと、その少し前あたりから、当日あまりにも一気に麦酒を摂取しすぎたため、いや、一気だけならまだなんとかなったが、1軒目でもジョッキ1杯飲んで、このお店に来てもジョッキ頼んだので都合2杯だ。人によってはジョッキ2杯くらいなんだ、オレは5杯まで大丈夫だと言う人がいるかもしれない。いや、悪酔いの話ではなくて、筆を選ばない人の話だ。つまり弘法大師、コーボーの話、ほらジャズメンってのは何でもさかさまにして言うでしょうが、だからコーボーつまり暴行、いや、そのボーコーの話だ。早い話が、PISS、オシッコの話だ。

 あ、またしょうもないことを思い出したのだが、僕が小学校の低学年の頃、近所の同級生の家が親の転勤の為に家を引き払うことになった。さよならの挨拶をしに、その家に行ったら近所の小さい女の子も来ていて「なんで、××ちゃんは、おらんようになると?」と、その母親に尋ねていて、その母親も周りに人がいたせいか普段使わない丁寧なことばで「××ちゃんのところはお引っ越しなのよ」と答えたら、その子は「おしっこし?じゃ、オシッコした後は帰ればいいがね」「いや、『おしっこし』じゃなくて『お引っ越し』よ」「だから、『おしっこし』じゃったら、オシッコした後に帰ってくればいいて言いよるがね」というコミュニケーション・ブレイクダウン的な会話があり、今にして思えば、あの小さな女の子はちゃきちゃきの江戸っ子だったのではないかという疑惑がぬぐえないのだが、おかげでその後「引っ越し」とか「転居」という言葉を聞くと無性にトイレに行きたくなるようになった。いわゆる刷り込みの原理であろうか。たった1回の記憶なのでパブロフは関係ないだろう、などというようなことを考えて、少しでもその緊張状態を緩和しようと思ったがダメだった。

 つまり、過剰に摂取しすぎた水分が僕のその養分保存庫であるコーボーを満タンにしてしまい、追いつめられたオシッコ部隊はついには可及的速やかにここから解放せよ、さもなくば実力突破も辞さない、などと脅しをかけて来る。しかし、見ず知らずの人ばかりいる初めてのお店で、放尿プレーをしてしまうと良くて出入り禁止、へたすりゃ国家権力に通報されて、最悪は2泊3日の拘置所暮らし、そこで完黙続けるから、なんらかの思想的背景があるのではないか、オシッコ・テロリスト・グループと関係があるんじゃないかということで拘置延長、お金が無いから国選弁護人しかつかず、そいつはもうやる気ゼロで「早いとこ謝ったほうがいい」などというので、ふざけるな、バカ野郎、こう見えても元はボーリョク学生じゃというような妄想で誤魔化そうとしたが、もうどうにも止まらない(by 山本リンダ)、尿意は止まらない。しかし、演奏の真っ最中に立ちあがってトイレに行こうとすると、ここにいる全員の視線を浴びる中で立ち上がるわけだから、もしかしたら演奏に触発されたミュージシャンが飛びこみで参加するんじゃないかという錯覚を抱かせるかもしれないし、僕も今でこそ単なるオヤジ体型ではあるが、その昔は痩せて眼鏡をかけていて、見ようによってはジェイク・シマブクロに見えなくもないので、藤井君の演奏を聞いて自らの演奏本能に火がついたジェイクがウクレレ持って乱入か、などと思われるはず、はないか。

 しかし、ナンボ厚顔無恥なこのワタクシであっても、衆人環視の中、しかも演奏中のミュージシャンの横を通ってトイレには行けない。しかし、下半身からの信号は益々早く激しくなる。ああ、もう駄目だ。これ以上は我慢できないと思った瞬間、演奏が終わり藤井君がマスターをもう一度紹介した。ここがチャンスと思った僕は、みんなが藤井君の右手にいたマスターに視線と拍手を送っている隙を見てトイレに突入したが、やはり藤井君に見とがめられ小声で「トイレですか、どうぞどうぞ」と言われ、「あ、こりゃどうも」と返事もそこそこに個室に入った。もちろん鍵はしっかり締めて。

 大いなる解放感、この快感は何物にも代えがたい。体中の力が下半身に集中し、一気にほとばしる水柱、勢いよく便器に突入する我がPISS。しかし、ちょっと気になる。どうも便器の泡立ちが良すぎる。これは水圧の関係だと思っていたが、あんまり泡立ちが多いとアブナイ病気の可能性があるという話を以前聞いたことがあるが大丈夫だろうか、などと考えていたら、ドアの向こうから藤井君のMCが聞こえてきた。ヤバい。演奏が始まる。しかし尿意は続いている。というか放水中である。昔、聞いた話だがこういうとき、男はゼッタイ止められないが、女性はいつでも自由に止めることが出来て、それが女性のボーコー炎の患者が多い理由だと聞いたことがあるが、本当だろうか。などと考えている余裕はなく、とにかく早く終わらせないと、下手すると藤井君が歌ってる横から、ドアを開けて顔を出さないといけないかもしれない。ええい、時間よ~止まれ、と不思議な少年のセリフあるいは矢沢のエーちゃんのヒット曲のタイトルをつぶやいてみたが、何も変わらず、とにかく全力で放出し終って、急いで手を洗いドア越しに外の様子をうかがい、ウクレレの音がしないのを確認してそっと扉を開いた。「あ、終わりましたか?どうぞどうぞ」と藤井君から促され、お店の全員から笑われながらいそいそと僕は席に戻った。Y尾君から、「お前、さんざんサカナにされてたぞ」と言われたが、出すもの出したら怖いものは無い。僕は追加のドリンクを注文した。

 第一部が終わり、藤井君も椅子に座っていたのでずうずうしくも話をしに行った。「もう30年以上前になるけど、銀閣寺のサーカス&サーカスや拾得、磔磔でウシャコダを追いかけていたんだけど」「あ、そうっすか」「4年前のリトルジャイブも見ました。恵副君とはmixiでもお世話になってます」「あ、もしかして掲示板に書き込みしてくれた人?」「です、です」「そーかー、サーカス、懐かしいね」「ウシャコダの曲やってよ、ウクレレじゃやらないの?」「いや、やらないこともないけど」「じゃ、『何年たっても』やってよ」「あー、あれはウクレレでやったことないな」「『金作かっぽれ』でもいいけど、2007年バージョンじゃなくて、オリジナルで。あの2007年バージョンはちょっと頂けなかった」「あ、そう」。みたいな会話だったと思う。とにかく「何年たっても」はウクレレでやったことがないので、練習しなくちゃといってぽろぽろ弾き始めたのには、ちょっと驚いた。

 第2部が始まった。お客さんもアルコールが回ったのか、藤井君のペースになじんできたのか適度なざわめきもあって、いい感じである。第1部はスタンダード中心だったが、第2部は日本語のオリジナル中心で大いに盛り上がった。途中のMCも「スーちゃんが死んだのはショックだったけど、個人的には大原麗子のほうがショックだった」とか、「東北の大地震を見て思ったけど、生きてるうちに好きなことをやらないと意味が無い」とか、ウシャコダ時代では考えられないようなフレーズが多かった。まあ、お互い年を食ったということだ。おっと、湿っぽくなった。九州に来たらこれをやらなくちゃ、みたいな感じで始まったのが「ちゃんぽんだマンボ」。長崎の幼稚園生はみんな踊れるというアナウンスがあり、振付の説明をして全員でチャン-ポン-ダ-マンボ、チャン-ポン-ダ-マンボ、チャン-ポン-ダ-マンボ、ウー、チャチャチャと歌い踊り続けた。

 そして個人的にはリトルジャイブの1枚目で一番気に入ってる「ピンガでへべれけ」も炸裂。ボサノバ調の、ちょっとモノローグっぽい歌いだしから、へーべれけ、へべれけ、へべれけ、へべれ、ピンガ!のフレーズが楽しい。そういった一連の歌もの、冗談ソングのあいまに今は亡きバードランドのマスターにささげた「バイバイバードランド」というインストも演奏。以前見たときは、藤井君のサックスが裂帛の気迫で鬼気迫る感じがしたが、今回はウクレレとカズーでやはりテンション溢れる演奏をしてくれた。そしてあっという間にエンディング。ショーの終わりだ。ただ、最後に嬉しいアナウンスがあった。これまで九州は西側(鹿児島や長崎、熊本、もちろん福岡も)ばかりツアーしていたけど、これからは東側にもちょくちょく来る、さらに年内にウシャコダとして宮崎にも来たい、と。リップサービスかもしれないが、その心持が嬉しかった。そして、アンコールについにやってくれました。「何年たっても」。デジカメで録画したけど、照明がスナックの天井照明だったので、顔は全然映ってませんが、こういう感じでした。このライブの後は、友人が経営しているROCK BARに行って、ライブの興奮冷めやらぬ我々は来店していたお客に音楽はライブだ。レコードばかり聴かずにライブに行け、というアジテーションを、したような気がするが、もうあれから2週間以上経ってるから時効だ。しかし、この手のライブの話は早く書かないとノリが悪いな、反省。



藤井君のライブの話にたどり着くまで、あと何マイル走るのだろうか

 いかんなぁ、実にいかん。全くもって、「いくない」状態が続いている。うーん、いったいどこで間違ってしまったのか。しかし、そんなことを言ってもしょうがないっちゃしょうがないよな。えー、要するに先月の19日に見た藤井君のライブの話を書き出して、結局、ウシャコダ時代の話ししか書ききれず、続きを書こうとしたら偶然YKZ君に会ったなんて話を入れたら、昔の高校・大学の最初の頃の話になって何時の間にやら中途半端。はっと気がついたら、今日から6月。その間に丸岡修は獄中死するし、最近のニュースというと訃報ばっかりだな、なんてことを考えると何だか諸行無常だなんて思えてきて、月も変わったことだし、このままなし崩し的に新しい話を書いて藤井ライブの話とかYKZ君との再会の話は無かったことにしようかと思ったが、いーや、そういうことではいかん。一点突破全面展開というではないか、いや、その普通の言葉で言うと初志貫徹、トーソーショーリともいうではないか、などとあまり一般の人が言わないようなセリフを書いて、一番苦手な導入部を誤魔化す、姑息なワタクシでした。

 で、ここでまた言い訳めいたこと、つまり、僕は昔から回りくどいことが苦手で、だからいわゆるエ×チのときも、導入というか、そのゼンギとかいうのが面倒で、要するにヤレば一緒じゃねーか、やってしまえばみんなおんなじじゃねーか、な、な、な、というような、っていったい何を書いているのだ。このblogは上品な方しかお読みにならないというのに、そのような下卑た話を書いてはいかんではないか、みたいなこと書くとまたまた別の話になるので。藤井君のライブの話の続きを完結させよう。前回は、ええとどこまでだったっけ、そうそう、昔話に疲れてライブ当日に戻る、で終わっていたな。

 まいどまいどの、ライブの相方Y尾君と18:30に高砂という、地元宮崎では有名な酒場で待ち合わせをしていた。ライブの開演は20時だったので、その前に軽くおなかを満たしておこうという作戦である。いつものLIFETIMEだったら、駅の近くの縄のれんで軽くやるのだが、本日は宮崎のいわゆる飲み屋街でのライブなので、昔からある安くて量が多くて、客層がまさしく純正ぷろれたりあーと、というかまあ肉体労働者の方が圧倒的に多かったお店で以前は小汚い、床にはタバコの吸い殻が散らかってるようなお店だったが、商いはコツコツやるのが一番、銭の花は白いという花登コバコ主義を徹底したせいか、立派な3階建ての自社ビルを建てたさまは、まあ、スケールは全然違うが吉祥寺のいせやのリニューアルみたいなものであった。

 自動ドアの入り口から入ると、カウンターに客が4,5人ばらばらに座っていたが、中には場違いなピンクの服を着たおねいさんを侍らしているわけあり風のオッサンもいたが、我らがY尾君にはそういう甲斐性はないので、ひとりぽつねんとテーブル席に座っていた。実は、今回はもう一人N井君といって、高校の同級生でY尾君は大学も一緒で、そうそう、この二人が大学1年の秋休みに日本アルプス登ったのはいいけど、帰りの交通費が無くなり京都駅で途中下車して、当時左京区の修学院に住んでいた僕を思い出して、なんと京都駅から修学院まで登山リュック背負ったまま歩いてやってきて、僕から交通費を借りて大分まで帰ったなんてエピソードもあるのだが、その時の片割れのN井君にもライブの誘いをしていたと聞いていたので、僕はそのことを最初に尋ねた。「N井は来られん、て」「あ、都合がつかなかったんか」「いや、昨日まで入院してたらしい」「え、入院?どこが悪かった、血圧か血糖か中性脂肪か、それとも脳梗塞、とかその手の奴か」「いや、G」「え、爺?」「いや、G」「は、自慰、いい年こいて何有豚燃お前は(「なにゆうとんねんおまえは」を一発変換したらこうなりました。流石、IME2010!!)」「アホはお前じゃ。何遍、『痔』って言ったらわかるんじゃ」「あ、痔か。ジーザス、なんちゃって」。

 という会話から、N井君は残念ながら流血の事態だったため不参加。毎度のY尾君と二人で先ずは生ビール。冷奴とか焼き鳥とか、小エビのから揚げなんて簡単なものを注文して、まあ、でもそういう普通のつまみが結構おいしくてボリュームもあるのであっという間に黒霧島が3合ってな感じでした。そういえば4年前のクリスマスイブに野郎二人でリトルジャイブボーイズを見に行ったな、なんて話から、その時Y尾君は「ちゃんぽんだマンボ」のCDを購入し、家で聴いていたら奥方から気が触れたのか、と尋ねられた、なんていう話を肴にしながら、今日のライブでは間違いなくちゃんぽんだマンボをやるはずだから、振り付けをしっかり覚えておかんといかん、とかウシャコダ時代の曲をやらんかなぁ、などとしゃべっていたらお銚子が空になっていて、「おねーさん、もう1本」と追加してしまい、店を出るときは結構出来上がっていた。

 その高砂からライブの行われるカリビアンというお店までは歩いて5分くらいで、酔客やラウンジのおねいさんが行きかう浮かれ街のど真ん中を歩いていたら、突然「××」と僕の実名を呼ぶ声がした。まさか、ハンドルネームで呼ぶ奴はおらんし、いたらそっちの方が怖いが、しかし、神に誓って言うが、若い頃ならともかく、今は宮崎の浮かれ街を歩くことは盆と正月くらいのワタクシの実名を呼ぶ奴はいったい誰だと正直ビビりながら振り返ると1台の車の窓から顔を出している男は、間違いなくROCK BARの経営者であった。あ、彼も高校の同級生だ。久しぶりだったので、これからライブに行くけど帰りに寄るからキレイどころを3,4人侍らしておいてくれ、気が向いたらテイクアウトするから、などというマンハッタンで流行のジョークを言ったりは、しないな。僕はこう見えても礼節をわきまえているからね。

 脱線した。目的の雑居ビルに着いたらビルのエントランスに、良くマンションなんかにある掲示板があって、そこに手作りのポスターが貼ってあった。「ウクレレ抱いた渡り鳥」と書いてあり、藤井君の写真が切り抜いて貼ってあった。場所は間違いないが、その雑居ビルも僕がその昔酒乱だった時代に、良くアバレタ雑居ビルの3階にあった。どう考えても普通のスナックの入っているビルである。こんなところでライブやって大丈夫か、ウシャコダ時代みたいに「じゃーんぷ」なんてやったら大クレームになるぞ、などと心配しながら店に向かった。3階の端っこにあったお店は、それでもアンプや楽器なんかが雑然と置いてあって、ちょっとびっくりしたのはスティールドラムもあって、こんなところでタイコ叩いたらバイヤーじゃないかと思わせる。さらに驚いたのは、店の入り口のドアは開けっぱなしで、入ってすぐのテーブルに背の高い男がいて見ると藤井君だった。

 相変わらず背が高くて、ちょっと猫背である。店の中に入ってまたもやびっくりしたのは、店の奥の中央にカウンターがあり、そこにはすでに10人近くの人が座っていた。店に入って右側にステージらしきものがあり、その前にテーブルがあり、そこには藤井君や関係者らしき人が数人いた。座るところが無いなと思って左手を見ると奥がコーナーになっていてその前に小さなテーブルがある。しかし、コーナー席からはステージが見えない。戸惑っていたら、コーナー用の小さな四角いクッションがあったので、それを2つ前後に並べて座席を確保した。カウンターの中にはロイクの人がいて、どうもその人が店のマスターぽかった。お金を払ったらコインをくれて、それで好きな飲み物と交換しろというので二人してまたもや生ビールを注文した。客はざっと30人ほど。誰ひとり見知った顔はない。しかも、かなり年齢層が高い。コーナーとカウンターに女性がいたが、ご婦人というか、その、赤いちゃんちゃんこはすでにお持ちではという疑惑が離れない。いや、若い女性もいたが、2人か3人くらい。男性は比較的若い人から僕たちと同世代、やや上のダンコンの世代の人とばらばら。もうすぐライブが始まりそうだったのでトイレに行こうとしたら、なんとトイレはステージの横。つまり、そこに行くときはお客さん全員の視線が注がれる位置にある。こりゃ、演奏中に行ったら絶対藤井君にネタにされると思い早めに行った。

 ここで、常識ということについてちょっと触れてみたい。公共の場所であるかどうかにかかわらず、普通トイレに行くときはノックする。ノックして返事が無ければ、ドアを開けるし返事があったら待つか別のトイレに行く。これは皆さんと共通認識ということで宜しいでしょうか。なんでまたそんなことをわざわざ書くかというと、その時僕は間違いなくノックした。店で流れている音楽のボリュームも適度なもので、決して僕のノックの音が(by 星新一)聞こえなかったとは思えない。トイレから誰も何にも返事が無いので、当然ドアを豪快にオープンした。タイル張りの床が見えて、それが一段上がっていた。和式のトイレある。僕は視線を便座の位置に合わせた。その瞬間「あっ」という声がした。「あっ」というのは村八分の名曲である。ストーンズのストリート・ファイテング・マンのリフで「オレの事分かる奴いるけ~」とチャー坊が絶叫する。という話ではなく、「あっ」という声がした方を見ると、和式に正調座りコーウンスタイルのオババがいた。上半身をこちらに曲げて、照れたような顔をして「鍵、かけ忘れた」と言った。見たくなかった。見たくなかったが見えてしまった。ウンが付いたとは思えなかった。続く。



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